復興の種 作文

高校3年生

「人と人との和」 河野 文香(周南徳山駅前・高3)

テレビで連絡をしてもつながらない人達のために安否確認のできるサイトを立ち上げた人がいることを知りました。ツイッター等に書き込まれた多大な情報の中から自分の知りたい情報を見つけることが困難なため、安否情報を見つけることが困難なため、安否情報を地域別、名前別と誰が見てもわかるよう整理したそうです。しかし、全て自分の手でサイトに打ち込む必要があり一人ですると何週間もかかるという欠点がありました。このサイトの設立者は全国の人にネットを通じて呼びかけ、打ち込みの手伝いを要請しました。

さてこのサイトはどれくらいで完成したと思いますか?設立者の呼びかけに対し全国から二百人以上の人が集まり三日後には利用開始できるようになりました。三万人以上の人が利用し、このサイトを通じ、たくさんの人の安否が確認されたのです。

私はこの出来事から本当に人と人との和というものを感じました。いつ地震は治まるのか、これからの生活はどうなるのか、毎日が不安で眠れない日が続いているかと思います。しかし、少しでも貢献できたらと日本中で、世界中で色々な人々が活動しています。東南アジアのスラム街では一日の生活費が百円足らずの人々が日本に昔学校を建ててもらったその恩返しからとお金を集め、一日で九十万円集めたそうです。今日本という枠を越えて「人」としてのつながりというものをひしひしと感じます。復興までに何年、何十年と莫大な時間がかかるかもしれません。でも絶対日本は更に更に強くなって立ち直ることができると思います。人と人との和を大切に、日本が再び活気あふれた国になることを祈っています。苦しい時だと思いますが、頑張って下さい。応援しています。

「震災が教えてくれたこと」 松谷 知実(周南徳山駅前・高3)

三月十一日、午後二時四十六分。私は姉と二人で東京にいた。山口県民である私たちは、地震に巡うことなど滅多にないため何が起きたのか分からなかった。携帯電話はまともに機能しなかったが、周囲の人からの会話が聞こえた。「震源地は宮城県沖。マグニチュード八.八。東京は震度五強の揺れを観測。それを耳にした私は、なんかすごいことに巻きこまれた。偶然すぎ。という位の気持ちだった。しかし、その二時間後 、交通機関がマヒしたと知り、そんな気持ちは一気に不安に変わった。今日泊まる所へ帰る手段がない。それから五、六時間歩き続けた。東京の街にたくさんの人が行き交っていた。そんな光景を見ながら、私は「ここにいる人たちはみんな自分と同じ帰宅難民者なのだ。自分だけが不安な気持ち抱えているわけではない。」と自分自身に言い聞かせた。そうすることによって、弱気になってる場合じゃない、頑張らんと、と思った。そしてその日は何とか避難所へ泊まることができた。一安心することはできたが、その夜は一睡もすることが出来ず、揺れてないのに揺れを感じたりしながら夜が明けていった。

三月十二日。私と姉の目標として「今日は絶対山口に帰ろう」と決めた。その目標は私たちを強くさせた。そしてその日の昼、飛行機で山口へ帰ることができ、私は空港で初めてニュースを見た。自分の目を疑った。日本で起きていることとは認めるのに時間がかかった。そして空港を出て親と再会した時、無意識に涙が出た。あの日から一ヶ月経った今、私が被災地の方へ伝えられることは何なのか。私は山口県民だが、偶然にも東京で被震を経験した。今私のこの文章を手にしているあなたに比べると、傷跡の深さは全く違っていると思う。しかしながら私がこの経験で学んだことを伝えることで少しでも力になることが出来たらと思う。

まず、今は辛いけれど生活が落ち着いてきて、冷静になって考えられる時間と空間が出来た時、その経験はその後のあなたを支えるだろう。少々の挫折を感じたとしても、あの時に比べたらなんてことはないと思うだろう。

また、私は何らかの嫌なことがあった時、「辛い事を経験すればする程、人にやさしくできる」という言葉を思い出す。これは本当にその通りだと思うし、今回の被災を経験したあなたは誰よりも人に優しくできるだろう。

最後にこの震災は人々に悲しみだけを与えたわけではないと私は思う。この震災で、得たこともたくさんあるだろうし、これからのあなたを力強く支えると思う。私も自分がこの震災で学んだ気持ちをいつまでも忘れずに今を一生懸命生きようと思った。一人でも多くの人が、一日でも早く元の生活を取り戻せることを願ってます。

「復興の種」 原田 美月(大牟田有明町・高3)

今回の東日本大震災で犠牲になられた方々をお悔やみ申し上げるとともに、被害にあわれた皆様に心よりお見舞い申し上げます。震災発生から一ヶ月が過ぎましたが、地震は修まることなく続いています。いつ地震が起こるかわからない恐怖におびえている方々、避難所でつらい生活を送っている方々、家族を亡くして悲しみにくれている方々、原発の影響で不安な生活を送っている方々がたくさんいらっしゃると思います。私には被災地に住む友人がいて、地震発生後から連絡がつかずとても心配でした。一週間後に連絡がついた時には本当に安心しました。しかし、今もまだ家族や友人の安否さえ確認できなくて不安や孤独を感じている方がたくさんいると思うととても心が痛いです。そんな状況の中にあっても、「きっと別の避難所で生きている」という希望を捨てないでほしいと思います。私は今、高校三年生です。西日本で暮らす私は今この場所で自分に出来る「勉強すること」を一生懸命頑張って、これから五年後、十年後に必ず東日本の復旧を支える力になります。もちろん、微力ながら募金等の支援には積極的に長期間にわたって協力していきます。

時間が経過するにつれてメディアや人々の関心が薄れてしまっても、応援している人が日本中、世界中にたくさんいることを忘れないでください。今は暗くても光が見える日はきっと来ます。長くつらい道のりになると思いますが、どうか希望や夢を捨てず、笑顔を忘れずに過ごされてください。少しずつでいい、一緒に歩いて行きましょう。一日も早く皆様に安心できる日々が戻ることを心から祈っています。

「被災者の方々へ」 陣内 駿一(長崎県庁前・高3)

被災者の方々は、今、本当に辛く大変なときだと思います。私は、今回の地震で多くの人が被災されたことが悲しく、心が痛みます。今だからこの日本が一つに、いや、世界が一つになるときだと思います。

私は長崎に住んでいて、被害を受けませんでしたが、テレビでの報道を見て、違う世界にいるような気分になりました。

今、日本中で東北のためにできることを、私たちは考えています。私には、簿金活動ぐらいしかできませんが、少しでも助けになればなと思っています。

私は、今回、日本人のすばらしさと政府の行動の遅さにあきれました。福島の原発ではもっと国民に正確な情報を伝えるべきだったと思います。また、それ以前に、このような事故が起こった場合に備えて、準備をしっかりしておくべきだったと思います。

原発のおかげで、風評被害にあっている東京の人が困っている映像を目にしました。本当に私は胸が痛みました。

世界中が東北を応援しています。「あなたは一人じゃない」「上を向いて歩こう」とよくテレビで耳にします。僕も、上を向いて歩いていってほしいなと思います。

これから、復興が大変だと思いますが、みんなで助け合いながら生きていってほしいです。

私たちは、応援しています。がんばって共に生きていきましょう。

「復興の種」 多田 涼太郎(芦屋南・卒業生)

私は幼少の頃、阪神淡路大震災の被害を受けた。倒れた高速道路や液化現象を目の当たりにし、さらに半年以上の避難生活を余儀なくされた。しかし今回は津波によって住居、住み慣れた街といった、生活をも失われてしまった。東北地方太平洋沖地震のその状況をニュースなどで見ていても、惨状を察するには及ばない。

しかし、そんな中でも「笑う」ということだけは忘れないで欲しい。

スポーツや娯楽が「不謹慎」という言葉で抑制される中、震災一週間後の深夜のラジオ番組であえて漫才をしたコンビがいる。きっと批判はあるだろうとそのコンビも、リスナーの私さえも感じていたが、無かったのである。それどころか、東北の被災地から感謝の声すらあったのである。その日まで笑顔をつくれなかったが、心の底から笑えたという声である。もちろんこの窮状から立ち直るにはお金やモノが必要だ。しかしもっと必要なのは笑うこと、暗い気持ちからまずは抜け出すことなのではないかと思う。阪神大震災に辛さしかなかったからこそそう思える。

先は見えないかもしれない。元に戻るのに何十年とかかるかもしれない。あれだけの被害があった神戸でも十五年かけて復興することが出来たのである。いつか必ず元に戻ると信じて、前を向いて立ち上がってほしいと思う。そして、被災地の方々が、本当に心から笑顔になれる日が来ることを願っています。

「私の想い」 北村 美華(阪神御影・卒業生)

私は春に高校を卒業して今は浪人生として毎日勉強をして過ごしています。私が東進に入って二週間経った日の晩に家に帰ってテレビをつけると全ての番組が東日本大震災の報道だったことを鮮明に覚えています。津波で家が流され、その光景を見てただ呆然としている被災者の悲しい表情はテレビを見ている私に痛いほど切なさが伝わってきました。連日、報道している死者、行方不明者の数が増え続けていき、もう言葉を失いました。東日本大震災が起こって一週間ほど経ってようやく冷静になって現実を受けとめられるようになりました。この震災でたくさんの方が亡くなっているのを見て、自分が被災者のために何か少しでもできることは何かと考えました。それは一日一日、何でもいいから自分に出来ることを精一杯頑張らないといけないという気持ちを忘れてはいけないことです。

私は高校生の時、ただ良い大学に行ければいいなと軽くしか考えておらず、毎日何も計画を立てず学校に行って授業も聞くだけ、ノートはひたすら綺麗に書いても見直すこともなくロッカーに置きっ放しにして帰り、家に帰ったらテレビを見て眠たくなったら好きな時間に寝るという毎日を繰り返していました。三年生になってさすがにやばいと思っても全く勉強時間が足りず、自分の行きたい大学にいけませんでした。新たに頑張ろうと思い、浪人を決意しました。

私が浪人生になって一ヶ月、過ごしてきましたが、自分の欠点を見つめ直す大事な時間だと思いました。私の受験には、支えてくれる家族、先生方、お互い同じ立場の仲間がいてみんな一つに繋がっているということを改めて実感できました。被災者の方々は東日本大震災が必然ではなく偶然に起こってしまったことだけれども、自分一人だけじゃなく支えてくれる人がたくさんいるということを忘れないで下さい。遠い所に住んでいても人はみんな繋がって生きているのです。

「復興の種」 若山 悠加(八代松江通り・卒業生)

震災の被害に遭われた方々へ、心からお見舞い申し上げます。

この文章を書くにあたり、様々なことを考えました。計り知れない被災者の方のご苦労や、何もできないことへの自責や、机上での論争に対する虚しさや。

そこで、散歩に出てみました。ピンク色のレンゲ草がとても可愛く咲いていて、空がとてもとても青くて。緑の葉が風に揺れる心地よい音を聴いたのも随分久しぶりでした。

今の私には、この今ある環境を享受することしかできないと思いました。それに感謝をしながら歩いていくしかない、と。

ただ、私は、ずっと自分の中に渦巻くこの気持ちを、そして地震のことを絶対に忘れません。被災者の方々のことをずっと想っています。だから、いつか教えてください。被災者の方々が何に苦しまれたかを。そして、何に感動され、涙されたかを。いつか、「しっかり」分かりたいと思っています。

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