春さんのひとりごと

第七回目の「美智子先生を偲ぶ会」

今年も「美智子先生を偲ぶ会」を行いました。2013年9月30日に、美智子先生はサイゴン市内で交通事故に遭われて、60歳の生涯を閉じられました。「一周忌」から昨年まで、毎年ずっと続けて「美智子先生を偲ぶ会」を行ってきました。それで、今年は美智子先生の「七回忌」になります。昨年は「ベトナム北部への旅」と重なり、載せることが出来ませんでしたが、今年も例年通り行いました。昨年は10人の参加者が集まってくれました。

今年七回目の「美智子先生を偲ぶ会」は、9月26日の土曜日に「スシコ」で行いました。毎年、美智子先生の命日の9月30日前後の土曜日に行っています。勤めが有る人たちがほとんどなので、そのほうが参加し易いからです。今年も、生前の美智子先生と大変親しかったMZさんが窓口になり、その日の二週間ほど前から皆さんに告知されました。

まだ「コロナ」が完全に収束している状況ではありませんでしたが、今年も例年と同じ顔触れの方たちから「参加致します!」という連絡が事前にありました。私にもMZさんからは事前に参加者の人数と名前を知らせて頂きました。ベトナム人の参加者で3年前から毎年欠かさず参加して頂いているのはHong(ホン)さんHoa(ホア)さんという女性の方です。

特にHongさんは、3年前に初めて「美智子先生を偲ぶ会」に参加されて以来、ベトナム人参加者たちの中心になって、他の人たちにも声掛けしておられるようです。ですから、3年前からベトナム人の参加者の方たちの顔ぶれが決まってきました。事前に頂いたリストでは、今年の参加者は日本人が4人、ベトナム人が6人で、合計10人でした。昨年と同じです。

そして、毎年のことですが、「美智子先生の命日」が近づくと、私が日本語を教えている今の学校でも、美智子先生のことを話してあげています。私が今日本語を教えているのは。昨年とは違う新しい学校です。そこにはまだ20代の若いベトナム人の先生たちが今3人います。しかし、誰一人も「美智子先生」のことについては知りませんでした。先生たちがそうでしたから、生徒たちも知りません。

それで、ベトナム人の先生には美智子先生について書かれた新聞記事のコピーを渡し、生徒たちにはその記事内容をクラスの中で、一人の生徒に読み上げてもらいます。先生も生徒たちも「大変感動しました!」と言う感想を述べてくれます。来年もまた美智子先生の紹介をしてゆくつもりですが、その生徒たちもおそらく美智子先生については知らないでしょう。

異国で亡くなった外国人については、その人を直接知っていた人たちはともかく、そうでない場合、月日が流れるにつれて、その存在自体もだんだん薄れてゆくのは仕方が無いことだとは思います。しかし、ベトナム人女性のHongさんとHoaさんは、美智子先生が亡くなられた後の「五回忌」からずっと続けて参加して頂いています。そのことを思うにつけ、生前の美智子先生が如何に<深い友情>を築き上げておられたかがしみじみと分かります。

当日26日は夕方6時から「スシコに集合」とみなさんたちには告知していましたが、私は席の予約が必要なので、5時40分頃にはそこに着きました。毎年この時期には大雨が降ることが多いのですが、運良くこの日は降りませんでした。バイクを「スシコ」前に停めて、いつも私が座る席のほうを眺めて驚きました。何と、すでに5人の女性たちが一列に並んで、こちらのほうを見ながら着席されていたからです。

そして、その5人の方たちが腰を下ろしていた真ん中の席に、HongさんとHoaさんがおられました。それで、私もすぐに「美智子先生を偲ぶ会」に参加する人たちがそこに集合しているのだなというのはすぐに分かりました。しかし、いつも遅れて来るのが当たり前の、ベトナムの人たちの集合の仕方からすれば、何とも早い時間でした。日本人では私が一番先に着きました。

私がみなさんたちに挨拶すると、全員立ち上がって挨拶されました。Hongさんに「何時にここに来ましたか」と尋ねましたら、「5時15分頃に着きました」と答えられたのでした。毎年開いているこの会に、少しでも早く着きたいという気持ちからだったのでしょう。その気持ちが痛いほどよく分かりました。

しかし、その間飲み物も、食べ物も、何も頼むこともなく、私たちの到着をずっと待っておられたのです。申し訳なく思いました。そして、私のバイクに載せて持ち込んだ「美智子先生の遺影」と「線香」を台の上に置きました。遺影はみんなが座る席から見て、ちょうど真ん中の位置に据えました。「線香」は、連絡無しに現れる人がいる可能性もあるので、参加予定の人数よりも少し多めに持ち込みました。

そして、毎年のことですが、「スシコ」では「遺影」の前にお供えする果物類を準備してくれています。「今年はこの日に美智子先生を偲ぶ会を行います」と店長に告げると、「分かりました。では、こちらで果物を準備しておきますからね」と答えてくれるのでした。果物を購入した時の費用なども、こちら側には一切請求しません。私たちもその厚意を有難く受け止めています。

台の上に「遺影」を置きますと、先に来ていたベトナム人の方々もじっとその「遺影」を見つめています。その「遺影」を見ていますと、生前の美智子先生とのいろいろな思い出が甦ってきます。ベトナム人の方々も同じ気持ちだろうと思います。

このベトナムという国を心の底から愛し、ベトナムで暮らすことを楽しんでおられた、美智子先生の生前の姿が思い出されるのです。それが、ベトナム人のHongさんやHoaさんたちには良く分かっておられるのでしょう。だからこそ、毎年こうして参加して頂いておられるのです。

私自身が美智子先生に初めてお会いしたのは、2008年の初め頃です。その前に、美智子先生のことは知っていました。こちらのベトナムの新聞に美智子先生の記事が載ったからです。それを、私が2007年11月号のBAOに<ベトナムに住んで生活している、市井の日本女性>として紹介しました。

私が人から聞き、その後直接知った美智子先生の生活ぶりは、まさにこの記事の中に書かれていた通りでした。以前も紹介しましたが、やはり何回読み返しても胸に迫る内容ですので、敢えてまた載せておきます。そこにはこう書かれています。

“一台の古いカセットと、二・三冊の日本語の文法書と、古ぼけて擦り切れた一冊のベトナム語の辞書と、昼食用の二・三個のパン。・・・これがベトナムで日本語を教えて生活している時の、ミチコさんのバッグの中身である。

彼女は、「このようにして日本語を教える仕事から、毎月2~300万ドン(約1万5千円~2万2千円)くらいの収入があります。それで毎日の生活費は足ります。あまりお金は持っていませんが、ベトナムで仕事をしながら生活出来るのは大変幸せだと思います。私は日本人ですが、日本とは縁が薄かったのです。ベトナムに来てから、私は自分の幸福を見付けることが出来ました」と話してくれた。”

先に席に座られていた5人のベトナム人の女性の方の中で、HoaさんとHongさん、そのHongさんの妹さんのNga(ガー)さん。そして友人のLoi(ロイ)さんは知っています。Loiさんは幼くて、可愛いお孫さんも連れて来ていました。その幼いお孫さんはこの後出された日本料理を喜んで食べていました。横で見ていて、本当に嬉しい気持ちでした。

しかし、この日私が初めて見る女性がいました。Hoaさんに訊くと、何と彼女の娘さんだと言われました。名前はTruyen(チュエン)さん。旧正月のテトの時には、美智子先生がHoaさんの家にも招待されたと聞いていましたので、Truyenさんも美智子先生との交流が当然有ったはずです。

その後、私が着いてからしばらくして、MZさんも到着されました。その後、日本人男性は家具屋のABさんが到着し、ベトナム人男性のDu(ユー)さんThanh(タン)さんも続けて到着。その後、参加予定者に名前が無かった男性が2人と女性が1人到着。男性の名前はCuong(クーン)さんHien(ヒエン)さん。Cuongさんは昨年も参加されています。

最初私は2つのテーブルで予約していましたが、突然人数が増えて席が足りなくなりましたので、すぐにもう一つテーブルを追加してもらいました。まあ、ベトナムではよく有ることです。まだ早い時間でもあり、隣に誰も座っていなかったので、問題有りませんでした。やはり、私が予想したように、線香も少し多めに持ってきて正解でした。

少し時間が経った後、日本人で毎年参加されているYAさんから「交通渋滞で少し遅れます!」と言う連絡がHongさんの携帯に届いたとのことなので、しばらく待つことに。YAさんはこちらで「ケーキ屋さん」の仕事をされています。そして、ようやく6時半頃に、YAさんも到着。YAさんはご自分の店で作っているクッキーを持参されて、それを遺影の横にお供えされました。

そして、全員が揃ったところで、線香に火を点けて、私から全員の方に線香を配りました。それを両手に挟み、一分間の「黙祷!」。一分間の「黙祷!」が終わった後、一人・一人が美智子先生の「遺影」の前に進み出て、線香立てに線香をゆっくりと挿します。その後、両手を合わせて、美智子先生のご冥福をお祈りしました。

今年私たちが「美智子先生を偲ぶ会」を行っている時には、来ていたお客さんたちの数もまだ少なくて、静かな雰囲気の中で執り行うことが出来ました。お客さんが多いと、大きな話し声や人の出入りが有って気が散ります。大人13人の方々が線香を挿し終えた後、テーブルのほうに戻り、着席しました。

全員が着席したところで、今年もみんなが一年に一度の「美智子先生を偲ぶ会」で顔を合わせることが出来たことに感謝して<乾杯!>しました。事実、日本人やベトナム人を含めて、私自身もこの「偲ぶ会」が無ければ、皆さんたちには会えない方たちがほとんどなのです。それだけに、「美智子先生を偲ぶ会」は有難い<再会の場>にもなっているのです。

この後、いつものように飲みながら、食べながら、「美智子先生」の思い出を語りながら、みなさんたちが談笑します。会話は日本語が中心ですが、意味が通じない時には、「サイゴン日本語クラブ」というWeb-Siteを運営していて、日本語に堪能なThanhさんが間に入り通訳してくれます。

私はこの日も一冊のファイルを持ち込みました。このファイルの中には、美智子先生が亡くなられた後に、ベトナム語や日本語でインターネット上に、いろいろな人たちが美智子先生の逝去を悼む<追悼の言葉>を寄せてくれたものが入っています。私が眼にしたそれらの記事内容を全て印刷して、一冊に収めたのがこのファイルです。

それを初めて参加した人たちに見せますと、みなさん沈黙してじーっとページをめくっています。この日のHienさん、Truyenさんの二人がそうでした。二人とも、美智子先生に関した、まとまった記事を読むのは初めてのようなので、食い入るように読んでいました。その後、Truyenさんが顔を上げられた時には少し涙目になっていました。

このファイルはいつも私の部屋に置いていますので、折に触れて読み返すことがあります。そして、ジーンと感無量になることが有ります。ここには、日本人、ベトナム人、いろいろな人たちが<追悼の言葉>を書いてくれています。切々とした、悲しみに溢れた心情の言葉が綴られています。

でも、美智子先生は「人文社会科学大学」の正規の先生でもなく、そこの喫茶店で大学生たちに個人レッスンで教えておられただけなのでした。それでありながら、かくも多くの人たちがその逝去を悼んでいるのです。このベトナムという異国で、どこの組織にも属さず、誰の支援もなく、美智子先生は一人の日本人としてその<誇り高き一生>を終えられました。ただただ頭が下がるのみです。

この日の「美智子先生を偲ぶ会」は9時半頃に終わりました。また来年の「美智子先生を偲ぶ会」での再会を約束して解散しました。この翌日のことになりますが、日本人のYAさんがHoaさんの家を訪ねて、生前の美智子先生と一緒に写した数多くの写真を見せて頂いたそうです。

それを後で私たちにも見せて頂きましたが、私たちが初めて見る「秘蔵の写真」とも言えるものばかりでした。中には、故郷の富山県のご実家の写真がありました。さらに、美智子先生が眠られているお墓の写真もあり、それには美智子先生の戒名も添えられていました。YAさんの話では「来年は、Hoaさんがそれらの写真を持ち込んでくれるそうです」とのことですので、それも楽しみです。

     

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。


両手が無いHanhくんが大学に入学!

10年前にTuoi Tre新聞に載った、両手が無い少年・Ho Huu Hanh(ホー フー ハン)くんのルポルタージュ「Hanhくんの物語」 は読者に深い感動を与えた。その時の記事の紙面には、そういう境遇でありながらも、ニコニコして皿洗いをしたり、農業の仕事を手伝ったり、黒板に足で文字を書いている写真などがあったからである。

そして、今年そのHanhくんはサイゴン市内のLac Hong(ラクホン)大学情報技術科の新入生になったのだった。小学校3年生の時には、Hanhくんの両足はコンピューターを扱えるまでに変わった。親切な人がHanhくんにパソコンを寄贈してくれたからである。

その時期から、Hanhくんは情報技術に関係するものが好きになった。Hanhくんはそのパソコンを使い、インターネット上のいろいろな情報を学ぶために塾にも通った。それで、普通よりも一年遅れて入学したが、これからインターネットで学んだことを活かす機会が訪れた。

今後、Hanhくんは企業向けのオンライン広告のプロジェクトの企画をやりたいと言う。将来はその運営に携わり、今まで蓄積してきたものを実践しながら、人生の生計を立ててゆこうと考えている。

                                                 <Tuoi Tre新聞>

◆ 解説 ◆

9月21日の朝、何気なく、いつものように「Tuoi Tre新聞」を開いて、大いに 驚きました。しばらく、紙面を開いたまま、自分の手が止まりました。胸が ジーンとしました。感動しました。あのHanhくんが「大学に入学した!」と 言う記事が載っていたからです。

「あのHanhくんが・・・」と言う意味は、今から10年前の8月8日、同じ「Tuoi Tre新聞」に載っていたHanhくんに関した記事を思い出したからでした。それを私が訳して、2010年9月号のBAOに<Hanhくんの物語>と題して載せました。10年前の記事は多くの写真が紙面を占めていましたが、この日の新聞にも写真が多く載っていました。一枚の写真に見えるのは寮の中でしょうか、友人たちに囲まれて、笑顔いっぱいのHanhくん顔が写っていました。

Hanhくんは両手が無い状態で生まれて、見事に両足で自分の未来を切り開き、これから両足で大学に4年間通います。私の娘も今年、ちょうどこの日から大学に通いました。この日のHanhくんの記事を見せますと、食い入るように読んでいました。この日の朝、娘は「行って来ま--す!」と言って、張り切って大学に向かって行きました。

そして、今私が日本語を教えている若者たちにも、この日の授業で早速紹介しました。生徒たちは新聞などは購読していませんから、今日のこのニュースは誰も知りませんでした。その彼らは五体満足な若者たちばかりですから、大いに感動していました。Hanhくんと同じDong Nai省に故郷を持つ生徒たちが数人いますが、彼らは感心した表情で聴いていました。

10年前に私は「そして、私はこのHanhくんの記事を捨てることは出来ません。大切にしまっておくことでしょう」と書きましたが、10年後の今も、私は大切に保存しています。そして、この日の記事も、これから大切に取っておきます。

"Hanhくん、大学合格おめでとう!!大学生活も頑張ってね!!"

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