小学校時代の厳しくも愛のある指導で、勉強習慣が確立。

「能力開発センター(以下、能開)」に通い始めたきっかけをお聞かせください。

まだ姫路に能開がなかった頃から、姉が友人と神戸の能開まで通っていたんです。しばらくして姫路に開校したので姉は姫路校に移り、私立中学の受験を考えていた私も小学4年生のときに入塾しました。自分で選んだというよりは、自然な流れで通い始めたという感じです。ちなみに、弟も能開に通い、姉は増澤社長に教わったこともあるそうです。

山野正豊さん

小学生の頃の能開での思い出はありますか?

もう30年も前ですから忘れていることも多いのですが、とにかく先生が厳しかった…という記憶は鮮明です。とくに印象的だったのが、O先生とN先生。宿題を忘れてはよく怒られていました。でも、厳しくても生徒にとても人気があって、休み時間になると生徒はみんな先生のところに集まっていました。愛のある厳しさだということが、子どもにも伝わっていたのでしょうね。

中学受験をされたのですか?

私立中学校を受験したのですが、結果は不合格。今思えばそこまで熱心に勉強をしていなかったのと目標が明確でなかったので落ちて当然なのですが、一緒に受験した能開の仲間はみんな合格したので、当時はショックでした。その悔しさをバネに、中学3年間はがんばりました。

では、中学3年間は勉強三昧だったのでしょうか?

いえ、中学校ではサッカー部に所属して、能開にも通って、勉強も部活も楽しくやっていました。両立に苦労したという記憶はありません。小学生の頃に、能開で勉強習慣を叩き込まれていたからでしょうね。自分でタイムスケジュールを組んで、22時までは勉強、リビングで家族といっしょにニュース番組を見て、お風呂に入って、またちょっと勉強して、24時前に寝る…というように、計画的に行動していました。

中学時代の能開でのエピソードをお聞かせください。

印象に残っているのは、やはり先生がめちゃめちゃ厳しかったこと。宿題もものすごい量が出されていましたが、有無を言わずとにかくやるしかなくて…。私は小学生のときから通っていて先生の恐さを知っていたので、宿題や小テスト勉強は必死になって欠かさずやっていました。中学3年生のときの正月特訓も印象的です。大晦日から元旦にかけて合宿形式で勉強するのですが、除夜の鐘が鳴る頃まで勉強し、翌朝はまた早朝から勉強したのを覚えています。

個性豊かな講師や志ある仲間との出会い。

山野正豊さん

能開を辞めたいと思ったことはありませんでしたか?

それが、ないんです。一番の理由は、授業がおもしろかったからだと思います。とくに、授業の本筋から外れた雑談がおもしろく、先生たちの話の節々から、善悪の基準や、「こういう人間であるべきだ」という倫理観のようなものを子どもながらに感じ取っていました。
また教科書には載っていない事なども多く教えていただきました。先生たちはみんな個性的で熱くて、大声で怒鳴ったかと思えば先生の話で教室がドカーンと湧いて、授業の盛り上がりはすごかったですね。
志ある仲間と切磋琢磨しながら勉強するのも楽しかったです。多くの友人を得られたのも能開ならではないでしょうか。
幾人かの友人は今でもお付き合いをさせて頂いています。先日も福岡出張の際に能開での友人と食事をし、思い出話を肴に楽しい時を過ごしました。

高校受験では公立高校に合格されたのですよね?

地域の公立トップ校である姫路西高校に合格しました。自宅からも近く能開の生徒もたくさん受験するので自然な流れで進学しました。中学受験で失敗していましたので、不合格だった私立の学校と同レベルの学校に行きたいという願望と目標がありました。
その事は能開の先生方もご存じだったので、能開のカリキュラムと先生方のご指導を忠実に守っていった結果、高校受験で成功したのだと思います。
集中力が途切れたり目標があやふやになったりした時もありましたが、日曜ゼミや講習会に休まず通いました。その様な環境を作ってくれた家族と能開には今でも感謝しております。