アオザイ通信
【2010年9月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<『ベトナムマングローブ子ども親善大使』十周年を終えて>

8月20日、『ベトナムマングローブ子ども親善大使』の生徒さんと、引率役のYさんがベトナムに到着しました。今年日本から、下は小学4年生から上は中学1年生までの、6名の生徒さんがベトナムに来ました。そしてこの日から一週間、ベトナムでの活動がスタートしました。

今年で十周年目となる『ベトナムマングローブ子ども親善大使』の、今回参加した生徒さんたちの活躍、活動ぶりを目の当たりにして、私はあらためて「国際交流力」とは何なのかについて考えさせられました。

毎回「ベトナムマングローブ子ども親善大使」がベトナムで行って来た主な活動は、
1、ベトナムの生徒たちとの交流会。(「村山日本語学校」の生徒たちや、「Saint Vinh Son小学校」の生徒たちと)
2、ホームステイ。(日本語の出来るベトナム人の生徒の家に宿泊)
3、ベトナム戦争について学ぶ。(戦争証跡館とクチトンネル訪問)
4、カンザーでのマングローブ植林活動。(参加者全員が植林。正式には、1995年からスタート)

などでした。今回は十周年記念ということで、これに加えてさらに、
5、日本領事館と、ホーチミン市友好協会への表敬訪問
をすることにしました。そして今年のこの二つの表敬訪問は、先方の大変好意的な協力により、大変意義深い(特に日本の生徒たちにとって)ものになりました。

この『ベトナムマングローブ子ども親善大使』の運営においては、その初めから女子生徒の面倒を見て頂くために、ベトナム人の大学生で日本語が分かる女性にお願いしてきましたが、今年はThuong(トゥーン)さんという大学生が手伝ってくれることになりました。【Thuong】とは、ベトナム語で「愛する。可憐な。」という意味です。彼女は、今年22歳の大学4年生です。

彼女は今まで日本語を4年間勉強していて、日本語能力試験2級に合格しています。彼女は私が最初に会って今年の『ベトナムマングローブ子ども親善大使』の行事内容の説明をした時から、その活動に強い興味を示し、意欲的に参加してくれました。そして日本から生徒さんたちが来る日を、彼女は私以上に待ち焦がれていました。

日本から来た生徒さんたちには、着いた日の夕方から、ホテルの中でお互いの「自己紹介」と「オリエンテーション」を行いました。そしてベトナム一日目の夕食は当然ベトナム料理ということで、あのベンタン市場前の屋台村に行きましたが、生徒たちも多くの人たちが路上で食べている光景には驚いていました。

そして二日目から、ベトナムの生徒たちとの交流会がスタートしました。この日は朝からホテルに「村山日本語学校」の生徒さんたちが、8名参加してくれました。全員女の子たちでした。日本とベトナム双方の生徒さんたちに、まず日本語で自己紹介をしてもらいました。

一人・一人の自己紹介が終わり、私から日本の生徒たちがこのベトナムにやって来た目的と、活動内容について説明しました。特にその大きな活動目的の一つが、「このように、みなさんたちベトナムの人たちとの交流会が大変楽しみなのです。」と。

そして続けてここで、「特訓ベトナム語教室」をThuongさんが指導してくれました。この「ベトナム語教室」の目的は、この日に予定しているホームステイに備えるためのものです。簡単な挨拶言葉である、「こんにちは。」「ありがとう。」「私の名前は○○です。」くらいは、今来たばかりの日本の生徒といえども、ホームステイ先ではベトナム語で話してもらおうということで、毎回実施しています。

今日の夜にお世話になるホームステイ先では、「下手でもいいのだから、気持ちをこめて、それらの言葉をベトナム語で挨拶して下さいね。」と生徒たちには話しました。初めて聞く、見る、話すベトナム語であっても、5回、6回と繰り返しているうちに、何とかそれらしくなってきます。

それから全員で、ホテルを出てホーチミン市内観光に出発し、最初に目指す場所は中央郵便局と、聖母マリア教会へ行きました。その後統一会堂前の広い、涼しい公園の中で、Thuongさんによる特訓ベトナム語教室・第2弾「野外ベトナム語教室」のスタート。

ここでは、数の発音「1(モッツ)」「2(ハーイ)」「3(バー)」・・・と、今日の夜に備えて自己紹介がきちんと出来るように再特訓。しばらくすると、ベトナムの生徒たちが、日本の生徒たち一人・一人に個人授業のような感じで、発音の間違いを丁寧に教えてくれるようになりました。

そこでしばらくベトナム語を勉強していると、若いお兄さんが天秤棒を担いでココナッツ椰子を売りに来たので、日本の生徒たちには初体験の「ココナッツ・ジュース試飲会」を実施。この時のココナッツの値段は、一個が一万ドン(約50円)。13年前は、路上のココナッツの平均は2千ドン(10円)で、観光客相手には、5千ドン(25円)で売っていました。日本の生徒たちも、生まれて初めてココナッツ・ジュースを飲んで、「大変美味しいでーす!」と喜んでいました。

ちなみこのココナッツ椰子の実は、ベトナム戦争中に負傷した兵隊たちに与える点滴剤が無い時、このココナッツのジュースを点滴チューブの中にいれて、兵士の体力の回復に大きい効果があったということでした。ココナッツ・ジュースは無菌状態で、栄養価も高いので、それが可能になったわけです。

そして昼食後に、ベトナム戦争について学習するための「戦争証跡館」訪問。着いてすぐに切符を購入。ここではまだベトナム人価格と外国人価格の二重価格制度があり、私たち外国人である人間は一人が15,000ドン(75円)、ベトナム人は何と2000ドン(10円)。その差7.5倍。

戦争証跡館は今回大々的な改築がされていて、すっかりと建物の配置や、展示物の位置が変わってしまっていました。今まで入口の左右の部屋に展示されていた資料や写真などは、中央にある大きな三階建ての建物の中に移されていました。

そしてそこの訪問を終えて、夕方から始まる、本格的な「日本・ベトナム交流会」の準備。この時ここで初めて、今回日本から参加してくれたHくんが、ベトナムの生徒たちの前で披露しようとしている「柳生新陰流の居合いの型」で使う刀を、私たちに見せてくれたのでした。彼は今小学4年生で、今回参加した生徒たちの中では一番小柄なほうでした。

しかしHくんが、日本から持参して来た西陣織のようなキレイな袋に入れていた刀を取り出して見せてくれて、みんなびっくり!彼がトランクに入れて持ち込んで来たのは木刀ではなく、刃を砥いでいない模造刀なのでした。引率のYさんによると、ベトナムに着いた時に、税関でやはり引っかかり、いろいろ説明して(「マングローブ親善大使」の十年間に及ぶ活動のパネルなどを見せて)ようやく許可が下りたとのこと。さらに凝ったことには、胴着と袴も持って来ていました。ここまで来るともう本格的です。

そして6時半から交流会のスタート。ここには、「村山日本語学校」の校長先生のLUAN先生にも参加して頂きました。この交流会の時には男子の生徒も来てくれて、全員で9名のベトナムの生徒さんが参加してくれました。私がまず最初に、今日参加してくれたベトナムの生徒たちへのお礼を述べた後、みんなで食事をする前にまず先に日本の生徒たちの出し物の披露をしました。

一番先に披露してくれたのが、Hくんの「柳生新陰流の居合いの型」。いやー、そのキリリと引き締まった真剣な表情といい、キビキビとした体の動きといい、安定した腰の据わり方といい、これが小学4年生の演武だろうか・・・!と、実に驚嘆しました。ふだんは小さなその体が、この時には大きく見えました。私自身は、目の前で居合いの演武を見るのは、この時が初めてでした。

そしてこの交流会の部屋は、ホテルのフロントのすぐ横にありましたので、ベトナム人の従業員たちも(何をしているんだろうか〜・・・?)と、好奇心満々の顔付きで見物に来ました。彼らも興味津々の表情で見ていました。

Hくんが演武をしている15分くらいの間、もうベトナムの生徒たちもホテルの従業員たちも、食い入るようにじーっと見ていて、彼の演武が終わった後には一瞬の間が空いて、盛大に拍手をしてくれました。Hくんは小学1年生から初めて今まで4年間、この居合いを続けているとのことでした。

このHくんの「居合い」の演武を見て、私はその時も、そして今もずっと「国際交流力」について考えさせられました。Hくんは、ベトナム語はもちろん、英語もまだ出来ません。しかし彼がみんなの前で披露してくれた見事な演武は、異国の人たちにも何の解説が要らないものでした。彼は「居合い」という日本の武道を、異国の人たちの前で堂々と立派に演じ切ってくれました。彼が演武をしている間は、ベトナムの生徒たちみんなが(シーン・・・)として、感動の目で見ていました。

私自身今まで、日本から来た大学生や、社会人の人たちがいろんな交流会を通して、歌や踊りを披露しているのを見て来ました。しかし今回の小学4年生Hくんの「国際交流力」は、大学生や社会人のレベルをはるかに凌駕しています。

「国際交流の目的」のためにベトナムに来た大学生たちに、私が「さー、ベトナム人のみなさんのために、どうぞ何か披露して下さい。」と勧めても、「いや〜、私はちょっと・・・」と尻込みする若者が時にいました。もちろん私が勧めたら、堂々と歌や踊りを披露してくれる若者たちもいました。

しかし今までの若者たちの歌や踊りの表現能力は、今回Hくんが演じてくれた居合いの演武のレベルまでには、到底及んでいませんでした。どこがどう違うかといえば、一言では言い難いのですが、Hくんの見事な演技が終わった時には、日本の武道の様式美を体得した者が持つ、深い余韻と静かな感動があったのでした。

それは4年もの間、小学4年生ながら厳しい修練を通して深められた、心技体の美しさなのでしょう。彼の素晴らしい演武を見終わった時、(さぞ今まで大変な修行をして来たんだろうな〜・・・)と、私にも想像出来ました。さらにまだ彼は今後もこの「居合い」を続けて修行していくといいますから、これからどこまでその境地が深まるか、私は大変楽しみです。

そして実はあと一つ、私にはこの交流会で感動したことがありました。日本の生徒たちの芸が一旦終わり、食事タイムになりました。そして食事があらかた終わる頃に、次はベトナムの生徒さんたちが歌を披露してくれました。

最初はベトナムの民謡を歌い、次には日本の歌をみんなの前で歌いました。そしてベトナムの生徒さんたちがこの時歌った日本の歌が、また素晴らしく上手で、大変感心しました。しかもその曲は、日本人である私が初めて聞いた曲でした。その歌詞とい、メロデイーといい、大変美しく、感動的な曲でした。

歌の名前をLUAN先生に聞きましたら、彼の携帯にその音楽が録音されていて、しばらくそれをずーっと聞いていましたら、(この歌は何という素晴らしい曲だろうか・・・。)と、こころから感動しました。

ふだん日本にいない私は、今どんな曲が日本で流行しているのかが分りませんが、この曲には本当にこころ打たれました。その曲の名前は、「手紙ー拝啓、十五の君へ」という曲でした。歌がアンジェラ アキさんだそうです。しかし良く考えて見ますと、ベトナムの生徒たちから、日本人である私が日本のこういう曲を教わるというのも不思議なものです。

そして翌日の三日目は、ダムセン公園でのSaint Vinh Son小学校の生徒さんたちとの交流会でした。これは今年で4回目になります。ここには巨大なプールの施設があるので、ベトナムの生徒たちみんなと一緒に、プールで水浴びをしながらの交流会です。実はSaint Vinh Sonの生徒さんたちはふだんはここに来ることはなく、一年に一回だけの「ベトナムマングローブ子ども親善大使」の生徒たちとのこの行事を、毎年楽しみにしているのでした

この日に参加したSaint Vinh Son小学校の生徒さんたちは、全部で90名近くいました。最初にみんなが集まった時、在校生を代表して5年生の女の子が挨拶してくれました。

「私はSaint Vinh Son小学校の生徒の代表として、お礼を申します。日本の人たちが、Saint Vinh Son小学校の生徒たちにこのような機会を作って頂き、大変有難うございます。」と。

ここには責任者のFさんと、校長先生のOanh先生も来ておられましたが、ベトナムの生徒たちがプールに入って喜んでいる姿を見て、まるで我が子の喜びのような表情で眺められていました。お二人のその表情を見ているだけでも、(今年も実現出来て良かったな・・・。)と思いました。

そして「親善大使」四日目は、今回の大きな目的である「マングローブ植林」のためにいよいよカンザーへ移動です。この日から、2泊3日のカンザーでの合宿の始まりです。日本の生徒たちにベトナムに来た目標を聞いてみると、「カンザーでのマングローブ植林」が楽しみという答えが多かったので、生徒たちにも事前にカンザーの資料を配り、今から行くカンザーについての予備知識を持ってもらうようにしました。

最初に「カンザー森林保全局」に到着。今日出迎えてくれたのは、ここの森林保全局の副所長のLongさん。彼に、10周年を記念してティエラで作成した、この10周年の活動内容の写真を収めた額を進呈しました。Longさんも興味深そうに見ていました。

そして彼が、パワーポイントを使用して、カンザーの歴史の過去と現在について説明しました。彼がベトナム語で話しているのを、今回はThuongさんに日本語で解説してもらいました。

それが終わって、事務所の裏手にある30mの高さの鉄塔に全員で登り、30m上空からのマングローブ林を眺めました。そしてすぐ昼食に出かけましたが、この頃から雲行きが怪しくなり、ちょうど食べ始めたころに大雨。この日はちょうど台風3号が発生していて、そのピークの頃にカンザーに入ったような感じでした。昼食が終わってもなかなか雨が止まないので、しばらく休憩。そして少し雨が止んだ後、ようやくバスに乗って移動したのが2時前。

植林場所に行くにはボートに乗り換えます。それで、ボートに乗る前に地下足袋に履き替えることにしましたが、みんなこれがなかなか上手く履けません。時間が掛かりました。地下足袋を履くのも初めての生徒たちが多いようで、本来は下からハゼを止めるのを、上から止めている子もいました。

さてボートに乗ること約40分。植林場所に着いて、ボートを降りる頃にまたまた雲行きが怪しくなって来たので、「向こうに雨雲が掛かって来たけど大丈夫か?」と私がベトナム人のスタッフに尋ねると、「大丈夫だろう(Kong sao dau[コン サオ ダウ])。」とあっさり答えます。しかし結果としては、やはり「大丈夫ではなかった(Co sao[コー サオ])。」のでした。

ボートから一旦全員が降りて、少し歩いて行った所に植林場所がありました。そこの入り口の所でLongさんが直接苗を手に持ち、生徒たちに植林の仕方を説明しました。今日は、一人につき50本の苗を依頼しておきました。

この頃からポツ・ポツと雨が顔を叩き始めました。念のために、すぐ全員に森林保全局が用意してくれていた雨合羽を渡して着せましたが、これが新品でありながら、着た瞬間に継ぎ目のところがすぐ破れてしまうような粗悪品。

そして生徒たちが苗を手に持ち、植え始めてから5分くらい経った頃、風と一緒に強烈な雨が襲って来ました。台風を伴ったスコールです。やはり降って来ました、大雨が・・・!しかしここはあたり一望マングローブ林の中、どこにも逃げ場がありません。屋根がある建物もありません。ボートは岸から離れた所に停まっていて、引き返せません。

しかしみんなずぶ濡れになってしまうと、反対に腰が据わってしまったのか、ひるむことなく大雨の中をモクモクと植えてゆき、とうとう最後の50本までを全員が植え切りました。これくらいの大雨くらいにはへこたれない、今年の親善大使の6名なのでした。

最後まで植林を終えてボートに戻って中に入りましたが、何と今度はボート側面の両方のガラスがはめてなくて、雨が直接降り込んで来ます。仕方がないので、ボートの中でも雨合羽を脱がずに座りましたが、生徒たちはニコニコしていて、「貴重な体験をしたなー。」ということを言っています。こちらもそれを聞いて嬉しくなりました。

そしてこの日の夕食場所は、毎年おなじみの「カンザーレストラン」。あのアクトマンの浅野さんが「サイゴンで一番美味しい」と推賞する、しかしひなびた場所にあるレストランです。カンザーで宿泊しているホテルから、車で30分ほどで着きましたが、建物は今大改装中。あとで聞けば、結婚式場を兼ねたレストランに改装しているとのこと。日本円で、約一千万円くらい掛けているということ。ここの主人はお金持ちです。ご主人は毎月一回料理の研究のために、今もサイゴンの5区に中華料理の勉強に出かけて行きます。

実はここの主人・Minh(ミン)さんは、引率のYさんの「命の恩人」なのでした。今から十数年ほど前に、Yさんがカンザーでハマグリを食べ過ぎて食当たりした時に、Minhおじさんが介抱してくれてYさんの窮地を救ってくれたのでした。Yさんはその時胃の中の物は全部吐き、顔色も真っ青な状態でした。立ち上がることも出来ませんでした。

病院もない、診療所もない、医者もどこにいるか分らない・・・、そういうお手上げの状態の時に、おじさんはYさんをうつ伏せにして、背中や体一面をギターのバチのような物で赤くなるまで強く掻き始めました。当然体は掻いた箇所が真っ赤になり、血は出ませんが大変痛いです。しかし痛いくらい掻かなければ、その効果はありません。

すると掻いた後30分くらい過ぎたころ、今まで真っ青な顔をしていたYさんの表情に生気が蘇って来ました。それでようやくホテルに帰り着いて、ゆっくり休むことが出来たという経緯がありました。あのときおじさんが介抱してくれていなければ、Yさんも一緒にいた私たちも(今からどこに行けばいいのか・・・?)と、途方に暮れていたところでした。

この時おじさんが採った方法は、一種のショック療法です。ベトナムでは今でも民間療法として、風邪を引いた時や、頭が痛いときや、体調が悪い時などは、普通にこういう方法で治しています。私も時にこの方法で風邪を治しますが、安いし(30分くらいで百円ほど)、薬を飲まなくていいので、こちらのほうが安全ともいえます。そして不思議にも確実に治ります。

そして食事が終わった頃、実はまたここでもあのHくんが「居合いの型」を披露してくれたのでしました。Hくんが今から日本の武道を披露してくれるのを知ると、おじさんは大変喜んでレストランにいる従業員やお客にまで声を掛けて、みんなを私たちがいる部屋に集めてくれました。このレストランには舞台があったので、そこを急いで片付けて広い空間を作ってくれました。

今日のこの時には、日本から持参した模擬刀はないので、Hくんは店にあった手ごろな長さの木の棒を代用しました。しかし交流会の時と同じように、たとえ木の棒といえども、Hくんは真剣な顔、表情で演じています。舞台の上で静かに息を吐きながら、ゆっくりした動きをしつつ、急に速い動作に変化させながら、前後・左右に木の棒を振り回しながら舞台狭しと動きまわっていました。

このカンザーのひなびたレストランの中で十分ほどその演武を続けて、終わった時にはまたまた拍手喝采でした。しかしどういう場所でも臆せずに、ひるむことなく、「居合い」の演武をやってくれるHくんの凄さには、ほとほと感心します。おじさんは「これが日本のサムライの型なのかー」と感心して、喜んでいました。おじさんの奥さんは、後でYさんに「彼はニンジャなの?」と真剣な顔で聞いてきたそうです。

そしてHくんの「居合い」の演武の披露は、その翌日にサイゴンに帰った後、ホーチミン市友好協会でも見せてくれたのでした。友好協会を訪問した時には、会長のQさんが対応してくれましたが、Qさんは気を利かして交流会のために、ここにもベトナムの生徒たちを招待してくれていました。Vo Truong Toan(ボー チューン トアン)学校の生徒たちでした。ここでも日本語を教えていますので、そこの生徒さんたちが12名も参加してくれました。

まず最初にQさんが、「今回は6人の生徒さんたちが日本から来て頂きました。来年はもっと来て頂きたいと思います。そしてこの親善大使の生徒さんたちが、今まで十年もの長きに亘って、ベトナムの南部でマングローブの植林をされているということを聞きまして、深い感銘を受けました。将来は、ベトナムの生徒たちと一緒にそのような活動が出来ればいいなーと思います。」と挨拶されました。

ここでもまたHくんは模擬刀を持ち込んで来てくれて、ベトナムの生徒たちや協会の人たちの前で、「居合い」の演武を披露してくれたのでした。やはりこの時にもベトナム人のみなさんに大受けでした。Hくんは、どこででも場を盛り上げてくれた、親善大使中のピカ一の役者なのでした。

彼はその小さい体で、ベトナムの人たちがおそらく初めて見るであろう「居合い道」の演武を通して、「国際交流力とはどうあるべきか」の見本を示してくれたような気がしました。他の5人の日本の生徒たちも、彼のその演武を引き立てるように、いろんな芸を披露してくれて、積極的に協力してくれました。

しかし今回ベトナムに来た小学4年生のHくんを見ていて、私はここまでの「国際交流力」を備えた生徒をいまだかつて見たことがありません。彼が日本に帰った後も、まぶたをじーっと閉じていますと、彼の見事な演武の姿が浮かんで来ました。

そして8月26日、今回の「ベトナムマングローブ子ども親善大使」の最後の日に、日本領事館を訪問しました。今年十周年を迎える親善大使が、日本領事館を表敬訪問したのは、今回が初めてのことでした。

世界各国にある「日本大使館」や「日本領事館」は、日々様々な仕事を抱えておられるようで、今回私たち「ベトナムマングローブ子ども親善大使」が希望したような表敬訪問の予定は、先方も朝忙しい時間帯なので、30分くらいの時間だろうかと考えていました。ですから「予定通り」に9時に訪問して、30分くらいでそこを辞去するつもりでした。しかしこの「予定通り」が予定通りではなかったのでした。

今回「ベトナムマングローブ子ども親善大使」の生徒たちを迎えてくれたのは、一ヶ月前に事前のお願いのために私が訪問した時と同じ、日本人のKさんとベトナム人のPさんのお二人です。お二人には、小学生・中学生の生徒たちに対して、本当に真摯に対応して頂きました。私の予想では30分ほどくらいだろうと思っていた表敬訪問を、何と一時間半もの時間を費して熱心に生徒たちへの質問や、答えをされて対応して頂いたのでした。

そして生徒たちも、日本国を代表する建物の中に入り、部屋に通され、そこで働く人たちの姿を真近に見たことで、何かこころに感じてくれたことでしょう。将来そういう分野の仕事に興味を示す子たちが出てくるかもしれません。この「日本領事館」の訪問は、予定を一時間ほどオーバーしてしまいましたが、大変稔りある「日本領事館」の表敬訪問でした。

この後、私たちはクチ・トンネルに出発しました。そしてそこの訪問を終えてホテルに着いた後には、みんなで最後の買い物タイムに出かけました。買い物を終えて6時頃にホテルに帰り着くと、何と交流会に参加してくれていたベトナムの生徒の中の2人の女子生徒が、この日に日本に帰る生徒たちと最後の別れをするために、わざわざホテルに足を運んで来てくれていました。それを見て、日本の生徒たちも大変喜び、また本当にみんなが感激していました。

そしてその2人のベトナムの生徒も招いての夕食を終えて、いよいよホテルを9時半に出発。もうすぐ空港に到着する頃、バスの中で私からこの合宿でみんな一人・一人が元気に、明るく、積極的に頑張ってくれたことへの感謝の挨拶を述べました。

「今回ベトナムに来たみなさんは、異文化体験の意味が時間が経つうちに少しずつ理解出来てきて、そしていつかどこかでこのベトナムでの懐かしい思い出が蘇ることがあるでしょう。そしてみなさんがまたいつかベトナムに来たい時には、いつでも歓迎しますよ。私が待っています。」と話しました。

そして空港に着いて荷物を降ろしましたが、その場所には車が長時間停車出来ないので、私はゲートの少し手前で見送りましたが、Thuongさんはもうここから以上は先に入れない所まで進んで行き、涙を流して目を真っ赤にしていました。だんだん生徒たちとの別れの時間が近付き、彼女は感極まって来たようでした。彼女にとっては、それだけ思い入れが強かったこの一週間だったのでしょう。生徒たちも同じように、悲しい表情をしていました。

実は彼女にはこの少し前、「ベトナムマングローブ子ども親善大使」の帰国を間近にして、今回一週間フルでアテンドしてくれた手当てを払おうとして、「今回は本当に良く頑張ってくれました。こころから感謝致します。これはこの合宿で、あなたがサポートしてくれたお礼です。おかげで女の子二人も含めて、男の子たちも何かベトナムのことで分らない時にはいつもThuongさんに聞くような意欲も出て来ました。」と言って、謝礼金を封筒に包んで渡そうとしました。

するとThuongさんは、「いえ、いえ、私はこのような活動に参加させて頂いたということだけで十分嬉しく思いますし、貴重な経験になりました。もともとボランティアで参加させて頂くつもりだったのですから、それは頂けません。」と言うではありませんか。

Yさんと私は一瞬顔を見合わせて、(何ということを言う人だろうか・・・)とジーンとして来ました。すぐYさんがThuongさんに駆け寄り、彼女の手を強く握って、「これは会社からあなたへのお礼ですから、気持ちよく受け取って下さい。今のあなたの言葉をわが社の人たちが聞かれたら、みんなが涙を流されることでしょう・・。」と話して、ようやく受け取ってもらえました。

実は彼女はカンザーでは、植林の時に胸まで水に浸かった時に、腰のポケットに入れていた携帯電話に水が入ってオシャカになったこともありました。

またこの後10時過ぎには生徒たちを見送った後に、一人でそのまま自分でタクシーに乗って、一時間半ほどもかかるBien Hoa(ビエン ホア)という所の家まで帰って行くのでした。(後で聞きましたら、彼女が家に着いたのは深夜の11時50分だったということでした。)

それで私が「夜も遅いし、心配だから、市内の安いミニホテルに泊まったほうがいいですよ。それはこちらが出しますから。」と言いますと、「有難うございます。でも早く両親の顔を見たいんです。」と、彼女はニコリとして答えるのでした。

今回の「ベトナムマングローブ子ども親善大使」十周年は、こういうThuongさんのようなスタッフや、元気で・明るく・仲の良い生徒さんたちにも恵まれました。最後まで一人もお腹を壊すことなく、風邪も引かず、怪我もなかったこと(蚊に刺されたくらいはありましたが)は、遠い異国に親御さんから大事な子どもさんたちを預かった以上、何よりのことでした。

今回の「ベトナムマングローブ子ども親善大使」十周年の行事の実現に当たって、いろいろな支援と協力を頂きました、日本とベトナムの関係者の方々に厚くお礼を申します。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ Hanhくんの物語 ■

Dong Nai(ドン ナーイ)省Dinh Quan(ディン クアーン)郡Gia Canh(ザー カン)村に住むHanh(ハン)くんは、村の人たちから“ペンギン”と親しみをこめて呼ばれている。実はHanh くんは生まれつき両手がないのだが、いつも明るくニコニコと笑っている。

Hanhくんの家庭は、両親が定職に就いていないので裕福ではなく、今6人の家族は祖母の家に住まわせてもらっている。今の家族の収入はといえば、アヒルの飼育とあまり広くはない畑に植えている野菜を収穫して売る時のお金だけである。

2000年にHanhくんが産まれた時、両親は愕然とした。両手が全く無かったからだ。母のHop(ホップ)さんは、両手のないHanhくんを見た時、「涙が枯れるまで泣きました。」と話した。

お父さんのアヒルの飼育を手伝うHanhくんしかし Hanhくんが「這い這い」をする頃に達した時、彼はちょうど蚕が前に動いて進むように這い回ってみせたのだ。それを見た回りの人たちは、「この子はちゃんと立派に生きていけるよ!」と母の Hopさんを励ましてあげた。彼女も気を取り直して、普通の赤ちゃんたちと同じように、這ったり、座ったり、歩いたりするように育ててゆくことにした。(そして両手がないまま育って来たお昼の皿洗いをするHanhくんHanhくんは今、父の仕事のアヒルの飼育の管理を手伝ったり、皿洗いなどの家事までも実際に立派にこなしているのだ。)

Hanhくんと同じ年齢の、周りの子どもたちが小学校に行く頃になった時のことである。Hanhくんの両親は、(両手がない自分の子どもが学校に行くことは、本人にとっては大変困難なことが多いだろうなあ・・・)と考えて、無理だと諦めていた。

しかしHanhくんは両親にはこっそり黙って、家の近くにある「幼稚園」の前に立って外から、校舎の中で遊んだり、勉強したり、唄を歌っている子どもたちの姿を毎日じーっと見ていた。それに気付いた幼稚園の先生は、Hanhくんの状況を聞いてあまりに可哀そうになり、Hanhくんと一緒に家に帰った。

そしてその先生は、「Hanhくんには勉強への強い意欲がある。小学校へ行かせましょう。」と両親を説得したのだった。両親はその先生の熱意に打たれてもちろん賛成して、さっそく入学の手続きをしたのだが、小学校側が最初、一年生で入学を希望するHanhくんの受け入れを許可しなかった。しかし両親もHanhくんも諦めないで、何回も学校に足を運んでようやく入学を許可された。

黒板に字を書くHanhくんそして最終的には、 HanhくんはDinh Quan郡のKim Dong(キム ドン)小学校への入学を特別に許可された。そして入学を「特別に許可された」Hanhくんは、最初の一年生の時には、【普通の】優秀な生徒たちが美しい字を書いて表彰された時に、彼もまた賞を受けたのだった。

それから4年後、今 Hanhくんは算数の成績が学校の中でも大変優秀で、彼の将来の夢はコンピューター関係の技師になることだという。

◆ 解説 ◆
最初にこの記事を見た時に驚きました。「見た」時というのは、実はこの記事は記事よりも写真のほうが多く、見開き二ページにわたってHanhくんの写真が大きく掲載されていたからでした。写真は大小合わせて十枚もありましたが、記事は少ししかありませんでした。しかもその写真の一枚・一枚に説明がありました。

そしてこの写真の中のHanhくんが明るく笑い、両親の仕事を手伝い、皿を足で洗い、教室で勉強し、黒板に足の指で字を書き、首と足だけで自転車を漕ぎ、兄弟たちと遊んでいたりしている写真を見て、こころの底から本当に感動しました。

両手がない状態で、ここまで頑張っている一人の少年の姿には、それを見た誰しもが頭が下がることでしょう。さらには、手足が不自由な状態から来る日常生活の大変さというのは、それを経験したことの無い人には、実感として理解は出来ないことだろうと思います。

実は私自身が先月初旬、その「足が不自由な状態」を経験しました。後ろから猛スピードで、公安から追いかけられてバイクで走って来た若者が、私のバイクに接触し、私のほうが転倒して、若者はそのまま逃げ去って行きました。公安は強い衝撃を受けて転倒した私のほうを心配して、「大丈夫か?」と近寄って来ました。大丈夫ではなかったのでした。左足のカカトがザックリと切れていました。肩の骨にもヒビが入っていました。それからすぐ病院に行って足のケガを縫いましたが、それから二週間ほどの寝たきり生活が始まりました。

しかしそのまま逃げ去ったあの若者には腹が立ちましたが、心配してすぐバイクを起こしてくれて、両手で抱えてくれた公安や、「病院まで一緒に付いて行ってあげるよ。」と、見知らぬ他人である私に親身になって世話を焼いてくれた、現場近くの店の人たちの親切さに救われました。若者への怒りは消えて、その人たちの優しさだけが今は余韻として残っています。

その寝たきり生活が始まって、ちょうど一週間目にこのHanhくんの記事を目にしました。産まれた時から両手がない生活がどんなに困難かは、Hanhくんだけしか分らない大変さでしょう。今回私は片足が不自由なだけでも、どれほど毎日の生活が大変かが良く分かりました。

まず階段を自由に上り下り出来ない。トイレに行くのに難儀する。足が水に濡れるのをかばうので、シャワーも満足に使えない。ズボンを履いたり、脱いだりするのも一苦労。靴は履けないのでサンダルですが、足が腫れているのでそれも入らない。外を歩く時には、よちよちしか歩けない。とにかく健康な時からは、想像できない不便さを体験しました。しかし立って移動する時には松葉杖を使用しましたので、松葉杖の使い方だけは上手くなりました。

私が足の怪我で寝たきりの状態が続いていた時に、このHanhくんの記事を何度も見返しました。彼の明るい笑顔の写真をじーっと見ていました。そして大変励まされました。私は一ヶ月ほど過ぎて何とか足の傷も回復し、だいぶん歩けるようにはなりました。もうすぐしたら、私はまた元の五体満足な体に戻るでしょう。しかしHanhくんは、これからも両手はないままなのです。

ベトナムの名前でHanhくんの「Hanh」は、日本語では「幸せ」という意味です。あのベトちゃん・ドクちゃんのドクちゃんも、あのような不自由な体で、今「幸せ」をつかんでいますが、このGia Canh村に住むHanhくんにも、すばらしい「幸せ」をつかんで欲しいと思います。そして私はこのHanhくんの記事を捨てることは出来ません。今後も大切にしまっておくことでしょう。



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