アオザイ通信
【2014年1月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<アンコール ワット」への旅>

2014 年が明けた1月2日から5日までの日程で、 カンボジアの 「プノンペン」 、そして「アンコール ワット」 に行きました。私にとっては、今回が初めての「アンコール ワット」の訪問でした。

去年も同じように正月休みにカンボジアへ友人と一緒にバイクに乗って行き、一月一日のお正月をプノンペンで迎えました。帰りもまたバイクに乗って、サイゴンまで帰りました。

しかし、今回は年に一度の学校恒例の <慰安旅行> で行くことになりました。総勢で40人近い人たちが参加しました。

私は「アンコール ワット」の存在自体を、高校の教科書で初めて知りました。歴史の先生が <世界の三大遺跡> の説明をしている時に、 「エジプトのピラミッド」「インドネシアの ボロブドゥールの仏塔」「カンボジアの アンコール ワット」 を挙げられ、憧れたような眼差しをして、

「いつか、必ず訪れたいものだ・・・!!」

と話された時の顔を、今でも鮮明に覚えています。そして私自身が、その「アンコール ワット」が近くにある隣国の、このベトナムに来ました。しかし、隣国に住んでいても「アンコール ワット」に今まで何回も行きたいと思いながら、なかなか実現せず、今回ようやくその夢が叶いました。

「カンボジアの アンコール ワット」 が多くの人を惹き付けるのは、もちろんその建築群の見事さもさることながら、 1860年にある一人のフランス人博物学者が、密林の中に埋もれていた 「アンコール ワット」を見つけたという <発見物語> の感動も大きいと思います。

「森の彼方の広大な地域に、円屋根や五つの塔をつけた巨大な柱廊がそびえていた。・・・紺碧の空のもと、静寂の背景をなす森の深緑の上高く、美しくまた荘重なこの建物の力強い線を見出したとき、私はその巨大な輪郭に一種族全体の墳墓を見出したような感じを受けた」   

 〜〜アンリ・ムーオ『カンボジア・ラオス諸王国旅行記』〜〜

アンリ・ムーオがジャングルの密林の中から、「アンコール ワット」を<発見>した時の感動は如何ばかりだったろうか・・・と思います。その時の彼の昂ぶった気持ちが読む人に伝わって来ます。

「アンコール ワット」は 広さが東西約 1500 メートル、南北約 1300 メートル。そして、高さ 8 メートルの城壁で囲まれ、その周囲はお濠 が四方に掘られています。建立したのは、 <スールヤヴァルマン 2 世(在位 1113 〜 1150 年ごろ)>。彼の即位とほぼ同時に着工し、完成までは実に約 30 年間かかったといいます。

ちなみに、 「アンコール」 とは日本語で 「京都」 「ワット」 とは 「お寺」 という意味ですと、ガイドさんが説明してくれました。 その憧れの地に今回初めて行きます。

サイゴン⇒プノンペン市内へ

1月2日の朝4時に、バイク・タクシーのおじさんに頼んで、集合場所の 12区まで向いました。当日の朝早くにバイク・タクシーの人に頼んでも、果たしてそんなに早い時間に仕事をしているかどうか不安でしたので、前日に頼みました。50歳くらいのおじさんでした。

集合場所の 12区までは、私が住んでいる所から約15kmあります。それで、事前にそのおじさんに「幾らで行ってくれる?」と聞きますと「20万ドン(約千円)でいいよ。」と言いました。「OK!それで頼むよ。」と言いますと、ニコッとした顔をして、「それじゃ、明日の朝4時にここで会おうね」と言いました。なにぶんにも朝早い時間帯なので、(彼にもずいぶん迷惑だろうな・・・)と思い、敢えてその金額から「値切り」もしませんでした。

そして当日の朝私がそこに向かいますと、すでに彼はその約束の場所に来ていて、バイクの上に体を横たえて寝ていました。私が起こすと、すぐにパッと飛び起きました。彼のバイクの後ろに乗って 12区まで向いました。辺りは薄暗い感じです。お日様はまだ出ていません。

40分ほどで集合場所に着きました。約束通り20万ドンを払い、さらに別途「これで朝ご飯でも食べて。」と言って、2万ドン(約百円)を渡しますと、彼はニコ〜ッとした顔をして「有難う!」と言ってくれました。日本円にしたら僅かな金額でしかないのですが、そういう顔をされると、こちらも嬉しくなります。

バスは予定通り、5時過ぎに 12区を出ました。ここからプノンペン市内までは約230kmあります。この時間もまだ外は薄暗く、バイクや車も少ないので渋滞もなく、6時過ぎには 「 Tay Ninh( タイ ニン ) 省 Trang Bang( チャーン バン ) 郡」 に着きました。ここで、 朝食を摂るためにバスから全員が降ります。ここの名物が、 「 Banh Canh ( バイン カイン ) 」 という、タピオカで出来た麺。

そして、7時 15 分にベトナム側国境の Moc Bai( モク バイ ) の通関に到着。昨年もそうでしたが、ここでの検査は実にゆるく、手荷物検査も無く、パスポートも私の場合はパラパラと二ページほどめくって「ホラ!」と返してくれました。

そして、次にカンボジア側国境の Bavet( バヴェット ) の通関の建物まで行きました。ここはベトナムよりも厳しく、一人一人の指紋認証があり、小型カメラで写真も撮られました。でもパスポートは返してくれず、結果としてはパスポート無しで、そのままカンボジアに 入ることになりました。

(パスポートはいつ返してくれるの?)とベトナム人の男性ガイドに聞きますと、「カンボジアの旅行が終わって、ベトナムに戻って来るまで、この通関で預かっています。」と言うではありませんか。ということは、プノンペン市内に宿泊する時も、シェム リアップに泊まる時も、全員がパスポートは無い状態です。(大丈夫だろうか・・・?)と不安になりましたが、(みんなが同じ条件だからいいのだろうな。)と、彼の言葉を信じるしかありません。

そこを出て、途中でトイレ休憩を一度入れて、 10時を少し過ぎた頃バスはフェリー乗り場に着きました。 「 NEAK LOEUNG FERRY」 という名前です。昨年バイクで来た時は、一旦バイクを停めて、このフェリー乗り場近くでいろいろなものを売っているのを覗くことが出来ました。

昨年ここでは、コオロギのから揚げ、タガメを油で炒めたもの、さらには亀さんの丸焼きまでがありました。しかし、今回はみんなバスから降りる必要はなく、バスの中に座って対岸まで渡りましたので、ここでそういうものを売っていること自体を、誰も知りません。

しかも、バスは大型バスなので窓も開かず、物売りが売りつけに来ることもありません。後で私が、「あのフェリー乗り場の売店では、 コ オロギやタガメや亀さんの丸焼きを売っていましたよ。」と言いますと、みんなが驚いていました。

フェリーが対岸に着いて、そこからちょうど一時間ほどしてバスはプノンペン市内に入りました。時間は 11時を過ぎた頃でした。そこからバスは直接昼食のために、レストランに直行しました。着いた所は室内の中にあるレストランでしたが、出て来た料理は 「中華料理」 でした。美味しかったですね。

しかし、この最初の「中華料理」以来、カンボジアに来て我々が食べた料理の種類は、この初日の「中華料理」と 「ベトナム料理」 の二種類 だけでした。ついに、 「カンボジア料理」 を味わうことは出来ませんでした。ガイドにそのことを最終日に言いますと、「カンボジア料理には、皆さん方が美味しいと思う料理のメニューが少ないのです。」と言う答えでした。まあ、確かにベトナムにも「カンボジア料理」専門のレストランがあると言うのは聞いていませんが・・・。

そう言えば昨年「コッシー君」とカンボジアに行った時も、朝も昼も夜も純粋な「カンボジア料理屋」に行くことはありませんでした。朝は喫茶店でパンやコーヒーで済まし、昼はバイクの移動だけで終わりほとんど何も食べず、夜は「中華料理屋」で「麻婆豆腐」や「餃子」を食べていました。ですから、カンボジアに行って、「これは美味い!!」という「カンボジア料理」自体に、残念ながらまだ出会っていないのです。

そこでの昼食後に我々はホテルに着き、少し休憩を取り、三時過ぎにホテルを出て、プノンペン市内の 『王宮』 見学に行きました。ここは昨年も訪れましたが、その時は『王宮』の半分近くが工事中でした。しかし、今年はその全てを見ることが出来ました。そして昨年は見逃した <期待の花> を見ることが出来ました。その<期待の花>とは・・・ 「沙羅の花」

『祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらわす。 おごれる人も久しからず』・・・・ ≪ 平家物語 ≫

この ≪ 平家物語 ≫ に出て来る、「沙羅双樹の花」をついに 自分の眼で 見ることが出来ました。あの古典の中に出て来る「沙羅双樹の花」が、実在していた花だったとは!! 大樹の幹から多くの枝が芽を出していて、その枝の先からは赤い椿のような花が咲いていたのでした。これが「沙羅の花」でした。

その大樹に打ち付けてあった名札には 「 Shorea 」 とローマ字で表記がしてありました。これが漢字名での「沙羅」になったのでしょうか。非常に神秘的な感じがします。後でベトナム人に聞きましたら、ベトナム語では 、 「 Bong Sala 」 と言うそうで、「 Bong =花」 「 Sala =サラ=沙羅」ですから、やはり同じ語源から来た言葉なのでしょう。

実は、昨年この『王宮』見学に行った時には、その花の存在には気付かないでいました。その数日後に、私の友人で、 IT会社の社長でもあるKRさんが、同じく「王宮」に行かれて、「こういう花がありましたよ。」と言って、私に一枚の写真を見せてくれました。

後でいろいろ調べましたら、その写真が、 「沙羅の花」 なのでした。「沙羅の花」自体は赤い色をしています。よくよく記憶をたどると、ベトナムでもその花は見たことがありました。南方ではあまり珍しくはない花なのかもしれません。

「王宮」での見学を終えて次に、5時に小高い丘の上に<卒塔婆>がある「ワット・プノン」 に到着。小高い丘の斜面に 「花時計」 があります。昨年もここには来ましたが、その時には辺りが薄暗くなって来たので、丘の上には登らないで、外から眺めただけでしたが、今回は丘の上に登り、そこにある建物の中にも入りました。金色の仏像が輝いていました。

そこで見学を終えると、ガイドが土産物屋さんに案内しましたが、そこは「宝石屋」。聞けば、カンボジアはヒスイなどの宝石の産地で、赤や紫や緑色をした様々なヒスイが、指輪やネックレスに加工されて売られていました。ヒスイの採取のビデオまで見せられましたが、値段が高すぎて、結局ヒスイを買った人は誰もいないようでした。

そして次に夕食会場のレストランに到着。そのレストランの名前を良く見ると、何とサイゴンにあるレストランと同じ名前でした。サイゴンのレストランがプノンペンに店を出していました。そこで働いていた人たちもベトナム語を話していましたので、サイゴンから派遣されて来ているのでしょう。結局、この日の夜もカンボジアの料理を食べることはありませんでした。

そしてその後は全員で、プノンペン市内の有名なカジノ <NAGA CASINO>に行きました。そのカジノは < NAGA WORLD HOTEL >内にあります。<NAGA(ナーガ)>というのは、 <蛇神>という意味があるそうですが、 驚きました。その中の広さ、作りの派手さ、人の多さにです。中では、多くの人たちがカジノに興じていました。

私達の同僚はただ眺めているだけでしたが、同僚の S先生がブラック・ジャックに挑戦し、わずか15分ほどで元手の十倍ほど勝ちました。ホテルに着いたその夜は、S先生が隣の店でみんなのビール代を奮発してくれました。翌日の予定は、ガイドの話では午前中が市内観光。そして午後から、いよいよ<アンコール ワット>訪問のために、シェムリアップに向けて旅立ちます。

● プノンペン市内 ⇒ シェム リアップ へ ●

1月3日朝8時、市内の中心部にある大きな像の前にバスが着きました。その像とは、数ヶ月前に建立されたばかりの 「シハヌーク前国王」 の像でした。その像の後ろには 『独立記念塔』 が建っています。「シハヌーク前国王」の生年と没年が、 [31 October 1922― 15 October 2012] と大理石に刻まれていました。

そこの見学を終えて、「 CENTRAL MARKET」へ。ここは1937年に建てられたそうですが、花、日用品、生鮮食料品、貴金属類、土産物など、ありとあらゆる種類のものが売られています。ガイドが「ここにある土産物は シェムリアップ にもありますが、同じものでもここのほうが安いので、もし気に入つた物があればここで買っておいたほうがいいですよ。」と言うので、みんなこぞって買っていました。私も買いました。

そしてちょうどお昼の 12 時にプノンペン市内を出て、 シェム リアップに向いました。シェム リアップまでは約 314kmの道のりです。 プノンペン市内から シェム リアップに行くには、まず「国道5号線」を北上して走り、 Oudong(ウドン) という場所の少し手前で右に折れ、「国道6号線」に入って北西方向に向かって行きます。

しかし、 プノンペン市内 を出てしばらくすると、赤いラテライト色をした道路は、対向車が走って来た後にもうもうたるホコリが舞っています。先が見えないほどです。聞けば、道路を拡張するために、今工事中とのことで、しばらくはこの状態が続くだろうと。道路の拡張工事を請け負っているのは、中国だそうでした。

沿道の景色は、川沿いに高床式の家がずーっと続いています。そして 2時過ぎに、休憩のためにバスは一旦停まりました。着いた所には休憩所があり、喫茶店や売店がありました。ヨーロッパ系の人たちも多く休んでいました。物売りの人たちも大勢いましたが、いろいろな物を売っていました。 ここの名前は 「昆虫市場」 という名前だそうで、その名前の通りいろんな昆虫が油で炒めたり、揚げられたりしていました。

驚いたのは、クモを唐揚げにしたのがありました。大きいタガメもありました。虫の幼虫もありました。こういう場所で、ああいう物を売っているというのは、特別な「ゲテモノ」でもないのでしょう。私は (バスの中で腹の調子がおかしくなってはイカンな・・・)と思い買いませんでしたが、今回一緒に家族で参加していたL社長は、その全ての種類を少量ずつ買っていました。

プノンペン市内からシェム リアップまでの沿道をバスでずっと走りながら、私は窓の外の景色をじーっと眺めていました。カンボジアの田舎の農村の、日常の景色が続いています。家の庭先にうず高く積まれたワラの山。子どもたちが集団で、畑やたんぼで戯れている姿。池の中で行水していた子どもたちと水牛の姿。家路に向うアヒルたちの群れ・・・。

5時を過ぎた頃から、だんだんと辺りが薄暗くなって来ました。ポツリポツリと家の中に電気が点ってゆきます。それらを眺めてゆくうちに <強烈な懐かしさ> を覚えてきました。私の子どものころの田舎の風景や光景と重なってきました。田舎の光景というのは、世界中どこでも同じように、昔から変わらぬ姿があるのでしょう。

そして7時半頃、バスは シェム リアップに到着。途中の休憩も入れて、プノンペン市内から7時間半かかりました。夕食後は < Night Market> に行きました。買い物をする人たちは< Night Market>に行きましたが、私はS先生の案内で、その近くにある 「PUB STREET」 という飲み屋街に行きました。S先生は数回ここにも来たそうで、良く知っています。

いや〜、驚きました。その 「 PUB STREET」の活気にです。多国籍の人たちが通りを歩いていました。音楽の演奏もやっていました。多くの人たちが、歩道に設営されたテーブルで食べて、飲んでいました。通りはイルミネーションで飾られていて、キラキラとした光が渦巻いていました。

サイゴン市内にも De Tham(データム)通り という、外国人がよくたむろして、ビールを飲んでいる通りがあります。以前、あの「 Cai Beでバナナを栽培していたYさん」とそこで飲んでいた時、「こういうふうに多国籍の人たちが毎日のように集まっている通りは、あまり無いでしょうね〜」と話したことがありますが、何とこの シェムリアップにあったのでした。しかも、この通りのほうが道幅も広く、きれいで、賑やかで、活性がありました。

そこで S先生と二人でAngkor ビールを飲みながら、明日の予定を話しました。S先生は前回「アンコール ワット」に来た時、 <気球> に乗って「アンコール ワット」に昇る朝陽を見るツアーがあることを知り、それに挑戦しようとされました。

それに乗れば、 「アンコール ワット」の遺跡全体を、上空から俯瞰図のように眺めることが可能というのです。しかし、 あいにくその日は風が強すぎて、<気球>が中止となり、「残念でした。今回それに挑戦したい!」と話されました。私も同じく、それに挑戦したいと思いました。

それで今回ガイドに頼んで、それが可能かどうか調べてくれと、プノンペンにいる時から話していました。しかし、ガイドが調べたところ、「どうも気球が壊れていて、飛ばないらしい・・・」という情報が入りました。「でも結局は、現地に行って直接確認しないと、はっきりしない。」というので、ここで「もし気球が飛んだら・・・」「もし気球が飛ばなかったら・・・」の2つのケースの場合、翌朝何時にホテルを出ればいいかについて、二人で計画を練りました。

すると私たちのすぐ隣りの席に、若い白人のカップルが座っていました。 S先生はベトナムに来る前はハワイに住んでいましたので、英語は堪能です。聞けば、二人はもうすぐ結婚するそうで、その前にカンボジアに旅行に来たということでした。男性はニュージーランド出身。女性はカナダ。男性は日本にも何度か来たそうで、大変日本が気に入っていると話していました。

夜の街で国籍は違えど、四人で乾杯をしてそこを去りました。明日がいよいよ念願の「アンコール ワット」見物です。<気球>が飛ぶことを念じて、眠りにつきました。

● 「アンコール ワット」 へ ●

1月4日朝、<気球>で朝陽を見る・・・という計画のために、朝4時に起きて準備しました。ホテルのフロントに聞いても、<気球>に乗れるか、乗れないのか、の結論が要領を得ません。それで、 S先生と話した結論は、「トゥクトゥクに乗って、直接現地に行ってみましょう!」ということでした。

まだ辺りは真っ暗い中、 5時に二人で「トゥクトゥクに乗ってホテルを出ました。片道が一人五ドルです。しばらく行くと、 「アンコール ワット」見物客のための切符売り場のような場所があり、多くの人たちがそこにすでに来ていました。「アンコール ワット」で直接日の出を眺めたい人たちは、ここで入場料を払わないといけません。入場料は三つのコースがありました。一日コース、これは 20ドル。三日間コース、これは40ドル。一週間コース、これは60ドル。

私たちは「アンコール ワット」で日の出を見るのではなく、<気球>コースですので、それは払う必要は無く、そのままゲートを越えることが出来ました。この切符売り場の区域の中に、その<気球>の看板と地図がありました。

そこから トゥクトゥクに乗って十分ほどして、運転手が向こうから来た男性に「今から気球に乗ることが可能か?」について聞いているようでした。彼が言うには「ダメだ」ということでした。残念でした。<気球>に乗って朝陽を見る計画は、今回は実現しませんでした。しかしホテルに着いて、運転手は帰りの片道もまた一人五ドルを要求してきて、ただ行って帰っての往復で 20ドルの収入を朝飯前に稼いだのでした。

私たち二人は<気球>には乗れなかったので、みんなと同じように朝食をホテルで摂り、7時にホテルを出て、 「アンコール ワット」見物に向かいました。ちょうど 8時に「アンコール ワット」に着きました。「アンコール ワット」の正面から対面するのではなく、お濠の周囲をぐるりと回りながら建物群に近付いてゆきます。

そして、こんもりした森が切れた時、「アンコール ワット」の雄大な光景が表れてきました。朝陽に映えて、徐々にその姿が鮮明になってきました。すでに昇った朝陽を背景にした「アンコール ワット」が静かにたたずんでいました。カメラを向けると逆光になり、その姿は薄暗く写ってしまいました。しかし、この時にはすでに多くの観光客が来ていました。

バスから全員降りて、「アンコール ワット」の正面から歩いて行きます。「アンコール ワット」の正面の全景が、パノラマのように現れて来ました。正面から見た「アンコール ワット」の姿は、やはり雄大、壮麗でした。

 (これがアンコール ワットか〜・・・)

今まで写真や、絵葉書や絵で見てきた「アンコール ワット」の実物が眼の前にあります。視界に収まりきれないほどの壮大な建築です。以前、私の知人の建築家の TS さんが、私に言った言葉を思い起こしました。

T Sさんは一年ほど前に <アンコール・ワット>に行き ましたが、 その雄大、壮麗な寺院の遺跡を見て、 (どういう設計図を基に、どのような構想でこのような建物を建てたのか?) と 、同じ建築家としての立場で見て、その凄さ、素晴らしさに唸らざるを得なかったと言います。

<アンコール・ワット>は 1113年から約30年の歳月をかけて、 スールヤヴァルマン2世 によって建設された石造寺院だそうですが、今から900年もの前にこのようなすごい建築物を創り上げたその労力の大変さ、完成までにこぎつけた精神力には誰もが感動することでしょう。

私たちは砂岩で出来たという、長い石の参道を歩いてその中に入ってゆきました。石で出来た参道は、石の組み合わせが外れて、崩れているところもありました。その修復作業には、日本の 「上智大学」 が協力をしているそうで、その活動内容が写真と、日本語の説明付で、参道に掲示してありました。

別の場所で、カンボジア人のガイドさんが日本人の観光客に日本語で話していたのを横で聞いてました。彼は次のようなことを話していました。 「遺跡のある場所は、昔湿地帯であった所に建てられているものもあります。そういう遺跡は、長い年月の間に沈下してゆき、石を組み合わせていた箇所が崩れ落ちてゆくのです」 と 。

ここには遺跡の上に通じる階段があり、多くの人たちがそこを登っていました。もともとあった石の階段の上に、さらに手すりの付いた階段がありました。しかし、その新しい階段でも恐ろしいほど急で、高所恐怖症の人は足がすくんで、動けないような急勾配の階段でした。

ST校長は十年前にここに来たそうで、その時には石の階段しかなかったということでした。「階段から落ちて、死亡事故が起きてから、今の手すり付きの階段が出来たようです。」と話していました。(さもありなん)と思いました。女性などは前を向いて降りると怖いからか、後ろ向きで降りている人もいました。

私は壁を見ては立ち止まり、そこに彫られている 「デバター」 と呼ばれる彫刻を見てゆきました。ここの 「回廊」 と呼ばれる、壁に彫られた彫刻の見事さには感動します。しかし、 <アンコール・ワット>のいろんな箇所を回りながら、私には素朴な疑問が起きずにはおれませんでした。 (今から 150年前に、フランス人がこの遺跡を発見するまで、どうして人に知られないまま、密林の中に埋もれていたのだろうか・・・)

その事を L社長に質問しますと、「アンコール ワットが出来た後、この辺り一帯にはライ病が広がり、それを恐れた住民たちが、この地帯から外に逃げ出してゆき、だんだんと、自然とこの遺跡の存在が忘れられていった、と聞きました。」と答えたのでした。それが事実なのかどうか、彼は誰から聞いた話なのか、今はまだ謎に包まれたままです。

そして、「アンコール ワット」見物の後、 10時に 「アンコール・トム」に着きました。 「 アンコール・トム」もまた、 「アンコール ワット」とならんで有名な遺跡です。 「 アンコール・トム」はクメール王国最盛期の、 12世紀末から13世紀初めにかけて ジャヤヴァルマン七世 が築いた城だといいます。一辺が3kmもある方形の都市で、ここも周囲を濠に囲まれています。

巨大な 「観世音菩薩」 の像が、前後左右から我々に微笑んでいます。その「観世音菩薩」の像は一枚岩を彫り上げたのではなく、一つ・一つ顔の細部を彫ったのを、最後に組み合わせて完成しています。これまた精緻な造形と言えるでしょう。床も壁も窓も屋根も、すべてが石で組み立てられた建物があります。

そして階段を登ってはそこから見える光景を眺めているうちに、気が付いた時には同僚のグループから離れてしまい、回りには知った人が誰もいなくなりました。 <アンコール・トム>の遺跡を出た向こう側で待ち合わせることになっていたので、置いてきぼりを食うことはないのですが、心配した L社長と、ST校長がトゥクトゥクに乗って迎えに来てくれました。みんなに迷惑を掛けてしまいました。

しかし、「 アンコール・トム」は駆け足で回ったような感じで、あまり見る時間がありませんでした。そこを出て次に、 「Ta Prohm(タ プローム)」 に行きました。 11時に着きました。ここには誰しもが圧倒される自然の造形物があります。大樹が遺跡を覆っているのです。

遺跡の割れ目や隙間に根を食い込ませて、徐々に根を張り、大きく育って、遺跡の上に覆い被さるようにして成長した、巨大な 「ガジュマルの木」 が聳えています。そしてここを訪れた人たちに、敢えて大自然の凄さを知ってもらうためにでしょうか、そのような大木にも手を付けず、崩落して地面に落ちた無数の石もそのままにしてありました。さらには、ここの遺跡の壁には無数の穴が空いていました。以前そこにはヒスイが埋め込まれていましたが、戦乱が続いた時に持ち去られたという話でした。

しかし、この日の午前中だけで「アンコール ワット」遺跡群のうちの、大きな三遺跡を見て回りましたが、(時間が足りないなー)という感を深くしました。 「 アンコール・ワット」の遺跡群は、やはりじっくりと時間を掛けてみないと、後で(ああぁー、あそこは見なかったなー)と、見逃してしまうところが多いと思います。

そこを出て、 12時に昼食を摂りましたが、また「ベトナム料理」のレストランでした。午後は 「トンレサップ湖」 まで行くグループと、ホテルで休憩するグループに分かれました。「トンレ サップ湖」は東南アジア最大の湖だといわれています。

その「トンレサップ湖」には、ベトナム人の貧しい小学生たちに、ボランティアで授業を行っている 【船上の小学校】 があり、その支援活動に出かけて行くことになりました。参加費用は、一人が 20ドル。

全員で 20人が参加しました。L社長も家族で参加しました。途中で生徒に進呈するために店に立ち寄り、インスタント・ラーメンやお菓子を購入していました。道々、L社長がいろいろ説明してくれます。

「トンレ サップ湖はベトナム語では <Bien Ho(海の湖)> また、 <Ho nuoc Ngot(甘い水の湖) > とも言います。海を見たことが無いカンボジアの人たちは、この湖を海だと思ったようです。カンボジアの国土の20%を、このトンレサップ湖が占めています。この水はメコン川に流れてゆきます。」

「カンボジアの人口は約 1500万人。その中350万人がトンレ サップ湖の周りに住んでいるといいます。ベトナム戦争当時に戦火から逃れて来た人たちも、この湖の周辺に住み着きました。そして、当然家族を持ち、子どもも産まれました。しかし、彼らは船上生活で貧しいので、小学校に上がる年齢になっても、学校に行くことが出来ませんでした。」

「そこで、ベトナム人の有志の先生たちがボランティアで、生徒たちに教えるようになりました。それが今から行く【船上の小学校】です。その学校はカンボジア政府からの認可も受けていますので、公に生徒たちにベトナムの公立の小学校教育と変わらないレベルの教育を行っているそうです。」

2時半にバスはトンレサップ湖の岸に着きました。地名は 「Phom Trom」 という名前だそうです。そこから全員が中型のボートに乗り換えて【船上小学校】に向かいました。ボートに乗り、その上からトンレサップ湖を見て、その広さに驚きました。確かに、まるで海のようでした。

そして、 30分ほどで目指す【船上小学校】が見えてきました。わりと短い時間で着きました。生徒たちが、大きな船の上に作られている教室のほうに駆け寄って、ボートに乗って近付いて来た我々を歓迎してくれます。先生たちも、直立不動の姿勢で我々を迎えてくれました。船の横に書かれた看板には、「貧しい生徒たちに教育を施す、ボランティア教育センター」という意味がベトナム語で書かれています。

教室の中いっぱいに生徒たちが座りました。そして、前に座った生徒たちが楽器を弾き、他の生徒たちが歓迎の歌を歌ってくれました。確かにベトナムの子どもたちでした。みんなベトナム語で話しています。壁に掲示してある印刷物も、すべてベトナム語です。しかし、【船上の小学校】の子どもたちといっても、子どもたちはやはり元気です。明るいです。

ここの責任者らしき先生から感謝の挨拶があり、その後 L社長が生徒たちに励ましの言葉を贈りました。そしてここに持ち込んだインスタント・ラーメンやお菓子を配りました。私たちが生徒たちと交流している時にも、他の団体さんも支援活動に来ていました。白人の人たちもいました。そういう姿を見ると、この学校のことはわりと観光客にも知られているのでしょう。

責任者の先生に、私や L社長が質問しました。その方が言われるには「この小学校には今314人の小学生がいて、6人の先生たちが授業をしている。授業は月曜日から土曜日まで行っている。日曜日は原則として休みなのだが、ここに来ればご飯を提供してもらえるので、日曜も生徒たちが遊びに来ることがある。」と。

「先生たちはどこから来て、どうやって生活しているのですか」と私が L社長に聞くと、責任者の方はカンボジア国境の、あの 「 Tay Ninh省」出身で、一年に一度だけベトナムに戻るということでした。そして、いろんな団体からの支援金の中から、生活費を充てているそうです。

そこには 45分間ほどいて、シェム リアップ市内にまた戻ることにしました。途中の景色を見ると、今までは高床式の家が多かったのに、平たい土地の上に普通の建て方をした家が多くなりました。

ガイドさんにそのことを聞くと、「お金持ちは高床式の家を建てます。理由は、涼しいし、清潔だし、家の下で家畜を飼ったり、倉庫に利用出来るから。」しかし、今まで来る途中で見た高床式の家はどう見ても貧しい家の造りが多かったのですが・・・。

そのことを L社長に話すと、「高床式の家を建てるには、多くの柱を使わないといけないので、そのぶん出費がよけいにかさみます。それで、ガイドは<高床式の家はお金持ちが好んで建てる。>という言い方をしたのでしょう。」と答えましたが、どうも分ったようで、分からない説明です。

シェム リアップ市内に戻り、全員でこれが最後のシェム リアップ観光となる 「Phnom Bakheng(プノン バケン)山」 に行きました。「 Phnom Bakheng山」は高さ60mあり、自然の丘陵を利用して、その頂上を切り開き、石造りの寺院があります。

ここにガイドさんが連れて行った目的は、頂上から「アンコール ワット」の遺跡群を一望の下に見下ろせることと、この頂上からその遺跡群に沈む夕陽を眺めるには絶好の場所・地形だからだったようです。

(・・・だったようです。) というのは、実は私は S先生と急勾配の山道を「ハー・ハー」言いながら、話しながら登り、途中で一休みしたりしているうちに、先頭集団から少し遅れてしまいました。そして、夕陽を見るためにすでに頂上にずらーっと並んでいる人たちや、遺跡の上や壁に張り付いている人たちの姿が面白く、それをS先生と眺め、写真を撮ってから頂上に登るゲートに着きました。

するとそこにいた女性の係員が、 「閉門時間の5時半を過ぎたので、もう今日は入れない。」 と言うではありませんか。私たちは「ええーっ!」と驚きました。私たち二人がそこに着いたのは5時45分頃でした。しかし、規則は規則です。残念ながら、頂上に登るのは断念しました。

さらには、ちょうどこの時私のカメラは 「電池切れです!」 のマークが付き、夕陽が沈む光景も撮ることが出来ませんでした。これまた二つ目の 「残念」 です。それで、この 「Phnom Bakheng山」から見た夕陽が沈む光景は、後でS先生から頂きました。明日は朝早くから、サイゴンに向けてバスでシェム リアップ市内を発ちます。

● シェム リアップ ⇒ サイゴン へ ●

1月5日、朝7時 15分に シェム リアップのホテルを出ました。サイゴンまでは 「479km」 あるとガイドさんが言いました。途中休憩を入れて、夕方6時から7時までの間にサイゴンには着くだろうと、彼は言いました。

ちょうど一時間後に、バスはある大きな、古い橋の前で停まりました。その橋の古びた姿、実に頑丈な造り、均整のとれた姿に眼を奪われました。橋の入り口の欄干部分には、 < NAGA(蛇神>が彫られています。この橋の名前は、ベトナム語では 「CAU NGAN NAM」 。日本語に訳せば 「千年橋」 となります。 完成したのが 1187年 といいますから、日本の 「鎌倉幕府成立」 とあまり変わらない時期です。

そして、バスは昼食を摂るために 「KOMPONG CHAM市」 という名前の街に到着。ここはプノンペン市内へ行く時には通りませんでした。地図で見ると、プノンペン市内には戻らずにサイゴンへ帰る近道になっています。ここでお昼を摂った時に、カンボジア人のガイドの Den(デーン)くんとお別れ。彼は35歳でしたが、実にいろいろな話をしてくれ、多くのことを教えてもらいました。「またカンボジアに来る時には連絡するよ!」と言って別れました。

レストランを出てすぐ近くに、日本の支援で出来たという 「 KIZUNA橋 」がありました。日本とカンボジアの国旗が、橋の近くに建てられた石碑に刻まれていました。橋の長さは 1500mもあるといいます。私たちはその橋を通って、サイゴンへと向かいました。サイゴンまで、後180kmです。

夕方4時半過ぎに、 カンボジア側の通関・ Bavetに着きました 。 この時は手荷物検査は厳しく、自分の手荷物はもちろん、カンボジアで買ったお土産などもすべて、 X線の機械に通さなければなりませんでした。ベトナム側の通関 Moc Bai を出た所では、カンボジアの通貨リエルの残りを、ベトナム・ドンに両替してくれる人もいました。

そして6時半に12区の学校に着きました。 L社長が自分の車で、市内一区のベンタン市場近くまで私を送ってくれました。そこからタクシーを拾い、事務所近くで降りて、荷物を抱えて歩いていますと、あのバイク・タクシーのおじさんがたまたま路地の入り口に座っていて、「おおーっ、無事に帰って来たか!」と抱きついてきました。

● 旅の終わりに ●

三泊四日のプノンペン、そしてシェム リアップ訪問でしたが、「アンコール ワット」訪問という、長年の夢を果たすことが出来ました。しかし、「アンコール ワット」の壮大さ、雄大さ、そこに秘められた数々の物語を十分に味わうには、やはり時間が足りませんでした。

さらには、今回いろいろ仕残したこと、実現出来なかったことがありました。

1. 普通のカンボジア料理を食べることが出来なかった。

2. 気球で日の出を見ることが出来なかった。

3. 「アンコール・ワット」に行った時間が朝早かったので逆光となり、「アンコール・ワット」の正面からの明瞭な姿を写真に写すことが出来なかった。

4. シェム リアップ最後の日に、あの丘に登った時に時間切れで、夕陽に沈む「アンコール・ワット」の全貌を眺めることが出来なかった。

5. 電池切れで、最後に記念となる「夕陽が沈む場面」を撮ることが出来なかった。

・・・・などなど、 「出来なかったこと」 がいろいろあります。その「出来なかった」ことを、いつかまた実現したいと考えています。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

Luong Dinh Cua 博士 の日本人の奥さん

ホーチミン市一区 Nguyen Dinh Chieu( グエン ディン チィウ ) 通りの、静かな小道にある一軒の家の中で、数十年前と同じような姿で、 Nakamura Nobuko さんはテレビの前に座り、 NHK で日本のニュース番組を観ているのでした。にこやかな 表情で来客 を出迎えている Nakamura Nobuko さんは、ベトナム語で一生懸命話しました。

「 2011 年の東北大震災が起きてから、 2 年間日本に戻りませんでしたが、テレビを観ていまして、日本の情報は把握出来ていました。私は 91 歳にもなったし、これからもベトナムにずっと最後まで住みます。」

「日本の国籍を持っているのに、なぜずっとベトナムに住んでいますか。」と、記者が質問した。「千人以上の人たちから、そのような質問をされました。うちの子にも質問されました。その答えは 60 年前にすでにありました。 “船は船頭に従え、女性は主人に従え” です。今なら、その答えは “ハノイから風が吹く” ですね。」と Nakamura Nobuko さんは笑いながら答えました。

≪明日は明日の風が吹く≫

1945 年 10 月第二世界戦争 が 終 わった頃 、 Nakamura Nobuko (当時 23 歳)さんは福岡県に留学していたベトナム人留学生と結婚に同意し、日本で結婚式が行われました。その当時貧乏で、嫁の結婚プレゼント一つでも買えなかったそのベトナム人留学生は、それから後、有名な農学者となりました。その人とは、教授・博士・労働英雄の称号を授けられた Luong Dinh Cua( ルン ディン クア ) 氏でした。

Nobuko さんが一番好きな諺は “明日は明日の風が吹く” でした。ベトナムの諺で言えば “雨が止めば、明るい空がきっと来る” と言うのと同じことです。楽観的な性格を持つ Nobuko さんは、「皆さんに“日本は技術が進んだ、裕福な国で、ベトナムはまだ貧乏な国です。”よく言われました。

私がこちらに来た時にまだ戦争の時代でしたので、多分生活が苦労しているだろうと皆さんは心配してくれましたが、そういうことはありませんでした。

私がいくら苦労していたと思っていても、ベトナムの農民の人達にの苦労にはとても及びませんでした。その人たちは朝一番に田んぼに出かけて行き、冷たい泥を踏んで、食事もままならなかったろうと思います。それでも、私を良く手伝ってくれたのです。幸いなことに、私の傍にはいつも主人と子供がいました。」と、 Nobuko さんは話しました。

Nobuko さんの話は Luong Dinh Cua博士の思い出とイメージでいっぱいでした。そのイメージは普通の人たちが思っている有名な教授・博士・果物や稲の研究者としての Cua 氏のイ メージとは違いました。 Nobuko さん Cua 氏に抱く イメージは、いつも楽しく、優しく、科学に夢中になり、良い社会を実現してやろうという理想を持っている主人でした。

日本人は堅苦しく、礼儀にうるさく、時々人間関係がぎこちないこともありますが、 Luong Dinh Cua青年は自分の大学の実験室に勤めている女性に紙パッケージを渡して、“これで私のシャツを作ってもらえないでしょうか。”とお願いしました。

戦争時代に食糧品を調達するのは難しいので、 Nobuko さんは家まで Cua 氏を 連れて来て、親に食食糧品の調達を手伝ってもらうようにお願いしました。その時に彼は私の親を“お父さん”“お母さん”を呼んだので、両親はびっくりしました。「その後、ベトナムに来てから、南部の人たちの習慣では、そのような親しい呼び方をよく使うということが分かりました。当時、“お母さん”と呼ばれた時、母親は喜んでいました。多分そのおかげで、母親は自分の娘とその留学生との婚約を許しました。母親は自分で買い物に行って、結婚パーティーの料理を作ってくれたのでした。」と Nobuko さんは言いました。

1945年の秋、一人だけの幸せ以外に、他からの幸せをもらってLuong Dinh Cuaさんは嬉しくて、飛び上がりたいような気持ちになりました。彼の目は輝き、花嫁に「やっとベトナムが独立したよ。ベトナムはこれから植民地ではなくなったよ。これから、私は独立したベトナムの人間だよ。」と嬉しくて言いました。

その日より、 “ハノイからの風” が若い夫婦の生活に吹いてきました。その風は若い夫婦と一緒に福岡から京都、東京にも吹き、またその風は Luong Dinh Cua氏の大学生時代から農学のドクターの資格をもらった時にも、大きい粒の米の研究に成功した時も、 Nobuko さんが二人の男の子供を授かった時にも吹いていました。

≪ハノイから日本の声≫

.Luong Dinh Cua 氏 は夢中になって「国の将来のためにより良い社会を作り、すべての人民のために今ベトナム民主共和国が頑張っているのです。」と花嫁に話していました。彼はアメリカで研究生としてのチャンスと、世界米研究協会 (IRRI) に勤めるチャンスを拒否し、抗戦するためにベトナムに帰国する道を探していました。様々な方法を試みて、 1952年に彼は家族全員をサイゴンに連れて帰りました。そして、1954年に家族全員が列車に乗って北部に行きました。

それから、 Nobuko さんは Luong Dinh Cua 氏と一緒に実験室から出て、農地で科学実験を行うことになり、初めてベトナムの農民の苦労が分かりました。 Nobuko さんは家の庭に豚、ニワトリを飼いました。

配給制度だけでは子供を育てるのに必要な物が十分足りない事が分かり、ベトナムラジオ局に勤め、日本語ニュースを読む仕事に就きました。 Nobuko さんはベトナムラジオ局の代わりに日本人の視聴者の質問に答えて、ベトナムの支援などに対しての感謝や、ベトナムの食べ物、面白い旅の情報などを紹介しました。

主人が愛する国、ベトナム。“ハノイからの風”は、いつの間にか彼女のこころに染み込みました。「ベトナムは住みやすい、気候が良い、食べ物が良い、人間が優しい、服も素晴らしいです。私が一番好きなのはアオザイで、軽くて、綺麗で、気持ちが良くて、本当に着やすいです。」と Nobuko さんは繰り返し言いました。

数十年前に Nobuko さんがアオザイを着て主人さんと一緒に撮った写真は、綺麗でベトナム女性のようでした。その写真を手に持ち、沈黙された Nobuko さんは「残念ながら、主人は 55歳の若さで亡くなってしまいました。」と言われました。

ベトナムが統一されてから、 Luong Dinh Cua 氏 は南部農業センターを設立するため、二回南部に行きました。それから、農学博士は色々な計画を立て、どうやって田舎に住めるかと検討し、田舎の農地や豊かなメコン デルタの土地に、自分の力が発揮できることを楽しんでいました。

1975 年 12 月、彼は国会の会議に 2 回目の参加をしてから、南部に出張する予定でした。移動日の二日前に 心不 全に襲われ、彼は他界しました。その日は 1975年12月28日のことでした。

≪幸せはここにある≫

Nobuko さんは自分の日記に次のように書いています。「私は彼のことを自分が一番理解していると思っていましたが、彼のお葬式を見てから、その自信が揺らぎ始めました。高級幹部の人たち、ある機関の団体、地方の団体、大学生の団体、数百人の住民たちが農林業省の門前に並んでいた場面を見て、私は彼の主人としての立場や、お父さんとしての立場を理解していましたが、彼の社会での立場は全く理解できていなかったと分かりました。」

“明日は明日の風が吹く”というのは間違いありません。他界してしまった主人の新しい面を発見してから、 Nobuko さんは子供たちと主人の故郷・ホーチミン市に引越しして住むようになりました。それから、 Nobuko さんは外務局に勤めて、ベトナムの進展と一緒に色々な困難な時期やドイ・モイの時期などを乗り越えて来ました。

Nobuko さんの 5人の子供の中で、3人がお父さんがやったのと同じ分野の農業を専攻しました。その中、ホーチミンの戦役に参加し、10年間軍隊に勤めてから、農業の仕事に就いた長男・Le Hong Vietさんは今は定年になりましたが、 Nobuko さんがあちこち移動する時には一緒になってアテンドします。お父さんの田舎・ Soc Trang省へ先祖の墓参りに行き、ハノイの優秀な農村の青年にLuong Dinh Cua賞を渡しに行ったり、お母さんと一緒に日本にサクラを見に行くなどです。

Luong Dinh Cua氏の話をしますと、 Nobuko さんは「皆さんは、もし私たちが日本にいたら、きっと金持ちになって、彼の科学の事業も成功していたのではないかと思われるでしょうか。...でも、お金や物だけでは幸せにならないと思います。

“ハノイからの風”があったので、例え日本にいても彼にとっては幸せではない。こちらに来て、彼の嫁として 30年間一緒にやってきました。私にとって最高の幸せをもらったと感じています。」と言いました。

Vietさんは「両親の生活や人生の生き方を見てから、子供としてそれはひとつの物語のような感じがして、孫の眼から見るとそれは奇跡のようで、あり得ないと感じています。それで、私たちの家族は両親をお手本にして頑張ろう!と、いつも話しています。」と言いました。

<開拓農学者 Luong Dinh Cua博士 >

農学者 Luong Dinh Cua博士は、Soc Trang省Long Phu郡Dai Ngai村で1920年に生まれました。日本で農学博士を取得した。家族全員は1954年に北部に移住しました。農林研究院、農業大学、食品研究院でいろいろな研究事業を実施し、後輩を教育しました。

彼は農業の科学事業の開拓者としても活動しました。彼は高い農業生産を上げる為、農民に畑の整備と稲を規則正しく植える方法を指導した。その地方・地方の土質や気候条件に合う米の種類、サツマイモ、ババイヤ、メロン、空心菜、種無しスイカなどを研究して成功しました。

1967年には労働英雄賞を授けられました。1995年にホーチミン賞を授与され、ました。ハノイ市、ホーチミン市、Soc Trang省などの学校、道路などにLuong Dinh Cua博士の名前が付けられました。

ホーチミン青少年中央団体は Luong Dinh Cua賞を2006年に設立しました。生産経営などの優秀な実績、技術実績、事業開発実績、環境保護実績、新農村開発実績などを持つ農村の青年にこの賞を授与します。2013年9月に8回目のLuong Dinh Cua賞をハノイで行いました。

◆ 解説 ◆

Luong Dinh Cua博士の名前は、 私の娘が通っていた小学校が同じ名前でしたので、それで知りました。しかし、昨年の春まで、どういう人なのかは全然分かりませんでした。昨年の春日本に帰国した時、福岡の 「九州国立博物館」 で、たまたま 「大ベトナム展」 が開催されていて、それを見に出かけた時 「日越交流を果たした九州に関係ある人」 というコーナーがありました。そこに Luong Dinh Cua博士の経歴が紹介されていたのでした 。その時博士の経歴を初めて知りました。

そしてその一ヶ月後、ベトナムに戻り娘の卒業式が小学校で行われました。その時、校庭に据えてあった胸像がありました。それが Cua博士 の胸像でした。その時私は (日本人女性と結婚されていた Cua博士 の子どもさんたちは今どこで、どうされているのだろうか・・・。) と思いました。しかし、確かめようがありませんでした。

それが今回、この記事で Cua博士の家族の様子までが詳しく書いてあり、大変な興味を抱き、思わぬ長文になりましたが、Cua博士の足跡が辿れる記録として載せました。さらには奥様の「中村 信子」さんが、お元気で過ごされている様子も伺えて、中村さんを知るご友人たちはこころから喜んでおられるのではないでしょうか。



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