アオザイ通信
【2009年7月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<三つの老舗>

ベトナム戦争当時、まだ若い二十代初期にそのベトナムでバナナの栽培に関わっていたYさんとSさんには、不思議な共通点があります。実はお二人ともベトナムと日本で、創業五十年以上を超える老舗の料理屋と直接、間接に深い関係があったのでした。

昨年の末に元日本兵 Fさんのお墓を訪ねて、Cai Be(カイ ベー)まで行く途中のバスの中で、お二人からベトナム戦争当時のいろんな話を聞きました。その時にさらにまた、Sさんがベトナムから引き揚げて日本で働いていたお好み焼き屋さんのこと、Yさんのベトナム人の奥さんの実家のPho(フォー)屋さんのことなども、直接聞くことが出来ました。

面白いのは、お二人とも自分の口からは、自分に関係の深い店については饒舌には喋られなかったのでした。 YさんがSさんのお好み焼き屋についていろいろ語られ、SさんはYさんの奥さんの実家のPho屋についてまたいろいろ話されたのでした。それを聞いていた私はようやく、お二人が関係している店は実は日本でも、ベトナムでも、知る人ぞ知る有名な老舗の料理屋だということが分かってきました。

Sさんがベトナムにいたのは、 1963 年から 1975 年までの 12 年間ぐらいで 、日本に帰った後には、一時は商社に勤められた後、たまたまベトナムにいた時に出会ったお好み焼き屋の主人に請われて、そこの店で働くことになったそうです。それからそこを退職するほんの最近まで勤められていました。今現在はそこの仕事からは退かれています。

Sさんが働かれていたお好み焼きの店は、東京の浅草にあります。最近私自身は東京に行くことはめったにないのですが、この春日本からベトナムに戻ることになった時に、たまたま東京に所要が出来てその機会が訪れました。

それで事前に Sさんに「浅草のお好み焼き屋で再会しましょう。」と連絡しました。Sさんもこころよく承知されました。そしてその再会を約束した一週間ほど前に、たまたまテレビを見ていましたら、「全国お好み焼き屋さん巡り」という番組が放送されました。それをしばらく見ていた私は、思わず身を乗り出しました。

広島や関西の、その地でも有名なお好み焼き屋さんが次々と紹介されていって、最後に東京のお好み焼き屋さんの番になった時に、何とその Sさんの店が紹介されたのでした。それを見て(やはり、大変有名な店なんだな〜)との感を強くしました。

そして東京に着いた当日、所要を終えて7時過ぎの薄暗くなったころに、私は会社の同僚 N氏と一緒に地下鉄に乗ってそこを訪れました。しかし今回初めてそこに行くので場所が分からず、地下鉄を降りたところで駅員さんにSさんの店の名前を言いますと「ああー、そこにはこう行って、こう行けばいいですよ。」とすぐに答えてくれました。そして駅員さんが広げてくれた地図には、くっきりとその店名が書いてありました。

降りた駅からは歩いて五・六分ほどで、目指す Sさんの店に着きました。そして外からその店の光景を見て、私とN氏は大いに驚きました。外から見た店構えといい、店の前に据えてある赤い文字の店名の入った行灯のような看板といい、その店の区画だけがまるで時代劇のセットのような、恐ろしく年季の入った店のたたずまいなのでした。

しかし今私たちの目の前にあるのは時代劇のセットではなく、創業以来そのままの姿で今も営業しているお好み焼き屋さんなのでした。東京という大都会の中に、このような店が今も存在していること自体がどうにも信じられない思いでした。

店に入ると、 Sさんは私たちをにこやかな笑顔で迎えられました。そしてこの席にはまた、私と同じくサイゴンでSさんとの交友を重ねていたフォトジャーナリストの村山さん、その村山さんの紹介で、サイゴンでちょうど満月の日に、実は彼のお父さんが私の熊本の実家の隣の家であるという奇跡的な出会いをした、あのS君、さらにはマイケル・ラッタさんとの縁で熊本で初めて会うことが出来たIさん、そして同僚のN氏や、私の友人などが参加しての大変にぎやかなものになりました。

この日は特別に Sさん自らが鉄板のコテを両手に握って、二時間以上の間私たちのために焼いて頂きました。私たちは、この日のメニューはすべてSさんにお任せしました。最終的には全部で六種類くらいのメニューが出てきました。

出てきたメニューは、 Sさん自らが考案したというものまでありました。梅の風味を入れたり、アズキの餡を入れたり、餅を平たく潰して焼いたりと、ふだん日本では(特に熊本では)あまりお好み焼きを食べない私でも、(こういうのは、他の店ではあまり食べることは出来ないだろうなー。)と想像出来るような、大変独創的なお好み焼きでした。

私たちは Sさんが自ら焼いてくれたお好み焼きを食べながら、この店の歴史についてもSさんからいろいろ話を聞きました。Sさんの話によりますと、浅草のこのお好み焼き屋さんは 1937年に開業したとのことでした。ということは、今年で実に72年経っているわけです。そしてここを訪ね、ここを愛してくれた、多くの芸人や有名な 文人墨客の名前も紹介してくれました。

実際に私が座っていた席から見える範囲や、隣の部屋の壁の上のほうには、ここを訪れた人たちの色紙が飾られていました。以下敬称を略しますと、 高見 順、坂口安吾、檀 一雄、開高 健、 源氏鶏太、 渥美 清、東 八郎などの名前入りの色紙がありました。

そして S さんが話されるには、今お好み焼きを焼いている鉄板は何回か取り替えているけれども、その鉄板の枠を囲っている板は創業当時からずっとそのままだということでした。板張りの床もそのままのようで、永い歳月で独特の色合いが出ていました。

しかしお好み焼きというのは大衆的な食べ物なのでしょうが、この店構えといい、この店にまつわるいろんな話を聞いたりしていますと、ただお好み焼きを食べるという単純なことなのに、何ともいいようのない感動のあまり、胸一杯・腹一杯になってくるのでした。そして私たちが店内で食べている時にも、西洋人のお客さんたちも多く入って来ていました。

私は席を立った時にギシギシと音を立てる板張りの床の上を歩きながら、このような伝統ある建物を守るのも大変だろうなーと思いました。店に来たお客が快適なように改修するのは簡単なのでしょうが、そうすると多くの文人墨客に愛されて来たこの店の風情は失われてしまうことでしょう。

冷房や暖房の設備もありませんでしたが、寒い冬などは冷たい隙間風が入るなどの多少の不便さは承知の上で、多くのお客さんから愛されてきた、昔ながらの店の雰囲気を守っていこうという、店主の気概をヒシヒシと感じました。

私たちはそこのあまりの居心地の良さに、ずいぶん長い時間座っていましたが、あと少しで店の閉店時間が近づいてきたからなのか、中にいた店員さんが戸板を抱えて外から敷居のレールにはめていました。自動ドアなどはありません。毎日同じようなことをしているのでしょうが、こういう動作までにも何ともいえない風情を感じてしまいます。

この日にはテレビに登場して解説されていた女主人らしきおかみさんには会えませんでしたが、この店の伝統を守っているいろんな人たちの存在感をひしひしと感じました。そして Sさんと別れる時には、今日このような店を訪ねることが出来、Sさん自らこころこもったサービスして頂いたことに、みんなが厚い謝意を述べていました。

そしてベトナムへ戻ってから、私はすぐに Y さんに会うことが出来ました。そして浅草での S さんの店のことも話しました。 Y さんは笑いながら聞いておられました。そしてそのY さん自身が、「後一ヶ月くらいしたら日本に一時帰る予定です。」と話されました。

今 Y さんは三ヶ月に一回ほどのペースでベトナムに来て、個人で立ち上げた仕事の管理をしています。 Y さんは今年66歳になりますが、時間があれば自分でバイクを飛ばして、片道100キロ以上はある、メコンデルタ方面にいるベトナム人の友人たちに会いに出かけに行きます。とても60歳半ばを超えた人とは思えないくらい、壮健そのものです。そして Y さんのベトナム人の奥さんは、今日本に住んでいます。

Y さんは私に「いつか女房の実家の Pho を食べに来てよ。」とは、一言も言いません。 そして私は Y さんにいろいろ質問して、奥さんの実家の Pho 屋さんの今に至るまでの歴史を聞くことが出来ました。

Y さんが私に話してくれたのは、奥さんの家族は 1945 年にハノイからサイゴンに来たということでした。そしてハノイ風味の(というか、 Pho はもともとハノイが本場なのです。) Pho 屋さんを今の場所に開いたのが、 1954 年のことでした。ということは、今年で55 年になるわけです。これまた今のサイゴンにあるPho屋さんでは、ものすごい長い歴史といえるでしょう。

このサイゴンで私自身は会社にしても、料理屋にしても、創業以来 50 年を超えている会社や料理屋の存在を聞いたことがありません。この国は長い戦争が続いていたという事情もあるでしょうが、ベトナムで商売をしている人たちの営業方針というのは、日本人が商道徳で最も重んじる、「信用と信頼」にその基本を置いているというのは無いとは言いませんが、あっても少ないからともいえるでしょう。日本でも最近はその「信用と信頼」が揺らいできた会社が出てきましたが、その割合はまだまだ少ないからこそニュースになったということでしょう。

しかし Y さんの奥さんの実家の Pho 屋さんは、このサイゴンで珍しくも長い歴史を刻んで今に至っているのでした。 Y さんが直接見た光景では、この店には後に南ベトナムの大統領になった Nguyen Van Thieu (グエン バン ティウ)も、軍隊の中で中佐の時にジープに乗って、護衛付きでここに良く来ていたということでした。

そしてこの店がサイゴン市内で有名になるにつれ、アメリカに逃げたベト僑の人がこのサイゴンにある店と同じ名前を借りて、カリフォルニアで Pho の店を開きたいと申し出たそうですが、その当時のここの Pho 屋さんの店長( Y さんの奥さんのお父さんのことです。)は「例え異国にあっても、同じ名前の店の Pho の味がまずかったら申し訳ないことになる。」と考えて許可しなかったということでした。

それで今でもサイゴンにあるこの店の看板には、「ここの店が本店であり、この店以外に支店は世界のどこにもありません。」と書いてあるそうです。しかしその後の風聞では、今もアメリカには同じ名前の店が開いているということです。

私は Y さんの日本への帰国日が近づくにつれ、その前に一度その Pho 屋さんに行こうと思いました。その店の住所は知っていましたので、一人で行って、一人で食べて、一人で帰ってもよかったのですが、あの S さんの店に行った時と同じように、一人だけで行った時よりは、出来ればその店の歴史を知る人がいたほうがさらに面白いだろうなーと思いましたので、事前に Y さんに連絡しました。

そして当日、 Y さんは店の入り口の前に立って私を待っていてくれました。その時店の前の歩道は、この店の Pho を食べに来た人たちのバイクで満杯でした。 Y さんは私をその店の中ではなく、店の横の路地に据えてあるテーブルのほうに案内してくれました。なぜならすでにこの時には、約 50 平方メートルほどある店の中はお客さんで満席だったからです。

ここの店の Pho は正統派ハノイのPhoですので、出てくるPho は牛肉が入った Pho Bo (フォー ボー)しかありません。私もそれを注文しました。 Pho の麺自体はベトナム全土のどこで食べても例外なく、麺のコシの強さはなく大変柔らかいのが特徴なのですが、それはここも同じでした。ただ麺が浸っているスープの味が、私が今まで食べてきた Pho よりはコクがある感じがしました。

Y さんに聞けば、この店の Pho のスープの味を出すには、毎日夜中の 12 時から仕込みに取り掛かるそうです。幾つもの大きなズンドウに牛骨をぶち込み、それを四時間ほど掛けて煮込んで、それで当日のお客さんに提供するスープを作っているということでした。そしてそのスープの分量は、毎日千人ぶんを目安に作り、そのスープが無くなった時点で、店も閉めるということでした。

開店は表向きは何と朝の 4 時からだそうですが、いつも 6 時くらいから客足が多くなり、そして普通は毎日朝 11 時頃には店が閉店するということですが、もっと早い時には 10 時を過ぎたくらいで千人ぶんのスープが無くなって、早々と店を閉めることもあるそうです。しかし朝の時間帯だけで千食を提供するというのはすごいことですね。

私は店の中が満員のお客で埋まり、路地のほうにもビッシリとお客が座って Pho を食べている光景を見、さらに日曜日はもっともっとお客が多いという話を Y さんから聞いて、あらためて驚きました。このような光景が 55 年間続いてきたということなのでしょう。ここで働いている従業員も大変多く、私が Y さんに「一体何人の店員が働いているのですか。」と聞きましたら、 Y さんは「多すぎて、私にも分からない。」という返事でした。

そして私は、「何故ベトナムの人たちは、特に都会では家で朝食を摂らずに、かくも外食する人たちが多いのだろうか。」という、前からずっと抱いていた疑問が再度湧いて来ました。以前日本に留学していた生徒が、日本人に「日本では都会でも朝食は外で食べないで、大体家で食べることが普通なんだということに驚いた。」と話したら、それを聞いた日本人が驚いたと言っていました。私の女房も、朝食を家の中で作ることはありません。外に食べに行くか、外で買って来たのを家で食べるというパターンです。

一方私はといいますと、日本から持ち込んだ一年ぶんの袋入りのお茶漬けと、ドリップバック式のコーヒーとパンを交互に食するパターンで家の中で朝食を摂り、外で食べることはほとんどありません。以前独身の時には毎日外で食べていましたが、今現在はずっとこのやり方です。

その理由は、ベトナムの麺類自体は Pho であれ、フーティウであれ私も好きなのですが、このサイゴンで朝から麺類を食べると暑くて、暑くて堪らないからです。それで以前は外で食べる時には、 Bun Cha (ブン チャー)という熱くないつけ麺を食べていました。そしてこの Bun Cha も、ハノイが本場です。

私が教えているベトナム人の生徒たちにも、「何故ベトナムの人たちは、家で朝食を摂らずに、外食する人たちが多いの?」と聞きましたが、いつも朝食は外で食べるのが当たり前の彼らには、そういう質問自体が予想外だったらしく、すぐには答えが返って来ませんでしたが、「夫婦共働きで、朝早く家を出るので時間がないから。」とか、ただ単に「便利だから。」という答えが多かったです。

私はいろいろこの問題について考えましたが、「日本には味噌があるからかな・・・」というのが一つの推測でした。日本の家庭には、最高・万能の調味料というべき「味噌」があります。これにお湯があれば、少々の具を入れるだけで味噌のスープが容易に作れます。この味噌汁さえあれば、ご飯と一緒に後は簡単なオカズがあれば充分でしょう。

しかしこういうものがない国の人たちは、朝からご飯や麺類と一緒に味わうスープを作る手間ヒマが大変でしょう。その大変さを考えると、外食するパターンが多いというのも分かってきます。私自身も今まで、ベトナムの家庭の中で独自に作った Pho を出されたことはありません。テトの時に、一度だけ女房の実家でフーティウを食べさせてもらったことはあります。

いずれにしましても、このサイゴンでも 55 年の伝統を維持している Pho 屋さんがあるというのは、実際にこの目で見て私には新鮮な驚きでした。 Y さんの奥さんのご両親はすでに亡くなり、今この店は奥さんの兄弟姉妹たちが仲良く切り盛りしているということでした。

そして実はこのサイゴンには、もう一軒私が愛して止まない店があります。その歴史はまだ S さんや Y さんのような老舗の店には及びませんが、私にはこれから「サイゴンの老舗の店」になってほしいという気持ちがあります。

私が 12 年前ベトナムに来てすぐの頃、アクトマンの浅野さんに連れられてそこに行きました。それは日本料理の範疇にはない食材の店でした。しかし沖縄では普通に食べられているということでした。それがヤギ鍋屋さんなのでした。

ここもまた毎日ものすごい人数の人たちが歩道上で食べています。さらに店の前の歩道だけでは足りずに、道路を隔てた向かい側までにもテーブルが設営されて、いつ行っても満員です。雨の多い雨季には、お客の頭上に大きいビニールを広げて雨をしのぎます。

私がここで食べるコースの定番は、まずヤギの乳肉の炭火焼きです。ベトナムにも牛肉の炭火焼を提供する店がありますが、牛肉なのか水牛の肉なのか、日本人には硬すぎて、不味すぎて、「美味い!」と言ってくれる日本人はいません。しかしこのヤギの乳肉は、その部位がヤギの胸だけに、大変柔らかくて美味しいものです。

そしてそれが終わると、ヤギ鍋コースです。ヤギの骨と肉から取ったスープの中にはヤギの肉やキクラゲや蓮根などが最初に入っています。そしてその後に、自分たちの好みに応じてシナチク、タロイモ、豆腐、春菊、からし菜、ニラ、ブン、乾麺などを入れていきます。そしてここのヤギ鍋屋さんで、私は生まれて初めて“湯葉”を食べるという経験をしました。これは実に美味いものでした。

これらの具材が一つの鍋の中で渾然一体となって、そのスープもまた絶妙な味のバランスが取れています。私も今までいろんなベトナム料理を食べてきましたが、 12 年経った今でも、このヤギ鍋屋さんの料理だけは飽きが来ません。

そしてこの店は最初に訪れた時の場所も、その店の造りも、メニューも、具材の内容も品数も、ヤギ鍋のスープの味も、そこで働いている兄弟姉妹の顔ぶれも、トイレの便座が壊れたままなのも、 12 年間ずっと変わりません。変わったのは、値段が以前よりも上がったということぐらいでしょうか。

さらに悲しいことに、あと一つ変わったことがありました。私が最初に来た時から、この店にはオーナーらしき、いつも物静かなおじいさんがいました。そこで働いている兄弟姉妹の父親なのですが、いつもただ椅子に座って子どもたちの仕事ぶりを見ているような感じでした。そのおじいさんに、今年聞いたことがありました。「この店は何年くらい経っているのですか。」と。おじいさんは、「 16 年くらいかなー。」と答えてくれました。

そして私がテト前などにここを訪れ、料理を食べて辞する時「良いお正月をお迎え下さい!」とそのおじいさんに話しかけますと、私の手を握って「やー、ありがとう!」と喜んでくれていました。しかしここ最近は疲れているせいなのか、いつも長椅子に寝そべったままでした。体がずいぶんと弱られて来ているように見かけました。

今年の春私が日本から帰ってすぐこのヤギ鍋屋を訪れて、料理を食べて帰ろうとして、おじいさんに挨拶をしようと店の中を見回しましたが、その姿が見えません。「おじいさんはどこ?」と聞きますと、長女らしき人が私の手を引いて、一枚の写真の前に連れて行ってくれました。 84 歳だったということでした。その場で線香を上げてさせて頂き、今までのお礼をおじいさんの写真に向かって、こころの中で謝しました。

これら三軒の店は高級料理屋でも何でもなく、日本でも、ベトナムでも普通の庶民に親しまれている大衆的な店ですが、これからも店の伝統ある雰囲気や料理の味を守りながら、みんなに愛されていくことと思います。

Sさんのお好み焼き屋さんは「染太郎」。 Y さんの奥さんの実家の Pho の店は「 Pho Tau Bay(フォー タウ バイ:飛ぶ飛行機)」。ヤギ鍋屋さんは「 Lau De(ラウ ゼー:ヤギ鍋)214 」といいます。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 今月のニュース <水源を守る学生たち> ■

「水源を保護し、その利用の仕方の改善について」という 2009 年の政府主催のコンテストには、 2553 件のアイディアが寄せられて、それらが新聞社に送られてきた。それらのアイディアに共通しているのは、今のベトナムは水源が汚染されてきているし、きれいな水が少なくなってきていても、まだまだ無駄に水を使う習慣が一般的であるというのが、今回アイディアを寄せた学生たちの悩みだ。

★三位★ KON TUM(コン トゥム)高校一年生
A Min(ア ミン)さんと Ngoc Huyen(ゴック フィン)さん

◎ 水源を守る掟 ◎

A Min さんは少数民族 BANA (バナ)族の学生で、 Huyen さんは少数民族 XE DANG (セ ダン)族の学生である。 A Min さんの村には、二つの水源がある。井戸からの水源と、山から流れ出る水源である。しかし最近はごみや洗濯洗剤などのせいで、井戸の水源が汚染されてきた。

汚染された井戸の水を飲んだ少数民族の村人たちは、「不味い。」といった。しかし村人たちは二つの水源が汚染されていても、その水源を利用せざるをえない。村人たちは環境保護に関する法律がわからないので、例え仮にそこの水源を汚した人が、「証拠があるのか?」と反論されたら、彼らを説得させることができない。

だからそれから以後、水源を汚した犯人を見つけ出し、説得するために、二人は 2 ヶ月間ずっと( 2009 年 2 月〜 2009 年 4 月まで)水源の観察に行った。学校からカメラを借りて、汚染された水源の景色を撮って、村人たちにに見せるようにした。

そしてその後、村のリーダーに頼んで、村人たちを集めて三つの方法を発表した。一番目は、村に住む 一人 ずつが、水源を自分の体の一部と同じように思い、きれいな水源を守るべきこと。二番目は、環境と水源を保護するための“村の掟”を作成すること。三番目は、この地区の高校生と村人たちは、ボランティアで環境をきれいにする活動に参加すること。村人たちもみなこの“村の掟”に同意した。

そしてこれに違反する者は警告を受け、最後は厳罰に処されることになった。これからは、村に住むみんなで、水源をきれいにしようと努力しなければならない。

★二位★ ホーチミン市内の中学四年生
Cam Quynh(カム クィン)さん

◎ もっと早く浴びる!◎

私が風呂を浴びるたびに、母は私に「水を節約しなければならないよ。」といつも言うと、 Quynh さんが不満顔で言った。最近ホーチミン市内のいたる所で水が不足しているという状況がわからなかったので、私は最初お母さんの言ったことが良く分らなかったのだった。その後今ホーチミン市では、水がだんだん足りないという状況が理解出来た後、今までいかに自分は無駄に水を使っていたのかと反省した。

それでその後、私は学生たちの水に関する意識を調べるために、最初にまずアンケートを作って、六つの短くて、わかりやすい質問をした。たとえば、「一日に何回風呂を浴びましたか?」「一回の風呂の時間はどのぐらいですか?」などの質問を、中学校の400人の学生に送って、387人から返事が来た。

そして EXCEL のソフトを使って、見やすいようにグラフにしたり、蛇口とシャワーから流れる一分間の水量の差を比べた。「毎回何分ぐらい浴びているか?」という質問には 13 〜 15 分の答えが多かった。「どんなやり方で浴びているか?」という質問には、ほとんどが蛇口からの水で浴びているという答えだった。

この結果から、私は皆さんに一つのことを伝えたい。それは「蛇口から流れる水を出しっぱなしにして 15 分も浴びていたら、大変な量の水を無駄にしていますよ!」ということだ。私の意見では、、女性たちは 5 〜 10 分くらい浴びたらいいと思う。男性は女性より1〜 2 分少なくしたらいいと思う。

★一位★ Thai Nguyen(タイ グエン)高校二年生
Giang(ヤーン)さん、Ha(ハー)さん、Ngan(ガン)さん

◎ WEBSITE で汚染を警告する◎

三人のリ−ダーでもある Giang さんは次のように話してくれた。

今私たちが作成している WEBSITE の形式や内容は、まだ人々を強く惹きつけるほど魅力的ではないけれども、この WEBSITE に掲載された、汚染された水源の写真や現場の情報などは、汚染された水源が人々に及ぼす危害を、今後どのような方法で改善すればいいのか、環境と安全な水源の保護について、みなさんの取り組み方を変わらせることが出来ると思います。

同時に、 Thai Nguyen 市で一番汚染のひどい場所をWEBに掲載するのは、ただ単に反省するためだけではなく、環境や水源の汚染の防止にも繋がると思う。印象的で、人を惹きつけるようなWEBSITEにするために、グループのみんなは自分のお金を出して、ビデオカメラを借りた。

そして GIA SANG (ヤー サーン) 市場に捨ててあったゴミがひどく臭くて、とても汚かった場面。そしてそのすぐ隣では、市場でお客に売るための野菜や肉を洗っていた場面など。そういう場面も、ビデオカメラにはしっかりと収めた。

たった四分間の撮影のために、二週間ぐらいあの地域を歩き回って、撮影する対象を探し研究した。それで、市場の人たちからは仕事の邪魔になるといって叱られたこともあった。しかし学校の先生や、友達や、いろんな周りの人たちからは励まされ、応援してもらった。

私の現在の夢はこの WEBSITE の内容を、世界中の人に見てもらえるように、いろいろな言語に翻訳したいということです。

(解説)
最初にこの記事を見た時に、(政府がこのようなコンテストを音頭を取ってやっていたのか!)と、まず驚きました。そしてまたこのようなコンテストに、数多くの応募があったことにも意外な感がしました。裏を返せば、ベトナムの水の問題は、それくらいだんだんと危機的な状況になって来たことに、政府も今の若い人たちも認識が高まってきたということでしょう。

入賞三位の学生たちが住んでいる KON TUM 省は中部にあります。そして私も今から 8 年前にそこに行きました。そこでは、いろんな少数民族さんにも会い、様々な種類の民族さん特有の建物も見ました。そしてそこで三位に表彰された、少数民族の学生さんたちがこのような活動をしていることに深い感銘を受けました。

そして私は Kon Tum を訪問した時に、山の中を流れている結構広い川の中で、手を使い、石の上で洗濯している少数民族の若い女性にも会いました。その川の水は、ベトナム南部を流れている川と比べると、はるかに見た目はきれいでした。

私はベトナムに来て、(日本という国は、何ときれいな水に恵まれた国なんだろうか!)とつくづく思いました。以前屋久島に行った時など、深い川底にある石が透き通ったように見えるのを見て感動しました。私の熊本の田舎の川もまだきれいなほうですが、それとは比べ物になりませんでした。

そしてこの屋久島訪問の時には、ベトナムの人が二人一緒に同行していました。カンザー森林公園の責任者と、ホーチミン市農業局の幹部の人でした。川底がキラキラと光り輝く、その透き通った川の流れを見て、彼ら二人はまさにボーゼンとしていました。

「これが川か・・・!」と聞き返して来ました。ベトナムのサイゴン川や、田舎の川や、市内を流れているドブ川のようなクリークを見慣れた人間には、あの屋久島で見た川の輝くような美しさは、まさに驚嘆すべきものだったことでしょう。

しかしベトナムにも全く清流がないかというと、ないことはないのです。以前大学生のスタディツアーを連れて、ベトナム北部の Quang Ninh (クアン ニン)省の Tien Yen (ティエン イエン)という、中国国境まであと 30 kmくらいの距離にある町に行った時には、川幅の広い、深さもある川に満々として、紺碧の水がゆっくりと流れていました。このベトナムで、私が見ることが出来たきれいな川というのはたったそれだけです。

そこの川の両岸や山には、やはり鬱蒼とした森がありました。メコン川の泥水のような色をした遠因は、ベトナムにあるのではなく、その上流にあるのでしょう。しかしベトナム国内を流れている川も、やはり清流を見ることはほとんどありません。

ベトナムは稲作に利用可能な平地はキン族のベトナム人に占められて、少数民族の人たちは急傾斜の山の斜面にトウモロコシを植えたり、焼畑農業をしていますので、山自体に大きな木を見ることは少ないのです。ですから山に降った雨はそのまま山の泥を削って川に流れこんでいるので、ああいう泥水のような色になっていると、以前農業関係をしている人から聞いたことがありました。

だからこそきれいな環境と、清潔な水を確保するために、今回多くの人たちが応募したような意識の高まりと、入賞した学生たちが提唱したような活動が継続して行けば、ベトナムの環境保護もまた違う局面が現れる気がしてきます。



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