アオザイ通信
【2008年1月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<サライ〜故郷を偲ぶ〜>
新年明けましておめでとうございます。この異国の地・ベトナムで、私も11回目の暑い正月を迎えることになりました。40年以上も、「正月は寒いもの」が当たり前だった日本からこのベトナムに来ますと、さすがに正月の時期は朝・夕は涼しくなりますが、それでも日中は汗が出るほど暑い日が毎日続いていますので、最初は奇妙な感じでしたが、最近は慣れてしまいました。

寒い冬のない常夏のサイゴンは、気候的な過ごしやすさという点では日本とは比較になりません。服装にしても、日本のように春夏秋冬それぞれに目まぐるしく衣替えをする必要もなく、一年を通して同じスタイルでいいですから気も楽ですし、服代も大して掛かりません。

しかし反対に、この一年中暑いサイゴンから寒い国・日本に働きに行っている研修生たちは、(今どんな気持ちで日本の正月を過ごしているのだろうか・・・)と思うことがあります。そして実は、そういう研修生の日本での様子や境遇を、最近日本からベトナムにやって来られたM先生から直接に聞くことが出来ました。

M先生は日本で、ベトナムから日本にやって来た研修生たちに、ビジネス日本語や日本国内での過ごし方の注意点を指導して来ました。そして、彼等が派遣される先の会社の労働環境や生活環境の実態などについても、直接その会社に足を運んで現場を見てきました。

その労働環境や生活環境の実態の中には、「憧れの国・日本」に夢と希望を抱いてやって来た研修生たちが、ベトナムにいる時に説明を受けて想像していたものとは、ずいぶんかけ離れていた会社もあったそうです。

実際彼等が派遣されるのは、日本の大企業ではなく、その下請けのまた下請けのような小さい会社が多く、中には今の日本の若い人たちが敬遠するような、いわゆる「3K」の仕事に安い賃金で就かせる目的で彼等を採用する会社などがなきにしもあらずのようです。

しかしベトナムではそういう会社の詳しい様子など知るはずもなく、日本に着いて初めてその実態を研修生たちが知った時には、彼等は(想像していたのとずいぶん違うなー)という気持ちを抱いたに違い有りません。ベトナムにいる時にも、彼等に「先生、この会社は大きくて、有名な会社なんですか?」と聞かれましたが、私が知らないような名前がほとんどでした。もっとも私が知らないだけで、中には地元では有名で大きい会社もあることでしょう。

しかも問題なのは、日本の会社は彼等研修生たちに“研修手当て”という名目で給料を払いますが、そのまま全ての金額が研修生たちの手元に渡されない事実もあるということです。会社がその給料の管理に全面的に関わっているケースもあります。

何故そういうやり方を研修生に対してするのか、その理由なのですが、日本に行った研修生の中には、残念ながら少数ではありますがその会社から逃亡してしまい、その後万引や窃盗などの犯罪に手を染めたあげく、結局最後はベトナムに強制送還されるような者も出て来ます。

もし受け入れた先の会社から逃亡者や犯罪者が出ると、送り出した会社側はもちろんのこと、次年度にまたベトナムの研修生たちを受け入れようとしている日本の会社にとっても、日本での研修を予定している生徒たちにとっても、大きな影響が出てきます。

ですから逃亡を防ぐための対策は、その会社によってやりかたはいろいろあるようですが、例えばある会社などは研修生たちに強制的に銀行口座を作らせて、そこに彼等の給料の大半を貯金させているといいます。

さらには、その通帳は本人が保管するのではありません。会社側が通帳を預かり、本人たちには帰国する3年後に返すことになっています。しかし同じ研修生でも、その手当てをそのまま自分で管理している者もいます。要は、その対応はそれぞれの会社によってやりかたは違うようです。

M先生が訪問した先のある会社でも、「研修生たちの逃亡を防ぐため」という名目で彼等に強制的に銀行に預金させ、研修生たちは貯金したその残りのお金の中から、毎日の衣食代を工面しているので、「寮に帰っても、ごはんとインスタント・ラーメンしか食べれないんです。」と訴えて来た研修生がいたといいます。それを聞いた時、私も大変こころが痛みました。

M先生は日本に来たそれぞれの研修生達に、一週間ほどの期間の中で、日本での生活上の注意点や、仕事をする上でのビジネス・マナーなどを指導してきました。

そしていよいよ彼等のその研修が終わりに近づいた頃に、次の歌をテープで流して研修生たちに聞かせました。その時には、日本語の歌詞にベトナム語の訳を付けた紙を全員に配り、その長い歌を紹介しました。

遠い夢  すてきれずに  故郷をすてた
穏やかな  春の陽射しがゆれる  小さな駅舎(えき)
別離(わかれ)より  悲しみより  憧憬(あこがれ)はつよく
淋しさと  背中あわせの  ひとりきりの  旅立ち
 


 
 
まぶたとじれば  浮かぶ景色が
迷いながら  いつか帰る  愛の故郷(ふるさと)
サクラ吹雪の  サライの空へ
いつか帰る  その時まで  夢はすてない
 
     
 
サクラ吹雪の  サライの空へ
いつか帰る  いつか帰る  きっと帰るから
いつか帰る  いつか帰る  きっと帰るから
 


その時研修生たちに紹介したこの歌を、私はベトナムで初めて聞きました。実はこの歌は日本では、「24時間テレビ」で10年前くらいから、作詞が谷村新司さん、歌が加山雄三さんによって歌われているそうですが、私は今まで知りませんでした。ちょうど私がベトナムに来た後くらいに現れて来た歌なのでしょうか。

その歌詞を私はしばらくの間繰り返し何度も読みましたが、その歌詞の素晴らしさは、まるで吟醸酒を造る時に、杜氏が米を何度も何度もといできらきら光り輝くまでのレベルに高めるのと同じように、この歌詞の言葉はすごいレベルまで高められてられているなーと感じました。

谷村さんによって書かれた輝くような珠玉の言葉が、さらにまた平易な言葉に磨き上げられて、それらひとつひとつの言葉の珠が、「郷愁」という一本の糸で綴られているような印象を受けました。この歌詞は故郷を遠く離れた人にとっては、まことに感動的な詩というべきでしょう。

さらにまたこの歌詞を歌っている、哀愁を帯びた加山さんの素晴らしい歌唱力によって、後ろ髪を引かれる思いで別れを告げてきた自分の故郷や家族を、彼等は思い起こしていることでしょう。

この歌は全部を歌うと大変長い曲なのですが、歌い始めてからしばらくして、歌の途中くらいから全員の研修生たちが、男も女もすべて頭を伏せて、肩を震わせて泣き出してしまったそうです。

その大部分が20歳を超えている青年たちが、教室の中で子供のように涙を流しているその姿を見て、今度はM先生のほうが驚いてしまいました。なぜなら彼らは日本に着いて、まだ一週間くらいしか経っていなかったのですから。

しかし良く考えると、それも無理からぬ面があります。今の時代、日本人は子供の頃から両親に連れられて、ハワイに行ったり、アメリカに行ったりすることなど決して珍しいことではありません。

日本では、夏休みを終えて新学期が始まると、「今年は私はハワイに行って来たわ。」「僕は中国へ行って来たよ。」「私はタイに行って来たわよ。」などの会話がクラス中に響いている光景が出てきます。
日本人は小さい頃から外国に行くことには慣れていて、いわんや外国に着いてすぐ泣き出すような日本人はまれでしょう。

今の日本では、社会人ではない大学生でもアルバイトをして貯めたお金で、アジアの国々を旅している若者がたくさんいます。お金さえあれば、自分の好きな異国を旅する自由が誰にでも保証されている国が日本なのです。そういう点では、今の日本はまぎれもなく豊かな国なのでしょう(もっとも、今後どうなるかは分かりませんが・・・)。

しかしベトナムの若者は違います。一年間アルバイトをしたところで、遠い海外に行けるほどの貯金も出来ないし、好きな外国に行ける自由もありません。それでよく20代初期の日本の若者が自由にベトナムに旅行に来ているのを見ますと、ベトナムの同世代の彼等は羨ましがります。

さらには、彼等研修生として海外に行くようなベトナムの若者たちは、それこそ外国へ行くこと自体がまず初めての体験であり、家族も知人もいない異国の地に降り立った時、それぞれのこころに自分の故郷への強烈な郷愁が募って来ているに違いありません。

私のベトナム人の友人などは、今現在はこのサイゴンに住んでいて、彼の田舎は郊外にあるんですが、月のうちに平均すると隔週おきに、多い時には毎週のように、日曜日になると必ずといっていいほど「家族に会いに家に帰ります」と言って、片道2〜3時間くらい掛かる道のりをものともせずに、バイクにまたがって帰って行きます。

まあ大学生などであれば、お小遣いを貰いに帰るという名分はありますが、彼はれっきとした社会人なのです。日本人からみると、いい年をした大人が、頻繁に田舎に帰るのをみて私が質問したことがあります。「そんなに毎週のように、一体何をしに帰るんですか?」と聞きますと、彼は(なにをバカな質問をするの?)という顔付きをしました。

いろいろ聞きますと、毎週日曜日には彼の家では子供の頃から家族全員が出来るだけ集まって食事会をするのが慣わしだそうで、それで時には夜の授業が終わっても、そのまますぐに家へ帰ることもあるようです。彼は現在まだ独身ということもあるんでしょうが、彼の家のような風習は、特にベトナムでは珍しいほうではないようです。しかし結婚した後には、さすがにそう何回も頻繁には帰らないそうですが。

しかし私だったら日本にいる時でも、電話一本で「母ちゃん、元気な?変わったこっぁ無かな?ほんなら元気でな。」と熊本弁で(私は親とは熊本弁でしか会話が出来ませんので)軽く済ませるところなんでしょうが、彼はそんなレベルでは気が済まないのでしょう。両親や家族の顔を見たいという強い気持ちが、遠い距離など簡単に乗り越えていくのでしょう。こういう点は、ベトナムの美風と言えるのではないでしょうか。

ベトナム語には、「nho nha(ニョー ニャー)」という言葉があります。発音する時には、nhoは強く上げ、 nhaは下げる声調になります。そして、nhoは「懐かしむ。思い出す。」、 nhaは「家」という意味になります。昔ベトナム語のクラスで最初にこの単語を聞いた時に、(なんと独特な、印象的な響きを持った表現だろうか)と感じた思い出があります。

例えば日本人の日常会話の中には、日本語の「もったいない」という言葉が普通の言い方として定着していますが、これを外国語(ベトナム語にも)に訳すのは難しく、ある外国の方はそのまま「モッタイナイ」という日本語のまま使用していましたが、ベトナムの人たちが日常会話の中で良く使うこの「nho nha」にも、日本語には直訳出来にくいそういう語感があります。

そしてこの「nho」の後には、状況に応じて「両親」や「兄弟」や「友人」や「恋人」や、時には「先生」などの単語が続きます。実際の会話で彼らが使う場の雰囲気を見ていますと、この「nho」という言葉は日本語の「懐かしい」や「思い出す」よりも、少し意味合いが強い感じがします。

ベトナムにいる時には、「nho nha」という言葉がベトナムの人たちの潜在意識の中に染み込んでいて、人によっては彼のように毎週のように両親に会いに、家族の顔を見るために、遠い道のりを田舎に帰って行く人もいます。

しかし初めて異国の地・日本に着き、自分の田舎よりはるかに遠い日本で働き、日本で生活し、田舎に帰りたくても帰れない自分の境遇に思い至った時、“サライ”の歌がその時にはまだ十分に深くは理解出来ない日本語で歌われていたとはいえ、彼等のこころの琴線に強く響くものがあったのでしょう。

そしてそれはまた日本の故郷に年老いた母を残して、今このベトナムいる私の気持ちとも同じように重なり合うのです。(いま母はどうしていることだろうか。風邪でも引いていないだろうか・・・)と、私がベトナムから遠くにいる母を偲ぶのと同じように、彼等も日本から(ベトナムにいる父や、母や、兄弟姉妹たちは元気でいるだろうか)という思いが絶えずよぎっていることでしょう。時には、一人深夜にひっそりと枕を濡らしている者もいるかもしれません。

それでM先生からそのことを聞いた時、私もまた今の彼等の心境に思いを巡らせました。そして、出来得れば(日本に帰った時に、彼等を励ますことが出来ればいいなー)と考えています。ベトナムから来た知人の励ましが、彼等のこころに(あと少しの辛抱だ。帰国まではしっかり頑張ろう)という支えになってくれればと願うからです。

そしてさらに願わくば日本の方々も、異国の地・日本で日本のために働いて、頑張っている外国から来た研修生・実習生たちと身近に出会うことがありましたら、彼等への優しい声掛けや、温かい励ましをして頂ければと思います。

彼等の中にはこの正月もどこへも行かず、寮で寂しく正月を迎えた者も数多くいたことでしょう。親しい日本人がいれば、家庭に招いてくれたり、一緒に食事にでも誘うのでしょうが、毎日工場で働いた後に寮に帰って寝るだけの生活パターンでは、日本人と知り合う機会も少ないでしょう。

一年目の寒い正月を日本で初めて迎え、二年目の正月も日本で過ごし、そして最後の三回目の正月を迎えた後に、彼等は暑い国ベトナムのサイゴンに帰って行きます。そして両親や家族の人たちは、彼等の帰国を今か今かと指折り数えて待ち続けて来て、ひさしぶりの再会を果たすわけです。

その時に、日本からはるか遠いベトナムの故郷にいつも思いを馳せ続けた「nho nha」が、もはや過去のこととしてようやく終わることでしょう。


※春さんは1997年春よりホーチミンに駐在しています。今ではすっかり現地の人となって、見分けもつかなくなっています。春さんに質問や相談があればメールをお送りください。
info@te-campus.com ※件名を「春さんに質問!」にしてくださいね。


 

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 今月のニュース <沸騰しているカンザーの土地の価格> ■
今ホーチミン市内からカンザー郡にあるビン カーン村に、不動産会社の紹介によって多くの人たちが土地を買うためにやって来ている。

このビン カーン村には、この一ヶ月ほど前から多くの人たちがどっと押しかけるような状況が続いている。そしてあっという間もなく、この辺りの土地は不動産業者や個人の投資家たちによって買い占められてしまったのである。

ここには将来大きな橋が二つ架かる予定があり、将来この地区が便利になり、区画整理されて綺麗な街に生まれ変わることを見越して、今のうちから土地を買い占めようという思惑の人たちが適当な場所を物色しているのである。

◎前金は土地の価格の90%!◎
今から約二年前に、ホーチミン市内に住むMさんは、カンザー郡のビン カーン村の中にある3千平方メートルの土地を、2億9千万ドン(約210万円)ほどで買った。

そして2007年の初めに、不動産業者を通して売りたかったが、その後しばらくの間はすぐに買いたいという人は現れなかった。でも2007年の10月の中旬にお金に困ったので、もう一度あの土地を売りたいと不動産業者に言うと、その後数十人くらいのお客が次々に電話を掛けて来て、その値段も買った時の約2倍の5億4千万ドン(約390万円)に跳ね上がっていったのである。

それでMさんは一旦は売る方向に考えが傾いた。しかしこの時のお客の中には、90%もの手付金を支払ってでも「買いたい!」という人が現れたので、(この調子だともっともっと値上がりしそうだな)と考え直して売るのを止めた。

◎土地を買いあさる業者◎
このカンザー郡における土地の値上がり現象はビン カーン村だけではなくて、同じカンザー郡にあるルン サック村でも2年前には普通の耕地が1平方メートルで5万5千ドン〜6万(約400円〜430円)だったのが、今や10万ドン〜15万ドン(約720円〜1,070円)と約2倍に値上がりしてしまったのである。さらにブルドーザーで地ならしし土地に至っては、一平方メートルが100万ドン(約7,100円)になっている。

結果として、不動産業者によって安く買われた土地は今値上がりを続けているので、そういう状況を見て今度は個人の投資家たちがまた土地の売買に参入して来始めたので、土地の値段はどんどん上がっているのが今の実情である。


(解説)
もともとカンザーという地区自体はサイゴン川から流れ出た土砂によって、数十万年かけて出来た泥湿地のデルタ地帯なのでしょう。そしてカンザーの村の至るところにはクリークが走り、以前は漁業で生計を立ている家が多く、最近はエビの養殖業が盛んです。

10年ほどくらい前から日本の人たちがカンザーを訪れるたびに、「ここはホーチミン市の中で最も貧しい地区なんですよ。」と、私は説明していました。事実この地区の道路沿いには、今のホーチミン市内には数が少なくなった、ニッパ椰子の葉で屋根を葺いている家が今でも数多く建っています。

ベトナムの人たちを案内した時には、「みなさんはホーチミン市のようなうるさい、狭い所に住むよりも、こんなのんびりした、広々とした田舎に住んだがいいでしょう。ここらへんは一平方メートルで3万ドン(約220円)くらいですよ。」と冗談を言いますと、彼らは(こんな辺鄙な田舎に誰が住めるか!)という顔をして笑っていました。

ホーチミンの喧騒から離れた距離にある、そういうカンザーの田舎の実にのんびりした光景が私の脳裏には焼き付いていますので、この記事を読んだ時には(あのカンザーにも、土地の投機であわよくば一儲けしようという波がいよいよ押し寄せて来たのか・・・)と、溜め息が出て来ました。10年前のあの時の冗談が、冗談ではなくなりましたね。

ニッパ椰子の生えた泥湿地の土地カンザー地区も今や、ホーチミン市内で沸騰している不動産投機の熱の余波を受けて、不動産業者による土地の買占めと、その結果としての値上がり現象が起きているという事実があるというのは、10年前には大したホテルもレストランも綺麗な家も、本当に何もなかったに等しい状態を知っている私にはすぐには信じられないことです。

ホーチミン市の地価は今バブルの様相を示しています。新しく売りに出されるマンションの情報が流れると、その前日から徹夜で並び、受け付けの当日には道路にはみ出るような大勢の人たちが押し寄せて、押し合い・圧し合いで申し込みに殺到する光景が新聞にも最近良く掲載されています。

マンションの申し込みをするといっても、そこに自分が住むのが目的なのではなく、その動機のほとんどが買った後に他人に高く売るための転売目的なのです(と新聞には書いてありました)。

そしてカンザーにも今そのバブルの波が押し寄せていますが、結局いつかはそれが弾けることでしょう。それはバブルを経験した日本人には当然の知識なのですが、まだそれを実体験していないこのベトナムの人たちは、それが弾けて資産を失うまではここしばらくは投機の熱が冷めることはないでしょう。

そしてそのバブルが弾けたその時に、熱に浮かれた人たちは初めて夢から醒めるのかもしれません。



ベトナム写真館 バックナンバーINDEX