叱られた後は、必ず励ましがある。

松尾和彦さん

先生に叱られたエピソードを披露していただけますか。

小学6年の時、猛烈に叱られたことが忘れられません。授業中に行われるプリントテストで、自分の解答に丸つけをしていた時のこと。誤答にうっかり丸をつけてしまい、すかさずそれを見つけた先生が烈火のごとく怒り出しました。子ども心に「間違っているのに点数を稼ごうとして、嘘つきだと疑われた」と思いました。とにかく、その怒り方が尋常ではなかったからです。でも、懇々と諭されるうちに私の行為を疑ったのではなく、ぼやっとして緩んだ態度を叱ってくれたのだと気がつきました。授業開始から2時間ほど経過し、ちょうど気が散る時間帯でしたが、言い訳など聞き入れられるわけもなく……。能開の先生に叱られる時は、一事が万事まったく甘えが許されませんでしたね。

裏を返せば、先生側に相当な覚悟が必要ですよね。

その通りです。先生方は叱り方を心得られていましたから、叱った後には必ず「期待しているぞ、頑張れ!」と励ましてくれました。だから先生を恨む気持ちにはならず、「もう嫌だ。絶対に行くもんか!」と思ったことは一度もありません。魅力的な先生がたくさんいて、7割が強烈な"鬼キャラ"でも、たまに見せる面白さや優しさが子どもたちをぐっと惹きつけるのです。いま、親としてわが子を叱る時、"能開の先生を演じること"が目標です。

先生方はどのように生徒たちの心をつかんでいたのでしょうか。

宿題ノートでも試験の成績でも、本当に一人ひとりの生徒のことをよく見ていて、頑張ったことは必ず褒めてくれました。週に何度かしか顔を合わせなくても、相当な数の生徒の名前を覚えて、1回のコミュニケーションをとても大切にしてくださいました。いまも続く伝統の「激励電話」をはじめとして、中学3年の進路相談の時もひんぱんに自宅に電話をかけてくださって、親を含めて3者で風通しのいい関係性が築かれていたと思います。

合宿での思い出を教えてください。

初めて参加した能開の合宿が、中学1年の中国研修でした。翌年、弟はヨーロッパ研修に参加しました。私にとって初の海外旅行先が中国で、「こんな国があるんだ!」と非常にいい社会勉強になりました。その後、海外に興味を持ち、いつかまた行きたい、海外で働いてみたいという気持ちが芽生えたのは、確かにあの中国研修がきっかけだと思います。

能開にまつわる出来事をとてもよく記憶されていますね。

今年44歳になりましたが、お世話になった先生方のお名前は全員言えますし、自分でも驚くほど鮮明な記憶が刻まれています。通塾期間は約3年間半でも、各教室に掲示されていた「能開五訓」のフレーズも脳裏に焼きついています。例えば「断じて中途でやめるな。中断はゼロである」は、社会人として仕事に取り組む時、尻切れトンボにならず何事もやりきらなければならないことを意味していると思います。多くの先人が言うように継続こそ力なのだと、私自身も時々襟を正して原点に立ち戻るような気持ちにさせられる言葉です。

学校の先生と能開の先生との違いは?

小学校の先生とは垣根なく話ができましが、中学校の先生と進学の話になるとやや事務的になってしまうこともありました。そんな時にあれこれ相談できたのが能開の先生です。高校受験の志望校選びの際も、私たち親子にとって頼れる存在でした。私は内申点に自信がなく、定期考査よりも実力テストの点数が良い生徒だったので、学校の先生から「内申点が低いから志望校をワンランク下げた方がよい」と言われたのですが、能開の先生は「入試テストに重点が置かれる私学の高校を考えてみては」と、新たな選択肢を示してくれました。高校卒業後の将来までを見据えた的確なアドバイスだったと思います。おかげさまで、歴史ある須磨の滝川高校英語科に入学できました。得意科目ではなかったのですが英語科を選択したのは、将来必ず仕事で必要になると漠然と考えてのことでした。

大学生活についてお聞かせいただけますか。

ひと言でいえば、"社会勉強"に励んだ学生時代です。大学公認のツーリングサークルに所属して、バイクで全国を旅したり、安全運転競技大会にも挑戦しました。バイクは一歩間違えば危険な乗り物です。身を守るのはヘルメットとグローブとブーツだけで、自分の技術で危険を回避するしかありません。サークルの先輩には、「絶対にコケるな。コケたら人生が終わるぞ。運転中に不安定になっても最後まで諦めるな」とよく言われました。

能開で得られるのは、社会の疑似体験だと

松尾和彦さん

大学時代に熱中したバイクに、仕事につながるヒントが?

ええ。大きな怪我もせず大学4年に進学し、就職活動を始めたちょうどその頃、新しいデバイスとして注目されていたのがエアバックでした。バイクで危険と隣り合わせを経験していた私は、安全への意識が高まっていたため、人の命を守るエアバックの"品質"に興味を持ち、やりがいのある仕事だと思って就職を希望しました。もともとエアバックは海外で安全装置として100%適用化が進められていましたが、日本では1989年にスタートし、95年頃までオプションとして普及していき、現在ではご存知の通り、どんなクルマにも搭載されています。私は92年に入社し、幸いにも日本経済の景気悪化に左右されることなく、会社の業績は右肩上がりに伸び続けてきました。

新卒で入社し、海外駐在のチャンスも手にしたのですね。

エアバック関連の自動車部品製造会社に入社し、4年目の面談で海外勤務に興味があると伝えました。5年目には米国赴任を任ぜられ、サウスカロライナに5年、テキサスで1年半暮らしました。どちらも名の知られた街ではなく、750人の工場に日本人は私だけ、人口4,500人の街でも日本人は私だけ。すぐに2人になりましたが、2人目は私の妻です(笑)。

生活や仕事をする上で、英会話は問題なかったのでしょうか。

正直、渡米時は日常会話すらままならなかったのですが、仕事上では即断を迫られる場面もあり、絶壁に囲まれたような状況下でさすがに何度も心が折れそうになりました。でも、とにかくいまこの瞬間に覚えられるだけの単語を覚えよう、そうやってコツコツ積み上げていくしかないと腹を決めたのです。単語を書いて覚える極めてシンプルな勉強法でした。当時、電子辞書はまだ高価だったので、仕事上の専門用語を覚えるために<研究社>の机上版の辞典を購入すると、初出の英単語には赤線を引き、"同じ単語は二度と引かない"という能開仕込みのルールを自分に課して地道に勉強しました。「講習会や小テスト対策は社会の疑似体験だったのだな」と、能開の記憶がふと頭をよぎりましたよ(笑)。結果的に英会話は1年でものになりましたが、電話会議は約2年かかりました。

仕事の進め方など、米国人との違いを発見したこともあったのでは?

米国人はゴールを目指し始めたら決断も行動も非常に早いですね。丁寧にいろんな部署に諮るという日本的なプロセスは一切省き、パッと集まってパッと決断するので、米国のダイナミックなビジネススタイルを肌で感じることができました。トラブルが起きて調査解析を繰り返す業務が続くと、原因のしっぽをつかむまでは自宅で夕食をとって再出社し、夜中じゅうテスト結果とにらめっこをしたことも。原因解明作業中、米国人たちは必死になるほどネイティブな英会話になっていきます。それでも、ベクトルが完全に一致していれば、お互い意思疎通ができるようになるものです。

駐在中の生活面でのご苦労をお聞かせください。

サウスカロライナで数十年に1度といわれた大雪に遭い、3~4日停電する中で、積雪した大木が道路を塞いでしまう事態に見舞われました。同じ会社の仲間に助けを求めようにも、そこまでの交通手段が阻まれて身動きが取れないのです。寒波の影響で室外はマイナス10数度に。長女は生後10ヶ月でしたから、布団でぐるぐる巻きにして寒さをしのぎました。その時、自分の身は自分たちで守るために、適切な状況判断が不可欠だと痛感しました。

現在は、日本でエアバック関連のどんなお仕事をされているのですか。

帰国後、新車に搭載されるエアバックの量産準備や調査解析業務などに携わり、その後、エアバックのガス発生装置を世界中に供給する現在の会社に転職しました。2年前から調達部門に所属しています。自動車部品業界は今後ますます海外ビジネス展開が不可欠で、私自身も北米を中心に部品の調達業務を担い、今年も9月までに6回ほど海外出張をしています。仕入先を世界中から開拓し、高品質・ローコストの部品を海外の工場に供給するのが調達業務です。これからは、海外のメンバーと目指すゴールを明確に共有し、よりタイトにコミュニケーションをとりながら目標達成していきたいと思っています。

海外で仕事をする上で、大切なのはどんなことでしょうか。

"郷に入れば郷に従え"の言葉通り、相手をリスペクトすることに尽きます。私はもともと米国製の自動車やバイクが好きでしたが、米国人の仕事のスタイルや愛国心、惜しみない優しさ、博愛精神に触れて米国がますます好きになりました。周囲に日本人がいない環境も、米国人を知る上で結果的にはよかったですね。日本ブランドの製造品を生み出すためには管理を強化してアドバンテージを取ることも大切ですが、相手の文化慣習まで立ち入るべきではありません。ゴールは共有してもプロセスは話し合っていくべきです。