アオザイ通信
【2011年5月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<さまざまな再会>

春の日本に私が帰った時に、故郷で私が最初に再会するのは母ですが、いつも待ちかねたように会う友人たちが数多くいます。それは小学校や中学校の時の同級生たちであり、高校時代の友人たちです。また、かつて同じ職場で働き、今は違う世界にいる同僚たちとの再会もあります。さらには幼なじみからのイトコ同士たちの集まりもあります。

その中でも、かつての同僚とは毎年五月の連休の中で再会し、ほかにも多くの友人たちも招いてくれて、夕方から夜遅くまで宴会が続きます。奥さん自らの手料理も振舞われて、テーブルいっぱいのご馳走で歓待してくれるのです。一年に一度しか会えない彼と奥さんとの再会は、胸がうずくほどの感謝の念でいっぱいです。

さらにまた、同じ村に住んでいる幼なじみの知人も、「やあ〜、帰って来たやー。」と喜んで自宅に招いてくれて、自分の畑で作っているソラマメを茹でてくれたり、タラノメの天ぷらを家の中で揚げてくれたり、また山から掘って来たタケノコの煮付けを出してくれて歓待してくれます。

この知人は私の親戚筋の男性であり、三年前に役所を定年退職して、今はソラマメやタラノメなどを市場に出荷しています。さらには何と自然薯までも一人で栽培しています。これはもともと自分の家だけで食べるために趣味で栽培していて、時には友人や知人にも気前良く配っています。私もそれを一本もらいましたが、メジャーで長さを測ると1m40cmもある見事なものでした。ここまで育てるには一年間かかるということでした。

山に入って採る自然薯は地下に根を伸ばしてゆき、それを掘り出すには一メートルも、二メートルも掘らねばならず、大変な労苦です。私の知人はそれを横に地下茎が伸びるように独自の方法で工夫して、地面を掘り下げて採る自然薯の苦労を省こうと研究して、ようやく昨年その成果が出て、私もそれを頂いたのでした。

彼は定年前までは役所に勤めていましたが、今は「農業の仕事が楽しくて、楽しくてたまらないんだよ。」と、採れた自然薯をツマミに焼酎を飲みながら、目を細めながら話してくれました。田舎で農作業をしながら、今それを生き甲斐にしている彼の姿には畏敬の念すら覚えています。

また今年はさらに嬉しいことに、二年前にサイゴンで『満月の夜の出会い』をしたあのSくんにも、熊本の我が家の隣にある彼の父の実家で、彼のご家族全員と会うことが出来ました。この時は、お祖父さんとお祖母さんの法要のために、熊本の実家まで来ていたのでした。もちろんそこには、彼の父も同席していました。

私が高校を卒業して以来会うことがなかった彼の父との再会は、実に懐かしく、こころ弾むものがありました。彼は私より歳は二つほど若いのですが、髪は白くなっていました。しかし、幼い時の面影がまだ残っていました。私たちは子ども時代のことなどをいろいろと話しました。

さらにまたこの時には、Sくんからおめでたい知らせも聞きました。私がSくんにサイゴンで出会った時には、彼は大学の卒業旅行でベトナムに来ていました。東京での就職先もすでに決まっていました。そしてしばらく経った頃、Sくんが結婚したということも聞きましたが、あと一週間ほどで奥さんに赤ちゃんが産まれるということをSくんが話してくれたのでした。

この日奥さんは来られていませんでしたが、これからその奥さんの家に向かうということなので、次回の再会を約束した後、Sくんの家族は雨の中を車で帰って行きました。私の友人・知人や同僚とは毎年再会しているのですが、Sくんとは二年ぶりの再会でした。

そして実は今年の再会で記念すべきは、43年ぶりの中学生時代の恩師・N先生との再会でした。今まで「会いたい、会いたい。」と思っていた中学時代の恩師との再会が、この春にようやく実現しました。

N先生は男性の先生で、私が中学三年生の時の担任でした。小学校から大学を卒業するまで、私も多くの先生たちに習って来ましたが、その中でも最も厳しく、怖かった先生がN先生なのでした。しかし昔の先生達に共通しているのは、その指導がいかに厳しくてもこころの奥底には絶えずあたたかい眼差しが注がれていたという点でしょうか。だからこそこれだけ長い歳月を経ても、「またあの先生にお会いしたいものだ。」という気持ちが生まれてくるのだと思います。

ある日私も含めた数人の行いが原因で、そのN先生の怒りを爆発させた出来事がありました。この時には全員が校長室に呼ばれて、厳しい指導を受けました。しかし当事は、N先生だけではなく、厳しい先生の方が多かったですね。また親たちも、先生の厳しい指導を期待していたような時代の雰囲気がありました。

今でも覚えているのですが、家庭訪問で先生が家に来て両親たちと話している時に、父親が「悪かこつばした時には、どうぞ遠慮なくビシバシと叩いて下さい!」と先生に頭を下げますと、お茶を持って来た母親もその横に座って頷いていました。当時は、自分の子どもが悪いことをした時には、担任の先生から「ビシバシ叩かれても当然」という感じでした。また例え生徒自身が叩かれても親に言うことはあまりないし、もし言っても「叩かれたお前が悪い!」と言われるのが常なのでした。今や時代も変化して、現在の先生方にはそういう指導は難しいでしょう。

親も子もそれを当たり前のように許していた当時の雰囲気の背景には、『厳しい指導の後ろにある先生の愛情と優しさ』を、親や生徒たち自身が信じていたからだろうと思います。そして実は、『厳しい指導と優しさ』は生徒たちに対する愛情表現の裏表に過ぎないのではと、今にして思います。

私たちはN先生に「社会科」を教えて頂きましたが、中三の時の担任として的確な進路指導もして頂きました。生徒たち一人一人の学力・性格を見抜いて、「君はここを受けろ!あっちも受けろ。」と、三者面談でも親身になって指導して頂いたのを今でも覚えています。

その恩師・N先生との再会を、実は一年前から私は切望していました。私の中学時代の友人がプールによく行く時に、時々N先生に会うことがあり、先生がその友人に「昔の三年○組のあの生徒たちに会いたいなあ〜。」と話されていたというのを聞いたからでした。そして、私もその三年○組の生徒の一人でした。「同窓会という大げさな形ではなく、少人数でもいいからN先生に是非会いたいですね〜。」と、私の友人に提案していました。

そしてようやくその友人の努力のおかげで、この春にN先生と本当にひさしぶりに会うことが出来たのでした。会った場所は、2007年2月にサイゴンで私が出会った、あの『熊本弁を話すオーストラリア人』マイケル・ラッタさんの友人・Hさんがシェフをしている「欧風レストラン」でした。

マイケル・ラッタさんとの縁で、私はHさんと二年前に知り合うことが出来ましたが、それ以来日本に帰国するたびに、必ずここを訪れるようにしています。ここは今大変有名なレストランのようで、県外からも高速道路を利用して来るお客さんも多いと聞きました。それで事前に予約しておかないと、席が取れないということでした。

実は私の甥っ子が昨年末に、私の妹と一緒に東京から熊本に帰りました。この時はクリスマス・イブで、たまたまその日が甥の誕生日なのでした。それで空港から高速道路に入り、私の母と妹と甥が実家に向かう時、「誕生日の祝いをどこでしようか?」と相談しました。

熊本に到着後は、いつもは必ず“豚骨ラーメン”で有名な「玉名ラーメン」の店に直行するのですが、せっかくの誕生日の祝いをするのに、ラーメン屋さんではラーメンを食べ終えたらそれでお仕舞いですから、(どこがいいかな・・・?)と考えていた時に、母が思い出したのが、以前から私がよく話していたHさんのレストランでした。

ここは高速道路のインター・チェンジを出てすぐの場所でもあり、家に帰る途中でもあるので便利なのですが、この時には当然まだ予約はしていません。というか、このレストランは予約しておかないと座れないというのを知らなかったのでした。そこに着くと、やはりこの日も満席でした。そしてクリスマス・イブでもあり、生バンドの演奏もあるということでした。

「実は今日が甥の誕生日なので、このレストランでお祝いしたいと思いここに来ましたが、今から座れますか?」と私の妹がスタッフの人に尋ねますと、その人はHさんの奥さんらしき人に相談に行かれたようで、すぐ戻って来て「今から席を作りますので、少し窮屈になりますが宜しいですか。」と言われたのでした。突然の思いつきで予約していなかったにもかかわらず、三人は何とか座れました。そのことを後で妹から、ベトナムにいる私宛てに届いたメールで知りました。

そのメールには幾葉かの写真も添付してあり、その中にはシェフのHさんと甥っ子が肩を組んでいる写真や、白い皿に赤い字で「おたんじょうび おめでとう!」と書いてある写真がありました。この日はHさんも生バンドの演奏に加わり、自ら歌われたということでした。Hさんのその厚情に、ベトナムにいる私はただ感謝するだけでした。

そして三人で料理を食べてしばらくして、奥さんに(実は私たちは・・・)と、Hさんを知る私の家族であるということを話しました。すると、それを聞いたHさんが厚意から甥のためにこの日出演していた歌手の人にお願いして、誕生日の歌をプレゼントしてくれたということでした。

さていよいよN先生と四十数年ぶりに再会出来たこの日、全員で四人の友人たちが参加しました。そのうちの一人は、北九州から来てくれました。そして12時半過ぎにそこに到着しましたが、やはりこの日も「ただいま満席です。」の札が門の入り口に下がっていました。

着いてすぐに、Hさんの奥さんに昨年のクリスマス・イブのお礼を言いました。そして私たちが通された部屋は、事前に(実は恩師との久しぶりの再会をしますので・・・)と、Hさんに伝えていたこともあり、さぞにぎやかに話が盛り上がるだろうと思われたからなのか、私たちだけが独立した個室でした。Hさんの細やかなこころ遣いを感じました。

そしてN先生を囲んで、一人・一人の近況などを最初に話しました。振り返れば、中学卒業以来あっという間に四十数年が過ぎ、私たち教え子たちがその当事の恩師・N先生の年齢をはるかに超え、もうすぐ定年を迎える年齢に達しようとしています。私たちの同級生たちの中には、すでにもう亡くなった者も数名はいます。

この日にひさしぶりに会うN先生でしたが、N先生は今年で77歳になられていました。それだけに、中三の時の意気軒昂としたN先生を知る私は会う前に、(今でもお元気なのだろうか・・・?)と心配でしたが、どうしてどうして談論風発として元気そのものでした。あの当事の精神の若々しさは、80歳近いお歳になっても健在でした。

私たちが忘れていたような、昔の中三のクラスの生徒たちの名前も、姓と名まで実に良く覚えておられるのには驚きました。私たちはいろいろなことを話しました。中三時代のクラスの思い出。その当事の他の先生方の消息。生徒たちのその後の進路。当事と今の生徒数との比較(私たちの中三の時には一クラス45名。しかし今は十人に満たない学年もあること)。そしてN先生の現在の日々の過ごし方など。

当事社会科を担当しておられたN先生は今、古文書の読解を趣味にしておられるということで、かつてベトナム中部に住み着いて、そこで果てた日本人の墓にも興味を示されて、私にもいろいろと質問されてきました。その古文書研究の成果を学会などでも発表されているということを聞き、お歳を召されても衰えないその向学心には驚きました。

N先生と昔のことを話していた中で、N先生は印象的な言葉を述べられました。「自分が先生になった時に、最初に受け持ったクラスがやはり一番思い出が深い。」「自分が先生という職業を通して人間的に成長し得たのは、親や子どもたちのおかげ。」

はるか昔に定年退職をされ、『先生』という職業を終えられた後でも、今もその血潮の中に脈々と流れている『先生』という仕事に対しての謙虚さと誇り、そして生き甲斐を感じておられるN先生の気持ちが良く伝わって来ました。また、昔と全然変わらないN先生の情熱的な姿を見て、私は本当に嬉しく思いました。

そして私たちは二時間近くも話していたでしょうか。ひさしぶりに再会したN先生との語らいの楽しさもあり、気が付くと我々以外のお客さんたちはみんな帰った後でした。Hさんも厨房の忙しい仕事を一段落された後、わざわざ私たちに挨拶をしに来られました。

私たちはN先生に、「来年もまた是非お会い致しましょう。お元気でお過ごし下さい。」と言って別れを告げさせて頂きました。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 今月は春さんが日本に一時帰国中のためお休みです ■



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