アオザイ通信
【2011年1月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<ベトナム中部【フエ・ダ ナン・ホイ アン】を旅して>

新年早々、私が日本語を教えている会社で「社員旅行」があり、私も招待されましたので行って来ました。実はこの「社員旅行」は毎年行われていたのですが、今までは「ブン タウ」ニャー チャーン」などの、いわゆるビーチだけの『観光地』が多かったのでした。

そういう場所はサイゴンから近いということもあるし、すでに数回は出かけていたので(またあそこか・・・)と思い、誘われても参加しませんでした。このような『観光地』では、「ビーチで遊んで海産物を食べる」というのが大体のパターンですので、それを想像すると(サイゴンで夜にビールでも飲んで、ふだん読めない本でも読んでゆっくりしたほうがいいな。)と思い、断っていました。

しかし今回の訪問地は、『フエ』『ダ ナン』『ホイ アン』というコースだと聞き、迷わずに「参加します!」と手を挙げました。全ての宿泊費や食事代も会社持ちといいますから、手出しするのはお土産代くらいです。そして事実その通りでした。そして特に『フエ』『ホイ アン』が今回のコースに入っていたので、大変強い関心を抱きました。

実は13年前、私がベトナムに来てから一ヶ月後くらいに、一人でサイゴンから北部まで、列車を乗り継ぎ、バスに乗り換えて、北部ハノイまでを目指して行きました。ハノイ到着後は、『サパ』『バック ハー』まで足を伸ばしてまたハノイに戻り、最後は飛行機でサイゴンに戻りました。

その旅の間、毎日夜寝る前にその日の記録・感想を右手が痛くなるくらいまで日記ふうに書いていました。それを今読み返してみますと、中部では『フエ』『ホイ アン』、北部では『サパ』や『バック ハー』に強い印象を受けた感想が書いてあり、今も私の記憶の中ではそれらの美しい風景が蘇ってきます。そして『フエ』『ホイ アン』にはその後三回ほど行きましたが、今もそのイメージは変わりません。それだけに、(またあの街を訪ねたいなー!)と、こころ待ちにしていました。

『旅の楽しさ』とは、知らない場所で、知らない文物や人に出会うという【未知の楽しさ】と、かつて訪れた、お気に入りの場所に再度足を運び、かつての風景の変化や知人との【再発見、再会の楽しさ】の二つがあるのでしょうが、私にとって今回の中部の旅は後者のほうでした。

● 雨の古都フエ ●

旅の初日、サイゴンからフエ行きの飛行機に乗るために、朝4時に事務所を出ました。当然まだ外は暗く、バイクの数もまばらでした。この日はタクシーではなく、バイク・タクシーで空港まで行きました。空港に着いてみると、集合時間の四時半は過ぎているのに、誰一人も来ていません。そして5時少し前くらいにバスに乗って全員が到着。この日は社員の家族も入れて、総勢50人の参加者でした。

フーバイ空港そして7時に飛行機が離陸し、8時過ぎにフエの<Phu Bai( フーバイ)空港>に到着。空港を出たところに、赤い文字の日本語で大きく「ようこそ!フエへ」と書いてありました。空港を出たところには、サイゴンと同じようにタクシーの運転手たちが待機していましたが、ここの運転手は白い線の内側には入らないように規制されていて、サイゴンとは違い、うるさい声で客引きをするようなこともありませんでした。

しかしこの<Phu Bai空港>は全く田舎にある空港という感じで、空港の敷地を出たすぐのところには農家があり、広い田園地帯がありました。今から田植えの準備をしているような田園風景が続いていました。そしてこの日の天気は小雨でしたが、それはまた今回の『雨の中部の旅』の始まりでもありました。

そして暑いサイゴンから、中部の冷たい風が吹くフエに身を置くことになりました。私が初めてフエを訪ねた時は六月でした。あの時はうだるような蒸し暑さでしたが、この一月のフエは昼は涼しく、夜は寒いくらいでした。昼間の気温は18度くらいでした。

ブンボーフエバスに乗って20分ほどでフエ市内に入り、朝食を摂ることになりましたが、朝食はフエ名物の「Bun Bo Hue(ブンボーフエ )」でした。私はサイゴンではこの料理を食べることはめったになく(ただ単に、近所で売っていないからというだけの理由で)、この日フエでひさしぶりに食べました。この料理は誰もが「辛い!」といいますが、しかしここで食べたものは、さすがに本場だけあって実に美味しいものでした。

朝食を終えてバスに乗り、フエ市内を静かに流れるHuong(フーン)河を渡り、雨で濡れたバスのガラス越しに見えるフエの城壁を右手に眺めていますと、(何という静かな、美しい光景だろうか・・・)と、あらためて思いました。

城壁に平行して走る道路や、城門に至る道の並木には、赤い花が咲く「火炎樹」が植えられています。大きく成長した「火炎樹」が、雨と風に揺られて、古都・フエが美しい絵画のように、私の目に映りました。

そして、ここから250kmほど離れた観光地に今から向かいます。向かう場所は、「Quang Binh(クアンビン)省」にあるDong Phong Nha(ドン フォン ニャー)です。【Dong】が【洞窟】ですので、「Phong Nha洞窟」です。ここには、2003年に『世界自然遺産』に指定された鍾乳洞があります。誰が調べたのか、「2億5千万年前に出来た。」とはガイドさんの話です。

Phong Nha洞窟に向う風景は、広い田園地帯が切れるとなだらかな丘陵地帯に変わります。そしてバスの中で私の後ろの席には、たまたま社長夫婦とその子どもたちが座りましたが、車中で感心したことがあります。それは社長が我が子に算数や英語を熱心に教えたり、質問したりしていたことです。こういう観光旅行に行くバスの中の大部分の時間を割いて、我が子に勉強を教えているその熱意はすごいなーと思いました。

社長の趣味は、バイクのVESPAの収集ということで、我が子(男の子)にもその名前をあだ名で付けていて、子どもの名前を呼ぶときにはいつも、「ベスパ!ベスパ!」と呼んでいるのがおかしかったです。

そして今回の旅行中、その社長からはいろんなことを教わりました。ベトナム戦争史上有名な、Vo Nguyen Giap(ボー グエン ザップ)将軍の生まれ故郷がこのQuang Binh省であること。「クチ トンネル」を掘ったトンネル堀りの専門家たちは、この省の隣にあるQuang Tri(クアン チー)省 から数多く出たこと。

今バスが走っているのは、「旧ホーチミンルート」と呼ばれるものですが、この道の沿道には、立派なお墓が立っています。その社長は、「この辺りの人たちは自分たちが住む家よりも、先祖のお墓にお金を掛けるのです。隣のお墓が豪華なものを建てたら、次はそれよりもさらに豪華なお墓を競うように建てます。」と説明してくれました。

フエから一時間半ほど行くと、バスがある場所で止まりました。社長が私に、「今からベトナムの靖国神社にお参りに行きます。」と言うのでした。「はあ〜・・・?」と私がその意味を理解しかねていると、「ベトナム戦争中に亡くなった戦士の墓で、ここが大変有名なのです。」と続けて話してくれました。いわゆるベトナムの郊外によくある「烈士の墓」のことなのでした。

烈士の墓の記念碑ここの「烈士の墓」はベトナム全土の中でも有名らしく、名前は『Nghia Trang Liet Si Truong Son(ギア チャーン リェツ シー チューン ソン)』と言いました。ここら辺り一帯の山の名前が、Truong Son(長山)というそうで、日本語に訳せば『チューン ソン烈士の墓』となります。小雨が降っていましたが、全員バスから降りてそこに向かいました。

ここは何と広さが1400haもあり、ベトナム戦争で亡くなった、一万人の北部の兵士たちを祀ってあるということです。大きな石碑も建ててありましたが、見物客は私たち以外は誰もおらず、墓域内の通路を水牛がのっし・のっしと歩いていました。小雨が降ってはいましたが、全員が線香を上げました。そしてそこを出て、いよいよPhong Nha洞窟に向かいました。

そしてバスが出発するとしばらくして、女性の先生が「Truong Son」の歌を歌いました。この歌のテンポは軍歌調なので、おそらくは軍隊の行進曲で使われたものでしょう。後日研修生たちにも聞きますと、20代の彼らのほとんどがこの曲を知っていました。それを皮切りに、みんなが満員のバスの中で歌合戦のように歌い始めました。私のほうにもマイクが回って来たので、日本の曲を一曲歌いました。

しかしここら辺りの風景は、山あり、丘あり、田んぼがあり、山にはまばらに木が茂り、シロカキを終えたばかりのような田んぼには水が湛えてあり、そこを水牛がのんびりと歩き、土手の草を食んでいました。小さい湖もあり、その中には白鷺が舞い降りていました。日本の田園風景を思い起こさせるような、こころ休まる風景がありました。

この辺りの山に木がまばらに生えているのは、それなりの理由がありました。ベトナム戦争中は旧ホーチミンルート沿いの山々にも、米軍は枯葉剤を撒いて山の木を枯らしてしまったということでした。今は細い幹のゴムの木が植えてありました。ベトナム全土では、大変な量の枯葉剤が撒かれたのだということが想像出来ます。

そしてPhong Nha洞窟のある省都Dong Hoi(ドン ホイ)に二時頃着き、遅い昼食を摂りました。その後バスで河まで移動し、河岸で12人乗りボートに乗り換えてPhong Nha洞窟に向かいました。この頃は涼しさを通り越して、寒くなって来ました。河の名前はSon(ソン)河。河幅は狭くもなく、広くもなく、水も濁っていなくて、ゆったりと流れていました。しかし、天井と側面にはビニールシートで覆いがしてあるものの、前方からも横からも雨が入り込んで来ます。

船頭は女性で、20年この仕事をしていて、普段は農業をし、ヒマな時にここの観光案内をしていました。年齢はたまたま私と同じでした。観光客が一番多い時期は夏だと話していました。そして、30分ほどボートに乗ってPhong Nha洞窟に到着。洞窟の入口には絵葉書の物売りの少女がいて、「買え。買え。」としつこく付きまといます。

この洞窟には、ベトナム戦争当時に野戦病院と武器弾薬が収容されて、前線への補給基地の役目を果たしていましたので、アメリカ軍の空爆を受けたということです。そしていよいよ、洞窟内に入りました。いや〜、驚きました。中の広さと天井の高さは想像以上でした。それに鍾乳石の大きさと美しさも。

鍾乳洞洞内は鍾乳石の部分だけの照明は明るかったのですが、その周囲の照明が弱く、写真を撮っても後で見ると暗い写真が多かったのですが、肉眼で見るぶんには大変すばらしい光景が続きました。ただ足元が砂が多くて歩き難かったですが、あまりまだ人手をかけていないようなレベルでした。

鍾乳洞はあまりコンクリートで整備すると、どこまでが自然の造形なのかが分らなくなるので、敢えてそのままにしているのでしょう。このような洞窟がこの近くにはまだいくつもあり、まだ洞窟内が整備されていないので、今は見る場所が限られているとのことでした。

洞窟内には女性写真家が三人いて、観光客相手に写真を撮っていました。そういえば最近私自身はデジカメで撮るだけで、プリントしないので、この時三枚ほど撮ってもらいました。撮った写真は船がボートに着いて五分後くらいにはすぐ現像し、写真が仕上がるような早業でした。そして帰りのボートは、河の流れと同じに進んだので、わずか十五分で到着。

記念碑ここを出て一路フエに向かいますが、途中ベトナム戦争当時のDMZ(非武装地帯)を訪問。1975年のジュネーヴ協定で南北に分断された北緯17度線があった場所に、今建てられている記念碑を見学し、フエには7時ころ到着。夕食後は街をみんなで散歩しようと出かけようにも、回りには何もなく、ベトナム人男性群はトランプ博打三昧に興じていました。私は興味がないので近くでビールを飲んで早々と寝てしまいましたが、このトランプ博打は早くて十二時、遅いときは深夜二時まで毎日やっていて、最終日まで続いていったのでした。この日はフエの三つ星ホテルに宿泊。

翌日朝起きてカーテンを開けて見ると、目の前には広い堀がありました。ここら辺りは、かつてフエのお城の区域内だったのでしょう。堀の中には蓮の花が咲いていて、絵葉書のような美しい光景がそこにありました。

しかしその堀の先のほうを見やると、堀の中には無数のビニール袋のゴミが浮かんでいます。同室のベトナム人の同僚に、「何でベトナム人はああして平気でゴミを捨てるんでしょうかね?そしてまたすぐにどうしてゴミを片付けないんでしょうか。その無神経さが分らない。」と聞きますと、彼はしばらく考えてこう話してくれました。

「ベトナムにはこういう諺があります。<Cha chung khong ai khoc.(共通の父が死んでも誰も泣かない。)>つまり、自分の父が亡くなったら泣くが、そうでない、関係ない場合は泣かない。ゴミも同じで、自分の家の中だけはキレイにするが、一歩外に出れば、そこは我が家ではなく共有の場所だし、自分には関係がないので、キレイにしようとは思わない。」と。

サイゴン市内を一歩出て郊外に行くと、道路の沿線には同じように無数のゴミ袋が投げ捨てられています。サイゴン市内は毎日ゴミ回収車と清掃員が掃除して行きますので、その日のゴミはその日のうちに片付けられて行きます。しかし郊外はそうではないので、ゴミはそのまま捨てられた状態です。彼の話を聞いた時、その光景を思い出してしまいました。

フエ城今日は午前にフエ観光のメインである、世界遺産の「フエ城」見学。1802年に阮(グエン)朝の都がここに置かれました。フエのお城はベトナム戦争当時に激戦地となった場所であり、多くの建物が破壊されてしまいましたが、その後2003年から修復されています。

それで歳月に洗われた古い建物と、まだニスの光沢が輝いている新しい建物が混在しています。その両方が同じ色合いに馴染むまでには、もう少し時間がかかることでしょう。この時の天気は少し晴れて来て、暑くなく、寒くもなく、ちょうどいい気候でした。そして城内には物売りは誰一人もいません。入場を禁止されているのでしょう。

この城の後、ガイドさんが言う「ベトナムで一番古い寺」に向いました。その途中に土産物屋さんに立ち寄りましたが、みんながお土産を買うことおびただしい数でした。(まだ旅の二日目なのにそんなに買ってどうするの・・・?)と、私は思いましたが。

ベトナムで一番古い寺「ベトナムで一番古い寺」とは、Thien Mu(ティエン ムー)寺のことでした。このお寺もHuong河に面しています。ガイドさんの話では1601年に創建されたということで、境内には高さ20mほどの八角形をした、七層の仏塔がありました。

ここには、有名な自動車が車庫の中に展示されていました。1963年6月に、アメリカ大使館の前で自ら炎に焼かれて焼身自殺した、Thich Quang Duc(ティッキ クアーン ドック)師が、フエの寺からサイゴンまで行った時に乗った車です。

当時の大統領・Ngo Dinh Diem(ゴー ディン ズィエム)は、熱心なカトリック教徒で、カトリック信者の多いサイゴンでは、カトリック信者を優遇した結果、仏教徒の反発を買い反政府運動にまで広がりました。それでDiem大統領は仏教徒を弾圧し、それに対しての抗議のためにガソリンを体にかけて、焼身自殺をしたのがDuc師でした。その時乗っていた車をまたフエまで持ち運び、このお寺に納めてあるのでした。

ここを見学しての帰り道、階段を降りながらベトナム人の同僚と日本語で話していますと、後ろから「日本の方ですか。」と私に声を掛けた、若いベトナム人男性がいました。「そうですよ。」と返事しますと、「私はハノイから来ました。今ハノイの外国語センターで日本語を二年間勉強しています。」と言いました。

私が「そうですか!ところでそこには何人の日本人の先生がいますか。」と質問しますと、「20人います。」と答えましたので大変驚きました。サイゴン市内の日本語学校でも、一つの学校で20人の日本人の先生がいるところは少ないだろうと思います。今私が教えているところは、私と後一人の日本人だけです。

「それでその学校には、日本語を習っている生徒たちは何人くらいいますか。」と質問しますと、彼は「一千人くらいはいると思います。」と言いましたので、これまた驚きました。ハノイ市内で、それだけの日本語を学んでいる生徒数を擁する学校があるというのは初耳でした。旅に出ると、こういうふうに見知らぬ場所で、【意外な出会い】があるというのが楽しいものです。そしてこの【意外な出会い】はまたまた後日もありました。

この日は夕食後に船に乗り、ベトナムの女性歌手たちが歌う「フエの民謡」を聴きに行くことになりました。川沿いには観光客を乗せるための船がズラリと繋がれていました。船内は80人ほどは収容出来る広さがありました。

約一時間ほど、アオザイに身を包んだ五人の女性歌手たちが交互に「フエの民謡」を披露してくれました。歌の意味は分らなくても、その艶やかな歌声は聴いていて大変心地よいものでした。この船は「サイゴン河クルーズ」のように船が河を周遊するのではなく、岸にずっと繋がれていて、ゆらゆらと川波に揺れる船上で、私たちは五人の女性歌手たちの歌を聴いていました。

 

● 二つの帝廟を訪ねる ●

Tu Duc廟朝からまた雨が降り始めました。今日はフエ郊外の、有名な二つの帝廟を見学に行きます。Tu Duc(トゥー ドック)帝廟と、Khai Dinh(カーイ ディン)帝廟です。この二つの帝廟とも阮朝時代の皇帝の陵墓なのですが、廟内に静かな池があるTu Duc帝廟と、、豪壮な建築様式のKhai Dinh帝廟は対照的です。私自身は、落ち着いた雰囲気のあるTu Duc帝廟のほうが好きです。しかし今日も小雨が降り続いています。

最初にTu Duc帝廟を見学。小雨の中を歩いて行くと、右手に広い池が見えてきました。その池の中の中心部に東屋ふうの、瓦葺の建物があります。遠くから見ると大変キレイです。そして左手にに石の階段があり、それを昇ると広い場所に出ました。そこにここの陵墓全体の中心となる、大きな建物がありました。

その建物の中に、歴代の皇帝の説明がありました。館内は写真撮影は禁止です。しかしここは以前と全然変わっていませんでした。木で出来た柱の根元は虫が入っているらしく、木片がはがれ、小さい穴が開いていました。また別の場所に行くと、ベトナムで一番大きい石碑がありました。250トンあるということでした。

そしてここの見学を終えて、社長や数人の同僚たちと門の下でしばらく雨宿りをしていると、後ろのほうから私の名前を呼ぶ声が聞こえて来るではありませんか。(こんなところで誰が私の名前を・・・?)と怪訝に思い、その声のするほうを振り返りました。

そこには子どもを抱いた家族が立っていました。声の主は奥さんのほうでした。横には旦那さんらしき人もいました。見た瞬間に分りました。かつて、この同じ会社で日本語を教えていた女性のG先生なのでした。しかし子どもさんが出来てからは会社を辞められて、それ以来サイゴンで会うことは有りませんでした。社長や同僚の数人も顔は知っています。しかしお互いに、そのあまりの奇遇さに驚きました。

「こんなところで皆さんたちに会えるとは、信じられません!」と、G先生は子どもを抱きながら、私たち一人・一人と握手を交わしました。私も偶然といえば、あまりの偶然に信じられない思いがしました。G先生たちは家族で今回フエに観光に来たということでしたが、お互いに一日違えば、いや30分も違えばすれ違いになって会うことはなかったでしょう。出会いとは不思議なものです。

Khai Dinh帝廟そしてTu Duc帝廟を出て、次はKhai Dinh帝廟に向かいました。この帝廟の豪壮さは陵墓の中でも随一です。小高い山を整地して、高台の上に建てられています。中の造りも豪華絢爛としています。全身を金箔で包んだ等身大のKhai Dinh帝像がありました。この帝廟は完成するまでに十二年間近くを要したといいます。

ここの見どころは、天井の竜の絵と、壁一面に貼り付けられた芸術的な絵画です。その壁の装飾材料には、様々な色の陶磁器やガラスを使用してあり、近くで見るとただの茶碗のカケラやガラス片ですが、少し離れて見ると見事な装飾模様の絵画になっています。

茶色のガラス片を貼り合わせて一本の木を描き、赤や黄色や青色の陶磁器のカケラを貼り合わせて、花や鳥や空を表したりしてあります。フエのお城の一部の場所にも、そういう手法で壁に描かれたものがありましたが、スケールの大きさと緻密さは、このKhai Dinh帝廟のほうが群を抜いています。

● リゾート開発が著しいダ ナン ●

Khai Dinh帝廟の見学を終えて、バスで一路フエからDa Nang(ダ ナン)市へ。フエからダ ナンまでは、約60kmあります。途中Hai Van(ハイ バン)峠を貫いて完成したハイ バン・トンネルを通過。このトンネルは、日本の支援で2005年に完成しましたが、約6kmの長さがあります。バイクの通行は禁止ですが、かつて狭い道路を走っていた時と比べて、これで車は峠越えの苦労と危険がなくなりました。

以前私がバスでハイ バン峠を越えた時には、峠の頂上に休憩所や茶屋があり、そこで観光客が一服したり、軽食を摂り、お茶を飲んだりしていましたが、今はあの峠の茶屋がどうなっているのか分りません。あの時は、そこでガムを一個買いました。そしてバスの中でそのガムの封を切って開けると、本来五枚入りなのに四枚しか入っていませんでした。器用に底を開けて一枚抜いて、また封をし直したガムを観光客に売っていたのでした。笑ってしまいました。

ダナン市内の橋夕方ダ ナン市に到着。しかしこの頃からまた雨が強く降って来ました。夕食後ホテルに戻りましたが、このホテルはフエの時と同じように市内の繁華街から離れた位置にあるので、市内観光に歩いて行こうにも行けません。またこの雨では外に出るのも億劫になり、みんなホテルでおとなしく寝るしかありません。しかし男性群はこの日もトランプ博打に夢中で、翌日聞いたら何と深夜二時までやっていたとのことでした。

翌日はHoi An(ホイ アン)見学。ホイ アンはダ ナン市から約27kmの距離にあります。

ホイ アンに向う途中に、海岸沿いの道路を走りましたが、目を見張るような豪華なホテルや別荘などのリゾート施設が完成、また建設されていました。そしてこの日、以前から噂には聞いていた、FURAMA RESORT(フラマ リゾート)を初めて見ました。ここにはベトナムで一番大きいカジノがあります。

ベトナム戦争当時に南部のCai Be(カイ ベー)でバナナを植えていたあのYさんが、ベトナムを再訪するきっかけとなったのが、実はこの フラマ リゾートでの仕事なのでした。Yさんは知人から頼まれて一時ここで働かれていました。それで私もバスの中からじーっと見ていました。

しかしここは今リゾート施設の建設ラッシュの様相を呈していて、大型のリゾート施設やビラ風の瀟洒な建物が、ダ ナンの海岸沿いに数多く造られていました。ダ ナンにいる私の知人の話では、「ハイ バン・トンネルが完成して大型投資が増えて来た。」ということですが、このような施設もその効果の表れなのでしょうか。

みやげ物やホイ アンに行く途中で、石を加工したお土産屋さんに立ち寄りました。この近くの山から切り出した石で様々な彫刻品の土産物が置いてありました。店の入り口では、石をノミやドリルで実際に彫っていました。お土産品で売っている物は、仏像や花瓶や茶器やテーブル・椅子。ライオンやミロのビーナスの彫刻品までありました。しかしこういう重い土産でも、ベトナム人の皆さんたちは買っていましたが、重いのは航空便で送ってくれるとのことでした。

私もお土産に、小さい石の仏像と、ネックレスを買いました。石の仏像は、最初の言い値が20万ドン(約800円)、ネックレスも言い値は25万ドン(約千円)。そこから交渉して、仏像が10万ドン(約400円)、ネックレスは12万ドン(約480円)まで負けてくれました。こういう土産物屋では、どこでも大体二倍の値段を吹っかけて来ると思えばいいのでしょう。

しかし日本人には面倒くさい、このような値段交渉でも、ベトナムの人たちはゲームのような感覚でやり取りしています。買い手が言う値段まで下げないと、一旦は物を置いて「それなら買わない。」と言ってそこを離れます。そしてわざとゆっくり・ゆっくり歩いて行くと、店の店員が背中から声をかけたり、追い掛けて来て、「分かった。あの値段でいいよ。」と、漫才のようなことをやっています。

「結局負けるんだったら、最初からその値段にしろ!」と、そういう値段交渉に慣れない日本人は思いますが、ベトナムの人たちはケンカにもならず、そんなやり取りを市場でも、どこででもやっています。まあ確かに慣れて来ると、短時間のうちにそういうやり取りが出来るようにはなって来ます。

● 小雨にけむるホイ アン ●

日本橋そしていよいよホイ アンに到着しました。やはりまた今日も小雨でした。しかしホイ アン市内にはバスや車は入れないので、少し離れた所にバスを停めて、そこから全員歩いて行きます。細い道路の両側には、古い建物を利用して様々な商店が商売をしています。店の屋根にはツル草などが覆い、歴史を感じさせる、何とも言えない風情があります。小雨にけむるホイ アンもまたいいものです。「日本橋」もそのままの姿でありました。

以前旅の道中で出会った白人の人たちに「今まで行ったベトナムの観光地の中で、どこが一番良かったですか。」と聞くと、「ホイ アンです。」と多くの人たちが言います。街自体が、静かさの中に歴史を感じさせるものがあるからのようです。ここは1999年に、世界遺産に登録されました。

Hoi An街中の商店江戸時代の朱印船貿易が盛んだった頃、日本人がここまでもやって来て日本人街が作られました。そして鎖国令で日本に帰れなくなった日本人たちがここに住み着き、現地の人たちと同化してゆきました。ホイ アン郊外には日本人の墓もあります。日本人の血を引いている人たちが、そのことは知らずにホイ アン市内にも住んでいるのでしょう。

しかし「日本橋」を背にして、トゥー ボン川の対岸にある新しい町並みを見て感慨深いものがありました。最初に来た時には、その場所には家も少なく、こんもりした林があり、細い道を自転車が走っていました。今は大型バスが乗り入れる広い道路があり、きれいな家が数多く建っていました。古いホイ アン市内の町並みは昔のままでしたが、かつての対岸は大いに変化していました。

カオ ラウそして昼食は、回りが田園風景が広がるホテルの中のレストランに連れて行かれました。最初のメニューに、ホイ アン名物のあのCao Lau(カオ ラウ)が出てきました。そしてこれを見た時、あのアクトマン【マングローブ植林行動計画】の浅野さんを思い出しました。

浅野さんの大好物が、このホイ アンのカオ ラウなのです。ホイ アンに来たら、一回で軽く二杯は食べるといいます。フォーと違い、スープが全然入っていませんから、食べ易いのは事実です。浅野さんがこのカオ ラウの話をする時は、目元と口元がとろ〜んとしたような表情になります。そしてここのカオ ラウは確かに美味しいものでした。麺は日本のソバのような味でした。

そしてまた雨の中をダ ナン市まで帰ってゆきました。この日の夕食で食べたハマグリは中の身が大変大きく、美味しいものでした。カンザーにも以前は大きなハマグリがありましたが、今は小さいハマグリしか食べることが出来ません。そして夜は、また強い雨が降りました。

● 中部の旅の終わりに ●

四泊五日の旅が終わり、サイゴンに戻る日が来ました。帰路はダ ナン空港から飛行機を利用しますが、ダ ナン空港は市内からバスで十五分くらいしか掛かりません。そして出発時間は6時半なので時間は十分にあります。

午前中はビーチで海水浴をして、午後は市場に買い物の行動予定をガイドの人が提示してそれにみんなが同意。早速午前中はビーチへ。しかしこの日の海は、昨日の雨の影響で濁っていました。少し青空が見えましたが、波も高く、風が冷たいので、大人たちは誰も服を脱いで喜んで泳ごうとはしません。しかし子どもたちだけは、元気一杯にはしゃいで喜んでいました。

午後は飛行場に行く前の時間までは、市場での買い物タイム。ここの市場でも、ベトナム人の同僚たちは箱詰めにするほどの、多くの土産を買い込んでいました。ダ ナンの特産品だという漬物や、ヌック マムに似た調味料を五本・六本と買っていました。

おかしかったのは、空港で手荷物検査も済み、皆んなが搭乗口ゲート前に座って、飛行機の出発を待っていた時「ピン・ポン・パン」と空港内に放送が響き渡り、「○○○さん、手荷物検査の所にお戻り下さい。飛行機に持ち込めない物が入っております。」という放送が流れたことでした。結局ヌック マムに似た調味料は、すべて没収されてしまいました。そして7時半に飛行機はサイゴンに無事着きました。サイゴンはこの時27度でした。

今回中部の旅に参加して、(同じベトナムの中でも、サイゴンと何と違うことだろうか・・・)と感じたことがありました。まずフエといい、ダ ナンといい、ホイ アンといい、街が大変静かであり、落ち着いていました。そしてその静かさの中に、フエやホイ アンの美しさがあるような印象を持ちました。

その理由としては、車やバイクの数が、サイゴンとは比較にならないくらい少ないことがあります。車やバイクが少ないので、サイゴンのようにクラクションを絶えず鳴らし続けるということもないし、交通渋滞がない。従って街中にバイクの騒音が飛び交っていることがない。道路を渡る時も、サイゴンのようにバイクの洪水の中をすり抜けるようにして渡る危険性が少ないのでした。 

今回ずっとアテンドしてくれたガイドさんが言いました。「ダ ナンは、道路を広く造っているので交通渋滞がないんですよ。」と。確かに、夕方の五時や六時の時間帯でも、フエやダ ナンでは交通渋滞はほとんど見ませんでした。あの旧ホーチミンルートを走っている時にも、車やバイクの対向車をほとんど見ませんでした。

「フエの人口は60万人、ダ ナンの人口は百万人です。」とそのガイドさんが言いましたが、するとサイゴンにはフエの約十倍以上、ダ ナンの人口の六倍以上の人たちが住んでいるわけです。確かにこれほどの人口の差があれば、街が静かなのは(それも当然かな?)という感じもします。サイゴンのバイクの洪水、交通渋滞のひどさ、街の喧騒のほうが異常なのでしょう。

次に気候です。サイゴンとは十度以上違うフエやダ ナンやホイ アンに行き、(何とサイゴンは住みやすいことだろうか!)と、今回改めて思いました。またガイドさんの話によりますと、「ダ ナンには雨季と乾季の二つがあり、雨季は旧暦で十・十一・十二月が雨季なんです。」ということですが、我々は雨季の時期のダ ナンを訪問したわけです。

しかも同じ「雨季」と言っても、サイゴンの「雨季」は夕方ころにザーッと強い雨が降っても、三十分から一時間もすると雨は上がりますが、フエやダ ナンの「雨季」の雨は違いました。日本と同じように、朝から晩まで降り続いていました。

この四泊五日の間、フエもダ ナンもホイ アンも一日として晴れた日がなく、空は冬の日本海側のような鉛色をしていました。毎日雨が降り続くので、当初の予定に入っていた、ダ ナンの近くにある「五行山」への見学は中止になりました。

そしてサイゴンにいる時には、私はこの十数年風邪はほとんど引かなかったのに、ダ ナンでの夕方に雨の中を傘も差さないで歩いたので(そもそも傘を持参しなかったからですが)、とうとうサイゴンに帰る最終日には風邪を引き、サイゴンに着いて熱が出て寝込んでしまいました。

(旅をするなら乾季のフエ、ホイ アン。住むのはサイゴンがいいな〜。)と、あらためて思いました。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ カンザーのマングローブの森を守るために ■

“カンザーのマングローブの森は、ホーチミン市民の財産である。”

UNESCOベトナムの総書記長・Pham Sanh Chau(ファム サン チャウ)氏は、ホーチミン市で行われた、UNESCOのワーク・ショップで「十年後のカンザーの活動目標」を発表した時に、こう述べた。

この会議の開幕直後の発表では、ホーチミン市の人民委員会副主席・Nguyen Trung Tin(グエン チュン ティン)氏が、「カンザーのマングローブ森の生育には、他の地域と比べて特別な条件が必要である。カンザーの生態系は、「雨季」と「乾季」の厳しい条件がある。「雨季」と「乾季」のバランスがうまく取れてこそ、動植物が豊かに育つ。」と述べた。

1975年のベトナム戦争終結以前に、カンザーのマングローブ森は枯葉剤によってほぼ完全に消滅した。戦争が終わってから、ホーチミン市の人民委員会の人たちはカンザーの森を復活させることを決心した。

枯葉剤の影響で、森の木がほとんど枯れた中で、かろうじて死滅を免れた木を植え直したりした。そして1978年から、ホーチミン市の指導の下でマングローブの森を再生させる努力を継続して続けた結果、戦争が終わった時に枯れ果てていた白い土地が緑の森に復活し、今や人の手によって植えた面積は、1998年までの20年間で三万ヘクタールにも達したのである。

◎ 一番キレイに回復させた ◎

ベトナムにおける、「人と環境プログラム」作成の専門家である、Nguyen Hoang Tri(グエン ホアン チー)博士は、こう語った。

「以前アメリカのCornell(コーネル)大学Snedaker博士は<人間と自然に対しての枯葉剤の影響の結果>という論文の中でこう書いた。“ベトナムで、カンザーの森が完全に回復するのに半世紀はかかるだろう。”と。でも、ホーチミン市の支援と人々の協力のおかげで、わずか十年以下の短期間で見事なほどの回復を成し遂げて、今やカンザーの森は【ホーチミンの人たちの肺】になった。」

「今カンザーのマングローブ森について、外国の専門家たちは、“東南アジアで一番見事に、キレイに回復させた。”と評価した。」

「カンザーの森を回復させるために、最初はベトナム戦争がまだ続いていた1970年から始め、1980年まで町の人々と森林保全局員と青年団員や、さらには小中学生たちまでが参加した。外国からもカンザーでマングローブを一本・一本植えるためにはるばるとやって来てくれた。それらの活動の結果、カンザーの緑の森が見事に復活した。カンザーの緑の森が復活したことで、いろんな種類の生物が増えてきたのである。」

「今カンザーの森の総面積は、自然に活着した森も含めると7万8000ヘクタールの広さに達し、人々がその森に入ると美味しい空気を味わうことが出来るようになった。」とTri博士は語った。

◎ 緑の肺を守る ◎

「カンザーの森をこれからもいつも緑の森のまま守るのは、実に難しい問題である。」と、

Nguyen Hoang Tri博士が言った。

「これから大切なことは、ホーチミン市はお金を出すだけではなくて、【森を守るための研究グループ】を立ち上げて、スタディツアーなどを行ってほしいと思う。」

「そのためにはどうすればいいかというと、

1.地球温暖化

2.降雨量の減少

3.塩害から森を守る

4.高潮の影響

5.害虫の発生

6.針葉樹の影響(これが増えると、マングローブ森が枯れる)

以上の問題がマングローブ森に与える影響を調査研究し、マングローブの森が順調に生育発展するために積極的に活動して欲しいのです。」と、Tri博士は言った。

◎ もっと広く宣伝を! ◎

Pham Sanh Chau氏は、「さらなるカンザーのマングローブ森の保全と発展のために、“カンザーのマングローブ森はベトナムだけではなくて、世界的にも大変価値あるものだ。”と宣伝して下さい。」と話した。

「外国の指導者たちや経済団体がホーチミン市に来て、クチトンネルを見物して終わりではなく、さらにカンザーのマングローブ森まで案内して行って欲しいと思う。どうしてかと言うと、ここはUNESCOからも評価された森であるし、ベトナム戦争当時もこの地域一帯には強い軍隊の【ゲリラの基地】があった場所として有名だったのだから。

◎ 間伐の必要性 ◎

Pham The Dung(ファム テー ユン)博士の研究グループの発表によると、マングローブ樹の27年から32年までの木は害虫に侵されている率が高く、約28.7%にのぼる。22年から27年までの木は、約23.8%である。17年から22年までの木は、約10.9%である。また若い木ほど害虫には侵されていない。

その研究結果に基づいて、ホーチミン市農林大学の教授・Vien Ngoc Nam(ビエン ゴック ナム) 博士は次のように述べた。

「樹齢の古い木は、間伐しないと害虫に食われる率が高くなる。今大切なことは、害虫に食われやすい樹齢の古い木を切ることによって、森の中に陽が射して樹齢の若い木を成長しやすくさせることである。森の中に健全な若い樹齢の木が増えて来ると、それに依存している動植物も自然と増加して来る。」

以上のNam博士の提案に対して、ホーチミン市の人民委員会副主席・Nguyen Trung Tin氏は次のように述べた。

「確かに今からいろんな研究を行って、その結果間伐の必要性があるなら今すぐ行うべきでしょう。しかし間伐する時に注意しないといけないことは、本来間伐する必要の無い場所のマングローブの木を切らせないようにし、一律に古い木を切ればいいというものではなく、その森の中で大切な木を勝手に切らせないようにしないといけません。」

「間伐の任務に当たる人には、細心の注意力と森に対する愛情が必要です。ホーチミン市人民委員会の我々の責任は、カンザーの森をこれからもしっかり成長・発展させることです。何故かというと、カンザーの森が成長・発展することによって地球環境の悪化を減少させることが出来ると考えるからです。」

「カンザーの森は、我々の将来の子どもたちへの『遺産』と『財産』になるのだからしっかりと守ってほしい。」と。

◎ 会議を終えて ◎

今回カンザー郡で「カンザー・マングローブの森の保全」についてのテーマでセミナーが開かれた。これに参加した学者たちによると、今回のセミナーでの結論は次のようなものであった。

「カンザーのマングローブ森は台風が来た場合でも、森があることで風の力が弱まり、森の中の村は安全になる。同時に、カンザーのマングローブ森のこれからの環境生態系を良く見た時に、さらなる回復と発展の方法がいろいろ考えられると思う。」

「そしてこの地域は今は貧しくても、これからは潜在的な、発展する経済力を秘めているので、環境を破壊するような大型の資本投資ではなくて、せっかくここまで育って来たマングローブの森を守り、さらに成長・発展させるような方法を見つけ、考えてほしい。」

「マングローブ森の中に住んでいる地元住民の人たちにも、カンザーのマングローブの森を守るために必要な知識を指導して、身に付けさせてほしい。」

◆ 解説 ◆
この記事を読んでいて、カンザーのマングローブ森がここまでの注目と、関心を集め、大々的なセミナーまで開かれていることに、様々な感慨を覚えました。

私がベトナムに来た当初、「今日カンザーに行って来たよ。」と話すと、それを聞いたベトナムの人が、「え、それはどこにあるの?」というくらい、まだカンザーについての知識は少ないものでした。

今やそれが、カンザーのマングローブ森についてのセミナーがカンザーで開かれたというのは、すごい進歩だと思います。このような会議が今後もカンザーで継続して開催されてゆけば、「カンザーのマングローブ森を守る」意識が、ホーチミン市内の人たちにも徐々に高まるのではと期待しています。

そして実はこの記事の中にある、【Vien Ngoc Nam博士】の名前を見た時に、大変な懐かしさを覚えました。私がベトナムに来た当初、カンザーでのセミナー・ハウスや、マングローブ植林のためにいろんな支援をして頂いたのがNam博士なのでした。最初に私が会った時に、Nam博士はホーチミン市内にある農業局に勤めていました。

彼は非常にユーモアがあり、きさくで、明るい人で、彼に会った日本人の誰もが、彼に好感を持ちます。そして大変なインテリでもあり、英語は大変上手です。国際会議にも招待されて、英語で発表もしています。また日本から来る大学生のスタディツアーなどの団体に対しても、自分の仕事を割いてでも一緒にカンザーに同行したりして、精一杯の協力を惜しまずにやってくれていました。

今Nam博士はサイゴンからバイクで約一時間ほどの距離にある、Bien Hoa(ビエン ホア)の「農林大学」に勤められたということは私も聞いていて、サイゴンからは遠いし、大変忙しい様子なのでで最近は中々会うことが出来ませんでした。それで新聞にNam博士の名前を見付けた時に、思わず目を見開いてこの記事を読みました。

Nam博士について今でも鮮烈な思い出があるのは、今から十年ほど前にNam博士と カンザー森林保全局長のSinh(シン)さんを日本に連れて行った時のことです。わが社の全体研修会で、カンザーについての講演をしてもらうために日本に来てもらいました。

それが終わった後、【マングローブ植林行動計画】の代表者である向後さんと、Nam博士とSinhさんと私の四人で「屋久島」に行きました。目的は「環境保護」の勉強のためです。

私はその時が屋久島は初めての訪問でしたが、見るもの全て体が震えるほど感動しました。さらに私以上に、Nam博士とSinhさんが興奮していました。

屋久島にある山、川、木々、水、花、すべてが、私には鮮烈な感動を覚えるものばかりでした。特に屋久杉には、ベトナム人である二人はその大きさに絶句していました。さらに、Nam博士とSinhさんは屋久島の川にも興奮していました。

ベトナムではまず見ることがないような、澄んだ、輝くような水がゴーゴーと川を流れています。私の田舎を流れている川も、ここまでの透明度はありません。サイゴン市内を流れているドブ川しか見慣れていないベトナム人の二人は、実際に川の中に入って行って、私に「これが本当に川なの?」と信じられない表情で聞き返しました。

屋久島を去る前日に、私に買い物に付き合ってくれと言うのでスーパーに行きましたが、彼ら二人とも同じ商品を三つも、四つも買っていました。良く見ると、「サランラップ」と「アルミホイル」でした。「サイゴンには売っていないから。」ということでしたが、何のために使うのかは良く分りませんでした。

しかし日本人である私から見ても、確かに「屋久島」は日本の中でも格別な存在だと、個人的には思いました。そして今こう思っています。

「カンザーのマングローブ森が【ホーチミン市の財産】なら、屋久島は【日本の宝】である。」と。



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