アオザイ通信
【2013年3月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<研修生たちの日本語スピーチ・コンテスト>

サイゴンでは毎年五月に、ベトナム人による 『日本語スピーチ・コンテスト』 が開かれています。この『 スピーチ・コンテスト』は 1995 年から始まり、今年で 19 回目になります。

日本語を勉強しているベトナム人の学生たちには、自分の日本語能力を公の場で発揮・発表出来る場として、今や定着した感があります。

以前は私も運営側のボランティア・スタッフとして参加させて頂いたことがありました。しかし最近は、ちょうど私の日本帰国の時期と重なっていて、残念ながら参加出来ていません。

以前そのスピーチ・コンテストの運営側に参加させて頂いた時に、スピーチ・コンテストを実施するまでには、いかに大変な努力を皆さんたちがされているかというのも良く分かりました。

五月のスピーチ・コンテストの前には、何回も会合を開きます。スピーチ・コンテストの運営の中心に当たるのは、ベトナムで日本語を教えている日本人の先生たちなのです。しかし、普段の平日は全員が授業を抱えているので、日曜日にこの会合は開かれます。

でも皆さんは意欲的にその会合に参加されていました。その場は、 サイゴンにいる日本人教師たちの交流の場にもなっていましたし、会合が終われば「今から食事に行きましょうか!」と、みんなで連れ立って、お昼を食べに行ったりもしました。

そして当日の「日本語スピーチ・コンテスト」を五月に迎えることになるわけですが、私が参加した 2007 年度の時には、約 800 名もの観客が来てくれていました。運営に当たるスタッフたちもてんてこ舞いでしたが、嬉しかったですね。

それ以後の「日本語スピーチ・コンテスト」には私は参加出来ていませんので、 <さくら日本語学校> の友人の M 先生に、「今年はどうでしたか?」と、感想を聞いたり、しばらくして発刊される「日本語スピーチ・コンテスト」参加者の原稿が載った文集を頂くだけです。

そして、実はその「日本語スピーチ・コンテスト」を、今私が日本語を教えている研修生たちだけで行おうという企画が持ち上がり、三年前から学校の中だけで実施することになりました。

「日本語スピーチ・コンテスト」の発表者は、学校の中で日本語を学んでいる研修生たち。審査員は、そこで日本語を教えている日本人の先生とベトナム人の先生。外部からの観客や来賓はなし。しかし、学校の中には観客は大勢います。当日、スピーチをしない研修生たちです。

当日発表する十名が決まるまでには、二ヶ月ほど前から約 300 名近くいる研修生たち全員に作文を書いてもらい、その中から内容や表現の優れたものを絞り込んでゆきました。ちなみに、各クラスの担当の先生が決まっていますので、その先生たちが責任を持って自分のクラスの生徒たちの作文に目を通し、各クラスで一人から二人の発表者を選びました。

ただ研修生たちが書いた作文といっても、まだ彼らは日本語を勉強して半年になるかならないかの生徒たちがほとんどですので、文法や表現の間違いが当然ながら数多くあります。特に 「てにをは」 の使い方は、ベトナム人に限らず外国人が一番頭を悩ませるところです。

巷間には、 「てにをは辞典」 なるものまであるほどです。

日本人とっては母国語なので、「てにをは」をあまり意識しないで普段使っています。しかし、「意識しないで」使うということは、それを外国人に説明する場合困難に直面します。

例えば日本語の先生は別として、外国人から、 < 「私 日本人です。 」と 「私 日本人です。」 はどう違いますか。 と聞かれて、瞬時に答えられる日本人は少ないでしょう。

さらには、日本語はいくら多くの単語を覚え、日本語の文法の順番通りにそれらの単語を並べ替えたとしても、それだけでは文としては完成したものにはならないのです。それらの単語同士を繋ぐ「てにをは」が正しくないと、意味が通じないからです。

ですから、研修生たちが書いた日本語にも、少々表現のおかしい部分はありましたが、それを先生が正しい日本語に全部添削し直すと、研修生自身が書いた内容は最初の原稿から大きく変わりますので、極端なミス以外は研修生が書いた原文の味を損ねない範囲で先生たちも添削していました。

スピーチコンテスト当日そして迎えた 2 月 23 日(土)、今年で三回目となる 「研修生による日本語スピーチ・コンテスト」 は、朝 9 時からスタートしました。場所は建物の中ではなく、校舎内にある広い中庭で行われました。たまたまこの日は曇り空が広がり、強い陽射しも照り付けませんでした。

今回の発表者は全員で十名。男女それぞれ五名ずつでした。この日に発表する十名の中では、一番長い日本語学習歴の研修生は一年半、大体が半年くらいでした。学校の中では研修生として薄緑色の制服を着ていますが、この日発表する生徒たちは上が白のシャツ、下に黒いズボンを穿いていました。

彼ら発表者の紹介が行われている間に、私は昨年優勝した、ある男子生徒のことを思い出していました。昨年彼が発表したその内容は、大変こころ打たれる感動的なものでした。

『・・・明日起きた時、ここに住むことが出来ない。友達に会うことが出来ない・・・と思います。しかし、人生の中でここで過ごしたことを、<記念の思い出>として一緒に日本へ持って行きます。六ヶ月ここで暮らした時間が、もうすぐ無くなります。・・・先生たちとみんなに「サヨウナラ!」と言って、日本に仕事をしに行きます。学校に「ありがとう!」。先生たちにも「ありがとう!」。そして、小さい部屋にも「ありがとう!」。

・・・ありがとう ございました!・・・                  』

半年間寮で暮らし、日本語を勉強した研修生たちが、いよいよ日本に行く日が近付き、もうすぐ寮を出なければいけない境遇を述べたものですが、審査員の先生たちもシーンとして聞いていました。彼と同じように、寮を去る日がいつか来る研修生たちも、しんみりとしていました。

今回の審査員は、日本人の先生が三人、ベトナム人の先生が二人で行いました。満点は 20 点。四つの点を審査します。 『1、内容。2、発音・文法の正確さ。3、発表の仕方(表情や演技など)。4、質問への答え方』 です。

10 人の発表者が話す内容は事前に印刷されて冊子になっていましたので、誰がどんな内容を話すのは分かっています。そして、発表者は何も見ずに話さないといけません。持ち時間は、原稿の内容の量によりそれぞれ違いますが、一人が平均五分間です。そして、一人・一人の発表後には、先生からの質問もあります。上に書いたように、それも審査対象になります。

発表の前に、余興として研修生の男女二人による歌が披露されました。それから、最初の発表者の登場。最初に発表したのは、 「留学生クラス」 で勉強している Hoang( ホアン・男性 ) さんでした。題名は、 「どうして日本へ留学に行きたいですか」

二番目は、 Tien( ティエン・女性 ) さんの 「謝るという言葉」

三番目は、 Trinh( チン・女性 ) さんの 「私の田舎のテト」

四番目は、 Mai( マーイ・女性 ) さんの 「 18 歳の考え」

五番目は、 Teo ( テオ・男性 ) さんの 「旅行」

持ち時間が五分というのは短いようですが、発表する人にとっては長く感じられるのでしょう。時に話の続きを忘れてしまい、沈黙した生徒がいました。それに対して、聞いている研修生たちが、「頑張れ!」という気持ちで、拍手をして応援してあげていました。でもやはり、自分が書いた内容を全部覚え、それを淀みなく、何も見ずに上手に話すというのはすごいことだと思います。

五人の発表が終わったところで中休みに入りました。ここでアオザイを着た十人の女子の研修生たちがアトラクションとして、ベトナムの歌に合わせて踊りを披露してくれました。手にはベトナムの菅笠・ノンを持ち、優美な踊りを見せてくれました。流れていた曲名は 『 Que Huong( クエフーン ) :故郷』 です。これは、ベトナムでは有名な歌手・ Cam Ly( カム リー ) さんが良く歌っています。 Youtube は以下のアドレスです。

http://www.youtube.com/watch?v=AQW3rrE7HMA

そして 20 分ほど休憩して後半の「スピーチコンテスト」の再開です。後半も五人が発表します。

六番目は Canh( カン・男性 ) さんの、 「会社の記念」

七番目は Xuan( スアン・男性 ) さんの、「一人の特別号」

八番目は Thao( ターオ・女性 ) さんの、「私の夢」

九番目は Loan ( ロアン・女性 ) さんの、「私の先生」

十番目は Roa ( ロア・男性 ) さんの、 「私の先生」

九番目と十番目はたまたま同じ題名になりましたが、今まで習ってきた小・中学校や高校、そしてこの学校での先生たちについて話してくれました。そして、全員の発表が終わったのが 11 時頃。

それから、審査員の先生たちが採点した表を集めて、数人の先生たちが事務所に消えてゆきました。採点結果を集計して、優勝者・準優勝者・三位を決めないといけません。その間、時間が空くので、またアトラクションとして余興が披露されました。

最初の余興は、私と男子の研修生による歌。今日のこの日に余興をやる話は、当日の朝学校に来てから言われました。ベトナムでは突然、「今からみんなの前で話してくれ。」とか「今ここで歌ってくれ。」とか言われることがありますので、私も慣れています。それに、日本の歌は毎日研修生たちの前で歌っていますので、断る理由もありません。

ここで歌った曲は 『サライ』 です。段落ごとに一人ずつが歌い、最後に二人で合唱して歌いました。日本へ行くベトナム人研修生たちに思いを馳せて歌わせて頂きました。次に、 「ソーラン節」 の踊りも披露されました。これは大変上手でしたね。ずいぶん前から、ベトナム人の先生が指導していたようです。

それが終わった頃、審査の採点結果が出て、いよいよ優勝と準優勝と三位の発表です。その前に今回発表した全員に記念品が贈られました。結果の発表の前に、十人の発表者たち全員が緊張した表情をしています。でもみんな、普段の授業に加えて、「スピーチコンテスト」の準備もあり、良く頑張ってくれたと思います。

そして、審査結果を司会の先生が発表しました。三位は女性で一人、 Loan さんが選ばれました。<準優秀賞>は、七番目に発表した Xuan( スアン ) さんの、 「一人の特別号」 。さらに今年の<優秀賞>は、十番目の Roa ( ロア ) さんの、 「私の先生」でした。 Roa さんは日本語学習歴十ヶ月くらいです。 Roa さんはさすがに嬉しさを隠しきれない表情で喜んでいます。みんなも盛大な拍手で称えています。

ちょうどお昼前に、研修生たちによる今年の『日本語スピーチ・コンテスト』は終わりました。来年もまたここで学んだ日本語で、研修生たちによる『スピーチ・コンテスト』が行われる予定ですが、これも年間行事としてだんだんと定着して来ることでしょう。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

傷跡は今も癒えない

3月11日午後2時46分、日本全土で、 2011年3月11日の大地震と津波の惨禍で亡くなられた15,881名の方々と、2,668名の行方不明の方々に対して黙祷が捧げられた。あれから二年が過ぎたが、被災地の困難はまだ今も続いている・・・。

Kyodoニュースによると、地震と津波に襲われた東北地方の至る所の市や町だけではなく、東京や全国各地で追悼の記念式典が行われた。津波が実際に襲った石巻市では、津波警報が鳴らされた。

東京では国立劇場で、 天皇陛下 が地震と津波による犠牲者のために、祈りを捧げられた。 「・・・厳しい状況の中、被災地でまたそれぞれの避難の地で、気丈に困難に耐え、日々生活している被災者の姿には、常に深くこころを打たれ、この人々のことを私どもはこれからも常に見守り、この苦しみを少しでも分かち合っていくことが、大切だとの思いを新たにしています。」

「・・・今なお多くの苦難を背負う被災地に思いを寄せるとともに、被災者一人・一人の上に、一日も早く安らかな日々の戻ることを一同とともに願い、御霊への追悼の言葉と致します。」 と陛下は話された。

しかし、地震と津波に襲われた東北地方では、人々の生活は大変厳しいものがある。今現在もまだ、 315,196人の人たちが政府や民間の有志が建てた避難所での暮らしを余儀なくされている。記者の質問に対して、福島県いわき市のNPO法人で働いているIitenka Chiekoさんが「いわき市では、まだ数千人の人たちが避難所暮らしなのですよ。」とメールで答えてくれた。

朝日新聞によると、少なくとも一年の間に仮設住宅を建てる案を通過させた。そして、 2014年の末までに岩手県と宮城県と福島県に、目標とする新しい住宅の約55%完成させる計画である。政府の担当部門が言うには、最大の問題は被災者の方々に土地を買って、如何に早く 復興 住宅の建設を進めるかである。

今仮設住宅は公共の土地に広い面積で建てられており、私有地を買い上げるためには地権者と多くの協議をしないといけないので、幾多の困難に直面している。

3月11日に、 安倍首相 は震災と津波による被災者のための 『復興計画』 を促進する発表をした。「私は今回の災害に直面した日本国を、それを乗り越える能力を持った国・日本に変える決意である。」と安倍首相は強調した。

当然ながら、最大の問題として今も心配なのが、福島第一原発の「放射能」の問題である。福島第一原発の回りにある市町村は、今や棄てられた状態である。復興大臣・ 根本 匠 は「一番の困難さは、放射能に汚染された農地を除染することである。そのために、今政府は農地の質の安全を保護するために、除染の最適な方法を調べているのである。

今福島第一原発は安定している。放射能を放ってはいない。けれども、人々の心理的な不安は大変大きいものがある。NPO法人に属しているボランティア・スタッフの一人・Ueno Kyokoさんは「放射能汚染の問題の深刻さは、今や福島の人々のこころに、強迫観念のように取り付いてしまっているのです。」と、記者に知らせてくれた。

彼らは故郷にまた帰りたい気持ちはあるのだが、家族や子どもたちの健康に、放射能が与える影響を恐れているのである。

◆ 解説 ◆

こちらベトナムでも、 3 月 11 日 12 時 46 分(日本時間 2 時 46 分)に、私が教えている学校では研修生たち全員が校庭に出て、今回の大地震と津波で亡くなられた方々に一分間の黙祷を捧げました。全員が神妙な面持ちで目を瞑り、不動の姿勢で立っていました。

あの大惨事から五ヶ月後、私は 『つなみ』 という題の <被災地の子ども 80 人の作文集> を、日本からベトナムに来る知人に頼みました。ベトナムでそれを頂き、家で読んでいる時に涙を抑えることが出来ませんでした。

その 80 人の全てが、大地震と津波の被害に遭い、家族や両親や友人を亡くした小・中学生たちです。一人・一人があの日の出来事を、悪夢のような悲しみを乗り越えて、原稿用紙に向かい、一文字・一文字を刻むような思いで書いてくれたのでしょう。(以下原文のまま)

今回の津波で父方の祖父と大切な友達が行方不明になった。そしてたくさんの人達が家族を失い、家や大事な思い出のものを失った。・・・その反面。何十日も家に帰らず私達のために頑張ってくれている自衛隊の人、医療関係の人など世界各国・全国の人達に支えられて生活している。今の私にできる事は前をむいて進んでいくことだと思う。−『失ったものと得たもの』小五・ SY さん−」

仲良くしてくれた友達のお父さんが亡くなったり、本当にいっしゅんのことでたくさんの人が亡くなった。私のおばあちゃんも行方不明だけど、今までなかった、いはいが見つかったり、大切なかぎが見つかったりなど、悲しい分、いいこともあった。私はこの大震災でふつうの生活がとても幸せだということに気づいた。私は、この体験を何かにいかしていけたらいいなと思う。−『 2 時 46 分で止まった時計』小四・ MS さん−」

日本国内はもちろん、世界中の人たちが寄せた支援に対して、素直に感謝のこころを表している小五の SY さん。小四にして、 「ふつうの生活がとても幸せだということに気づいた。」 MS さん。あのような大震災を経て、我々大人も 「ふつうの生活がとても幸せだ」 ということに気づかされました。

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そして大震災の半年後に、私の知人が被災地を訪問しました。そこを訪ねた時の知人の感想は、最近の新聞に載っていた感想と全く同じでした。この記事のほうが、よりリアリティーがあるので、それを載せます。

『 東日本大震災で各国から派遣された国際支援チームの中に米国籍の医師、生原(いくはら)睦夫さん(50)の姿があった。「母国、日本の力になりたい」と語った生原さん。支援活動を通じて心を動かされたのは「日本人、東北人の我慢強さ」だった。

震災時に米国の緊急災害医療支援チームの一員として最初に訪れた宮城県東松島市の避難所。家族を亡くした若い女性看護師が何十時間も休みなしで働いていた姿が印象に残っている。

自分自身も悲しいであろう境遇の中、体調も心配だったので「大丈夫ですか」と尋ねると、女性は毅然(きぜん)とした様子で「他の人の方がもっと大変だから。嘆いている時間はないんです」と気丈に答え、被災者の世話を続けていた。

 「日本人は冷静で感情を表に出さないといわれるけど、他人への感情、思いを人一倍持っている。自分を犠牲にしてでも奉仕する」・・・

生原さんは日本人に感謝しているという。「本当に苦しいときにこそ見せた、人間の『好意』を見ることができてうれしかった。あのときの日本人の振る舞いを私は忘れない。」 −産経新聞・ 3.11 −

前の政権と違い、安倍首相は矢継ぎ早に、ふるさとを取り戻すための 「早期帰還・ 定住プラン」 を打ち出しています。安倍首相の次の言葉には、前の政権に失望していたぶん、被災地の方々には大きな励ましの言葉になったのではないでしょうか。私自身も大いに期待しています。

『復興という言葉だけを叫んでも何も変わりません。安倍内閣は現場主義を徹底し、一つ一つ実行を進めることで皆さんが実感できる復興を進めてまいります。

3月 11日は希望を生み出す日でなければなりません。「来年の3月11日にはもっと復興が進み、暮らしが良くなる」と被災地の皆さんが思えるよう な、そんな日であらねばならないと私は考えています。また、必ずそうしてまいります。そして、被災地の皆さんが希望を胸に、復興への歩みを力強く進めることが、2年前に犠牲となったたくさんの方々の気持ちにもかなうものであると信じます。』  −安倍首相・ 3.11−



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