春さんのひとりごと

Trangさんの結婚式

今東京の日本の会社に勤めている私の知り合いのベトナム人の女性が、ベトナムのサイゴンで結婚式を挙げることになりました。そして、彼女の新郎となる、その旦那さんも同じベトナム人で、東京にあるベトナムのIT系の会社「FPT」に勤めていると言うことです。

知り合いのベトナム人の女性の名前はTrang(チャーン)さんと言います。彼女と私の付き合いは、我が社・ティエラが毎年夏にベトナムで行っている合宿のプログラムの中に、<ホーム・ステイ>体験を採り入れた後、彼女の家がその<ホーム・ステイ>先に手を挙げてくれたことから始まりました。

今から12年前の2006年から、わが社の「ベトナムマングローブ子ども親善大使」の生徒たちの<ホーム・ステイ>がサイゴン市内のベトナム人の家庭で始まりました。そして、それ以来一度も途切れることなく、ずっと今も<ホーム・ステイ>体験は続いています。そのベトナム人の家庭の手配をして頂いているのは、「村山日本語学校」の校長先生であるLuan先生です。

ベトナムに初めて来た日本の男子生徒と女子生徒の班が、それぞれベトナム人の男子・女子の生徒たちの家庭にお世話になって一晩を過ごします。ベトナム人の生徒たちは「村山日本語学校」で日本語を勉強している生徒たちですので、日本の生徒たちとの簡単な会話は日本語で出来ます。

日本から持参したお土産や家族紹介の写真などを<ホーム・ステイ>先の両親や家族たちに彼等ベトナムの生徒がベトナム語で説明してくれます。日本の生徒たちがサイゴン市内のベトナム人の家庭に泊まるのは一晩だけです。後はすべてホテルでの宿泊になります。それだけに、初めてのベトナムで味わう、この<ホーム・ステイ>体験は日本の生徒たちには印象深い思い出を刻んでいます。

今まで<ホーム・ステイ>でお世話になった家庭では、お父さんが自分でケーキを作ってくれたり、朝食には「フォー」を食べに連れて行ってくれたりして、日本から来た生徒たちにサービスしてくれました。昨年男子生徒が泊まった家では、そのご両親が「フォー屋さん」を営んでいたので、その家の手作りのフォーをご馳走になり、生徒たちも「大変美味しかったです!」と喜んでいました。

ベトナム人の生徒たちは中学生や高校生たちですので、彼らがまだ学校に行っている間や、大学生になってからの数年間は日本の生徒たちを喜んで預かってくれていました。しかし、ベトナムの学生が社会人になったり、外国の大学に留学する年齢になりますと無理になりますので、また別の家庭を探さないといけません。

そういうベトナムで<ホーム・ステイ>先に協力して頂いた中に、女子高校生のTrangさんのお家があったのでした。彼女の家には2010年と2011年の二年間<ホーム・ステイ>で日本の生徒たちがお世話になりました。彼女の家族の対応は温かく、生徒たちが泊まる部屋も広くて、清潔で、日本の生徒たちにも好評でした。

驚くべきは彼女の日本語能力の高さでした。彼女は高校三年生の時に「日本語能力試験のN1に合格!」したのです。「日本語能力試験のN1」と言えば、一番難しいレベルです。その理由が、今回Trangさんに再会した時に良く分かりました。彼女は何と中学一年生から日本語の勉強を始めていたのでした。ベトナムで過ごした中学四年間と高校三年間の計七年間近くを日本語の勉強を続けていたのです。

その彼女が2012年から日本に留学することになりましたので、彼女の家での<ホーム・ステイ>は二回で終わりました。彼女も申し訳なさそうに、「本当にすみません。来年から日本の大学に留学することになりました。私自身がベトナムにいませんので、来年は私の家での<ホーム・ステイ>は無理になりました」と話してくれたのでした。

私が「それはおめでとうございます!それで、どこの大学に留学するの?」と聞きますと「大分にある【立命館アジア太平洋大学(略称:APU)】です」と答えてくれました。それを聞いた私は2010年に故郷・熊本玉名で偶然出会った「ピーター君」を思い出しました。ピーター君とはたまたま玉名駅で出会い、その翌日に居酒屋で再会しました。

【2010年5月号】の<歴史の道を“歩く”>にも載せていますが、ピーター君は2010年当時、『ALT(外国語指導助手)』として、熊本県内の学校で英語を教えていました。ピーター君との出会いは奇縁とも言うべきでしたが、彼は私の友人と偶然にも親しい関係でしたので、その翌年日本に私が帰国した時、ピーター君のその後を聞いたことがありました。

友人の話では「熊本での任期が切れた後は【立命館アジア太平洋大学】に勤めることになるそうだよ」と言うことでしたが、その時私は「ああー、そうなんですか」ぐらいに聞いていました。彼には「日本に私が帰国した時は、いつか熊本で会いましょうね」と連絡しましたが、大分に移動してからはなかなか熊本まで来る機会も無いようで、その後私自身も再会は出来ていません。

そして、Trangさんは2012年から予定通り【立命館アジア太平洋大学】に留学することになりました。【立命館アジア太平洋大学】は2000年に大分県別府市に設立された私立の大学ですが、大変評判がいい大学のようです。今現在89カ国からの外国からの留学生たちと国内の学生たちが学んでいて、その学生数は2017年度で5,818名に達したといいます。ベトナム人の留学生だけでも、今現在約400名もいるということです。

Trangさんは【立命館アジア太平洋大学】に在籍していた時、夏休みにはベトナムに戻っていました。その時に数回私も会ったことがあり、日本での近況などを聞きました。その後、彼女は2017年にそこを卒業して、3月頃に「今就職活動をしています」と言う連絡がありました。それからしばらくして「東京にある日本の会社で働くことになりました」とメッセージが届きました。

その後、しばらく連絡はありませんでしたが、昨年の10月初めに突然連絡が来ました。「実は、12月30日にサイゴンで結婚式を挙げることになりました。それで、12月20日過ぎにベトナムに戻ります。結婚式の招待状を渡したいと思いますので、結婚式の前にスシコに持参します!」と言う連絡でした。

その連絡を聞いた私は嬉しくて堪りませんでした。(あの当時高校生だった彼女が結婚式を挙げることになったのか・・・)と感無量でした。彼女は私が日本語を直接教えた生徒ではありませんが、「ベトナムマングローブ親善大使」以来の長いお付き合いですので、自分の教え子が結婚するのと同じように、大変嬉しかったのです。

そして、約束通り彼女が12月25日に「スシコ」に結婚式の招待状を持参してくれました。久しぶりに見たTrangさんは大人びた雰囲気になっていました。「24歳になりました」と言いましたから、それも当然です。でも、彼女と再会して、私に見せてくれた笑顔は高校生当時のままの明るい笑顔でした。

「本当は彼も一緒に連れて来たかったのですが、友人・知人に配る招待状が多くて、毎日二人でバイクに乗って、手分けして渡している状態です。それで、彼からも宜しくと言っていました」とTrangさんが話してくれました。

新郎である彼も、新婦であるTrangさんも、普段は日本に住んでいます。新郎の彼は同じベトナム人で、福岡で知り合ったということでした。こちらでの「結婚式場の手配」や「その他の手配」などは両家のほうでやったのでしょうが、友人・知人に配る「招待状」は二人がベトナムに戻ってからの努めになりますので忙しいのも当然です。

久しぶりに再会したTrangさんといろいろ話しました。新郎の彼は今日本の東京にあるベトナムの会社「FPT」に勤めているということ。「FPT」はベトナムに於いて最大手のIT系の企業で、ハノイには大学まで設立しています。Trangさんは日本の会社に勤めていて、同じく東京に住んでいます。ですから、結婚後もしばらく二人は東京に住むことになります。

Trangさんとしばらく話していた時、彼女が「今回招待する人たちの中には、彼が日本で<ホーム・ステイ>していた時にお世話になったご夫妻と、今ダナンで日本語を教えておられるKT先生もおられます」と話してくれたので、私は大変驚きました。

私が驚いたのは「今ダナンで日本語を教えておられるKT先生」のことです。「ええーっ、あなたもKT先生を知っているの?」とびっくりしました。KT先生のことについては、【2016年11月号】<ダナンでの“十一面観音菩薩像奉納の儀式”に参加>の中で触れていますが、TrangさんがそのKT先生と面識があったことに驚いたのでした。さらに良く聞きますと、「面識があった」レベルでは無かったのです。

今から約14年前の2005年に、サイゴン市内の中学校でベトナム人の生徒たちに日本語を教えることが始まりました。最初は市内にある二つの中学校からスタートしました。Vo Truong Toan(ヴォー チューン トアン)とLe Quy Don(レー クイ ドン)の二校です。ちなみに、今サイゴン市内でベトナム人の中学生たちに日本語を教えている学校は五校あるそうです。

そして、Trangさんが学んでいたのはVo Truong Toan中学のほうです。その中学で日本語を学んでいた時の日本語の先生が私の知人でもあるKT先生なのでした。2005年から習い始めたのですから、14年も前のことになります。

私は、Trangさんが今から14年も前の日本語の先生を忘れずに、自分の結婚式に招待しようというその律儀さに感心しました。さらに、KT先生もそのTrangさんの律儀さに応えて、Trangさんの結婚式にわざわざダナンからご夫婦で来られると言うのでした。

KT先生もTrangさんの結婚式に参加されると知った私は、すぐにその場からKT先生にメッセージを送りました。「今私の目の前にTrangさんがいます。彼女から結婚式の招待状を貰いました。KT先生もTrangさんの結婚式に参加されると聞きまして、大変嬉しいです。当日、式場でお会いしましょう」と。

すると、すぐにKT先生から返事が来ました。「本当ですか!私も大変楽しみにしています」と言う返事でした。「スシコ」でTrangさんと話したのは二時間ぐらいでした。彼女は「まだこの後も数人ほど招待状を渡さないといけないので、これで失礼します」と言って、9時頃には帰ってゆきました。

家に戻り、女房に「今Trangさんに会って来たよ。12月30日が結婚式なので、家族で行こうね」と言いました。以前、Trangさんの家に「お歳暮」を持って二人で行ったことがあったので、Trangさんのことは女房も覚えています。女房も「わー、彼女もそんな歳になったの。では、家族みんなで行きましょうね!」ということに決まりました。

しかし、その二日後、Trangさんから来たメッセージを見て驚きました。「実は、昨日おばあちゃんが病気で倒れ、入院してしまいました。今回の結婚式が出来るかどうか、家族と相談してからまたお知らせします」と言う内容でした。(おばあちゃんこそ、孫の結婚式を楽しみにされていることだろうに・・・)と、Trangさんの胸中の辛さが痛いほど分かりました。

すると、その翌日の晩に「結婚式は予定通り行います。ご参加をお待ちしています」と言う連絡が来ましたので一安心しました。おばあちゃんの病状については触れていませんでしたが、新郎・新婦双方の家族が集まって話し合われた結果、「予定通り結婚式を行う」ことに決まったのでしょう。 

そして、挙式当日の12月30日。私は女房と娘の三人でタクシーに乗って行き、夕方6時半に式場に着きました。式場になっている二階に上がると、新郎のThinh(ティン)さんとTrangさんがお客さんを出迎えていました。

私たちは二人の前に立ち、挨拶をしました。そして、恒例の記念写真を撮りました。その後、小さな声でTrangさんに「おばあちゃんの具合はどうですか?」と訊きましたら、「まだ入院しています」と答えました。結婚式の晴れの舞台の嬉しさとおばあちゃんの病気の心配の二つを抱えた状態で彼女はそこに立っていたのでしょう。でも、お客さんを迎えている時の表情は努めて明るく振舞っている彼女でした。

そして、式場の中に入り、私たち三人が座る席に案内されました。そこは、日本人の方がメインのテーブルでした。KT先生らしき後ろ姿が見えましたので、そこに近づきますと、やはりそのテーブル席に座っておられました。隣には奥さんらしき女性もおられました。

私は久しぶりの再会を喜びましたが、KT先生も嬉しそうな笑顔をされました。その隣に座っておられるのは、やはり奥さんでした。昨年私が学校の「社員旅行」でダナンに行った時、夜に日本料理屋の「番二郎」でKT先生に再会しましたが、その時はまだ奥さんはベトナムに来られていませんでしたので、その後ダナンに来られたということでした。

KT先生のすぐ隣には年配のご夫婦が座っておられました。ご挨拶させて頂くと、お二人は新郎のThinhさんが大学生時代に日本に留学していた時、彼を自分の家にホーム・ステイさせて、9ヶ月間預かったそうです。その縁で、この日わざわざ日本からThinhさんの結婚式のために駆けつけて来られたのでした。奥様のほうが「この日の深夜便で帰らないといけないので、途中で退席させて頂きます」と言われました。

そのご夫婦の家庭には、Thinhさん以外にも、アジアのいろんな国の若者たちを自分の家でホーム・ステイさせてきたと言われました。でも今はご夫婦も高齢になり、止めているということです。その他に、サイゴン市内で「日本語の先生」をしている女性の方もおられました。

そして、結婚式の開始予定時間の7時になりますと、場内のライトが消えて暗くなりました。その後、舞台の袖のほうからスポット・ライトを浴びて、一人の男性が登場しました。その男性はマイクを持ち、歌を歌い始めました。最初、私は(いつもの如く、結婚式を盛り上げるために雇われたセミプロの歌手が登場したのだろうな・・・)ぐらいに思いました。

しかし、ライトを浴びて舞台に立った男性の顔を近くに座った人たちが直に見ることが出来たからか、前の席のグループの人たちから「ワーーーッ」と叫ぶ大歓声が上がりました。私は(何を興奮して大声を上げているのかな・・・)ぐらいに思いましたが隣に座っていた女房が、「あの人が新郎のThinhさんよ」と言うので、大いに驚きました。

今まで、私自身はこのサイゴンで数多くの「結婚式」に参加してきました。しかし、前座で登場してきたのは、いつも大体ドレスやアオザイ姿の女性と、それをエスコートする、背広を着た男性たちが多かったのです。それが、私が今まで見てきた、ベトナムの結婚式の普通のパターンでした。

それに対して、この日に見た新郎がマイクを持ち、歌を歌いながら登場するというのは初めて見た結婚式のパターンでした。新郎のThinhさんはそのままマイクを持ち、歌を歌いながら、舞台中央の花道をゆっくりと歩いてゆきます。私はこういう結婚式のパターンを初めて見て(すごい演出のオープニングだなぁー!)と、素直に感動しました。

Thinhさんは式場の真ん中に作られた花道を歩いてゆき、そのまま観客の間を通り抜けてゆきます。そして、式場の入り口の扉に手を掛けて、扉をゆっくりと開けました。その扉の位置にはTrangさんが花束を手に持って立っています。

ThinhさんはTrangさんの手を取り、花道のほうへエスコートしてゆきます。二人が舞台中央に上がり、お客さんに向かい、頭を下げてお礼の挨拶をしたところで参加者から盛大な拍手が起こりました。いやー、実に感動的な、新郎の歌から始まったオープニングでした。

私と同じテーブルに座っていた中年のご夫婦の奥様が次のように言われました。「Thinhさんがああして歌を歌っている姿は珍しくないのです。日本でいろんな国の留学生たちとパーティーをした時、彼はよくみんなの前でああしてベトナムの歌を歌ってくれたのですよ。ですから、私は彼らしいなぁーと嬉しく思いました」と。道理で、歌う姿が堂々として、上手いはずです。

それから新郎のお父さんの挨拶があり、それが終わると踊りが披露されました。その後、いつもの料理を食べながら、ビールを飲みながらの、宴会パターンになりました。私は食事をしながら、隣に座られたKT先生といろいろな話をしました。

Trangさんは今回の結婚式に、以前日本語を教えて頂いたKT先生を招待していました。それで、KT先生に「彼女に日本語を教えていたのはいつ頃のことですか」と訊きましたら、「2005年ですから、今から13年ほど前になりますね」と答えられました。13年前に教えてもらった恩師のことを忘れずにいて、この日Trangさんは自分の結婚式にKT先生を招待してくれていたのでした。KT先生も感無量だったと想像します。

そして、式が終わろうとする9時少し前に、Trangさんの友人でもあり、KT先生の教え子であった人たちが集まってきました。全員が女性です。全部で12人ぐらいいました。KT先生が彼らを教えていたのは中学生時代ですから、お互いに懐かしい再会になりました。KT先生もかつての生徒たちも、大変な喜びようでした。みんなでTrangさんを囲んで写真撮影をしていました。横で見ていた私自身も感動しました。

そして式は9時過ぎには無事に終わりました。新郎・新婦に別れの挨拶をして我々も式場を出ました。KT先生とも再会の握手をしてホテル前で別れました。この日の結婚式は、私にとっても「再会の嬉しさ」と「結婚式の演出の楽しさ」があり、大変印象的な結婚式になりました。

新郎・新婦のThinhさんとTrangさんはお正月が明けてすぐに、日本に向けて飛び立って行きました。日本ではまた「普段通りの仕事」が始まり、さらには、夫婦としての「新しい生活」がスタートしていることでしょう。

 

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

ベトナム人向け日本語教師育成講座が開講、安倍首相のイニシアティブ

安倍晋三首相が打ち出した日本語教師育成イニシアティブで始まったベトナムにおける日本語教師育成強化特別事業の「新規教師育成講座」が、8日にハノイ市の国際交流基金ベトナム日本文化交流センターで開講した。

同講座は、日本語能力N3程度または同等以上で教師を目指す18歳以上のベトナム人を対象とするもの。初回は20人の受講生を対象に、12月8日から2019年3月10日までの120時間の座学と、4月14日までの80時間の実習から成る計200時間のカリキュラムが予定されている。

出席率90%以上、授業における参加度およびポートフォリオ(学習記録)作成、毎週の小テストの結果、課題発表などの厳しい基準を満たした受講生には、高度な日本語教育能力を証明する修了認定証が交付される。

受講生は毎週ポートフォリオを作成し、自身の成長過程を自己評価するとともに、就職や転職の際に自身の日本語教育能力を具体的に示す証拠として、日本語学校や教育機関へ提示することが想定されている。

<VIET JO>

◆ 解説 ◆

安倍首相が打ち出した、この「新規教師育成講座」の企画自体は大変素晴らしいことだと思います。将来的にも「日本語を勉強したいベトナム人」が増えてゆくだろうということは予想されるからです。

特に、日本とベトナムは近隣諸国とは違い「歴史問題」「政治的な問題」 「領土問題」などを抱えているわけではないので、この二つの国の間には大変 良好な関係が続いています。そういう意味でも、この「新規教師育成講座」は 持続的に、長く続けて欲しい企画です。

ただ、問題となるのが「日本語を教えるベトナム人育成」のために、「ベトナム人に日本語を教える日本人の先生の確保」だろうと思います。 その目的のために、日本から日本人の先生たちを「どういう条件」で雇い、 「どういう待遇」で採用して、ベトナムに派遣するかを決めておかないと 掛け声だけで終わりそうな予感がします。

今、ベトナムのハノイ市であれホーチミン市であれ、日本語の先生は不足して いる状態です。特に日本から来て「日本語の先生」として、「元気がいい」 「若い」「やる気」がある日本人の若者がベトナムで活躍しているパターンは 少ないですね。

それは何故か?ホーチミン市内を例に挙げると、「語学学校」であれ、「大学内の日本語学科」であれ、そこに勤めている日本人の先生たちの給与の条件が悪すぎることが挙げられます。
名前を挙げれば誰でもが知っている、ホーチミン市内の大学に勤めている先生の話を聞いて(う~~ん)と唸ったことがありました。そこの大学の給料は毎月・毎月大学から貰えるのではなくて、何と「半年ぶんをまとめて、半年に一度だけ」だと言うのです。

さらにもっと驚いた私立の大学もあります。今から3年ほど前、そのA大学に勤めている日本人の先生からこういう話を聞いたことがあります。その大学も、最初にその日本人の先生が勤めた時には、「給料は半年に一度」でした。

それからしばらくして、その先生と再会した時、私がこう尋ねました。
「以前聞いた給料の支払い方は改善されましたか?」と。すると、何と驚くべき 答えがその先生から返ってきたのでした。

「いえ、いえ、改善されるどころか、改悪になりました。以前は半年に一度でしたが、今は一年に一度になりました」

そのように言われたのでした。「半年に一度」の給料でも大変ですが、「一年に一度」の給料で、どうやってアパート代を払い、食費を確保できるでしょうか。況や、将来のために「貯金」など出来るはずもありません。年金生活者なら「ボランティア精神」の気持ちで、異国で日本語を教えることに生き甲斐を見出す人もいることでしょう。

しかし、年金のアテが無い若者たちが、「半年に一度」「一年に一度」の給料のシステムでは、日本を飛び出して、異国で長い間働けるはずがありません。このホーチミン市でも日本語を教えている日本人はいますが、その多くが年配の方で、若者はあまり見かけません。

ホーチミン市で「英語」を教えている「欧米人」の先生たちは、「毎月一度」の給料を貰っているそうです。しかし、それが「当たり前」なのですが・・・。彼等に「半年に一度」や「一年に一度」の給与体系などを提示したら、おそらく怒り出すでしょう。

私の知人が面白い話を聞かせてくれました。知人がホーチミン市内に観光客が 多く集まる「デ タム通り」で欧米人の男性と話していたそうです。彼は市内に ある大学の英語の先生でした。

その欧米人に「日本語を教えている日本人の先生の給料は半年に一回が普通。中には、一年に一度の大学もあるよ」と話したら、その欧米人は眼を丸くして「クレイジーだ!信じられない!」と叫んだそうです。それが当たり前の反応だろうと思います。(人がいい日本人はナメラレているのかな・・・?)とも思う事例です。

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