春さんのひとりごと

<日本とベトナムに橋をかける人>

「先日Phuc首相を名古屋の<情妙寺>に案内してきました!」

私がベトナムに戻ってしばらくした6月初旬、あの<さすらいのイベント屋NMさん>に久しぶりに会いました。私に会ったその時の開口一番に、NMさんはホッとしたような、大役を果たしたような表情でそう話されました。

Phuc首相とは、2016年4月7日にベトナムの新首相に選ばれたばかりのNguyen Xuan Phuc(グエン・スアン・フック)氏のことです。NMさんが何故そのPhuc首相に日本で会ったのかと言いますと、 今年5月26・27日の二日間に亘って三重県で行われた<伊勢志摩サミット>と関係があります。Phuc首相はその後に開かれる<伊勢志摩サミット拡大会合>に参加するために来日されました。その場所が名古屋でした。

その名古屋には「情妙寺」というお寺があります。実は、情妙寺には、400年前日本とベトナムとの深い交流に関する歴史的な資料が、今も大切に保管されています。『交趾国貿易渡海図巻』がそれです。

16~17世紀に、日本人商人はベトナム中部で交易し、ホイアンで日本町を築きました。そのような朱印船貿易をしていた商人の一人に「尾張茶屋家」がありました。その『交趾国貿易渡海図巻』とは、茶屋家2代目の茶屋新六郎から情妙寺に奉納されたものです。尾張茶屋家17代当主は、今でも情妙寺筆頭総代を務めておられるといいます。

『交趾国貿易渡海図巻』は、長さ5メートル 幅80センチ程の絵巻図です。長崎を出港して交趾国(ベトナム)に至る朱印船の航海図であり、慶長17年(1612)に交趾国の国王に貢物を献上する様子が描かれています。

そして実は、私自身もその『交趾国貿易渡海図巻』を自分の眼で直接見たことがあります。今から三年前に、福岡県太宰府にある「九州国立博物館」「大ベトナム展」が開かれました。そこにこの図巻が名古屋の情妙寺から運ばれて展示されていました。

それを事前に聞いていた私は、(何としても見てやろう!)と思い、友人に頼んで車で大宰府まで連れて行ってもらい、運よく見ることが出来ました。その時のことは、2013年5月号の<日本帰国二話>にも触れていますが、そもそも、そういう図巻があるというのを、私に以前教えてもらったのもNMさんからでした。

Phuc首相が名古屋の情妙寺を訪れた目的は、その『交趾国貿易渡海図巻』を見るためでした。Phuc首相は、以前から名古屋の情妙寺に『交趾国貿易渡海図巻』があるのを聞いていました。誰からか?まさしくNMさん、その人からでした。

NMさんは現在、Quang Nam(クアン ナム)省にあるダ ナン市の人民委員会の顧問をされています。Phuc首相は、首相になる前、Quang Nam省の人民委員長などを歴任されていました。その関係で、NMさんとは古くから付き合いがあり、旧知の仲なのでした。そのNMさんが、Phuc首相に名古屋の情妙寺にある『交趾国貿易渡海図巻』のことを話していたそうです。

そして、情妙寺を訪問されたのが5月28日。まさに<伊勢志摩サミット拡大会合>が行われるその日の、大変忙しい時間を縫うようにして情妙寺を訪問されたのでした。そしてその橋渡しをしたのが、誰あろうNMさんでした。

たまたまこの時日本に帰国していて、東京の自宅で寛いでいたNMさんにPhuc首相の関係者から夜遅く連絡が入ったそうです。「Phuc首相が翌日名古屋の情妙寺を訪問したいという希望です。何とか宜しくお願いします!」と。大いに驚いたNMさんは情妙寺の林住職さんにすぐに連絡を取りました。林住職さんは快く承知されたそうです。

情妙寺にある『交趾国貿易渡海図巻』の縁から、林住職はベトナムの日本人町があったホイアンを5回訪れ、またベトナムからもダナン市長、ハノイ大学教授、日越歴史研究者の人達も情妙寺を訪れるなどして、お互いに親善交流を続けています。

後に、林住職は次のように話されたそうです。「来寺前日の夜に突然連絡をいただき、お迎えするのに大変でしたが、フック首相に説明をさせていただき、大変有意義でした。これからも絵巻図を大事にお護りし、日越親善に努力していきたいです」と。この中に「突然連絡をいただき」とありますが、その「突然の連絡」をされたのがNMさんです。NMさんは朝一番の新幹線に乗って名古屋まで行きました。

そして、28日にPhuc首相は希望通り、情妙寺で『交趾国貿易渡海図巻』の実物を見ることが出来たのです。フック首相は住職からの説明を受け、400年も前から日本との交流の歴史があったことに感動して帰られたそうです。それをNMさんから直接聞いた時、私は大いに驚きました。NMさんという一人の日本人が成しえた、日本とベトナムを繋ぐ<架橋力>は見事というべきです。

そのNMさんがまた大きなイベントを手がけようとされています。そのイベントについて、私は約二年前から伺っていましたが、それが今日本側とベトナム側で、今年の10月末に実現する方向で動き出しました。これが実現し、成功すれば、仏教会だけの交流に止まらず、日本とベトナムの交流の歴史上に残る、記念すべきイベントになるものと思います。

そのイベントとは、ダナン市にある五行山の観世音寺に、<十一面観音像>奉納するというイベントです。Phuc首相と情妙寺を結びつけたのがNMさんの行動力とするなら、五行山の観世音寺と日本側を結びつけたのも、またNMさんの尽力によるものでした。以下に<ダナン観世音寺・十一面観音像奉納寄進のお願い>として、NMさんが橋渡しになって作成された文章がありますので、それを載せます。これはベトナム語版もありますが、ベトナムの外務局がこれをベトナム語に翻訳したそうです。

◇  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

●はじめに

現在、中部ベトナムにあるダナン市の五行山地区一帯において、ベトナムダナン精神文化公園が整備されつつあり、その中に日越交流センター建設計画などが進められています。
その中心をなすのが五行山観世音寺で、平成22年(2010年)にビン住職が日本においでになり、奈良の華厳宗大本山東大寺を参拝され、その整備計画の推 進に協力してほしいことと、新しい本堂が落慶した折には、東大寺から観音菩薩像を一定期間お借りしたいとのお申し出を受けました。
その年は、東大寺において盧舎那大仏造立を発願された聖武天皇のお妃である光明皇后の1250年御遠忌法要を 10月に厳修する年で、4月には盧舎那大仏を開眼されたインド僧菩提僊那僧正の1250御遠忌法要も厳修致しました。その法要には、バクニン省ファティッ ク寺のティエン住職ら4名のベトナム僧の皆さんが隨喜参列されました。
今からおよそ1260年前に菩提僊那が来日された際には、ベトナム僧仏哲師も同行され、大仏開眼供養会には舞楽や伎楽を演じたと伝えられています。

東大寺主催:ベトナム仏跡巡拝の旅(2010年12月実施)

それらのご恩に応えるため、東大寺では仏跡巡拝の旅を計画し、2010年12月にバクニン省のファティック寺とダナン市の観世音寺を表敬訪問させていただきました。

ダナンではビン住職をはじめ、ダナン人民委員会・ダナン外務局ダナン駐日代表部副代表のマイ・ダン・ヒェウ氏らの大歓迎を受け、本堂で勤行の後、約1時間 にわたる歓迎式典を催して下さいました。その折には本堂の前にひろがる広大な地面を重機が動き回り、整備事業がまさに始まった所でした。

新本堂の完成を目指して●

2014年になり、その後の整備事業の進捗状況をお聞きする機会を得て、新本堂の五角形の基礎が出来、2階部分に本堂を建設する予定であること、さらに今後は僧堂と研修所及び参拝者休憩を兼ねたレストランなども整備される計画をお聞きしました。

そこで、2014年10月にツアーを組んで観世音寺に参拝し、新築工事中の新本堂でお勤めさせて戴きました。新本堂の完成は2年後の2016年を目指しておられ、落慶法要には両国の僧侶による合同法要をお考えになっておられます。

ダナン観世音寺・十一面観音菩薩像奉納への経緯 ●

ビン住職が申された、一定期間尊像を出陳してほしいという願いは、いくら未指定品であっても日本の博物館法をクリアした場所でなければ無理であることや、二国間の政府レベルの話になるので不可能であることをお伝えしました。

そこで、その代替案として天平年間に来日されたインド僧菩提僊那僧正とベトナム僧仏哲師のご縁から、日本で造仏した十一面観音菩薩像を奉納し、ベトナムへ1260年振りの里帰りとして観世音寺に安置する話がまとまりました。

今から1260年前、本尊盧舎那大仏造立と同時に境内の上院にあたる観音山に二月堂を創建し、十一面観音菩薩を本尊とする「十一面悔過法要」が創始されました。

その法要は今もなお連綿と続けられ、不退の行法として日本のみならず世界各国から注目されている大きな法要です。この法要は、東大寺初代別当良弁僧正の高弟である実忠和尚によって始められ、行法の本尊はインドから招請された尊像として秘仏になっています。

遠くインドから日本に来臨された十一面観音菩薩像は、現代に至るまで人々の信仰を広く集め、聖武天皇の招請に応じて来日されたインド僧菩提僊那僧正とベトナム僧仏哲師の、大いなる慈悲の御心を顕現していると言えましょう。

今般、ビン住職の願いと仏哲師の誓願にお応えするべく、二月堂の十一面観音菩薩を写した尊像をダナンの観世音寺に奉納し、仏教精神による両国間の絆を深めることに寄与したいと存じます。

●ダナン観世音寺/ビン住職からの趣意書●          2014年10月
「越日両国民によるダナン観世音寺・十一面観音菩薩像奉納委員会」

<狹川先生そして日本の皆々様へ>

私は、古来より信仰の地として崇拝されてきたベトナム中部ダナン市五行山地区の金山の観世音寺住持Thich Hue Vinhです。5つの岩山からなる聖地五行山は、南北に長いベトナムのちょうど中心にあたり、毎年旧暦2月19日には全国行事の《観音祭り》を当院が執り 行ない、多数の僧侶と仏教実践者を国内外からお迎えしております。

五行山地区仏教会は、仏の教えをさらに今日の世に広めるため、新たな観世音寺本堂建立を決定し、目下建設の途上にあります。

私は総責任者として本事業に取り組むにあたり、古来より仏教の大変盛んな日本国に学ぼうと、2010年9月にダナン人民委員会外務局のMai Danag Hieu氏とベトナム在住の日本人中村雅身氏を伴い、日本各地の寺院を参拝致しました。

その折、約1300年近く前に当地より日本に渡り、奈良の都に居住した大先達の仏哲師とかかわりのある東大寺に、狹川普文先生をお訪ねしました。

私は、開口一番に観世音寺本堂建立の話と、落慶式に日本の皆様が国宝として大切にされている仏像の一時拝借のお願いを失礼とは知らずに致しました。

これに対し、狹川先生からは、仏哲師への報恩として落慶供養に日本から雅楽奏者派遣を検討、国家管理下の国宝貸与は現実的に困難、3ケ月後ベトナム訪問時には当院に参拝とお聞きしました。

実際同年12月24日に東大寺と始めとする30名の日本の仏教関係者が当院までお越しになりました。それから4年後の2014年6月、中村さんより狹川先生が観世音寺本堂建設の進み具合を気遣っておられること、国宝仏一時貸与の代わりに、当院開眼供養に二月堂修二会のご本尊影向として日本で造仏された十一 面観音菩薩像奉納を考えておられること、更に2014年10月26日に再度当院参拝、とお知らせを受けました。狹川先生には、4年も前の私の願いを忘れる ことなく、お心に留め置き頂いたことに深く感謝申し上げます。

仏哲師の日本渡来に発するこのご縁を両国民の悠久の友誼の証としていくため、狹川先生ご起案の十一面観音菩薩像奉納を実現させる組織として、日越双方の一 致協力による《ダナン観世音寺・十一面観音菩薩像奉納委員会》を作り、この素晴らしい事業に取り組んで参りたいと思います。                  

合掌

◇  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

この文章中にお名前が出ている、「狹川普文先生」というお方が、私が昨年の2015年5月に奈良の東大寺の二月堂でお会いした、「狹川普文院主」のことです。その時にお会いした、「狹川院主」のことについては2015年6月号の<日本帰国余話・前編・・・ ~神戸、奈良へ~>の中でも触れていますが、実にきさくな方でした。この時には、東大寺の中での肩書きは「院主」でした。

「狹川院主」はその時我々に日本とベトナムとの関わりについて、まるで落語を聴いているような、巧みな話し方をされて、この時参加していた我々に強い印象を残されました。今でもあの時の「狭川院主」のお話が耳に残っています。

そして、あの時「院主」の立場で現れた狭川先生は、現在は東大寺の中の最高位である「別当」の地位に就かれています。(さもありなん!)と私は思いました。あれだけ聴き手のこころを惹きつける話が巧みな方は、なかなかおられないことでしょう。それをNMさんから先日聞いた時、私も嬉しくなりました。

その「狭川院主」のお話の中にも「仏哲」のお話が出てきましたが、ベトナムと日本との最初の繋がりは、その「仏哲」という一人のベトナム人僧侶の存在からスタートしています。さらには、司馬遼太郎さんの本にもこの「仏哲」のことについて触れた箇所が、その著作「十六の話」「華厳をめぐる話」の中にも出てきます。以下その箇所を引用してみます。

 ◆    ◆    ◆    ◆    ◆    ◆

「東大寺というのは、華厳教学を研究し、華厳を修し、ついには蓮華蔵世界を得るべき心をやしなう機関なのである。まことに天平の二十年間(七二九~七四九)は華厳の時代といっていい。

年表ふうにいうと、

天平八年(七三六)  審祥、良弁に華厳を講ず。
同十二年(七四〇)  審祥、金鐘寺にて華厳を開講。聖武天皇、河内国大県郡智識寺で初めて毘盧舎那仏像を拝す
同十三年(七四一)  諸国に国分寺・国分尼寺を建立し、華厳的な国土厳浄をはかる
同十五年(七四三)  大仏造顕の発願の詔を発す。東大寺建立

というふうになる。大仏は発願から九年をへて、開眼法要がいとなまれた。この儀式でもっとも重要な役目は、開眼の導師だった。それに任ぜられたのは、南インドのバラモン階級の出である菩提僊那であった。“婆羅門僧正”と通称されたこの人は、前述の唐僧道せん(ドウセン) とともに、遣唐使多治比真人広成(たじひのまひとひろなり)にさそわれて日本に来て(七三六年)、奈良の大安寺に住した。おなじく、林邑国(インドシナ半島にあった国)の仏哲という異国僧も同行した。

呪願師の役目が、右に告ぐ。それに任ぜられたのが、唐僧道せんであった。唐の法蔵のくだりでふれたように、華厳世界は、かがやくように通人類的なのである。

「華厳をめぐる話」

  ◆    ◆    ◆    ◆    ◆    ◆

司馬さんが書かれたこの中に、<奈良の大安寺>という記述がありますが、そこへは昨年奈良を訪問した時、東大寺の後に続いて私が訪れたお寺です。そこでは河野良文貫主に温かくお迎え頂き、大安寺と「仏哲」の関わりについて説明を受けました。その河野貫主もこの<十一面観音像奉納>の日本側発起人の代表として名前を載せられています。

さらに最近、私もたまたま観ましたが「日本・ベトナム ナゾ解き交流史 国交樹立40周年記念」というYoutubeの中に、8分30秒頃・・・大安寺。8分40秒頃・・・河野良文貫主。10分20秒頃・・・林邑楽17分頃・・・名古屋の情妙寺「茶屋新六の図巻。27分53秒頃・・・五行山が出てきます。以下のアドレスがそれです。
https://www.youtube.com/watch?v=cfq841B2vDc

今年の10月30日(日)に<ダナン観世音寺・十一面観音像>の奉納式が行われます。この式典に参加希望の方の「有・無」を、申込書に記入する欄がありました。私は迷わず「有」に○をしました。

1280年前に来日し、<ベトナムと日本に橋を架けたベトナム僧・仏哲>。その仏哲に新しい光をあてて、見事に現代に生き生きと甦らせてくれた<さすらいのイベント屋NMさん>。事実私自身も、NMさんから教えていただくまでは、仏哲の存在を知りませんでした。1280年後に、NMさんはその仏哲の跡を慕い、今度は日本側からベトナムへの橋を架けようとされています。まさに偉業と 言うべきです。

このイベントが実現すれば、日本とベトナムの仏教会の交流のみならず、日本とベトナムの歴史に残る「さすらいのイベント屋NMさん」の素晴らしい、感動的な一大イベントになるのは間違いないでしょう。当日は、東大寺から狭川先生も来られると聞きました。私は、万難を排してでも出かけてゆきたいと思っています。

※春さんは1997年春よりホーチミンに駐在しています。今ではすっかり現地の人となって、見分けもつかなくなっています。春さんに質問や相談があればメールをお送りください。

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。 「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

道徳教育に人生をかける85歳の現役女性教師

女性教師のダム・レ・ドゥックさんは、80歳を超えた今でも教壇に立つことに夢中で、老後のことなど考えもしていない。週末の午後、ドゥックさんは翌週の授業の準備で大忙しだ。彼女は、ホーチミン市の2つの学校で道徳を教えている。眼差しは輝き、足取りは軽快、話し声も朗々としていて、初めて会う人の多くは彼女が85歳だと知ると驚く。

彼女は毎朝4時に起床し、気功をするか公園で散歩をしてから、学校の事務所に行く。この習慣のおかげで授業をしても疲れないし、熱心に授業ができるのだ という。そして、彼女の携帯電話には1人の電話番号も登録されていない。およそ100人の親戚や友人、同僚の電話番号を記憶していて、誰かに電話をかける ときは記憶をたどって番号を押している。記憶力を鍛えるためだ。

ドゥックさんの故郷は東北部地方クアンニン省クアンイエン町。儒教の家庭で育った彼女は小さい頃から勉強熱心で、12歳の時に試験に合格し、ハノイ市のドンカイン女学校の6年生に入学した。しかし翌年、家庭の事情により、故郷に帰って養蚕と織物の仕事を手伝わなければならなくなり、泣く泣く退学した。

18歳になると、一番上の姉がハノイ市の縫製学校へ通わせてくれた。学校では西洋とベトナムの服の縫製を学び、2学年の内容をたった6か月で修了し卒業 した後、故郷に帰って仕立て屋を開業した。しかし、また学校に通うという夢も捨ててはいなかった。その後、大学に入るために仕立ての仕事を辞め、必死で勉 強した。そして25歳の時、ついに総合大学の数学科に合格した。

大学を卒業すると、ドゥックさんは紅河デルタ地方ハイフォン市のいくつかの高校で数学を教えるようになり、後に市内の大学の教員となった。1983年、50歳を超えてからホーチミン市に移り、ホーチミン経済大学の統計数理学科で6年間教鞭をとった後、定年退職した。

しかし、まだまだ教壇に立ちたいという望みは燃え尽きることがなかった。退職前の1985年、同じく教師で定年を迎えていた親戚と共に、ホーチミン市1 区に補習塾を立ち上げた。更に2010年、彼らは7区とフーニュアン区の2か所に拠点を持つ中高一貫校を設立し、自ら2つの学校で教鞭をとった。

ドゥックさんが担当する授業の内容はクラスによって異なるが、主に両親への孝行や教師への礼儀、友人への親愛、学校や社会での振る舞いやマナーについて 教えている。中でも彼女が最も力を入れているのは、子としての在り方だという。彼女は常に学生たちに、全ての人の人生において、両親こそが最初の師だと教えている。

「11月20日の教師の日、皆さんは学校の女性の先生達に花を贈りましたね。それでは、ご両親には贈りましたか?」「皆さんは両親がいなくなった時のことを考えたことがありますか?」といった質問を投げかけると、学生たちは心を動かされるのだという。

 親孝行について教える時、彼女は一緒に「K+K+T+N」(Kien dinh=強い意志、Kien tri=忍耐強さ、Thoi gian=時間、Niem tin=信念)の公式についても話している。彼女によると、成功というのは、「自らの選択した道に対して揺るぎない意志を持つこと」「目標に向かって忍耐 強く進むこと」「時間を大切にすること」「自分を信じること」、この4つの要素の蓄積なのだという。

ドゥックさんの指導の源には、両親への想いがある。子供たちを育てるために苦しい生活を送っていた両親の姿が、幼少の頃から心に深く刻まれているのだ。しかし、彼女自身は家庭を築かなかった。

彼女たちが建てた2つの学校から、多くの優秀な学生が巣立っていった。「天国に近い」年齢となり、学校の管理は同僚たちに任せるようになった。しかし、教壇には人生の最期まで立ち続けるつもりだ。ドゥックさんにとって、「教えること」こそが無類の楽しみなのだ。

VIET JO

◆解説◆

一人の女性として、教育者として、このような素晴らしい女性がホーチミン市におられることに驚き、深い尊敬の念を覚えました。特にドゥックさんが述べられた言葉で、最後のほうにある、この言葉には、涙が出るほど感動しました。

『教壇には人生の最期まで立ち続けるつもりだ。ドゥックさんにとって、「教えること」こそが無類の楽しみなのだ。』

実は、今私が日本語を教えている学校に、今年の三月から新しい、日本人の女性の先生が赴任されました。名前はHM先生と言います。ベトナムに来る前はメキシコで日本語を教えておられました。事前に同僚の先生から新しい先生が来られるとは聞いていましたが、その年齢を聞いてびっくりしました。「72歳です」と聞いたからです。

そして、ベトナムに来られて、実際にお会いしてさらに驚きました。72歳とは思えない、その若々しさにです。背筋はシャンとしていて、声は大きく、明るい笑顔がステキな女性でした。そして、HM先生が来られてから、学校での授業終了後の休憩時間に毎日行っていた日本式の「ラジオ体操第一」も、元気良く、勢いのあるものに変わりました。

それまではベトナム式の体操と、日本の「ラジオ体操第一」を時間を変えてやっていたのですが、ベトナムの生徒たちの日本の「ラジオ体操第一」の動きはまだぎこちないものでした。しかし、このHM先生が壇上に立ち、その模範を示して体操をするようになると、だんだんとベトナムの生徒たちの「ラジオ体操第一」の動きがサマになってきたのです。

さらには、今年は学校で「日本の夏祭り」をしようということになり、8月13日(土)に行うことになりました。そのために一ヶ月前から生徒たちに「炭坑節」「東京音頭」を教えることにしましたが、その踊り方を各クラスごとに指導されたのもHM先生でした。

「炭坑節」や「東京音頭」などは、日本でも踊る機会も少ないし、日本人でも踊れる人も少ないでしょうが、HM先生がここで一週間、二週間と指導を続けるうちに、ベトナム人の若者たちの踊りがだんだんとサマになってきましたから面白いものです。

元気良く体全体を動かし、汗を垂らしながら、必死に「ラジオ体操」や「盆踊り」をベトナム人の生徒たちに指導されている姿を見ていると、深い感動すら覚えてきます。まだ赴任してさほどの期間は経っていないのですが、そのひたむきさ、熱心さに生徒たちからも強い信頼を得ています。

このような先生を見ていると、私も「70歳を超えてもまだまだ現役で頑張れるのだなぁー」と最近思うようになりましたが、この記事のドゥックさんは70代どころではない、85歳になってもまだ現役で頑張っておられるのです。

 『教壇には人生の最期まで立ち続けるつもりだ。』

日本ではもう教壇に立つことは、私は出来なくなりましたが、ベトナムではドゥックさんのこの言葉を私も目標にしたいと思います。

↑このページのTOPへ