教室に貼り出された成績順や、クラス替えに一喜一憂した能開時代。

能力開発センター(以下、能開)に入った経緯をお聞かせください。

能開に入る前は、1年くらい別の進学塾に通っていましたが、どこか物足りなさを感じていました。もっと勉強したい、新しいことを知りたいという気持ちが芽生えて、当時"姫路で一番ハードな塾"として一目置かれていた能開の門を叩くことにしたのです。
実は、前の塾でアルバイト講師をしていた医学生から「将来、医学部に行きたいならもっとレベルの高い塾で勉強しなくちゃ」と、こっそり耳打ちされたことにも背中を押されました。

小学4年の頃から、長久さんは医者になりたいと思っていたのでしょうか。

いえいえ、まだ明確に決めていたわけではありません。でも、憧れはありました。開業医として奮闘する父の背中を間近で見て育ったこともあって、漠然とですが医学は意識していたと思います。

長久功さん

能開に通いはじめた頃はどんな生徒でしたか。

野球少年です。能開への入塾を機に、時間的な余裕がなくなって野球チームを辞めざるをえなかったのが辛かったですね。受験が終わればまた野球をしよう、と自分に言い聞かせて我慢しました。

およそ30年近く前、入塾当時の姫路本校はどんな雰囲気でしたか。

まず圧倒されたのは、生徒数の多さです。試験の回数も多く、毎回成績上位者の名前が壁に貼り出されることも衝撃的でしたね。教室に入るために成績順が貼り出された廊下を通るので、嫌でも目に入るわけです。
初めの頃はそこを通るたびに「本当にやっていけるのかな」と不安になったことを覚えています。土ゼミもどんどん時間延長を重ねて、終了時間が深夜0時を回ることも……。いま思えば過酷な状況ですが、いつしかどっぷりはまっていきました。

もうやめたいと思ったことはないのでしょうか。

幸い一度もなかったですね。サボって休めば乗り遅れて、結局困るのは自分だという危機感の方が強かったです。与えられた課題を淡々とこなすうちに自然と実力が身について、成績順位表に名前が貼り出されるようになると、次は上位クラスに入れるかどうかに一喜一憂していました。
少数精鋭のクラスに選ばれるように頑張ろう、選ばれた後も食らいついていかなくちゃ、と。そうやってどんどん意欲をかき立てられる能開のスタイルが自分には合っていたと思います。
小学校6年のはじめに、目標だったハイレベルな少数精鋭のクラスに入ることができました。400人中10人の選抜クラスです。1年間同じ仲間と一緒に切磋琢磨しながら勉強できたことは、とても貴重な経験だったと思います。

能開はとにかく宿題の量が多いと聞きましたが……。

そりゃあもう(笑)。毎回「本当に終わるのだろうか」という気持ちとの闘いです。普段の宿題も大量にありますが、長期休暇中の講習会中は毎日ほぼ寝る時間はありませんでした。ベッドで寝る時間を惜しむあまり、机の上で突っ伏して気がついたら朝を迎えていたことも……。いまインタビューに応えてお話しするうちに、あの時の辛さを思い出して泣きそうになってきました(笑)。

全教科で宿題が出ると、相当なボリュームでしょうね。

当時の能開の宿題は大量のプリントをノートに切り貼りして、自分で自分の問題集を作るのが基本スタイルです。参考書をめくって何とか自分の答えを持って授業に臨むのですが、つっかかったり遠回りしたり、要領よくスラスラできないのがもどかしくて……。
でも振り返ってみると、この「自分で調べて何とか答えを導き出す」という予習スタイルが、その後の人生にとって糧になりました。大量の宿題に取り組むことで、自分で答えを見つけて学んでいくチカラが養われたと思います。

自力で答えを導き出す予習スタイルのどんな点がよかったのでしょうか。

未学習の分野でもわからないなりに自分の頭で考えて結論を導き出し、いくつかの選択肢の中から1つ選ばなくちゃいけない状況に追い込まれるわけです。そこでわからない状況であっても諦めて投げ出すのではなく、やると決めたら最後までやり抜く。その繰り返しの中で、「いま立ち向かっていかなければ後できっと自分が苦しむことになる」という実感を身体に刻み込んでいきました。
何とか導き出した自分なりの解を持って、授業に臨むことが本当の"予習"なのです。とことん突き詰めて導き出した答えだけが、自分のものになると思います。

能開で5年ぶり!異例の

地元の公立中学校に進学されたのですね。

実は、受験校も寮生活に憧れて選びました。とにかく親元から一度離れて自由にやってみたかったのです。残念ながら、中学受験の結果は志望校には届きませんでしたが、高校受験で挽回するぞとすぐに気持ちを切り替えました。

長久功さん

中学生になってからも、能開に通い続けたのですね。

姫路でナンバーワンの塾でしたから何の迷いもありませんでした。小学校卒業前から中学の勉強をスタートダッシュできたこともよかったですし、大きなチャンスもいただきました。なんと、中1で一学年上の中2のクラスに、中2では中3のクラスで先輩たちと一緒に学ばせてもらえることになったのです。これは、能開で5年ぶりの特例だそうです。

いわば究極の先取り学習ですが、
実際はとても大変だったのではないですか。

中学時代の1年の差は体つきも学力も相当差がありますから、何もかも刺激的でした。一学年上の先輩たちが勉強する姿勢から学ぶことも多かったですし、中学3年の1年間は高校受験のための発展問題と全国模試での対外試合に専念できたことも効果的でした。1度目は間違えた問題も、次に出た時に解けると、確実に学んだことが身についていると実感できます。
重要なポイントは"手を変え品を変え"出てくる問題に繰り返し反復学習ができるのが、能開の素晴らしいところ。どんどん制限なく先に進めるようにと、先生方の柔軟な対応がとてもありがたかったです。

どんな想いで高校受験に臨んでいたのでしょうか。

最上位の志望校に合格するには一学年上の先輩に食らい付いていくぐらいでなければならないと考えていました。先取り学習をしてこそ受験で優位に立てると信じて勉強していました。

まさに"能開一色"の中学時代を過ごしたわけですね。

その甲斐あって、第一志望の鹿児島ラ・サール高校含めて受験校すべてに合格しました。最終的には親の薦めもあって、自宅からそれほど遠くない範囲で県内の進学校を選びました。
高校1年の新学期、中学からの内部進学生はすでに高2の勉強をしていましたから、先生たちは「3ヵ月で彼らに追いつけ」と。早急に1年分の遅れを埋めなければと焦りましたが、ここでも能開で身につけた先取り学習が役立ったことは言うまでもありません。

学習スタイルや学力のほかに、能開で得たものは?

能開時代を一緒に過ごした仲間とは今でも連絡を取り合い、かけがえのない絆を育んでいます。「あの時代を一緒に過ごし、あの勉強をともに乗り越えた」という共通項でわかりあえる大切な仲間たちです。小学時代にお世話になった講師の方に、大学病院で先輩・後輩としてバッタリ再会するなど、能開を通して広がる縁も嬉しいものです。

はっきりと医学部進学を目指したのはいつ頃からですか。

高校入学時に明確に意識しはじめました。開業医である父の仕事の内容が理解できるようになった頃です。実際に患者さんを診療する父の姿を見たことはなく、「医者の仕事は大変だよ」と言われたこともありませんが、帰宅後に呼び出されて夜中でも病院に駆けつけるのは、本当に大変な仕事だと子どもながらに肌で感じていました。そんな身近な父の姿に憧れて、自分も父の背中を追いたいと思いました。