アオザイ通信
【2011年12月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<日本に帰化した人>

この二ヶ月ほどの間、毎週日曜日にあの 「日本語会話クラブ」 に参加して頂いた日本人Iさんがいました。Iさんはまだ 40 代後半の男性で、平日は Bien Hoa(ビエン ホア )にある AMATA( アマタ )工業団地 の中の日系の会社・K社で働いていて、日曜日になるとその「日本語会話クラブ」に参加しに来られたのでした。

Iさんの会社は業務用食品包装のフィルムを製造されていて、 Bien Hoa では 260 人のベトナム人従業員が働いているとのことでした。その業界では大手の会社でした。日本からは二ヶ月間の期間限定で、現地のベトナム人の技術指導に当たるためにベトナムに来られたのでした。Iさんの会社の従業員が前からこのクラブに参加していましたので、彼の紹介でそのクラブに顔を出されるようになりました。

Iさんは大変律儀な人物で、最初にIさんがこのクラブに顔を出された時、クラブ終了後に 5 ・ 6 人で食事をしました。みんなで食事をしながら、日本語でいろいろ話しながら、「さー、それでは今日はこのへんで帰りましょうか。」と言って清算しようとして従業員を呼びますと、「もうお勘定は全部終わりました。」と言うではありませんか。

「ええーっ!誰が全部払ったの?」と従業員に聞きますと、少し離れた席に座られていたそのIさんが、「今日は初めてこのクラブに参加させて頂きましたので、私のほうでさっき払っておきました。」と言われるのでした。今まで多くの日本人の方が、このクラブには参加して来ましたが、そのように言われた方はIさんが初めてでした。そこには私のほかに数人の日本人と、ベトナム人の若者たちがいましたが、みんな恐縮していました。

そして、Iさんがベトナム滞在中の二ヶ月の間、休みである日曜日の午前中はいつもそのクラブに参加されていましたが、平日は毎日仕事があり、「ほとんど観光に出かけることは無かったですね〜。」と自分でも笑っていました。唯一、サイゴン郊外にある、あの クチ トンネルに観光に行ったくらいということでした。

ついでに、 「青年文化会館」で活動している「日本語会話クラブ」の近況について触れますと、今この「日本語会話クラブ」は以前使用していた建物にあった部屋が、建物ごと取り壊されて駐車場になってしまい、別の場所に移らざるをえなくなりました。しかし、みんなが集まって交流出来る部屋が「青年文化会館」側からは提供されずに、やむなく今は建物二階にある廊下の通路で行っているような状況です。

そこは通路の片方が 20 mほど離れた大通りに面しています。ちょうど二階のテラスのような感じで、屋根はもちろんありますが、片側のほうは壁も無く、窓も無く、雨風が吹き込んで来ます。道路を通過する車やバイクの音も響いて来ます。「日本語会話クラブ」の責任者のSさんに、「ここの担当者にお願いして、小さい部屋でも貸してもらうようにしたほうがいいですよ。」と私が言いますと、Sさんは「何回も頼みましたが、なかなか難しいんですよ。まあしかし、ここのほうが風通しも良くて、涼しくていいですよ。」と、淡々としていました。

この現世での目標が <悟りを得ることにある> というSさんは、だんだんとその境地に近付きつつあるのでしょうか。しかし初参加の日本人、ベトナム人にお願いしている 「持ち歌を一曲披露」 してもらう時には、部屋の中で歌うのとは違い、外から入る騒音に邪魔されて、歌声が響かないという難点はあります。

そのIさんが「日本語会話クラブ」に顔を出されて一ヶ月半ほど経った頃のことです。クラブが終わった後、いつものように「青年文化会館」の中にある喫茶店にまた場所を移し、Iさんも入れて五人ほどで話していました。そこに少し年配の男性が来られました。その人は、Iさんと同じ会社で働いておられる人なのでした。

しかし席に座ってお互いの名刺交換をした時に、私は ( ・・・!? ) と面食らいました。何故ならば、顔はどう見てもベトナム人の風貌をされているのですが、私が頂いた名刺には表には日本語で、裏にも英語の表記で日本名の「 K ・ T 」と書いてあり、初対面での挨拶の日本語も、日本人の発音と百パーセント同じくらいのレベルの発音だったからです。

K ・ T さんがここにその日来られた目的は、Iさんのベトナム滞在の期間限定の約二ヶ月が近付き、もうすぐベトナムを去られようとするIさんに対して、同じ会社の同僚として日曜日も一緒に付き合って過ごしてあげたいという思いからのようでした。そしてまた、「日本語会話クラブ」についても興味を持たれていました。

K ・ T さんから頂いた名刺には、その肩書きが < General Manager > と記されていましたが、良く聞きますと今年ようやく定年を迎えて、今はK社の「顧問」という立場に就かれたばかりだということでした。しかしテーブルの上に置いた名刺と、今目の前で話しておられる K ・ T さんのイメージがどうにも噛み合いませんでしたので、率直に聞きました。

「あなたはベトナム人ですよね?」

すると、 K ・ T さんは「そうです。ベトナム人です。」と答えられました。「しかし今から約 20 数年前に 『ベトナムの国籍』 を捨てて、 『日本の国籍』 を取りましたので、今は日本人です。」と。それを聞いた私は大いに驚きました。そして、 「日本に帰化したベトナムの人」 が目の前に座っておられることに大変興味が湧き、そこから約二時間近くもコーヒーを飲みながら、 K ・ T さんにいろいろなことをお聞きしました

そしてこの時に分かったことなのですが、いろいろ話してゆくうちに、 K ・ T さんは Dong Du( ドン ユー ) 日本語学校 Hoe( ホエ ) 校長先生 とは日本に留学時代からの知り合いで、今年開催された 「 Dong Du 日本語学校 20 周年記念パーティー」 にも参加されていたのでした。その日はあの東日本大震災の直後だったような記憶があります。なぜならば、当日このパーティーに参加予定だった私の知人は、そのせいで出席できなかったからです。

その日は私も参加していましたが、日本人やベトナム人併せてあまりの参加人数の多さに、当日私たちが知り合うことはありませんでした。この日は食事やビールも提供されて、歌や踊りなどの多彩なイベントがあり、在校生たちも参加し、もうすぐ日本に行く留学生たちの激励会もありました。また例えその日に出会っていたにしても、人数の多さとイベントの賑やかさで、あの日に私たちがゆっくりと話すことは出来なかったことでしょう。

ですからこの日が K ・ T さんとは初めて顔を合わせて、じっくり話す時間が持てたのですが、 K ・ T さんは終始にこにこした笑みを絶やさずに、私のいろいろな質問にも丁寧に答えられました。それをまたIさんも横でにこにこして聞いておられました。Iさんの律儀さや謙虚さ、そして K ・ T さんの温和さを見ていますと、 Bien Hoa にあるK社の会社の雰囲気も、そのような空気が流れているのかなーと思いました。

K ・ T さんは、 1969 年にベトナムから日本に留学されました。この時 19 歳になろうとする直前でした。しかし、 K ・ T さんが最初に留学しようと思ったのは実は日本ではなく、イギリスでした。イギリスの留学試験にも合格して、 K ・ T さんはイギリスに行く腹を決めていました。

しかしその時にお母さんが、「イギリスに行けば、あなたは必ず人種差別に遭う。止めておいたがいい。どうせ留学するなら、日本にしなさい。日本人は同じ肌の色、同じ髪の色だから。」と忠告されて、それで日本に行くことになったのでした。

日本に行く前は日本語は全然勉強していなくて、日本に行ってから「日本語学校」に通って勉強したそうです。 K ・ T さんが日本に行った時よりも 10 年ほど早く、 Hoe 校長先生も日本に留学されていたようでした。しかしその時すぐに、日本で直接顔を合わせることは無く、しばらく経ってからのようです。

Hoe 校長先生のことに触れれば、一冊の本になるぐらいの波乱万丈の人生を歩まれていますが、 K ・ T さんがその Hoe 校長先生と今も親交があるいうことを聞き、「日本」という国を通して、お二人が今も繋がりがあることには、日本人である私としては嬉しい気持ちが込み上げて来ます。

私が「初めて日本に行った時の感想はいかがでしたか。」と聞いた質問に対して、 K ・ T さんは少し沈黙されて、言い難いような表情をされました。 K ・ T さんは、日本に行ってしばらく経つうちに、お母さんから言われた「日本にしなさい。日本人は同じ肌の色、同じ髪の色だから。」という言葉とは違う感想を持たれたそうです。

「母親はああ言いましたが、これだったらイギリスに行っても良かったな〜、と思いました。異国の人間に対して、私の周囲の日本の人たちは非常に 『排他的』 だという印象を受けました。外国人である私を、すんなりと日本の人たちの輪の中に入れてくれませんでしたね。」

しかしそれを嘆いてばかりもおれず、日本に来た以上はそれを乗り越えて行かねばならず、 K ・ T さんは必死に勉強に努め、群馬大学に進学することになりました。そこを卒業して、ちょうどベトナム戦争が終結した 1975 年に、ある会社に就職することになりました。それは K ・ T さんが 25 歳の時でした。

それが今ベトナムの Bien Hoa で顧問をされている、日本のK社なのでした。ですから、ちょうどベトナム戦争が終結した後の年数の 36 年と、 K ・ T さんが日本のK社で働いて来た勤務年数の 36 年が重なるわけです。何か象徴的な数字に思えて来ました。 K ・ T さんは今の顧問の仕事も楽しそうにやられているようであり、これからもその数字は重なってゆくでしょう。

しかしベトナム戦争が終結した後の我が母国の行方は、 K ・ T さんにとっても大変気掛かりでした。帰りたい気持ちはあっても、日本に K ・ T さんが留学した時には南の政府機関を頼って留学していましたので、帰るに帰れなかったと言います。もしベトナムに帰った時に、どのような報復を受けるか、受けないのか、その当時同じような状況下で日本や海外にいたベトナムの人たちには、不安が募るだけでした。

実際に、ベトナム戦争終結後に北の政権がサイゴンに乗り込んでやって来た時に、土地や家や財産を強制的に奪われた例を、あの <メコンデルタでバナナを植えていた> Yさんから、私も直接聞いたことがあります。 「思想教育をする」 と言って、強制的に連行された例もあったようです。

そこに話題が及びますと、Yさんの語気が強くなります。実際に北の政府の人間から、Yさんの知人が呼び出しを受けて、そのままついに帰って来なかったといいます。その後どこに消えたのか、今も行方が杳として知れないということです。

私も以前、北の政府側がいよいよ乗り込んで来るのが確実になった時に、金銀を隠し持っていた人が、見つかれば取り上げられるのは覚悟の上で、隠す場所をどこにしようかと考えあぐねて、壁に穴を開けてそれをまた上から塗り直して壁に封じ込め、財産を奪われないようにしたということを聞いたこともあります。それが成功したかどうかは聞いていませんが。

K ・ T さんにその話をしますと、「それは事実のようです。でも相手がウワテですよ。必ず見つけ出します。何十人、何百人、何千人とそういう事例を経験してゆくうちに、訊問の仕方がだんだんと上手く、狡猾になってゆきます。まず彼らは次のように質問します。」

『本当のことを言え。この家に隠している金銀は全くないんだな。今から家の中を庭から屋根から壁から徹底的に探すが、もしその言葉の通りに何も無かったら放免してやる。もし何も無いと言った後に、金銀が見つかれば生きては帰れない。』

「銃を持ち、生殺与奪の権力を握っている人間から目の前でそう迫られたら、普通の庶民がもしどこかに財産を隠していた時に、冷静に、平然と答えられるはずがありません。目がキョロキョロしたり、下を向いたり、落ち着かない表情になります。それを鋭く見抜き、さらに畳み掛けます。すると、やはりみんな命が惜しいですから、 ( 許して下さい!実は・・・ ) と言って、全部差し出すしかないでしょう。」

しかしそれでも生命の危険を感じた人たちは、家も土地も捨てて着の身着のままでベトナムを脱出します。いわゆる <ボート・ピープル> です。私のベトナム人の友人にも、<ボート・ピープル>となって、ベトナムを抜け出た人が数人います。彼らの話を聞いていますと、船上での日々は実に過酷なものだったといいます。

最近の 「毎日新聞」 にも、その<ボート・ピープル>の記事が載っていましたので、それを抜粋・引用してみます。

『ゴックさんの故郷はホーチミン市(旧サイゴン)近くの農村。両親は米と野菜を作っていた。 9人きょうだいの長女。一家は熱心なカトリック信者だった。1975年にベトナム戦争が終わり共産党政権に変わると、次第に「息苦しさ」を感じ始めた。

82年、信者仲間88人と小さな船に乗った。1週間後にエンジンが故障。水と食料が尽きた。雨水で渇きをいやした。「マリアさま助けて、とひたすら祈った」。海が荒れ大きなカメが船に飛び込んできた。肉を小さく切り刻み、全員がのどに押し込んだ。死を覚悟し始めた1カ月後、イタリア船に救助された。』  

さらに当時<ボート・ピープル>で日本に流れ着き、その後日本で安定した生活を営んで、現在日本に住んでいるベトナムの人たちが、今回の東日本大震災で被災した人たちのために、 「難民を助けてくれた恩返しがしたい!」 と言って、このゴックさんたちと一緒に被災地に乗り込んで炊き出し支援活動をしているという、大変感動的な内容も掲載されていました。

『7月の土曜日。川口市本町のカトリック川口教会の一室は熱気に包まれていた。ベトナムからの元ボートピープルとその家族たち 40人ほどが集まっていた。東日本大震災で被災した福島県いわき市の避難所で炊き出しをするため、泊まり込みで準備をしていた。

戦争が終わった時、ゴックさんは 12歳だった。友人を亡くし、爆撃で家を焼かれた記憶もある。体験した故郷の荒廃が、家々をのみ込んだ東日本大震災の津波の爪痕と二重写しになり、心を揺さぶった。

「日本人は難民を助けてくれた。難民と被災者の気持ちは同じと思い涙が出た。手助けをしたかった」と話した。炊き出しに訪れた避難所で聞いた被災者の「おいしい」の一言が「うれしかった」。

 ― 毎日新聞より ―

そして、「 1975年から1985年までが、ベトナム戦争終結後のベトナムが最も貧しく、困難を極めていた時代でしたね。母国に残して来た家族たちが本当に心配でした。それを振り返ると、とてもとても今のようなベトナムの発展は想像も出来ないことでした。」と、 K ・ T さんは昔を回想するように、ゆっくりと話されました。

そして K ・ T さんは、 30 歳で日本人女性と結婚されました。今二人の娘さんがおられます。私が「どうしてベトナムの国籍を捨てて、日本の国籍をを取ろうと思われましたか。」と質問した時に、その娘さんに話が及びました。

「日本は当然 <二重国籍> を認めていません。最初の子どもが生まれた時に、しばらくして私の大学の先生が次のように言われました。『 K ・ T くん、日本では父親か母親がどちらか片方が外国人だと、その子供は <イジメや差別> を受ける。将来の子どもさんのためには、あなたが日本の国籍を取り、名前も日本人に変えたほうがいい』と。つまり、ベトナムの国籍を捨てるということです。」

残念ながら、大学の先生のアドバイスはおそらく正しいのでしょう。しかしやはり改めて、日本人の子ども世界で起きるであろうそういう問題のために、異国から来た一人の人間が、自分の母国の 「国籍」 を捨てざるを得ないというのは、何と悩ましく、辛いものだったろうかと想像しました。日本の子ども世界の<イジメや差別>は、日本の大人社会の <外国人に排他的> な考え方の縮図であり、投影だろうと思います。

しかし、私は今まで 「日本に帰化」 したという人の例は、話では聞いたことがありますが、実際にそうした人に会うのは、この時が初めてでした。私が自分が依って立つ母国 「日本国籍」 を捨てるような場面、状況になった時に、果たして出来うるだろうかと思いました。 K ・ T さんがそれを決断するまでには、相当な苦悩があったろうとも思いました。

そして私はその K ・ T さんの話を聞き、このベトナムで、今 9 歳になった我が娘のことを考えました。 K ・ T さんの娘さんは日本で生まれ、日本で育ちました。そして私の娘はベトナムで生まれ、ベトナムで育っています。父親が外国人であるという点では、両方とも共通しています。

しかし私は今だに、 「国籍は日本」 のままです。そしてベトナム人の誰からも「将来娘さんが<イジメや差別>を受けないために、あなたは日本の国籍を捨てて、ベトナムの国籍にしたほうがいい。名前もベトナム人の名前を付けたほうがいいですよ。」と言われたことなどありません。

それも当然で、日本人の子ども世界で起きうるような陰湿な<イジメや差別>が、日本人とベトナム人との混血児である我が娘には、このベトナムでは起きていないからです。小学一年生から四年生に至るまで、家に帰って来て「今日みんなからイジメられた・・・」とか言って、しくしく泣いている姿を見たことは一度としてありません。

それは私の娘だけではなく、父親が日本人で奥さんがベトナム人のケースの友人・知人は数多くいますが、その間に生まれた子どもたちに、ベトナムの学校でそういう<イジメや差別>の事例が起きたことなど、まだ聞いたことがありません。しかし子を持つ親にとって、我が子が学校でイジメられて泣いて帰って来る姿を見ることほど、辛く・悲しいことはないでしょう。

それがこのベトナムでは<イジメや差別>どころか、半分外国人である私の娘はむしろ <可愛がられている> と言えるでしょう。私の娘は小学一年生の時には、インターナショナル・スクール、二年生からはベトナムの公立に変わりました。インターナショナル・スクールに通っている時には、子どもたちも娘の父親が日本人であるということは知っていたようでしたが、そこでもイジメは全くありませんでした。

そして公立小学校に変わった二年生の時には、担任の先生が娘に呼びかける時には、いつも “ Bup Be Nhat( ブッ べー ニャット:日本人形 ) !” と、クラスの全員の前で冗談交じりに話しかけていたといいます。(もう大きくなった今は、そういう言い方はしませんが。)ということは、娘の父親が日本人であることは、クラスの子どもたち全員が知っていたということです。しかし、この学校に移ってからも、娘がイジメられて泣いて帰って来ることは今まで一度もありません。

この点について私が女房に率直に聞きますと、「ほとんどがベトナム人ばかりの生徒たちの中で、自分のクラスの中に外国人の血を引いた友達がいることを、むしろクラスメートたちは喜んでいるのよ。」と、話してくれました。

そうであれば、今後中学や高校に進んでも、そういう<イジメや差別>は起こらないということでしょう。もし今我が娘を日本の田舎の小学校に入れた時に、日本のクラスメートは同じように喜んで迎え入れてくれるでしょうか。そうあって欲しいとは思いますが・・・。

そして K ・ T さんは最終的には、その先生のアドバイスを受け入れ、「ベトナムの国籍」を捨てて「日本の国籍」を取られたのでした。名前も日本名にされました。「姓」は奥さんの名前からもらい、「名」は姓名判断の占い師から選んでもらったそうです。

しかしやはり、もし私がその立場に置かれたら、(大変な苦渋の選択をするのではなかろうか・・・)と、個人的には思います。そして、今“日本人である K ・ T さん”がベトナムに入国する時には、当然ながらベトナムのビザを取って入っています。自分の母国・ベトナムに帰る時には、「日本人」として入国されているわけです。

K ・ T さんは 1990 年代の初め頃に、ようやく一度ベトナムに戻られました。その時には二人の娘さんも一緒でした。日本から来たお孫さんを見たお母様は、家の中でも、公園ででも、一日中ずっと二人の手を握って離されなかったといいます。

それを見た時に、 ( あー、もっと早く連れて帰れば良かったなあ〜・・・ ) と、しみじみと K ・ T さんは思われたそうです。私の娘も小学校が始まってからは日本に連れて帰っていないので、身につまされました。

ついにIさんが日本に帰国する日となった最終日に、 K ・ T さんと私、そして「日本語会話クラブ」に参加し、Iさんが今日でお別れと知っているベトナム人の若者と一緒に食事をすることにしました。ベトナム人の若者はIさんにお土産を買って来ていました。私もベトナムらしさが漂う、額に入った小さな絵を記念にプレゼントしました。

Iさんとの繋がりで、 K ・ T さんとも知り合うことが出来たわけですが、Iさんは「また 12 月下旬くらいにベトナムに友人を連れて来ますよ。」と嬉しそうに話されていました。

K ・ T さんは「このベトナムで会社の顧問になった今は、まだずっとベトナムにいる時間のほうが多いので、これからも時々お会いしましょう。」と言われました。

私もまた、異国での長い経験を積まれた K ・ T さんから、先輩としてのいろいろな体験談を聞けるのがこれから大変楽しみです。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 神戸牛のフォーに負ける教員給料 ■

電力分野の平均月給は 730万ドン(約365ドル)で心が痛い――電力分野の長の、こんな発言に世論がざわめいている。

だが 11月25日付の本紙記事には、それ以上に驚かされる数字があった。契約教員(臨時採用)の給料は多くの場所で月数十万ドンでしかなく、電気工の給料の10分の1にも満たないのだ。にもかかわらず、この状況に心を痛めていると発言する長の姿は見えない。

この惨めな数字は、タインホア省の幼稚園の契約教員らの給料である。このような状況になっている理由はいたって簡単で、それは予算と正規採用枠に限りがあるからである。

国の将来を担う人材を育成するという、最大の国策を実行する重要な人物である教員の給料が、電気工の 10分の1にも満たないとは、社会にとって「赤信号」といえるべきもので、長たるものに限らず、私たちの誰もが心を痛めている。

ある女性教員の給料は月 50万ドン(約25ドル)、これは、ハノイのレストランが提供する神戸牛のフォー75万ドン(約38ドル)にも届かない。学習条件も当然同じように惨めなら、いくら教育に対する熱意があったとて、彼らが生む「商品」たる青少年たちの、その質を求めるのは難しい。正規採用と臨時採用の教員に待遇の差があることも問題だろう。

問題は、教育分野の活動条件を向上していくために、どこから資金を捻出するかということだ。これは大きな問題であり、現在の交通状況のようにホットな問題だ。

いやむしろもっと重要なものなのかもしれず、国会や政府はマクロの立場から、この解決に取り組まなければならない。契約教員の給料を上げることは、あらゆる手段を用いて解決しなければならない問題だ。飢える地域を支援して、ブラックスポットを消すように。

最も簡単で手早いやり方としては、飢える地域や自然災害に見舞われた地域にコメや金銭を支給する、国の予備予算から拠出することである。それが底をついているなら、国内外の企業や篤志の支援を仰ぐべきだ。

実際国には、まだ多くの「財源」がある。公的機関の自動車や設備購入を断固たる覚悟で止めてしまえば、契約教員の「飢え」を救う資金が出せるだろうし、 2012年の賃上げ政策をより公平に均すようにすれば、また大きな資金が捻出できるだろう。 

  (ベトナムガイド .com)

解説

最初この見出しを見た時に、 「ベトナムの教員の給料」 を日本の 「神戸牛のフォー」 と比較したその卓抜な比喩の面白さに思わずニヤリとしましたが、この記事は非常に重要なテーマを提起していると思いましたので、ベトナムの情報サイトからそのまま引用しました。

サイゴン市内には 「電力ホテル」 という名前のホテルがあります。その名の通り 「電力会社」 「本業」 の電力業務とは別に、 「副業」 として投資目的で営業しているホテルで、サイゴン市内の中心部の一区にあります。電力会社が余剰資金で、ホテル業に投資しているのでしょうが、建物は古いながらも、サービスはそんなに悪くありませんでした。一区にありながら、値段もさほど高くありませんでした。また、同じワンフロアーに生徒たちの部屋を割り当てられる使い易さもありました。

それで以前は、日本から来た 「ベトナムマングローブ子ども親善大使」 の生徒たちの常宿として、毎年利用していました。一度だけ私たちがサイゴンからカンザーに行った時に、ホテルの従業員が全員ぶんのパスポートを渡し忘れたことはありましたが、従業員の態度も愛想が良く、生徒たちが日本に帰る日には、手を取り合って別れを惜しんでくれました。

しかし毎年我々も利用していたにもかかわらず、二年前から突然ホテル業を止めて、今はそのホテルの中の部屋を会社への貸事務所としています。そちらのほうが毎月の固定収入が入り、利益が上がるからでしょう。市内で大きな会合などがあれば、政府関係の役人や地方から来た参加者たちを、優先的にそこに泊めるようなこともしているそうです。それにしても、日本では電力会社がホテルを副業で経営しているなど考えられるでしょうか。

郵便局も地方に行くと、田舎の割にはえらく豪華な建物が立っています。そして、郵便局の局員の給料も、民間のレベルと比較したら、大変恵まれていると聞いたことがあります。共産党の息のかかった業種の中には、特権的な利益や給与を享受している階層の人たちがいるのでしょう。

ベトナムの人たちはそういう電力会社や郵便局などの職種に就いている人たちのことを、ベトナム語で 「 Doc Quyen (ドク クゥィン:独権)を受けている」 と言う表現をします。ベトナム人の年配の同僚の先生に聞きますと、十年前で郵便局の職員の給料は、 500万ドン〜600万ドン(250〜300ドル)あったと言いますから、まさしく 「 Doc Quyen(独権)を受けていた」 と言えるでしょう。

それに対して、 「 Doc Quyen(独権)を受けていない」 ベトナムの学校の先生の給料は、この記事にある通り、大変安いと言わざるを得ません。それで、電力会社が投資目的でホテル業を「副業」で営むのとは違い、生活費を稼ぐために「副業」に走らなければなりません。

毎日の「本業」のほかに、この「副業」にも精出しているのはベトナムでは珍しいことではなく、 「お医者さん」 や、 「日本語学校」 の先生たちも同じようにやっています。

ベトナムでは「お医者さん」の給料もまた安いので、少しの蓄えが出来たら、自宅を個人病院に改装して、 Bac Si(バク シー:博士) という看板を掲げます。ふだんの朝・昼は公立の病院で「本業」を働いて、夕方からは自宅で「副業」の仕事にせっせと励むわけです。しかし小さな家の中ですし、高価な医療器械はありません。患者さんを診察して、諸注意を与え、薬を出す処方箋を書くだけです。症状の軽い人たちは、薬屋で自分で直接薬を買うか、こういう個人病院を手軽に利用しているのです。

「日本語学校」の先生たちも一ヶ所の学校だけでは給与が安いので、掛け持ちで別の学校で働いている人たちもいます。そして公立小学校の先生になると、多くの先生たちが「副業」としての 「家庭教師」 に励んでいます。

私の女房の姉は、十年前は公立小学校の先生をしていました。以前その給料を聞いたことがありましたが、 (ええーっ、そんなに安いの!)と驚きました。でも彼女のご主人は日本人なので、主人がしっかり稼いでくれている(?)ので、「家庭教師」はしなくて済んでいました。

しかし普通は、公立の学校の先生は学校の授業が終わったら、多くの先生たちが「家庭教師」をしています。どこでかと言いますと、文字通り自分の「家庭」に生徒たちを呼んで、自宅で教えています。そうでもしないと、学校での給料だけではとてもとても家族を養うことは出来ないからです。

定期試験が近付きますと、「本業」として働いている学校のクラスの中で、「こんど家で試験範囲の勉強をするから、みんな来なさいね。」と言って生徒に声掛けします。その先生本人が試験問題を出すのですから、行かざるをえません。

毎月学校からもらう給料だけでは暮らしてゆけないので、自分の家で「家庭教師」をしているわけですが、家庭に呼ぶ生徒数が多くなれば、毎月学校からもらう給料を上回ることがあります。だから止められないわけです。

そうなりますと、家庭教師のほうに力が入り、「どちらが本業?」か判らなくなるのではと思いますが・・・。しかし「家庭教師」のこの「副業」で確実に、一杯 75万ドンの神戸牛のフォーを5・6杯は食べられる副収入を得ていることでしょう。



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