アオザイ通信
【2012年1月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<30 年日本に住んでいた Bruce さん 〜お正月の宴会〜 >

一年ほど前にサイゴンで出会ったニュージーランド人がいます。名前は Bruce さん と言い、今年 56 歳になります。最初に彼を私に紹介して頂いたのは、我が娘の < 9歳の誕生日パーティー > に来られていた SZ さんです。

Bruce さんのアパートは、外国人バック・パッカーが多く集まる Pham Ngu Lao( ファム グー ラオ ) 通り の近くにありますので、最初はその近くのベトナム料理屋さんで会いました。背はさほど高くはなく、中肉・中背という感じの白人の男性でしたが、口元にニコニコした笑みを浮かべていました。

しかし私は SZ さんから Bruce さんを紹介されて、彼のあまりに流暢なその日本語にびっくりしました。顔はもちろん白人の顔をされているのですが、彼が話す日本語は見事なくらい完璧だったからです。それで私が、「どのくらい日本にいたのですか。」と聞きますと、何と Bruce さんは、

「約 30 年くらい日本にいました。」

と答えたのでした。「 30 年!?」、それを聞いた瞬間、私は驚くしかありませんでした。

そして私はすぐに、日本に 13 年間滞在していた < 熊本弁を話すオーストラリア人 > の、あのマイケルさんを思い出しました。しかしマイケルさんは 13 年の日本滞在でしたが、 Bruce さんは何と 30 年近くも日本にいたというのです。マイケルさんの日本滞在の約二倍になります。最初に出会ったこの時に、 Bruce さんは実に興味深い話を私にされました。

1981 年に Bruce さんはインドを経由して、日本の東京に入られました。英語の先生としての仕事が目的でした。この時 26 歳でした。日本に着いた時の印象を Bruce さんは、

( 日本という国は、何と洗練された国だろうか・・・ )

と感じたそうです。

それは “混沌としたインド” の国から来ただけに、よけいに強くそう感じたようでした。着いた瞬間に、 ( この国は好きになれそうだな。少しは腰を落ち着けて住めるかもしれない。 ) と感じたそうですが、彼自身もその時には、まさか 30 年近くも日本に住み着くだろうとは思ってもいなかったのでした。彼が 30 年近くも日本に住んだ大きな要因の一つとして、ある偉大な日本文学研究家との出会いがあります。

何と彼は、あの有名な < サイデンステッカーさん> の友人でもあったのです。 「ええーっ!」と、それを聞いてこれまた驚きました。ある日 友人に連れられて、新宿歌舞伎町の、とある居酒屋で飲んでおられたサイデンステッカーさんに初めて会われたそうです。それ以来、年齢は親子ほども違いますが、酒が好きなお二人は「よく新宿で飲んでいましたよー。」と話されました。

サイデンステッカーさんは、日本では 川端康成 『雪国』 がノーベル文学賞を受賞した時に、その翻訳の功労者として一躍有名になりましたが、川端康成氏自身がその彼への恩を強く感じられていたようで、「ノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ」と言い、実際に賞金も半分渡されたといいます。こころ温まる話ですね。

また 『源氏物語』 の英語の完全な訳も後世に残されました。『源氏物語』はすでに <アーサー・ウェイリー氏> の英訳が有ったのですが、 Bruce さんによりますと、それには物足りなさを感じておられたからだということでした。あの難解な『源氏物語』を 【出来るだけ原文に忠実に訳そう】 と心がけられたそうです。

そして遂にそれを完成されました。ですから今世界中の人たちが英文で読んでいるサイデンステッカーさんの英訳 『源氏物語』 は、【原文に忠実な翻訳】としてこれからも海外の人たちに読み継がれてゆくことでしょう。

サイデンステッカーさんは古くは平安時代の古典・ 「蜻蛉(かげろう)日記」 から、現代では川端康成、 谷崎潤一郎、永井荷風、三島由紀夫 までの文学作品を英訳し、日本文学の海外への普及と理解に多大な業績を残されましたが、 Bruce さんはその偉大な人と身近に知り合うことの出来た幸運を、その時のことを思い出したかのように、興奮した様子で私たちに話されました。

それからもサイデンステッカーさんとは歌舞伎町の居酒屋で数多く会い、お酒を飲み交わしながら、 Bruce さんはサイデンステッカーさんが語る日本の文化、日本人、日本文明論について耳を傾けていたのでした。サイデンステッカーさんは日本に深い愛情を抱いていた人でしたから、 Bruce さんも強い影響を受けたことは間違いないでしょう。時には、その日本への愛情の裏返しなのか、厳しい意見も言われたそうです。

しかしやはり、異国に暮らし始めた時には、すでに長く住んでいる先達からその国への愛情ある、深い理解のある話を聴いていますと、自然と自分もそのような考えに影響され、そういう観点から目の前の現象を理解しようと努めるようになるのだろうと思います。私にとっては、 【マングローブ・植林行動計画 ( アクトマン ) 】の浅野さん が、その先達の一人でした。

私がベトナムに来た当初、右も左も分らない時に、浅野さんは道路に掛けてあるベトナム語の看板の意味から、おばちゃんが冗談で話していることの意味などを、面倒臭がらずにいろいろ説明してくれました。そしてそれ以上に浅野さんに感銘を受けたのは、ベトナムに住んでいる、浅野さんのその姿勢、生き方でした。

彼はもちろん【マングローブ植林】という “仕事” で来ているのですが、それを “植林が趣味の世界” “植林が喜びの世界” にまで昇華させているかのような印象を受けたからです。少なくとも私と会っている時に、浅野さんが落ち込んでいたり、悩んでいるような顔付きをしていたことは一度もなく、いつもニコニコとし、飄々としているのでした。日々浅野さんから聞く説明で、私も好意的な目で目の前の現象を捉えるようになりました。

サイデンステッカーさんが Bruce さんと二人でいる時には、自分が心底から愛している <日本文化・日本人への愛情> を、滔々と Bruce さんに語られていたような印象を受けました。そうでなければ、当の日本人ですら読破している人が少ないであろう ( 私もまだ読破しきれていません ) あの大長編の 『源氏物語』を、最後まで英訳してやろうというもの凄い情熱と努力は生まれて来ないでしょう。

しかしその偉大な先達のサイデンステッカーさんとも、ある日突然の永別が訪れます。サイデンステッカーさんが階段から足を踏み外されて頭部を強打され、 2007 年の8月に亡くなられたからでした。 ( おそらく、その日も遅くまでお酒を飲まれていたのでしょうか・・・ ) とは、その悲しい報せを聞いた時の Bruce さんの推測です。

Bruce さんとはこの後一回だけお会いしましたが、以上のことまではその時に彼から聞いたことなのでした。しかし、その後彼はホーチミン市内の大学で英語を教える仕事に就くことになりました。

その仕事場も、ホーチミン市内からバスで 40 分ほどの所にある Thu Duc( トゥー ドック ) で、朝 7 時半頃には授業が始まるというのでした。それで朝早くには家を出ているであろう彼を誘うのも迷惑だろうと思い、最近までは彼に連絡するのを控えていました。

しかし 2011 年のクリスマスが近付いた頃に、 Bruce さんを知る友人が数人集まった時に、 ( そういえば最近 Bruce さんには会わないですねー。元気でいるのかなあ〜。今からでも誘ってみますか・・・ ) と彼の話題になり、私から彼の携帯に SMS でショ―ト・メッセージを送ったのでした。すると彼からすぐに来た返信内容は、ローマ字のアルファベットで次のように書かれていました。

「 Sumimasen. Saikin HIKIKOMORI ni narimasita !」

要は来れないということなのですが、最初私はこの返信を読んだ時に、 「 HIKIKOMORI 」 というのが咄嗟に理解出来ませんでした。 SMS で普通やり取りするのは簡単な時候の挨拶などが多いのですが、アルファベットで 「 HIKIKOMORI 」という単語自体を初めて目にしたからです。少し考えて、 ( あー、 「引きこもり」 のことか! ) とは、理解出来ました。

しかし、 ( 大の大人が、このベトナムで引きこもりとはどういうことだ? ) とも不思議に思い、少し心配になりました。それで私の友人である、あの IT 会社のKRさんとも相談して、 ( ではもうすぐ一月一日の正月が来るし、その日は Bruce さんもお休みでしょうから 、そこに Bruce さんを引っぱり出しましょうか。 ) と計画を巡らせました。

それで、大晦日の 31 日に Bruce さんに「明日一月一日に新年会をしようと思います。しばらく Bruce さんともお会いしていないので、ぜひ明日お会いしましょう。そして、 Happy New Year を祝いましょう!」と SMS で送りますと、

「 Wakarimashita. Ikimasu !」

と嬉しい返信が返って来ました。

そしていよいよ迎えた 2012 年のベトナムでのお正月。ベトナムでは前日の大晦日の深夜は多くの人たちが街中に繰り出していて、大変な混雑でした。特に深夜 12 時には、サイゴン河に向かって花火が打ち上げられますので、それを見ようとする大群衆が詰めかけます。

私も花火は見たい気持ちはありながら、そのいつもの混雑は予想していましたので、 Bruce さんに倣って 家で「 HIKIKOMORI 」していました。 しかし、一夜明けたこの一月一日のお正月の日は、サイゴンでは何の盛り上がりもありません。ただ一日だけのお休みという感じです。

今年は一月一日がたまたま日曜日ということもあり、ホテルや百貨店やスーパーは別として、普通の会社はどこもお休みです。私も当然休みでした。すると、 元日のちょうどお昼ころに、私の携帯に電話がかかって来ました。(正月早々に誰からだろうか・・?)と奇妙に思い、発信者を見てさらにまた不思議に思いました。

それは夏に日本からベトナムにやって来る、 『ベトナム・マングローブ子ども親善大使』 の生徒たちがカンザーを訪問した時には、夕食を摂るために必ず訪れる、あの <カンザー・レストラン> の店長からなのでした。

<カンザー・レストラン>の店長とは、私がベトナムに来て以来の付き合いになります。かれこれ 14 年以上にもなるでしょうか。しかし今まで一度たりとも直接私に電話を掛けて来たことなどなかったのです。そもそもそういう必要が無かったからですが・・・。

電話を取ると、「新年おめでとう!」の挨拶をしてくれました。そしてそれに続けて、「実は今ここに日本人がいるぞ。それであんたに電話したんだ。今代わるから。」と言うではありませんか。「あのカンザー・レストランに、日本人がどうしてまた・・・?」と奇妙に思いました。

なぜならあの<カンザー・レストラン>は、カンザーを訪れる観光客がよく行くビーチやリゾート施設からは離れた遠い場所にあり、わざわざ普通のお客さんがそこに行くことはないからです。

電話を代わった日本人は若い男性の声でした。彼も突然おじさんから携帯電話を渡された事情が飲み込めないようでしたが、お互いに名前を名乗った後に「どうしてまたそのレストランを知っているのですか。」と聞きましたら、今サイゴンでベトナム語を習っている「先生」が、実は何と<カンザー・レストラン>の店長の娘さんだというのでした。

その娘さんである「先生」が、「お正月の一月一日に私の実家のカンザーに来ませんか。私の家はレストランを開いていますが、最近結婚式場も新設したばかりで、あなたを招待したいと思います。父には日本人の友人がいて、日本人が大好きです。家族で歓迎しますから。」と誘ってくれて、彼女が運転するバイクに乗り、この日にレストランに着いたわけなのです。

しかし私はこの時初めて、おじさんにそのような娘さんがいるということを知りました。私たちが<カンザー・レストラン>を訪問した時に、家族がお客さんの席にまで顔を出すこともないからでしょう。後日彼が撮った、その結婚式場の写真を見せてもらいましたが、あのカンザーの田舎にしては、あまりの豪華さに驚きました。まるでお城のような造りであり、日本の 『玉姫殿』 を連想しました。

後にその娘さんに直接お会いした時に分かったのは、やはり私とは直接顔を合わせていないものの、浅野さんには何回も会ったことがあるということでした。彼女は小学・中学は地元の学校に進み、高校からはサイゴン市内の学校に進学したというので、私は彼女の顔を見ることはなかったのでしょう。彼女は今年 23 歳だそうです。ということは、私がカンザーを初めて訪れた時には 8 歳くらいだったはずです。

電話を代わった日本人青年は KG さんと言いましたが、私は彼と話しながら ( そうだ!彼も今日のお正月の集まりに呼ぼうか。 ) と思い、彼に「実は今日の夕方に数人で集まって新年会をしようと思っているのですが、もし今日サイゴンに帰って来られるのであれば、あなたも参加しませんか。」と誘いますと、「喜んで参加させて頂きます!」との返事でした。

そして一月一日の夕方七時に、私たちはイタリアン・レストラン 「 MARGHERITA 」 に集合しました。ここは Bruce さんのアパートから近い Pham Ngu Lao 通りにあり、 「 HIKIKOMORI 」の Bruce さんを引っぱり出すには遠い場所だと来ないかもしれないなと思い、そこを選びました。そしてそこは私の馴染みの店でもありました。

私は普段は路上の屋台のベトナム料理屋さんしか行かなくて、外国料理屋さん ( 日本料理屋さんも含めて ) で食べることはめったにありません。しかし唯一の例外がこのイタリアン・レストラン「 MARGHERITA 」なのです。ここはピザを焼く自前の釜を備えていますので、ピザが大変香ばしく、ピザを食べたい友人が来ますと必ずこの店に案内します。

毎年の夏にベトナムに来る 『ベトナム・マングローブ子ども親善大使』 の生徒さんたちも、最近はベトナム滞在中は必ず一度は連れて来ます。日本から来た彼らも、毎日朝・昼・晩とベトナム料理ばかりが続くと、段々と元気が無くなって来るからです。

それで、一週間のベトナム滞在中のちょうど真ん中頃にここに連れて来ますと、みんな元気を取り戻します。サラダやスパゲティーやピザを注文しますが、みんな「美味しいでーす!」と本当に喜んでくれます。事実ここで食べるスパゲティーやピザは大変美味しいものです。私もベトナム料理で不足しがちな、マヨネーズ和えのサラダなどをここで食べると、元気を取り戻すような感じがします。

そして、この日に集合したのは全部で 6 人。私と同僚の SK 先生が先に着き、すぐ後に KR さんが来られました。そして新顔の O くんも参加してくれました。 O くんは神戸の三ノ宮で居酒屋を開いているのですが、今個人資本の居酒屋は大手の居酒屋チェーン店の「低価格メニュー」と、コンビニの「安くて、種類が多くて、美味しい弁当」の登場で経営が苦しくなり、彼は海外に新天地を求めて、候補地の一つとして今回ベトナムにその市場調査に来たのでした。今 26 歳の若い青年です。

最初に彼と出会ったのは、青年文化会館で行っている 『日本語会話クラブ』 においてでした。そこで彼は自分がベトナムに来た目的を話してくれたのですが、「そういう事であれば、ベトナムビジネス事情に大変詳しい KR さんを紹介してあげますよ。」と言って、後日彼に KR さんを紹介してあげました。彼も KR さんの鋭い意見には、真剣に耳を傾け、メモを取りながら聴いていました。その彼も、この日のお正月の宴会には喜んで参加してくれました。

そしてやや遅れて、いよいよ Bruce さんの登場です。ひさしぶりに見た彼の表情は明るく、ニコニコしていましたので、ホッとしました。 KR さんと私以外は、 Bruce さんとは初顔合わせですので、私が先に SK 先生と O くんに Bruce さんを紹介して上げました。

「 Bruce さんは 30 年近くも日本に住んでいましたから、日本語はペラペラです。どうぞ日本語でどんどん話して下さい。」と言いますと、やはり SK 先生も O くんも驚いていました。そして最後に三十分ほど遅れて、カンザーから帰って来た KG さんが着きました。途中の道路が交通渋滞で遅くなったのでした。

私は KG さんとここで初めてお会いしましたが、彼から頂いた名刺には、 【 LOTTE ベトナム】 と書いてありました。頭は坊主刈りにしていて、明るい好青年という印象でした。今年 29 歳とのことでした。しかし日本では今まで会うことが無かった私たちが、このベトナムで今日の昼に初めて電話で話して、今こうして夕方に目の前で会っているというのは、何という“縁”でしょうか。

KG さんはまだベトナムに来て三ヶ月くらいで、その三ヶ月の間ベトナム語を店長の娘さんが「先生」になって教えてくれていたのでした。そして彼女が勤めている学校は、サイゴン市内で私も良く知る大手の学校でした。

一月一日のお正月の日に全員が席に着いたところで、「新年おめでとうございます!」の乾杯をしました。私のすぐ横に Bruce さんが座りましたので、しばらくしてから、彼が SMS で送ってくれた、あの 「 HIKIKOMORI 」とは何なのですかと聞きました。

すると Bruce さんは、「家をあまり出たくないのですよ。といいますのは、家から一歩外に出たら、サイゴンは 1 、暑い 2 、うるさい 3 、危ない  ・・・ ですからね。 」と答えられたのでした。

Bruce さんは、「日本にいる時には、一年中私は歩くのが大好きで、特に夏は朝の涼しい時間に歩道や公園をゆっくり歩いたり、ジョギングしたりするのを日課にしていました。しかしこのベトナムに来てからというもの、外に出て歩道や公園を歩いたり、ジョギングしたりするのは、暑くて、うるさくて、危なくて、とても出来ないことが分りました。」と言うのでした。

「でもそれでもいいのです。実は私は今ベトナムで英語を教える傍ら、ある出版社からベトナムに関する本の出版の依頼を受けて、今それを執筆しています。それで、暑い・うるさい・危ない、サイゴンの街中に出てブラブラする時間がないし、その必要もないので、これからもしばらくは 『 HIKIKOMORI 』していますよ。」と冗談のようでもあり、本気のような顔付きで、 Bruce さんは答えました。

そしてここから今日集まったみんなを前にして、 Bruce さんを囲んで、彼の独壇場の話が始まりました。みんなは興味津々という感じで聴き入りました。

「私が日本に着いた時には、日本はちょうどバブルの真っ只中の頃で、私も英語の教師をしながらその恩恵を十分に受けましたね。一番多い時には、一ヶ月の給料だけでも 40 万円頂いていました。待遇も大変良かったですよ。今このベトナムもバブルが終わろうとしていますから、日本とベトナムの二つの国でバブルの波を乗り越えたので、私は自分のことを バブル・サーファーと呼んでいます。」

「私は日本に行く前は、あまり日本という国については深く知らないで行ったのですが、日本に着いて大変な感動を受けました。具体的には、まだ日本には 『武士道の伝統』 『禅の精神』 が生きていると感じました。特に今私はベトナムという国に住んでいますので、あらためて日本とこのベトナムとの違いを強く感じています。」

「私が日本に住んでいた時に、【日本人の国民性の特徴】として強く感じたのは次のような点でした。

 ◎約束をきっちり守る。

 ◎時間に遅れない。

 ◎信用・信義を重んじる。

 ◎仕事に誇りを持っている。

 ◎名誉心を貴ぶ。

普通の日本の人たちと付き合い、話したり、仕事をしたりしていた時に、そのような日本人の素晴らしい美質を感じました。普通の平均的な人たちが、そういう精神を身に付けているからこそ、『日本という国はアジアの中でも抜きん出た国になったのだなー・・・』というのが理解出来ました。そして以上の美質は、今のベトナムにはゼロとは言いませんが、残念ながら普段見ることは少ないのです。」

「良く考察してゆくと、日本にはキリスト教やイスラム教を信奉している国にあるような宗教的な戒律があるわけではありません。しかし、そういう戒律を信仰している人たちがいなくても、日本社会は落ち着き、安定していて、信じるに足る人が多く、高いモラルを持った人たちが至るところにいます。今回の東日本大震災での、世界中から称賛された日本人の行動がまさしくそれを証明しました。」

「では私はそのような日本人の美質は、一体どのようにして出来上がったのだろうかと、サイデンステッカーさんにも質問し、自分なりにも研究しました。そして私なりに到達した結論は、そのような日本人の特徴や美質を形作った大きな要因が、先ほどお話しました

【武士道と禅】

ではないかと思いました。かつての日本の武士たちは、日常生活のあらゆる場面において、自分の感情表現を直截的に出すことはなく、ストイックに抑えたといいます。

そして人生の価値観を金銭的な豊かさに置くのではなくて、貧しくても 【名誉を汚すことを懼れる】、【信用・信義を失うことを懼れる】 ことの価値観に重きをおきました。日本に 30 年間住んでいまして、これらの美しい徳目は今の日本人の中にも脈々と受け継がれていると、私は思いました。」とこのように、 Bruce さんは聞いている当の日本人たちが恥ずかしいくらいの、日本人・日本文化に対しての賛辞を贈られました。

特にここには、 Bruce さんよりもはるかに若い、日本人の青年が二人いましたので、 Bruce さんという外国人から高く評価された、自国日本そして日本人の美質について、嬉しさを抑えきれないような表情で Bruce さんの話に聴き入っていました。しかしこの日の Bruce さんの話は、最近私が日本、そして日本人についていろいろ考えていることと驚くほど符合していました。

「 HIKIKOMORI 」の Bruce さんを引っぱり出して、その「引きこもり」を吹っ飛ばしてやろうと思って始めた「お正月の宴会」なのですが、最後は Bruce さんが主役の「独演会」になりました。

そして実はこのちょうど一週間後に、またみんなで Bruce さんの話を聴きたいと思い、彼にメッセージを送りましたら、

「 Sumimasen. Mata HIKIKOMORI ni narimasita !」

という言葉が返って来たのでした。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 失敗から立ち上がることを学ぶ ■

子どもたちの両親であれば、誰でもが自分の子どもの将来の「成功」とか、大きな「希望」とか、「有名」になって欲しい・・・などと願わないものはいないだろう。

ベトナムの両親たちもまさしくそうだと思う。子どもたちの「明るい将来」のために、「成功」のために、その目的に向って最終的には「より良い大学」に入ることを目指している。これは別にベトナムに限らず、中国でも、韓国でも、日本でもそうであろう。しかし、このことは子どもたちにとっては大変な“プレッシャー”になって、こころに重くのしかかるのは間違いないだろう。

ベトナムで高校を卒業した後に、大学に入る人たちの進学率は大変低い。大学入試前には、子どもたちばかりではなく、両親も緊張と不安に襲われる。そしてもし結果が「不合格」であれば、本人はもちろんだが両親も大変落胆し、失望する。大学入試に向う時に、一番“プレッシャー”を受けているのは、もちろんその学生本人たちである。

まだこころも体も大人になっていない段階で、強い精神力を持ち合わせていないので、もし“失敗”した時には、こころに大きな痛手を受けているのは想像に難くないだろう。“失敗”の結果を持って帰った学生は、家族の「希望」を壊してしまったと、こころに大きな責め苦を負うことになる。

しかし、アメリカ人の大学入試に関する「合格」「不合格」に対しての考え方は、全く違う。もちろん大学に「合格」したらベトナム人の両親と同じように嬉しいし、喜ぶだろうが、それが「成功」の全てであり、終わりだとは考えないからである。その「成功」は、人生での「成功」の最初の、ほんの一部だと考えるからである。例え有名な大学に入ることが出来たにしても、そのこと自体を過大評価することはない。

同じように、また「不合格」であったにしても、それは人生での「不合格」の最初の、ほんの一部だと考える。それで両親も本人も失意のどん底に陥るような、過度の落胆はない。何故なら、一度の大学入試の「成功」や「失敗」で、その後の人生のレールがそのまま延びて行くわけではないからである。だからそのことで、「過大な評価」や「過大な落胆」をすることもないのである。

今、 「成功しているリーダーの素質の研究」 で特徴的なことは、「成功」しているリーダーというのは、困った物事に対して、ビジネス上で起きる回りの問題の事象に対して、会社内の組織の周りで起きる問題点に対して、 <平常心> を持ち続けている人が多い。さらに言えば、「優れたリーダー」が、学校の試験で高い点数を取って来たという「共通項」は全くない。

では、 <平常心> とは何だろうか?

自分の周りで起きるあらゆる問題事に対して、慌てないで、冷静に、落ち着いてそれを処理できることである。さらには、何か問題が発生したら冷静さを失わないで、素速く、積極的に解決出来ること、問題を先送りしないことなどである。

このことはビジネス界で「成功」するには大変重要なことである。<冷静である>とか、<落ち着いている>とか、<処理が速い>とか、<積極的である>ということは、物事を上手に、問題なく解決する上で欠かせない要素である。

さらに言えば、「学校の成績が良い。」とか、「有名大学に入った。卒業した。」いうだけで、「あの人は賢い人」という評価をされて来た、今までのような “伝統的な評価基準” の履歴書を持参した人間では、今の時代においてはそのような「問題」「困難」に対処出来ないのである。

そしてそういう人は、自分の人生経験の中で “失敗の体験” がないので、一度失敗すると自信を喪失し、その失敗を乗り越えようという、「強い精神力」を長く持続出来ずに、問題解決の途中で諦めてしまう、放り投げてしまうような傾向が多い。

私たちの研究調査によると、「失敗する」「困難に直面する」という経験は、将来の「成功」のためには必ず必要なことなのである。むしろ「失敗」してから、その後「成功」した人のアドバイスほど、多くの教訓が得られ、示唆に富むものはない。

毎日両親や教師から、「合格」「成功」という文字だけを聞かされ、プレッシャーを与えられていたら、その言葉に対して感覚が鈍ってしまう。

「失敗することは無駄なことではない。むしろ、失敗の後に強く立ち上がることが大切なのだ。」

と、子どもたちには教えて下さい。

社会の中で「成功」していると言われている人たちは、失敗を貴重な体験として捉え、その後に強く立ち上がった人たちなのです。                       

SUSAN NEWFIELD博士 & NEAL NEWFIELD博士

(アメリカ ウエスト バージニア大学)

◆ 解説 ◆

私も日本では生徒たちの 「受験指導」 をした経験が長くあります。そして、当然受験の結果には 「合格」 「不合格」 があります。我が教え子たちの試験結果の発表日には、朝早くから教室に出て、生徒からの「結果報告」を待つのが毎年の常でした。講師の先生には先に試験結果発表の場所に行ってもらい、その結果報告を事前にしてはもらいましたが、私は敢えて教室で待機していました。

「合格」した生徒からはもちろんすぐに「先生!合格しました。受かりました!」という吉報が入って来ます。それを聞いた回りの先生方は、大きな拍手をしてくれます。

しかし、我が社・ ティエラ の指導方針で大事にして来たのは、「たとえ不合格であっても、両親が代わりに電話するのではなく、自分から電話して来なさい。」ということでした。そしてその通り、「不合格」になった生徒自らが涙を流しながら、自分で公衆電話 (当時は携帯電話などありませんでしたから)から電話してきてくれました。

この NEWFIELD博士夫妻( だろうと推測するのですが )の記事を訳しながら、ふっとその当時の生徒たちを思い出しました。(彼らは今ごろ何をしているのだろうか・・・、どんな仕事に就いているのだろうか・・・) と。

ティエラの指導方針で大切にして来たのは、例え受験で「不合格」になっても、その <負の体験の大切さ> ということでした。中学受験や高校受験や大学受験は、 「ゴールではなく通過点である」 ということです。「中学」「高校」「大学」に通ったから勉強はそれでお終いではなく、さらに続くということです。

そして私は、日本で自分が教えてきた教育現場を離れたあとで、その当時教えた生徒たちが今でも時々連絡をくれていることに、胸がうずくような気持ちを覚えることがあります。その生徒たちの一人・一人を振り返りますと、その中の何人かは受験においてはまさに“負の体験”を経験した生徒たちなのでした。

彼らが「今成功している」のか、これから「将来成功する」のだろうかは分りませんが、私が遠い異国にいることを知った上で、今でも年賀状などで連絡してくれるその気遣いには、いつもこころ打たれます。

           ◇         ◇        ◇        ◇

そしてベトナムの教育事情に話を戻しまして、この記事の中で、 NEWFIELD博士夫妻が、 「ベトナムで高校を卒業した後に、大学に入る人たちの進学率は大変低い。」 と書いてありますが、ベトナムの大学進学率は統計上では、ハノイやホーチミンなどの都市部で約16%、地方では1.5%と言いますから、地方は十分の一の進学率ですね。

私自身がベトナムに 15年近く住んでいて、ベトナムの教育事情でいろいろ感じた中で 【大きな問題点を一つ挙げる】 とすれば、今のベトナムには都会に住んでいる生徒でも、どんな田舎に住んでいる生徒でも、少数民族の生徒たちでも、貧富の差に関係なく、共産党員であろうがなかろうが関係なく、

『万人が、平等に参加出来る【国家公務員試験】が無い』

ということではなかろうかと思います。

この正月休み(一日と二日)には私は家にいましたが、私の女房の姉の家族四人はこの正月休みを利用して五日ほどシンガポールに行っていました。それは行った後で女房から聞いて知ったことなのですが、私はてっきり「家族旅行」だろうと思い、(いいなあ〜)と羨ましい限りでした。

しかしサイゴンに帰って来て顔を合わせた時に、シンガポール行った目的を聞きましたら、「家族旅行」ではなくて、その目的の半分は、将来の二人の子どもが進学する時のための「大学の調査と資料集め」だったというのですから、何とも驚きました。

姉の子どもは、小四の男の子が一人と、中二の女の子が一人います。その二人とも今はベトナムの公立の小学校と中学校に通っています。しかしその二人の子どもがゆくゆくは大学に進む時には、ベトナムの大学ではなくて、外国の大学に進ませようかと考えているようでした。

「その理由は?」・・・と聞きますと、「例えベトナムの大学を出ても、まともな就職先などないから。」というのがその答えでした。

ベトナムの大学を出たら、その就職先は高校卒のワーカーと違い、一応は“大学卒だから幹部候補生”というのが建前なのでしょうが、ベトナムでの就職先は政府関係であれば“共産党関係”の人間で占められていて、そこに入るのはそこに縁故関係のある人間しか入れないようです。以前お話しました、 「 Doc Quyen ( ドク クゥィン : 独権 ) を受けている」 人たちの特等席になっているわけです。

民間の企業にしても、ワーカーは高卒程度で十分ですから毎年募集をして採用しますが、大学卒業程度となりますと、幹部生候補として採用されたにしても、すでにその上層部は縁故関係の人間が多く入り込んでいて、入るのも難しいし、そこで出世するのも難しいような状況なのです。

だから、サイゴンで日本語を教えている先生たちがよく見聞きすることなのですが、大学を卒業しても、「就職先が無い」「仕事がなかなか見付からない」「毎日ぶらぶらしている」ような教え子たちがゴロゴロいるのです。

ベトナムは “能力主義”で はなくて、 “縁故主義” で仕事が決まる、振り分けられるということでは、私の女房の妹がそれを身をもって経験しました。女房の妹は5区の大学の医学部を卒業しましたが、成績も良く、「優・良・可」の評価で言えば、いつも「優」だったといいます。

しかし、医学部を卒業して5ヶ月経っても、6ヶ月経っても、病院関係の仕事先がなかなか見付からなかったのでした。そうしてようやく7ヶ月経った頃、最終的に決まったのが、今の Tu Du(トゥー ズー)病院 の仕事場なのでした。これには家族全員がホツとしました。

妹が就職先を見つけるのに必死になっていた時に、同じ大学の同級生の卒業生はすぐに易々と大手の病院へ就職先が決まりました。しかしその同級生は、大学時代は妹よりも成績は悪く「良」のレベルだったといいます。でもお父さんがそこで医者をしていたお陰で、縁故関係ですんなりと入れたわけです。

そういう例を身近に見ているだけに、ベトナムでは「どんなに優秀でも良い仕事に就けるわけではない」「能力主義で採用されることがない」「上層部に入って出世するには、能力ではなくて縁故がないとだめ」というような考えに至り、女房の姉は「我が子どもは外国の大学に入れて、仕事も外国で探す」という判断に傾いているようなのでした。

(さて、我が娘はどうしたものやら・・・?)と、後十年以内にはやって来るその現実を考えた時に、私も女房も大いなる悩みの種を抱えてしまいました。



ベトナム写真館 バックナンバーINDEX