アオザイ通信
【2009年12月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

空港に響く“ サライ ”の歌

今年一年間続いて来た世界同時不況は、来年も続くのか、終息するのか、これから少しは景気が回復するのか、それともこのままずっと長いトンネルに入っていくのか、その第一線にいない私にはよく分かりません。

しかし日本に行く研修生たちの人数の増減という物差しで単純に見た時には、 2009 年の初めの状況から比較しますと明らかに良い方向に向かっています。ただし 私が教えているところでは、 以前の彼らの派遣先は主に名古屋方面が多かったのですが、今は東京や大阪に代わってきています。自動車産業の多い名古屋は、まだ状況が好転していないようです。

それにしても 今年の初めの状況は、研修生たちにとって本当に“ 氷河期 ”ともいうべき状況でした。何しろ今まで十クラス近くあった日本語のクラスが、 そ の時期には三クラスくらいにまで落ち込んでいました。人数も 60 人くらいにまで減ってしまいました。

そして生徒たちも、なかなか日本に行けない状況にしびれを切らして、「先生、いつかまたお会いしましょう。」と言う言葉を残して、泣く泣く故郷に帰る生徒たちが続出しました。

さらには 、 幸運にもその前に日本に行けたベトナム人研修生たちの中でも、当初の予定の三年間の契約期間が終わる前に、二年や一年で帰国させられたり、一番短い者ではわずか三ヶ月で契約を打ち切られて帰国させられた者もいました。

それがここ最近は人数がまた増え始めて、今は 200 名を超える研修生たちが寮に住んで生活するようになりました。これだけの生徒たちが今増えているということは、少なくとも彼らが働く予定の職種の分野では、徐々に景気が回復して来ているものと思われます。

今私が教えているところでも、平均すると毎月 15 〜 20 人の研修生たちが日本へ飛び立って行きます。この寮で彼らが日本語を学ぶ期間は、大体6ヶ月くらいです。テキストでいえば、基礎編を一冊終えた頃に、ようやく日本行きが決まるというのが標準的なコースです。

そしてここ一年以上前から、彼らが日本へ行く予定が決まって出発までの約一ヶ月の間、私は授業の最後に日本の歌を教え、毎日クラス全員で歌うことにしています。授業の細かい内容はいずれ忘れても、ベトナムにいる時に口に出して歌った日本語の歌詞とメロディーは体で覚えているでしょうし、彼らが日本にいる時にいつか役に立ってくれるかもしれないなと思うからです。

以前 Saint Vinh Son (セイント ビン ソン)小学校の生徒さんたちと一緒にカンザーに行った時や、教室の中で歌った時には、対象が小学生だけに日本の童謡を中心にして歌いました。そしてすべて「ひらがな」で書いた歌詞カードを生徒さんたちに配りました。

Saint Vinh Son の生徒さんたちには、一年以上くらい前から日本人の A さんがボランティアで日本語を教えていますので、生徒さんたちも「ひらがな」は読めます。そして子ども特有のノリで、みんな元気良く、楽しく歌ってくれました。

しかしここの研修生たちには、私は日本の歌の中でも有名な三曲だけを歌っています。その三曲は、日本で日本人が歌うのと同じ歌詞カードから引用していますので、当然漢字も入っていますが、その上にはルビを振っています。そしてこの三曲すべてにベトナム語の訳を付けています。

さらにこの三曲ともすべて、歌手本人が歌う声と演奏を、私の携帯電話の中に収録していますので、みんなで歌う時にはそれを教室の中で大きく響かせて一斉に歌います。

その三曲は、あくまでも私自身が歌いやすい、覚えやすいというだけの個人的な趣味で選んだものなのですが、ベトナムと日本をまたいで働いている彼らが母国・ベトナムの故郷を偲び、さらにまた日本にも愛着を覚えて欲しいという気持ちがあります。もっとも、最近の新しい日本の歌を私自身が知らないので、私が授業の中で彼らに紹介するのは、ずいぶん古い曲になりますが。

しかし時代や場所を問わず、昔からの名曲や、歌唱力を持った歌手の歌というのは、異国においてもやはり人のこころを打つのだろうと思います。以前、インドからベトナムに来た日本人旅行者が私に話してくれました。彼がインド人の前で、美空ひばりさんが日本語で歌っている曲を聴かせたら、そこにいたインド人たちは日本語が分からなくても、「これはすばらしい歌だ。そしてこの歌声はすごい(グレート)!」と感嘆したように言ったそうです。

ですからその三曲も、私自身が個人的に「名曲」と考えているだけのことで、彼らベトナムの人たちにも、日本に行く前にこのようなすばらしい歌詞やメロディーを持つ日本の歌を知ってほしいというだけのことです。

その一つは“ 四季の歌 ”です。芹洋子さんの明るく、透き通った歌声はベトナムの人たちにも強い感動を与えるようで、最初にこれを聞かせた時には、どのクラスでもみんながシーンとして耳を傾けています。そして歌詞も短いので、覚えやすく、歌いやすいようで、生徒たちもすぐ歌えるようになります。

私がこの歌を彼らに教える理由は、歌いやすいということもありますが、日本へ行った彼らが、三年間の日本滞在の間に日本の春夏秋冬の四季を体験し、それぞれの季節の中にある日本の美しさ、ベトナムとは違う季節の移ろいというのを感じ取ってくれたらいいなーと思うからです。

そして二つめは“ 乾杯 ”。「これはもし日本で宴会や結婚式などに招かれた時に歌ったらいいよー。」と解説してから歌いますが、外国人である彼らには、“ 四季の歌 ”よりも当然難度は高いですね。それでも四・五回繰り返した後には、結構上手になります。そしてこの“ 乾杯 ”のベトナム語訳は、「日本とベトナムの架け橋になりたい!」という夢を抱いている、日本語能力試験一級合格の、あのBくんにお願いしました。

彼らにこの歌を紹介してしばらく経ち、歌詞の意味も徐々に分かりだしてくると、最後の部分の

♪ 乾杯! 今君は人生の 大きな 大きな舞台に立ち ♪

    はるか長い 道のりを 歩き始めた 君に幸せあれ!!

というところに歌が至ると、みんなが一斉に右手を上に突き出して、大声を出して歌ってくれます。こういうところは、ベトナムの若い人たちは本当にノリがいいですね。

願わくば、彼らベトナム人が日本で忘年会や、新年会や、結婚式に招かれた時などに、この長渕剛さんの“ 乾杯 ”を日本語で歌って参加者をびっくりさせて欲しいものです。最近の若い日本人がこの曲を知らなければ、ベトナム人である彼らが、日本人の若者たちにこれを歌って、教えて欲しいと思います。そしてまた異国の人が舞台に立ってこの歌を日本語で歌ってくれたら、そこにいる日本人も大いに喜んでくれることでしょう。

全般的にベトナムの人たちは歌が好きで、日本人以上に大変カラオケ(日本発祥のカラオケは、ベトナム語でも KARAOKE です)好きでもあります。カラオケ屋さんに行っても、普通の学生が大変上手な歌を披露してくれます。さらには自分が入れた曲をその人が一人で歌うことは少なく、みんなが一緒に歌いだします。

また「母の日」や「先生の日」などの行事には、ベトナムではそれにふさわしい歌が学校の中で教えられているようで、先月 11 月 20 日の「先生の日」には、 私が教室に足を踏み入れるやいなや、生徒たちが一斉に立ち上がり、全員が黒板の下の教壇上に立つ私の近くまで進み、 [Bui Phan( チョークの粉 )] という歌を歌ってくれました。

これは音楽もさることながら、その歌詞自体も大変こころ打たれる内容です。 音楽は紹介出来ませんが、その日本語訳の歌詞をご紹介します。

♪ 先生が板書して  チョークの粉が 降ってくる  ♪

チョークの粉が  教壇の上に 降る

チョークの粉が  先生の髪に 降り積もる

私はこの瞬間が好き   私の先生の  髪が白くなる

チョークの粉 で  白くなる

先生の楽しい授業  将来大人になっても

どうして  忘れることが できるでしょうか

昔先生は  教えてくれた

私が  まだ幼いときに 

こういう歌に限らず、ベトナムでは低学年の時からみんなが一斉に歌える歌を教えているらしく、長じてもある一つの行事が来た時には、そこに参加している若い人たち全員が、このような歌を歌詞カードも見ないで、大きな声を出して歌います。こういう点は、今の日本の若者とは実に大きな違いがあります。

毎週日曜日に開いている「日本語会話クラブ」でも、時々日本から若い大学生たちが参加してくれますが、自己紹介の後に、「ではベトナムのみなさんのために、日本の歌を一曲どうぞ。」と私が勧めても、「いやいや、私は歌えません。」「私は歌には自信がありません。」と言って、自ら身を乗り出して積極的に歌おうとする日本の若者は少ないですね。

さらにまた「ではみんな全員で、何でもいいから歌って下さい。」とお願いしても、「いや、その曲は私は知りません。」「私も・・・」という返事が多く、最近の日本の若者たちは、全員が共通の知識として覚えている日本の曲が実に少ないことに、こちらにいる私は改めて驚かされます。

しかしベトナムの若者たちは、「はい、先生。私が歌います!」といってまだ若い女子高生くらいの年齢の子たちが、堂々と 4 ・ 50 人くらいの前で歌います。そしてまだ若いながらも声は大きいし、歌も実に上手いものです。その生徒が一人でみんなの前に立って歌い始めると、ほかのベトナム人の若者たちも、手拍子を取りながら全員がその歌の輪の中に入って歌い出すのです。

しかしそういう引っ込み思案な日本人の若者の中でも、世界一周をしているあの大介くんは違いました。ベトナム人の若者たちの前で、次々と歌を披露してくれました。後で私は彼に言いました。「やはり君は世界一周する資格と能力があるよ。これから行く先々で、日本の歌を披露して下さいね。」と。(そういえば彼は、「今ようやくエジプトに到着しました。」と近況を知らせてくれました。)

このように普通の素人でも、私が「日本語会話クラブ」や、カラオケ屋さんなどで聴くベトナムの人たちの歌は実に上手い人たちが多いので、“ プロの歌手は歌が上手くて当たり前 ”という雰囲気があります。もっとも、それが“ 当たり前 ”なのですが。ベトナム語には声調があるので、絶対音感のレベルが日本人よりも高い人たちが多いのでしょうか、良く分かりませんが・・・。

昨年5月にサイゴン市内の劇場で行われた、「日本・ベトナム 35 周年記念コンサート」でも、日本とベトナムの歌手が全部で 12 人参加して歌を披露してくれました 。その 全ての歌手の中でも、秋川雅史さんが歌った“ 千の風になって ”は傑出していました。

しかし、私の個人的な感想でいえば、総体としてベトナム人の歌手のほうが歌唱力は高かったと思いました。私が時にテレビで見るベトナムの歌謡番組でも、その歌詞の意味は深くは分からなくても、すばらしい歌唱力を持った歌手が多いと思います。

さて三つめは“ サライ ”です。この歌はちょうど二年前に、日本から来られた同僚の M 先生に初めて紹介されて、このベトナムで私は知りました。それまではその存在自体も知りませんでした。そしてその後、この歌の由来や成り立ちも分かってきましたが、私にこの歌を紹介した M 先生自身は、今はもうこのベトナムにはおられません。現在はタイで、日本語をタイ人の会社員に教えています。

M 先生は日本からこの“ サライ ”の DVD を持ち込まれましたが、それを私が二年前に初めて聴いた時、涙が出るほど、本当に深く感動しました。特に私はふだん異国にいますので、この歌のメロディーとそのすばらしい歌詞の一行一行に、すんなりと感情が移入できました。谷村さんの歌に共通しているのは、 “ 歌詞 ”ではなく“ 詩 ”を綴っているという感じがします。

そして M 先生が来られてから、また M 先生がベトナムを去られてからも、私はこの歌を折りに触れて、「日本語会話クラブ」のような場所などで歌って来ました。先日も人文社会科学大学でも開かれている、もう一つの「日本語会話クラブ」で、ベトナムの人たちの前で歌ってきました。

よく考えますと、この “ サライ ”の歌は、私が M 先生から紹介されて二 年間近く歌い続けていることになりますが、今だに飽きが来ません。やはりそれだけすばらしい名曲だからといえるでしょう。今はもう、全ての歌詞も完全に暗記してしまいました。

そして時に私が訪れる喫茶店で、悠々と流れるサイゴン河を目の前にして、夕暮れ時にこの曲を聴いていますと、胸が締め付けられるような思いがします。

この歌はメロディーも非常にゆっくりとしていて、音の高低差もあまりないので、ベトナムの人にとっても大変歌いやすい曲です。そして彼らにもこの歌の美しさ、意味の深さが分かるのでしょう。これを教えてから一週間くらい経つと、授業の最後ころに至るや、生徒たちのほうから「先生! “ サライ ”の歌を! 」と催促してきます。

最近は毎月平均 15 〜 20 人の研修生が日本に行くことが出来るようになったと言いましたが、先月の下旬には 15 人の生徒たちの日本行きが決まり、先生たちや友人たちと彼らを空港に見送りに行くことになりました。

夜の7時半ころには、もう研修生とその家族が到着していました。一人、二人であればもっと遅くてもいいのですが、人数が多くなると手続きなどに時間が掛かるので、余裕をもって早く到着していました。そしてまたいつものごとく、他の団体やお客さんを見送る、多くの人たちで混雑していました。ざっと見ても、約五百人は超える人たちがそこにいたでしょうか。

日本に行く時間が迫り、家族や友人たちとの別れを惜しむ研修生たちの中でも、女性はやはり目を赤くして泣いていました。これから三年間の別れが来るのですから、一人・一人が家族との抱擁を繰り返し、中には生まれたばかりの子どもを抱いている男の研修生もいました。彼の奥さんも目を潤ませていました。

そしてもうすぐゲートの中に入る時間の 15 分前ころになって、いつもクラスの中でリーダー格のQくんが私の前に進み出て来て、「先生、今までいろいろ有難うございました。後少しで私たちは中に入ります。それで最後にここで “ サライ ”の歌をみんなで歌いたいと思いますので、先生も一緒に歌って下さい。 」と、頭を下げて言うではありませんか。

「ええーっ!ここで歌うの!?」と、私たちの回りにワンサカといる、約五百人くらいの群集を見た時に、私も一瞬ひるみました。しかしQくんの顔付きは冗談ではなく、真剣な感じであり、すでに 15 人ほどが集まる空間を作って、そこにみんなが集まり出しました。

さらに彼らのその手には、いつも私たちが教室で使う歌詞カードのコピーが握られているではありませんか。(みんな事前にそのつもりで、今日の旅立ちを周到に準備していたのか・・・)と、私にもこの時の彼らの「故国とのしばらくのお別れ」をしないといけないという、辛い気持ちがヒシと伝わりました。

しかし場所が場所だけに私も一瞬大いに迷いましたが、彼らの顔、家族との別れの場面を見ていて、(よし、今日が最後だから歌ってあげるか!しかしさすがに少し恥ずかしいけれど、このタン ソン ニャット空港を大きなカラオケ屋さんだと思い、回りの群集は全員が彼らの家族や友人だと考えてみんなで歌おう!)と決めました。

そしてそのことをQくんに話すと、喜色を浮かべてそれをみんなに伝えて、お客の通行の邪魔にならない場所にみんなを集めました。そして歌詞カードを一人・一人が手に持ちました。家族の人たちや友人たちは、(何が一体今から始まるのかな・・・?)という感じで見ています。

私はふだん授業で使う指示棒を胸ポケットに挿していますので、それを指揮棒代わりに使うことにしました。そして私の携帯電話から “ サライ ”の曲を選び、音量を最大限にしてそのスイッチを押しました。

♪  遠い夢 捨てきれずに 故郷を 捨てた   ♪

穏やかな 春の陽射しが 揺れる 小さな駅

別れより 悲しみより 憧れは 強く

寂しさと 背中合わせの ひとりきりの 旅立ち

“ サライ ”の歌を、空港の中に響くような、大きな声で歌う 15 人の研修生たちの回りを囲んだ家族や友人たちも、なぜここで日本の歌を自分の息子や娘たちが歌っているかはおぼろげながら分かってきます。

家族の人たちは私たちが大声で歌っている時にも、静かに聴き入っていました。しかしそれ以外の大多数の人たちは、(一体何が始まったんだろうか?)と、ベトナムの人たちに良くある「好奇心の塊」という顔をして、続々と集まって来ました。

私は研修生たちの前に立って、指示棒を振りながら歌っていますので、回りの群集の様子が良く見えました。研修生たちの回りを家族や友人たちが囲み、さらにその回りに他の多くのお客さんたちが集まり出して来て、私たちが歌う様子を爪先立ちしながら見ていました。

しかし一旦歌いだすともう後には引けません。私も(この曲自体は 6 分間くらいの時間だから、何とかいけるかな、それとも制止されるかな・・・)と、内心の心配はありましたが、 3 分、4分と歌が進んだころに、はたして人垣の向こうから、空港職員の制服を着た中年男性と、アオザイに身を包んだ若い女性がこちらに向かって来ました。この時には“ サライ ”の歌の中でも、ちょうど一番佳境に入り、みんなが大声で歌って盛り上がっているところでした。

 ♪ 離れれば  離れるほど  なおさらに  つのる ♪

この思い  忘れられずに  開く  古い アルバム

若い日の 父と母に  包まれて  過ぎた 

やわらかな 日々の暮らしを なぞりながら 生きる

ここまでの歌を歌っていた時に、向こうから近づいて来ている二人の姿を見て、 (あいたー、これはいけない。止めさせられるかなー・・・。)と覚悟しました。

日本だったらまずこういう場所で、みんなで歌を歌うというのは無理でしょうし、最初から歌おうとも思わないでしょう。それで彼ら二人がどういう行動に出るかを、私はみんなと一緒に歌を歌いながら注視していました。研修生たちには、彼らは後ろの位置にいますので見えません。

すると、その二人は群集の中に頭を突っ込みながら、そこに近い場所にいた研修生が手にした歌詞カードを興味深そうに、笑いながら見ているではありませんか。この“ サライ ”の歌にはベトナム語の訳が付いていましたので、彼ら二人にもみんなが歌っている内容が理解できたようでした。そしてしばらくしたら、何も言わずに、笑顔のまま引き揚げて行きました。(制止されるかな・・・)と思ったのは杞憂に終わりました。

これにはホッとしたと同時に、以前カンザーに Saint Vinh Son 小学校の生徒たちと行った帰りに、この学校の支援者であるRさんが「ベトナムの人たちは鷹揚(おうよう)なんですね。」と言われたことを思い出しました。

あの時もフェリーの中で、生徒たちと日本やベトナムの曲を四曲ほど大きな声で歌ったのですが、係員の人たちからも誰からも「止めて下さい。」とは言われませんでした。むしろみんな興味津々という感じで見ていました。

♪ サクラ 吹雪の サライの空へ   ♪

いつか帰る いつか帰る きっと帰るから

そして無事に “ サライ ”の歌の、この 最後の部分までをみんなで歌い終わりましたが、その時には全員の研修生たちが目を赤くしながらも、「よし、今から日本に行くんだ!」という顔付きをしていました。

家族の人たちとも最後のお別れをして、彼らは大きいボストンバッグを引きずりながらも、 両親の顔を何度も何度も振り返って、涙を拭きながら空港の中に消えて行きました。

※春さんは1997年春よりホーチミンに駐在しています。今ではすっかり現地の人となって、見分けもつかなくなっています。春さんに質問や相談があればメールをお送りください。
info@te-campus.com ※件名を「春さんに質問!」にしてくださいね。




「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 今月のニュース < 日本の農家の人たちの溢れる愛情> ■

「たぶん日本の農家の人たちは、ベトナムの全土にいる一般的な農家の人たちとあまり違っていないのではないか。」

私たち六人のベトナム人女性はこの“日出る国・日本”での二日間のホームスティ(地元の住民の家に宿泊する旅行形式)を終えた時に、福島県の高郷(タカサト)町の農家でそれを実感しました。

世の中の人たちのために、いろんな農産物を作っている日本の農家の人たちの幸せと誇りを、私たちは感じ取りました。そして喜多方市の小学校の授業のプログラムの中では、ちゃんと「農業の授業」を学生たちに教えていました。

それで学生たちは、自分の生まれた地域に愛着を覚えるようになり、昔から伝わる農業を続けていこうという動機付けにもなります。

「まー君」と、今回私たちの六人のベトナム人女性が親しみを込めて呼んだ、ホームステイ先の“義父”は、「農業は自然の色々な変化や作物の成長が面白いし、みんなのために農産物を作っているという誇りも持てるし、さらには自分が社長でもあるんですよ。」と言いました。

また日本の農村とベトナムの農村に共通している問題は、「若い人たちが都会へ行ってしまう」ことです。今回の私たちのホームステイの間、私たちを案内してくれた、福島県の代表であった Taso さんは「田舎にいる若者たちは、仕事のために東京や他の市に行ってしまって、週末に実家に戻ります。あるいは、家はそのまま残して、休みの日だけ実家に帰って来て、その家を使っている人もいます。」と説明してくれました。

私たち二十人の年齢の若い参加者(半数はベトナム人、半数がミャンマー人)は、ここの住民からこころ温まる歓迎を受けました。この高郷町は山あいにある町で、道路の並木の葉は真っ赤に色づき、町の中を穏やかな川がゆっくりと流れていました。最初ここに着いた日、私たちの母国と同じような、地元に古くから伝わるお祭りに招かれて、それが大変強い印象が残りました。

お祭りの場所に入った時には、みなさんの笑顔に迎えられ、日本の人たちが普通の習慣として行う挨拶を私たちにもしてもらうと、心が温かくなって、自分たちは今日本にいるのに、まるで自分の国にいるように感じられました。

私たちはこの地元の特産を頂きました。ベトナム人の口にも良く合う“日本そば”は、みんなにも喜ばれて評判が良かったです。そしてもちろん、お客様をもてなす時に欠かせない「茶道」の接待も受けました。私たち女性たちには日本の着物を着せてもらいました。

ここに着いた最初の日の夜、ここの住民の人たちが私たちに注いでくれる溢れるような愛情を感じながら、農家の人たちの家に泊まりました。夕食後、私たちは“義母”と一緒にお茶碗を洗いました。義母は私たち一人一人に熱いお茶を湯飲み茶碗に注いでから、義母の若い時代の着物を取り出して見せてくれました。その中には、義母が結婚式の時に着た着物もありました。

義母は私たち一人ずつに着物を着せるのを手伝ってくれました。外は大変寒くても、部屋の中は暖房を入れているので、着物を着ると汗が流れてきて、その着物を脱いだ後、「暑い!」というジェスチャーをしました。

さらに、私たちは日本の寝具“ふとん”の使い方も教えてもらい、朝は早く起きてご飯を炊き、ここの人たちが普段食べている食べ物の作り方を教えてもらい、私たちにもっと地元の習慣を理解してもらえるようにして頂きました。

天気予報を聞いていますと、この日の晩に雪が降ることが分かり、義母は私たち一人一人の部屋へ電気毛布を持ってくれて、その使い方を教えてもらいました。その晩外は雪が降っていて、森は真っ白になりましたが、私たちはとても暖かく感じて熟睡することが出来ました。

そして小さな町の人たちと一緒に過ごした二日間が、あっという間に過ぎました。明日はこの小さな町に“サヨウナラ”を告げなければなりません。義父母の近所の人たちは朝早く起きて来て、私たちに会うと一緒に記念写真を撮り、また私たちに「お土産です。」と言ってお菓子をくれました。

この小さな町の住民の方々の純朴な態度、温かい愛情はなんだか私たちが生まれ、成長した故郷と同じだなーと感じました。別れる時のみなさんたちの目を見ますと、別れが名残り惜しいという表情をしていました。

日本政府が行っているこの JENESYS Programme(21 世紀東アジア青少年大交流計画 ) というプログラムにより、東アジアの若者たちは日本へ観光や国際交流に行くことが出来ます。そのおかげで、今回私たちも高郷町でのホームステイを通して、日本の田舎生活の貴重な体験が出来ました。

 「タカサト、最高だ!」

(解説)

この新聞記事にある一葉の写真には、軽トラックの荷台の上でピースサインのポーズを取って、嬉しそうな笑顔を浮かべた六人の女性と、穏やかな顔をした一人の“おじさん”が写っていました。おそらくはこの人が、彼ら六人がホームステイした家の「まー君」と呼ぶ人なのでしょう。その写真から、いかにも温かそうな人格が伝わってきます。

ホームステイについていえば、わが社・ティエラの夏休みの国際交流プログラム「マングローブ親善大使」にも、ベトナム到着後すぐに、ベトナムの人たちの家庭にホームステイをする企画を採り入れています。

ホームステイというのは、それを体験する側にはある覚悟が要りますが、それを受け入れる側もまた、事前の準備などで大変です。部屋の清掃、寝具や食事の支度などに、ふだん家族だけで生活しているのとはまた違う労苦が掛かります。

ですから、「国際交流のために」という考え方に理解を示してくれるホームステイ先を選ばないと、子どもたちもそのホームステイ先の家庭の温かさを感じることはないでしょう。

このベトナムに初めて来た小中学生たちが、これまた初めてベトナムでベトナムの人たちの家に泊まるというのは、大きな体験と言えるでしょう。後で子どもたちの感想を聞きますと、やはり深い印象と思い出を残しているようです。

そして、その子どもたちを受け入れてくれたホームステイ先の大変さはよく分かりますので、子どもたちを翌日引き受けに行く時には、そこの家族の人たちに「本当にお世話になりました。」と礼を尽くしています。

Luan 先生の村山学校の生徒たちも、今年の夏に東京でホームステイを行いましたが、日本を去る前日には生徒たちが全員、「ベトナムに帰りたくない。日本にこのままずっといたい!」と、ベトナム人の引率の先生に口々に言ったそうです。

この JENESYS Programme というのは、安倍元首相が 2007 年の初めに、東アジア首脳会議の場で提案してからすぐ実施されたプログラムのようです。実際にこのような参加者の意見を見ますと、安倍元首相という人はその政権は短かかったにしても、いろいろな大きい遺産を残しておられるなーとつくづく思いました。その遺産の一つが、このような ホームステイ先との“国際交流”だったわけです。

そしてここに参加した人たちから、安倍元首相が提案したプログラムに対してこのような好意的な意見が寄せられたということは、大変意義のあることだと思います。であればこそ、今後も継続して行って欲しいと思います。

しかし、もしやまさかこのプログラムも、「事業仕分け人」の方々から「予算削減!」の名の下に、「来年度廃止!」と断を下される恐れはないでしょうか。そうならないことを切に希望致します。



ベトナム写真館 バックナンバーINDEX