春さんのひとりごと

中国への旅・後編

<中国の旅・後編>

● 中国旅行三日目:「沱江」下り ●

朝食の後、みんなで「沱江」沿いの街の見物に行くことにしました。外は肌寒いくらいの気温です。前日の夜に見た「沱江」の川沿いの光景は何とも幻想的で美しいものでしたが、朝もやの中に霞む「沱江」の川沿いの建物群も優美でした。

実は、私はこの日まで、ホテルの前を流れているその川の名前を知りませんでした。みんなで外に出かける前、一人で川のほうまで歩いて行きますと、私が泊まっているホテルの制服を着た男性従業員がたまたまその川の近くにいました。(彼なら当然この川の名前を知っているだろうな)と思いました。

それで、彼に筆談でこの川の名前を訊くことにしました。私が前の川を指差して、「○○川?○○河?」と漢字で書きますと、彼が書いたのは「川」でも「河」のほうでもなく、「沱江」の「江」なのでした。つまり「長江」の「江」と同じだったのです。同じ「かわ」でも「黄河」「長江」と分かれるように、中国語ではそれなりに何か意味の違いがあるのでしょう。でも、私は日本人ですので、「川」で表記しておきます。

しかし、昨日の夜に見た「沱江」は幻想的な光景でしたが、この日の朝見た「沱江」は「キレイな川」とは言えませんでした。我々が川沿いを歩いていると、水草が生えている場所に多くのゴミがプカプカ浮かんでいました。少し、クサイ臭いもしました。この川沿いには観光客目当てのホテルもいっぱい立ち並んでいるので、生活排水もそのままこの川に流れ込んでいるのでしょう。

そういう「沱江」でも、魚釣りをしているおじさんがいました。野菜を洗っているおばさんもいました。自分で食べるためなのか、商売で人に売るためのものなのかは分かりませんが、逞しいというべきか。私たちが昨日食べた料理の何品かも、この川で獲れたのを調理したか、この川の水で洗っていたものかもしれません。

事実、この川沿いの店のメニューには、この川で獲れた魚や「沱江名物の川エビ」料理がありました。小エビのかき揚げのような「エビの天ぷら」は如何にも美味しそうでした。食指が動きましたが、歩いて移動していた時だったので、買う余裕もなく通り過ぎました。

川沿いの店を眺めながら歩いてゆきましたが、売店の数の多さは驚くほどでした。実にいろいろなものが売られています。正体不明の生き物もいました。大きな甕に入った酒もありました。「沱江」の川沿いで売られていたお酒には、様々な種類のお酒がありました。「高粱(コーリャン)酒」「山葡萄(やまぶどう)酒」などは読み取れましたが、それ以外は不明でした。

湖南省にあるこの地域の名前は、正式には「湘西自治州」と呼ぶそうですが、ここには「土家族(トゥチャ族)」が105万人、「苗族(ミャオ)族」が86万人住んでいると聞きました。その少数民族の人たちがこの「沱江」に集まる観光客を相手にして、彼等独特の民族衣装を着て商売をしていました。

初めて彼等を眼にした私には、その衣装を見ただけでは、「土家族」の人なのか、「苗族族」の人なのかは分かりません。彼等はお客さんから写真撮影を頼まれて、ポーズを取ったりもしていました。その服には銀で出来た装飾品が飾られていて、実に豪華な衣装です。普段は「祭礼」や「婚礼」の時だけに着るそうです。まあ、確かにあのきらびやかな衣装で「農作業」などは出来ないでしょう。

川沿いを歩いていると、「沱江」を小船で遊覧している人たちがいます。この後、私たちもこれと同じ小船に乗って「沱江」下りをします。小船に乗る場所には多くの船が待機しています。そこでは、お客さん待ちをしている船頭さんたちが中国将棋を指しています。しかし、中国の将棋のコマは一つ・一つが実に大きいものです。
川の水自体は「清流」とは言えませんが、「沱江」の前に立ち、川を遠くにじーっと見ていますと、永い歴史に洗われた街並みが、実に落ち着いた風情を感じさせます。その理由は、個人的には「緑深い山々が背景にあること」からかな・・・と思いました。

この「沱江」は平地にある川ではなくて、緑したたる森に囲まれた山の中を流れています。そして、その川沿いに人が集まる商店、旅館、飲食街が造られています。それらの建物群の背景に深い緑の森があり、ここを訪れた人たちの気持ちを安らかにしてくれます。永い歴史を感じさせる建物が並んでいます。「七重の塔」もありました。

「沱江」の川沿いには多くのホテルや食堂が営業していますが、それらが背景の森に溶け込んでいて、川と森と建物が調和しています。観光地にありがちな「猥雑さ」を感じさせません。私は個人的に大変気に入りました。

「沱江」には多くの橋が架かっています。観光客はその橋を左右から自由に渡って、観光が出来ます。「風橋」と言う名前の橋もあります。いかにも詩的な名前です。明王朝を建てた「朱元璋」が自分の故郷を栄えさせるために造ったという「虹橋」も確かにありました。

「沱江」には幾つかの橋が架けてありましたが、「飛び石」や木の橋もあり、歩いて対岸に行けるようになっています。私も歩いて渡りました。渡り終えて、「飛び石」のほうを見ると、少数民族さんがその上でたたずんでいて、「沱江」を背景にして写真撮影をしていました。この時撮っていた写真が、いつか「沱江」の記念の絵葉書の一枚になっているのかもしれません。

同じ少数民族の人でも、「沱江」の川沿いで御土産を売っていた少数民族の年配の女性の写真を撮ろうとすると、恥ずかしいのか、他に理由があるからなのか、顔を隠します。写真を撮られることに抵抗感があるのかもしれません。言葉が通じないだけに、頭を下げて謝る仕草をしました。

私たちはこの後、「沱江」に浮かべてある小船に乗り、川沿いの風景を眺めることになりました。私たちが乗り込んだ小船は定員が9人でした。小船から見た「鳳凰城」の川沿いの風景は普通の建物のような感じでしたが、川沿いに多くの「民宿」のようなミニ・ホテルがあるのがよく分かりました。

そして、小船に乗ることわずか10分で、船での遊覧は終了。船着場が見えてきました。この後、みんなで昼食。私はまた街中を探訪に出かけました。ぶらぶら歩いていると、路上ではいろんなものが売られています。籠の中にいろんな動物がいました。蛇がいます。蛇はベトナムでも食べますので、奇異ではありません。

キジもいます。モグラのような、そうでないような、正体不明の生き物もいます。泥の固まりの中にアヒルを閉じ込めて、それを外側から炭火で蒸し焼きにして食べるような食材も売られています。アヒルさんの「蒸し焼き」とでも言うのでしょうか。こういうのを見ているだけでも楽しいものです。

「蜂の子」も売られていました。「蜂の子」は日本でも長野県では今も普通に食べられていると聞いています。しかし、巣の中から「蜂の子」がウヨウヨと蠢いているさまは、あまり気持ちがいいものではありません。もしかして、「蠢く」という漢字の由来は、この「蜂の子」が「蠢いている姿」から来たのかな・・・?とも思いました。

さらにここには、「長沙名物」<臭豆腐>もありました。その看板に書いてあった宣伝文句は<毛主席的最愛>。「毛主席が最も好んだのがこの<臭豆腐>だ!」と言う意味でしょうか。路上で売っているこういう庶民の食べ物にまで、かつての「国家主席」の名前が付けられているのを見ますと、その商魂の逞しさには感心もします。その<臭豆腐>に鼻を近づけてみると、なるほど、独特のクサイ臭いがします。

ベトナム料理でいろんな種類の料理を食べる時には、「普通の醤油」や「ベトナムの漁醤:ヌックマム」。「塩に胡椒やライムを混ぜたもの」などのいろいろな「タレ」を付けて味わいますが、その中でも小エビを発酵させた、強烈な匂いがする「タレ」の一種に「マントム」と言う名前のものがあります。

日本人の多くはその「マントム」が入った小皿に鼻を近づけただけで、「いや~、これはダメです|」と言って口には入れられません。それ以外にも「香菜はダメです!」と言われる日本人も多いし、「孵化寸前のアヒルの卵」「蛇」「蛙」「犬」「ネコ」「ワニ」「サソリ」「芋虫」などの料理を敬遠される日本人は多いですね。

しかし、私はベトナムに来た当初から、全ての料理が大丈夫でした。特に、「豆腐」を揚げた料理には、その「マントム」が無いと物足りなく感じるようになりました。そのキツイ発酵臭がする「マントム」が好きな私は、この時もつい、「食べたい!」衝動に駆られましたが、残念ながら歩いての移動中でしたので買えずじまいでした。

後で、中国滞在が長かった同僚の日本人の先生に聞きますと、
「<臭豆腐>は美味しいと言えば、美味しいのです。チーズのような風味がします。しかし、素材の豆腐や、使われている油が新鮮なものかどうかが疑わしいので、お腹を壊す可能性がありますよ。特に、中国の屋台や小さい店では経費を抑えるために、使っている油が下水から作った食用油(地溝油)も有りえますから」と言う話でした。

確かに以前、中国ではお客が店で油を使った料理を頼む時、店の油は使わせずに、自宅から持ち込んだ【My油】を使わせると聞いたことがあります。やはり、手を出さないで正解だったのでしょう。しかし、中国では路上の屋台の店で食事するのも命がけですね。思わず笑えてきます。

●中国旅行三日目:貴州省へ●

小船での「沱江」下りが終わり、昼食も済んだ後、我々は「鳳凰城」の観光の次は「貴州省」にある「苗(ミャオ)族」のお城「苗王城」を見物に行くことになりました。そこ「苗王城」には、バスに乗って、約一時間で到着しました。明の王朝はここに住む「苗族」に万里の長城の南にある端の地域を護らせる任務を与えていたという話でした。

「苗王城」の正門前には獅子を想像させる巨大な石像がデーンと据えてありました。歩いて進んでゆくと、左側の階段を上がった所が広場になっていて、そこでショーや歌舞をやっていました。若い男性や女性たちによる「歌と踊り」のショーを行っていました。

そして、「苗王城」内を見物に行くことになりました。ここの見所は城内に使われている石垣と石畳です。我々が歩いている地面の石も、塀に使われている石垣も、見たところ<天然の岩>を利用して造ったような見事な造形なのです。とにかく、壁や足元を歩いている時の地面の岩が、人工的な作りではなく、自然の岩を活用したような感じでした。

実際に、石で出来た壁を見ると、外から石を運んで来てこういう壁を作ったのではなくて、もともとこの地元の山にあった岩盤を利用し、その上に石を継ぎ足して載せたり、その付近の岩を切り出して作ったような、実に自然な仕上がりでした。そこには、ある種の美しさを感じました。

そこの見物を終えて、夕方3時半過ぎに私たちは「貴州省」の市内に移動しました。移動の途中のバスの中から、延々と続く「茶畑」の景色は実に美しいものでした。そして、「貴州省」の市内にあるホテルには4時50分に到着。名前が「万山紅大酒店」。中国では「○○酒店」という名前はホテルを意味するそうです。もともとは「酒を飲む店」だったのでしょうが、お客さんが食べて飲んで酔った後、そこにそのまま泊まるような商売に変わったのでしょう。

ホテルに着いた後、ホテル内で夕食を摂りました。でも、ここで食べた料理も特に「美味しい!」と言えるほどのものでもなかったので、有志のみんなでまた外の居酒屋に行くことになりました。その場所はヴィーくんが良く知っています。タクシー3台に分乗してそこに到着。そこは同じような居酒屋形式の店がズラーッと並んでいました。食材もトレーに入れられて、お客さんが自分で選べるようになっています。

メニューはヴィーくんに任せました。しばらくして、ヴィーくんが注文した料理が出てきました。しかし、食べた料理全てが辛い・辛い。唐辛子が多く使われていて、料理の色自体が赤い色をしています。「湖南料理は辛い!」と聞いていたのに、湖南省にいながらそういう「辛い料理」に出逢うことが無かったのでしたが、この日初めて噂通りの「辛い料理」が出てきました。期待が叶えられた以上、少々辛くても、頑張って食べることにします。

やはり、「湖南料理は辛い!」と言うことが事実であったことを、この日初めて実感しました。そして、驚いたことがありました。料理の中にあった具を箸でつまんで口に入れてみると、「こんにゃく」の食感と味がしたのです。それがいくつも料理の中に入っていましたので、3つ・4つ続けて食べてみると、やはり「こんにゃく」に間違いありませんでした。

「中国人もこんにゃくを食べるのか」と思った時、以前中国を訪問されたことがある「司馬遼太郎さん」が中国を旅行された時の記事の中で「こんにゃく」に触れていたのを思い出しました。司馬さんが著された「街道をゆく」という本の中のどこかに、そのことが出ていた記憶があります。

しかし、「街道をゆく」は全部で43巻もある大変な分量の本ですので、それが何巻目の本に載っていたのかまでは正確には思い出せません。確か「街道をゆく」の中の<蜀と雲南の道>のくだりではなかったかな・・・と思います。「こんにゃく」は私の亡き父が家の周りに「こんにゃく芋」を植えていて、季節になると「自家製こんにゃく」を作ってくれていましたので、懐かしい思い出があります。

その「こんにゃく」に触れた司馬さんの本自体が手元に無いので確かではありませんが、司馬さんはあの本の中で「中国でこんにゃくを食べたいと思ったのだが、結局食べることが出来なかった」と書かれていたように記憶しています。でも、私は食べることが出来ました。

さらには何と、「山椒の実」もその料理の中に使われていました。「湖南料理」の味を引き立てるためでしょう。最初は一見しただけでは分かりませんでしたが、皿に盛られた料理を箸でつまんで口に入れると、口の中がハァーッという感じが瞬間的にして、呼吸が少し苦しくなりました。

それで、すぐに飲み込まずに、口の中でその料理を味わっていました。すると、丸い、小さな粒が舌の上に転がりました。口の中に含んだ、その丸い小さな実を齧ると、それが「山椒の実」なのでした。これまた、意外な「驚き」でした。

日本の我が家は山の中にあるだけに、家の周りの畑に山椒の木が今でも何本も自生しています。その親木の山椒の木からは毎年その根元に落ちた実から、小さな新芽が出てきています。それが育つのを見るのが楽しみです。そして、私はその山椒の香ばしい香りが大好きです。山椒の葉っぱを手で触れるだけでもいい香りがしてきます。

日本に帰るたびに、朝ごはんで味噌汁を味わう時には、いつも、その山椒の葉を摘んで味噌汁の中に散らしていますので、大変懐かしい味がしました。その山椒の実が、ここで食べた「湖南料理」の中にあったのでした。山椒の木は苗から育てて、別の場所に移植すると無事に成長するのが難しいことは、私の田舎での経験から知っています。

おそらくは、日本にもし山椒の木が伝わったとしても、木ではなく、実の状態のままで持ち込んだのではないかな・・・と想像します。今回食べた料理に入っていた、こういう「こんにゃく」や「山椒」も、やはり中国から伝わったと考えるべきでしょう。どう考えても、その逆ではないでしょうから。

しかし、日本で味わっているのと同じような食材がこの中国にあることが、私には大変興味深いことでした。米と同様に、こういうのも長い歳月を経て日本に伝わったのでしょう。やはり、長い歴史を経て、大陸中国からはいろんな文化、植物、食べ物などが伝わってきたことが想像されます。

そして、今の私たちはそれらを「日本文化」、「日本料理」の一部として素直に受け容れることが出来ているのだろうなと思います。そういう意味で、「こんにゃく」と「山椒の実」を中国で味わうことが出来たのは、私にとって意外でしたが、嬉しいことでもありました。

私は19歳の時初めて司馬さんの「竜馬がゆく」を読みましたが、司馬さんの膨大な著作の数々は今でも私の愛読書です。司馬さんの数々の著作の中には、暗誦するに足る文章が幾つも出てきます。司馬さんが書かれた「風塵抄(中公文庫)」」の中にも印象的な言葉がいろいろ出てきます。次のような言葉です。

「われわれはニューヨークを歩いていても、パリにいても、日本文化があるからごく自然にふるまうことができます」

今回初めて中国を旅して、辛い「湖南料理」を食べていた時、その言葉を思い出しました。私の趣味は昔から、日本の近体詩や俳句や和歌や古典。中国の漢詩・漢文や、好きな人の作家の著作の中の文章の一節を暗誦することでした。

特に、松尾芭蕉の俳句のほとんどは今でも覚えています。最近の出来事は良く忘れるのに、十代、二十代の時に暗誦した詩や古典や漢詩や文章の一節を、今でも忘れずに覚えているのは、自分でも不思議な感じがします。

この時もその好きな一節がふっと出てきました。司馬さんの文章に重ねるのは畏れ多いことですが、普段私はベトナムに住んでいますので、今回中国を旅した私の身に、今回それを敢えて重ねてみますと、

「われわれは中国を歩いていても、ベトナムにいても、日本文化があるからごく自然にふるまうことができます」

ということになるでしょうか。そして、この日もやはり、夜11時までみんなと食べて、飲んで、タクシーでホテルまで戻りました。

● 中国旅行四日目:大明辺城へ⇒湖南省 ●

中国旅行四日目は「万里の長城」の南端の遺跡があるという「大明辺城」へ行くことになりました。そこに行くまでの風景がまた変化に富んだ、美しいものが続きました。山あり、川あり、池あり、岩山あり、葡萄畑がありました。見事だったのは、茶畑の美しさです。緑の絨毯を敷き詰めたような茶畑が丘を埋め尽くしています。

「大明辺城」に着いたのはちょうど朝の9時。ホテルを出て30分しか掛かりませんでした。しかし、「万里の長城」の遺跡があると聞いていたのに、それらしきものは見当たりません。

L専務に訊くと「本物の万里の長城の遺跡は山の中にあるので、みなさんが歩いてゆける所にはありません。ほら、あそこに遺跡のような土の壁がありますね。あれが万里の長城に似せて作った複製です」と言って、山の中腹にある、石と土で出来た「壁」のようなものを指しました。

彼が指差した山の方向を見ると、確かに土と石で固めたような「塀」が見えます。しかし、あれぐらいの高さの「塀」であれば、敵が簡単に乗り越えられそうな高さです。ここは辺境の地にあるので、あれぐらいの高さでも大丈夫なのか、長い歳月の間に風化したのかは分かりません。ともかく、観光客のみなさんは、その複製の「万里の長城」を遠くから眺めて帰ってゆくようです。仕方なく、私たちもそうしました。

「大明辺城」を見学した後、バスは湖南省の街に入り、みんなで昼食。私はまた街の探訪に出かけました。古いお寺や建物群がありそうな道を探して歩きました。すると、歩いて十分ほどの所に惚れ惚れするような景観の地がありました。これだから、旅先では街歩きが止められません。

みんながバスを降りて、昼食を摂った所の地名は、ここをブラブラ歩いていて眼にした「石碑」に彫られていた文字で分かりました。そこには「湘西州芙蓉鎮景点圏」とありました。因みに、中国語で「○○州」とは日本語の「○○県」を表し、同じく「○○鎮」は「○○町」を意味するそうです。日本語に訳して分かり易く書けば、「湘西県芙蓉町」となります。石碑の最後にあった「景点圏」がここの公園の名前なのでしょう。

そこを訪れた時に、眼の前には「蓮池」が広がっていました。そして、その「蓮池」に架かる小橋の上で釣り糸を垂れているおじさんがいたのです。これだけで、もうすでに「漢詩」として詠める光景です。その光景を見ているだけで、胸がジーンとしてきました。中国人はこういう光景を詠んだ「漢詩」がおそらく好きなのでは・・・と想像しました。

さらにまた感動したのは、この「蓮池」の周りには「芙蓉の花」が、今を盛りに花びらを咲かせていたことです。ここの地名が「芙蓉鎮」と言うのは、おそらくここに咲いている多くの「芙蓉の花」から付けられた名前ではないかなと想像しました。それぐらい「芙蓉の花」が咲いていました。

何と言っても嬉しかったのは、こういう街中の場所で「蓮池」を見ることが出来たことです。さらに、ここには広場もあり、そこには大きな石碑が建てられていました。しかし、その場所では誰も案内をしてくれるガイドもいませんでしたので、その石碑が意味する内容までは理解できませんでした。でも、それでもいいと思います。ここに住んでいる人たちが、この広場の「蓮池」を長い間みんなで護っているのだろうなぁ~と感じましたから。

そして、そこの「湘西州芙蓉鎮」での食事を終えて、一旦「湖南省」市内のホテルに戻りました。それから、夜に「湖南省」の「天門山」にまた行くことになりました。「湖南省」の張家界市にある「天門狐仙」というミュージカルショーを観るためです。昼食後2時間掛けて、夕方の4時過ぎに、張家界市に入りました。

しばらくホテルでゆっくりした後、夕食。そして、7時前にホテルを出て、「天門山」に着いたのはその1時間後の7時45分。バスが駐車場に着いた時、ものすごい数のバスが駐車していました。すべて、この日のミュージカルショーを観るためのお客さんを乗せて来たバスです。

「天門狐仙」については、以下のような説明がされています。
「天門山の峰を借景に、大自然そのものを舞台背景としたオープンエアで行われる超大型ミュージカルショーです。ショーの開始は夜で、音楽、舞踊、歌曲、奇術、曲芸などを組み合わせ、それらを水、光、音を駆使した舞台装置で盛り上げるステージはスペクタクル満載です。狐の娘と人間の若者の切ない恋がテーマになっていて、出演するアクター、シンガーの数は、なんと総勢500人を超えるという、とてつもないスケールです。このミュージカルショーは2009年9月の初演の日から、休むことなく公演され続けています。張家界の夜の観光スポットとして最高のエンターテイメントであることは疑う余地がありません」

ミュージカルは夜の8時30分から始まりました。この日の観客の数が、「今日は2000人の観客がいます」と司会者が話していましたが、ものすごい人数です。でも、我々が座った席の上には屋根も天幕もありません。(雨が降ったらどうするのだろうな?)と、他人事ながら心配になりました。

しかし、このミュージカルショー「天門狐仙」は実に壮大な劇でした。何と言っても、その舞台の背景としているのが「天門山」そのものなのです。ストーリーは単純で「狼の娘と人間の若者の恋愛劇」」なのですが、その演出のスケールの大きさ、スゴサには、私たちも大いに感動しました。

何よりもその劇に出演している人数がものすごい数でした。同僚の先生の話では「よく数えたら、600人はいましたよ」と言うことでした。「天門狐仙」については「動画」がありますので、そちらを観たほうがよく分かると思います。以下です。
https://www.youtube.com/watch?v=fVZQfFRYvCA

この劇はちょうど1時間半行われました。その後、我々がホテルに着いたのは11時半頃になりました。

● 中国旅行五日目:武陵源へ⇒そして、サイゴン ●

中国旅行最終日の五日目は「武陵源」へ行くことになりました。そして、この日の夜の便でサイゴンに戻ります。結果としては、この「武陵源」見物が、今回の参加者たちには大変な感動を残しました。自然が造り上げたその造形美には、ただ感嘆するしかありません。

そこを訪問する前に、この日、私たちが最初に行った所は「足マッサージ屋さん」でした。連日の移動で足が疲れたので、それをほぐすためということなのでしょうが、主たる目的はそこで売られている「薬」を買わせることです。ツアー会社が主催する旅行には、必ずこういう「販売促進スケジュール」がどこか一日は組み入れられています。それはヴィーくん発案の企画ではありません。

最初に、全員に腰を掛けさせて、タライに入れた薬草入りの熱いお湯を運んできました。しかし、そのお湯が熱くて、すぐには足を入られません。しばらくして、女性スタッフが出てきて、タライの中に私たちの足を入れて、足をマッサージしてくれます。そのこと自体は気持ちがいいので結構なのですが、店の責任者らしき人が前に出て、足湯の中に入れた薬草について、その効能をいろいろと説明してくれます。

20分ぐらい薬草が入った袋を手に持ち、いろいろと説明していましたが、最後に言いたいのは、要は「この薬草を買ってくれ!」と言うことです。何人かの人たちは断りきれずに買う人もいました。私は、サイゴンで両替してきた「人民元」の残金が少なくなってきたので、(ここで薬草を買えば、土産代が無くなるだろうな)と思い、何も買いませんでした。「蛇油精」と書いてある瓶入りの薬などは、250元(約4,000円)もしました。

50分ほどそれが続き、ようやくそこからみんな「解放」されて、いよいよ最後の観光地「武陵源」に行くことになりました。ここは行く前からいろいろ調べ、その写真なども見て、大いに期待していました。「武陵源」についてはWikipediaには以下のような説明があります。

「武陵源は、その独特の石の柱が立ち並んでいる景観で知られる。その柱は珪岩で出来ており、二酸化珪素の含有率はおおよそ75%-95%である。その石柱のほとんどが200m以上あり、場所によっては300m以上のものも存在する。珪岩の外に一部ではカルスト地形などの石灰岩で出来た地形もあり、40ほどの洞窟が確認されている。
植物層も豊かで、中国第一級保護植物が4種、第二級が40種確認されている。動物では28種の国家級保護動物が確認されている。
漢の時期、武陵山脈の近くに武陵郡を設置した。「源」は水と繋ぐ、水源の意味も含め、昔の詩の中によく「山と水があるいいところ」として使っていた。・・・」


また別の資料では以下のような説明もありました。

「中国の湖南省、張家界市に位置する武陵源。【武陵源の自然景観】として世界遺産に登録されており、近年では映画アバターのモデルになった場所として有名になりました。

総面積は約264km²にも及び、高さが200mを超える岩の柱が3,100本以上も林立する岩山の世界は一見荒涼とも見えますが麓には渓流が流れ豊かな森林が広がり様々な生態系を育んでいることから、「仙境の縮小版」とも呼ばれます。
この圧巻ともいえる岩山の絶景は、数億年の間に起こった地殻変動による隆起や雨風による浸食によって形作られました。

広く知られるようになったのは、近くに鉄道が敷かれた1970年代に入ってから。それまでは、トゥチャ族やミャオ族といった少数民族だけが暮らす秘境でした。彼ら少数民族は戦乱から逃れるため、この秘境の暮らしを選んだと言われており、今でも武陵源の奇岩には、こうした少数民族の苦難の歴史を伝える伝説が語り継がれています」


「武陵源」観光に行くには、まずバスに2回乗りました。2回目に乗ったバスが「武陵源」に着いた時間が朝9時50分。そこから階段を上ります。これが結構、勾配がきつくて、息が切れてきます。階段を上ったところに展望台がありましたが、ここからの眺めだけを見てもすごいものでした。

しかし、さらにまたそこから歩いて上に行きます。そこの展望台にはエレベーターがありました。高さが何と326m。46人乗りで頂上まで1分59秒で到着するということでした。このエレベーターが完成したのは、看板には「2002年4月」だと書いてありました。日本であれば「自然景観を壊す」という声が起こり、こういう設備を造るのをためらうかもしれませんが、ここには石柱と並行するようにしてエレベーターが出来ていました。

しかし、「天門山」のエスカレーターもそうでしたが、この「武陵源」でも、(よくぞ、こういうものを作り上げるなぁー・・・)と感心します。とにかく、その構造物のスケールの大きさには驚きます。「万里の長城」」といい、「紫禁城」といい、中国人は昔から大きな建造物を造るのに長けています。中国大陸を舞台にした王朝は目まぐるしく変わり、多くの民族が入れ替わりましたが、その伝統は今も続いているのかもしれません。

エレベーターから降りた時、私たちの眼の前に広がる光景は、ただただ「絶景かな!」と言う言葉しか出てきませんでした。ベトナム人のみんなも「Qua Vi Dai(何と偉大な)!」と口に出していました。「武陵源」自体はもちろん自然界が造り上げたものですが、こういう秘境に観光客を呼び込むまでの中国人の設備投資の凄さ・エネルギーには“感嘆!”の一語しかありません。

今回の旅でつくづくと“感心”させられたのは、このような自然景観の「凄さ」「美しさ」を観光客に「魅せる」熱意と努力の表れとして、こういうものスゴイ「移動手段」を中国人が考え付く、その発想のことです。

「武陵源」の場合もそうですが、「天門山」にも絶壁に沿った「ガラスの吊り橋」を観光客が歩いて回るものがありました。そういうのを造る発想が何ともスゴイものです。「武陵源」についてはインターネットに「画像」も載っていますので、それを見ればよく分かると思います。以下です。

リンクはこちら。

「武陵源」観光を終えたのは2時半でした。その後はロープウェーで下に降ります。バスに乗りましたが、バスの中でもまだ「武陵源」の「すごさ・偉大さ」の余韻が続いていました。

それから次は「お茶」の店に連れて行かれて、みんなはいろんなお茶を買わされました。私も「苦甘露」という名前のお茶を試しに飲まされた時、飲んだ時はお茶の「苦み」がしましたが、その後、口の中にじわ~っと「甘み」がしてきましたので、(これは美味しい!)と思いました。「苦甘露」と言う、その名前の通りのお茶でした。このお茶は人民元で200元でしたが、両替してきた人民元では足りなかったので、ドル払いで買いました。

そこを出て、「夕食」のためにレストランに向かいました。レストランの入り口には、詩人の「屈原」の像が立っていました。レストランに何故「屈原」の像があるのかは、良く分かりませんでしたが、最後の「中国での夕食」はそこで食べました。

そして、夕方6時40分に空港に向かい、7時半に空港に到着。そこには、中国に行く時にアテンドしてくれたベトナム人のガイドが来てくれていました。ここでヴィーくんと交代です。夜8時20分に全ての手荷物検査が窓口で終了して、みんなが出国ゲートに並びます。飛行機の出発時間は、予定では夜9時半です。ヴィーくんも中まで付いて来てくれました。有り難かったです。

しかし、その出国ゲートに本来立っているはずの係員が、その出発時間が迫っていても、誰一人いないのでした。女性の係員が二人いて、二人で囁いていた会話をヴィーくんが耳を澄ませて聴きました。彼等二人が話していたこととは(もしかしたら、社員たちが今日の便の出発のことを忘れているのかも・・・)とヴィーくんはベトナム語で言うのでした。それをヴィーくんから聞いたベトナム人たちは「信じられないことだ!」と驚き呆れました、当然、みんなが騒ぎ始めました。

その後、女性の係員の一人がどこかに電話を掛けました。でも、9時になってもまだ誰一人も現れません。「夜9時半が飛行機の出発時刻なのに大丈夫かな・・・」とみんなが口々に叫んだ時、ようやく制服を来た一人の男性が現れました。その後、4人ほど続いて駆けつけてきました。それでも、「みなさん、お待たせして申し訳ありません」の一言もありません。その後、ようやく、出国手続きを済ませて待合室まで入りました。

しかし、この後、さらにまた驚くべきことが起きました。何と肝心の<Viet Jet Air>の飛行機自体が、まだ中国に到着していなかったのです。これまた信じられないことでした。後でいろいろ人に聞きますと、<Viet Jet Air>は遅延や欠航が良くあるということです。この航空会社は「格安航空会社」として有名で、みんなもそういう事情は良く知っているからか、(ああ、またいつものことか・・・)と、諦めている様子で、怒り出す人たちはあまりいません。

しかし、空港内には全くこの飛行機の遅延に関しての案内が、英語でも中国語でもベトナム語でも日本語でもありませんでした。同僚の日本人の先生が堪りかねて、「飛行機が何時頃空港に到着するのかの案内ぐらいしてください」と、搭乗する受付入口に座っていた女性に英語で言いますと「それは私たちの仕事ではない」と言う態度で、冷たくあしらわれたということです。

そして、最終的に<Viet Jet Air>の飛行機が空港に到着したのは夜10時過ぎで、飛行機内に入れたのは夜10時20分。その後、中国の空港を離陸したのが夜10時50分でした。予定より1時間20分も遅れてしまいました。やれやれでしたが、ようやくベトナムに戻ることが出来ることになりました。

そして、サイゴンの空港に到着したのは深夜1時50分。そこから、学校までタクシーでみんなと相乗りして、学校に着いたのはちょうど深夜3時。それから、私は一人でバイクに乗って帰りました。深夜なので、道路もスイスイと空いていました。私にとって初めての「中国への旅」が無事に終わりました。

●旅の終わりに●
今回の中国の旅も無事に、全員事故もなく、病気になった人もなく、楽しく終わりました。中国に行く前に脅かされていた、「中国人は悪いから気を付けてね!」と言う言葉も杞憂に終わりました。

そもそも、今回の中国行きは個人旅行ではなく、最初から最後まで団体ツアーの中での移動、食事、買い物でしたから、そういうトラブルに巻き込まれることも無かったのだと思います。やはり、一人で旅をしている場合は、いろんなトラブルに遭遇する可能性は高いでしょう。

今回の中国の旅ではいろいろと勉強になったことがありました。今回「中国の旅」を終えての感想は、昔から言われているように中国は「地大物博」という言葉に尽きます。中国に行く前と、行った後では、中国に対しての印象が大いに変わりました。まさに「百聞は一見に如かず」という諺の通りでした。

今まで私は、<中国への旅・前編>の冒頭にも記したように「現代の中国」に対しては何の魅力も感じてはいませんでした。しかし、その「現代の中国」にも「悠久の歴史」」の足跡が、中国各地の到る所に残されています。いろいろな本で知っている「万里の長城」というのも、現地で「今からそれを見に行きますよ!」と言われると、朝から気持ちがワクワクしてきたのでした。

青年時代に読んだ、吉川英治さんの『三国志』でお馴染みの【魏・呉・蜀】という言葉自体を、現地の中国で「この湖南省の地が三国志の呉の国のことですよ」と聞きますと、一気に『三国志』の世界に引き込まれた感じがしました。現在の中国各地を旅しても、歴史世界の中国に触れる場所がおそらくいろいろな地方にあることでしょう。そういう意味でも、またいつか中国を訪れたい気持ちになりました。

 

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

台風号がホーチミン直撃、40年ぶり記録的豪雨

台風29号(アジア名:ウサギ(Usagi)、ベトナムでは台風9号)が、24日から25日にかけてホーチミン市や東南部地方バリア・ブンタウ省、南中部沿岸地方ビントゥアン省など南部の沿岸一帯に上陸した。

この台風の影響により、ホーチミン市では40年ぶりの記録的豪雨となり、市内各地で倒木や道路の冠水、民家の浸水など甚大な被害が発生した。

26日までの統計によると、被害を受けた各省・市で民家約50軒が倒壊し、船46隻が沈下したほか、ホーチミン市ビンチャイン郡で倒木により1人が死亡した。

ホーチミン市では300~400mmの雨量が観測され、市内約60か所で激しい冠水が発生し、26日午前になっても水が引かないままだった。特にタンビン区で観測された雨量は408mmにも達し、1区では301mmの雨量が観測された。

ただし、各地方自治体は台風が襲来する前から住民の避難などの対策に積極的に取り組んでいたため、今回の台風による被害は限定的だった。

<VIET JO>

◆ 解説 ◆

今年日本で起きた「大雨」「地震」「酷暑」「台風」は異常なものでしたが、ベトナムでは日本で頻繁に起きるような自然災害はあまりありません。地形図で見ても日本列島は火山帯の上に乗っていますが、ベトナムの場合は火山帯から外れています。

私はベトナムの南部地方に住んでいますが、この地域での天変地異は少ないです。地震もほとんど無く、あっても震度は軽微なものです。今までサイゴンに住んでいた21年間で、私が経験した地震は1回だけで、それも弱い地震でした。建物が少し揺れただけで済みました。

それでも、地震自体を経験したことが無いベトナムの人たちは大いに驚いたようで、ビルで働いている人たちは通りに飛び出し、多くの人たちが路上に集まり、自分たちが働いていたビルを不安そうにじーっと見つめていました。

しかし、台風の影響はあります。特に中部地方はよく直撃を受け、風雨の影響があります。昨年の社員旅行で「ダナン」を訪問した時、その台風の直撃を受けて、旅行のスケジュールが大幅に変更になりました。中部に台風が襲来する時、南部にも雨が多少降りますが、強い風はあまり吹きません。

11月25日にサイゴンを直撃した今回の台風は風による被害は少なかったものの、大雨による被害が甚大でした。この記事では「40年ぶり記録的豪雨」と載っていますが、サイゴンに21年住んでいる私自身も今まで経験したことがない、多量の雨が降りました。

雨は朝から降り続きました。「台風による雨」だというのは知っていましたので、午後にはどこかへ去ってくれるだろうと考えていましたが、午後になっても同じように切れ目無く雨が降り続きます。それも多量の雨です。昨年の中部の旅行で遭遇した台風も、なかなか去ってくれませんでしたが、似たパターンになりました。そして、昼過ぎ頃から恐るべき事態が起こりました。

朝から降り続いた雨は各所から道路上に集まりだしました。普通の量の雨であれば、そこから自然と下水溝に流れてゆきます。しかし、この日は違いました。余りの量の雨の多さに、下水溝に流れてゆくべき雨水がどんどんと道路上に溢れてきました。

困ったことに、ベトナムの人たちは雨水が入る下水溝の穴に、ビニール袋に入れたゴミなどを普段も平気で投げ捨てています。それで、ただでさえ水はけが悪いのに、この大雨で、下水溝に流れ切らない雨が道路上に溢れ、道路上の水かさが徐々に上がってきました。次には、その道路上に溢れた雨水が建物内に入り込んできました。

私が住んでいる場所は以前、道路よりも建物入り口のほうが高くなっていたのですが、7年ほど前から道路工事をして、今は入り口のほうが道路よりも低くなってしまいました。それで、その高くなった道路側のほうから一階室内のほうに水が流れ込んできました。この日はたまたま日曜日でしたので、家族全員でタライを使い、水を掻き出す作業に追われました。

そして、夜になるとものすごい光景が出現しました。市内の到る所の道路が冠水・水没し、タクシーは車高の半ばくらいまで水が浸っています。まるで川の中を走るような感じで、水を跳ね除けながらタクシーが突っ走っています。まるで、ボートが水上を走っているような光景でした。タクシーに手を上げて停めようとしたお客さんもいましたが、こういう時はタクシーも捕まりません。

特にバイクで移動していた人たちが悲惨でした。要領がいい人は歩道にバイクを乗り上げて、そこを走っていました。しかし、水が溢れた道路に突っ込んだバイクは故障が続出していました。ほとんどのバイクはマフラーの中にまで水が入り、エンジンがかかりません。みんなバイクを手で押して歩いていました。

こうなると、もうお手上げ状態です。外で出かけるのもままならず、我々も何もすることが出来ずに、早々と寝るしかありません。そして翌朝起きて一階に下りると、さらにまた驚くべき光景が現れていました。一階全部が水浸しになっていたのでした。(こういうこともあるかな・・・)と思い、昨夜寝る前に一階の電気製品の電源を全て切っておいて正解でした。

冷蔵庫の電源も切りました。冷蔵庫の中の氷はすべて溶けてしまうだろうというのは分かりましたが、「緊急事態」ですので仕方がありません。水に濡れると困る荷物や道具や食品類はテーブル上に置いておいたので問題ありません。隣近所の家を覗いて見ると、やはり同じようなヒドイ状態です。家の中まで水が浸水しています。

しかし、まだ外の道路上の水自体が引いていませんので、家の中の水を掻き出す作業も無理です。そして、夕方を過ぎた頃から徐々に水が引き始めました。水が引いた後の階段の石の側面には、水が浸水した時の跡がくっきりと残っています。石に水が染みとおっている状態でしたので、長時間浸かっていたということです。メジャーで測ると何と35cmの高さがありました。その高さまで家の中に水が入り込んでいたのです。

当然、木製の家具類は水を含んで、家具の下の部分が変形しています。前日に抜いておいた引き出しを力強く入れようとしても、なかなか入りません。水を含んだ家具はふやけてしまい、家具としては使い物にならなくなりました。「台風一過」後は、おそらく多くの家が家族総出で後片付けに追われていたことでしょう。市内全域の小学・中学・高等学校も翌日は全部休みでした。

面白かったのは、翌日の新聞に、同じような「床上浸水」の体験をした人たちが、「使い物にならなくなった家具類」を公共の広場や道端にドンドンと捨てている写真が載っていたことです。確かに、「使い物にならなくなった家具類」は家の中では「粗大ゴミ」になりますから、外に捨てたい気持ちも分かります。しかし、写真で見ると、結構大きい家具類もありましたので、(どうやってそこまで運んだのだろうか・・・)と、笑えてきます。

今回の台風による被害で、倒木の下敷きで亡くなった方が一人いたと新聞にも載っていました。たまたまバイクでそこを通りかかった人が、倒れてきた大木の下敷きになったようです。運が悪いとしかいいようがありません。

しかし、今回人的被害が少なかったのは、「台風29号」が襲来したのがたまたま日曜日だったからだと思います。サイゴンに台風が襲来すると聞いていても、平日であれば(台風が来たと言っても、いつものごとく、大した影響は無いだろうな・・・)と考えて、普段通りに仕事に出かける人たちも多かったはずです。

そういう人たちが、会社での仕事が終わり、帰路に着く時間頃に道路が冠水・水没していれば、到る所で交通事故が発生していたことでしょう。普段ですら、出勤時・帰宅時には、サイゴン市内は交通渋滞が到る所で発生しますから、もし今回直撃していたら甚大な被害が出ていただろうなと思われます。

今回の教訓:<台風が襲来したら、外には出るな!!>です。

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