アオザイ通信
【2016年4月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<日本帰国前のこと>

毎年一度の日本への帰国が、今年は四月中旬になりました。日本への帰国直前に起きた「嬉しい再会」や、ぎりぎりまで引きずった「心配な出来事」などがありました。「嬉しい再会」はまたこれからもサイゴンでのお付き合いが続き、後者については今後の戒めを教訓に得ました。

「労働許可証」の取得

ベトナムで外国人が会社や学校で働く場合は、労働許可証(ワーキングパーミット)を取得する必要があります。これが無いと、ベトナムでの会社や学校などで働くことが出来ません。そしてこれがビザの代用(通称労働ビザ)となります。

私がベトナムに来た当時、ビザ自体の取得は大変容易で、手続きも緩やかなものでした。しかし、2010年から急に厳しくなりました。様々な書類が要求されるようになりました。その書類も、日本の市役所で発行してくれる住民票ぐらいであれば問題は無いのですが、そうではありませんでした。何故急に厳しくなったかについてはその理由があるのですが、ここでは敢えて触れません。

2010年に急に厳しくなった時に、ベトナム側が要求したのは「本国での職務の履歴書」「大学の卒業証明書」「無犯罪証明書」などでした。ベトナムに滞在していた日本人の方々に大きな動揺が広がりました。それらを日本からわざわざ取り寄せる困難さのために、途方に暮れる人たちが続出しました。

このことに関しては、2010年6月号で<ベトナムを去る一人の日本人教師>として、私の知人のK先生のことに触れましたが、ベトナムでの仕事を諦めて、長年勤めた<日本語教師>としての仕事場を去ってゆくK先生のような人も実際に現れました。K先生の教え子たちに、私の知り合いの女性がいましたが、彼女たちのクラスの全員が大変悲しんでいたと言います。

それからも、コロコロと法令が変更になりましたが、最近は落ち着いて来たなーと思っていました。事実、二年前に労働許可証を更新した時には、指定された病院での健康診断だけで済みました。但し、期限が短くなりました。五年前は三年間有効だったのが、その次の更新では二年間だけ有効となりました。

そして今年の労働許可証が4月初旬に切れるので、更新手続き書類作成のために、三月初旬に健康診断をする必要があり病院に行くことに。この時には同じ学校の四人の日本人の先生たちが行きました。病院の中は、多くの患者さんたちで溢れていましたが、一緒に同行してくれたベトナム人の同僚の先生のおかげで、午前中で健康診断は終わりました。

その翌日に健康診断の結果が出ました。大した異常は無かったので、健康診断は無事にパスしました。(前回も健康診断だけで終わったから、今回もこれでいいのかな・・・)と安心していました。同僚のベトナム人の先生も、その件に関しては詳しいことは良く分からない様子でした。そこから先は学校の事務の男性Dさんが担当しました。

三月中旬を過ぎた頃、そのDさんが「今回は大学の卒業証明書が必要になったので、それを取り寄せてください」と言うではありませんか。それを聞いて、私は「ええーっ!」と叫びました。呆れました。前回もすでに大学の卒業証明書は提出しているのです。

健康診断を更新の度に毎回受けるのは理解できます。しかし、一人の人間がある大学を卒業したという過去の記録は、一回書き留めればそれはずっと残るし、変わらないはずです。なのに、毎回毎回同じ書類を何故出させるのだろうかと理解に苦しみました。(今の労働許可証の期限は4月初旬なのに、今から日本から取り寄せても間に合うものか!)と思いました。

「労働許可証」の更新がもし間に合わないとなれば、ベトナムに滞在するためには別の手段を考えないといけません。ベトナム人と結婚している配偶者には「配偶者ビザ」というのがあります。知人の話では、一週間ぐらいでそれを取得できるといいます。(今回はビザの期限切れを防ぐために、一旦私も「配偶者ビザ」にするか・・・)と思い、家に帰ってから女房に相談しました。しかし、女房はポカーンとしていました。

それもそうです。ベトナムに住んでいるベトナム人にとって、ビザの問題は全然関係ないわけで、それとは無関係に今までベトナムに住んできたわけですから。しかし、ベトナム人でない、国籍は日本のままで、外国人である配偶者の私にはビザの問題は切実な問題です。兎に角、翌日イミグレに行き、どうすればいいかを聞いてこようという話になりました。

そして、翌日イミグレに行きました。やはり、ここも多くの人たちでごった返しています。見てすぐに分かるベトナム人の女性と白人の男性のカップルが何組もいました。私と同じのような目的で来ているのかな・・・と思いました。受付カードをもらい、順番が来るまで待つことにしました。

30分ほど待つと、私の番が来ました。カウンターの向こう側にいたのは若い女性で交通警察の服装のような制服を着ていました。驚いたことには日本語が出来ました。嬉しくなって「どこで日本語を勉強しましたか」と余計なことを聞いてしまいました。

彼女の話では「あなたの労働ビザは4月●日で切れます。それで、その前にベトナムを出国しないといけません。もし、遅れて出国すると、罰金を払わないといけません」と言うのでした。

(罰金を払う?バカバカしい)と思い、「それで、労働ビザの取得が間に合わないのであれば、配偶者ビザに変更したいのですが・・・」と、その若い女性に申し出ました。
すると、彼女は自信たっぷりに意外なことを言いました。

「ベトナムに滞在する目的が労働のために生活するのではなく、配偶者として生活する目的に変更するのであれば、その目的を変更するための書類を作らないといけません。それは、東京の代々木にあるベトナム大使館まで行かないといけません」

「たかが、目的を変えるためだけの書類作成のために、東京のベトナム大使館まで行く?」もう呆れて、次の言葉が出ませんでした。こちら側の事情をいろいろ説明しても、彼女は一度吐いた言葉を変えることは無いでしょうから、「そうですか!」と言って、女房と二人でイミグレを後にしました。

もし係の彼女が言う言葉が本当なら、結論として、ビザの4月●日の期限切れ前にベトナムを出ないといけません。(さぁー、どうするか・・・)と悩みながら、事務所にある引き出しの中からビザ関係の過去の書類をあらためて調べてみました。すると、多くの書類の中から、2006年発行の「大学の卒業証明書」の原本が現れてきました。それには、日本領事館が英文で認証した添付資料も付いています。

(大学の卒業証明書の原本が出てきた!)私も嬉しくなりました。最近それが必要なくなったので、その書類自体の存在を忘れていました。しかし、その発行日は、今から10年も前の2006年になっています。(こんなに古い卒業証明書の原本でいいのだろうか・・・)と不安になりましたが、とにかく翌日事務の男性Dさんにそれを見せました。

すると、「OKです!これでいいと思います。これで再度提出してみます」、そう彼は言いました。彼自身もどれだけの書類が必要かについては、二年に一回のことですから、良くは知らなかったのでしょう。

後日談になりますが、労働許可の手続き方法は2013年に改定され、さらに2015年から新しい要項が加わり、そしてまた今年2016年の4月から改定になったといいます。こういう事情はその道の専門職であれば別ですが、普通は誰も知らないはずです。このようにコロコロと変わると、最前線にいる現場の受付まで、その連絡が果たして周知徹底しているのだろうか・・・という疑問が湧きます。

次の更新時もまた新しい変更が起きるかもしれないなという予測をしておかないといけません。例えば、「卒業証明書」の発行の有効期限は二年以内に限るとか・・・、原本は返さないとか・・・。何が起きるか分かりません。それで、今年の帰国時には大学から新しく発行してもらった「卒業証明書」を五部ほど取り寄せておくことにしました。

そして最終的に「労働許可証」を受け取ったのは、ベトナムを発つ予定ギリギリの三日前でした。「ベトナムを発つ三日前の昼過ぎの三時には出来ています」とDさんから連絡がありましたので、その時間にイミグレに行き、Dさんと会いました。

彼の手には私の赤い表紙のパスポートが握られていました。そして、その中を開いてみせて、「労働許可証」を出してくれました。間違いありません。新しい「労働許可証」でした。思わず嬉しくなり、Dさんの手を強く握りました。彼もニコッと笑いました。

今回は何とかギリギリで間に合いましたが、やれやれという気持ちでした。次回の更新時には、もっと早くから手続きを開始しないといけないなと痛感した次第です。

● 「SUSHI KO」で誕生日祝い ●

私の誕生日は三月の末ですが、今まで人生を生きてきて、自分で自分の誕生日祝いをしたことはありません。女房の家族の兄弟の子どもたちの誕生日会には何回も出ました。
しかし、今教えている学校では毎年その月に誕生日を迎える先生方が、ヤギ鍋屋さんで誕生日パーティーを行うのが恒例になっています。

これも自分から率先してやるというより、前の先生の誕生日パーティーに自分が招かれて参加したので、自分の誕生日にはそのお返しをするという意味合いが強いのです。掛かった費用は、ベトナムでのしきたりとして、その時誕生日の人が全て支払います。

三月中旬、「SUSHI KO」に夕方顔を出した時、オーナーのLinh(リン)さんが、私に話しかけてきました。「もうすぐ誕生日らしいですね。サービスしますから、家族の方や友人たちを呼んで、ここでお祝いをしてください」と言われました。(何故私の誕生日を知っているのか・・・)と不思議に思いましたが、従業員に以前話したことを伝え聞いたようでした。

しかし私は今まで誕生日会をしたことが無かったので、「いや、いいですよ!」と一旦は断りましたが、(そう言えば日本への帰国日も迫っているし、女房の家族たちにも自分の誕生日に招いたこともないし、今回やってみるか)とふと思い直し、後で女房にも相談しました。女房も「家族をみんな招待すれば、きっと喜ぶわよ」と賛成してくれました。

それで、家族のみんなには女房から連絡してもらい、私は友人たちに連絡しました。ただ、「SUSHI KO」でやるので、あまり大人数にならないようにしましたが、それでも歩道に白線を引いてあるギリギリまで(その線を越えると公安がテーブルを撤去してゆきます)の席を占める人数になりました。

今年の私の誕生日には、担当の生徒たちからも手作りのノートや記念品を貰いました。そのノートには、クラスの一人一人が自分でコメントを書いてくれていました。クラスのスタート時から受け持った生徒たちだけにみんなに愛着もあり、大変嬉しかったです。

さらには、授業が終わった後、食堂横にある中庭でお祝いもしてくれました。料理やバースデーケーキも準備してくれていました。彼らに負担を掛けたなーと思い、申し訳ない気持ちでいっぱいになりましたが、喜んでその好意を受けました。

さらにまた感激したことがありました。2012年11月号BAOの記事「親の恩を忘れるな」で触れた、私の教え子の女性Gさんがサイゴン市内まで会いに来てくれました。彼女は実習生として2012年に行きました。そして2015年の春にベトナムへ帰りましたが、その時私は日本に帰国していて、ずっと会えないままでした。

彼女と私の誕生日はたまたま同じ月日でしたので、私にも大変印象深い生徒でした。毎年の誕生日には、自分で描いた絵をプレゼントしてくれました。日本へ行ってからも、郵便で送ってくれました。日本に行ってまでも気にかけてくれる彼女の気持ちに、私は誕生日を迎えるたびに、日本の北海道で頑張っている彼女のことを思い出しました。

今回は日本へ留学する目的で、必要な種類を取り寄せるために学校までバイクではるばる故郷のBen Tre(ベンチェー)から来ました。Ben Treから学校までは約三時間掛かります。私が誕生日を迎える一週間ほど前に来てくれました。懐かしい再会でした。私の誕生日前に会うつもりで、わざわざその日を選んで来てくれたのでした。

その時彼女は友人の男性のバイクの後ろに乗って、膝の上に大きな荷物を載せていました。そして、久しぶりに会うやいなや「お誕生日おめでとうございます!これは私からのプレゼントです」と言って、大きな額に入れた絵を私に差し出しました。

その絵は大きさといい、重さといい、尋常ではなく、見ただけで、ホーチミン市内までよくぞ持って来たなぁーと思いました。Ben Treからバイクに載せて運んでくるのはさぞ大変だったでしょう。私がバイクに載せて持ち帰る時も大変でした。私がバイクで持ち帰った後、女房に手伝ってもらってバイクから降ろすと「わー、重い!」と女房が叫びました。

女房が後で言うには、この絵は縦55cm 横75cm、重さ5キロもあったそうです。彼女はこれを二ヶ月かけて作成したと言いました。その有難さに、涙が出る思いでした。彼女がこころを込めて描いてくれた絵は、今私の部屋に掛かっています。

そして、彼女との再会から一週間後、「SUSHI KO」に家族と友人たちが参加してくれて、私の誕生日祝いをしました。全部で30人弱集まってくれました。女房の家族で、ホーチミン市郊外に住んでいる兄弟の家族も来てくれました。

友人では、ABさんが参加してくれました。ABさんは、NHKが「SUSHI KO」に撮影に来た時に尽力してくれた方です。さらに、KWさんにも来て頂きました。KWさんはベトナムで家庭用洗剤の製造の仕事に就かれています。

KWさんという人がすごいのは、毎日の家族の朝夕の食事をご自分で作られることです。それを知ったみんなが驚きます。「おふくろの味」とよく言いますが、KWさんのお子さんたちは「お父さんの味」を将来思い出すのでしょうねーと話したことでした。

さらに今回は、私の同僚のHM先生と、義理の兄にあたるWNさんも家族で参加してくれました。私の女房の姉がWNさんの奥さんになります。ですから、WNさんとは実に古い、長いお付き合いになります。

WNさんは、このベトナムで知る人ぞ知る有名なウエブサイトの管理人ですが、ABさんはこの場でWNさんのその経歴や、奥さんとの出会いについていろいろ詳しく聞いていました。ABさんは今「SUSHI KO」に登場する人たちを列伝ふうに書いていますので、目の前に座っているWNさんは、彼の取材意欲を大いに書きたてたようでした。

6時半から始めた誕生日会は9時過ぎまで続きました。Linhさんの温かい好意により、今年「SUSHI KO」で誕生日祝いをすることになりましたが、当日はいろいろなサービスをして頂きました。さらには今の生徒さんたちや、かつての教え子のGさんからもこころのこもった手作りの思い出の品を頂きました。

今まで女房の家族を呼んでの新年会などはしていましたが、今回は初めて誕生日祝いをして、女房の家族や兄弟たちにも喜んでもらえました。慣れない日本料理屋さんなので、サシミやスシが口に合うかな・・・と心配しましたが、皆んな残さずに食べてくれました。最後にLinhさんにお礼の挨拶をしますと、Linhさんも「喜んで頂けて良かったです」と笑顔で言ってくれました。

Xuanさんと一年ぶりの再会

毎週日曜日に<青年文化会館>で行われている『日本語会話クラブ』がありますが、四月の二週目の日曜日が日本帰国前の最後の参加になりますので、そこに顔を出しました。すると、そこで懐かしい女性と再会しました。日本の和歌山県に留学していたXuan(スアン)さんです。

彼女は三月末に一年ぶりにベトナムに帰ってきました。嬉しかったです。彼女の明るさは前のままでした。彼女は、2013年に我が社「ティエラ」<ベトナムマングローブ子ども親善大使>の女子のアテンド役として活躍してくれました。

昨年三月から和歌山大学に留学して、無事一年間の留学を終えました。日本留学中は東京、大阪、広島、京都、奈良などへ旅行したそうです。富士山も見に行ったと言いました。彼女がベトナムに三月末に帰国したのは聞いていましたので、「日本語会話クラブでまた会いましょう!」と事前に連絡していました。それで、この日が久しぶりの再会になったわけです。

さらに、日本留学を終えた彼女に、最近出会った女性を紹介したいと思いました。彼女はBac(バック)さんといい、今年21歳です。Bacさんとは、この春ベトナムを訪問された、フォト・ジャーナリストの村山さんの帰国時の<お別れ会>で初めて会いました。

村山さんの訪越は今年の春で42回目になりました。日本とベトナムを往復した回数で言えば、私の二倍を軽く超えています。ベトナムに来る時には、毎回のことですが、ひとつのテーマ、ある取材対象を日本で準備し、練り上げて飛んできます。
今回の村山さんのベトナム訪問は、ベトナム戦争時にベトナム中部のSon My (ソン ミー)村で米軍による大虐殺が行われてから48年が経過し、「ソンミー村大量虐殺事件48周年記念式典」が行われるので、その取材のためにベトナムに来ました。

それが終わると、メコンデルタの「100年に一度の大干ばつ」の今の現状を取材するために精力的に動かれました。その彼のベトナム訪問が終わる時に、ホーチミン市内の四区の貝料理屋さんで<お別れ会>をしましたが、そこにBacさんが友人に連れられて来ていました。

その時彼女が「来年4月に日本の東京に留学する予定です」と話していたので、(Xuanさんがベトナムに帰ってきたら紹介してあげよう)とひそかに思っていました。その時「日本語会話クラブ」のことも紹介しましたが、Bacさんはその次の週から参加しました。この日も来ていました。

『日本語会話クラブ』では、初めて参加する人たちに毎回自己紹介をしてもらっていますが、Xuanさんは一年ぶりの登場なので、彼女を知らない人もいるかと思い、あらためて彼女にも自己紹介をしてもらいました。

彼女は和歌山県に一年間留学していたことと、日本での体験や印象を話してくれました。さらには手に一枚の紙を持っていました。その紙には日本語で歌が書いてありました。この日五十人ちかく集まっていたみなさんの前で、彼女はその歌を披露してくれました。

歌は『花は咲く』です。それを聞いていたみんなが喜んでいました。実はこの歌は二週間前にこの『日本語会話クラブ』で歌ったばかりなのです。ベトナム人の参加者の中にToan(トアン)くんという青年がいました。彼は日本語も達者ですが、歌もプロ級に上手いのです。事実彼は自分でCDまで出していました。

その彼に、私が「東北大震災」の後の週に開かれた『日本語会話クラブ』で、この「花は咲く」を歌ってくれるようにお願いしていました。彼も快く承知してくれました。私は事前に、日本語とベトナム語の「花は咲く」の歌詞を人数ぶんコピーしておきました。

そして、当日彼は自分が歌った「花は咲く」をスマートフォンに吹き込んでいて、『日本語会話クラブ』でそれをみんなの前で披露してくれました。彼の歌声は実に見事でした。並みの日本人以上に上手でしたね。みんな大感激していました。それが、この日より二週間前の日曜日のことでした。

Xuanさんはこの歌を伴奏無しのアカペラで歌いました。一年前は恥ずかしがり屋で、人前で歌うことなど無かったのですが、やはり一年間の日本体験で逞しくなっていました。後で彼女に聞くと、日本のボランティア団体の集いで、この歌を教えてもらったそうです。

『日本語会話クラブ』が終了した後、みんなで会館内にある喫茶店で食事をすることに。Xuanさんにいろいろと日本留学中のことを聞きたいと思い、そこに彼女を呼びました。さらに、Xuanさんに是非紹介したいと思っていたBacさんにも声をかけると、彼女も喜んで一緒に来ました。『日本語会話クラブ』では二人は離れた席に座っていたので、二人が直接話したことは無かったのです。

Xuanさんの隣にBacさんに座ってもらい、後はベトナム人同士で話してもらえばいいと思い、私はそこから離れました。Xuanさんはこれから社会人として、サイゴンでまた新しい人生が始まります。

私はこの後しばらくすると日本に帰国し、サイゴンにはしばらくいませんので、その直前にBacさんをXuanさんに紹介出来て安心しました。最近のニュースでも、日本でのベトナム人留学生数は「一位:中国9万4111人」についで「二位:ベトナム3万8882人」となっていますが、実際身近にこの二人のような例を目にしますとそれも肯けます。

※春さんは1997年春よりホーチミンに駐在しています。今ではすっかり現地の人となって、見分けもつかなくなっています。春さんに質問や相談があればメールをお送りください。




「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

ベトナムの美しい雄大な滝トップ5

ベトナム版ギネスブックとして知られるベトナム・ブック・オブ・レコード(Vietkings)はこのほど、2016年の「ベトナムの美しい雄大な滝トップ5」を発表した。
これらの滝は、自然の美しさと雄大さだけでなく、ロマンチックなベトナムの伝説にも関連している。同ランキングの詳細は以下の通り。

1位:バンゾック(Ban Gioc)滝(東北部地方カオバン省チュンカイン郡)

バンゾック滝は、カオバン省カオバン町から北に89kmのところに位置するアジアで最も大きく美しい滝だ。同省チュンカイン郡ダムトゥイ村と中国の広西 チワン族自治区崇左市大新県の間に位置しており、中国側では「徳天瀑布」と呼ばれている。落差は約50m、幅約300mにわたり幾つもの滝が流れている。 ベストシーズンは雨季で、中でも雨量の増す7月から8月にかけてが最も美しいという。

2位:ザーロン(Gia Long)・ドライサップ(Dray Sap)・チンヌー(Trinh Nu)滝群(南中部高原地方ダクノン省)

南中部高原地方の中で夢のように美しい滝群で、ザーロン滝(クロンノー郡)、ドライサップ滝(同)、チンヌー滝(クージュット郡)の3つの滝から成る。
ザーロン滝の落差は50mで、セレポック川(Song Serepok)に流れ落ちる。この滝の下にはティエン湖(Ho tam Tien)があり、周囲を山に囲まれて、幻想的な風景だ。阮(グエン)朝(1802〜1945年)初代皇帝ザーロン(嘉隆)帝(在位1802〜1820 年)がここを訪れたことから、「ザーロン滝」の名が付いた。
ドライサップ滝は、少数民族のエデ(E De)族の言語で「煙の滝」を意味する。地元住民によると、この名は滝にまつわる伝説に由来する。昔むかし、ある美しい女性と恋人が滝のそばに座って語り 合っていたとき、怪物が現れて女性を飲み込んでしまい、巨大な煙の柱になって消えてしまった。恋人は来る日も来る日もここで泣いていたが、いつしか大きな 木になったという。
チンヌー滝の名は、悲しい恋愛の伝説に由来する。ある少女が恋愛に挫折し、幾多の悲しみと共に自殺してしまった。人々は、彼女の運命を思ってこの滝に「乙女」を意味する「チンヌー」と名付けた。同滝を訪れると、同地方の伝統的な家屋で夜を過ごすことができる。

3位:トゥイティエン(Thuy Tien)滝(南中部高原地方ダクラク省クロンナン郡)

トゥイティエン滝は、「3階建ての滝」とも呼ばれる。滝への道は、曲がりくねった峠道が続いており、コーヒーやゴムの農園が広がっている。緑の小さな森や谷があり、小川も流れて美しい風景となっている。

 

4位:プレン(Prenn)滝(南中部高原地方ラムドン省ダラット市)

ダラット市中心部から10km離れたプレン(Prenn)峠に位置する。橋を渡って滝を眺めるだけでなく、ケーブルカーに乗って観光することもできる。滝のふもとには小さな湖が広がり、とても美しい。観光客は、ここでキャンプを楽しむことも可能だ。

 

5位:カムリ―(Cam Ly)滝(南中部高原地方ラムドン省ダラット市)

カムリー滝は、ダラット市の中心部に位置しており、多くの観光客が集まる観光地となっている。この滝の名は、少数民族のクムリー(K’ Mly)という男性の名にちなんで付けられた。時が経つにつれて、他の民族の発音にしたがい「カムリー」と変化した。

<VIET JO>

 

◆ 解説◆

この記事を読んだ時、なんとも懐かしい思い出が甦ってきました。この、<美しい雄大な滝トップ5>のうち、1位の「バンゾック(Ban Gioc)滝」は、その存在は知っていますが、まだ行ったことがありません。それ以外の滝は、観光バスに乗って見に行ったり、自分でバイクを走らせて見物に行きました。

この<トップ5>の滝の中で、私が一番印象深かったのは、2位の<ザーロン・ドライサップ・チンヌー滝群>です。ここへはバイクをレンタルして行きました。バイクで道を走らせて行く時の途中の景色が大変素晴らしく、バイクを停めてしばらくじーっと眺めていました。

2001年頃、私が中部を旅した時に、この滝を訪問しました。その時の旅は中部にいる少数民族を訪問するのが目的でした。その合間に、この滝も見に行きました。その時の少数民族の村を訪問した思い出は<ベトナム少数民族の村・訪問記>として、以下のアドレスに載せています。
http://www2m.biglobe.ne.jp/%257esaigon/ede.html

この滝は道路側からは眺めることが出来ないので、滝を管理している区域の駐車場にバイクを預けて、入場料を払い、山道を徒歩で下って行きました。そして、歩くこと十分ほどすると視界がパッと開けて、雄大なこの滝が目に飛び込んできました。

私がこの滝を見た時に、周りのベトナム人にこの滝の名前を聞いたらThac Trinh Nu(タック チン ヌー=チン ヌー 滝)と教えてくれましたので、この滝全体がTrinh Nu滝だと思い込んでいました。この<VIET JO>で初めて、正式な名称を知りました。

その滝の名前の由来「何故<乙女の滝>と呼ぶのか?」とそこにいた人たちや、ホテルに帰ってからも従業員に質問しましたが、誰もその名前の由来までは知りませんでした。それで今まで謎でしたが、この記事を読んでようやく分かりました。

日本の田舎の風景と同じように、ベトナムの田舎に行くと、ほれぼれとするような、美しい風景がいっぱいあります。滝巡りの旅もまた情緒があります。1位のバンゾック(Ban Gioc)滝は、遥か遠いベトナムの北部にありますので、思い立ってすぐ見に行ける距離にはありませんが、いつか必ず行きたいという夢は持っています。


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