能開で学んだくり返しの勉強で、慶應義塾大学経済学部に合格。

高校時代も、将来のことを見据えて進学先を考えていたのですか?

父も経済学部でしたし、将来会社を経営するには経済学部か商学部で学びたいと思っていました。加えて、文系ではあるものの数学が得意だったこともあり、数学の試験がある慶應義塾大学経済学部を受験しました。東京の大学を選んだのは、私自身の希望もありましたが、何よりも両親が「東京に行ってこい」と送り出してくれたから。東京で見聞を広めてこい、一人暮らしを経験して自活せよ、という親心だったのだろうと思います。両親には本当に感謝をしています。

山野正豊さん

超難関大学ですが、
受験勉強はどのようにされたのですか?

私の勉強法のモットーは、「基礎をしっかり固め、難しいものには手を出さない」なんです。これは、さかのぼると能開時代から変わっていません。能開の問題には「基礎A・基礎B・応用・難問」とレベルがあって、私は当時から「基礎Aと基礎Bを徹底的にやれば、あとは解ける」と思っていました。大学受験でも、中途半端に難しい問題に手を出すよりは、基礎をしっかりと解けるようにしておくことが大事だと考え、同じものをくり返し勉強していました。1科目につき問題集2冊ほどを10回以上解いていた記憶があります。

能開で身につけた勉強法が大学受験でも活きたのですね。

能開のテキストは相当難しいですから、今思うと能開でいう基礎レベルは一般の応用レベルくらいかもしれませんが…。いずれにせよ、基礎の大切さというのは、小学校、中学校時代に能開での勉強を通して身をもって感じたことです。でも、大事なことは勉強方法よりも勉強する習慣が身についたことだと思います。能開では「困難にたじろがない ひとりで勉強ができる子に」を理念にしていらっしゃいますが、まさにその通りです。自分で目標を設定し、計画を立て、実行できるというのは、勉強に限らずどんなことにでも有効です。

3年間の銀行勤務の後、MBA取得のためアメリカへ。

大学時代はどのような4年間を過ごされたのですか?

勉強もそれなりにしていましたが、バイトをしたり遊んだり…と、いわゆる学生生活を謳歌していました。正直なところ、もったいない過ごし方をしたなという思いもありますが、親元を離れて、さまざまな人やモノと出会うことができた刺激のある4年間でもありました。

山野正豊さん

大学卒業後は、そのまま山野印刷に就職されたのですか?

いいえ。都市銀行に就職して、3年間勤務しました。その後、経営についてより深く広く学びたいと思い、アメリカ・シアトルにあるUniversity of WashingtonのMBAコースに出願。入学が決まったのを機に銀行を退職し、2年間留学しました。

MBAコースではどのようなことを学ばれたのですか?

マーケティング・経営戦略から会計、組織・人事、企業倫理まで、ビジネスマネジメントに必要な学問を広く学びました。とくに1年目は、これまでの人生でかつてないほど勉強しました。課題がとても多く、深夜2時、3時まで勉強することも日常茶飯事で、あの能開の宿題を何とかこなしていた私でも、弱音を吐きそうな量でした。知識を吸収するだけでなく、多国籍の学生と共にディベートをしたりチームで発表をしたりするなかで、多様な価値観や考え方に触れたことも、私にとってはとても有意義でした。

帰国後は、山野印刷でどのようなお仕事をされていたのですか?

弊社は、広告宣伝物を制作する商業印刷と、伝票・帳票類などのビジネスフォーム印刷を二本柱とした印刷会社です。帰国後は会社のことを知るため、インクや紙といった印刷に必要な資材の購買、お客さまへの営業、人事や経理などの総務、設備投資や損益管理といった経営と、一通りの業務を経験しました。社員から始まり取締役まで18年間社長見習いを務め、2015年に代表取締役社長に就任しました。