アオザイ通信
【2016年3月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<NHKが「SUSHI KO」にやってきた!>

2月初旬の夕方、私が友人たち数人と「SUSHI KO」で食べて、飲んでいますと、オーナーのLinh(リン)さんが私たちの席に近づいてきて、

「実は、2月末に日本のNHKがSUSHI KOを撮影しにきます!」

と言われたではありませんか。それを聞いた私たちは「ええーっ、本当ですか!」と驚きましたが、「あのNHKが取材に来るまでに、SUSHI KOも有名になったのか・・・」と嬉しくもありました。

実は、NHKは昨年の12月20日にもあの「青年文化会館」で毎週行われている『日本語会話クラブ』に撮影に来ました。私もその時そこにいました。当日は2時間ほど掛けて撮影していました。そして、『NHKBSプレミアム』の方で、2月10日に放送されました。「放送されました」と言っても、ベトナムにいる私はそれを観ることが出来ず、日本にいる知人に観てもらいました。

知人の話では「その放送が始まるのを期待して待っていました。しかし、ベトナムの観光地や人気スポットの中のひとつとして番組が編集されていたようで、肝心の『日本語会話クラブ』自体の放送は一分間くらいでしたよ。あなたは後ろ姿だけが写っていましたよ」と、笑いながら後で話してくれました。後日、『日本語会話クラブ』の参加者にその話をしましたら、ガッカリしていました。

私は事前に、当日撮影に来られていた日本人のディレクターの方から、「今日撮影したぶんをこれから日本に持ち帰って編集しますが、時間の都合上大胆にカットする場面もあるかもしれませんので、ご了承ください」と聞いていましたので、それは予想していました。ただ、『日本語会話クラブ』の女性の副責任者のNguyen(グエン)さんの話はキチンと放映されましたので、彼女にとってはいい記念になりました。

そして、2月初旬にLinhさんが私にNHK撮影の件を話して以来、その後は何の話も無かったので、私自身はその件を忘れていました。すると、2月24日に友人たち数人とまた「SUSHI KO」に集まった時、Linhさんがやって来て「いよいよNHKが2月27日にここに撮影に来ることが決まりました」と言われたではありませんか。

実は、私はNHKの方にお会いした時には、ある<一つのお願い>をしたいと思っていました。昨年12月に『日本語会話クラブ』に撮影に来られた日本人のディレクターの方にも、そのことを伝えました。それで、またNHKの別の方が撮影に来られるのなら、その人にも話そうと思いました。

しかし、Linhさんが「NHKが撮影にやって来る!」と言われたのが本当なら、後3日しかありません。この日すでに夜の時間帯になっていましたので、実質2日しかありません。その後、この時来ていた私の知人のABさんが俊敏に動きました。25日に、彼のFacebook上で「2月27日にNHKがSUSHI KOに撮影にやって来る!」ことを友人たちに連絡しました。

ABさんはこのベトナムでソファーの製造・販売をしています。奥さんと、一歳を少し超えた娘さんがいます。彼自身がまだ若いので(三十代半ば)、交友範囲は年配者から若い年齢層まで広がっています。その人たちに、彼がすぐに以下の内容で告知しました。

 <NHKがやって来る!!>

● 撮影場所:SUSHI KO
● 撮影日:2月27日(土)
● 集合場所:SUSHI KO1号店
● 集合時間:18時
※NHKは18時過ぎから取材予定
※当日はマグロの解体ショーもあり!

すると告知してわずか一日後の26日(金)午前中で、参加希望予定者が何と「30人」にも達しました。我々のグループの参加希望者だけで「30人!」になったことが分かり、私とABさんは驚きましたが、嬉しくもありました。(しかし、ただでさえ混み合うあの狭い場所に、どうやって席を確保しようか・・・)と二人で悩みました。「では、27日の件の打ち合わせも含めて、夜にSUSHI KOで落ち合いましょう」とABさんと話して、NHK撮影の前日の26日夜に「SUSHI KO」に集合することにしました。

そして、「SUSHI KO」が営業している通りをバイクで走っていますと、驚くべき事態が・・・。手前にある「SUSHI KO2号店」に何やら、多くの人たちが集まっています。そして、店の前の歩道上には、ベトナムのお葬式の時に使う旗が立っています。その前にバイクを停めてしばらく見ていましたが、やはりお葬式の真っ最中でした。誰が亡くなられたのかは知りませんが、おそらくそこの大家さんの家族の方ではと想像しました。

ベトナムのお葬式は普通2・3日続きます。(何というタイミングの悪さだ!明日の撮影はどうなるのか・・・)と、思いました。相当の混乱が起きることを想像しておかないといけません。普通はいつも2号店のほうから先に席が埋まり、そこが満席になると、1号店にお客さんが流れてきます。収容人数も2号店のほうが多く入ります。(その2号店がお葬式で使えないとなると、一体どうなることやら・・・)と思うと、お葬式の光景を眺めながらしばらくそこで考え込みました。

1号店に行くと、普段は2号店で包丁を握っているLinhさんが1号店で仕事をしていました。すぐに、Linhさんのほうに行き、お葬式の件を聞きました。すると「ええ、大家さんの家族の方が亡くなり、明日までお葬式が続きます。それで、明日のNHKの撮影はこのSUSHI KO1号店で行います」と、あまり慌てた様子もなく、淡々と話されるのでした。実に度胸が据わっています。

私が着いてしばらくして、ABさんもやって来ました。ABさんもここに来て初めて、「SUSHI KO2号店」でお葬式をやっていることを知りました。彼に聞きますと、この日の夜の時点ですでに35名に達していました。

当日は、それだけの人数が「SUSHI KO1号店」に集まります。もともとの集合場所は1号店にしていたので問題ありませんが、2号店で食べていたお客さんたちも、二十メートルぐらいしか離れていないので、この日は1号店に来るでしょう。

しばらく二人で明日の打ち合わせをしていますと、やはり席が満席になりました。それだけならまだしも、席が空いていなくて、立って待っている人たちが徐々に増えてきました。日本人も、ベトナム人も、白人さんもいます。みんな歩道の端に立って、席が空くのをじーっと待っています。(あー、満席だ。帰ろう!)と、すぐに帰るような人はいません。
(せっかくここまで来たのだから、しばらく待っていようか)という気持ちなのでしょう。

そういう人たちのグループが増えてきました。十人以上の人たちが席が空くのを待っています。やはり、2号店に来たお客さんたちも、そこがお葬式で開いていないのを知り、1号店まで来たようです。ABさんと二人で打ち合わせていて、次々に増えてくるお客さんを見ていて(うーん)と考えました。

(今日は金曜日。NHKの撮影は明日の土曜日。いつも土曜日のほうがお客さんは多い。しかし、2号店は明日もお休み。相当な混雑が予想されるだろうな・・・。そういう状態が予想される時に、我々のグループの席が予約席として優先的に確保してある。しかし、誰も座っていない状態のままの席が幾つもあり、他のお客さんたちが20分も30分も立ちながら待っているとしたら、それでは店側にも、他のお客さんたちにも申し訳ない・・・)

それで、ABさんと次のようにしました。今の段階では、明日の参加者は「SUSHI KO2号店」がお葬式のためにお休みであることをまだ知らないし、どういう状態になっているか実感が湧かないので、今この場からお客さんたちが立ち見で待っている様子をフェイスブック上で知らせる。それを見たら、明日はさらに混雑するであろうことは容易に想像できるだろうこと。

さらに、当初は<6時集合!>と告知していたのを、30分早めて<5時半集合で時間厳守!>と訂正。当日の最終参加者の申し込み締め切りは午後4時まで。当日の午後4時までに参加を申し込んだ人数ぶんで席を用意。当日の午後4時でもまだ<参加未定>状態のままで、来るか来ないか未定の人には、参加を辞退してもらう。・・・以上のことを確認しました。

当日は多くの人たちが「SUSHI KO1号店」に押し寄せて来るのが予想されるので、他のお客さんたちよりも早く着いて、席に座ってもらわないといけません。また多くの空き席を出してもいけないのです。以上の連絡をABさんは友人たちにフェイスブック上で告知し、私の友人・知人たちには携帯電話からメッセージで知らせました。

この日の夜はそこまでを詰めてABさんとは別れましたが、それからのABさんの動きは実に緻密であり、すばやいものがありました。刻々と変化する人数を私のほうに知らせて頂きました。最終的な席の予約は私が店のほうに確認することにしていたからです。

当日どんなメニューを提供するかも、私のほうで考えておくことにしました。35人にもなる参加者に各自勝手バラバラに注文されたのでは、厨房のほうは只でさえ忙しいのに、大混乱になるのは目に見えています。メニューの件は、当日はみんなより早く着き、メニューの種類とそれを出す順番も決め、各テーブル上に幾つ並べるかも指示するつもりでした。

そして、迎えたNHK撮影の27日。午前中にABさんから人数の変化について、私のメールに連絡がきました。彼に「参加します!」と連絡が来たのを、家族連れや個人参加も含めて、彼が人数を確認・整理すると、何と「40人」にも達していました。そのメンバー一人一人の参加者リストまで作成してくれていました。

(40人になったか・・・。) しかも、リストを見ますと、その40人のうち私が直接知っている人たちは二割ぐらいで、あとの八割は全部ABさんとの繋がりがある人たちです。ABさんもさすがに心配して「こんなに増えて大丈夫でしょうか。この参加者たちの中で、O県人会の人たちが10名もいますが、お断りしましょうか」と私に相談されました。

家族連れも入れて、40人もの人たちが申し込んで頂いたわけですが、中途半端な人数でやるよりも、むしろここまで人数が増えれば、大いに盛り上がるのは目に見えていますので、「やりましょう!皆さん全員に参加してもらいましょう!」という気持ちになりました。

それに、O県人会の人たちを断っても結局30名の人数は来るのですから、「せっかく楽しみにされているのですから、その人たちも受け入れましょう。皆さんの参加を歓迎しますよ」と返事しました。

「今日私は、みんなより少し早めに、5時にはSUSHI KO1号店に行き、座席の配置やみなさんに出すメニューを確認しておきます」とABさんに連絡しました。ABさんも「では、自分もその頃に着くようにします」と言われました。

そして私は夕方5時に「SUSHI KO1号店」に到着。ABさんもその後すぐに着かれました。奥さんとお子さんも一緒でした。ABさんは最新の参加者リストを持参していて、参加者の人数ぶんをコピーしていました。その最新のリストを私に手渡しながら、「全部で45人になりましたよ!大丈夫ですか?」と言われたではありませんか。

「えっ、45人!」。午前中に聞いた人数より、さらに5名も増えていました。「大丈夫でしょう。テーブルを一つだけ増やしましょう」と答えて、早速店員さんに「20人席を一列と24人席を一列作って欲しい。24人席の端に私が座るから25人になり、全部で45人ぶんの席をセットしてください」とお願いして、すぐにその通りにしてもらいました。

さらに、ABさんはリスト以外に、座席に貼る氏名までも紙に書いて用意していました。全く関係ない人たちがバラバラに座るよりも、顔見知りの人たちは席が近くになるようにして、紙を貼ってゆきます。ベトナム人の奥さんと子どもがいる家族連れは、同じようなグループの家族をまとめて座らせるようにしています。実に気配りが行き届いています。そして、早く着いた人たちを次々とその席に座らせてゆきます。

そして、この日はみんなが期待して待っている<マグロの解体ショー>もあるので、私たちの席はそれが良く見える、一番近い席に作ってもらいました。事前に、当日は<マグロの解体ショー>を行いますと告知していましたので、これを見たさに参加してきた人たちも多かったようです。

NHKの撮影班も5時過ぎには到着されました。『日本語会話クラブ』の時には日本人の方がテレビカメラを回していましたが、今回はベトナム人のカメラマンでした。日本人の方と名刺交換をさせて頂きました。日本人の方はSKさんで、まだ若く、ハノイで支局長をされています。SKさんに「どうしてこのSUSHI KOを知りましたか」と聞きますと、「JETROの記事を読んでいて知りました」と答えられました。

そして、すぐにLinhさんにインタビューを開始しました。私は少し離れた位置から見ていましたので、その時どういう質問をしていたのかは分かりません。後で聞きますと、Linhさんは「路上屋台の日本料理屋SUSHI KOを開こうとした決意と情熱。そして、SUSHI KOのこだわり」について話されていたそうです。

そして、私たちのグループの参加者は、ABさんが「時間厳守!」を徹底していたおかげで、5時半にはみなさん着席されました。いよいよ6時からNHKが撮影開始。まず、<サーモンの解体ショー>から始まりました。サーモンはノルウェー産だということです。さらに<マグロの解体ショー>が続きます。

マグロはベトナムのHoang Sa(ホアン サー)で獲れたそうで、目方が75kg。値段が1200万ドン(約6万2千円)とは、Linhさんの話でした。大きなマグロを包丁一本でさばいてゆきます。この日に参加した我々のグループはもちろん、他のお客さんたちや、隣近所の人たちまでやって来て、興味津々の表情で見つめています。みんなパチパチ写真を撮っています。

Linhさんが包丁を握る手付きは、実に鮮やかなものです。みるみるうちに、あの大きいサーモンやマグロが解体されてゆきました。その場面も、NHKの撮影班はしっかりと撮っていました。Linhさんは、今までも多くのマグロを解体した経験があるのでしょう。「SUSHI KO2号店」の開店の時にも、<マグロの解体ショー>を披露してくれたことがありました。

そして、時間が6時を過ぎた頃には、我々のグループの席は全部埋まりました。さらには、「45人」の参加リストに載っていない友人・知人たちも飛び入りで来ましたので、左右に席を詰めて座ってもらいました。窮屈ではありますが、みなさんこの日の雰囲気を楽しんでいました。

しばらく経ってABさんが人数を確認したら、「50人になりましたよ!」と笑っていました。昨年の忘年会の時には20人参加しましたが、今回は今までに無い最多の参加者になりました。料理もあらかじめメニューを頼み、出す順番も決めていましたので、作る側にも、出す側にも、大した混乱はありませんでした。

そして、6時半を過ぎた頃から、やはり立ち見のお客さんが多くなりました。じっと席が空くのを待っています。そのような光景も、NHKの撮影班は向こう側の道路から撮っています。NHK のSKさんも路上屋台のスシ屋で、これだけ繁盛している様子を見ていて驚いている表情でした。7時半を過ぎた頃には、お客さんは約百人を軽く超えていました。

8時を過ぎる頃までは、多くの人たちがSUSHI KOに押し寄せ、厨房のスタッフたちも接客の店員さんたちも、誘導、配膳、注文、料理作り、精算、片付けなどで、テンヤワンヤの大忙しでした。我々のグループも、料理を食べながら、ビールを飲みながら、談笑しながら楽しんでいました。

ABさんの話では「おそらく今日初めて会う人たちのほうが多いでしょうね」と言うことでしたが、みなさんお互いに隣や前に座った人たちと楽しく話されていました。そして、Linh さんから、我々のグループにはさっき解体したばかりの「マグロの刺身」の特別サービスも頂きました。みなさん大喜びでした。

8時半を過ぎた頃、NHKの人たちもようやく撮影の仕事を終えられたようで、SKさんもLinhさんと一緒に空いている席に座られました。そこはちょうど私の後ろの席でした。私が胸に秘めていた<一つのお願い>を聞いて頂くには最適の場所でした。

NHKの人たちは、仕事が一段落した後にSUSHI KO の料理をLinhさんと一緒に楽しんでおられました。しばらくは、私もSKさんに<一つのお願い>を聞いて頂くのを遠慮していました。そして料理を食べて落ち着かれた頃、SKさんのほうを振り向いて、次のような話をしました。

「実は、私のベトナム人の友人でTri(チー)さんという方がいます。今46歳ぐらいです。彼は日本語を流暢に話しますが、その日本語を流暢に話すことになったキッカケが、実はNHKにおられた、ある日本人の方がベトナムまで送ってくれた日本語の教材のおかげなのでした。それは今から、約24年も前のことです。

彼が“日本語を勉強してみよう!”と決意した時、彼が住んでいた町には日本語学校が全然無くて、それで思い切ってベトナム語で“私はベトナム人ですが、私が住んでいる町には日本語学校がありません。それで、申し訳ありませんが、日本語の教材を送って頂けませんでしょうか”という手紙を書いて、日本のNHKに送りました。

すると、しばらくして彼の元にNHKから日本語のテキストとテープが無償で届いたと言います。彼は今でも、遠いベトナムまで無償で日本語の教材を送って頂いたNHKの方に恩義を感じていて、“もしいつか将来、ベトナムにいる私にテキストを無償で送って頂いたあのNHKの方に出会うことがあったら、こころから感謝の言葉を述べたいのです”と、私に話してくれました」

Triさんのことは、以前2006年11月号に「ダチョウのフォーを食べる」というタイトルで載せたことがあります。Triさんには、以前私の娘の誕生日のパーティーにはよく来て頂いていましたが、最近は会っていません。しかし、Triさんから聞いた「NHKの人への感謝の念」のことは、実に感慨深い話だけに、今も忘れることが出来ません。

SKさんはそこまで話を聞いて、大変興味深い表情をされていました。(いつかTriさんのその夢を実現させてあげたいなー)と言う気持ちは、「NHK」の名前を聞いた時、日本でもベトナムでもふっと甦ってくるのでした。しかし、私自身はNHKさんには全くツテがありません。

さらに、「何ぶんにも今から24年前のことでもありますし、NHKは配置転換が多いというのを聞きますので、おそらくその人を探り当てるのは難しいだろうなあ・・・」とはTriさん自身も話していました。この後のことになりますが、SKさんは私に「NHK内のいろんなツテをたどって、その方を探してみたいと思います」というメールを送って来られました。

さらにその後すぐに「NHK 国際放送局」でベトナム語放送を担当しておられる方も紹介して頂きました。24年ぶりに、Triさんの<恩人探し>は進展するかもしれません。それが実現した時には、Triさんの喜びは如何ばかりかと思います。

SUSHI KOでの私たちの宴会は9時頃にはお開きになりました。大変な盛況でした。みなさんたちにも大変喜んで頂けました。参加人数のあまりの多さに、一時はどうなることかと心配しましたが、ABさんの連絡の周知徹底、SUSHI KOの従業員の方々の機敏な動きで、無事に終わりました。

「SUSHI KO2号店」が閉まっていて、一時はどうなることかと心配しました。多くのお客さんたちが「SUSHI KO1号店」のほうに集まって来ましたが、結果的には「SUSHI KO」の賑わいぶりを映し出すことになりました。

そして、この日「SUSHI KO」で撮影された内容に関しては、SKさんから
「3月10日(木)午前7時〜BS1“キャッチ!世界の視点”という番組で放送される予定です。残念ながら日本国内のみでの放送となります」 という連絡を頂きました。

それをABさんに連絡し、ABさんからまた当日SUSHI KOに参加した人たちにも通知しました。私も日本にいる友人たちに知らせました。しかし、ベトナムにいる私はそれを観ることが出来ませんでした。

後で友人の話を聞きますと、『日本語会話クラブ』の時には1分足らずでしたが、今回は3分間ほどSUSHI KOに関して放映されたそうで、Linhさんの話やお店の盛況の様子、さらには我々のグループの参加者たちもバッチリと収められていたそうです。

50人もの人たちが一同に集まり、SUSHI KOの盛況ぶりの様子に大いに貢献して頂きましたので、Linhさんには大変喜んでもらいました。「有難うございました。みなさんたちのお陰で、日本にいる人たちにも今ホーチミン市での日本食の人気の高さが分かってもらえたのではと思います。」と感謝されていました。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 日本は大惨禍から五年目の追悼を行う ■

今からちょうど五年前、未曾有の地震と津波で2万人以上の犠牲者を出した方々を悼む行事が、3月11日に日本の各地で行われた。マグニチュード9の大地震が起きた2時46分に全国各地で一分間の黙祷をした。

首都・東京では日本政府主催による、大震災の追悼式が行われ、天皇陛下がお言葉を述べられた。

「東日本大震災から5年が経ちました。ここに一同と共に、震災によって亡くなった人々とその遺族に対し、深く哀悼の意を表します。

5年前の今日、東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波により、2万人を超す死者、行方不明者が生じました。仙台平野を黒い壁のような波が非常な速さで 押し寄せてくるテレビの映像は、決して忘れることができないものでした。

このような津波に対してどのような避難の道が確保できるのか暗澹たる気持ちになったことが思い起こされます。また、何人もの漁業者が、船を守るために沖に向け出航していく雄々しい姿も深く心に残っています。

このような中で、自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体関係者、さらには、一般市民が、厳しい状況の中で自らの危険や労をいとわず救助や捜索活動に携わったことに深い感謝の念を抱いています。

地震、津波に続き、原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染のため、多くの人々が避難生活を余儀なくされました。事態の改善のために努力が続けられていますが、今なお、自らの家に帰還できないでいる人々を思うと心が痛みます。

こうした苦難の中で、政府や全国の地方自治体と一緒になって、多数のボランティアが被災者のために支援活動を行いました。また、160を超える国・地域や多数の国際機関、また在日米軍が多大な支援に当たってくれたことも忘れることはできません。

あれから5年、皆が協力して幾多の困難を乗り越え、復興に向けて努力を続けてきました。この結果、防災施設の整備、安全な居住地域の造成、産業の再建な ど進展が見られました。しかし、被災地で、また避難先で、今日もなお多くの人が苦難の生活を続けています。特に、年々高齢化していく被災者を始めとし、私 どもの関心の届かぬ所で、いまだ人知れず苦しんでいる人も多くいるのではないかと心に掛かります。

困難の中にいる人々一人ひとりが取り残されることなく、一日も早く普通の生活を取り戻すことができるよう、これからも国民が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。

日本は美しい自然に恵まれていますが、その自然は時に非常に危険な一面を見せることもあります。この度の大震災の大きな犠牲の下で学んだ教訓をいかし、 国民皆が防災の心を培うとともに、それを次の世代に引き継ぎ、より安全な国土が築かれていくことを衷心より希望しています。

今なお不自由な生活の中で、たゆみない努力を続けている人々に思いを寄せ、被災地に一日も早く安らかな日々の戻ることを一同と共に願い、御霊への追悼の言葉といたします。」

この大地震で、東北地方の住民たちは根こそぎ家屋を流され、帰る土地を失ってしまった。さらに福島第一原発の放射能漏れの影響で、今も故郷に帰れない人たちが10万人ぐらいいる。宮城県の仙台市が、この大地震で一番多くの方々が亡くなった場所である。今もなお、警察官たちは行方不明になった方々の遺骨を探し続けている。

◆ 解説 ◆

「東日本大震災」から五年経った今年も、ベトナムの新聞に以上の記事が載りました。ベトナムの人たちにとっても、まだ記憶の中に残っている大きな惨事だったと言えますが、記事の大きさは年々小さくなっています。それも致し方ないかなと思います。

そして、今年もまた私が教えている学校で、3月11日12時46分(日本時間の2時46分)に追悼の行事を行いました。一分間の黙祷と「花は咲く」の合唱です。

「花は咲く」は、日本人にとっては聞いているだけだと歌いやすいイメージですが、ベトナム人の若者たちにはなかなか難しいようで、二週間ぐらい前から歌の練習を各クラスでしてゆきました。

この日は生徒たち、先生たち、事務員の方たち全員が中庭に出て、黙祷と「花は咲く」の合唱を行いました。ちょうど真昼の時間ですから、暑い太陽がギラギラと照りつけていましたが、生徒たちも汗を流しながら黙祷し、歌を力強く歌いました。

毎年この3月11日には、日本各地で追悼式が行われるようになりましたが、外国でもやはり日本人が関係している団体・組織では、私たちと同じようにやっているのではと想像しています。

日本にいる人たちであれ、海外にいる人たちであれ、私たち日本人にとっては、忘れようとしても忘れられない、記憶に深く刻まれた「悲しい一日」です。



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