アオザイ通信
【2011年10月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

懐かしき、二人との再会

この一ヶ月の間に、五年ぶり、そして十年ぶりに再会を果たした、二人のベトナム人の友人がいます。(思いがけない再会が、いろんな所であるものだなー)と、その時にしみじみと思いました。

五年ぶりのベトナム人の友人との再会は、八月末のことでした。 「ベトナムマングローブ子ども親善大使」 “マングローブ植林” のためにカンザーを訪問しました。カンザーには二泊三日いましたが、その二日目に、 「猿の島」 を訪問し、そこでその友人に出会いました。

日本の生徒たちと一緒に、「猿の島」の中にある小さなレストランの前を歩いていた時、そのレストランの中から男性の声で、何回か私の名前を呼ぶ声がします。 ( こんな所で誰が呼んでいるのだろうか・・・ ) と思い、その方向に目を向けますと、一人の男性が椅子から立って手を振りながら、ニコニコした笑顔で私を見ていました。

その顔を見てすぐに思い出しました。それは、今からちょうど五年前に出会った、ベトナム人の Nhat (ニャット ) さんでした。彼はその当時バイク・タクシーの運転手をしていました。その時に出会った Nhat さんのことを、 <日本文化を愛するバイクタクシーのベトナム人> として触れたことがありました。

私が彼と出会ったきっかけは偶然でしたが、当時彼は 34 歳で、バイクタクシーの仕事をしながらも、その時に Dong Du( ドンユー ) 日本語学校』 『さくら日本語学校』 で日本語を学んで来たこと。 “ホイアンにある日本人の墓” を、一人でわざわざ訪ねて行ったことなどを話してくれたのでした。二人で話していた時に受けた彼の印象は、(大変謙虚な人だな〜)という感じでした。料理やビールを勧めても、「いえ、いえ、結構です。」と言って遠慮がちでした。

その時私は彼に、「将来は何をしたいですか?」と聞いた覚えがあります。すると彼は「まず安い韓国製の車を買って、車でお客さんを案内するような仕事をしたいです。雨の日でも案内出来ますから。それから高い日本の車に買い換えたいです。そしていつか将来、自分で会社を興すのが僕の目標です。」と、答えてくれました。

カンザーで Nhat さんに会ったのは実に五年ぶりのことでしたが、全然その風貌も体型も変わっていませんでした。それで私も直ぐに彼だと分かったのでした。そして Nhat さんはレストランの中から出て来て、私に挨拶をしてくれました。そしてこの時は数人の白人さんの観光客を、自分の車に乗せて来ていました。その彼が乗っていた車は、 TOYOTA INNOVA でした。「これは私の車です!」と嬉しそうに話してくれました。

しかしこの時私は生徒たちを連れていたので、そこでは長話も出来ずに名刺だけを頂いて別れました。後で良くその名刺を見ますと、彼の名前と一緒にもう一人の名前が入った旅行会社の名前が書いてありました。 ( おそらく友人と二人で旅行会社を作ったのだろう。あの五年前に私に話してくれた夢を実現していたのだろうか・・・ ) と、私は想像しました。

その後九月に入り、私は無性に彼に会いたくなり、何回か彼の携帯に電話をしましたが、「今は ラット にいます。」「今日は ニャー チャーン に来ています。」という返事が多くて、毎日が旅行のアテンドで忙しいらしく、なかなか会うことが出来ませんでした。そして、ようやく彼に会えたのが九月の末のことでした。

そこは最近私や友人たちが良く利用している、下町の屋台の貝屋さんでした。たまたまその日にふっと Nhat さんを思い出し、電話を掛けてみましたら運良くサイゴンにいて、「今から 20 分後くらいに行きます!」と言って、バイクを飛ばして来てくれました。

この席に私以外には、 IT の会社を興した KR さんと、サイゴンで日本語を教えている日本人の先生二人が同席されていました。事前に Nhat さんのことについて話しますと、みんながバイクタクシーのベトナム人と落ち着いて話すことなど初めてのことなので、大変興味を抱いていました。

そして 20 分を過ぎた頃、果たして Nhat さんが来てくれました。この時は TOYOTA の INNOVA ではなく、一人でバイクに乗って来ました。そして久しぶりの再会を祝して、「乾杯!」した後に、あれから五年後のことについていろいろ話してくれました。彼の日本語能力は、五年前からさらに向上していました。

今持っている TOYOTA の INNOVA は一年前にローンで購入して、今も毎月ローンを返していること。友人と一緒に二台の INNOVA を買って、毎日メコンデルタや、ベトナムの中部までも観光の案内をしていること。

「ですから、なかなかサイゴンにいる時間が少ないんです。今日はたまたま家にいて、家族と食事をした後に、電話があったので来ることが出来ました」と、彼もひさしぶりの再会を嬉しそうにしていました。

TOYOTA の INNOVA は一台約三万ドル弱で購入したそうですが、五年前に彼が私に語ってくれた、 日本の車を買いたいです。そしていつか将来、自分で会社を興すのが僕の目標です。」 という夢を実現させた彼の努力の凄さに、その場にいたほかの三人の日本人も驚いていました。実際バイクタクシーの仕事で日々得られる収入の中から、車の購入資金を溜めてゆくのは、並大抵の努力では出来ないだろうと思いました。

さらにまた私が ( 五年前の昔と変わっていないな〜 ) と 感心したのは、この時も注がれたビールにそっと口を付けただけで、ほとんど飲まないで、食べないで、話し続けていたことです。 ( もともとがあまり飲めないんですよー ) と Nhat さんは話していましたが。

翌日も朝早くからまた観光客を案内して、車を運転しないといけないらしく、彼が「先に帰ります。」と言いますので、別れ際に私が「そう言えば、息子さんもさぞ大きくなられたことでしょうね。今何をしていますか。」と聞きますと、「ええ、有難うございます。今は大学生になって、ホーチミン市内の大学で勉強しています。」とにこやかに答えてくれました。

五年前に彼の息子さんは 13 歳でしたから、もうそのような年齢になっていたわけです。そしてまたの再会を約束して、 Nhat さんは先に帰ってゆきました。彼と久しぶりの再会を果たした私は、彼がバイクで一人帰ってゆく後ろ姿を見ながら、心地よい余韻が残っていました。

そしてそれから数日後、さらに今度は十年ぶりにベトナム人の知人に再会することが出来ました。この時たまたま、私の友人がカンボジアからサイゴンに戻って来ていました。彼は古くからの私の友人で、日本人の知人との共同経営で、今から十年以上前くらいに、サイゴン市内の一区に 『喫茶 ひろば』 をオープンさせました。今その店は名前を変えて、別の人が別の場所で営業しています。

この『喫茶 ひろば』がオープンした時には、ベトナムの新聞にも採り上げられて、大変有名になりました。この喫茶店に来れば、日本人と日本語で話が出来るという評判が立ち、日本語を学んでいるベトナム人の学生や社会人たちが、ホーチミン市内や郊外からもやって来るようになりました。(多い時には、一日だけで百人を超えるお客さんがあったなー・・・)と、今もその私の友人は述懐しています。

そして、その『喫茶 ひろば』のオープン当時から働いていた、二人の男性の店員がいました。 T くんと H くんです。その時には、二人とも日本語は三級レベルの能力がありました。さらに H くんの妹さんは日本人と結婚していて、その妹さんは福岡に住んでいるということでした。

彼が日本に旅行で来た時に、その福岡まで妹さんを訪ねて行きました。その後で、熊本の私の家にまでも来てくれました。しかしここ数年は、サイゴンで私が彼に電話しても全然連絡が取れない状態でした。そして今現在も、全く音信不通です。

カンボジアから帰った私の友人と当時のことを話していた時、 T くんの話題になりました。 T くんはベトナム人には珍しくハニカミ屋さんで、性格や話し方もおとなしく、日本人相手の喫茶店のような接客商売には向いているタイプでした。 T くんのことを話していた時に、「今から電話してみようか!」ということになり、私が電話をしました。

するとすぐに繋がりました。電話に出た T くんは「今日は会社の残業があり行けませんが、明日なら行けます。」と答えてくれました。そして翌日、ちゃんと来てくれました。彼もまた Nhat さんと同じく、十年前と風貌も体型も変わらずに、昔のままでした。

「今年何歳になりましたか?」と聞きますと、 T くんは「 37 歳です。」と答えました。ということは、『喫茶 ひろば』で働いていたあの時は、 25 ・6歳くらいだったんですね。「今は何をしていますか。」と聞きますと、「日系企業の F という会社で働いています。」と言う返事でした。「そこでは何年くらい働いていますか。」とさらに聞きますと、「 8 年ぐらいになります。」と言うのでした。

「 8 年」という彼の返事を聞いて、私は大変驚いたと同時に、また感心もしました。何故ならば、ベトナム人にして一つの会社にそれだけ長い期間働いているというのは、私の知る限りでは大変珍しい事例だからです。

ベトナムの人たちの仕事場の定着率は、日本と比べたら格段に低いですね。他所に十万ドン ( 約 400 円弱 ) でも、二十万ドンでも、今いる所より少しでも高い給料を出す会社があれば、何のためらいも無く辞めて、簡単にそちらへ移ってゆきます。

私が今日本語を教えている所でも、半年くらいの期間でコロコロと先生が変わってゆきます。十人の先生がいるとしても、今三年以上働いている先生は半分もいません。一番早く辞めた先生の例では、一日だけ出て来て翌日には何の挨拶もなく、何の電話連絡もなく、そのまま辞めた人物もいました。

一番ケッサクだったのは、人事面接をして採用したある一人の先生が初めて出社した日のことです。彼は指定された自分の席に座るなり、カバンの中からベトナムの新聞をやおら取り出しました。すると机の上にその日の新聞を堂々と広げて、求人欄を食い入るように読んでいたことでした。 ( オイオイ、今日から勤め始めたばかりなのに、もう次の勤め先を探しているの・・・? ) と呆れました。

日本で、勤めた初日からすぐ次の仕事場を探すために、新聞の求人欄を読んでいる社員が果たして何人いるでしょうか。しかしベトナムでは、 『最低でも一年くらいは勉強だ』 と思ってこの仕事場で頑張ろうという意識は低く、未練も無くスパッと辞めます。それだけに、辞める人と残った人たちとの間の “今日の日はさようなら” の感覚は、日本式にウエットなものではなく、実に 「あっけらかん」 と、 「アッサリ」 と辞めて行きますね。

特に工業団地などでベトナムの若い人たちを抱えている日系の会社などでは、こういうベトナム人従業員の 「アッサリ会社を辞める習慣」 に頭を抱えています。 テト ( 旧正月 ) などでベトナムの若者たちが自分の故郷に帰る時期が来ますと、日本人の幹部社員たちは戦々恐々としています。 ( テトの後に、果たして何人の従業員が戻って来るだろうか・・・? ) と。

テトが終わっても会社に戻らず、そのまま辞めるパターンの従業員たちが数十人単位ではなく、数百人単位で発生するというからです。従業員たちが田舎に帰ると里心がついて、(久しぶりに家族に会うと、サイゴンに戻るのが寂しい。まだまだしばらく田舎にいたいなー。)という単純な理由で、会社に戻って来ない若者たちが実際にいるのです。その一番大きな要因は、毎月の給料の安さにあります。

先日、ある工業団地の日系の会社に勤めている女性 D さんに会いました。彼女の日系会社・ Y 社は自動車の車体の中に入れる配線を製造しているのですが、従業員が何と三千人いるといいます。 D さんは日系企業の中で通訳として働いていて、給与は日本円にして 1 万 5 千円くらいだということでした。しかし、その同じ会社で働いている工員さんたちの一ヶ月の給料は、「日本円にしたら約 8 千円くらいなんです。」と話してくれました。

ホーチミン市郊外の工業団地内にある日系の企業の中には、すでに人件費の高騰している “世界の工場・中国” から、まだ中国よりも人件費が安いベトナムにシフトを代えて来た企業もあるわけです。ですから中国と同じレベルの給与水準に上げたら、何のためにベトナムに拠点を移したのか意味がないわけで、毎年々そう簡単には給与を上げられないという苦しい台所事情もあることでしょう。

しかしこのように、一ヶ月 8 千円くらいの安い給料であれば、 ( テト明けには、どこかまた別の仕事を見つければいいやー ) という心理になるのも、また仕方のないことと言えるでしょうか。ですから今まで働いていた仕事場を、あっさりと放り出すのに、何のためらいも感じないのかもしれません。

このような事例は、そのような大きい会社だけに限らず、あのベンタイン市場の夜の屋台村でも同じようなことが起きました。いつもの私たちの行きつけの店は今年のテト明けになっても店員が戻らず、従業員が確保出来ずに、とうとう閉店してしまったということがありました。周りの店が電気を煌々と点けて営業している中で、一時そこの区画だけ闇の空間が広がっていました。

顔馴染みの女性の店長は、「ベトナムのテト明けはいつもこうなんだよねー。毎年々こういうことを繰り返すから、もうやりたくない!」と嘆いていました。そしてその後は、身内だけでも営業出来る、外国人観光客相手の“雑貨屋さん”に鞍替えしました。

そういう事例をいくつか私も見て来ただけに、「 8 年間働いています。」という T くんの返事を聞いて、 ( ほー、そうですか! ) と感心した次第です。彼が勤めている日系の会社・ F 社は、ベトナムの Binh Duong( ビン ユーン ) 【光ファイバー】 を作っている会社で、ベトナム人の従業員が 1400 人いるそうです。

日本人の幹部社員は十人弱だそうですが、社内では日本語を話せる人は少なく、共通語は英語で行っているといいます。それだけに日本語を流暢に話す彼の存在は大変重宝がられているようでした。日本人の社員の人たちは、おそらくベトナム語の教室に通う時間など無いでしょうから、 T くんのように日本語で意思疎通が出来る人物の存在は、大変有り難いことでしょう。

そしてその 8 年間、彼は毎日朝 5 時に起きて、会社が手配したワゴン車で数人の同僚と一緒に Binh Duong 省まで通っているということでした。会社には毎日朝 7 時半には出社すると言っていました。 Binh Duong 省にある工業団地の中の会社では、 F 社のように 1400 人くらいの従業員を擁している会社は珍しくないようで、中には 5 千人、 6 千人の従業員がいる会社もあると聞いたことがあります。

彼が勤めている F 社というのは、その時に私自身は初めて聞く会社だったのですが、 IT 会社の社長の KR さんはさすがに良くご存知でした。 KR さんは最近、いろんな会社の WEB サイトの作成を手掛けていて、そういう繋がりでその会社も良く知っているようでした。

そして T くんと会ったその日から数日後に、偶然にもベトナム関連のある記事の中に、その F 社に関した次の記事が掲載されていて、それを読んだ私は改めて大変大きい会社なんだなーという思いを強くしました。

<光部品の第2工場着工:新分野開拓、売り上げ倍増へ>

光ファイバー・電装品メーカーの F社は9月30日、ベトナムにある光部品工場の隣接地で、第2工場の起工式を開催した。既存工場と同規模の新工場を来春に稼働させる。最終的に生産能力を現在の2倍に引き上げ、2015年に売上高を倍増させる方針だ。

新工場を建設するのは、ホーチミン市近郊のベトナム・シンガポール工業団地(南部 Binh Duong 省 )にあるファイバー・オプティクス・ベトナム(FOV)。既存工場は主に「光のインフラ事業」で、通信事業者向けの光ネットワーク用製品を生産していたが、新工場では新事業として「非インフラ」向けに領域を広げる。

式典に参加した本社のS取締役常務執行役員によると、新工場は「光インターコネクション」と「医療機器の光部品」を主力に据える。光インターコネクションでは、データセンター内のサーバーなどの機器をつなぐケーブルが大容量・高速化するのとともに、従来の銅製ケーブルから光ケーブルに移行。医療分野では、内視鏡をはじめさまざまな診断装置に光ファイバーの利用が広がっているという。

製品は全量を輸出する。既存のインフラ用途では日本向けが主だが、新分野では欧米向けが増える見通し。従業員数も、現在の1,400人から最終的に2,300人まで増やす計画だ。

S取締役は式典のあいさつで「FOVはここ3年ほどで大きな成長を達成し、わが社に大きく貢献している。新工場は最も重要な拠点になる」と期待を示した。

< NNA ニュースより>

T くんといろいろ話す中で、「給料は高いですか?」と聞きますと、たまたまこの日が給与の振込み日だったようで、その給与明細をその場に持って来ていて、隠すことなくそれを私に見せてくれました。それは、ベトナム人の普通の会社員と比べれば、大変恵まれた高い給与でした。

そして何げなく、「 37 歳といえば、もうそろそろ結婚してもいい頃ですね。結婚の予定はありますか?」と聞きますと、昔のままの癖で恥ずかしそうな表情で頭を掻きながら、「実は来年には結婚する予定です。」と明かしてくれたのでした。

それを聞いた私と友人は嬉しくなり、「相手はどこの人ですか。もしかして私たちが知っている女性ですか。」と聞きますと、「ええ、お二人ともご存知の女性です。でも今は秘密です。結婚式当日に紹介します。」と答えました。

しかし私も友人も、その当時はアルバイトの女性従業員たちが頻繁に変わっていたので、今の段階ではさっぱりと心当たりがありません。まあしかしそれでいいのでしょう。一年後の彼の結婚式当日に、私たち二人ともが知っているという、 T くんの “花嫁さん” に会うのが今から大変楽しみです。

※春さんは1997年春よりホーチミンに駐在しています。今ではすっかり現地の人となって、見分けもつかなくなっています。春さんに質問や相談があればメールをお送りください。
info@te-campus.com ※件名を「春さんに質問!」にしてくださいね。




「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

義理の母から学ぶこと

大学を卒業してから、私も若いアメリカ人たちと同じように、両親と一緒には住まないで、自立して生活していました。しかし今このベトナムでは義理の母と一緒に住んでいて、義理の母の考え方や行動にびっくりすることが多いのです。

四年前に恋人と一緒に彼女の田舎へ行って、私たち二人が付き合う許可をもらうために、彼女のお母さんに会いました。私の家もアメリカでは、厳しい家庭の出身なのですが、恋人とどこかへ遊びに行くとか、結婚する時とかに、彼女の家族にいちいち許可をもらう必要があることにショックを受けました。

彼女の田舎に初めて行き、将来の義理の母となる人と話していた時、細かいことについては意思が通じませんでした。その時私が勉強していたベトナム語のレベルでは、思うように話せなかったのです。それに、義理の母は北部の出身ですが、私はその時には南部の An Giang 省に住んでいて、南部のベトナム語の発音に慣れていました。

私はアメリカの California から来ましたが、義理の母は Hollywood 映画がぜんぜん好きではありません。アメリカ人の私と、ベトナム人の義理の母には異質の部分が多いのです。

しかしそれでも、義理の母は私の誠意が分かってくれて、外国人が初めて経験する時によく犯す間違いも許してくれて、彼女と付き合うことも認めてくれ、それから私たちの結婚も許してくれました。

結婚してから初めての子供を出産した時、義理の母と一緒に住む機会があったので、今いろいろなことが段々分かって来ました。一緒に住んでいて、義理の母の考え方や、生活習慣には大変驚かされました。

ある時、子供が転んで床で頭を打って、大声で泣いていた時、義理の母が走って近寄り、子供の頭の上にナイフを置くのを見て面食らいました。その後で、それは子供の頭が後で腫れないようにするための、ベトナムの伝統的な習慣だというのが分かりました。

いろいろ不思議なことも、いくつかあります。義理の母が子供にに長い時間鏡を見させないなどです。大きい疑問を抱くこともありますが、義理の母は本に載ってなくても、昔からの言い伝えや伝統を身につけているはずです。そのことが分かってから、義理の母の考え方を尊重しています。

逆に義理の母が、アメリカの文化が半分と、ベトナムの文化が半分の家に住むのは困ることが多いと思います。義理の母が努力して文化交流をしようとして、子供が時々アメリカのアニメを見ている時など、義理の母は英語で話しているその画面を見て、意識して笑っていたのが私にも良く分りました。

しばらく一緒に住んでいますと、お互いに異った文化にもだんだん慣れて来ます。もう一人親戚には義理の母がいるのですが、今の義理の母と一緒に住むのがとても安心です。本当は、西洋だったら若い夫婦二人がしなければならないことを、義理の母がやってくれるのです。

義理の母は、洗濯や掃除や料理や子育てまでしてくれます。毎日、私たち夫婦でも、私の子どもも、義理の母からお世話になっていることを強く感じています。私は“義理の母一人は、十人のお手伝いさんと同じ”という諺が良く分かります。

今までのことを振り返る時、義理の母には感謝の気持ちを抱いています。そして、ベトナムの伝統的なことも学ぶことが出来て、大変有り難い気持ちでいっぱいです。義理の母には、「献身と温かい心」をいつも持ち続ける“ベトナムのお母さん”を感じています。

TYLER WATTS (アメリカ人)

◆  解説 ◆

TYLER さんが述べられたこの記事の中で、中ほどの段落にある箇所には、私も深く共感しました。

「結婚してから初めての子供を出産した時、義理の母と一緒に住む機会があったので、今いろいろなことが段々分かって来ました。・・・」

私の女房が娘を 8 年前に産んだ時、ここはベトナムであり、日本からは当然ながら誰も見舞いにも、手伝いにも来れませんでした。女房が出産した当時、まだ私は一区のほうに事務所を借りていました。産後すぐは階段の上り下りが難儀なので、一階に女房はマットを敷いて寝ていましたが、女房の母親は床の硬いタイルの上に薄い一枚のゴザだけを敷いて、女房の近くで寝ていてくれたのでした。

そして昔ながらのベトナムの習慣というべきか、お産の後には顔や体にウコンの粉を塗り付けるために、そのウコンの根を粉状にすり潰す作業をしてくれたりしていました。ウコンの粉を塗る意味は、 産後すぐの女性の皮膚は顔も体も荒れているので、それを元に戻すためだそうです。そういうのは日本では見たことがないだけに、大変興味深く感じました。

さらに塗るだけではなくて、そのすったウコンの黄色い粉を、毎日小匙一杯ずつそのまま飲んでもいました。これもお産で傷ついた体の内臓の回復を早めるためだそうです。ベトナムでも、このウコンは肝臓や胃腸に効能があるといいます。やはり 【ウコンの力】 は、どこの国においても偉大なんでしょうか。

そしてまた、女房の母親は毎朝七輪に炭を熾して、女房の体を温めていました。女房がお産をした月は 11 月の初めであり、さすがにベトナムといえども朝夕は肌寒くなって来ていました。しかしこのサイゴンには、暖房器具など普通は使わないのでありません。それで朝夕が涼しく感じる時には、 『七輪に炭を熾す』 という方法になるようです。

それで毎日朝から背中とお腹を交互に温めていましたが、一時間くらいそういうことをしているうちに、女房は汗だらけになっていました。しかしこういう七輪を熾したりする作業も、産後の女性が一人でやるのは大変だろうなーと思いました。

毎日の赤ちゃんの湯浴みも、そのほとんどは女房の母親が担当していました。女房の母親は自身が7人の子どもたちを育てて来ただけあって、やはり子育ての経験が豊富であり、そのコツを良く知っていました。赤ちゃんの抱き方や扱い方も、実に手馴れたものでした。

同じように頭を洗うやり方でも、女房の母親が赤ちゃんにそうしている時のほうが、明らかにうっとりと、気持ちよくしているのが、横から見ていても良く分りました。赤ちゃんの耳に水を入れないように、注意深くしながら湯浴みをするやり方などを良く知っているからだろうと思いました。

また毎日の食事の世話や、様々な家事の手伝いもしてくれました。そして我々と一緒に寝起きしながら、初めて赤ちゃんを産んだ我が娘へのこういう世話を、約一ヶ月近くも続けてくれたのでした。核家族が進んだ今の日本では、いくら実の母親といえどもなかなかここまでの協力は出来ないでしょう。

そういう意味では、 「子どもを生む。育てる。」 という点で、サイゴンのような都会でもまだまだ家族の協力を得られ易い側面があるし、今後もベトナムでは子どもの数の多さ、若年層の厚さで言ば、日本のような “少子化社会”“高齢化社会” のような現象はまだずっと先のことだろうな・・・と、私は漠然とそう “思い込んで” いました。

ところがです。つい先日、ハノイにいる私の友人である、新妻さんから時々送られて来る恒例のメールマガジンの内容を見て、 ( うーん・・・ ) と考えさせられました。その説得力のある内容を読んで、自分の “思い込み” を捨て去り、改めて白紙に戻して考え直すことにしました。そこには次のようなことが書かれていました。以下はその新妻さんの意見です。

『老いてゆくベトナム〜高齢化社会へのスピードは世界最速?』

ベトナムのオンラインニュース "VNEXPRESS"の7月12日付け記事の表題に目がとまった。「ベトナムの人口の高齢化速度は世界最速」とあったのだ。

記事の内容はこうだ。国連人口基金の評価によると、ベトナムの人口は世界史上いまだかつてない速度で高齢化している。高齢化率( 65歳以上の全人口に占める割合)が7%から14%にまで倍加するのにフランスは115年、スイスで70年であったのに対し、ベトナムはなんと15年から20年しかかからないと予測されている。

ベトナムが国として豊かになる前に高齢社会へと突入し、労働人口の減少に見舞われ、老人に対する社会福祉制度も整わない。ベトナムでは老人の 70%が農村部に暮らしており、彼らは年金も得られず、自分の子供に扶養されることを期待するしかないと、人口・家族計画総局の総局長であるズオン・クオック・チョン氏は世界人口デーの日に警告した。

ベトナムの街をゆけば、若者たちであふれているし、活気もある。工場で働いている工員たちはみな 10 代、 20 代の青年たちばかりである。日本に比べ若者が多いベトナムはいずれ経済的に大きく発展し、その未来は明るいだろうとみる向きが多い。実は私自身もそう思っていた。しかし一方でベトナムの高齢化は着実に進んでいるというのだ。にわかには信じがたいニュースだった。

ベトナムでは 60 歳以上の人口の占める割合が 10% の社会を「高齢化社会」とよび、 20% 以上を超えると「高齢社会」であるとしている。ベトナムは 2011 年にはすでに人口中に占める 60 歳以上の割合は 9.4% となっている。ベトナムはすでに「高齢化社会」一歩手前なのである。

調べてみると日本で人口中に占める 60歳以上の割合が10%を超えたのは1968年である。その当時、多くの人々のなかで現在のような超高齢社会を迎えるようになると考えた人はどれだけいただろうか。

日本は高齢化率が倍加するのに 24年で、このスピードは欧州諸国に比べ著しく高速だった。しかしベトナムはそれよりも早い15年から20年で高齢社会へ突入する。

ベトナムはようやく一人当たりの GDPが1000ドルを超えたところである。通貨の価値が変動しているので単純な比較はできないものの、日本の一人当たりGDPが1000ドルを超えたのもやはり1960年代後半である。

・・・(途中省略)・・・

ベトナムは「社会主義共和国」を名乗っているので、さぞや年金制度や医療保険制度が全国民に行き渡っており、社会福祉制度が整っているものと誤解している人たちも多い。しかし、実際には医療保険も年金制度も公務員や軍人が享受できる制度にとどまっており、国民皆保険、国民皆年金にはまだ道のりは遠い。中小零細の民間企業に働く労働者や自営業者、それに国民の過半数を超える農民たちには年金も医療保険もまだない。

もちろん医療の進歩によって老人の寿命が延び、乳幼児の死亡率が低下することは素晴らしいことだといえる。だからこそ、この共通する「社会の高齢化」問題に共に取り組むことが必要なのだ。そして超高齢化社会をいち早く迎えた「少子高齢化先進国・日本」はベトナムをはじめとするアジア諸国に対してモデルになるべき制度を確立しなければならないだろう。

新妻東一 〜ベトナム便り〜

確かにここに新妻さんが書かれているように、今ですら私や女房や子どもが病院に掛かる時には、その費用は全て百%自己負担です。保険のホの字もありません。そしてその医療費は、ベトナムの人たちの生活水準から考えた時には、決して安い金額ではありません。

数日前に女房とバイクで出かけた時に、女房の目に小さいゴミが入って、目をしばたいても、目薬を注しても取れず、仕方なく眼科に行きました。そして目に入った小さいゴミ一個を取っただけで、数日ぶんの薬代と併せて、何と 30万ドン(約1,100円)でした。

ですから、普通は軽い病気などの場合は病院(特に国立の病院は順番待ちの患者さん達がワンサカといるので)には行かず、市販の薬局で自分の病状に応じた薬を購入しています。それが原因ででしょうか。患者自身が詳しい病名を知らないので、適当な病名を薬局で告げて、病状がさらに悪くなったようなケースもまた新聞紙上には載っています。

私自身も、風邪を引いた時に出るひどい咳や、熱などを収める薬は、全てそのような市販の薬局で購入しています。病院には行きません。薬局もお客さんの要望に応じて、様々な種類の薬を提供してくれます。市内で営業している薬局で薬を買う時には、お医者さんの処方箋などは必要ありません。

ベトナム国内のインフラや交通網や流通制度や保険制度は、まだ今でも貧弱なままですが、もし今後もそのレベルアップが期待出来ないとすれば、自分たちの身は自分たちで守るしかありません。新妻さんのコメントを読んでいましたら、これから年老いてゆくベトナムの老人たちには、何の保証も無いというのが改めてよく分りました。

サイゴン市内では、いい年をした大人や若者たちが昼間からトランプ博打や賭け将棋や、チンチロリンなどに興じている場面や、闘鶏のニワトリを片手に乗せて賭け事に没入している光景を良く見かけます。

昨年の 12月に中部へ会社の社員旅行で行った時にも、旅行中ずっと男性群は毎日毎晩、深夜遅くまでトランプ博打に興じていました。今年の旅行で同じような場面に出会ったら、次のようにアドバイスするのがいいのだろうと思います。

『老後に備えて、今からしっかり蓄えておいたがいいですよ!博打などせずに。』



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