アオザイ通信
【2011年9月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

< 十四年の歳が またあるべきか >

2011 年 『ベトナムマングローブ子ども親善大使』 の参加者たちが、8月末にベトナムを訪問しました。今年は十名の小・中学生が、ベトナムで一週間に亘る様々な行事に参加してゆきました。

『ベトナムマングローブ子ども親善大使』は今年で 11 回目になります。ベトナム訪問一週間の中で、 「ベトナム人学生との交流会」「特訓ベトナム語教室」「ホーチミン市内観光」「ホームステイ体験」「Saint Vinh Son小学校との交流会」「カンザーでのマングローブ植林」「ホーチミン市友好協会訪問」「クチ トンネル探訪」などの行事に、日本の生徒たちは意欲的に取り組み、学び、今年もまた実に貴重な経験を積んでくれました。

わが社・ティエラの毎年の 『夏の合宿』 には、勉強合宿や自然系の合宿や海外合宿など、多岐に亘るコースがあります。その中でも、この『ベトナムの合宿』にまで足を伸ばそうとしてくれる参加者たちは、いつも思うのですが個性的で、表現力豊かで、面白い生徒さんたちが多いのです。

ベトナム到着後の翌日に、ベトナム人の生徒さんたちと一緒に「ホーチミン市内観光」に朝から歩いて出かけました。 「聖母マリア教会」 「中央郵便局」 を見学した後に、 「 9月23日公園」 の中の木陰の下で、ベトナム人の生徒たちから一人・一人が『ベトナム語の特訓』を受けました。

これは毎年のこととして行っているのですが、若い生徒たちはやはり異国の言葉を吸収するのが早いですね。わずか一時間半足らずの『特訓授業』でしたが、会話だけながらも、十分に相手に理解出来るレベルまでに上達してくれました。指導してくれたベトナム人の生徒さんたちも感心していました。

そして昼食後に、 『戦争証跡博物館』 を訪問しました。二・三年前にここを訪問した時には、館内にはクーラーもなく大変暑かったものですが、今この建物は三階までクーラーが全室に入っていて、大変観光しやすい場所になりました。

今この『戦争証跡博物館』には、三人の日本人の写真が常設展示されています。お一人はあの有名な 【石川 文洋】さん 、もう一人が 【中村 悟郎】さん 、そして 【村山 康文】さん の三人です。この中で、私が直接お会いしたのは村山さんだけです。村山さんの写真は、今この館内に四枚展示されています。

そしてちょうど「マングローブ子ども親善大使」がベトナムに来ていた時に、村山さんもベトナムを訪問していました。村山さんのベトナム訪問は、今回が 32回目になりますが、「ベトナム戦争の傷痕」やホーチミン市の変貌を、絶えず新鮮な目で14年間に亘って取材しています。

生徒たちは、この『戦争証跡博物館』の中にある写真や資料を約一時間半ほどかけて見学しました。そして一旦ビデオ見学室での休憩後に、生徒たち一人・一人にまだここの印象が鮮明なうちに <戦争証跡博物館を訪問しての感想> を書いてもらうことにしました。

後でその報告をレポートの形で読んだ私は、その中の一人の生徒が書いていた文章を読んで驚きました。それはまだ小学 4年生のA子さんの文章でした。(これが果たして、小4の文章力だろうか・・・)と思いました。しかし、まさしくA子さん自身が書いた文章なのです。そのあまりの表現力の豊かさに唸りました。

(原文のまま)

<戦争証跡博物館を訪ねた時の感想>          A子  (小4)

戦争のせいで体の形がかわっている子や、顔の形がかわっている子を見た時、私のこころにとても大きな震動がありました。同じ子どもが苦しんでいるのです。

戦争、なんという孤独なことで、私はこころのいたみを感じました。わたしは心の中でさけびました。「戦争はかんけいない子どもをまきこまないで!!」と。

わたしは、この子たちの中にわらっている子が多いことに気づきました。こんなくるしみを持っているのに、なぜ笑っていられるのだろうと思いました。わたしは、もっと小さいけれど光かがやいている希望があるのかなと思いました。

わたしは、たすけに行くことはできません。でもわたしは、この子たちにこういいたいです。

“ 小さな希望を持てば、大きなとびらが開けると ”

A子さんが書いてくれたこの文章の中で、最後にある言葉。(これが小学 4年生の語彙力の中から普通に生まれてくるだろうか・・・)と考えると、小4の彼女が今まで培ってきた感性の豊かさと、日本語世界の広さ、深さに、新鮮な驚きを覚えずにはおれません。

そしてベトナム訪問四日目に、カンザーへ 「マングローブ植林」 に行きました。今年のマングローブ植林は、今までやって来たように 『胎生種子』 を地面に挿すやり方ではなく、スコップで地面に穴を掘って、ポットの中で 2〜3年掛けて育てられた苗を植えるようなやり方でした。

この植林方法は、スコップで地面に穴を掘る作業が大変な苦労でしたが、炎天下の中でみんな大汗をかきながら、一時間半ほどかけて一人 12本もの植林体験を終えることが出来ました。最後にはみんな手も足もクタクタになっていました。

そしてその日の夕食の場所は、毎年恒例の <カンザーレストラン> です。昨年は小4男子のHくんが、日本から持ち込んで来た模造刀を手にして、 「柳生新陰流の居合いの型」 をこのレストランの全従業員の前で披露してくれました。

今年の生徒たちは全員が舞台の上に交互に立ち、日本の歌を歌ってくれました。ここにはベトナムの生徒たちがいるわけでもないので、無理して歌う必要はないのですが、段々と興が乗って来たからでしょう。中2のある生徒などは、二曲も歌ってくれました。レストランのおじさんや従業員たちも感心していました。

『ベトナムマングローブ子ども親善大使』の一週間のベトナム訪問中は、空白の時間がほとんど無く、毎日どこかを訪問し、毎日どこかで交流会をしていました。特に「ベトナム人の生徒たちとの交流会」は、今回の日程の中で全部で五回もありました。

それらのすべてにおいて、日本の生徒たち全員が積極的に日本の歌を披露してくれたことは、私にとって今年の『ベトナムマングローブ子ども親善大使』の印象的な思い出として強く残りました。

そして生徒さんたちが日本に帰った後、張り詰めていた気持ちが抜けた反動からか、体がだるく、二日間ほど何もする気が起こらず、頭もボーッとしていました。夕方ころになり、 ( ひさしぶりにビールでも飲みに行くか・・・ ) と思い、部屋の中にたまたまあった一冊の本を手にして、夕方降った雨でまだ濡れている道路を歩いて、近くの屋台まで行きました。

その屋台に行くと私は必ず、水槽の中をちょろちょろと泳いでいるドジョウさんを注文します。そこにたまに私が行く時、いつもその一品しか注文しないので、店員さんはメニューも持って来ず、何を食べるかとも問わず、 ( いつものあれか? ) と聞きますので、私もただ首をコクッと頷くだけで、多くを言わずして十分も経たないうちにそれを持って来ます。

ベトナムではドジョウのいろんな料理方法がありますが、私はそこではいつも唐揚げにしてもらいます。ドジョウの唐揚げに浸けるタレは、タマリンドの実を潰してヌックマムの液体に溶かして、そこに唐辛子を加えた独特な味がするタレですが、これが不思議とドジョウの唐揚げには合います。そこの屋台でドジョウの唐揚げをつまみに食べながら、ビールを飲みながら、その本を読んでいました。

私がこの時に持って行った本は、 <新渡戸稲造> 『武士道』 です。これは今年の春、日本に帰った時に友人が私にくれたものでした。ずいぶん以前にその本を読んだことはありましたが、私の友人は「外国にいると、新刊の本よりもこういう本がむしろ新鮮な感覚で読めるでしょう。」と言って、プレゼントしてくれました。そして、事実その通りでした。

そして今改めて読み返しますと、日本で読んでいた時とはまた違う感想が、一行・一行から沁みるように出て来ますから不思議なものです。この本は古典的な名著として世界的にも有名なものですが、最初の出だしからして、読者をぐっと引き込んでゆきます。

『約十年前、著名なベルギーの法学者、故ラヴレー氏の家で歓待を受けて数日を過ごしたことがある。ある日の散策中、私たちの会話が宗教の話題に及んだ。

「あなたがたの学校では宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか」とこの高名な学者がたずねられた。私が、「ありません」という返事をすると、氏は驚きのあまり突然歩みをとめられた。そして容易に忘れがたい声で、「宗教がないとは。いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と繰り返された。

その時、私はその質問に愕然とした。そして即答できなかった。なぜなら私が幼いころ学んだ人の倫 ( みち ) たる教訓は、学校で受けたものではなかったからだ。そこで私に善悪の観念をつくりださせたさまざまな要素をを分析してみると、そのような観念を吹きこんだものは武士道であったことにようやく思いあたった。』

よく考えると、新渡戸博士の『武士道』という高邁な本を読むには、そこはあまりふさわしくない場所だったのかもしれません。小奇麗なレストランで、チーズでもツマミにワインでも飲みながら、または日本料理屋で冷酒をグビリと呑みながら、静かな雰囲気がする場所で読むのが相応しいのでしょう。

しかし、私が住んでいる近くにはそういうレストランや日本料理屋さんは残念ながらありません。波打っているステンレス製のテーブルの下には、前のお客が食い散らかしたゴミが落ちています。前後ろの席にいるベトナム人客の、大きな声がワーワーとしてきます。しかし慣れてくると、こういうのもあまり気になりません。

ただ何もしないで時間を潰すのも「もったいないな」と思い、その本を持ち込んだ訳なのですが、頭は半分ボーッとしながらも前から読んでいた続きのページ、『武士道』の八章目の 『名誉』―苦痛と試練に耐えるために― の箇所を読んでいました。

そして新渡戸博士が書いた次のような文章に出会いました。その箇所を読んだ瞬間に、頭のボーッとした状態が消えてしまいました。新渡戸博士の『武士道』のこの章には、次のような文章が出て来ます。

<大阪冬の陣> の決戦の日、家康の幼少の息子 【徳川 頼宣 よりのぶ】 は先鋒に加えられるよう熱心に懇願した。だがそれは許されず、彼は後陣に置かれた。そして落城の報せを聞くや、若き頼宣はくやしさのあまり落涙した。

側にいた一人の老臣 【松平右衛門】 は「まだ御若年におはしませれば、この後幾度もかかる事に逢はせ給うべし、さまで御歎きに及ぶまじ」と頼宣を慰めた。ところが彼は、はたとばかりその老臣をにらみつけ

「やあ右衛門、常陸 ( 頼宣のこと ) が十四年の歳が またあるべきか」

といったのである。』

【徳川 頼宣】は家康の十男で、 <享保の改革> で有名な、後の八代将軍・ 徳川 吉宗 の祖父にあたります。そして徳川御三家の紀州家の祖になりますが、後に 「南海の龍」 という異名をとるほどの豪壮な性格でもあり、 「武断派」 としても知られています。その萌芽はすでにこの歳から現れていたようで、この 頼宣の言葉を聞いた家康は後で褒めたといいます。

私はそういう歴史的な背景とは全く関係なく、頼宣が発したというこの言葉、

【 十四年の歳が またあるべきか】

に強く惹き付けられました。そしてしばらく考え込んでしまいました。この時外にはサイゴンの雨季の時期に特有のスコールではなく、珍しく小雨がしとしとと降り始めてきました。

私は自然と、今年ベトナムまで訪問してくれた『ベトナムマングローブ子ども親善大使』の参加者たち十名を思い出しました。一番下の学年には小 4 の 9 歳の参加者が二人いて、そしてまさしくもうすぐ 14 歳になろうとする中2の生徒も二人いました。そのほかに、小 5 と中1の生徒さんたちが参加してくれました。彼ら十名の生徒たちは、いろんな選択肢があった 「この夏の過ごし方」 の中で、『ベトナムマングローブ子ども親善大使』の合宿を選んで参加してくれました。

そして「ベトナムの生徒たちとの交流会」ではみんなが日本の歌を歌い、カンザーでの「マングローブ植林」では、炎天下で汗だらけになりながら自分のぶんの全ての植林を終え、「ホームステイ」ではベトナムの家族の人たちに楽しい思い出を作ってくれたり、短い一週間ながらも実に充実したベトナム訪問ではなかったかと思います。

その彼らがこの夏のベトナムでの体験を後に思い起こす時に、一人・一人がベトナムを訪問した時の自分の年齢を回想しながら、

「あの夏に、あの歳で、ベトナムを訪問して良かったなあー!」

と、今年 2011 年の夏を振り返ってくれる時がくればいいなーと思います。

【頼宣】の言葉は、<大阪冬の陣>が 1614 年 11 月の 出来事ですから、実に今から四百年近くも経っているわけですが、その時に十四歳の少年が発した言葉が四百年後の今も、烈々として私に訴えかけてきています。

【十四歳の駅】をはるか後ろに通り過ぎてしまった私自身が、少年時代や青春時代に通過した駅で、その時の風景や、今にいたるまで出会ったさまざまな人たちを思い返しました。

そして、これからも来たる一年・一年の各駅で目にするであろう、出会うであろう、新しい風景や人との出会いをじっと見つめながら、次に来る駅を通り過ぎる時、

「○○年の歳が またあるべきか」

と、それぞれの歳で自分自身に問いかけてゆくことでしょう。

このベトナムの屋台であらためて読み直した、新渡戸博士の『武士道』に出てくる十四歳の少年 【頼宣】の言葉は、 私のこころに大変深く、強く残りました。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ ソウルに届くベトナム戦争の傷痕 ■

ベトナムに戻って来たばかりの、日本人のフォト・ジャーナリスト Murayama Yasufumi さんは、韓国のソウルで 11 月に “ベトナム戦争の傷痕” という題名で、写真の展覧会を開く予定です。この写真の中には、 2009 年にホーチミン市で展覧会をした時の写真もあります。

今回の“ベトナム戦争の傷痕”の写真は 60 枚 ( アルバムの中の写真も含んで ) あって、 Murayama さんが 14 年間ぐらいベトナムで撮り続けた、 『ベトナム戦争後』 の記録の集大成です。

この展覧会は 11 月 12 日から 19 日まで、ソウルの Art SpaceSeogyo で入場無料で行われます。この展覧会開催の初日に、 Murayama さんが短いスピーチをします。

1998 年 9 月から、 Murayama さんは “ベトナム戦争の後遺症” に苦しんでいる人たちをテーマにして写真を撮り続けて来ました。 Murayama さんが 8 月 23 日に Tuoi Tre( トゥイ チェー ) 新聞の記者に会って話した時、「ベトナム戦争で韓国は 320,000 人の軍人を送って戦争に参加しましたが、日本ではその時強い反戦運動が起きました。しかし今日本ではほかの多くの国と同じように、若者たちは“戦争”というテーマには全然関心を持ちません。」と言いました。

この日本人のフォト・ジャーナリスト Murayama さんは、今回そのほとんどを自分でお金を出してソウルで写真の展覧会を開きます。しかし幸運なことには、 Art SpaceSeogyo からの支援も頂けることになりました。

「今回の展覧会には戦争の後遺症に苦しむ人々の顔とか、痛ましい表情や傷痕の写真とかがありますが、それらの写真を通して、韓国の人々に“戦争はもう終わりましたが、戦争の後遺症がまだまだ残っているのです。だから、皆さんに平和の大切さを改めて訴えたいのです。」と話してくれました。

ベトナムの人々は、 2009 年ホーチミン市の 「戦争証跡博物館」 で、 Murayama さんが開いた、枯葉剤の エージェント・オレンジ の影響を受けた被害者たちの写真展をよく知っています。以前、枯葉剤被災者の支援活動をするために、 Murayama さんは一人で 9 月 23 日公園 に立って、“被災者支援の署名運動”の行動を起こしました。 Murayama さんのこの行動は、多くのベトナム人に深い感動が伝わってゆきました。

◆ 解説 ◆

今回村山さんのベトナム訪問は、回数にして 32 回目、期間にして 15 日間のベトナム滞在でした。たまたまわが社の「ベトナムマングローブ子ども親善大使」のベトナム訪問と重なっていたこともあり、数回しか会うことが出来ませんでした。

電話ではいつも話していましたが、毎日の撮影や取材などで忙しい様子でした。 15 日間の滞在の間に、撮影した写真は何と 4,500 枚にもなったそうです。その忙しい合間に、ベトナムの新聞社数社からは“逆取材”を受けていました。その一つがこの Tuoi Tre に載った記事です。

この記事がベトナムの新聞に載った翌日に、韓国の新聞社から直接村山さんに電話が ( 英語で ) 掛かって来たそうで、「大変驚きましたよー!」と笑いながら話されていました。

韓国では「ベトナム戦争」関係の写真展や本は、今に至るまで“タブー”とされているようで、それだけに今回外国人で、しかも歴史的に複雑な関係にある日本人が「ベトナム戦争」関連の写真を展示することには、現地では大きな反響があるということでした。

ベトナム戦争当時に乗り込んで来た韓国 軍は、多くの「民間人のベトナム人」を虐殺したとも言われています。日本に対しては、厳しい戦争責任を追及してきた韓国の人々にとって、自分たちの軍隊も非道なことをしていたというのは、長らくタブーであったのにはそういう事情がありました。

そしてあと一つの悲劇も生まれ、今も続いています。 「 Lai Dai Han(ライ ダイ ハン)」 の問題です。「 Lai」は「混血」、「Dai Han」は「大韓」のベトナム語表記です。戦争当時、ベトナムに乗り込んで来た韓国軍兵士と、ベトナム人女性との間に生まれた子どもをそのように呼ぶようになりました。戦争が終わり、韓国軍も引き揚げると同時に、父親がいなくなり、母親とその混血児だけが残されました。当然その子どもは父親の顔も知りません。

その「 Lai Dai Han(ライ ダイ ハン)」の存在を追いかけて、村山さんは前回の訪越で中部まで足を伸ばして取材して来られました。その時の話も、私は後でいろいろ伺ったことがあります。そういう意味でも、村山さんが良く言うように “ベトナム戦争の傷痕はまだ治っていない。ベトナム戦争の後遺症はまだ続いている。” ということです。

今度の韓国での「ベトナム戦争の傷痕」の写真展には、韓国人の友人がいるあの、 Gio va Nuoc( ゾー バー ヌック:風と水 ) という喫茶店をベトナムで開かれ、今は日本におられる SB さんも応援に駆けつけられるとのことです。

今まで村山さんは、日本やベトナムで写真展は行いましたが、村山さんにとって今回の韓国での写真展は、ベトナム以外では初めての「外国での写真展」です。様々な不安や困難はありましょうが、今まで多くの困難を乗り越えて来た村山さんのこと、新天地で必ずや成功させられるでしょう。

そしてその経験と実績が、また次の異国での写真展の実現に向けて歯車が回り始め、“大きなとびらが開く”ことを、村山さんを知る私たちは期待しています。



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