春さんのひとりごと

<静岡県袋井市の【浅羽ベトナム会】のこと>

昨年の2017年12月17日(日)に、サイゴン市内で静岡県袋井市にある【浅羽ベトナム会】代表の安間さんに会いました。この時、安間さんはベトナムのNghe An(ゲー アン)省で開かれた「Phan Boi Chau(ファン ボイ チャウ)生誕150周年」を記念するシンポジュームに参加されるために来越されていました。Nghe An省がPhan Boi Chau(1867~1940)の故郷なのです。

今回のシンポジュームは「Phan Boi Chau生誕150周年」と題されていましたが、実はPhan Boi Chauが日本滞在中に支援して頂いた「浅羽佐喜太郎」も、同じく産まれた年が1867年なのでした。1867年と言えば、日本の歴史では「大政奉還」がなされた年です。しかし、偶然とは言え、産まれた生年が同じだというのは、不思議な繋がりがあったというべきでしょうか。

そのシンポジュームが終わり、安間さんがサイゴンに戻られて、この日帰国される忙しい時間を割いて頂いてお会いすることが出来ました。二ヶ月ほど前から安間さんとは会う約束を取り付けていましたが、シンポジュームには一人で来られたわけでもないし、いろんな行事や予定が入り、ギリギリまでどこで会えるかが未定でしたが、ようやくサイゴン市内の喫茶店でお会いすることが出来たのでした。

実は、安間さんにお会いしたのはこの日が初めてでしたが、初対面のような気がしませんでした。安間さんを紹介して頂いたのは、三重県で私の教え子たちが実習生として働いている会社で、彼らの面倒を親身になって見ていただいているITさんからです。

昨年私が日本に帰国した時に大阪で会った教え子であるGai(ガーイ)さんも、そのITさんと一緒に、静岡県袋井市にあるPhan Boi Chauが「浅羽佐喜太郎公」のために建てた記念碑「報恩の碑」を見に行きました。その時の感激は直接Gaiさんからも聞きました。

その時に、安間さんが彼らのために案内と解説をして頂いたことを知りました。その後、ITさんから「静岡県袋井市に【浅羽ベトナム会代表】の安間さんと言うスゴイ方がおられますよ!」と紹介して頂いた次第です。

それで、サイゴン市内にある、分かりやすいホテルの前で会う予定にしていました。そのホテルの前で私が待っていますと、多くの人たちが歩いている中で、安間さんらしき人が近づいて来られました。私は(あ、あの方が安間さんに違いない!)と、すぐに思いました。それで、声を掛けましたらやはりそうでした。

安間さんはこの時、大きな袋に入れた荷物を持参されていました。ホテルの前にある喫茶店に入り、二人でコーヒーを飲みながら、いろいろ話しました。安間さんは爽やかな笑顔を湛えておられる方で、私よりちょうど十歳年上の74歳でした。

今回のベトナム訪問の目的と、安間さんが参加されたシンポジュームで決まったことについて、次のような話をされました。

「実は、ファン ボイ チャウは故ホーチミン主席と同じNghe An省出身なのですが、今までNghe An省の英雄と言えば、故ホーチミン主席一人だけでした。しかし、今回ファン ボイ チャウもNghe An省の第二の英雄に選ばれることになりました」

その後、やおら椅子の横に置いていた袋をテーブル上に置いて、中身を広げられました。その中には、「浅羽佐喜太郎公記念碑の歴史」と題した冊子といろんな資料がありました。さらに、20枚ほどの<紙芝居>もありました。その<紙芝居>には一枚・一枚に番号が振ってありました。

最初の表紙には「報恩の碑 浅羽佐喜太郎とファン ボイ チャウ」というタイトルが付けられ、「制作 浅羽ベトナム会」と書いてあります。全ての絵に色が付けられています。その絵が実に味わい深い感じがします。裏面には、その絵の説明が日本語とベトナム語の二つで書かれています。

安間さんに「ベトナム語への翻訳は誰がされたのですか」と後で聞きましたら、日本で勉強していたベトナム人の留学生が翻訳作業を手伝ってくれたそうです。この<紙芝居>が完成するまでには、多くの日本人とベトナムの人たちの協力があったのだろうな・・・と想像しました。

面白かったのは、安間さんが持参された資料や<紙芝居>を広げて見ていた時に、たまたま私たちが座っていたテーブルの横を通り過ぎたベトナム人の婦人が、「あ、それはPhan Boi  Chauのことが書いてあるのでしょう。有名な人ですから、私も良く知っていますよ」と話かけて来られたのです。

私たちが広げていた資料や<紙芝居>のどれを見てそう言われたのかは分かりませんが、活字になっている資料は字が小さいので、おそらく<紙芝居>の絵のほうを見られたのかな・・・と思います。しかし、我々にとっては、そういうことをベトナム人の方から聞いて嬉しかったです。安間さんも喜んでおられました。

そして、安間さんは「この<紙芝居>を授業の中で生徒さんたちに是非紹介して頂きたいと思います。今から百年前に日本とベトナムとを繋ぐ、このような感動的な交流があったことを、ベトナムの若い人たちにも知って欲しいと思います」と話されました。「分かりました!」と私も喜んで引き受けました。

実は、私自身が百年前のファン ボイ チャウと浅羽佐喜太郎の感動的な交流について、詳しいことを知ったのは2012年の10月頃です。それまでは、ファン ボイ チャウのこと、浅羽佐喜太郎のことについては全然知りませんでした。

2012年の9月末に、友人から「白石昌也」先生の著書「日本を目指したベトナムの英雄と皇太子 ファン・ボイ・チャウとクオン・デ」を頂きました。それを読んで二人の交友の繋がりと、ファン ボイ チャウが果たしたベトナムの独立の歴史について良く理解出来ました。

白石先生とは今まで二回ほどお会いしたことがあります。東南アジア史やベトナムについての深い知識と愛情を持たれている先生です。白石先生はその「あとがき」でその本を執筆された時の経緯について触れられています。

「出版社の編集部の方から“高校に入りたての読者を想定して、ともかく分かりやすく書いてください”と依頼されて、この本の中で私は、高校世界史や日本史の教科書に記述されていることを、踏まえるように努めました」

その通り、白石先生の著書は大変読みやすい記述と内容が書かれている本でした。そして、その本を読んでちょうど一年が経った頃、「日越国交樹立40周年」を記念したテレビ番組「The Partner(パートナー)~愛しき百年の友へ~」が、日本とベトナムで同時に放映されました。その時のことは、2013年10月号<「日越国交樹立 40 周年」記念番組~愛しき百年の友へ~>で触れています。

それ以来、ファン ボイ チャウと浅羽佐喜太郎の交友の物語と「報恩の碑」について、最初に入るクラスの授業で折に触れて紹介していました。但し、それはベトナム語で書かれた活字だけのものでした。しかし、それでも生徒たちは十分に感動していました。さらにこのように、「絵と解説」が付いた<紙芝居>で生徒たちに紹介すれば、さぞ生徒たちの理解も深まるだろうなと思いました。

この日私がお会いした安間さんは団体のツアーで来られていましたので、自由時間が一時間ほどしかなく、私と出会ってから40分ぐらい経ってから次のような話をされました。それを聞いた私は大いに感激し、(これは是非私の生徒たちにも紹介しないと!)と思いました。安間さんは次のように話されました。

「来年2018年はファン ボイ チャウが静岡県袋井市に建てた【報恩の碑】の100周年記念になります。あなたの教え子さんたちにも声を掛けてくだされば嬉しいです。その100周年を記念して、2018年9月22日(土)に袋井市で記念式典を行う予定です」

私は安間さんが話された、その【2018年9月22日】という日付をしっかりと胸に刻みました。(静岡県はもちろん、関東や近畿圏に住んでいる生徒、これから行く生徒たちにも声を掛けてみよう)と思いました。【2018年9月22日】は土曜日になっているので、日本で働いている実習生たちや留学生たちも参加しやすいだろうと思いました。それを考えて、記念式典を土曜日に設定されているのだろうなとも考えました。

私は安間さんと別れた後、バイクで帰りながら「報恩の碑」に対する安間さんの情熱をひしひしと感じました。私に向かって話されていた時の安間さんの表情、話し方からは、並々ならぬ「ファン ボイ チャウと浅羽佐喜太郎への愛情」が伝わってきたのです。

その後、頂いた資料を全部出して広げてみました。「紙芝居一式」。紙芝居を披露する時の舞台としての「箱作成の仕様書」。ゲアン省のシンポジュームで安間さんが発表された挨拶文「ファン ボイ チャウ生誕150周年ゲアン省シンポジューム挨拶」「浅羽佐喜太郎公碑建立100年=記念事業趣意書」「浅羽佐喜太郎記念碑関係の保存現況」「浅羽佐喜太郎公記念碑の歴史(日本語版とベトナム語版の二種類)」。そして、「浅羽ベトナム会の沿革」などです。

これだけの種類と多量の資料一式をわざわざ日本から持参されていたのでした。この中にある「浅羽ベトナム会の沿革」は、私が知りたかった「浅羽ベトナム会」についての資料です。「浅羽ベトナム会」の成立から今に至るまでが年代順に詳しく述べられていますので、その中から一部を抜粋させて頂いてご紹介します。

≪浅羽ベトナム会の沿革≫

●発足の主旨と目的●
当地袋井市には、20世紀初のベトナム植民地解放闘争「東遊運動」の歴史ともいうべき記念碑があります。ベトナム国家の歴史として位置付けされるこの歴史の舞台が日本であり、指導者ファン ボイ チャウが建てた「浅羽佐喜太郎記念碑」の存在は日越友好のシンボルになるもので、この歴史を広く知って貰う為の活動を行う。

●活動の経緯●

2003.4:
浅羽町文化財研究会の発起で、浅羽佐喜太郎公記念碑記念事業実行委員会を地域4団体で立ち上げ。
2005.4:
記念事業実行委員会有志で「浅羽ベトナム会」を結成。
東遊100周年記念シンポジューム」開催。
10~11:
「東遊100周年」のベトナム記念行事出席。
(1)フエ賞主催・記念コンファレンスで発表。
(2)ゲアン省ファン ボイ チャウ生地記念館を訪問。
(3)ハノイ国家大学主催記念コンファレンスに参加・「記念碑の歴史」を発表。
2006.10:
地域のベトナム留学生を秋祭り(10人)に招待。
2010.9:
袋井ベトナム交流会議を袋井市で開催。ベトナム大使が列席。
2013.4:
日越国交樹立40周年友好テーマに「浅羽佐喜太郎記念碑の歴史」が選ばれ、テレビ番組制作に協力。
9/29:
ドラマ「パートナー」TBS系列より2H放送(ベトナム国営テレビVTVも)
2013.6:
日越国交樹立40周年記念行事を(1)フエ市(2)ゲアン省ヴィン市(3)ゲアン省ナムダン県にて主催実施。日本から33名が出席。
2017.6:
2018浅羽佐喜太郎公記念碑100周年記念事業実行委員会発足。

● できごと ●

2017.3:
天皇皇后両陛下のフエ・ファンボイチャウ記念館訪問。

以上が≪浅羽ベトナム会の沿革≫に載っている主な内容ですが、日本とベトナムの両国にまたがる、実に広い活動をされているのが良く分かります。そして、その中心におられるのが安間さんなのです。

さらには、安間さんと会ったその後知ったのですが、あの「さすらいのイベント屋」のNMさんも安間さんを良くご存知でした。2006年頃に実際に静岡県袋井市に行き、そこで安間さんに会ったと言われました。「一念を持って生きておられますね」と、敬意を込めて安間さんのことを話されていました。

安間さんとお別れしてからしばらく、頂いた資料を繰り返し読みました。<紙芝居>も全部開いて見ました。一枚・一枚めくってゆくうちにこころから感動しました。しばらく自分の中で理解を深めて、新年明けてからの授業で生徒たちにこの<紙芝居>を紹介してあげようと決めました。

しかし、せっかく頂いた<紙芝居>の原本が何回も使っているうちに汚れたり、破損してはいけないので、これをコピー屋さんに持ってゆき、原本からコピーを取り、それをラミネート加工してもらうことにしました。こうしておけば、汚れたり、破れたりすることはありません。

<紙芝居>の原本は約20枚ありますが、それを2部ずつコピーしました。1部は同僚のUA先生に進呈することにしました。昨年私が日本に帰国した時、「熊本外語専門学校」でUA先生には会いましたが、今はまたベトナムに戻られています。彼女は<紙芝居>の授業も披露していますので、私よりも慣れたものです。彼女に年末にそのラミネート加工したものを一式上げますと、大変喜んでくれました。

そして、新年が明けてからすぐに授業がスタートしました。早速、私が入るクラスにラミネート加工した<紙芝居>一式を持ち込みました。そして、その日は二クラスにこの<紙芝居>を披露しました。みんなが初めて見る<紙芝居>ですので、興味津々という表情です。

ファン ボイ チャウと浅羽佐喜太郎の交友については、以前その資料を生徒たちも読んでいますので、活字としてはみんな知っています。しかし、この<紙芝居>を見るのは全員が初めてです。声が良く通る生徒を指名して、前に出てもらい、<紙芝居>の裏面のベトナム語を読んでもらいます。

一枚が終れば、また一枚と、ゆっくりと<紙芝居>を語ってゆきます。やはり、活字だけを読み上げるのとは違い、「話」+「絵」のパターンで披露すると、強く生徒たちを惹き付けることが出来ました。最後のほうに写真でもよく見る「報恩の碑」が現れました。生徒たちの目付きが強いものになりました。

そして、<紙芝居>の全部を終えた時、生徒たちの間から、拍手が起きました。今回生徒たちも初めて見る<紙芝居>とその内容には深く感動していました。そして、私自身も・・・。

最後に私から次のような話をしました。「今年日本に行くみんなの中で、愛知県、近畿圏で働く生徒がいれば、9月22日に静岡県袋井市で報恩の碑の百周年記念行事をやるので、積極的に参加してください。今のベトナムに“独立と自由”があるのは、かつてファン ボイ チャウのような人たちがそのために奮闘努力してくれたからこそです」

その数日後、安間さんに、<紙芝居>と百周年記念行事のことを紹介したことをお話しましたら、感謝の言葉と、「生徒さんたちの参加をお待ちしています」との返事を頂きました。

 

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

新正月はダラットで花見?

12月18日、ダ ラットのエコツーリズム施設「Hoa Son Dien Trang」を訪れた人々は、鮮やかなピンク色をした日本の桜が咲き始めているのを見て驚きを隠せなかった。

「花の街」ダ ラットでも異例の出来事で、1964年からこれまで多くの個人・組織がヴィラ、湖、フラワーパークなどに日本の桜を植えたが、どれも成功しなかった。

植木職人によると、寒さが不十分、湿度が低い、霧の不足などが原因として考えられる。一方でHoa Son Dien Trang内の桜は全て日本から輸入され、ベトナムの土壌・気候に合うように配慮し数年かけて育てられてきた。

「昨年から幾つかの木で咲き始めたのでとても喜んでいました。冬になれば魅力的なピンク色で埋め尽くされるよう何千本の木を植えることに決めました。花が好きな人はわざわざ日本に行かずとも、ここに来れば日本の桜を見ることができます」とDuong Hai Dangさんは述べた。

現在は約10本に、ちらほらとつぼみや花が咲き始めている状態だが、あと半月(新正月)もすれば満開になる。

=VietnamGuide.com=

◆ 解説 ◆

2015年12月末に社員旅行でダ ラットを訪問しました。その時のことは、2016年1月号「ダ ラットへの旅」でも触れていますが、ダ ラットには桜の木があることは知っていました。でも、それは日本から持ち込んだものであり、それがある場所はダ ラット市内の中心部にあるXuan Huong(スアン フーン)湖の周りだけだと思っていました。

ところが、市内から外れた所にある道路沿いにも桜の木が植えられていて、奇妙な感じがしました。いろいろベトナムの人に聞くと、「ダ ラットにはもともと桜の木があったのです」と言った人もいました。市内中心部だけにしか桜の木が無くて、他の場所にある桜の木を見ていなかったら、私も「やはりダ ラットにある桜は日本から持ち込んだもの」と思いますが、「え、こんな所にも桜の木がある!?」と思うような場所に桜の木を見たので、よく分からなくなりました。

この記事の中の「Hoa Son Dien Trang」にはまだ行ったことはありませんが、「ここの桜は全て日本から輸入され」と書いてありますので、ここの桜は間違いなく日本から持ち込んだ桜だということになります。日本から持って来た桜が、異国でキレイな花を咲かせてくれているのを見ると、やはり日本人としては嬉しくなります。

「1月に訪れるべきベトナムの観光地8選」の中の一つにも、やはり「ダ ラットの桜」が挙げられています。

日本から持ち込んだ桜とダ ラットにもともとあった桜が共存して、ともにこの時期にダ ラットで花を咲かせてくれる。いずれダ ラットは「桜の名所」として、テレビで放映され、ガイドブックにも載るかもしれません。日本の桜がそのことに貢献してくれれば、ちょうど旧正月のイベントに花を添えてくれることでしょう。

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