春さんのひとりごと

「コロナ」後、今年初めて「実習生」たちの日本行き

11月に入り、ようやく実習生たちの「日本行き」が決まりました。センターで日本語を勉強すること、約一年に及んだ生徒たちも多かったのでした。彼らにとっては長い期間だったことでしょう。普通ならば、約6か月で日本に行っていた生徒たちですが、今年は「コロナ禍」で日本への入国が叶わず、長い間待たされていました。

今回、彼らが行く日本での実習先は日本の三重県です。例年ならば、「中部国際空港 セントレア」に降り立つのでしたが、今現在は「成田」「関空」の二つの国際空港しか利用出来ません。それで、「関空」に降り立つのかなと思いきや、何と「成田」で降りないといけないと言うのです。「隔離施設」に入るための措置の関係でそうなったようですが、実情は分かりません。距離がずいぶん離れますが、それでも、日本に確実に行く予定が決まり、本人はもちろん、ご両親もさぞ安堵されていることでしょう。

今月、日本に行く生徒たちは全員で11人います。全員男子の生徒たちです。私は今のセンターで今年の1月から日本語を教え始めました。昨年10月、バイクでの「ベトナム南北縦断の旅」に発つ前に、9月いっぱいで14年間勤めていた学校を辞めました。その時点ではいつサイゴンに戻れるかが分からなかったからです。その後、山元さんと二人だけでハノイに向けてバイクで旅立ちました。

そして、無事に「ベトナム南北縦断の旅」を終えた後、ひと休みした後、今のセンターで日本語をまた教えることになりました。そのセンターは、日本にいる私の長年来の友人が間に入り、ベトナム人の社長を私に紹介してくれたのでした。その会社は出来てまだ日が浅いので、生徒数もまだ少ないものです。それまで教えていた学校の、1クラス分の人数ぐらいしかいません。まあ、でも設立当初はどこの学校も似たようなものです。

そして、私がそこで教え始めて5月に入った第一週目、新しいクラスに初めて入りました。そのクラスは全部が男子の生徒たちだけで、5人ぐらいの人数しかいませんでした。授業の初めに、私が名前を呼び上げながら出席を取ります。その時、ついでに生年月日と出身地も訊いてゆきます。前の学校の時には、クラスのスタート時点で、生徒の氏名のリストと生年月日がすでに出来上がっていましたが、ここではそうではありませんでした。

それで、私が全員の氏名の確認と生年月日と出身地を訊いてゆきました。みんな一人・一人が自分の生年月日と故郷を答えてくれます。その5人の生徒たちの最後に、Vu(ヴー)くんという名前の若い生徒がいました。顔付きも利発そうな感じです。彼もほかの生徒たちと同じように、自分の生年月日を答えました。彼はこの時22歳でした。そして、次に「私の田舎はDak Nong(ダク ノン)です!」と、大きな声で答えたのでした。

まさにその後に、眼を見張る出来事が起きました。Dak Nongと聞いて、私が何気なく「ああー、そうですか。今から6年前の2014年頃、Dak Nongから来ていたある女子生徒に教えたことがあるよ。彼女は2015年2月に日本の三重県に行き、2018年2月には故郷のDak Nongに戻り、今は田舎で働いていますよ。彼女は大変な頑張り屋さんで、日本にいた3年間で【日本語能力試験N2】に合格しました。彼女の名前はGai(ガーイ)さんと言います」とVuくんに話しました。

すると、彼は眼を丸くして「ええーっ、本当ですか!Gaiさんは私の親戚ですよ!」と叫んだのです。それを聞いて、今度は私のほうが驚く番でした。そして、彼は自分の携帯電話を取り出して、Gaiさんと一緒に写った写真も見せてくれました。Gaiさんには弟くんもいて、彼も同じ学校で勉強したことがあり、私も直接教えましたが、今は日本にいます。その弟くんとも知り合いで、弟くんが日本に行く時に空港で見送った時の写真も有りました。

それを見て、(確かにVuくんがGaiさんと知り合いなのは間違いないな!)と確信しました。しかし、前の学校でVuくんに会うのなら分かりますが、全然違う学校で、Gaiさんの知り合いに会えるとは(何たる偶然だろうか・・・)と思いました。Vuくんに「このセンターはGaiさんが紹介してくれたの?」と訊くと「いいえ、そうではありません」と言う答えでした。全くの偶然なのでした。

私自身Gaiさんには日本で二回会ったことがあります。特に、二回目の時には、Gaiさんは体調が悪い時にもかかわらず、IJさんご夫妻に連れられて彼女一人だけが私に会うために大阪まで来てくれた懐かしい思い出が甦ります。その時のことは、【2017年5月号日本帰国余話・前編 ●大阪での教え子との再会● 】で触れています。

VuくんからGaiさんとの繋がりが有る、いろいろなことを聞き、私も大いに嬉しくなり、「今から二人の写真を撮って、後でGaiさんに送ってあげよう!」と話しました。そして、クラスの友人に二人の写真を撮ってもらいました。授業の後、彼がすぐにGaiさんにその写真送ってくれたそうです。翌日Vuくんに訊くと「Gaiさんは、“もう飛び上がるぐらい驚いた!”とメッセージを送ってくれましたよ」と、笑いながら話してくれました。

それが5月初めのことでした。詳しく聞けば、Vuくんは今のセンターに来る前には別の学校で4か月ほど日本語を勉強していました。その後、センターでまた学び始めたというのでした。この時もまだ「コロナ禍」が続いていました。今年の6月号【ハノイへ旅立った友人】でも述べましたが、5月・6月頃になると、多くのセンターから生徒たちが田舎に戻り始めた状況が現れ出しました。

知人の学校でもそうでした。日本語を勉強すること半年以上が過ぎても、「いつ日本に行けるか分からない事態」になっていたからです。そして、7月が過ぎて8月になりました。私のセンターの生徒たちの中からも数人が帰り始めました。でもVuくんのクラスの生徒たちは、Vuくんも含めて誰一人も田舎に帰る生徒はいません。みんな頑張っています。

しかし、やはり彼らも(いつになったら日本に行けるのだろうか・・・。果たしで今年中に行けるのか、行けないのか・・・)という気持ちだったことでしょう。時に、悲しい表情を見せる生徒たちもいます。今年発生した「コロナ」は日本に行くことを夢見て頑張っていた多くのベトナムの若者たちを悲しませ、「日本行きの夢」を奪っていたのです。

そして、8月から私は彼らが書いた【日誌】の作文の添削を始めました。前任者の担当が7月まではやっていたのですが、7月いっぱいで辞めたので、代わって私がそれをしてあげることになりました。「みんなの日本語」のテキストで「第20課」までを終えたクラスでは、一週間に一回だけ、全員に日本語で作文してもらい、その週に起きたことを【日誌】の形で書かせていました。

【日誌】を生徒たちに書かせる目的は、生徒に全部日本語で作文して書かせ、それをこちらで添削してあげることにより、「ひらがな・カタカナ・漢字の間違いを正す」「単語を調べさせる」「単語を覚えさせる」「漢字を調べさせる」「漢字を覚えさせる」「文法を覚えさせる」「語法の正しい使い方を指導してあげる」・・・などのメリットが有ります。

最初、その内容はその週に「自分に起きた出来事、過ごしたこと」でした。しかし、それが3週も4週も続くとワンパターンになり、それを読む私のほうも飽きてくるので、時には「自分の田舎についてとか「私の家族」「将来の夢」「日本での目標」などと、テーマを変えながら書いてもらいました。

【日誌】の用紙を金曜日に配り、土・日の二日間で書いてもらい、それを月曜日にベトナム人の先生たちが回収してくれていて、私がセンターに着いて、教員室のドアを開けると、すでに机の上には生徒たちが書いてくれた【日誌】がクラス毎に分けて置かれています。私が自分で生徒達一人・一人から回収する手間を省いてくれています。

その人数は30人弱です。毎週の月曜日は、授業が終わった後、それを持ち帰り、「スシコ」に持ち込んで、ビールを飲みながら赤ペンで添削するのがお決まりのパターンになりました。いつもそこでは文庫本を読んでいるのですが、ここ最近の毎週の月曜日は【日誌の添削日】となり、添削が終わってから家路に着きます。

それが2・3週も続くと、生徒たちが書いた【日誌】を添削するのがだんだん楽しみになりました。年齢も故郷も違い、個性も違う生徒たちが毎週書いている【日誌】を読むのが<趣味>のようになってきました。また、(あぁー、生徒たちはこういう箇所、テーマで日本語の間違いをよく犯しているなあ・・・)というのも分かってきます。

さらにまた、まだ20代のベトナム人の若者たちが発信してくれる【日誌】を読んでいると、私のような日本人から見て、いろいろベトナムの文化・人情・歴史などの<タメになる情報>も書いてくれていて、添削という作業自体が大変面白くなりました。今のところ、私はまだ「老眼鏡」を掛ける必要もないので、彼らの【日誌】を読むのも楽です。苦にはなりません。添削した【日誌】は毎週、翌日の火曜日には全員に返してあげます。

そして、8月も過ぎました。Vuくんの日誌の内容にもその頃から変化が現れてきました。まだまだコロナが続いていて、収まらない時期です。でも、まだ本人の表情にも悲壮感は無くて、8月いっぱいまでの【日誌】の内容は「日本に行ったらこういうことをしたい」「将来こういう仕事に就きたい」という前向きな、明るい内容が多かったのでした。

しかし、8月も終わる頃の【日誌】から、日本での「コロナ」の収束がなかなか見えず、(いつ日本にいけるのだろうか・・・)という<先行きの不安>の内容が少しずつ表れてきました。Vuくんも当然私がそれを読むことを意識して書いていたはずです。8月の最後の週から、9月初めの【日誌】から9月の終わり頃までは、だんだん悩みが溢れる出るものになってきました。

「8月の4週目」・・・すぐ日本へ行きたいですが、今年は日本へ行けないかもしれません。
「9月の1週目」・・・日本へいつ行けるかどうか分からないと思います。
「9月の2週目」・・・私は今すぐ日本へ行きたいです。毎月使うお金がもうすぐ 無くなります。心配しています。
「9月の3週目」・・・もし日本に行くことが出来なければ、田舎に帰って農業の 仕事をして、両親の世話をしたいと考えています。

そして10月に入り、明るい兆しが現れてきました。そのことが【日誌】に書いて ありました。

「10月の1週目」・・・来週会社の人から「ビザを申請するよ!」と言う連絡が 来ました。それを聞いて(もうすぐ日本へ行けるのだな!) と思いました。
「10月の3週目」・・・日本へ着いてから14日間隔離をしなければなりません。 隔離しながら、日本の文化とルールを学びます。日本へ 行った後の生活を想像しています。大変だと思います。 でも、努力したら何でも出来ます。3年後にベトナムに 帰国してから、また日本に戻り、2年間働きたいです。 そして、30歳までに家を建てて結婚します。その後 子どもを育てます。これはおそらく、日本に行く前に 書いた、私の最後の【日誌】です。

Vuくんのこの【日誌】を最後まで読んだ時、涙が流れてきました。「スシコ」でこれを読んでいた時の私の眼の前には数人のお客さんたちが座り、食べて飲んでいました。それで、顔を上げることが出来ないまま、じーっと彼の【日誌】を手に持ち、彼が書いた【最後の日誌】を読み返していました。

彼の場合、日本語を勉強した期間は約10ケ月になります。学費や寮費などに掛かるご両親の経済的な支援が半年を過ぎた頃から、人一倍親思いの彼の悩みが深くなっていったようです。ご両親の支援もそろそろ限界の時期にきていました。それがギリギリのところで、日本行きのゴー・サインが出たのでした。彼以外にも同じ悩みを抱えていた生徒たちも多くいました。

一ヶ月ほど前、「先生、午後からアルバイトをしたいので、午後からの授業が受けられなくなりますが、許してください!」と、担任の先生に訴えてきた男子生徒が二人いました。午後3時から夜の10時までアルバイトをするとのことでした。今までであれば、そういう特例は認めていませんでしたが、その2人も今回の「コロナ禍」のせいで、日本行きが長引き、経済的に苦しい状況なのだろうな・・・というのは良く分かりましたので、担当の先生も止むを得ず許可した経緯が有ります。

そういう辛い状況を乗り越えて、今月11月25日に11人の生徒たちが日本へ向けて飛び立ちます。彼らにとっては「11月13日が最後の授業」になりました。その最後の授業で、私は谷村新司さん<サライ>を歌ってあげました。

♪ 遠い夢 捨てきれずに 故郷を 捨てた ♪
穏やかな 春の陽射しが 揺れる 小さな駅
別れより 悲しみより 憧憬れは強く 
寂しさと 背中合わせの ひとりきりの 旅立ち

          ・・・

日本に行った後、自分の目標に向けてしっかりと頑張って欲しいと思います。 3年後に、彼らの成長した姿を見たいものです。

     

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。


Can Gio でマングローブの植林体験

ベトナムのUNICEFのホーチミン事務所と国連児童基金とホーチミン市議会がCan Gioで学生たちにマングローブの植林体験を実施した。

学生たちはマングローブの森を歩くことを自分たちで体験して、このCan Gioが「ホーチミン市の緑の肺」と命名された理由を学ぶことになったのだった。

そして、Can Gioの海に歩いて行き、海岸に捨てられているプラスチックのゴミ類をみんなで拾った。そして、そこにいる人たちに「あちこちにゴミを捨てないでください。特にプラスチック類のゴミを捨てないでください!」と呼びかけた。

この行動は、2020年に於ける「これからのベトナムが未来の子どもたちにとって、緑豊かで、清潔で、美しく、安全な国」になるためのプロジェクトの内容の一つである。このプロジェクトを行う前に、宣伝するための映像を作成し、環境保護のための演劇も行った。今後は「ゴミの分別の指導」と「手洗いの励行」なども行い、病気の発生を防ぐことにしている。

これから、今年の11月20日まで、サイゴン市内の24区で行われる多くの活動が始まる。例えば、「あなたたちのグループは環境保護活動に意欲的なので、街中をキレイに、清潔にするために、今から一人が30分間ゴミ拾いの活動をしてください」と言う提言をして、サイゴン市内の24区の各区で、そのような環境保護活動を進めてゆくのである。

                                             

<Tuoi Tre新聞>

◆ 解説 ◆

毎日、毎日「コロナ禍」の関連記事が多い中、久しぶりに「Can Gioでのマングローブ植林」関連の記事が出ていて、大変嬉しくなり、ここにご紹介しました。 この記事中にある“このCan Gioが「ホーチミン市の緑の肺」と命名された理由”については、 2011年1月号のBAO ■ カンザーのマングローブの森を守るために ■に詳しい説明が有りますので、そちらを参照されてください。

我が社ティエラコムが1997年から実施している「Can Gioでのマングローブ植林」の活動はこちらの新聞には今まで2回掲載されたことがありました。 上記の<Tuoi Tre新聞>と英語版の<Viet Nam News>にも載りました。ベトナムでの私の友人たちには欧米人の方もいますので、 その英語版の<Viet Nam News>を紹介しましたら、大変喜んでくれました。 英語版については2014年9月号のBAO■ベトナムで意識の種を植える■で触れています。

しかし、残念ながら、本来一番関心を寄せて頂きたいベトナム人の学生たちからの行動は余り有りませんでした。 特に今年は「コロナ禍」も有り、私自身も期待などしていなかった時に、今月号のこの記事です。大変嬉しくなりました。 私自身は、今回の活動がこの一回だけで終わらす、今後も継続して欲しいと願っています。

☆補足☆

実は、今月号のこの<BAO>の記事の日本語訳は、今月号の●「コロナ」後、今年初めて「実習生」たちの日本行き●に登場して頂いたVuくんに翻訳してもらいました。

彼はもうすぐセンターを去り、故郷に戻り、日本行きの準備をします。【日誌】は先週で終わりになりました。それで、私が「Vuくんの最後の思い出」を残したく思い、「この<Tuoi Tre新聞>の記事を日本語に翻訳してくれる」とお願いしますと、彼は二つ返事で「分かりました!」と答えくれて、翌日には、私にその完成した翻訳を渡してくれました。

その後、Vuくんがこの新聞記事を日本語に翻訳した内容を私が添削して、訂正したものが上記の<BAO>の記事です。この日本語訳の90%はVuくんが書いてくれたもので、私が訂正した箇所は10%ぐらいです。Vuくん有難う!!

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