アオザイ通信
【2015年12月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<「ベトナムの先生の日」二話>

●「ベトナムの先生の日」のイベント●

今年もまた11月20日に、恒例の「ベトナムの先生の日」がやってきました。私が今教えている学校では、この「ベトナムの先生の日」にいろんなイベントが行われました。

本当は11月20日が「先生の日」になるのですが、その日にちょうど日本からの来客が学校にあるのと、日本人の先生がBen Tre(ベン チェー)省に、生徒たちを連れて「ソーラン節」の踊りを披露しに行く用事が出来たために、一日前倒しして19日に行いました。

19日の朝8時過ぎから「先生の日」のイベントがスタート。まず、生徒たちから全員の先生たちに対して、日ごろの感謝の気持ちを込めて花束のプレゼントがありました。今ここには、先生たちだけでも20人ちかくいますから、その総数は大変な花束の数です。

それから生徒たちによるイベントが始まります。各クラスで趣向を凝らして、いろいろな踊り劇やショーを見せてくれて、毎年いろんなパターンで楽しませてくれます。この日のために、約一ヶ月前から一日の授業が終わった後に、生徒たちが自主的に練習していました。

その中でも15人の生徒たちが扇子を使って披露してくれた踊りは、その踊りや扇子の使い方が実に上手で、全員の呼吸もピッタリ合っていて、大変美しいものでした。(よくぞここまで練習したものだなぁ〜)と思いました。後で聞きましたら、この日のために、担任の女性の先生が扇子を使った踊り方について、いろいろアドバイスしてくれたそうです。

各クラスから進み出て、いろんなショーを披露してくれた生徒たちのイベントは午前中で終わり、お昼前になって、今度は「クラス対抗の料理コンテスト」のスタートです。この日の料理に何を出すかを、前もってクラス全員で話し合い、当日披露する料理のメニューが決まります。

そしてこの「先生の日」の当日の朝早く(後で聞いたら朝6時過ぎ頃)から、市場に数人で食材の購入に行ったそうです。その費用は生徒たちの手出しです。これは昨年も同じように、朝早くから市場に行っていましたね。

さらに調理に使うガス台、包丁、皿、茶碗、ハシなどの用具は、サイゴン市内に自宅がある生徒たちの家から持ち込んだり、業者から借りて準備していたのだということを後で聞きました。それを聞いた時、(全員が本当に真摯な気持ちで「先生の日」を祝ってくれているのだなぁ〜・・・)と、胸がジーンとしてきました。

料理コンテストの審査基準は・・・、@料理の味、A盛り付けの美しさ、B料理の説明の仕方の上手さ・・・の三段階評価です。審査員は日本語の先生たちと、事務員の方数名で行います。生徒たちは、自分たちが作った料理が並べられたテーブルの前に座って、審査員の人たちが点数をつけてゆくのをハラハラしながら見ています。

テーブル上に並べられた数々の料理を見ながら、私は今年あらためて感心したことがあります。それは、Aの「盛り付けの美しさ」です。いろんなメニューの料理がテーブル上には並んでいましたが、テーブルの手前から一番奥のテーブル上に並んでいる料理をじーっと見ていた時に、素直に(盛り付けが大変美しいなぁー)という印象を持ちました。

料理を作った彼らは、男女ともまだ20代初期の頃の若者たちです。しかし、その料理のすべてにおいて「いかに美しく盛り付けるか」というエネルギーが注がれていました。ただ大皿に盛って終わりではなく、食べる前の見た目の印象を如何に美しくするかに工夫が凝らしてありました。

以前ベトナム中部のフエに行った時、宮廷料理として出された料理を見た時に、盛り付けの美しさを感じたことがありましたが、サイゴンではあまり見たことがありません。というよりも、私自身がそういう高級料理屋さんには行かないので、それを眼にすることが無いのだと思いますが。しかし、彼ら生徒たちが盛り付けしてくれた料理の美しさには感心しました。

「料理コンテスト」の審査が終わった後、各クラスで作った料理を先生たちと一緒に食べるために、生徒たちが教員室に先生たちを呼びに来ました。先生たち全員が、各クラスに入って生徒たちと一緒に食べます。私も呼ばれましたので、あるクラスに入りました。先生と生徒たちが教室の中で食べるという光景は、まさしくこの「ベトナムの先生の日」だけで、一年に一回しかありません。

それは生徒たちにとっても、大変思い出深いもののようです。今日本で実習生として働いている教え子の一人が、「“ベトナムの先生の日”のあの時に、先生たちと一緒に食事した時の思い出は忘れることが出来ません。まるで家族と一緒に食事しているような気持ちでした」というメッセージを送ってくれたことがありました。普段先生たちと食事することはほとんど無いので、そういう感想を持ったのでしょう。

そして、生徒たちとの食事が終わった後、少し休憩して真昼の熱気が下がった頃、毎年生徒たちにも人気がある「スイカ割り大会」を行いました。これは毎年盛り上がります。このイベントもクラス対抗戦としました。

この日はたまたま外から学校を訪問したベトナム人のお客さんたちもいて、「スイカ割り大会」が始まってからしばらくして、その人たちもこの行事を熱心に見学していました。私が昨年と同じように、「スイカ割り大会」のルールを説明します。

しかし、言葉だけでは分からないので、自分で目隠しをして、スイカを割る竹を持ってグルリと3回転して、スイカを割る動作を実演します。最初の時には5回転にして始めましたが、あまりにスイカに当たる確率が低くなり過ぎてしまい、全然当たらないとこれまた面白くないので、今は3回転にしています。それでも難しいですね。

実際にスイカ割りに使う道具は、地主の了解を得て、隣の敷地に生えている竹やぶから一本の真竹を頂きました。竹刀よりも長い竹です。まずクラス毎に一人ずつスイカ割り担当の生徒が出てきます。ここからは体育の先生が仕切って目隠しをして、竹を手に握らせて、「始め!」の号令を掛けます。1回まわり、2回まわり、3回目で足を止めます。

しかし、そこからの周りの声援はすごいものです。おそらくスイカ割りの本人自身はあまりにうるさくて聞き取れず、右に行くか、左にいくか、前に進むべきか、後ろに下がるべきか、判断に迷っていることでしょう。本人もあまりの外野のうるささに耐え切れなくなったか、最後は自分で判断して竹刀よりも少し長い竹を「エイヤッ!」と振り下ろします。

最初の3人目までは全員空振り。ようやく4人目に当たりが出ました。スイカに棒が当たり、真っ赤に熟れたスイカの果汁が飛び散った瞬間に、そのクラスの生徒たちが飛ぶようにして駆けつけ、割れたスイカを奪い取ってゆきます。まさに目にも留まらぬ速さです。たまたまこの日学校を訪問していたベトナム人のお客さんたちは、その光景を見て腹を抱えて笑っていました。

この日の「先生の日」のイベントは3時過ぎに一旦終わりました。それが終わり、先生たちも教員室に戻ってゆきました。私も教員室に向かって歩いてゆきました。その時、後ろから一人の女性の生徒が声を掛けてきました。振り向くと、ニコニコして、私に向かって頭を下げました。彼女の名前はNYさん。一年近くこの学校で日本語を勉強している生徒です。

彼女は手に一枚の紙を持っていました。そして、私に次のように言いました。

「ようやく日本に行くことが決まりました。それで、後二週間ほどしたら、この学校とお別れして故郷に帰ります。そのお別れの日に、先生たちや学校の友達にお別れの挨拶をすることになり、私が代表して発表することになりました。発表はベトナム語と日本語の二つでします。それで、私がベトナム語の原稿はすでにここに書きましたので、そのベトナム語を日本語に訳して頂けませんか」

私は「いいですよ。二・三日待ってね」と答えて、その紙を受け取り、教員室に戻りました。そして、正確を期すために、相棒のベトナム人の先生にもそのベトナム語から日本語の翻訳をお願いしました。ベトナム人の先生が最初に翻訳した原稿に私が手直しをして、それを二日後に彼女に渡しました。彼女はそれを受け取ると、「発表の日までに、今からこれを全部覚えます」と喜んで帰ってゆきました。

そして十日ほど経った日の朝礼で、彼女が発表する時が来ました。彼女が言った通り、ベトナム語での発表はもちろん、日本語の発表でも原稿を見ずに、完璧に覚えて発表してくれたそうです。大変素晴らしい内容ですので、ご紹介いたします。

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私はK329クラスの生徒、NYです。私達は今年のクリスマスに日本に行く予定です。今日私は、友達の代表として、先生たちと皆さんに感謝の言葉を発表させていただきます。

私たちが学校で生活していた時間はそんなに長くはありませんでしたが、その間学校の多くの先生たちと友達からいろいろ気遣っていただき、大変お世話になりました。それは忘れることが出来ない思い出です。今、この学校をまるで私たちの「第二の家族」のように思っています。

特に、勉強のことや生活のことで困っていた時に、いつも私たちを助けて頂いたVA先生やHS先生に対して、私たちはもう一人の「お母さん」と「お父さん」のように慕っています。こころから「有難うございます!」と言いたいです。

そして、今この学校にいる皆さんたちにも一つ言いたいことがあります。皆さんたちは故郷を離れてこの学校に来て、<楽しいこと>や<悲しいこと>を毎日感じていると思います。

でも、どんなことがあっても、皆さんたちはこれからもこの学校で、最後まで諦めないで頑張ってくださいね。もし(辞めたいな。もう諦めようかな・・・)と思うことがあったら、皆さんが最初にこの学校に来た時の動機を思い出してくださいね。

私たちはもうすぐ日本に行きますが、皆さんたちとぜひ日本で会いたいと思います。これからも、先生たちと皆さんたちの健康をお祈りいたします。そして、最後にもう一度、先生たちにこころからお礼を申し上げたいと思います。

“この学校の多くの先生がた、本当にありがとうございました!! さようなら・・・”

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残念ながら、私はその時居合わせることが出来ませんでしたが、彼女の発表を聴いた先生たち、生徒たちはこころから感動したそうです。そのことを後で聞きました。特にこの発表の中でNYさんが名前を挙げて感謝の言葉を述べていた、VA先生とHSは涙を流されていたといいます。もうすぐお別れする生徒の口から、そのような言葉を聞いて、さぞ感慨深いものがあったことでしょう。

一年に一回の「ベトナムの先生の日」という節目の日には、こうして今から日本に行く生徒たちや、今日本にいる生徒たちにあらためて思いを馳せることが多いものです。そして、 NYさんたちが日本に行くのと同じ日のクリスマス・イブの日に、三年間の実習を終えて、日本からベトナムに帰って来る生徒たちもいます。

実は、NYさんが「今年のクリスマスに日本に行く予定です」と書いている文章を読んでいた時に、私は今からちょうど三年前のクリスマス・イブの日に日本に旅立って行った生徒たちをまざまざと思い出していました。

2012年のあの日、七人の生徒たちが日本に向けて旅立って行きました。彼らは両親たちや家族や友人たちと別れを告げた後、空港内のゲートに入る直前に、その中の一人の生徒がわざわざ私に電話を掛けてくれました。その時、夜の10時を過ぎていました。

「今から空港のゲートの中に入ります。両親にも別れの挨拶をしました。先生も元気でね!」

とそれだけ手短に言って、後は一人・一人交代して「さようなら・・」と日本語で別れの言葉を述べてくれて、私も「みんな、元気でね!」と言うのが精一杯でした。そして、最後の生徒が電話を切りました。私はそのまま無言の状態で電話機を握ったまま、涙が溢れて仕方がありませんでした。その三年前に日本に行った生徒たちが、もうすぐベトナムに帰ってきます。

そして、また来年の「ベトナムの先生の日」が来る一年の間にも、<学校で日本語を勉強>⇒<日本へ行く>⇒<日本で三年間実習>⇒<三年の実習を終えてベトナムに帰国>する生徒たちの流れがこれからも続いてゆきます。

●「ベトナムの先生の日」に<日本語教師会>の集い ●

11月初旬のことでした。私が[SUSHI KO]で友人たちと食べて、飲んでいました。私たちが飲んでいたテーブルに、[SUSHI KO]のオーナーのLinh(リン)さんが顔を出しました。そして、私に次のように話しました。

「このベトナムで<先生>の仕事に就いている日本人の先生たちや英語の先生たちには、誰であれ、11月20日に来店してくれた時に<50%引き>にします」

それを聞いた時、私たちは大いに驚きました。何を食べても、何を飲んでも半額というサービスは、今までどんなレストランでも聞いたことがありません。その恩恵を受けたグループはラッキーでしょうが、店としては確実に赤字でしょう。

でも、Linhさんは「一年に一回のことですから、それでいいのです。知り合いの先生たちに声かけしてください」とお願いされました。それを聞いた最初は「本当か!?」と思いながら、直接Linhさんの口からそのことを聞いて「本当だ!!」と分かり、感心しました。

1994年にLinhさんは日本料理屋で働き始めました。ですから、日本料理屋で修行したのは20年近くにもなるわけです。そして、2013年の4月に、今の[SUSHI KO]をサイゴンの4区にオープンしました。

私はそのオープンの時にはちょうど日本に帰国していてそれを知らず、ベトナムに帰って来て、空港から事務所まで向かっていた時に、歩道上に[SUSHI ◎◎]と書いてある看板を見て大いに驚いた次第です。日本人の多い一区ならともかく、(日本人など少ししか住んでいない、こんな場所に何でまた路上のSUSHI屋が・・・)と不思議でなりませんでした。

サイゴンに帰ってすぐに、私の知人に「私が住んでいる近所に、最近、路上屋台の面白いスシ屋さんが出来たようなので、まあどんな料理が出てくるか行ってみますか」と声を掛けて、冷やかし半分で二人で行きました。店長は、「開店して初めて日本人が来てくれました!」と言って喜んでくれていました。

そしてメニューを見て、最初に鮭のサシミを食べ、いろいろ握り寿司を食べてゆくうちに「これは、これは、実に美味いじゃないか!」と二人とも驚きました。サイゴン市内にある、普通の日本料理屋さんの料理と比べても、全然遜色ありませんでした。日本料理屋もどきの店によくあるような、「何だ、この料理は!」というのは出てきませんでした。

そして、食べ終わって清算して、その伝票を見てまたまた驚きました。その値段は、あの日本料理屋がひしめいているLe Thanh Ton(レー タン トン)通りにある店の半額以下だったからです。私も知人も大いに喜び、「みんなに宣伝すると、私たちの座る席が無くなるので、しばらくは秘密にしておきましょうね!」と話したことでした。その時開店した一号店は、最大でも40人も座れば席が無くなるような狭さだったからです。

しかし、その後どうなったでしょうか。開店して半年も経たないうちに、週末になると一号店にはお客さんが押し寄せ、立ち見のお客さんまで出てきました。そして、2015年の初めに、[SUSHI KO]2号店が出来ました。さらには、今年の8月末には1号店のすぐ隣に3号店までオープンしました。今もまさに快進撃を続けている状態です。口コミで広がったようです。私と知人が「秘密にしておきましょうね!」と、他人に口外しないようにした努力は徒労に終わりました。

ただ、私はそういう店の隆盛とはあまり関係なく、好きな時に食べ、好きな時に飲んでいます。Linhさんも私がこのサイゴンで「日本語教師」の仕事をしているのは知っています。 そして、お客さんが少なくなり、仕事の手が空いた時には、私の前に座って世間話をしてくれます。

その[SUSHI KO]のオーナーのLinhさんに、最近聞いた話で感動的なことがありました。 10月初旬、Linhさんがいつものように仕事が一段落した時、板前の服装をしたまま、私の前に座り、次のようなことを話してくれました。

「実は、私が日本料理屋に勤めていた時、大変お世話になったAYさんが今年の9月下旬にサイゴンで亡くなられました。75歳でした。私はその人のもとで、7年間日本料理の勉強をさせて頂きました。AYさんが亡くなられた後、サイゴンには身寄りが誰もいないので、私自身がいろんなところに連絡を取りました。しかし、AYさんの身内だという人は全然現れてきませんでした。それで、私の大の恩人でもあるAYさんのお墓を、私の故郷であるCan Tho(カン トー)省のCai Rang.(カイ ラン)に造りました」

それを聞いた私は驚き、深い感動を覚えました。身内の日本人でもやって上げていないことを、昔日本料理を習った恩人に対して、ベトナム人の弟子が自分でその恩人のお墓を造ってあげた・・・。誰にでも出来ることではないでしょう。

それを聞いた私はLinhさんに「今の[SUSHI KO]のこのような繁盛ぶりをみたら、AYさんも天国で喜んでおられることでしょう」と話しました。Linhさんは「ウン・ウン」と頷いておられました。

さて、11月20日の先生の日には、[SUSHI KO]で半額で日本料理と飲み物が堪能できると Linhさんの口から直接聞いた私は、そのことをD日本語学校のIT先生に「朗報です!」 という内容のメールで連絡しました。IT先生が定期的に「日本語教師会の集い」を主宰されていることを知っていたからです。IT先生も「早速みなさんに連絡してみます」と、 すぐに連絡を寄こされました。

そして当日、全員で8人の「日本語の先生」たちが集まりました。IT先生のほかには、Hong Bang(ホン バン)大学のTR先生。先月サイゴンに来られた「日本語教育アドバイザー」KH先生の友人のFZ先生。KH先生とは東京にある「新宿日本語学校」以来の友人だということでした。さらにはベトナム人の子どもたちを対象に、サイゴン郊外で塾を開かれているIK先生など。五人の男性と三人の女性が参加して大いに賑わいました。

少し遅れて、私の同僚の先生二人も合流しました。その後さらにまた、突然というか、た またまというか、あの大阪人のSR先生もベトナム人の教え子を連れて来られました。SR先生はこの日の会合のことはご存知なかったので、この日ここで会えたのは偶然でした。

最終的には十二名がこの日[SUSHI KO]に集まったわけです。店の店員さんからは「これは店長からのプレゼントです」と言って、籠を頂きました。その籠の外に「先生の日おめでとうございます!」と書いた紙が貼ってあり、中にはキレイな花束が入っていました。

夕方から始まった「日本語教師会の集い」は三時間以上続き、みなさん大いに食べて、飲みました。中にはひさしぶりにお会いする先生もいて、大いに盛り上がりました。その場で、私はここの店長のLinhさんが、恩人のAYさんのためにお墓を建ててあげたことを話しました。みなさん感動していました。

そして楽しい宴会を終えて、精算をしてもらいました。やはり、全部の合計から50%引きになっていました。みなさんも事前に知っていたとはいえ、<大盤振る舞い>とも言えるあまりのサービスの良さに驚いていました。来年の「ベトナムの先生の日」にも、またみなさんここに集まることになるかもしれません。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ ダ ナン市 : ホアン サー美術館を着工、2016年末完成 ■

南中部沿岸地方ダ ナン市ホアン サー郡人民委員会は7日、同市でホアン サー美術館(Da Nang Paracel Gallery)の着工式を行った。2016年末に完成する見通しだ。

同美術館は、同市ソン チャー区にある面積1296m2の用地に建設され、地下1階建て・地上3階建て、高さ18mの規模となる。投資総額は400億 VND(約2億1900万円)。同案件の設計コンサルティングは、建築の設計・監理及び企画コンサルティング業務を手掛ける株式会社ライト設計(熊本県熊本市)が担当した。

同美術館には、ベトナムが領有権を主張する南シナ海のホアン サ諸島(英名:パラセル諸島、中国名:西沙諸島)に関連する歴史資料や美術工芸品を展示するギャラリーと、研究室、集会室などが備えられる。

<VIET JO>

◆ 解説 ◆

一年ほど前に、あの<さすらいのイベント屋>のNMさんにお会いした時、次のようなことを話されました。ちなみにNMさんは「ダ ナン市人民委員会」の顧問でもあります。

「ダ ナン市でホアン サー諸島に関する美術館を造る予定があり、その設計に熊本の設計事務所が協力することになりそうです」

NMさんは私の故郷が熊本県であるのはご存知なので、ニコニコしてそのことを話されたのでした。そしてまたしばらくして顔を合わせた時に「やはり、熊本の設計事務所がその美術館の完成に全面的に協力することになったそうです。良かったですね」とも話されました。

NMさんは実際にその設計事務所の人たちともダ ナン市で数回会われているそうで、「非常に意欲的で、いい人たちですよ。素晴らしい美術館が出来上がることでしょう。その仕事が一段落したら、今度サイゴンに彼らを連れて来て紹介しますよ。一緒に食事しましょう」と言われました。

私も同郷人の設計会社が、ベトナムでの美術館の設計に関わってゆくことに対して、嬉しい限りです。その方々とサイゴンでお会い出来る日を楽しみにしている次第です。



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