テニス部や美術学校に忙しい中学生活。能開で時間の使い方を徹底的に学んだ。

大竹さんはどんなお子さんだったのでしょうか。

父親が小学校の体育教師、母親が音楽教師という家庭に育ったせいか、マラソンやテニスなどのスポーツからピアノやヴァイオリンなどのお稽古まで、いろいろと経験させてもらいました。
とくに、小学生の頃に通い始めた近所の美術学校は、中学生になっても通い続けてデッサンなどの基礎を中心に習い、思う存分絵を描くことに没頭していました。

大竹寛子さん

お稽古ごとの中でも、
絵を描くことが一番好きだったということですね。

はい。幼い頃は誰でもクレヨンでお絵かきするのが大好きですよね。いつの間にか、たいていの人は絵を描くことが特別なことになってしまいますが、私はあの頃の延長線上にいるのかもしれません。
「いつ頃から描き始めたの?」とよく聞かれますが、私にしてみれば「じゃあ、あなたはいつ絵を描くことをやめたの?」と逆に尋ねたいくらいです。小学生の頃から大好きなシャガールの模写をしたり、地元の岐阜県立美術館で絵画を観たり、図書館で画集をめくるのも好きな子どもでした。

「能力開発センター(以下、能開)」に入ったきっかけは?

中学に入学してすぐに母親の薦めです。インパクトのある塾名は一度聞いたら忘れられませんし、地元の岐阜県内でも実績があって、厳しい指導で成績を伸ばす塾だというのも知っていました。
実際、塾に通うのは毎週日曜でしたが、5教科の宿題の分量たるや噂に勝る厳しいものでした。毎日テニス部の朝練・夕練をこなし美術学校にも通い、能開と学校の宿題に追われる忙しい日々でしたね。

文武両道を目指して大忙しの中学生活の中で、勉強と部活、やりたいことをどうやって両立させたのですか。

時間の使い方を常に意識して過ごしました。これは中学生の私にとって試練でしたね。でも、そのおかげで宿題やテストの時間配分だけでなく、生活面でも1日のサイクルの中で時間を大切に使う意識が徹底的に鍛えられました。
計画性を持って日々優先順位をつけながら取り組む訓練は、社会人として仕事へ向かう姿勢にもつながっていると思います。

"体・技・心"というべきか、人間としてのあらゆる"基礎体力"がその時期に養われたのですね。

ええ。中学のテニス部では、市大会や地区大会など"公式戦での優勝は当たり前"という厳しさの中でキャプテンを務め、能開では学力とともに集中力も養われました。あの頃に部活と能開の両面から根性を鍛えられたことが、私の原点だと言えます。

芸術の道を選ぶと打ち明けたときも、能開の先生は背中を押してくれた。

能開に通って、勉強面では具体的にどんな成長がありましたか。

中学1年から成績は5教科以外では(笑)4と5だけでしたが、数学が苦手科目で……。明らかに練習不足が原因のケアレスミスが多かったのです。
能開に通うようになって、繰り返し何度も同じ単元を学ぶ"反復学習"で徐々に基礎が定着しはじめて、自然とミスが少なくなりました。3年生になる頃には苦手意識も克服し、数学の成績が少しずつ伸びていくのが嬉しかったです。
もともと得意科目の国語や社会は、能開に入ってさらに成績が伸びました。何よりも学校の実力テストの成績が5教科すべてアップしたことは、自分でも驚きでしたね。

大竹寛子さん

当時の能開は、どんな雰囲気でしたか。

複数の中学から成績上位生が集まって、「勉強するぞ!」という独特の緊張感がありました。みんなが真剣に勉強する環境で、学校とは全く異なる刺激に満ちていました。
さらにレベルの高い生徒たちが集結するのが合宿です。クラス分けテストはわずか3分と短く、それはもう必死でした。普段の能開ではまずまずの成績だったはずが、合宿では下から2番目のクラスに。全国レベルの高さを見せつけられ、ショックを受けたことを覚えています。

能開の先生たちの印象は?

個性的な先生ばかりで、ユーモアのある話にいつもぐいぐい引き込まれていました。
中学3年の頃、国語の先生が授業中にこうおっしゃいました。「問題を解くために必要なのは、"勘と経験と度胸"」と。このフレーズは画家になったいまでもたまに思い出すほど印象的です。宿題ノートにひと言書いて提出すると、「頑張ってるね!」など何気ないひと言を返してくれたことも楽しみでした。
能開の先生方は一人ひとりの生徒のことをよく見て励ましの言葉をかけてくれたので、厳しさの中にも愛情が感じられて、どんなに忙しくてもどんなに眠くても頑張れました。

「美術の道に進みたい」と打ち明けたとき、能開の先生は何と?

実は、美術に興味があることすら先生に話をしていなかったので、高校の美術科志望だと伝えたとき、とても驚かれました。でも「どんな道を選んでも君ならきっとやっていける。頑張って!」と温かい励ましの言葉をいただきました。