アオザイ通信
【2013年4月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<Cai Be( カイ ベー ) 再訪 〜元日本兵 の三十八回忌〜 >

1975年3月8日 、メコンデルタの中の Cai Be( カイベー )にある小さな島で、一人の日本人が亡くなられました。サイゴンが陥落する、二ヶ月ほど前のことでした。お名前は「古川善治( ふるかわぜんじ )さん」。

古川さんは第二次大戦が終わった後も日本に帰らず、対仏独立戦争でベトミン側に立って戦い、サイゴン陥落後もそのままベトナムに残り、ベトナム人女性と結婚されて、6人の子どもさんをもうけられました。

しかし、古川さんはその生涯において、ついに祖国の土を二度と踏むことはなく、ご両親に会うことも叶わずに、メコンデルタの小さな島の中でその一生を終えられました。わずか 60 歳の短い生涯でした。古川さんはサイゴン陥落後に日本への帰国予定を準備しておられただけに、その無念さは如何ばかりだったろうか・・・と想像しています。

そして、今年がその古川さんの 『三十八回忌の法要』 になります。私もそれに参加させて頂きました。二年前の 2011 年 3 月にも 『三十六回忌の法要』 に参加しましたので、今回が二回目になります。古川さんが亡くなられたのは、 《旧暦の一月二十六日》 のことでした。今年は 3 月 7 日が、《旧暦の一月二十六日》に当たります。それで 3 月 7 日・ 8 日の一泊二日で Cai Be を訪問しました。

ちなみに、ベトナムでの毎年の法要は旧暦で行うのが普通です。実際に、古川さんの法要も毎年旧暦にもとづいて行われています。太陽暦の 3 月 8 日ではありません。このような風習は今も続いています。

今年亡くなった人の命日は、ベトナムでは太陽暦ではなく、旧暦で記憶していて、来年の 「一周忌」 も旧暦に従って行います。ベトナムの旧正月の 『テト』 も、昔ながらの旧暦のままです。結婚式の案内も、旧暦の日付が先に書いてあるのを印刷して参加者たちに渡しています。太陽暦はその後に併記して書いてあります。ベトナム人同士の場合は、それで大した問題は無いのです。

今回古川さんの 『三十八回忌の法要』 に参加したのは、 ベトナム戦争当時に Cai Be でバナナを植えておられた Y さん。 Binh Duong( ビン ユーン ) 省 にある、広大な喫茶店・ Gio va Nuoc( 風と水 ) を経営されていた SB さん。そして、私の三人です。

SB さんはこの法要のために、わざわざ日本から飛行機で飛んで来られました。二年前の『三十六回忌の法要』の時には 8 人の日本人が参加しましたが、あの時は日曜と月曜の二日間 Cai Be に滞在しました。日曜に着き、月曜日に法要がありましたので、多くの人が参加しやすかったのでしょう。

しかし、今回は 旧暦の一月二十六日に当たる 3 月7日は平日になっていて、前回参加された 「さすらいのイベント屋」 の NM さんと、 IT の会社の社長 ・ KR さんのお二人も、当初は行く予定を立てていたものの、 NM さんは急遽仕事が入り、 KR さんもどうしても仕事のやり繰りがつかず、惜しくも断念されました。

前回はレンタカーを借りて、日本人全員と Dong Nai から来られた古川さんの次女の B( ベー ) さんの家族と一緒に Cai Be に行きました。しかし、今回は日本人の参加者が少ないこともあり、 SB さんと 私はローカル・バスで行くことにしました。 Y さんは今回も一人でバイクに乗って先に Cai Be へ行き、古川さんの家でいろいろ準備しながら、私達の到着を待っていました。

ローカル・バスで Cai Be へ

朝6時に私達二人は Ben Thanh( ベン タン ) バス・ターミナルに集合し、 6 時 10 分発の市内バスに乗り、 6 時 45 分に Mien Tay( ミエン タイ ) バス・ターミナルに到着しました。バス代は一人が 5000 ドン ( 約 23 円 ) 。ここから、メコンデルタ方面に向かうローカル・バスにまた乗り換えないといけません。

しかし、 Cai Be という場所はローカル・バスの終点でも、幹線道路の通過地点でもなく、途中でバスを一旦降りてから横道に入って、その道を走り抜けてようやく到着出来る場所にあります。それで SB さんと 私のような外国人だけで行くのは分かり難いだろうと思い、 Y さんが気を利かしてくれて、その道に詳しい一人のベトナム人を案内に付けてくれました。

その人とは古川さんの三女の娘さんでした。彼女は今サイゴン市内に住んでいます。 Y さんは数日前に彼女に会いに行き、彼女にもこの法要に来てもらうことにしました。そしてその時、同じサイゴンから来る私たち二人に同行して、道案内をしてもらうことにしました。

彼女とは 7 時に Mien Tay バス・ターミナルで待ち合わせることにしました。すぐに会えました。彼女の名前は、 Xuan( スアン ) さん 。サイゴン市内で働いている社会人で、私たちに会うや、快活な笑顔で挨拶をしてくれました。これで、どこの地点でバスを降りるかは彼女が指示してくれますので、我々も安心です。

バスは 7 時半に出発。 Cai Be に行く分かれ道までの料金が、一人 10 万ドン ( 約 450 円 ) でした。バスは案外新しく、車内もキレイでした。昔のローカル・バスに乗った時のイメージとはずいぶん違いました。ペット・ボトルに入った水も、無料で配ってくれました。

Mien Tay バス・ターミナルからバスに乗って高速道路に入り、 30 分ほど走ると、メコンデルタ特有の、 「典型的な田園風景」 が現れてきました。「典型的な」というのは、バスで走る時に見える窓の外の景色が、稲刈りを終えた田んぼもあり、五分も走ればそのすぐ隣には、まだ青々とした、実が付いていない稲が風になびいているのです。

こういう光景を日本で見ることはあまりなく、一年に三回も米が獲れるメコンデルタならではの光景だろうと思います。 【稲作】 という条件では日本もベトナムも同じですが、私の子どもの頃は [ 一年に一度田植え ] をし、 [ 一年に一度稲刈り ]をしていただけに、ベトナムでの【稲作】は実に恵まれているな〜と思います。

そして My Thuan( ミー トゥァン ) と Cai Be の分かれ道に来たところでバスを降りて、そこから Cai Be のフェリー乗り場までタクシーで行こうと思いましたが、なかなかタクシーがつかまりません。それで我々はバイク・タクシーに乗って行くことにしました。一人が一台ずつのバイクに乗り、ちゃんとヘルメットも被ります。

そこからバイクに乗って走ること十五分ほどして、 Cai Be 市場に着きました。この Cai Be 市場で、 Xuan さんは Y さんから頼まれたものを買っていました。ここにはいろんな物が売られていましたが、 Xuan さんはエビと豚肉を購入しました。今回の法要に参加する人たちが食べるぶんなのでしょう。

そこでの買い物を終えて、またバイク・タクシーに乗り、約十分で Cai Be のフェリー乗り場に着きました。しかし、 Y さんから後で聞きましたら、ベトナム戦争当時このフェリー乗りまでの道路には至る所に地雷が埋めてあり、ある時には Y さんが乗ったローカル・バスの後輪が地雷を踏んで吹き飛んだこともあったそうです。

しかし今はバイク・タクシーの後ろに乗って、無事にフェリー乗り場まで着きました。ここまでのバイク・タクシー代は、一人が 25,000 ドン ( 約 114 円 ) 。そしてそこで、 9 時45分発のフェリーに乗ること十分ほどで、いよいよ対岸の Cai Be の島に渡りました。フェリー代が一人 3,000 ドン ( 約 14 円 ) 。

対岸に着くと、 Y さんが一人で待っていてくれました。 Xa Tan Phong( タン フォン 村 ) と、船着場の看板に書いてあります。そこからまたバイク・タクシーに乗り換えて、「古川さん」の家まで直行です。バイク・タクシー代が 3 万ドン。バイクが二台もすれ違えばギリギリの道幅の細い道をバイクで走って行きます。

そして、バイクに乗ること 20 分ほどで、目的地の「古川さん」の家に着きました。サイゴン市内からここまで、時間にして 4 時間半。交通費は 163,000 ドン ( 約 750 円 ) で済みました。家は二年前と同じたたずまいでしたが、二年前に家の前にあった竜眼の木が切られて、代わりにドリアンの苗木が植えられていました。

● 47 年ぶりの感動の再会 ●

今回の Cai Be での「古川さんの法要」では、 Y さんにとって実に感動的な出会いがありました。それは、 Y さんとある一人のベトナム人女性との、感動的な 『 47 年ぶりの再会』があったからです。

Y さんは 1963年 から Cai Be でバナナ園を開かれていましたが、 Y さんがバナナを栽培していた島には、普段は 20 人くらい、バナナの収穫期の多い時では約 300 人ものベトナム人が働いていたといいます。その 20 人の中の労働者のほうに、夫婦で働いていたベトナム人がいて、その夫婦には 11 歳になる一人の娘がいました。名前を [Kim Giao( キム ヤオ ) ちゃん ] と言いました。

[Kim Giao ちゃん ] はバナナ島の中に同じ年齢の子どもがいないので、はるか遠い日本からベトナム南部の田舎のバナナ島に来て、そこで暮らしている Y さんという外国人が物珍しく、 Y さんの側にいつもくっついて遊び相手になっていました。

その時 Y さんは 22 歳の若い青年でした。ですから、ちょうど二倍の年齢差がありました。そして、そのバナナ島に、 ルポライターの 『阿奈井 文彦さん』 が訪問されました。阿奈井さんは、 あの有名な作家・ 『開高 健さん』「べ平連時代」 の同僚でもあります。阿奈井さんがバナナ島を訪問されたのは、 1966 年の暮れのことでした。その島には約三ヶ月滞在されました。

そして三ヶ月のバナナ島の滞在時に、阿奈井さんは少女の [ Kim Giao ちゃん ] とも仲良くなりました。しかし、 阿奈井さんは 三ヶ月後にはその島を離れました。以来、今に至るまで会うこともなく、どこに住んでいるかも知らず、音信不通のままでした。

阿奈井さんはその バナナ島での三ヶ月間の思い出を、後に一冊の本にして出版されました。本の名前は 『アホウドリにあいにいった』 初版は 1975 年です。私はその本を Y さんから頂きました。その中に、 [Kim Giao ちゃん ] が実名で登場します。(以下原文のまま)

「島の長老はもと祈とう師だった。現在祈とう師でないのは、多分、かれの神通力がきかなくなり商売にならないからである。しかし、かれは自分では、いまでも祈とう師のつもりだった。あごひげを長くのばし、肩をはってあるく。長老だから島のものたちは、本名を言わずに「オン・サオ ( 六番目のおじさん ) 」と尊敬をこめて呼んでいたが、陰では、あまりよく言わない。

オン・サオはときどきメコン河に裸で飛びこんだ。そして、あお向けに体を浮かばせ、ゆっくりと流れていく。彼の眼は天を凝視している。島のものにとっては迷惑な話だ。若いものならまだしも、七十近い老人である。死なれたら、やはり困る。それにもの笑いの種にされたくない。

オン・サオの娘の キム が、島のものにせきたてられて、小船を出し、父親のそばにこいでいく。 キム はあまり気が進まない。それでも、河に浮かぶ父親と並ぶと、櫂をもつ手を休めて、何やら説得している。オン・サオは、あいかわらず波に体をゆだねながら天をあおいでいた。」

この中に登場する 「キム」 という娘が、当時 11 歳だった [ Kim Giao ちゃん ] です。 Y さんは日本に帰国するたびに、東京で 阿奈井さんとも会われています。昨年も会われました。その時に阿奈井さんがふと、 「そう言えば、あの時の少女・ Kim Giao は今ごろどこで、どうしているのだろうか・・・」 と、思い出したように呟かれたそうです。

それを聞いた Y さんは、 47 年もの前に [ Kim Giao ちゃん ] と遊んでいた時の思い出が蘇り、 ( あれから 50 年近くは経つが、たぶんまだ生きているのでは・・・ ) と思い、ベトナムに戻ってから Dong Nai( ドン ナーイ ) 省 に住んでいる古川さんの次女・ B さんに連絡を取り、「あの時の少女・ Kim Giao が今元気なら、どこでどうしているか知りたい。探してくれないか。」と依頼されました。

それは昨年のことでした。 B さんも [ Kim Giao ちゃん ] とは歳があまり変わらず (B さんが二歳年長 ) 、二人は最初古川さんのバナナ園で一緒に過ごし、その後 Y さんがバナナ島で仕事を始めてから、 [ Kim Giao ちゃん ] はそちらに移りました。ですから、 B さんも子どもの頃の [ Kim Giao ちゃん ] を良く知っていたからです。

Y さんからの依頼を受けた B さんはいろいろなところに連絡を取り、遂に [ Kim Giao ちゃん ] が生まれ故郷の Tien Giang( ティエン ザーン ) 省 の An Huu( アン フー ) 村 に今住んでいることを突き止めました。 B さんから突然の連絡を受けた [ Kim Giao ちゃん ] は、 (47 年も経って、今自分を探している日本人がいる・・・ ) ということを B さんから聞いて最初、 ( 信じられない・・・ ) と大いに驚き、そして感激したそうです。

その感激のあまり、一人でバスに乗り、その時住んでいたサイゴン市内の家から、わざわざ約 120 km離れた Dong Nai 省の B さんの家まで行きました。そこで B さんにも直接会い、その家に置いてあった Y さんの最近の写真も見ました。昔の風貌が残っている Y さんの写真を見て、大いに懐かしがられたといいます。

そして今回 Y さんは、「古川さんの三十八回忌」の法要にその [Kim Giao ちゃん ] を招き、そこで 『 47 年ぶりの再会』 を果たそうという計画を巡らせました。さらに、茶目っ気の多い Y さんは、 [Kim Giao ちゃん ] を大いに驚かせてやろうと思い、 Cai Be の家族たちにも言い含めて、ある [ イタズラ ] を仕掛けようと考えました。

その [ イタズラ ] とは ・・・、 Y さんは法要前日の 6 日に Cai Be に先に行き、家族の者達と打ち合わせをしておく。そして法要当日の7日に、日本人である SB さんと私が古川さんの家に着いた後の時間頃に、 [Kim Giao ちゃん ] に来てもらうようにする。

そして、 SB さんと私が家の中に座り、 [Kim Giao ちゃん ] が 古川さんの家に到着した時に、 「さあ〜、どちらが 47 年前の Y おじさんか、当ててごらん。」 と家族が質問する。その間、当の Y さんは物陰に隠れて出て行かない。そして、 [Kim Giao ちゃん ] が SB さんと私のどちらかを指差したら、すぐに飛び出して行って 「その人じゃない、私がその Y だよ!」 と驚かせてやろうという趣向でした。

その [ イタズラ ] を胸に秘めたまま、 Y さんは私たちより先に Cai Be に行かれました。 47 年後に再会する [Kim Giao ちゃん ] を驚かそうと、バイクで移動中もニヤニヤしながら、その時の対面を待ちわびていた Y さんだったことでしょう。 SB さんと私も ( さあ〜、どうなるかなー。うまく行くかな〜・・・ ) と、興味津々で前日に二人で翌日の確認をしながら話していました。

すると、夜の 9 時過ぎに Y さんから私に電話がありました。 Y さんは、「いやー、あの計画は失敗に終わりましたよー。何と、すでに本人が私よりも先に着いていたんです!」と、悔しそうに、そして笑いながら、嬉しそうに話されました。私は「ええーっ!何でまた?」と驚きました。

Y さんは「詳しいことは、明日こちらにみなさんが着いてから話します。」と言われて電話を切られました。 Y さんが電話で話していた背後から、賑やかな笑い声が聞こえてきました。それで、当日古川さんの家に着くまでは、その時の状況は分からないままでした。恐らく、 ( 予想外のハプニングが起きたのだろうな〜 ) というのは想像出来ました。

そして SB さんと私が古川さんの家に着き、手足と顔を洗い、椅子に座って一息したところで、 Y さんが [Kim Giao ちゃん ] を連れて来られて、我々に紹介されました。目の前に現れた「 Kim Giao ちゃん」は、 「 Kim Giao おばさん」 になられていました。あの時に 11 歳だった少女は、 47 年後の今は 58 歳になられて、六人の子どもさんがいると言われました。

Y さんは、 Kim Giao さんに 47 年ぶりに再会した瞬間の場面を、「いや〜、参ったよー。」と言いながら、苦笑しながら、実に嬉しそうに話されました。話は、 Y さんが古川さんの家に着いた瞬間から始まります。

朝の 11 時頃に、 Y さんが古川さんの家に無事に着き、荷物をバイクから降ろし、家の中に入りました。すると、八人ほどの女性達が翌日の法要のために、料理の準備をしていました。みんな中腰になって下を向いて、野菜を洗ったり、芋の皮をむいたり、魚のうろこを削いだり、肉を刻んだりしていました。

何も知らない Y さんは、その女性たちに、簡単な挨拶をされました。すると、その中で料理の準備をしていた古川さんの四女が Y さんに近付き、小さな声で「おじさん、実は・・・」と言って話しかけてきました。彼女は Y さんに、「実はおじさんが来る前から、すでにその Kim Giao が来ているのよ。誰だか当ててみて!」と言うではありませんか。何と、自分が [Kim Giao ちゃん ] にやろうとしていたイタズラを、反対に自分がやられる方になりました。

その四女から言われるまで、彼女が先に着くことなど何も聞いていなかった Y さんは、大いに驚きました。 Y さんが最初に立てていたイタズラを、古川さんの家にたまたま先に着いた [Kim Giao ちゃん ] を見て、 (反対におじさんを驚かしてやろう!) と、おそらく古川さんの家族たち全員で考え付いたのでしょう。

それを聞いた Y さんは、 ( あの Kim Giao がすでに来ているのか! ) と、びっくりしました。彼女と 47 年ぶりに会うこの日のために、いろいろ思案を重ねてきた Y さんには、どうにも信じられない思いでした。

しかも、そこで調理をしていた古川さんの四女が、 Y さんに、「誰が Kim Giao かを当ててみて!」とニヤニヤしながら笑って言うのでした。いわば、家族全員で Y さんに [ イタズラ ] を仕掛けていたのでした。

Y さんは、調理場の薄暗い中で中腰になって作業をしている一人・一人をじーっと見回しました。しかし、 47 年も経っています。すぐに分かるものではありません。 Y さんは [Kim Giao ちゃん ] の小さい頃を思い起こしました。 ( あの時は痩せていたから、今もそうかもしれないな・・・ ) と思い、八人ほどの女性の中から、それらしき一人に眼をやり、四女に向かい「彼女かな?」と、指差しながら言いました。

すると、その時別の場所にいた女性がやおら立ち上がり、 「 おじさんー、違う!私が Kim Giao よ!」と言って、 Y さんに抱きつこうとして駆け寄ってきました。それを見た Y さんは両手を前に出して広げ、彼女を一旦押しとどめました。

Y さんの面白いところは「そうか、お前が Kim Giao なのか!」とはならず、「ちょっと待て!」と言って、自分が持って来たリュックからファイルを取り出されたのでした。そして、その中にある昔の写真を指差し、「この中で、誰がお前のお父さんか言ってごらん。」と Kim Giao さんに聞かれました。

Yさんは Kim Giao さんが「おじさんー、私が Kim Giao よ!」と立ち上がっただけではまだ半信半疑で、落ち着いてファイルを取り出してそれを広げ、入念にも本人かどうかを確認されたのです。その時の場面の話になると、いかにも慎重な性格の Y さんらしいやり方に、後で長男の家族たちから大いに笑われたそうです。

その写真の中には、数人の従業員の中に交じって、 Kim Giao さんの少女時代と両親の写真がありました。 Kim Giao さんが迷うことなく、「これが私の父と母よ!」と指で押さえた時、 Y さんは ( 間違いない!あの時の Kim Giao だ! ) と、確信しました。

そしてその後、やおら Kim Giao さんを引き寄せ、強く抱きしめました。そして二人はこころゆくまで、静かに、溢れるような涙を流しました。周りの人たちはしばらくポカーンとして、その光景をじーっと眺めていたといいます。

後で聞いた話ですが、 Kim Giao さんは今回の Cai Be 行きに当たって、元々は 3 月7日のお昼頃に着く考えだったようです。しかし、 Y さんとの『 47 年ぶりの再会』が実現するかと思うと、夜も眠れず、一日でも、一時間でも早く Y さんに会いたい気持ちが募り、 7 日を前倒しして 6 日に行こうと決めました。

昨年に、 (Y さんとの再会が出来るかも・・・ ) とBさんからの連絡で初めて知った Kim Giao さんは、Bさんの家を訪問して以来、カレンダーをめくりながら、その日が来るのを毎日指折り数えて、再会の日を待ちわびていたと言います。その時の Kim Giao さんの気持ちは、痛いほど私も分かりました。

さらには当初、 6 日の午後くらいから行こうと考えていたのを、あまりの興奮からなのか、夜中の 2 時にはもう目が覚めてしまい、朝の4時過ぎには家を出て、結局 Y さんよりもずいぶん早く、朝の 8 時頃には古川さんの家に着いてしまいました。

Y さんは、 11 時頃に古川さんの家に着きました。 Kim Giao さんが Y さんよりも先に着いていたのは、そういう理由があるのでした。それで、当初の Y さんの『計画』は夢に終わりました。

Y さんが身振り・手振りを交えながら語るその話を聞き、 SB さんと私は実に深い感動を味わいました。しかし、まるで映画のワン・シーンを見るような何と素晴らしい、何と感動的な再会の光景だろうかと思いました。その話を Y さんの目の前で聞いた SB さんも私も、目が潤んで来ました。私たち以上に、お二人の感激は如何ばかりだったろうか・・・と思いました。

昨年東京で、 阿奈井さんがふと話された「あの時の少女・ [ Kim Giao ちゃん ] は今ごろどこで、どうしているだろうか・・・」と いう言葉がきっかけとなり、あの時の少女 [ Kim Giao ちゃん ] と Y さんの再会が、 47 年後の今 実現したわけです。

お昼から始まったこの日の法要は、 Y さんと Kim Giao さんの『 47 年ぶりの再会』が話のメインとなりました。今年も昼間から大いに食べて、飲みました。そして少し昼寝をして、夕方からまた宴会が続きました。

しかし、今年はベトナムの人たちの参加者も、二年前よりは少なかったですね。やはり、法要が平日に掛かっていたからでしょう。 Dong Nai 省の B さんのご主人も、家でヤギやニワトリやイノシシを飼っているので、どうしても来られなかったといいます。

しかし、 Y さんから当時の Cai Be の様子を聞いていますと、その時の様子が目に浮かんで来ます。 Y さんの口から、 「ベトコン」「解放区」「地雷」「砲撃」「爆弾」 ・・・などの言葉が出て来るのを、我々二人は 「歴史の語り部」 から聞くような思いで聴いていました。

当時の Cai Be が そういう状況下であっても、 Y さんは次のようにはっきりと、私達に言われました。

「日本に帰りたいとはまったく思わなかったですね〜。」

夜の宴会も、今回はあまり遅くまで飲んでいるグループもいないので、九時過ぎには終わりました。私達も十時には床に就くことにしました。家の外のベランダに、広い蚊帳を吊り、そこにみんなで雑魚寝です。外から蚊帳の中に吹く風が涼しく、深夜頃には薄い毛布を掛けないと寒いほどでした。

私は夜中の三時頃にふと目が覚めました。目を開けてふと空のほうを見やると、赤い色をした三ヶ月が浮かんでいました。蚊帳の中からその月をしばらくじーっと見ていましたが、 ( 古川さんはこの地で、毎日あの月を眺めておられたのだろうか・・・ ) と思いました。

Cai Be からサイゴンへ

ベトナムの田舎の朝は早く、五時にはみんな起き出しました。 SB さんと私は古川さんの家の周りを散歩しました。家の周りには竜眼の木が植えられて、それが実を付けています。他にも、ジャック・フルーツや Man(マン)の実やバナナなどがありました。やはり、南国は果物の宝庫ですね。

バナナといえば、昨日の宴会の時 Y さんが興味深い話をされました。 Y さんがバナナ島でバナナを栽培していた時、当然ながら毎日バナナを観察していたわけですが、 Y さんはバナナを眺めていて、ふと妙なことに気付きました。

それは一房のバナナに付いているバナナの実の本数は、多い・少ないはあっても、どれを見ても 【偶数本】 だったからです。一房に 【奇数本】 で実を付けているバナナを見つけることが出来なかったと言われるのです。その理由をベトナム人に聞いても分からず、今も謎のままだそうです。

すでに市場で売られているバナナは、商品にならないバナナの一本・一本は事前に切り取られて棄てられているので、確かめようがありませんが、自然に生えているバナナが【奇数本】だというのは面白いですね。

後で、この話を友人の KR さんにも話しましたら、彼はしばらく考えて、「人間の手足の指は【奇数本】の五本ですね。自然界には、何かそういう法則があるのかもしれませんね。」と話されました。これもまた、鋭い指摘ですね。

昨日も食べすぎ、飲みすぎたので、朝食は軽くインスタント・ラーメンを頂きました。そして我々が帰ろうとする頃、古川さんの長男の奥さんが、家のすぐ側に立っている竜眼の木にスルスルと登り、竜眼が実を付けている枝をもいで、「はい、これはお土産よ!」と言って、袋一杯の竜眼を持たせてくれました。この竜眼の外側をむくと、中が大変ジューシーで、美味しいものでした。

7 時半には、 Y さん、 Kim Giao さん、 SB さん、 Xuan さん、そして私はフェリー乗り場まで一緒にバイクで行きました。そして対岸に着いた所で、我々三人は Y さんと Kim Giao さんにお別れをしました。 Xuan さんはサイゴン市内に帰るまで、我々の案内をしてくれました。

Y さんと Kim Giao さんの二人は、これから Kim Giao さんの家がある An Huu 村に行きます。そして、その An Huu 村には、かつてバナナ島で働いていた人と、その家族たち 20 数人ほどが、 Y さんの到着を待ちわびていました。しかし当時バナナ島で働いていた人たちで、今も健在なのは数人しかいないと、 Y さんは言われました。ですから、その家族の人たちが集まっていたわけです。

『 47 年ぶりの再会』を喜んだ Kim Giao さんから、 An Huu 村に住む、かつてバナナ園で働いていた人たちに召集が掛かり、朝の 9 時過ぎには Kim Giao さんの家にみなさんが集まっているということでした。 SB さんと私が行けば、 Kim Giao さんもまた余分に料理やビールを用意しなければならず、敢えて私達は行きませんでした。

そして我々三人は来た時と同じように、帰りもローカル・バスに乗り、 10 時半頃には無事にサイゴン市内に着きました。 Cai Be の 果樹園の中で過ごした静かなひとときから、バイクの騒音でうるさいサイゴン市内にバスが入って行きました。

バスから降りたちょうどその時、 Y さんから電話がありました。「いや〜、今日は朝の 9 時から一人でビールを飲まされていますよ。」と。それを聞いた SB さんと私は、朝早くから Y さんが Kim Giao さんの実家で食べて、飲んで、酔っぱらっている光景を想像しました。

そこに集った 20 人の人たちも、 Y さんとの『 47 年ぶりの再会』に感激されたのは言うまでもないでしょう。そこでもまた、電話口の向こうから大勢の人たちの笑い声が聞こえてきました。それを聞きながら、私はしみじみと思いました。

(何と、ベトナムの人たちから愛されている人だろうか・・・)

SB さんは日本に帰った後に、私に次のようなことを連絡されてきました。 「本当に Y さんは数奇な人生を送られていますね!そんな方と友達になれて、色々な経験を味あわせて貰いました。」

実際、 【数奇】 としか言いようが無い Y さんの生き方には、私自身もそういう思いを深くしています。一人の人間の一生で、 47 年前に出会い、そして別れたまま長い間音信不通だった人と、 47 年後にお互いに元気な姿で再会を果たすというのは稀有のことでしょう。

今回の Kim Giao さんとの 『 47 年ぶりの再会』の話を Y さんから直接聞いた私たち二人に、いつまでも忘れられない感動を与えて頂きました。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

ベトナムの若者、遊びより社会貢献

週末にボランティア活動をすることが、多くの若者の選択肢となっている。

<新聞の売上を寄付金に>

ホーチミン市で、日曜朝に街頭で新聞を売る若者達の姿を見ることも珍しくなくなった。これは 「 Vong tay am」 (あたたかい手)というクラブが行なっている、チャリティーのための新聞売り活動だ。集まったお金はストリートチルドレンやお年寄りなど、生活が困難な人などを助けるチャリティー基金の資金となっている。

有意義な活動にメンバーは熱心に参加している。「商売で新聞売りをやっている人からは、商売敵に思われ脅されたり、罵られたり、人から疑わしい目で見られることもありますが、活動には深い意味があるという考えから、皆たくさん売りたいと思い、毎週日曜を楽しみにしていますよ」と財政・マーケティング大学生・フエンさんは言う。

<無料の写真撮影>

20人足らずのメンバーで構成される 「P/F(Photography Free)」 グループは、週末になるとホーチミン市の1区、3区、4区、10区などあちらこちらで撮影をして、現像した写真をプレゼントしている。

ホーチミン市美術大学のフォンさんによると、バイクタクシー運転手や行商の人など、これまで自分の写真を撮ってもらったことがない人は多い。

「自分の写真を貰った人たちの幸せそうな笑顔を見ると、自然と人生はもっと楽しくて意味があるのだと感じられるようになりました」とメンバーのタインさんは言う。

<子供たちに青空授業>

ホーチミン市技術大学のズオンさんと経済大学のトゥイさん、チャンさんのグループは、 1区9月23日公園周辺の靴磨き、新聞売りの子供達に授業をしている。

「一日中苦労している子供達を見て、この子たちが読み書きできるようになるために、教えることにしました。もう半年になります。週末の午後に、仕事を中断して私たちを待つ子供の姿がいとおしくて。だから晴れだろうと雨だろうと、忙しかろうと授業のために出かけます」とチャンさんが言った。

<ベトナムガイド .com > より

◆ 解説 ◆

毎週の日曜日の午前、私が 『日本語会話クラブ』 に参加するために、 「統一会堂」 前の公園を通りますと、多くの若者たちが集って、いろんな活動をしています。そして、「日本語会話クラブ」が行われている 「青年文化会館」 内でも、若者達が毎週のようにいろんな活動をしています。

今年のテト前にも若者達のグループが集って、みんなで何かを作成中でした。 (何をしているのかな〜・・・)と思い、近付いてみました。すると、プラスティックで出来た花や枝や葉などをキレイに切り取りながら、それらを組み合わせて、接着剤で付けながら、最後は鉢の中に入れて、きれいなテト用の花が完成しました。

花は、ピンクと黄色の二種類の色がありました。ピンクは北部のテトで飾られる桃の花を表しています。黄色は南部の Hoa Mai(ホア マーイ) という花を表しています。実にキレイに、精巧に出来上がっていました。遠くから見ると、本物の花のように見えます。 (しかし、これをどうするのだろうか・・・)と、素朴な疑問が湧きました。

それを作っていた若い人たちに、「これをどうするの?売るの?」と聞きますと、「いいえ、売るためではありません。今年のテトを迎える時に、本物のテトの花を買えない [貧しい人たち] にこれをプレゼントしたいのです。」と答えました。「えらい!素晴らしいですねー。」と私は思わず言いました。聞けば、そこに参加していたのは、全員が大学生たちでした。

日曜日に遊びにも行かず、 「青年文化会館」に 若者たちが集り、ボランティアでこういう活動をしているのです。素晴らしい社会貢献活動だと言えるでしょう。それで、この記事を読んだ時に、その光景を思い出しました。さらには、こういう活動以外にも青年たちが運河の清掃をしたり、川をキレイにしている記事が新聞に載ることがあります。

「日本語会話クラブ」自体も、責任者のTくんが 20年間もボランティアでこの活動を続けています。その継続した努力には頭が下がります。「日本語会話クラブ」に参加する日本人、ベトナム人たちも、全員がボランティアです。そして、Tくん自身は非常に明るく、謙虚な人です。

私は彼に、 15年前最初に会いましたが、その時はあまり深い付き合いはなく、5年前に「日本語会話クラブ」で再会して以来、今に至るまで親しい友人として付き合っています。毎週の日曜日には、参加者全員に配る 「今日のトピックス」 を事前にコピーして持ち込んで来ます。一年間、それは途切れることはありません。

そういう彼の活動を知っていますので、私が教えている研修生たちに、Tくんの活動を紹介しますと、みんなが (ほう〜、そうですかー。)と感心しています。私は研修生たちに、時にこういう話をします。関心のあるベトナム人の研修生たちは、熱心に聞いてくれます。

「みなさんは日本に三年間研修しにいくわけですが、平日はただ会社で働き、日曜日は寮でゴロゴロ寝たり、ぶらぶら遊んで過ごし、日本人との交流も無いままで日本での滞在が終わったら、三年後にベトナムに帰った時、 【充実した日本での日々だったなー!】 とは、おそらく思えないでしょう。」

「それで、私から一つのことをアドバイスします。日曜日に <ベトナム語教室> を開いたらどうですか。大きな外語大学は別として、日本にはほとんど、 「ベトナム語」 を教えてくれる学校はありません。でも、もしそういうクラスがあれば、習いたい日本人はきっといるはずです。公民館とかを貸してもらえますよ。そこで、日曜日の午前中に一時間半ほど、日本の人たちにベトナム語を教えてあげるのです。」

「先生はあなたたち自身。生徒は日本人の知り合いや、近所にいる日本人。授業料はタダ。難しいことを教える必要はなく、簡単な日常会話と、ベトナム語の正しい発音を教えるだけでいいのです。」

「その大きな目的は、日本人たちとの交流です。日曜日の空いた時間を、ベトナム語の勉強を通して、日本の人たちとの交流を深めるのです。そして、みなさんがベトナムに帰った後に、いつかその人たちがベトナムに来てくれて、ベトナムで再会出来る日が来ることでしょう。」

私自身は、日本に行ったベトナム人・研修生たちの中から、一人でも二人でも、そういう活動をしてくれればいいなーと希望しているのですが・・・。



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