春さんのひとりごと

ハノイへ旅立った友人 ~ サイゴンの 最後の夜の 別れ酒 ~

私の「身近な友人」がハノイの会社での採用が決まり、5月末にサイゴンから ハノイに旅立たれました。「身近な友人」と言う意味は、その人が私と同じ 九州の出身だったからです。私が熊本出身で、その人は福岡の出身でした。その人のお名前は「多良(たら)先生」。今年ちょうど60歳になられたばかりです。

「一期一会」と言う意味を、今しみじみと噛みしめています。 今の私には、日本では出逢うことが無かったにもかかわらず、このサイゴンで 知り合うことが出来た人たちがいます。今は亡き「山元さん」がそうですし、 山元さんの親友で、東京の浅草にあるお好み焼き屋「染太郎」のマネージャー であった「澤口さん」もそうでした。さらには、今長野県に住んでおられる報道写真家の「石川文洋さん」もそうです。それら全ての方たちとは日本でお会い したことはなく、このベトナムで初めてお会いしました。

多良先生との出逢いも、このサイゴンにおいてでした。多良先生は、日本では地方公務員をされていましたが、「定年」になる前に、思いたってその仕事をキッパリと辞めて、2013年4月にサイゴンに「日本語の先生」として来られました。 最初は「Hong Bang(ホン バン)大学」で大学生たちに日本語を教え、次に「人材派遣会社」で日本へ行く実習生たちに日本語を教えてきました。私が知り合った のは、多良先生が「Hong Bang大学」に勤めておられた頃でした。

多良先生とは、毎週日曜日に<青年文化会館>で開かれている『日本語会話クラブ』で初めてお会いしました。多良先生はサイゴンに来て2ケ月後に、 ふとしたきっかけで『日本語会話クラブ』の存在を知り、その後積極的に 参加されました。『日本語会話クラブ』は毎週日曜日の午前10時過ぎから お昼前まで開かれています。しかし、今月現在「コロナ禍」の影響で、今年 2020年の新年が明けてからも、ずっとお休みしています。

以前、毎週開かれていた『日本語会話クラブ』に、日本人やベトナム人の新しい参加者たちがいると、クラブが終わる前に、その場で「自己紹介」をしてもらうのが常でしたが、多良先生にもその自己紹介をして頂きました。その時、多良先生が「福岡」の出身だと初めて分かり、急に親しみを感じました。今でこそ、このサイゴンにも九州人の人たちが増えてきましたが、その頃までは同じ九州出身の友人・知人は少なかったのでした。

『日本語会話クラブ』は、毎回お昼の12時に終わります。その後は「青年文化会館」内にある喫茶店でお昼ご飯を食べながら、日本人とベトナム人たちが続けて談笑するのが常でした。その日初めてクラブに来られた多良先生もそこに誘いました。毎週そのパターンが続いてゆき、だんだんと親しくなりました。 でも、そこでは昼ご飯を食べて、ジュースやコーヒーを飲むだけでした。

その後、だんだんと親しくなるにつれて、「今度一緒にビールでも飲みませんか!」と言う話になり、私が「スシコ」に誘いました。そこには多良先生のほかに、数人の私の友人も同席していました。暑い夕方、ビールを飲んで気分もほぐれたせいか、そこで、多良先生は個人的なことまでオープンにいろいろと話してくれました。

その話の中で、ほかの友人たちみんなが眼を丸くした話が出てきました。「日本人の先生の給料」についてです。多良先生の話を聴いて、全員が「ええーっ!」と驚き、みんな(う~~ん)と唸っていました。多良先生が 勤めていたその大学の給料は、毎月・ 毎月、大学から貰えるのではなくて、何と「半年ぶんをまとめて、半年に一度だけ」 だと言うのです。

日本である程度の貯金を蓄えた人や、年金生活者などはそれでも何とかやっていけるでしょうが、そういう蓄えも、年金も無い、若い日本人が「日本語の先生」を志願して来た場合はどうなるでしょうか。どうやってアパート代を払い、食費を確保できるでしょうか。そういう条件を知った時点で、このサイゴンで「日本語の教師」を目指すのは諦めることでしょう。しかし、運が良かったのは、多良先生の住まいは大学の寮内でもあり、公務員時代の蓄えも有るので、何とか続けられているのでした。

それからしばらくして、多良先生と二人だけで、また「スシコ」で話していた時のことです。いろいろ最近の出来事や世間話をしていた時、前に私が聞いた「給料は半年に一度だけ」と言うのをふっと思い出し、「以前聞いた給料の支払い方法は改善されましたか?」と尋ねました。すると、何とまた驚くべき答えが多良先生から返ってきたのでした。

「いえ、いえ、改善されるどころか、改悪になりました。以前は半年に一度でしたが、今は一年に一度になりました」

そのように言われたのでした。(ええーっ、一年に一度!)。何とまあー、開いた口がふさがりませんでした。(どういうつもりで大学側はそういう待遇で日本人の先生を雇用しているの だろうか)と、その非常識さには呆れるばかりでした。しかし、当の多良先生ご自身は激怒しているような表情でもなく、淡々とした顔つきで私に話されました。最初から「ボランティア精神」の気持ちで、 このサイゴンで日本語を教えることに生き甲斐を感じておられるのだな・・・と、私自身は想像しました。

それから、多良先生と市内で会う曜日は、大体「土曜日」か「日曜日」。会う場所は「土曜日」であればいつも「スシコ」、「日曜日」は<青年文化会館>でした。多良先生は平日には夕方まで授業が有りました。多良先生が住まわれていた場所は市内中心部から離れていた上に、そこで教えている先生までも、生徒たちと同じように「門限」があったからです。

多良先生が住まわれていた寮の「門限」は9時半なので、9時には「スシコ」を去られました。それで、数人の友人たちで集まる時も、多良先生は誰よりも早く来て、誰よりも早く帰られていました。普段は日本人と話す機会が少ないので、この「スシコ」で、私や日本人の友人たちと日本語で会話が出来るのを楽しんでおられたようでした。

多良先生の趣味は「海外旅行」「各地での山歩き」です。大学の授業がお休みになる夏休みやテトの時などは、ヨーロッパ諸国に行き、そこで有名な山が有る と、山歩きをされます。スイスの山々を歩いたこともあるそうです。大学生時代に「ワンダーフォーゲル部」に入っていて、それが趣味として今も続いているのです。

今まで私自身が「海外旅行」した国は五本の指にも満たないのですが、多良先生の「海外旅行」の行き先は30ヵ国以上を超えています。そのためも有り、多良先生から「海外旅行」の体験談、珍談、奇談、ハプニングなどを聞けるのが楽しみでした。「旅行」というのは国内であれ、国外であれ、「非日常の世界」に入りますから、いろんな出来事に遭遇します。普段の「日常の世界」では出逢わないハプニングなどが起きます。

多良先生が海外の旅から帰られた後、私が「また会いたいですねー。今週の土曜日は如何ですか」と連絡を取るのは、多良先生が海外旅行から帰られて すぐの時が多かったのでした。多良先生が「いいですよ!」と返事されると、その日が来るのが待ち遠しくなりました。(さて、今回はどんな出来事やハプニングが起きたかな・・・)と期待して、 いつも「スシコ」に向かいました。

私が「スシコ」に着いた時、多良先生はいつも私より先に着席されていて、枝豆だけをツマミにしてポリポリ齧りながらビールを飲まれています。そして、私の顔を見るとニコッとして頭を下げられます。無事にサイゴンに帰り着いたことを喜んで、<乾杯!>します。それから、じっくりと多良先生が話される「今回の体験談」に、私はビールを飲みながら耳を傾けるのでした。

思わず、私が「えっ、本当ですか!」と驚いた出来事の一つは、「出発地点で機内預けにした荷物が、サイゴン到着後どれだけ待ってもターン・テーブルから出て来ないのですよ」と多良先生が話された時でした。到着地の係員に荷物の番号が印字してあるタグを見せても、係員も困惑した表情で「アリマセーン!」 と言う返事しか返って来なかったそうです。

その後、自分の荷物がどこに有るのかを調べてもらうために、空港まで数回足を運び、交渉するハメになりました。最終的に、自分の荷物が手元に戻って来たのは、何と一ケ月後でした。係員から聞いた情報では、多良先生の預け荷物は別の国に運ばれていたというのでした。タグを頼りに追跡調査して何とか戻りましたが、荷物のチャックを開いた時、時間が経ち過ぎていて、何とも言いようがない<ニオイ>が漂ってきたと言います。

もう一つの例では、自分が乗るべき飛行機の便に乗りそこなったという失敗談。 飛行機の「出発時間」の前には普通「搭乗案内」が有りますが、それを「聞きそこなった」のか、それが「聞こえなかった」のか、多良先生はずっと待合室で過ごしていました。しかし、腕時計を見ると「出発時間」を少し過ぎた頃の時間 になっていたので、さすがに多良先生も(おかしいなぁー)と思い、係員に訊く と、何と「もう飛び立ったよ!」との答え。

大いに驚いた多良先生でしたが、係員に腹を立てても、一人嘆いても仕方があり ません。すぐに、次に乗るべき飛行機の便をパソコンで調べて、それを予約し、「翌日何とか次の便に乗ることが出来ましたよ!」と話されました。 (あの時パソコンを持っていなかったらお陀仏でした。帰れないところでしたよ!) と、悲しい表情をしながらも、苦笑いされながら私に話されました。

私は多良先生が30ヵ国以上の国々を旅された時の、いろいろな写真を見せて頂きました。その数々の写真は実に美しく、かつ大変印象的なものが数多くありました。いつか将来、私自身がそれらの国を旅する機会が有れば、それをコピーして持ち歩けば大いに役に立つことだろうと思います。そういう数多くの写真を保存されておられるのでした。

私が多良先生とお付き合いしていて、(この人は“人生意気に感ずる人だな!”)と実感したのは「Haiさんの奨学金設立」の時でした。2016年7月からスタートした「Hai(ハーイ)さん奨学金支援の会」には、最終的に全部で10人の日本人の方に参加して頂きました。途中で「私は辞めさせて頂きます」と言う方は一人も出ませんでした。

そして、その活動は2018年6月で終わりました。約2年間続いたことになります。私が多良先生を“人生意気に感ずる人だな!”と感じた訳は、「Haiさんの奨学金支援」の話を私が提案した時、一番初めに賛同され、その最初のスタートから最後に至るまで、ずっと「Haiさんの奨学金支援」活動に継続して協力して頂いたからでした。「Haiさんの奨学金支援」のスタート時のエピソードは2018年9月号「Haiさんの就職祝い」に載せています。

多良先生はこのベトナムという国を「終の棲家」とまで言われていて、日本からサイゴンに移り住んだ後、この国を大変気に入られていました。街歩きや食べ物 や生徒たちとの交流など、いろんなことに積極的です。サイゴンを拠点にして仕事と趣味の両立が叶うこと。若者たちに日本語を教える喜びと、世界各国を旅行出来る楽しみを満喫されていたのです。私にも「このままずっと、あと10 年は住みたいです」と言われていました。

しかし、多良先生のその希望が、今回の「コロナ禍」で打ち砕かれました。 今まで日本語を教えていた「人材派遣会社」の「日本語センター」での教育の 仕事の場が無くなってしまったからでした。「コロナ禍」が原因で、結局 「失業」です。それは多良先生だけのケースだけではなくて、他にも幾つか、 私が知る「人材派遣会社」の「日本語センター」では、日本人の先生やベトナム 人の先生たちが「失業」したという話を聞きました。

今回のベトナム全土に4月1日から通達された「全社会の隔離」。それが「解除」 されたのが、4月23日でした。しかし、全ての会社や商店やサービス業の店など が開いた訳ではないので、正確には「緩和」と言う状況でした。その間、多良先生は寮の中でずっと「待機状態」でした。生徒たちがいてこそ成り立つ 「授業」が無いので仕方が有りません。

そして、5月初めにようやく「日本語センター」での授業が始まりました。その日本語の授業が再開された時、センターに戻って来た生徒たちの数が何と半減 してしまったそうです。(1・2割の生徒たちが辞めるかもしれないな・・・) とは、先生たちの多くも覚悟はしていたものの、半減するとは予想外でした。 日本に行く予定だった実習生たちがセンターに戻らないのは次のような理由からです。

①今の日本の状況では、いつ「ウイルス」 が収束するか分からない。 従って、いつ日本に行けるか分からない。
②今のベトナムにいるほうが「安全」で、日本のほうが「危険」な状況が 続いているので、親が不安に思い、日本に行かせない。


従って、『生徒の減少⇒クラスの減少⇒教職員の先生の人員カット』となり、 そのままずっとアパートでの待機状態が続き、最終的に多良先生は「失業」 となりました。その学校の中で、そういう事態に遭ったのは多良先生一人だけではありませんでした。しかし、全ては「コロナ禍」のせいなので、会社に 怒りをぶつけるわけにもゆきません。それから、多良先生は次の新しい「仕事場」を探す日が続きました。

先ず、サイゴン市内の求人を「日本語学校」も含めていろいろ探しましたが、 なかなか適当な所が無く、結局ハノイまで連絡を取りました。そして、そのハノイの会社からようやく5月末に「採用!」の通知が来ました。最終的に、 サイゴンからは離れることにはなりましたが、多良先生はこの同じベトナムの中のハノイで働くことが決まりました。ハノイには6月初めから赴任されること になりました。

6月に入るとすぐに多良先生はハノイに赴任されますので、「採用!」の通知が来た数日後、「スシコ」で「多良先生」の<送別会>を行いました。突然の <送別会>になりましたので、ほかの人たちに連絡する時間的余裕もなく、 その時は私一人だけで行いました。多良先生は「喜んで行きます!」と返事 されました。

そして、迎えた<送別会>の夜。いつものように私よりも先に席に着かれて いて、枝豆を齧られていました。私がそこに着席して、固い握手を交わしまし た。(次にお会い出来るのはいつになるだろうか・・・)という寂しい思いで、 私は握手しました。それから、今後のハノイ生活についての質問を多良先生から受けました。

多良先生はいろんな世界の国々は旅行されていますが、ベトナムの南部・中部 はもちろん、ベトナムの北部もまだ旅行されてはいないのでした。ベトナムの 国内だけに、(いつでも行けるさ!)という気持ちからでしょう。それで、 多良先生自身はまだハノイへも一度も行ったことはなく、“期待と不安”を 抱かれていました。それで、私自身は何度も行ったことがあるので、

「ベトナムは南部よりも、むしろ北部のほうが見どころがありますよ。 <ハノイ市内><ハロン湾><サパ><バック・ハー><Trang An (チャーン アン)名勝遺跡群><フエ><ダ・ナン>など、たくさんの観光地が有りますよ。 旅行好きな多良先生なら、今までのサイゴン生活以上に楽しみが多いところです。 後日、私が今まで訪問した場所をインターネットで調べて送ってあげますね
と話してあげますと、眼を輝かせて聴いておられました。事実、ベトナム北部は 単調な景色が続く南部と違い、山あり、谷あり、湖あり、いろいろな少数民族が いたり、日本人の私から見ても実に魅力溢れた場所が多い所で、私も大好きなのです。

今後、多良先生がハノイに赴任されたら、サイゴンに来られる機会は確実に 少なくなることでしょう。この日の夜、「スシコ」で多良先生にお会い出来 ましたが、次に会えるのはいつになるか分かりません。サイゴンでの最後の この日も、多良先生は寮の「門限」が有り、夜9時頃にはグラブ・バイクを呼んで、それに乗って帰って行かれました。

“ サイゴンの 最後の夜の 別れ酒 ”

ハノイに落ち着かれて数日後、多良先生は次のように語られました。
「この環境に大変満足しています。この後、病気や家族などの環境要因が許す限り、あと20年ぐらいは住みたいと思っています。今60歳ですので、20年後は80歳ですね。80歳まで現役で頑張りたいです!」。

                                                            

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。


ホーチミン:市民劇場前広場の改修に着手、中心部の憩いの場に

5日、ホーチミン市1区の市民劇場前広場(旧ラムソン公園)の改修工事が始まり、同市の建築計画局と交通運輸局、建設局が着工式を執り行った。

同市建設局のレ・ホア・ビン局長は着工式で、改修工事は都市部の緑化に不可欠であり、同市の公共空間の中継地としてコミュニティ空間に彩りを添える一助になるだろうと祝辞を述べた。改修後の広場は多目的広場として各種イベントの開催場所にもなる予定で、同市の文化、政治、商業の中継地点となることが期待されている。

広場の敷地面積はおよそ1300㎡で、既存の木々を活かしつつ高木・中木・低木と高低差のある樹木や様々な色の草花を植栽する計画。完工後は1区中心部の歩行者天国グエンフエ(Nguyen Hue)通りに続く同市中心部の憩いの場となる。

ホーチミン市都市鉄道(メトロ)1号線(ベンタイン~スオイティエン間)の第1bパッケージとして建設した同市1区の市民劇場駅は4月に完工し、市民劇場前広場が位置する同駅の地上部分の土地はメトロ管理委員会(MAUR)から同市交通運輸局に引き渡されている。

市民劇場前広場の改修工事の投資主は都市技術インフラ管理センター、施工は緑樹公園有限会社と都市照明社の2社が請け負っている。完工予定は建国記念日にあたる9月2日。

<VIETJO>

◆ 解説 ◆

最近のこちらのニュースは「コロナ禍」の記事が続き、さすがにウンザリしていました。ようやくそれとは違う、新鮮な感じの記事が<VIETJO>に載りましたのでホッとしました。

この「市民劇場前の広場」は、私がベトナムに来た最初の頃、見る物・聞くものが全て珍しいので、毎日のようにここを通り、ベンタン市場まで遊びに行くのを日課にしていました。そして、この広場前に面した道路の歩道上に、屋台の茶店がありましたので、ベンタン市場の帰り道にはそこでアイス・コーヒーを飲んでいました。

この広場にはココナッツの実を売り歩く少年、少女たちが集まり、観光客にそれを売りつけていました。私は彼らとすぐに仲良くなりました。彼らがココナッツの実を売り歩く時は、大きな二つの籠の中にそれを入れて、天秤棒の両端にそれをぶら下げてスタスタと器用に歩いていました。

一度私もそれを担がせてもらいましたが、大人の私の肩にもズシリと食い込む重さでした。
(よくぞ、こんな重いものを小さい子が担いでいるなぁー)と感心しました。まだ彼らは小学生ぐらいの幼い年齢なのでした。今でも私は彼ら少年・少女たちの顔をハッキリと覚えています。あれから20数年が経ちましたので、彼らも30歳を過ぎている年齢でしょうか。

私が路上でアイス・コーヒーを飲んでいる時、そのココナッツを私にも売りに来ます。一個が1万ドン(今の値段で約50円ぐらい)ですから安いものです。そして、その「ココナッツ・ジュース」が大変美味しいのです。日本では味わえないものでした。日本では味わえないと言う意味では「砂糖キビ・ジュース」もこのベトナムで初めて味わいましたが、「こういう美味いものが有るのか!」と感動しました。

そして、日本から毎夏「ベトナムマングローブ子ども親善大使」の生徒たちが来た時、市内観光の日には彼らココナッツ売りの少年・少女たちが「日本の生徒たちとの交流」に活躍してくれました。日本から来た生徒たちは自分たちとあまり変わらない彼らベトナムの子どもたちが学校に通うこと無く、そういう物を売り歩いている姿を見て、日本での自分たちの恵まれた<教育環境>をしみじみと感じていました。

その「市民劇場前の広場」が2010年から始まった「地下鉄工事」のため、ほどなくしてフェンスが設置され、工事関係者以外は立ち入れなくなりました。その中で何が行われているのか、誰も伺い知ることは出来なくなりました。その間、観光でこの前を通り過ぎた人たちも数多くいたことでしょうが、みなさんたちが広場前のフェンスを通り過ぎて行くだけだったことでしょう。

最近は私もこの広場近くに行く用事も少なくなりましたので、関心も薄れてゆきました。そして、今回のこの記事に載った「着工式」の発表です。実は、私自身が今年4月30日に、この広場前に来ました。「統一会堂」前で「サイゴン解放45周年記念式典」が行われていないかどうかを確認するためにそこに行き、帰りにこの「広場前」でバイクを停めました。

その時「広場前」は今まで長い間設置されていたフェンスが取り払われ、キレイな草花が植えられていました。「広場前」のフェンスが全部取り払われていたので、開放感が有り、大変見通しが良くなっていました。私はその時の写真も撮りました。しかし、まだ工事が続いているような感じでした。

それで、この記事を読んだ時、(あぁー、将来的にはこうなるのだな!)と納得しました。この記事には「完成予想図」が有りましたが、この記事が載った翌日すぐに、私は「広場前」にバイクで行きました。すると、4月30日には取り払われていたフェンスがまた再び設置されていました。でも「完工予定は9月2日」ということなので、楽しみに待ちたいと思います。

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