アオザイ通信
【2014年5月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<「日本料理屋の夢」 開く >

それは今から約二年半前の年の暮れのことでした。青年文化会館で行っている 『日本語会話クラブ』 に、若い日本人の男性が参加して来ました。彼の名前はOTくんと言いました。OTくんは海外で日本料理屋を開きたいと思い、ベトナムに来たと言いました。この時 26 歳。

そして、たまたま年が明けた正月元旦に、ニュージーランド人の 「 Bruce さん」 を囲んで、私たちは 外国人のバック・パッカーが多く集まる 「 Pham Ngu Lao(ファム グー ラオ)通り」 にあるイタリアン料理の店 「 MARGHERITA 」 で新年会をすることになり ました。

Bruceさんはこの時56歳で、日本には何と30年間滞在していました。それで日本語はペラペラです。Bruceさんは、あの有名な日本文学研究家である <サイデンステッカーさん> の友人でもありました 。 その Bruceさんを囲んで新年会を行いましたが、この日には全員で6人が参加しました。そこにOTくんも来てくれました。彼はこの新年会の場で、私たちに

「いつか近いうちに日本料理屋さんを開きたいのです。」

という夢を語ってくれました。

OT くんはもともと神戸の三ノ宮で居酒屋を開いていたのですが、大手の居酒屋チェーン店の 「低価格メニュー」 攻勢で、個人資本の居酒屋は経営が苦しくなってきたこと。さらに彼はいつか海外に自分の店を持ちたいという 「夢」 があり、それで海外に新天地を求めて、ベトナムと近隣の国に市場調査に来たのでした。

日本料理屋を開くとして、まずは 「どこで開くのか?」 。その選定のために、サイゴン市内の主な場所を調べ、次に 「ムイネー」 にまで足を伸ばし、さらには IT会社の KRさんに同行して、隣国の 「カンボジア」 にまでも行きました。そして、 「いろいろ調べた結果をもとに、日本で準備を整えて再度ベトナムに来ます。」 と言って、一旦日本に帰るためにサイゴンを去りました。

それから約二年、以後何の連絡も無かったので、私の記憶の中からも、彼のことは薄れてゆきました。しかし、昨年の七月初め頃 「今サイゴンに着きました!」 というショート・メッセージが私の携帯に突然届きました。 (誰だろう・・・?)と思いながら、その名前を見ると OT くんからでした。

それでその日の夕方、4区にある路上屋台の日本料理屋 「SUSHI ◎◎」 で会いました。 OT くんがここに来たのは初めてのことでしたが、ホーチミン市で路上屋台の日本料理屋さんとしては嚆矢ともいえるこの店を見て、大いなる興味を示していました。ちなみに、同じスタイルのこのような路上の屋台の日本料理屋さんが、この後サイゴン市内に昨年度だけでも五軒ほど出来ました。

「SUSHI ◎◎」には、彼と同じ年齢くらいの若者を連れて来ていました。名前をHNくんと言いましたが、彼は日本で OT くん同じ店で働いていた同僚でした。 OT くんは言いました。

「私達二人で、これから日本料理屋の開店に向けて動きたいと思います。場所はいろいろ調べましたが、やはり人口の多さから言って、サイゴンがいいだろうと考えました。つきましては、店の開店に当たり、名義がベトナムの人が必要になるので、誰か信頼できるベトナム人のパートナーの方を紹介して頂けませんか。」

その日はいろんなことを話しました。 「どういうスタイルの店でやるのか。」「日本食屋を開くとして、どんな料理を提供するのか。」「仕入れルートをどう確保するのか。」「店の名前は?」 などなど・・・。しかし、まず一番重要なのは 「ベトナム人のパートナーを探す。」 ことです。

その週の日曜日に、彼ら二人には「日本語会話クラブ」に参加してもらいました。最初に彼らをクラブの責任者のTさんに紹介しました。そして、クラブが終わる頃に、Tさんが司会をして、二人に日本人やベトナム人がいるみんなの前で、 <日本料理屋さん開店の夢> について語ってもらいました。

OT くんはベトナムで日本料理屋を開く決意について語りました。今まで日本で、日本料理屋を開いていたこと。海外でいつかは自分の店を持ちたいと思っていたこと。アジアの数カ国を旅していた時、ベトナムに惹かれたこと。昨年サイゴンに下見に来て、このサイゴンで料理屋を開こうと決めたこと。そして最後に、 「開店の時には、日本語会話クラブのみなさん方には 50%割引したいと思います。」 と言いますと、みんな「ワーーッ!!」と喜んでいました。

私は彼ら二人がみんなの前で話している時、「ベトナム人のパートナーを誰にしたらいいか?」についてずっと考えていました。そして、二人の横で司会をしているTさんを見ていて (そうか、目の前に最適の人がいるじゃないか!) と思いました。

それで、「日本語会話クラブ」が終了して、みんなでいつもの喫茶店に入り、お昼ご飯を食べている時、私がTさんに< OT くんが日本料理屋さんを開く時の「パートナー」の件>で相談しました。Tさんはしばらく考えて、「分かりました。私で出来ることでしたら、喜んでお手伝いさせて頂きます。」と、快く承知してくれました。まずは、 OT くんたちは最初の大きな壁を乗り越えました。

次は、 「どんな料理を提供するか。」 です。そのために、彼らは通称 「リトル東京」 と呼ばれる 「 Le Thanh Ton(レー タン トン)通り」 の、全ての「日本料理屋」に実際に足を運び、自分の目と舌で、サイゴンの日本料理屋の味を研究しました。

今から 17年前に私がベトナムに来た時、「Le Thanh Ton通り」にある「日本料理屋」はまだほんの数えるほどしかありませんでした。しかし、今ここにはものすごい数の「日本料理屋」が集中しています。あまりに多すぎて、何軒あるか分からないぐらいです。「そこのほとんど全ての店に行き、料理を食べて、調べました。」と彼らは言いました。その目的は、 【自分たちがお客さんに提供したい料理】 の研究です。そして昨年の末に会った時には、「それがほぼ固まりつつあります。」と話してくれました。

次はそれと同時併行して、 「場所の選定」 です。これが案外難航しました。サイゴン市内の主だった通りや、料理店が集中している通りなどの全てを回りました。ただ闇雲に回るだけでは不十分で、お客が賑わっている食事時間帯に出かけて、客の動きを見てゆかないといけません。(ここはいいかな?)と思う通りがあれば、そこに出ている空き物件を探さなければなりません。

しかし、さらに大きな問題がありました。 OT くんもHTくんも全くベトナム語が出来ないことでした。大家さんとの交渉においては、金額の問題が絡みますので、ベトナム語が流暢に出来なければ話が先に進みません。

「日本語会話クラブ」のTさんがサイゴンにいる時には、彼が通訳をしてくれるのでいいのですが、彼はいつもサイゴンにいるわけではありません。彼はお寺参りのために、世界各国を飛び回っていることもあります。 「この世で悟りを得る」 ということが、彼の人生観の大きな目標ですから、世界のお寺に出掛けたり、仏教者たちと交流したりしているのです。

それで、いつもサイゴンにいて、いつでも必要な時に、二人の通訳をしてくれる人材を探す必要がありました。その人材もまた、「日本語会話クラブ」の中から見出しました。二ヶ月ほど前に、 OT くんとHTくんがその女性を連れて来て、私に紹介してくれました。

私と彼女とは、お互いに日本語で話しました。彼女は 「日本語能力試験」 のレベルで言えば、N2くらいのレベルはありました。今は彼女がTさんに代わり、ベトナム人の大家さんとの交渉は全てしているということでした。年齢は 28歳でした。

しばらくして、まだ名前を聞いていなかったので、私が「名前は何ですか。」と聞きますと、彼女は 「 < Het(ヘット)> です。」と答えました。< Het!?>・・・私も今までいろんなベトナム人の変わった名前を見たり、聞いたりして来ましたが、これは初めて聞く名前です。ベトナム語の「Het」というのは <終わり> という意味なのです。

それは私も分かりましたので、「普通の名前と違いますねー。どういう意味があるのですか。」と、彼女に聞きますと、「みなさんからそう言われます。実は私は 15人兄弟なのです。両親があまりに多く子どもが生まれたので、私が生まれた時に、これで <終わり> にしようという気持ちで、 <Het> と言う名前にしたと聞きました。でもさらにまた、私の下に三人も生まれたのです。ですから私は12番目です。」と、明るく笑いながら答えました。

「 15人兄弟!」 それを聞いて驚きました。 (ギネス・ブックものでは?) と思い、その翌日ベトナム人の年配の人に、 「実は昨日こういう人に会いましてね。彼女は何と 15人兄弟だと言っていましたが、ギネス・ブックものではないでしょうか。」 と聞きますと、その人は 「いいえ、ベトナムでは珍しいことではありませんよ。 20人兄弟もいますよ。」 と、平然として答えたのにも、さらに驚かされました。

そして、新しく開く日本料理屋の内装には、日本人建築家のSDさんが協力されました。SDさんのことは 2012年10月の < 日本人が設計した学校 > で紹介したことがあります。ベトナムの学校を日本人の方が設計されたことに強い興味が湧き、実際にその学校を見学に行きました。

SDさんは、その学校を設計された同僚のNSさんと同じく、世界の建築学界の中でも優秀な賞を受けられている方です。 2009年にベトナムに来られました。ベトナムに来られてまもない時期に、同僚のNSさんと一緒にベンタン市場前の路上の屋台で飲んだことがあります。

その建築家のSDさんや日本語会話クラブのTさん、そして Hetさんたちの協力で、料理屋を開く場所をようやく探しました。その場所は7区に決まりました。広さは何と、200平方メートルくらいはあるということでした。200平方メートルというのは、日本料理屋としては結構な広さというべきです。

それからしばらくして、 Hetさんから「日本語会話クラブ」のメンバーに 「焼肉パーティー」 の案内が届きました。「日本語会話クラブのみなさんたちに、自分が住むアパートを提供して、焼肉パーティーをしてあげたい。」というのが、彼女の気持ちでした。準備や片付けなどを考えると、さぞ大変だろうに、彼女はそれを自分から申し出られました。

するとそのことを知った OT くんは、彼女のアパートでやるよりも、まだ改装中ながらも、もうすぐしたら開店する予定の7区の店でしたほうがいいのではと、 Hetさんに申し出ました。7区の店の広さであれば、パーティーに参加する人数が多くても大丈夫だし、いろんな準備のことを考えるとそちらが便利だからです。開店の案内も兼ねて、最終的には OT くんの新しく開店する場所のほうに変えて行うことにしました。

その日は4月の最終の日曜日でした。 11時にはほぼ全員が集合しました。約20人の参加者が集まりました。私はバイクでそこに行きました。4区からバイクで行けば、7区のその場所までは15分くらいで着きます。場所も大変分かり易いところでした。

バイクを停めた場所の右側に、コンクリートで作った円形状の椅子とテーブルがありました。椅子の足元を見ると、掘りゴタツのような造りになっていました。「何だろう、これは??」と思いました。 OT くんに聞きますと、ここに来たお客さんに 「足湯」 に浸かってもらって、食事の前に疲れを癒してもらいたいからということでした。いろいろ考えていますねー。

そして、まもなく開店する料理屋の部屋に入りました。 OT くんたちが考えた「日本料理屋」のスタイルは、日本人がやる以上は正統派の料理屋を目指したいということでした。従って、「SUSHI ◎◎」のような路上屋台の店は真似しませんでした。今予定している<提供する料理の内容>は、焼肉と鍋を中心に考えていると言いました。肉も日本から「神戸牛」の肉を取り寄せるつもりだと言いました。

部屋のあるテーブルの上には、天井から黒い装置が備え付けてあり、そこから筒が下りていました。肉を焼く時に出る煙を吸い込んで、外に出す排煙の設備でした。聞けば、中国で作ったのをベトナムまで運んで来たということでした。この日は「焼肉パーティー」ですので、早速それが動いていました。店の奥のほうには個室もあり、掘りごたつ形式になっていました。

この日には約 20名の方々が参加しました。ほとんどが「日本語会話クラブ」のメンバーですが、二人だけそうでない人がいました。日本の連休を利用して、アジアの数カ国を回っているKTさんご夫妻です。

実はそのご主人のほうは、鳥取で塾の講師をしている私の友人の教え子でした。その友人から事前に「教え子がサイゴンに行くのでよろしく。」という連絡をもらいましたので、「分かりました。」と私も返事を出しました。そのお二人がサイゴンに来られたので、この日の「焼肉パーティー」のことを話しましたら、「喜んで参加します!」と言ってくれたので、ここにお招きすることにしました。

KTさん夫妻も、ガイド・ブックなどを見ても体験出来ないこういうイベントに参加出来て、大変喜んでおられました。その翌日にはサイゴンを離れる予定でしたので、実にグッド・タイミングでこのイベントに参加して、楽しいサイゴン滞在の一日を過ごされました。

そしてこの日のメンバーの中には異色の人物がいました。一見しただけで、ベトナム人でも、日本人でもない風貌でした。実は彼の顔はずいぶん以前に一度だけ「日本語会話クラブ」で見たことはあるのですが、その時彼は少しの時間だけしかいなくて、深い話は出来ませんでした。しかし、この時には彼は私が座った席の正面に座りましたので、ようやく詳しい話が出来ました。

彼の名前は Fernando(フェルナンド) くん。今年 26歳でした。彼はブラジル人でした。そして、日本語は大変流暢でした。同じ席に座っていたベトナム人や日本人たちから、次々と質問が彼に投げられます。私もブラジルの人と話すのは初めての経験ですので、彼の答えには大いに興味が湧きました。

Fernando くんが話してくれた内容をまとめますと、彼はブラジルで 15歳から日本語を勉強したといいます。そして、高校生の時に、姫路市内でホームステイ体験のために二週間日本に来たそうです。ブラジルで日本語能力試験を受け、 N2 を取得していました。

ベトナムには二年前に来て、今はIT関係の仕事に就いています。その会社は、彼がインターンシップでベトナムに来た時に働いていた会社で、そこで続けて正社員になったのでした。彼にはベトナム人女性の恋人もいました。

彼が話せる言葉は、母国語のポルトガル語、英語、日本語、そして今ベトナム語を勉強中とのことでした。そして彼は日本の戦国時代が大好きで、戦国時代の将軍たちや軍人たちの名前を次々に挙げてゆきました。

彼が 「竹中半兵衛」 の名前を口にした時、そこにいた若い日本人女性が「誰、それは?私は知らない。」と首を捻っていました。サイゴンでケーキ屋さんを開いているYMさんが戦国時代の Youtubeを見せますと、食い入るようにそれを見ていました。(こういうブラジル人もいるのかぁ〜)と私も不思議な気がしました。

そして、さらに彼には面白いことがありました。椅子の横に筒状の袋に入れた木刀を置いていましたので、「それは何ですか。」と、質問しました。すると彼は「私は日本人の先生から居合道を今習っているのです。それで今日もこれを持って来ました。」と言うではありませんか。

「このベトナムで居合道を習っている!」

しかもその居合道を教えてもらっている先生はというと、私も聞いたことがある名前の先生でした。ベトナムで発行されている日本語情報誌のフリーペーパー 「 Vietnam SKETCH 」 の昨年11月号に載っていたのを覚えていたからです。それだけ、印象が強かったのでしょう。 「 Vietnam SKETCH」 に載っていた 内容を一部抜粋します。

「艶やかな鞘に手を添えた瞬間、周囲は凜とした空気に包まれた。朗らかな笑顔から、力強いまなざしに。まぶしい南国の日差しに黒い袴が映える井浦あすかさん。ホーチミン市師範大学の日本語学部で教べんを執り、生徒に居合道も教える日本語教師だ。」

「ベトナムの記念日である『先生の日』に、演武を行ったことがきっかけで、居合を教えることになりました。大半が日本語学部の生徒なので、もともと 日本への興味は強いのですが、居合は桜・侍・富士山など、日本のイメージにもぴったり合っていたのだと思います。驚いたのは、強さや格好良さだけの反応を 想像していたのに、『キレイ』と言われたこと。刀など見た目の強さだけでなく、居合が持つ日本文化の美しさが伝わったことは、とてもうれしく感じました」。

「井浦さんが居合道と出会ったのは中学生の頃。剣道を学ぶ弟の影響から偶然見る機会を得た居合にひと目で、心を奪われたという。また初めて海外へ旅行し、日本と異なる文化に触れたのもその頃。海外の人々が日本文化に強い興味を持つことを知り、日本文化を深く知りたいと居合の世界に飛び込んだ。」・・・

「井浦さんの居合指導は現在、日本語学部の生徒や教員の家族を中心に、自主活動として週1回のペースで行われている。2013年の3月から本格的に開始して以来、一人も欠けることなく続けられ、最近では生徒による演武も行えるようになってきた。」・・・

「日本への留学や日系企業への就職を目指す学生たちに、日本語だけでなく、居合を通じて日本文化を知るきっかけを作りたいという井浦さん。日本とベトナムとのより深いつながりを、ベトナムの地から応援する彼女の想いは、学生たちの心にゆっくりと今、根を下ろしつつある。」

Fernando くんが話してくれたことと、 「 Vietnam SKETCH」の記事を後で読み返していて、深い感動を覚えました。

(何という素晴らしい活動をされている日本女性だろうか!)

と思いました。一人の日本人女性が居合道を通して、日本文化を広めておられる。誰にでも出来る活動ではないでしょう。

Fernando くんは我々の前で、袋から木刀を出して、愛おしいようにそれを拭いていました。日本語で Fernando くんが語った 居合道にまつわる 話を、みんな真剣に聴いていました。いつか私も、井浦先生が指導されている、その居合道の光景を実際に見たいと思いました。

11時過ぎから始まったこの日のパーティーは、3時ころには終わりました。開店を控えて忙しい時期であろうに、「日本語会話クラブ」のメンバーのために、場所を提供し、料理を提供して頂いたOTくんやHNくん、そして Hetさんにお礼を言ってそこを去りました。

そして私はバイクで帰る道すがら、今から8年半前の 2005年10月に出会ったベトナム人青年・Uさんのことを思い出していました。彼はその時にハノイ市内で日本料理屋さんを開いたばかりだということでした。ベトナム人の友人が私に紹介してくれました。彼はその時、「ハノイで働いてくれる日本人のパートナーを探しています。」と話していました。

あれから8年半・・・。時折ハノイから仕事でサイゴンに来て一緒に食事する友人のNZさんがいます。彼は時に、Uさんが店長をしているその店に行くことがあります。彼は私に言いました。 「いや〜、いつ行ってもあの店は多くのお客さんたちでいっぱいですよ。ハノイでは大変美味しくて、有名な店になっていますよ。」 と。

「 Vietnam SKETCH」の広告にも彼の店の名前が 「北部編」 に掲載されています。彼とはその後一度も会ってはいませんが、それを見るたびに、あの8年半前に出会った、真面目なUさんの顔を思い出しています。あの時Uさんは29歳でしたから、今は38歳くらいになられているはずです。そして今、彼の店はハノイで <美味しくて、有名な店> として成功し、多くのお客さんで賑わう店になっています。名前は 「友楽」 と言います。

思い起こせばOTくんとの “ 縁 ” は 、 今から二年半前に「日本語会話クラブ」で出会ったのが最初でした。Uさんもあの時若かったですが、OTくんはさらに若い青年です。あの時彼が語ってくれた <日本料理屋の夢> が、ようやく今実現していようとしています。準備に掛けること二年半、いよいよサイゴンでスタートする、彼の新しい日本料理屋の開店を楽しみにしています。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

「第 20 回ホーチミン市日本語スピーチコンテスト」が開催

ホーチミン市 1区のベンタイン劇場で5月11日(日)、 「第20回ホーチミン市日本語スピーチコンテスト」 が開催される。

同イベントは、日本語学習者の能力と学習意欲向上を目的に、 1995年から毎年実施されている。同イベントでは、スピーチ発表だけでなく、日本語学習者らによる歌や踊りのコンテストなども催される。

このスピーチコンテストで選ばれた優勝者は、毎年秋に日本へ招聘されている。この招聘の目的は「日本でさらに日本語を勉強し、多くの日本人と交流を深め、日本文化、日本の社会をより深く理解していただくことを目的」としている。

来日の日程はスピーチ発表会・交流会を開催するほか、東京を中心に企業、学校などを訪問・見学、近郊を観光、また日本の家庭を訪問するホームビジットなど交流、交歓をおこなう。

◆ 解説 ◆

5 月 11 日(日)、私もベンタイン劇場まで 「第 20 回ホーチミン市日本語スピーチコンテスト」 を見に行きました。久しぶりに「日本語スピーチコンテスト」を見に行くことが出来ました。私が「日本語スピーチコンテスト」を見ることが出来たのは、 2007 年の 5 月が最後でした。

何故なら、ここ最近私は4月から5月までの期間に日本に帰国していました。5月の連休明けにベトナムには戻っていましたので、いつも5月初旬に行われる「日本語スピーチコンテスト」を見たくても見ることが出来ませんでした。しかし、今年は6月に日本帰国を予定していましたので、7年ぶりに見ることが出来たのでした。

8時半過ぎには発表者のスピーチが始まります。それで、私は当日の朝8時に 「ベンタイン劇場」 に着きました。私の知人の先生が受付をされていました。私は「来賓席」のほうに案内されましたが、8時を過ぎたこの時点では席は全然埋まってはいません。 「さくら日本語学校」 のM先生が私のほうに近寄って来られて、「今年は少し集りが悪いようです。」と、ポツリと呟かれました。今年は、最終的に 400 名くらいの参加者だったそうです。

首を後ろに向けると、席に座っている人たちの中に知った人たちがいました。「日本語会話クラブ」のメンバーたちでした。本当はこの日曜日に、<青年文化会館>で、「日本語会話クラブ」が開かれる予定だったのですが、それがこの日は中止になりました。

中国が 南シナ海で石油掘削を始めたことに反発して、今ベトナム全土でデモが行われています。それで毎週の日曜日に「青年文化会館」で行われている「日本語会話クラブ」も、そのトバッチリを受けて、「青年文化会館」から責任者のTさんに通達がゆき、中止に追い込まれました。それで、彼ら「日本語会話クラブ」のメンバーがこの日に集っていたのでした。今回の中国の横暴は、「日本語会話クラブ」にまでその影響が及んでいました。

「スピーチコンテスト」の開幕は、朝 8時40分を過ぎた頃始まりました。今回は全員で12名の発表者がいました。しかも、何とその全員が全て女性でした。 「さくら日本語学校」のM先生に後で聞きましたら、やはり、昨年も出場者は全員女性だったそうです。

M先生によりますと、今年の「日本語スピーチコンテスト」には 101人の原稿の応募があったそうです。そして、 作文を審査する一次審査と、スピーチ及び質疑応答の二次審査、そして発表当日の本選審査の三段階を経て優秀者たちが決まります。7年前も原稿応募は 102名でしたから、増えもせず、減りもせずです。

コンテストの冒頭に日本国総領事の中嶋さんから挨拶がありました。中嶋さんはサイゴンに赴任されてまだ四ヶ月しか経っていないのに、通訳を介さずに見事なベトナムで話されました。そして同じ内容をまた日本語で説明されました。後で「日本語会話クラブ」の女性が「中嶋さんのベトナム語は大変上手でしたね〜!」と感心していましたが、私もそう思いました。

そして、コンテストが始まる前に恒例の「アトラクション」がありました。 「よさこい」 踊りを披露してくれました。「アトラクション」の担当は、毎年 「さくら日本語学校」のM先生が担当されています。

そしていよいよスピーチが始まりました。最初の発表者は Le Uyen Thao(レー ウィン タオ)さん で、テーマは 「わたしのおさななじみ」 。自分の母親が小さい頃、屋台を引いて仕事をして、自分を育ててくれた思い出を話してくれました。その屋台を思い出すたびに、自分の「おさななじみ」のように思えるという話でした。

そして次々と発表者が壇上にたち、日本語で発表します。持ち時間は一人が 15分くらいですが、全員が原稿を見ずして、発表内容を完全に覚えていて、言葉に詰まることもなく発表していきます。後で、実際に発表した一人に聞きました。「どのくらいの期間をかけて原稿の内容を覚えましたか。」と。彼女は「約二ヶ月間練習しました。」と言いました。

前半に6人、後半に6人の発表者が登場して、次々と発表してゆきました。このベトナムで、ベトナムの若い人たちが「日本語」で発表しているのをじーっと聴いていますと、やはり嬉しくなってきます。

私は個人的には、6番目の Tran Phuong Trang(チャンフーンチャーン)さん が発表した 「ユーモア:教師の欠かせない性格」 が印象に残りました。彼女は、19世紀のイギリスの教育学者: ウイリアム・アーサー・ワード の次の言葉を、日本語で観客の前で紹介しました。

私はそのベトナム語の訳をこの時初めて知りました。そして、そのベトナム語訳は同時併行で字幕に表示されましたので、ベトナムの人たちにも良く理解出来たはずです。

凡庸な教師は ただ喋る。(Nguoi thay trung binh chi biet noi.)

よい教師は 説明する。 (Nguoi thay gioi biet giai thich.)

優れた教師は 自らやってみせる。 (Nguoi thay xuat chung biet minh hoa.)

しかし、偉大な教師は 子どものこころに灯をともす。

(Nguoi thay vi dai biet cach truyen cam hung.)

そして、 11時半頃から結果発表がありました。最優秀者は5番目に発表した Khong Vu Hoang Ngoc(コンブーホアンゴック)さん 「25歳で死なないでください」 に決まりました。彼女には250ドルの賞金と、日本行きの往復の航空券が授与されました。ちょうど12時ころに「第20回ホーチミン市日本語スピーチコンテスト」は無事終了しました。

そして、翌日たまたま < Dong Du(ドンズー)日本語学校> のIT先生と会う機会がありました。IT先生が言われるには、今回一位に選ばれた Ngocさんは何とITさんの教え子なのでした。自分の教え子が一位に選ばれるとは、IT先生の喜びは如何ばかりでしょうか。



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