春さんのひとりごと

中国への旅・前編

今私が教えている日本語学校で、今年の「社員旅行」は中国行きに決まりました。私自身は嬉しくてたまりませんでした。何故なら、中国に行くこと自体が初めてのことだったからです。<現代の中国>には全然魅力を感じてはいませんが、<古典世界の中国>は私にとって「憧れの対象」だったからです。

しかし、旅行が始まる二週間ほど前までは、具体的に中国のどこを観て回るのかは判然としませんでした。ベトナムの旅行会社から来た「案内」には、ベトナム語で全て表記してあり、そのベトナム語の表記自体が、中国のどこの地名を指すのかが良く分からなかったからです。

今回私たちが訪問する場所の中でようやく分かった地名が、中国の「湖南省」「貴州省」であり、観光地では「天門山」「武陵源」などであることが分かりました。
「湖南省」の案内をインター・ネットで調べると、次のように紹介されています。

「湖南省は中国南部の山岳地帯にあり、共産党の指導者であった毛沢東の故郷でもあります。1893 年に毛沢東が生まれた韶山市では、泥レンガ造りの生家や毛沢東記念館を見学できます。湖南省北西部には、珪岩でできた何千もの石の柱、洞窟、滝、絶滅危惧種の野生動物で知られる武陵源の景観区があります」

いずれにしても、中国を初めて訪れる私には、その地名からして(どんなところなのだろうか・・・?)と、行く前から期待で、胸がワクワクしていました。さらには、現地での食べ物や飲み物についても、大変楽しみにしていました。

そして、サイゴンを旅立つ日が決まった一週間ほど前、私が行きつけの「SUSHI KO」の男性店員に「来週の日曜日から四泊五日で中国へ旅行に行くので、しばらくここには来れないよ」と言いますと、その男の店員は「そうですか・・・。しかし、中国人は大変悪いので気をつけてね!」と言うのでした。

彼はまだ19歳の若者なのですが、彼の口からそれを聞いて思わず笑いました。彼が言った「悪い」と言う単語は、ベトナム語では「ac(アク)」になります。「漢越語」なので、漢字の「悪」とベトナム語の「ac」は同じです。元々は中国語の「悪」が、今のベトナム語でも「ac」として使われているのでしょう。言葉の語源というのは、実に面白いものだなぁ~と思います。

それを聞いて、ずいぶん以前に北部のベトナム人から耳にしたことを思い出しました。私がベトナムに来てしばらくして、ベトナムの南部から北部まで一人で旅行したことがありました。電車やバスを乗り継いで、北部にある町「サパ」に着きました。そこの「サパ」は中国国境の近くにある町です。それで、中国人との接触も多いのでしょう。

「サパ」の町では、最初に入った小さな食堂の料理が気に入り、「サパ」を観光した日の夕方は、毎日同じ店で食べていました。その日の夕方も同じように、その店でご飯を食べていますと、そこで仲良くなった食堂のおかみさんが、私に向かって、次のように話したのを今でも覚えています。

“中国人は毒悪だ!”

そのように、私に話しました。ここでの中国人に対しての評判は「悪」の前に「毒」まで加わり「毒悪」になっていたのでした。具体的に「何が毒悪なのか?」と、その当時の私はそれを聞くだけのベトナム語の能力は無かったので、その時にはただ聞き流していただけでした。

中国に行く前から、ベトナム人の若者から、中国人についてはそうして脅かされました。そのような中国人に今回の旅で出会うかどうかは分かりません。しかし、訪問予定の観光地である「天門山」と「武陵源」をインター・ネットで調べると、日本でもベトナムでも、まず見たことが無いような光景の写真があり、大いに期待して「中国」に行くことにしました。

私にとっては初めての、まだ見ぬ「中国への旅」になりました。結果として、今回の旅では、中国に関して「いろいろと考えさせられた事」、「意外な“発見”」、「感動したこと」、「勉強になったこと」などがたくさんありました。

● 中国・湖南省への旅 ●

毎年恒例の「学校の社員旅行」が今年も行われることになりましたが、今年の旅は「中国」になりました。私にとっては、初めての「中国への旅」になります。今年は総勢40人の参加者で「中国」に行くことになりました。今まではベトナム国内の「社員旅行」が多かったので、<ビザの問題>は発生しませんでしたが、今年はその問題が起きました。

日本人が中国に行く時、15日以内であれば<ビザ免除>となりますが、ベトナム人の場合は滞在期間にかかわらず、<ビザの申請>をしないといけません。しかし、今回中国への<ビザの申請>をした30数人のベトナム人の参加者の中で、三人ほどがビザを受け付けてもらえなくなり、泣く泣く断念しました。その理由は分かりません。<ビザ>を受け付けてもらえない理由も、中国側からは示されなかったということです。本人たちも残念がっていました。

最近のニュースでもありましたが、日本人が海外に行く時に<ビザ免除>となる国は190カ国となり、これは「世界一」だということです。特に、海外に住む私たち日本人には嬉しいニュースです。ある一人の旅行者が一つの国を観光で旅行するとしても、15日間もあれば、有名な観光地の主要なところは十分に堪能できるでしょう。そういう意味では、その恩恵に与れる日本人には大変有り難いことです。

今年の「中国への旅」は10月14日に出発しました。そして、「中国への旅」を終えてベトナムに戻る日は18日で、四泊五日の旅になります。しかし、ベトナムに戻った時、空港に着く時間が、「深夜の0時45分予定」となっていましたので、(タクシーで帰るとなると、すぐにつかまるかどうかも分からず、不便かな・・・)と思い、旅行の間は学校にバイクを預けておくことにしました。

サイゴンに着くのが深夜なので、行きは学校内の寮に住んでいる日本人とベトナム人の先生たちと一緒にみんなで空港まで移動し、帰りもみんなと一緒に学校まで戻り、その後私は自分のバイクで戻ることにしました。それで、今回の旅行に参加する先生たちと一緒にタクシーに相乗りし、タンソンニャット空港には午後1時着。

しかし、この日は大変な人の多さでした。事前に聞いていた集合場所に移動。すでに何人かは到着していました。今回利用したのは、格安航空会社として知られる<Viet Jet Air>です。中国の空港名は「Dayang」空港です。漢字表記では「荷花」空港となっています。飛行機がサイゴンを離陸するのは「15:30」、「Dayang」空港に着くのが現地時間で「20:45」。ベトナムと中国との時差は1時間です。

<Viet Jet Air>は格安だけあり、機内サービスもあまり良くありません。食事は無し。オシボリも無し。今回は、小さいペット・ボトルに入ったミネラル・ウォーターを1本だけもらいました。まあ、機内にいる時間が短いので、それで問題はありません。もし、お客が機内で食事をしたい場合は、別料金を払えば可能です。実際に、この日も夕方6時くらいになると乗務員がワゴン車を押して通路を回り始めました。機内は満席状態で混んでいました。我々の他に、別の旅行会社のツアーに参加していたベトナム人の旅行客も大勢いました。

飛行機は3時50分に離陸しました。私は3人掛けの席の通路側に座りました。そのすぐ隣には2人のベトナム人の女性がいました。しばらくして、隣の席に座った女性が私に飴を差し出して「どうぞ!」と言いました。

それから、会話のキッカケが始まり、私が「どこから来ましたか」とベトナム語で聞きますと、「えーっ、あなたはベトナム人ですか!」と笑顔になりました。「いえ、日本人ですが・・・」と答えると、「そうなんですか!」と喜んでくれました。

彼女が言うには、その2人の女性たちの前の席に座っている人も、後ろの席の人も、同じ団体の「中国ツアー」で来ていますと話していました。私が会社からもらった、ベトナム語で書いてある「旅行案内」を彼女に見せますと、「あら、私たちとほとんど同じコースを観光することになっていますね」と答えました。

それはいいのですが、夕方6時半頃に、その2人の女性が乗務員にカップ麺を注文しますと、前の席、後ろの席に座っていた人たち全員が同じようにカップ麺を注文しました。彼等がカップ麺に熱湯を注いで3分間経ち、そのカップ麺のフタを空けた時、強烈なラーメンの匂いが隣からも前からも後ろからも襲ってきました。(空港に着くまで我慢出来ないのかな・・・)と思いましたが、よっぽどお腹が空いていたのでしょう。

そして、飛行機が中国の空港に着陸する直前に、客室乗務員が機内で突然スプレーを撒きはじめました。それも続けて3回も撒きました。当然機内は臭くなります。(何のために?)と思い、隣のベトナム人に聞きますと「中国到着前に飛行機内を殺菌・消毒するため」と言うではありませんか。(中国国内こそが殺菌・消毒の必要があるだろうに・・・)と思い、笑えてきました。

● 中国旅行一日目:湖南省到着 ●

我々が乗った飛行機は夜7時10分に「荷花空港」に無事に到着しました。飛行機に乗っていた時間は3時間ぐらいです。中国の現地時間では夜8時10分です。そしていよいよ、中国で「入国審査」を受けます。これが実に厳しいものでした。日本でもここまで厳しい空港はないだろうなと思うぐらいでした。

入国審査の受付に立ちますと、全員が「顔写真」を撮られました。次に、左右の両手の親指以外の指全部を液晶の画面に当てて指紋を採られました。係員が「良し!」と言うと、次に両手の親指をまた画面に当てます。(何のためにここまで厳しくしないといけないの?)と思いましたが、中国の規則でそう決まっている以上は仕方がありません。そういうやり方に慣れていない日本人などは何回もやり直しをさせられていました。

今の中国では、外国から中国に入る場合は「顔認証」と「指紋認証」の二つのチェックがあるということでしょう。(中国から帰ってしばらくして、日本に戻った知人から、最近は日本の成田空港でも「顔認証」システムを採り入れたと聞きました。それで、「入国審査」の手順がスピード・アップされたようです。)

それらの関門を全員が無事に通過してバスに乗り込んだ時には、中国の時間で夜9時40分になっていました。外の気温は16度でした。大変涼しかったです。サイゴンから持って来たウインド・ブレーカーを着ました。全員が自分の荷物を受け取り、外に出ると、中国人男性のガイドが待っていました。

中国人ガイドのヴィーくんここで、サイゴンから同伴してきたベトナム人のガイドとはお別れです。中国人のガイドの名前は「ヴィー」くんだと、ベトナム人の担当者から紹介されました。「今年36歳です」と言いました。ベトナム語を大変流暢に話します。バスに乗った時、私のすぐ目の前に彼が立ちましたので、彼の説明が一段落した後、彼の名前を漢字で書いてもらいました。

私が差し出した紙に書いた彼の名前は、今の中国の「簡体字」で書かれていました。それで、中国語が分かる同僚の先生に聞きますと、日本の「常用漢字」に直すと「黎東偉」になりますとのこと。名前の「偉」は「偉大」の「偉」で、ベトナム語の読み方では「ヴィー」と発音します。従って、「偉大」「ヴィー ダァーイ」となります。ベトナム語での意味も、日本語と同じです。後でその同僚の先生に聞きましたら、「偉」は中国語では「ウェイ」と発音するそうです。語感としては似ていますね。

今回の旅の間は、朝早くから夜遅くまで、このヴィーくんに付き合ってもらいました。私が初めて親しく話が出来た唯一の「中国人」になりました。彼は今回の旅の間じゅう、大変面倒見が良かったです。我々が夕食を終えて、一旦ホテルの部屋に戻った後、「有志の方で飲みに行きましょう!」と声を掛けて、ホテルのフロント前に集まった時には、彼も必ずそこにいました。

現地の地理に不案内なベトナム人たちが「飲みに行きましょう!」と言うのですから、トラブルが起きたら大変です。それで、彼も心配になり(一緒に行かないと不安だな・・・)と気を遣ってくれたのだろうなと思います。ガイドの仕事は一旦終わり、後はフリーの時間なのに、レストランであれ、飲み屋であれ、最後まで付き合ってくれました。

これから、そのヴィーくんの案内で、一路、「湖南省」市内のホテルに向かいます。彼がバスの中で話すのは当然ベトナム語です。初めて到着した中国「湖南省」。ホテルに向かう街中の景色をバスの中から眺めながら、この初日に(ほー・・・)と感心したことがあります。

それは「街中にゴミやビニール袋が落ちていなかったこと」。これは予想外の「発見」でした。今まで私は「中国は全土がゴミだらけ、川は汚染の極みだろうなぁ~・・・」と思い込んでいました。しかし、ここはそうではありませんでした。

今回の私たちが「中国への旅」で訪問した場所は「湖南省」と「貴州省」の二つだけです。その二つの省しか見ていませんが、驚いたのはこの二つの省とも「街中や道路にゴミが無かった!」ことです。「道路」や「公園の植え込み」や「路地」などを見ても「ゴミが無い!」。

ベトナムでは市内であれ、郊外であれ、到る所に「ゴミ」がポイ捨てされ、「ビニール袋」が落ちていますが、今回訪れた場所には「ゴミが無かった!」のでした。

中国に行く前は、中国の大気汚染や川の汚染をいろいろと聞いていたので、(さぞ街中もゴミだらけだろうな・・・)と先入観を持って考えていました。中国の「全省は23省」あるというような広大な大陸ですので、それは他の省もそうなのか、それとも違うのか、今回初めて中国を訪問した私には分かりません。

後で、中国事情に詳しい同僚の先生に聞きますと「湖南省と貴州省の二つとも<観光地>として多くの観光客を受け容れているからですよ。それで、観光地なので、環境整備にも力を入れているのです。他の省ではやはり、ゴミが到るところに落ちたりしていますよ」と言う話でした。いずれにしても、私たちが訪問した場所で、ゴミを見かけることなく旅が出来たのは気持ちがいいものでした。

さらには、もう一つ驚いたことがありました。ホテルや公共の「建物」を飾っているイルミネーションがスゴイものでした。「看板」の電飾ならベトナムでも普通にありますが、ここでは「建物」の屋根から軒先まで、さらに建物の全体を色とりどりの電飾できらびやかに飾ってあります。街中の主要な、大きな建物がそうなのです。(少し節電したほうがいいのでは。さぞ電気代が掛かるだろうな・・・)と思いました。

そして、私たちが乗った観光バスは中国時間の夜10時45分にホテルに到着。夜遅い時間でしたので、そのままホテルで寝たい人たちと、外で夕食を食べたい人たちのグループが半分に分かれました。元気な人たちはホテルから少し離れた所にあるレストランに移動。私も行きました。

店に入ると、先客でいた中国人のお客さんがギョッとした表情で私たちを見つめていました。団体で入り、ベトナム語で話していた集団で入ったので、おそらく(この人たちは外国人だな~)と分かったのでしょう。

全員で20名ほどがここには来ました。テーブル数は1テーブルに10人掛けで、2テーブルに座りました。ここからの全てのメニューは、ガイドのヴィーさんに任せました。彼はここには何回もお客さんを連れて来ているようで、店の人とも懇意な様子でした。

ここで出て来た料理は大変美味しいものでした。中国に行く前には「湖南料理は辛いですよ!」と聞いていましたが、この日食べた初めての料理はさほど辛くはありませんでした。特に羊の肉を串焼きにした料理が絶品でした。羊の肉は外側がキツネ色に焼けているのに、その串が焦げて真っ黒になっていないのが不思議でしたが、ヴィーくんの話では「固いリンゴの木で出来ています」と言う話でした。

そして、ここで初めて中国のビールを飲みました。名前は「雪花ビール」と言う名前でした。瓶ビールで出てきましたが、冷えた状態ではなく、常温で出てきました。氷が出てくればまだしも、それも無いのでした。しかも、そのビールを飲むコップがペラペラのプラスティックで、サイズも小さくて、湯飲み茶碗を細長くしたような感じです。片手で少し強く握ると中のビールが飛び出てきます。

今回の旅の間はずっとこのタイプのコップしかお目にかかりませんでした。サイゴンでいつもビールを飲む時に出てくる、ガラスのコップはついに出てきませんでした。要は、毎日グラスを洗うのが面倒くさいので、「使い捨てタイプ」を優先しているのでしょう。

それはまだしも、問題は「ビールの度数」です。最初に「雪花ビール」を飲んだ時、(何だ、このビールは?)と思いました。サイゴンでタイガービールを最初に喉に含んだ時の(カーッ!)と言う感じも、喉越しの「旨さ」もないのです。何か、お茶を飲んでいるような感じでした。「雪花ビール」を一本飲んでも、全然酔った気分になりません。

(何故だ?)と思い、飲んだ「雪花ビール」の瓶の横に貼ってあるラベルを見ました。すると、アルコール度数が何と「2.5%」と書いてありました。サイゴンでいつも飲んでいる「タイガービール」は5%ですので、半分のアルコール度数しかありません。酔わないはずです。この日私は「雪花ビール」を4本飲みましたが、全然酔いません。

(中国人はよくぞこんな薄いビールを飲んでいるなぁー)と思いました。翌日、そのことをヴィーくんに聞きますと、「中国人が酔いたい時に飲むのはビールではなくて、焼酎です。中国のビールは10本ぐらい飲まないと、酔いが回りません」と答えましたが、牛や馬でもあるまいし、「そんなに飲めるか!」と思います。

この翌日、ガイドのヴィーくんに「もう少しましなビールは無いの?」と言いますと、「分かりました。明日の夕方の食事の時には、今日のよりも美味しいビールを注文しておきますね」と言ってくれました。その翌日出て来たのは「青島(チンタオ)ビール」と言う銘柄のビールでした。

確かに、この日飲んだのよりはマシな味がしましたが、それでもアルコール度数を見ると、3%しかありませんでした。タイガービールと比べると、やはり度数が低いのです。「中国はビールの種類が豊富」と聞いていた割には、今回の旅で出会ったビールの種類はたった3種類ぐらいでした。しかも、その全てのビールの「味が薄い!」のです。

さらには、ビール自体が冷えていないので、また不味い。冷えていないビールでも、ベトナムのように「氷」を入れて飲めばいいのですが、その氷も出て来ない。出て来たのは、ホテル内で食事をした時の一回だけでした。しかし、「何故中国のビールは薄いのか?」については、今も疑問のまま残っています。

● 中国旅行二日目:天門山へ行く ●

中国旅行の二日目は「天門山(てんもんざん)」への旅行です。「天門山」については、前日の深夜に「Dayang」空港に降り立った時、空港内の掲示板にもその写真がありました。ベトナム語名は「Thien Mon Son(ティエン モン ソン)」と言います。漢字表記からのベトナム語の発音です。

Googleには「天門山」について以下のように紹介があります。
天門山(てんもんざん)は、中華人民共和国湖南省張家界市永定区にある標高1518.6mの山。張家界市内より南へ10km離れた所に位置している。263年(三国呉永安六年)に強い地震があった。呉景帝孫休はこれを吉祥の兆しだと思い、「天門山」の名を授けたとされる。1992年7月、中華人民共和国国務院は天門山を国家森林公園に認定した」

天門山の模型この日の観光は「天門山」に行くのですが、ホテルを朝8時20分にバスに乗って出て、8時半過ぎにロープウェー乗り場に着きました。しかし、この日は我々と同じように「天門山」の観光に行くためのお客さんがたくさん来ていて、ものすごい行列が出来ていました。

「天門山」に行くには、このロープウェーに乗りますが、何とその長さは7500mもあります。このロープウェーに乗るまで、約一時間ちかく並びました。ロープウェーに乗るために我々が待っていた場所には「天門山」の模型が展示してありました。それを見ると、「天門山」がどういう地形なのかが分かるようになっています。

そして、いよいよロープウェーに乗り込みました。ロープウェーに乗り、そこから眺める景色は雄大です。特に、眼の前に見える山は絶壁あり、奇岩あり、目を見張るような光景が続きました。日本ではまず見ることが出来ない光景です。

高い所から見るこの風景は素晴らしいものでした。しかし、「高所恐怖症」の人はダメかもしれません。実際に、同じロープウェーに乗っていた一人の男性は、この素晴らしい風景を見ないで、ずっと頭を抱えて、最後まで床を見ていました。

ロープウェーに乗って、眼下・眼前の景色を見る時間は30分も続きました。そして、ロープウェーを降りた所に広い建物があり、そこの壁に「天門山」の俯瞰図がありました。英文の説明もありました。ガイドのヴィーくんがその地図を示しながら、この「天門山」について、ベトナム語で説明をしてくれます。

しかし、彼が指し示した地図を見るだけでも、観光地としての「天門山」は広大なものです。とても、人間の足だけで歩いて回ることは出来ないような広い範囲に及んでいます。この場所まで観光客を30分も乗せて運んで来たのがロープウェーだったのです。

ロープウェーから降りた我々は、ここから絶壁に沿うように作られた回廊を歩き、次に床一面が分厚いガラスで出来た桟橋を歩きながら、「天門山」の景色を眺めてゆきます。まず、崖に沿うように作られた回廊を歩きますが、その幅は人二人が通れるほどしかありません。すれ違う時にはお互いが体を少し横にずらします。

「高所恐怖症」の人は足がすくむような道ですが、私は平気でした。右側の絶壁には黄色い花も咲いています。ここにも秋が来ていました。他にもいろいろな色の花がひっそりと咲いています。こころが和みます。崖の右側にそのような花が咲き、左側には眼下に深い峡谷が落ち込んでいます。回廊を歩きながら眺めた「天門山」の光景はまさに“壮観”と言うべきです。

歩いて行った先には広場があり、先に着いた人たちはそこで一休みしていました。広場に据えてあった石には「人間仙境」と読める字が彫られています。そこには【売店】もありました。大きな石をくり抜いたような作りでしたが、コンクリートで出来ているのでしょう。しかし、周りの風景を損ねないように、地味な色の外観をしています。

そして、次はいよいよ有名な「ガラスの回廊」を歩いて渡ります。歩く道が全部ガラスで出来ています。約60mあるといいます。ガラス自体は分厚い構造ですが、表面を靴の底で傷つけないように、靴自体を生地が厚い靴下でカバーをします。

みんな足がすくむこともなく、スイスイと歩いていました。恐怖でうずくまるような人はいません。まるで空中を歩いているような気持ちです。「ガラスの回廊」を歩きながら眺めた光景はみごとなものでした。

「ガラスの回廊」を渡り終えると、次は「木製の回廊」を歩きます。「木製の回廊」から見た風景も美しいものでした。眼下には赤く色づいた木々もあります。秋の気配がここにも訪れていました。

「木製の回廊」を歩いた先の観光地は「天門洞」です。「天門洞」は山の頂上にポッカリと空洞が空いています。この「天門洞」は長い歳月で自然に出来た鍾乳洞だそうですが、何とも神秘的です。

この「天門洞」に行くまでに、さらに驚かされた乗り物がありました。それはエスカレーターでした。そのエスカレーターは一つの長さが約70mはありました。それに、最初に続けて6回乗りました。その後、乗り場を変えて、また5回。つまり、11回もエスカレーターに乗って「天門洞」まで行くことになったのです。ロープウェーで7500m。そしてエスカレーターに乗って770m。

何と、秘境ともいうべき、このような山の中に8kmを超える乗り物を作り上げていたのです。そこに掛けた資材の量、資材の運搬回数、人間の労力、歳月・・・などを考えると、ものスゴイ設備投資だと言えるでしょう。実に、気が遠くなる思いがします。

10回目のエスカレーターを降りて外に出ると、眼の前に大きな「絶壁」が現れました。全てこれ、岩でできた、とてつもなく広い、大きな「絶壁」です。そこから少し歩いてゆくと、いよいよ「天門洞」の姿が見えてきました。山の中にこういう大きい「穴」が空いているのです。自然の<造形の妙>というべきです。

ここから下に降ります。下には多くの人たちが集まっている「広場」のような空間がありました。山の上のほうに、そういう「広場」が作られていました。そこの「広場」まで、11回目のエスカレーターに乗って降りたのでした。
しかし、この下に見える「広場」に到るには階段で行く方法もありました。実際に、この「広場」までの長い階段を下りて行く人もいたし、「広場」から階段を昇って来る人たちもいました。

そして、我々も広場に到着。そこにはお寺がありました。名前が「天門山寺」。ここからははるか上のほうにある「天門洞」が良く見えます。この「広場」には石垣を積んだ階段があり、その石垣の壁に「上天梯」と書いてあります。みんながその前に集まり、記念写真を撮っていました。我々もその前に集まり、記念写真を撮りました。

さらに驚いたことには、この「広場」から見える左側の崖から滝が流れていました。
みんなが昇っていた階段の左手側からその滝が流れ落ちていました。しかし、この「広場」は「天門山」の中腹にあるとはいえ、その面積はとてつもなく広いものでした。

そこには「郵便局」まであり、たまたまこの「天門山」の写真がたくさん収められた、冊子化された「絵葉書」がありましたので、「旅の記念」に私も購入しました。「土産物」は後で買おうとすると見当たらない場合が多く、後悔することが多いので、旅の最初で荷物にはなりますが、その場で良いものがあったらすぐに買うようにしています。

そして、この日の「天門山」観光が終わり、山から下に降りてゆきますが、ここからは全員がバスに乗って市内まで向かうことになりました。何せ、この日はみんな長時間歩いて、足が大変疲れていましたので、最後にバスで移動出来たのには、みんな喜んでいました。

帰りのバスの中で、専務のLさんが面白い話を教えてくれました。彼は非常に博識です。彼曰く、「ここ湖南省は昔、<三国志>の時代には呉の国だったのです。長沙もここにあります。この呉の国の人たちは古くから稲作をしていて、魚を主に食べます。宴会で出されるのも肉ではなくて、魚料理がメインになります」。湖南省が<三国志>の時代の呉の国だったとは、彼から初めて教えてもらいました。

そして、市内に入ると、道路上には政治上の方針らしいスローガンや、店の看板などに、「簡体字」の漢字で書いた看板が到るところに掛かっています。政府が推し進める政策の宣伝のような文句や国民の気を引き締めるような言葉が並んでいます。店の看板は写真も付いていますので、大体何の店なのかが想像できます。

ここは「漢字文化圏」の中国なので当たり前ですが、こういう看板を見ると、日本人には大体推測出来る内容が多いので、大変興味深いものです。今回の初めての「中国」への旅では、バスの窓から見える「風景」や、街中に掛かっている「漢字の看板」に、私自身は大変興味を惹かれました。

今までタイやカンボジアにも学校の「社員旅行」で行きましたが、タイであれカンボジアであれ、街中にある看板はタイ語やカンボジア語でほとんど書かれています。それで(一体何の店なのか?)推測しようにも、文字自体が読めないので、さっぱり分かりませんでした。

しかし、今回の「中国への旅」では(たぶんこういう店だろうな・・・)という推測が出来ました。店の看板を見ているだけで、「歴史」や「詩情」を感じさせるものもありました。実際に看板に書かれた漢字の一字・一字が非常に凝った書体や色で描かれたり、彫られたりしていて、(看板一枚にも力が入っているなぁー)と感じさせました。

市内のレストランには午後一時半に着いて、みなさんはそこで昼食。私は(この街を見るのも次はいつになることか。食事するよりも、街中を見物に行こう!)と思い、街中の風景を探訪に出かけました。中国将棋を指している老人たち。屋台で麺類を食べ、チャーハンのようなもの食べている人たち。茶店でお茶を飲んでいる人たちや街中の看板を一時間近く見て歩きました。

そして、みんな昼食を終えて、バスは2時半に出発。バスが向かうのは「湖南省」の湘西自治州の「鳳凰古城」です。バスが出てすぐは車内が話し声で喧しくなりましたが、40分ぐらいを過ぎた頃から、みんなはだんだん眠くなってきたようで、車内は静かになりました。

バスの中から外を見ていて驚いたのは、山の中にある街なのに、高いビルがドンドンと建っていたことです。さらに、まだ次々と建築中のビルも数多くありました。バスで移動しながら見たので、それらのビル群が「建設が進行中なのか」「建設が停止してゴーストタウンになっているのか」は、よく分かりません。

それからしばらくした頃、バスの中から流れてゆく外の風景を眺めていると、「強烈な懐かしさ」に襲われました。それは、私の日本の故郷の風景とあまりに似ていたからです。「湖南省」の地には、いつも私が日本で見ていた風景と重なるものがありました。

段々畑の水田、小川、池、ミカン畑、松や杉(らしき)の木、葡萄畑、茶畑などが次々と現れてきます。おそらく、ここは気候的にも似ているからなのでしょうか、実に日本の景色と似ていました。そして、段々畑の「水田」を見ていると、ジーンとした感動を覚えました。

今回たまたま、“「地形」で読み解く世界史の謎【武光 誠】著(PHP文庫)”という本をこの旅に持ち込んで来ていて、時間が空いた時に読んでいました。その文庫本の最初の「はじめに」の部分に以下のような内容が書いてあります。

「本書で読者の方に伝えたいことが二つある。一つは、古い時代に世界の各地で、地形とそれにもとづく気候の違いによって、多様な文化が生み出された点である。そして、二つ目のさらに重要なことは、すべての民族がこれまで、系統の異なる文化と自己の持つ文化との交流を通じて自国の文化を発展させてきた点である。・・・・

日本に目を向けても、私たちのよく知るものの多くが、世界の各地からわが国に入ってきたありさまがわかる。日本で主食とされてきた米を最初に栽培したのは、インドのアッサム地方の人々である。その稲がインド、ネパール、中国、朝鮮半島を経て日本にもたらされた」

(日本で日本人が栽培している稲は、もしかしたら今バスから見えている「水田」で栽培されたのが、長い歴史を経て日本にもたらされたのかも・・・)と、その水田を見ながら、想像がふくらんできました。たまたま武光さんの本を読んでいたので、そういう感じがしてきたのでしょう。

今まで「水田」自体は、このベトナムでも北部から中部、南部に到るまで、いろんな地方で見てきました。しかし、その「水田」を見て、日本の「稲作」と結びつけて考えたことはありませんでした。しかし、この「湖南省」の「水田」はあまりにその風景が日本と似ていたので、そういう感慨が湧いてきたのかもしれません。

そして、バスは「鳳凰城」内にあるホテルに夕方6時半に到着。すぐに夕食になりましたが、このホテルで食べた夕食は全然美味しくないし、ビールもまた例の不味いビールが出てきたので、夜の「鳳凰古城」見物も兼ねて街中に出てゆくことになりました。ほとんど全員が夜の「鳳凰古城」を見物に行きました。

「鳳凰古城」がある地域には、少数民族の土家(トウチャ)族苗(ミャオ)族が多く暮らしていて、この湖南省の湘西自治州の「鳳凰古城」は、昔ながらの街並みをそのまま残している貴重な古街と言われています。

「鳳凰古城」がある地域には「沱江(だこう)」という川沿いに古い家がずらーっと並んでいます。夜に眺めた「鳳凰古城」は、その「沱江」沿いの大きな建物の屋根に電飾のイルミネーションが輝き、それが川面に映えて、実に幻想的な美しい光景が出現します。

「沱江」には観光客が乗るための小船もたくさん浮かんでいました。「翌日はこの小船に乗り、川下りをしますよ!」とガイドのヴィーくんが話してくれました。しかし、私には夜の川下りのほうが魅力的な気がしますが、夜に小船で観光している人は見かけなかったので、それが出来ない理由・規則などがあるのでしょう。

しかし、(こんな山奥に何故こういう栄えた街が出来たのか・・・?)とは、誰しもが抱く疑問です。それについてL専務が言うには「この鳳凰古城という街は、後に明王朝を建てた<朱元璋>の故郷で、彼は自分の故郷を繁栄させるために、この街を造りました。この川に<虹橋>という橋も架けました」とのことでした。さすがは「博識」の彼です。実にいろいろなことを良く知っています。

川沿いの小さい店に数人で入りました。川から吹いてくる風が涼しかったです。地元の料理をツマミにビールを飲んで、しばらくしてホテルに歩いて戻りました。ホテルは「沱江」が見えるすぐ近くにあります。ホテルに着いた時には、夜の11時を過ぎていました。 ・・・(続く)

 

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

ベトナム、駐在員にとって住みやすい国19位に選ばれる

HSBCが行った、海外駐在員が仕事と生活を送りやすい国の調査ではベトナムは4つ順位を上げ19位となった。
水曜日にHSBCが発行した「Expat Explorer」の11号では、ベトナムの駐在員の平均年収は9万408ドル(約1030万円)であり、10人中9人の駐在員が自国にいる時よりも幸せであると回答している。

ベトナムで労働をすることに関してアンケートを実施したところ、回答者の55%はより多くの休暇がとれる、44%は良い家に住むことができる、39%は家事のお手伝いさんを雇うことができると答えている。たくさんの利点があるため、ベトナムの駐在員はベトナムで働くことを楽しんでいる。

回答者の57%は、雇用契約に家賃保証や移動手当などが含まれている。これに対し、世界平均は17%である。

世界平均が18%であるのに対し、ベトナムでは42%は宿泊手当が支給されている。また、健康や医療の手当てに関して他国は43%であるのに対し、ベトナムでは73%であった。

回答者の72%がベトナムに移住したことで貯金できるようになり、可処分所得が増えたと答えている。

世界平均が貯蓄に関しては52%、可処分所得に関しては56%なのに対し、ベトナムは上回っている。

回答者はベトナムで生活するにあたってマイナスの面もあると述べた。世界中で働く駐在員の半数以上が全体的な生活の質は高いと回答したのに対し、ベトナムでは10人中4人であった。

駐在員にとって財務管理は難しい。世界平均が43%なのに対し、ベトナムはたったの27%の外国人が簡単に口座を開設でき、保険の加入や税金の支払いを行っている。

医療サービスを問題なく受けることができるのはベトナムでは3分の1程度であるが、世界的には46%である。

ベトナムでの子育ては困難に直面しており、自国の子育て環境よりも良いとベトナムでは回答者の18%しか答えていないのに対し、世界的な平均は38%である。

回答者の57%がベトナムはキャリアを築きたい在住者にとってより場所だと回答しているのに対し、世界平均は56%だ。

ベトナムにいる駐在員にとって経済的な問題がいくつかある。37%が国外への資金移動の制限を心配しており、22%が為替レートと雇用の安定を懸念していた。

HSBCベトナムの小売銀行と資産管理部門のSabbir Ahmed氏は「調査によるとベトナムはキャリアを発展させるために機会や挑戦を求めている在住者にとって有益な国である。我々はさらに環境や教育プログラム、金融サービスを発展させることで在住者やその家族の生活の改善につながると予測している」と話している。

このランキングではシンガポールが4年連続で駐在員のための最も良い場所として選出されており、ニュージーランド、ドイツ、カナダ、バーレーンが続いている。

調査では163か国2万2318人に調査を行っており、オンラインでアンケートを行った。

<POSTE>

◆ 解説 ◆

「住めば都」とは良く言いますが、私のベトナム滞在も今年で21年目になりました。

異国に住んで生活している人たちは、毎年・毎年、住む国を変えているわけではないので、世界でどの国が「住みやすい国」なのかは、人それぞれ違うとは思います。ここに列挙してある点でも、全員が同じような意見を持っているわけではないと思いますが、総合的に考えても、少なくとも私にとって、「ベトナムは住みやすい国」だと言えます。

先日、日本語会話クラブに参加されていた、新しい日本人の方はベトナム滞在が8年目だと言われていましたが、「ベトナム料理は大変美味しいです!」と、みんなに自己紹介した時に言われていました。

実際に、その国に少し長く住もうとした時、「衣」「食」「住」のうち、大きな比重を占めているのは「食」だと思います。「衣」は外界の変化に合わせて、脱いだり、着たりできます。「住」は経済状態次第でよりマシな場所へ移ることも出来るでしょう。

しかし、「食」だけは、毎日朝・昼・晩と、自分が生まれた国の料理ばかりを食べるわけにはゆかず、今住んでいる国の料理を食べないと過ごしてゆけません。特にベトナム人の伴侶を得た場合はそうなるでしょう。

そういう意味では、私自身「ベトナム料理で食べられないものは無いです!」と生徒たちにも日ごろ言っていますが、ベトナムでテーブルの上に出された料理は何でも食べますので、私にとって「ベトナムは住みやすい国」なのです。

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