アオザイ通信
【2012年11月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<朋あり 遠方より来る >

2011 年 3 月末に、日本に帰られていた友人の SB さんがベトナムを再訪されました。 10 月初旬にベトナムに降り立ち、 11 月の初めまでサイゴンにおられました。約四週間のベトナム滞在になりました。

SB さんは、 Binh Duong( ビン ユーン ) 省 にある千坪の広大な喫茶店・ Gio va Nuoc( ゾー バー ヌック:風と水 ) の経営に携わっていた人です。今はそこを退かれて、日本の東京で働かれています。

今回の SB さんのベトナム訪問を誰よりも喜ばれたのは、大親友のあの Y さんでした。 Y さんは 『ベトナム戦争』 真っ只中の 1960 年代に、ベトナム南部の Cai Be( カイ ベー ) でバナナ園を栽培・管理されていました。当時まだ 20 歳を超えたばかりの若さでした。

日本でのお二人の住まいは同じ東京にありながらも、日本ではお互いに顔を合わされたことはなく、お二人はこのベトナムで初めて出会われ、それからすぐに意気投合されました。年齢差もあまりない (Y さんが二歳ほど年長 ) ということもあり、またお互いの趣味が「魚釣り」という共通点もあり、回数を重ねるほど交友が深まってゆくのが、傍で見ていても良く分かりました。

お二人は、ベトナム中部の Nha Trang( ニャー・チャーン ) Con Dao( コン・ダオ ) 島 までも旅行され、 ( こんな出来事があったよ〜。 ) ( こういう失敗をしたよ〜。 ) と、サイゴンに帰った後に、私たちに二人で愉快そうに語られるのでした。

それを見ていた私は、 ( 厚い友情を築き上げるのは、年を取ってからでも出来るのだな〜。 ) と、感じ入ったことでした。 Y さんには、同じ時期にベトナムに来られた S さんという大親友もおられますが、三人が一同に会して話されている時に、その三人が話されているのを横で黙って聞いていますと、その友情の度合いに濃淡の差はあまり無いような印象を受けました。

そして三年以上住んでいたベトナムを離れて、 SB さんは東京に戻り、ある会社から請われて、ベトナムで働いていた時と同じように、また経理の仕事に就かれることになりました。その会社からは、もうすぐ 70 歳に手が届こうかという人への待遇とは思えないくらいの、好条件を提示されたと言われました。

それからは、片道二時間以上をかけて一年間ほどその会社に勤められましたが、この三ヶ月ほど前からそこを一旦休まれて、自由契約の身となりました。会社が必要とする時だけ出社してくれればいいという待遇になったということでした。

その話を聞いた Y さんや私たちが、

「いいかげんにもうキッパリ辞めて、ゆっくりされたら如何ですか?」

と言いますと、「いや、やはりボケ防止のためにも、世間との接点は持っておいたがいいのです。家にこもって、ポケ〜ッとしていても仕方がありません。たとえ給与は低くなろうとも、必要とされるなら出て行きたいのです。」と言われるのでした。

SB さんのそういう話を聞きますと、 『定年退職後』 の過ごし方のヒントを一つ与えられたような気もします。今の時代は、 60 歳から 70 歳くらいのまでの年齢であれば、まだまだ 【働き盛り】 の年齢でしょう。

驚くべきことには、 80 歳になってもあの 【世界最高峰・エベレスト】 の登頂に挑戦される、 三浦雄一郎さん のような人もおられます。来春には三度目のエベレスト登頂を目指されるとニュースで知りました。しかも重度の骨折を乗り越えられての挑戦というではありませんか。 60 歳前に、膝の痛みが出て来た私から見れば、まさしく、 『超人』 としか思えません。

しかし、私の祖父は 60 歳になると、今まで自分が仕切っていた全ての百姓仕事を息子である私の父に譲り、さっさと『隠居』してしまいました。それから何をしたかというと、私たち四人兄弟の「孫の世話」です。朝から夕方まで「孫の世話」だけをしていました。そのことだけに『生き甲斐』を感じていました。しかし、それもまた羨ましい生き方だな〜と思います。

両親は朝早くから夕方まで、外での野良仕事に行きますから、必然的に孫の世話をする係りが、祖父になるのでした(祖母は早くに亡くなりましたので、私たちはその顔も知りません)。私が一番早く生まれた長男でしたので、兄弟の中で祖父は私を一番可愛がってくれたと聞きました。そのことは、後で親戚の人が私に話してくれました。

孫が出来てからの祖父の日常はと言えば、朝から夕方まで「孫の世話」だけ。そして、両親が野良仕事を終えて家に帰った時に、自分の手から私たちをようやく離し、日暮れ頃から大好きな焼酎を飲むパターンになります。

時に両親の帰りが遅くなると、自分が好きな焼酎を飲む時間が遅くなるので、イライラしながら待っているので、大変不機嫌だったと言います。それで今でも我が家の敷地の周りには、かつて祖父が飲んでいた焼酎が入っていた素焼きの甕が幾つか転がっています。日本に帰った時に私は、その上に腰掛けながらお茶を飲んだりしてもいます。

しかし今年の春に日本に帰った時に、仏壇の前に置いてある祖父の写真の前で、そのような祖父の昔話を母から聞きまして、幼いながら今でも覚えている祖父の顔を思い出し、何とも言えない感慨が込み上げてきました。しかし、当時 60 歳で引退するというのは、今考えますと、若過ぎるなーという印象がします。

要は、昔の時代の 「引退年齢」 は大変早かったということです。しかし今の時代、 60 歳になったからすぐ、「引退しよう!」とは誰も思わないでしょうし、また出来ない人のほうが多いでしょう。平均余命が伸びたことで、実働年齢も長くなったからです。

SB さんも Y さんも、もうすぐ 70 歳になろうかという年齢になられましたが、ますます元気そのものです。特に Y さんは、自分のバイクで百キロ以上離れた Dong Nai( ドン ナイ ) 省 や Cai Be ( カイ ベー ) まで、一人で走って行かれるのです。

Y さんのその壮健さ、タフさは、直接自分の眼で見ないと信じられるものではありません。まだまだ「引退」という言葉は当てはまりません。さらには、チャンスがあればまだこのベトナムでビジネスを起そうという気概を持たれています。

実は SB さんが今回一年半ぶりにベトナムを訪問されたのも、その目的の一つに、またベトナムで新しい事業を起こすことがありました。そのために滞在中にもいろいろな人に会われていたようです。さらには、タイにも足を伸ばして、日本を出る前からアポイントを取っていた人にも会われました。 SB さんの胸の中にはまだ、「アジアで何らかの仕事をやりたい!」という熱い炎が消えることなく、燃え続けているようです。

そして今回のベトナム滞在中の最後にあたる日曜日には、 「人文社会科学大学 」内にある <東日クラブ> に顔を出されることになりました。私もその日に同行させて頂くことになりました。この <東日クラブ>には、 2011 年の三月末に行って以来の久しぶりの出席になります。

実はあの時にも、 SB さんが三年半近く住んだベトナム滞在最後の<東日クラブ>への出席になるということで、私も参加させて頂きました。そして普段は訪れない<東日クラブ>に出席させて頂いたのには、さらにもう一つの目的が私の思いとしてありました。

昨年の 3 月、東北地方を襲ったあの大地震と、大きな津波で壊滅的な被害を受けた被災地の方々。その大地震と大津波に遭い、困難に苦しんでいる日本の方々に、ベトナムの小学校から中学校、高校、大学、そして多くの公共機関が、素早く 「日本の被災地の方々に支援を!」 という活動を立ち上げました。私の娘が通っている小学校においても、募金活動が始まりました。私が教えている研修生たちも、自発的に募金活動を始めました。

このベトナムで、まだ幼い小学生たちや、中学生たちが、自分たちのお小遣いの中から、五万ドン、十万ドンの寄付をしてくれている光景が現れました。毎日の新聞を読んでいますと、そういう小・中学生たちが、新聞社まで足を運んで寄付をしている写真も載りました。サイゴンにいる私は、深い感銘を受けました。

それで、 ( 日本人の一人として、どこかの場面で、直接お礼の言葉を言いたい! ) という思いが募りました。日々私が接する『研修生』たちにも、日本の新聞とベトナムの新聞を開きながら、その思いを伝えました。

そして<東日クラブ>に SB さんが日本帰国前に参加されると聞き、 ( そうだ、そこでベトナム人の大学生さんたちに、直接お礼を言おう! ) と思いました。そしてまだ被災地で苦しんでおられ、『故郷』を離れた被災地の人たちへのベトナムからの励ましの思いを込めて、そこで 『サライ』 の歌を歌わせて頂くことにしました。そこには、『サライ』の歌詞をコピーしたものを百枚ほど用意して持ち込みました。

その日は、日本人とベトナム人の大学生たちが百人ほど参加されていましたので、ちょうどコピーの枚数も足りました。私がその『サライ』の歌を歌い終わるまで、みなさん静かに聴いて頂きました。私自身にとっても、懐かしい思い出のひとつです。

しかし、今年の<東日クラブ>訪問は直前になって参加を決めたので、何の準備もしないままで行きました。ただ SB さんに同行して、またしばらくは参加出来ないであろう<東日クラブ>の余韻に浸るだけで十分と思いました。

9 時に「人文社会科学大学」に着き、先に待たれていた SB さんと一緒に<東日クラブ>がある教室にエレベーターで上がりました。部屋に入りますと、まだスタッフ以外は誰も来ていません。 SB さんは一年半ほどここに顔を出していなかったので、スタッフも SB さんが見たことがない新人が多いと言われていましたが、二人ほど顔なじみの生徒がいたので、懐かしく話しかけられていました。

すると、その中の一人が、一年半前にここに来た私を覚えていてくれて、「わぁ〜、また来て頂いたんですか!あの時の歌を今でも覚えていますよ。今日もみなさんの前で、是非歌って下さいませんか!」と言うのでした。「ええーっ!、今日も歌うの?何の準備もして来ていないけど・・・」と言いますと、「大丈夫ですよ。みなさん、日本の歌を聴くのが楽しみですから。」と言うのでした。

「今日飲みに行きましょう!」と誘われれば、「いいですね。是非行きましょう!」と応じ、「一曲歌って下さい!」と請われれば、「ええ、いいですよ。歌いましょう!」と引き受けるのが、このベトナムに来て以来の私の習性になりましたので、この時も「分かりました!では歌いましょう!。」とすぐに OK しました。 SB さんはそれを聞いて、「えっ、今日もまた歌うの?」と苦笑されていました。

この日の<東日クラブ>には、四十人ほどの参加者が集まりました。普段は約その倍の人たちが集まるそうです。今日のこの日は、この大学の中で『韓国祭り』をやっていたので、そちらを見物するのに流れた人たちもいたようです。でもあまり多くても、賑やかさを通り越してうるさくなりますので、そのくらいの人数がちょうどいいなーと思いました。

この日、<東日クラブ>は 9 時半から始まりました。「日本語会話クラブ」には当然日本語を話す日本人と、日本語を勉強しているベトナムの人たちが参加するのですが、集ってただ雑談して終わりではなく、 【その日のテーマ】 を決めて話し合います。これは、 [ 青年文化会館 ] の「日本語会話クラブ」も同じです。

今日の<東日クラブ>のトピックは 「ハイテクに」 ついてでした。「 ハイテク」が、人類の生活にどう役立っているか、そのマイナス面はないかについて話し合いました。それを 40 分ほどかけてグループで話して、その後に各グループから代表者が一人出て発表をします。こういうあたりは、非常に組織的に動いています。

さらにはゲームの時間もあり、各グループから自分が頭の中で考えた「ハイテク製品」について、他のグループから短い質問だけを幾つか受け付けて、相手側のグループにその「ハイテク製品は何か?」を考えさせて、当てるクイズもありました。

それが終わり、 11 時になった頃に司会の人がこの日にひさしぶりに <東日クラブ>に参加した SB さんにマイクを渡して、挨拶をお願いしました。 SB さんは以前この<東日クラブ>に顔を出していた当時のことを、懐かしい表情をして話されました。

そして SB さんはその話の終わりに、私を紹介されました。私は教壇の上に立ち、昨年の三月にこの<東日クラブ>に来た時以来、ひさしぶりに参加させて頂いたお礼を述べました。そして昨年、この<東日クラブ>に何をしに来たのかについても話しました。黒板に、 《 2011.3.11 》 と書き、一年前にベトナムの人たちが、【東日本大震災】への支援活動をして頂いたお礼を述べに来たことを話しました。

今回は SB さんが数日後には日本に帰られるので、ベトナム滞在最後の日曜日に、ひさしぶりに<東日クラブ>に一緒に顔を出したくて参加したこと。今から歌を歌いたいと思いますが、今日突然司会者の方からお願いされたので、歌詞のコピーを持参しなかったことのお詫びを述べて、「サライ」を歌いました。この日の<東日クラブ>は 11 時半頃に終わりました。

そして数日後、 SB さんは このベトナム滞在中に唯一の観光旅行として、「ハロン湾を見たい。」と言って、飛行機でハノイまで行かれました。しかし、何とハノイに着いてすぐに大型の台風が襲来し、ハロン湾観光どころではなく、ハノイ市内観光もままならず、台風が去ってすぐに、またサイゴンに帰って来られました。「飛行機代をわざわざ使って、台風を見に行ったようなものでしたよー。」と、残念そうに、苦笑しながら話されました。

SB さんはベトナム滞在の間に、かつての日本人・ベトナム人の多くの知人や友人たちに会いに行かれました。以前滞在していたアパートの大家さんにも、日本からのお土産を携えて挨拶に行かれました。さらには、 [ 日本人が設計した学校 ] で紹介した、建築家の NS さんや、 IT 会社の社長の KR さんにも会われました。私もその時には同席していました。

そして、そろそろサイゴンを去る日が近付いた二日前に、サイゴンにいる SB さんの友人たちが、路上の屋台に集りました。そしてたまたま日本からも、あの 【さすらいのイベント屋】の NM さんがこの日に到着しました。 SB さんも NM さんとの久しぶりの再会を喜ばれておられました。

しかし SB さんがサイゴンに滞在している間に、私たちが SB さんを囲んで話していますと、かつて『ベンタン屋台村』にみんなが集まって、ワイワイと飲み、かつ食べていた夜を思い出して来ました。この日には、あの時と同じメンバーがほぼ揃いました。

この場にいなかったのは、以前 Saint Vinh Son( セイント ビン ソン ) 小学校 を支援されていた A さんだけです。みんなが揃った写真を記念に撮り、その写真を A さんにも後で送りましたら、「 写真から、すごくいい気分で飲んでいる感じが伝わってきますね〜。」と、 彼も大変喜んでおられました。

その A さんは、今年のカンボジアのアンコール・ワットマラソンに参加するために、 12 月中旬にカンボジアに行き、その帰りにサイゴンに立ち寄られる予定だと聞きました。そのアンコール・ワット・マラソンに参加すべく、今は毎朝 10km を走りながら体調をコントロールされています。

そして結果として、この日の集いが、 SB さんの今回のベトナム訪問の最後の機会になりました。

『 朋あり 遠方より来る また楽しからずや 』
論語「学而編」−

孔子 が『論語』の中で言われていたあの言葉を、私はこの日の夜、しみじみと実感しました。孔子が生きていた時代の広大な中国大陸では、それこそ友人は時間をかけて、はるか遠方から訪ねて来ることが珍しくなかったことでしょう。だからこそ、近くに住む友人に会うのとは違い、遠くから訪ねて来てくれた友人に会う時には、その楽しさがさらに倍加するのは当然と言えます ( 私自身も日本で友人たちに会う時には、ひさしぶりに会うだけに、涙が出るほど嬉しい感じがします ) 。

次に SB さんがまたベトナムに来られるのは、 Y さんと話し合って来年の 3 月初めと決められました。その時にまた、 Cai Be で 《元日本兵・古川さんの 38 回忌の法要》 を営む計画を Y さんが立てておられるからです。その機会には、私もまた参加させて頂くつもりです。

たまにしか会えない友人と、ひさしぶりに会えた時の嬉しさ・楽しさは格別なものがありますが、 SB さんのようにわざわざ遠い日本から来訪される人の場合はなおさらです。(日本での忙しい仕事を、いろいろやり繰りされて来たのだろうな〜)ということは私たちにも良く分かりますので、日本から来られた SB さんが、我々の前に顔を出された時には、それらの思いが重なり、感無量のこころ持ちがして来ました。

昨年日本に SB さんが帰られる時に、私は 『いつかまた、「第二の故郷」に帰って来られる日があることでしょう。ベトナムにいる大親友や友人・知人、そしてベトナムの若い人たちに会うために・・・。』 と信じていましたが、 SB さんはその約束を見事に果たされました。

来年の 3 月も、 『朋あり 遠方より来る  また楽しからずや』という気持ちを味わえるのかと思いますと、その日が来るのが待ち遠しくてたまりません。次もまた、二年前と同じ顔ぶれの日本の人たちが、 Cai Be の田舎町に集まり、そこで楽しい一夜を過ごすことでしょう。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 親の恩を忘れるな! ■

私は 2009 年の 12 月に、初めてベトナムに来た。幾つかの困難な問題に遭遇したこともあったが、この国の気候とベトナムの人たちが大変好きになり、それでまたベトナムに戻ってずっと住みたいと思った。

最近私は、 Diep Huu Loc( ズェップ フー ロック ) さんのことを知る機会があり、大変感動した。その青年は、自分の肝臓を自分の母親に提供したのだった。私はそれ以前にも、似たような話は聞いたことはあるが、この話を聞いた時に、さらに自分の気持ちが温かくなってきたのだった。

自分の内臓の一部を親族の誰かに提供することは、さほど難しいことではないと、多くの人たちが考えているかもしれない。しかし Loc さんと同じようなことを、それ以前にも何人かがやったことはあるが、誰にでも出来得ることではないと思う。多くの人たちが、頭の中ではそう思っていても、実行に移す人は少ない。

“ 言うは易く 行うは難し ”

だからこそ、私はそれを実行に移した Loc さんに強い尊敬心を持った。最近の若者たちから見ても、 Loc さんの行動は一つの模範になることだろう。今の若者たちの行動パターンはと言えば、インターネットのゲームで遊ぶことに夢中になっているのだから。あの Loc さんのことに思いを致して欲しい。

ドイツでは、若者たちは親元を離れて一人で暮らすことが多い。大学に行く時には、別の市に移り住んで一人で暮らし、そこから大学に通う。しかし、ベトナムの若者たちは、結婚するまでは家族と一緒に住むことが多い。

ベトナムの家族とドイツの家族を比較して見た時、大きな違いはと言えば、何か一つのことを家族みんなでやろうとした時に、ベトナムでは家族みんなが集りやすいことである。でもドイツの社会では、若者が両親と別々に住んで暮らしている時には、何事もすべて自分で考えて、自分で決めないといけないので、自分に“自信”を持っている。

ドイツの両親たちは、子どもたちとは一緒に住まないが、勿論淋しい気持ちはある。でもそれは、 《子どもの成長にとって必要なこと》 と、割り切って考えている。つまり、両親は、子どもとは、 『別の空間、時間に住むことが必要』 だと思うからだ。

若い時には親元から離れて、一人で考える 【時間・空間】 が必要で、そして自分自身の力で成功のチャンスをつかみ、それを実現させることが何よりも大切だと、ドイツの両親たちは考える。もし両親が子どもたちと一緒に住んでいれば、両親は子どものことがいつも気がかりで、いつも心配することになる。

ヨーロッパの人たちは普通、年を取ったら養老院に行き、そこで暮らす。そこには行き届いた、いろんな福利厚生の設備が揃っている。このような考え方は、社会が長い時間をかけて議論を尽くして出来上がったやり方である。

しかし、私から見て嬉しいことは、ヨーロッパの若者たちが、以前の伝統に戻りつつあることである。「自分の両親の世話をしたい!」と、考える若者たちがここ最近増えて来たことである。

私はある一つの論文を、長い時間をかけて読んでいた。その時に、インタビューの人が次のような質問の仕方をしていたのが興味深かった。

「私は自分の両親が好きです。でも・・・」

ヨーロッパ人が答えている内容は、自分の両親について、 「否定的な意見 」が多かった。でもベトナム人の場合は、同じ質問に対して、 「肯定的な答え」 が多いのである。ベトナムの若者たちは、もし自分が忙しくて、自分の両親の面倒をあまり見ることが出来ないことに対して、 「後ろめたさ」 を感じている。そしてそれは、一人一人のこころ中の問題でもある。

毎年の 10 月 20 日は、 <ベトナムの女性の日> である。私はベトナムの女性にお祝いの言葉を贈ってあげた。私から見ると、あの戦争中にベトナムの女性たちは目覚しい、多くのの活躍をしたことを知っていたので、この日は、ベトナムの女性たちを称えるに実に相応しい日だと思う。

ドイツでも、毎年 3 月 8 日に <国際婦人デー> がある。しかしさらに、ドイツでは 5 月にも、母が社会への貢献を果たしていることを忘れない日がある。

私は一年 365 日、いつも両親への感謝の気持ちを忘れないようにしたいと願っている。

Michael Florian 教授
( ドイツ人 / AIP 研究所・所長 )

◆ 解説 ◆

“ 親孝行 したい時には 親は無し ”

これは日本にベトナム人研修生たちが行く前に、私が研修生たちによく話す言葉です。そしてそれは日本にいる母親を思う時、私自身にもいつも問いかけている言葉でもあります。 “親孝行” はベトナム語で Hieu Thao( ヒユ タオ )と言います。 Michael Florian 教授の記事のタイトルを見た時に、私はすぐにその言葉を想起しました。

この日本の『格言』を研修生たちに紹介する時、 「日本という異国で、いつも両親のことを思い出しながら、三年間頑張ってほしい。日本では楽しいことばかりではなく、辛いこと・苦しいこともあるだろうが、それを乗り越えて欲しい。何故なら、ご両親はみんなが三年間頑張って、元気な姿で母国に帰って来るのを楽しみにしているのだから・・・。」 という話をします。そしてこの言葉を、あらためて、しみじみ実感させることが最近起きました。

ここ最近一ヶ月ほどの間に、二人の研修生が急遽ベトナムに帰国しました。一人はお母さんが、交通事故で 50 歳で亡くなられ、もう一人はお父さんが、病気でわずか何と 42 歳で亡くなられたというのでした。二人とも私が良く知る生徒たちでした。それだけに、どんなに辛い思いで、悲しい気持ちで飛行機の中を過ごし、空港に降り立ったのだろうか・・・と想像するにつけ、私も深い悲しみを覚えました。

特に一人の女子の研修生はまだ 20 歳になったばかりで、北海道で 「酪農の研修生」 として頑張ろうと、日本に飛び立って行ったばかりなのでした。彼女は、偶然にも生まれた月日が私と全く同じなので、特に印象深い生徒でもありました。深夜便の飛行機で日本へ飛び発つ時に、「今から行って来ます。三年間頑張って来ます!」とショート・メッセージを送ってくれました。

その彼女の特技は絵を描くことであり、今年の私の誕生日に、自分の手で描いた絵を私にプレゼントしてくれたのでした。すぐに額に入れて、いつも私が見えるところに掛けました。彼女が日本へ行ってからも、その絵を見るたびに、 ( 日本で元気に過ごしているだろうか・・・? ) と、思い出していました。

彼女が描いてくれた絵の中には、小さな字で次の言葉がベトナム語で書いてありました。

『Nhat Tu Vi Su(一字為師). Ban Tu Vi Su(半字為師)』

「一字でも教えてもらったら、その人はその時から先生」
「半字でも教えてもらっても、その人はその時から先生」

この言葉は、【ベトナムの先生の日(11月20日)】に、生徒たちが先生たちに贈る恒例の言葉なのでした。

実は、彼女が急遽日本に帰る時に、その彼女の身に起きたこととは知らず、 ( もしかしたら・・・ ) という思いがありました。深夜一時半頃の時間に、日本からある着信記録が残った番号を翌日見たからです。しかし、その番号は私にはこころ当たりのない番号でしたので、誰が掛けたのかも分かりません。深夜の時間に掛かって来るぐらいだから、 ( 誰かに何かがあったのでは・・・ ) という不安な思いはありました。

そしてこの日、学校に出かけますと「研修生の G さんのお父さんが亡くなって、彼女は急にベトナムに戻り、今故郷に向かっていますよ。」と聞きました。 ( もしかしたら、あの深夜の電話は彼女からのだったのでは・・・? ) と思いましたが、もしそうであれば今は取り込んでいて忙しいだろうなーと思い、敢えてこちらから電話はしませんでした。

そして「彼女は一週間ほどベトナムの故郷にいて、また日本に戻って行きましたよ」と、ベトナム人の同僚の先生から聞きました。そして数日後、日本のその番号に電話をしました。やはり G さんが出て来ました。しかし、電話の向こうから明るい彼女の声が聞こえて来ました。

お父さんが亡くなられたことへの慰めの言葉を述べましたら、彼女は努めて、気丈に明るい声で話してくれました。 ( 電話口の向こうで涙ぐんだ声を聞かせたら、私に心配を掛けるからと思っているんだろうな〜 ) と、その彼女の気持ちが痛いほど分かりました。

「日本の生活は楽しいですよ!心配しないで下さいね!」とずいぶん上手になった日本語で、彼女は話してくれました。お父さんが亡くなった悲しみを乗り越えて、三年後に元気な姿でまたベトナムに戻って来て欲しいと思います。

ベトナムにいる私は、彼女から贈られた絵を見るたびに、暑い南国のベトナムから、はるばる遠くて寒い北海道で酪農の研修に毎日励み、多くの牛たちの世話にいそしんでいる彼女の姿を、胸が痛くなる思いで想像しています。



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