春さんのひとりごと

<再訪・ベトナム中部への旅>

今年は11月初旬から学校の「慰安旅行」がありました。今年の訪問地は6年前の2011年1月に訪問した場所と同じく、ベトナム中部のフエ・ダ ナン・ホイ アンです。しかし、今年の旅行時にたまたま中部に大型台風が襲来して、強い風雨の中での観光地訪問となり、当初の予定が大幅に変更になったりもしました。

そういう状況下での「中部訪問」でしたが、長い間の念願であった【My Son(ミー ソン)遺跡】の訪問が叶ったこと。そこに行く途中でたまたま眼にした【意外な発見】もありました。また、ダ ナンでは知人との嬉しい再会もありました。不運にも大型台風の中での「中部への旅」となりましたが、旅が終ってみると、それらの思い出が輝いて甦ります。

● サイゴン から ダ ナン へ ●

サイゴンの空港での待ち合わせ時間が朝6時半になっていたので、当日は4時に起床。5時に事務所を出てバイクで学校へ向かいます。5時半過ぎに学校に着き、バイクを校内に預けます。旅の間、バイクはここに置いておきます。学校で同じく空港に向かう5人の同僚の先生たちと待ち合わせて、そこからタクシーで空港に行くことに。

この時サイゴンは乾季に入っていて、この日も快晴で、朝は涼しく、過ごしやすい季節になりました。みんな新聞では「中部に台風襲来!」の情報は知っていましたが、普段台風が来ないサイゴンに住んでいると、台風についての感覚が鈍くなります。

ちょうど6時半に、「タン ソン ニャット空港」の国内線の待ち合わせ場所に到着。今回の中部旅行の参加者は全員で57人とのことで、その3割ほどが集合していました。我々が乗る航空会社は格安航空会社として知られる「Viet Jet Air」。サイゴンからこの航空会社の飛行機に乗ってダ ナンに向かいます。

この会社の飛行機に乗ると、機内ではジュース、コーヒー、ビールやツマミなどのサービスは一切ありません。ペットボトルの水一本も配られません。もしそれらが欲しい場合は有料となります。オシボリも出ませんでした。まあしかし、ダ ナンまでは一時間少しで着きますので大した問題はありません。

● ダ ナン から ホイアン へ ●

私たちが乗ったダ ナン行きの飛行機は9時15分にサイゴンの空港を飛び立ち、10時25分にダ ナンに着きました。それから昼食会場に行き、食事がお昼12時に終ると、バスは「古都・ホイ アン」に向かいます。最初の予定ではホイ アンに着く前に、ビーチがキレイなSon Tra半島に行くことになっていたのですが、「台風が襲来!」しているのでそれは中止になりました。

ダ ナン空港を出てしばらくすると、昨年私とS先生が訪れた「五行山」が眼の前に現れてきました。平野の中に忽然と聳え立つ「五行山」はいつ見ても神秘的です。サイゴンに戻る最終日にはこの山に登ることになっていますが、それも「台風」次第です。

この日宿泊予定の「ホイ アン」市内のホテルにはお昼1時過ぎに到着。この日の午後は自由時間になっていましたので、事前に同僚の先生たちと「ある計画」を立てていました。それが「世界遺産・My Son遺跡」の訪問でした。今回のスケジュールを見ると、「世界遺産・My Son遺跡」を訪問出来るのは、ホイ アン泊まりのこの日しかありません。

ダ ナンからでも「世界遺産・My Son遺跡」には行くことが出来ますが、ダ ナンからMy Sonまでは約70km。ホイ アンからMy Sonまでは約40kmです。それで、ホイ アンからの距離のほうが近いので、このコースを採ることにしていました。それで、今回の旅のリーダーを努めるベトナム人に、「ホイ アンに着いたら我々はMy Son遺跡に行くので、タクシーを手配しておいてね!」と頼んでいました。彼は「分かりました」と引き受けてくれました。

● ホイ アン から My Son遺跡 へ ●

そして、タクシーに同僚の日本人の先生三人と私、同僚のベトナム人の先生が同乗しました。そのベトナム人の先生が道案内も兼ねて一緒に行ってくれると言うので、全員で五人が一台のタクシーに乗り、ホテルを出発したのが午後一時半。「台風が接近中!」の情報は知っていましたが、まだこの時には雨も風も弱い段階でした。

そしてタクシーに乗りながら、みんな車内でワイワイ話しながら走ってゆくこと約20分。朝が早かった同僚の先生たちも一人、二人、三人と寝てしまいましたので、私はタクシーの窓越しに見える外の景色を眺めていました。(ホイ アンは郊外に入っても道路上にゴミが少ないなぁ~)と感心しながら見ていました。サイゴンの郊外に出ると、ビニール袋などのゴミ類が道路の左右に散乱しているからです。

すると、ホイ アンを出て30分ほど経った頃、私が座った席の右側に「小学校」か「中学校」らしき建物が見えてきました。ちょうど下校時間にあたっていた時間帯なのか、生徒たちが校門の外に続々と出てきていました。サイゴン市内でも良く見る光景です。サイゴン市内では親がバイクで迎えに来ている場面が多いのですが、ここでは多くの生徒たちが自転車に乗って帰っていました。

その光景を眺めながら、ふと校門の上に掲げられた横長の看板が眼に入りました。そこにはこの学校の名前が書いてありました。校門の上の青い看板に白字のベトナム語で書いてある学校名の左側の文字が見えてきました。「Truong Tieu Hoc・・・」と書いてありましたので、そこは「小学校」でした。

そして、さらに続けて眺めてゆくと「Truong  Tieu Hoc  JUNKO」という文字が読み取れました。日本語に訳せば「JUNKO小学校」と言う意味になります。私はその「JUNKO」と言う文字に眼を強く惹き付けられました。その名前を頭の中で繰り返していました。「JUNKO・・・JUNKO・・・?」(英語でもない、ベトナム語でもない、まさしくこれは日本語の【ジュンコ】ではないのか・・・)と思いました。

今にしても不思議に思うのは、この日は朝早起きしたにもかかわらず、あまり眠くなかったことです。いつもと同じ道を通るのであれば、私も外の景色をうつらうつらしながら眺めて、しばらくしたらみんなと同じく車中で寝ていたことでしょう。

しかし、この時には学校の建物と、【JUNKO】と書いてある文字が私の眼に飛び込んできたような感じでした。でも、それを眼にしたのは時間にして4・5秒のことで、私が乗ったタクシーはその前をサーッと通り過ぎてゆきました。そして、しばらく【JUNKO】 という文字が私の眼に鮮明に焼きついていました。

私が今まで見てきたベトナムの学校に付けてある名前は「その地方の地名」「通りの名前」「有名なベトナム人の名前」などを冠するのが普通です。でも、【JUNKO】と言う名前はそのいずれでもありません。希に外国人の名前を付けることもあります。【JUNKO】という名前の小学校はその“希な例”かもしれないなと思いました。そう考えると、(【JUNKO】と言うのは、やはり日本人の名前では・・・)と想像しました。

そういうふうに読み取った時、(あっ、もしや、あの【ジュンコ】さんでは!)と、記憶の底からずいぶん以前に読んだ記事を思い出しました。しかし、それがいつ頃の記事なのか、ベトナムのどこの場所でのことなのか、自分でもはっきりとは記憶にありませんでした。でも、その感動的な内容は覚えていました。

“ベトナムに小学校を建てたいと願っていた【ジュンコ」さんは交通事故で20歳の若さで亡くなられた。しかし、その遺志を受け継いだご両親や大学の先生たちが協力して、【ジュンコ】さんの名前を冠した学校をベトナムのある地方の村に建てた“

そのような内容を以前読んだことがあったからです。(もしかしたらあの学校がそれではないのだろうか?)と、ふと思いました。車から直接降りて確かめたい気がしましたが、バイクで走っているのなら、すぐにそこの前で停められます。しかし、この時タクシーはかなりのスピードを出して走っていて、同僚のみんなも眠っていたので、車を停めて私一人が降りるわけにもゆきません。

さらには、私の携帯はスマート・フォンではなくガラ携なので、インターネットで調べてその真偽を確かめることも出来ません。しかし、私のこころの中では【JUNKO】はやはり【ジュンコ】という日本人の女性の名前に間違いないのでは・・・という、確信に近い気持ちが湧いてきました。その思いは、この日のMy Son遺跡を見終えて、ホイ アン市内のホテルに戻るまでずっと続いていました。

My Son遺跡については事前に幾つかのガイドブックなどで調べていました。今、私の手元にある、1995年発行の『ベトナム・センチメンタル』という本には、My Son遺跡について以下のような説明があります。

「2世紀から15世紀にかけて、ベトナム中南部を中心に栄えたチャム族による国家。チャンパ王国を代表する遺跡。4世紀後半、チャンパ王国が北部にも権勢を伸ばした頃、パドラヴァルマン王によって建てられたもので、シバ神を祀っている。ヒンズー教を主とし、仏教なども含んだ混合宗教遺跡。現在残っている遺跡は8~13世紀に建てられたもの」

このガイドブックは、1997年に私がベトナムに来る時、日本で購入したものです。ずいぶん古い本ですが、ベトナムに来た当初からこの本を繰り返し読んでいて、My Son遺跡についてのこの記事も読んではいました。本の発行年は古くても、その内容には新旧の違いはなく、今読んでも十分に時代の風雪に耐えています。

しかし、私自身は今までベトナムでは海岸沿いの観光地に行くことが多く、このMy Son遺跡まで行くこと出来ませんでした。それが、今回の中部の訪問でその夢が叶いました。My Son遺跡は山のほうに行かないと見ることが出来ないので、現地を訪問することがなかなか出来ませんでした。それが今回の中部への訪問で、その夢が叶えられました。

My Son遺跡は一つの場所に固まってあるのではなく、幾つかの場所に点在して遺跡群があります。見るべき区域は、AグループからGグループまでの7区域あります。時間が十分あれば全部を見て廻れますが、夕方にはまたホイ アンに戻る予定でしたので、My Son遺跡群の中でも有名な箇所を見ることにしました。この時、台風に伴う雨が降り出してきました。

2時半にタクシーはMy Son遺跡に到着しました。最初にここで入場券を買います。入場料は一人15万ドン(約750円)。そこから少し歩いた所に、電気自動車が待機していました。この自動車に乗ってMy Son遺跡まで行くのですが、これは助かりました。何故なら、台風に伴う雨がパラパラ降り始めたし、この自動車だったら5分ほどで着くところを、徒歩で行くとしたら約2kmの距離を歩かないといけなかったからです。

そして、電気自動車を降りた私たちが歩いていると、最初に小高い丘の上にある遺跡が見えてきました。丘の上に上ると、厚い壁のような遺跡がありました。その遺跡の左右には頑丈な柱で支えがしてありました。倒壊するのを防ぐためのようです。

ベトナム戦争当時、解放民族戦線がこのMy Son遺跡にも立てこもってアメリカ軍と戦ったので、米軍機の爆撃に遭い、遺跡のかなりの部分が破壊されたと言いますが、ここなどもそうかもしれません。この遺跡の近くには、この遺跡を修復するためのものなのか、多くのレンガが積んでありました。

その次に足を運んだのがBCグループの遺跡群です。ここは実に見事な遺跡群でした。今から千年以上もの昔によくぞこれだけのものを建てたものだと唸るような遺跡群です。2014年初めにカンボジアの“アンコールワット”に行きましたが、スケールはやはり“アンコールワット”が雄大ですが、造形の美しさは共通しています。とても言葉には言い尽くせません。

セメントも接着剤も無い時代に、レンガを主体に精巧に積み上げて、組み合わせて、見るものに崇高さと荘厳さと美しさを抱かせる遺跡の数々です。重機も土木機械も無い時代に、よくぞこういう凄いものを造ったものだと思います。

もしも米軍の爆撃を免れていたら、どんなに素晴らしい遺跡群が今も残っていただろうかと、残念でなりません。そして、事実遺跡の周りに大きい穴が幾つも開いているのを見ました。そこには水が溜まっていました。崩れかけた遺跡全体を屋根で覆い、修復作業の途中のようなものもありました。

結局、4時までMy Son遺跡を見て廻ることが出来ました。グループで言えば、BCDFGまでは見ることが出来ました。短時間ながら中心となる遺跡は見ることが出来たので満足でした。(しかし、それにしても、平原ではなくて、何故こんな不便な山の中にこういう宗教的な建物を造ったのだろうか・・・)という疑問は湧きました。

たまたま翌日ダ ナン市で、「さずらいのイベント屋のNMさん」に会いましたので、そのことについて聞きました。すると、「神は聖なる森の中に宿ると考えたのでは。現代人が考えるような便利・不便という考え方は、神を信じる人たちからすれば、それを障害とは考えなかったのでしょう」とNMさんは答えられました。

4時を過ぎた頃My Son遺跡を後にしました。やはりここに来て良かったと思いました。実に素晴らしい遺跡群でした。千年の時を越えて、今でも我々に訴えかけてくるものがありました。今も修復作業が続いていましたので、少しずつ往時の壮観さが甦ることでしょう。しかし、今のままでも長い歴史の波に洗われた、落ち着いた美しさを十分に感じさせてくれています。

ホイ アンに戻る時も同じコースを辿りました。行く時に見えた【JUNKO小学校】ですが、再度見ることが出来たらいいなと思っていました。しかし、通いなれた道ならば目印になるものが分かりますが、初めて通る道だけにそれはありません。(見えなくても仕方がないな・・・)と半分諦めていました。

次にここを通るのはいつになるか分からないだけに、もう一度見たいという気持ちが強くありました。行く時は右側でしたので、帰る時には左側を注意してみていました。すると、また見えてきました。再度見ることが出来たのです。思えば、それも偶然とは言え、不思議でした。

そして、ホイ アンのホテルに戻って、同室のベトナム人のP先生に調べてもらいました。気心が合うからでしょうか、ここ数年前から学校の慰安旅行ではいつも彼と同室にしてくれます。彼に「ベトナム語で【JUNKO小学校】を調べてくれませんか」と頼みました。彼はIpadを持参してきていましたので、すぐに調べてくれました。

すると、ベトナム語で【JUNKO小学校】の記事が現れてきました。やはり間違いありませんでした。あの学校は「ジュンコ小学校」だったのです。そのことを確かめた時私は強い、深い感動に襲われました。

「あの記事にあった【ジュンコ小学校】とはあそこだったのか・・・!!」

今回たまたまホイ アンからMy Sonに行く途中で、“その事実を発見”することが出来ました。それを今回初めて知ることが出来ました。ベトナム語で書かれた記事のURLは以下です。

https://www.vietnamplus.vn/truong-tieu-hoc-junko-dau-an-tinh-yeu-viet-nam-cua-co-gai-nhat/339421.vnp

彼はその記事を読みながら、その場で私に簡単な日本語に訳して説明してくれました。今回の旅が終った後で、きちっと翻訳してくれましたので、その内容を簡単に紹介します。

「Quang Nam省Dien Ban郡Dien Phuoc村に日本の大学生の名前が付いている学校があります。それはJunko小学校です。Junko Takahashiさんは1973年に東京で生まれました。Junkoさんは明治学院大学の国際関係学科の学生でした。1993年にベトナムやベトナム人を調べるために、ベトナムへ来ました。

Junkoさんはベトナムの貧しい村へ行きました。勉強する施設が足りない状態で、生徒たちが勉強しているのを見ました。それを見て、Junkoさんは卒業してからお金を貯めて、ベトナムの生徒たちを助けたいと決心しました。

残念ながら、Junkoさんの夢と希望がまだ実現していないうちに、Junkoさんは日本で交通事故で亡くなりました。その時、Junkoさんは20歳でした。Junkoさんの夢は自分の日記にきちんと書いてありました。それを知ったJunkoさんの家族はJunkoさんの代わりに、その遺志を実現してあげようと思いました。

明治学院大学の先生たちとともにJunkoさんの家族はDien Phuoc村を選んで貧しい学生ための学校を建てることにしました。Dien Phuoc村はよく洪水が起きている所です。ここに学校を建てるのはこの地方の皆さんたちの夢でした。

地方の人は学校を建てるために土地を提供しました。九ヶ月後に学校が出来ました。学校が出来たのは1995年で、新しい学期が始まる入学式の頃です。初め、学校には8部屋出来ましたが。今は26部屋になりました。Junko小学校はQuang Nam省の国立の学校です。大変いい学校と言われています。

Junko小学校はDien Phuoc村の人たちであれば、誰でもよく知っている学校になりました。日本では色々な大学の先生たちが、Junkoさんの夢と遺志を叶えるために、【Junko協会】を設立しました。毎年9月に【Junko協会】の先生たちはJunko小学校を訪問します。その時、【Junko協会】の先生たちは貧しい学生に奨学金を贈ります。

Junko小学校の中にある〔伝統の部屋〕の中にJunkoさんの写真が掛けてあります。毎年、学校の先生たちと学生たちはJunkoさんが亡くなった日に、追悼の式を行います。20年以上を経て、Junko小学校は“ベトナムと日本の関係を繋げる架け橋”になりました」

【ジュンコ小学校】は1995年に完成したといいますから、すでに22年の歳月が流れています。今まで多くの生徒たちが【ジュンコ小学校】で学び、卒業していったわけです。そして、今現在も生徒たちがそこで学んでいます。日本語で書かれているURLも、サイゴンに戻った後で読むことが出来ましたのでご紹介します。以下です。

https://www.junko-association.org/junko%E3%81%A3%E3%81%A6/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%B7%B3%E5%AD%90-%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E4%BA%BA%E7%89%A9/

20歳の若さで亡くなられた日本人の大学生【ジュンコ】さんの遺志によって建てられた【ジュンコ小学校】で、これからも、5年、10年、20年、30年、40年、50年・・・と、ベトナムの小学生たちが学んでゆくことでしょう。

日本人の一人として、何と嬉しいことでしょうか。そのような学校がベトナムのQuang Nam省の地方の村に実在していたのです。今回の旅でそれを“発見”することが出来ました。あの小学校の光景は、今も私のこころの中で「忘れられない思い出」となって輝いています。

● ホイ アン から フエ へ ●

夜中に入ると、「ピュー・ピュー」と強い風の音で目が覚めました。ガラス窓から外を見ると、雨も強くなってきました。いよいよ台風の襲来のようです。この日の予定はフエへの移動です。ホイ アンのホテルは引き払い、フエで観光地巡りをします。フエまでは90kmの距離です。

フエでは、世界遺産の 「フエ城」、「ベトナムで一番古い寺」の 「Thien Mu(ティエン ムー)寺」Khai Dinh(カーイディン)帝廟の三つのコースが組まれていました。これらのコースを見学して、 ダ ナンに戻り、この日はダ ナン泊りになります。しかし、いよいよ強い台風12号が襲来してきました。

私は2011年にも同じく学校の旅行でフエには行きました。その三つのコースも全部見学しましたので、この台風の中をまた見学に行く必要も無く、ダ ナンで降ろしてくださいと言いたかったのですが、聞けば我々が乗るバスはそのままフエに直行するとのことで、台風が来るのを承知でみんなと一緒に行くしかありません。

最初に訪れたのはKhai Dinh亭廟。一旦全員バスから降りましたが、やはり強い雨が降り出しました。傘も雨合羽も持って来ていない人たちがいましたが、濡れて行くしかありません。家族連れには辛い観光になりました。初めてここを訪問した人はそれでも強行して行きましたが、3分の1ぐらいはバスの中で待機。雨に濡れて旅先で風邪を引いてもいけないので、私もバスの中にいました。

次は Thien Mu寺。ここに着いても、やはり強い雨は収まりません。というか、ますます強くなってきます。(せっかく来たから一つぐらいは見ておくか)と思い、バスから降りて傘を持っているベトナム人の同僚に入れてもらい、お寺の階段を登りましたが、足元がずぶ濡れになりました。お寺の建物の中に入りましたが、みんなゆっくり見ることもなく、すぐにバスに引き返しました。

ここからまたフエ城に行く予定なのですが、『そのまま続けて観光したいグループ』『フエ城見学は止めて、ダ ナンに帰りたいグループ』の二つに分かれました。二台のバスで移動していましたので、そのどちらかを自分で選んでもらい、二台のバスに二グループを分けました。

すると、一台のバスのほうは全員が『ダ ナンに帰りたいグループ』で意見が統一し、もう一台の『そのまま続けて観光したいグループ』のバスの中からは、10人ほどが『フエ城見学はしない』希望者が出て、『ダ ナンに帰りたいグループ』のバスに乗り移りました。私も『フエ城見学はしない』ほうを選び、自分の荷物を持って別のバスに移動しました。

ここからは二つのバスに分かれての移動になります。ダ ナンに帰るバスは1時半にThien Mu寺を出て、2時50分にHai Van峠の長いトンネルに入りました。このトンネルは東南アジアで最長のトンネルとしても有名で、全長は6,280mもあります。この日もトンネルを抜けるのに10分ほど掛かりました。

そして、夕方4時に我々のグループはダ ナンのホテルに無事に到着。実はこの日の夕方に「さすらいのイベント屋のNMさん」とダ ナン市内で落ち合うことにしていました。 NMさんはこの日わざわざハノイから飛行機で飛んで来られました。私と同僚のS先生は昨年も「十一面観音菩薩像奉納の儀式」に参加するためにダ ナンへ来ました。

NMさんと私はサイゴンでSUSHI KOで何回も会っているのですが、S先生は総務の仕事が忙しく、なかなかNMさんとは会えずじまいでした。それで、今回我々がダ ナンを訪問することを知り、この機会に私たちと会う約束をしていました。

NMさんがダ ナンに着く時間は「フエ城」に行ったグループとダ ナンに戻ったグループが合流して一緒に夕食を摂る時間よりも少し遅くなりそうなので、私とS先生は先にみんなと一緒に市内までバスで行き、みんなと食事しながら、その後NMさんからの連絡を待つことにしました。

そして、ちょうど我々学校のみんなの食事が終った時間に、NMさんから連絡が来ました。グッド・タイミングでした。ダ ナンに詳しいNMさんに落ち合う場所を指定してもらいました。NMさんが懇意にしている「武士道」と言う名前の日本食屋で会うことになりました。

その店は昨年我々が会食した「蕃二郎」とオーナーが同じで、姉妹店だということでした。 夜7時過ぎに「武士道」に到着。そのすぐ後にNMさんも来ました。この時、外はものすごい風が吹いていて、入り口のドアが強風でバタバタと音がして開くので、店員が押さえています。

三人で「再会の乾杯!」をしました。実は、このダ ナンで三人がこうして会えるのは最後になります。来年からS先生はイタリアに留学して、「イタリア料理」の習得に努めるからです。自分の夢を追い求めて、また新たなる異国に飛び立つS先生の向上心には頭が下がります。

そのイタリア行きの話でしばらく盛り上がりました。S先生が「イタリア料理を覚えたらみんなに振る舞いますよ」と言われますと、世界を飛び回るのが好きなNMさんも「必ずイタリアに行くからね」と笑っていました。

「武士道」には9時頃までいて、ますます風と雨が強くなって来たのでそこを出ました。そして翌日は「チャム彫刻博物館」を三人で見に行く約束をしました。学校の予定ではみんなは「Ba Naヒルズ」というテーマ・パークに行くことになっていましたが、どうせ翌日も台風が続くのは分かっていたので、台風に関係なく室内でゆっくり過ごせる「博物館」見学にしました。そして、それが正解でした。

ホテルに戻り部屋に入ると、サッシのガラス窓一面に強い雨と風が吹き付けています。もの凄い音です。その風が室内の廊下まで吹き込んできて、廊下からピュー・ピューという音がしています。我々が泊まった部屋からは海が見えます。その海には白波が打ち寄せています。台風が来なければ、キレイな海が見渡せたことでしょう。

後で聞けば、特に日本人が泊まる部屋は海岸が見える部屋を充てたそうですが、それが裏目に出ました。夜11時を過ぎた頃から、サッシのガラスの下の継ぎ目から雨水が部屋の中に浸入してきました。従業員をすぐに呼んで、その継ぎ目にバスタオルを当てました。それで、なんとか窓際だけで雨水の浸入は止まりました。

しかし、翌日は大変なことになりました。翌日はさらにものすごい風雨で、継ぎ目に当てたバスタオルがボタボタ濡れて溢れるほど水が浸入してきました。バスタオルが水を吸う能力を超えてしまっていたようです。夜中に眼が覚めて電気を付けると、何と部屋の床一面が広い範囲で水浸しになっていました。

すぐにまた従業員を呼びました。床一面に広がった雨水をバスタオルで何度も拭いています。ガラスの継ぎ目にはビニールを詰めています。聞けば、部屋が水浸しになったのは我々の部屋だけではなく、海に面した部屋は全てこういう状態だと言いますので、夜中に叩き起こされてこういう後始末をやらないといけない彼らもいい迷惑です。(一体どういう設計ミスをしたら、こうなるのだろう・・・)と呆れました。

● 「チャム彫刻博物館」見学 ●

この日はNMさんの案内で、S先生と一緒に「チャム彫刻博物館」を見学に行くことにしました。お昼前の11時にNMさんがホテルまで向かえに来てくれました。「博物館」に行く前に、お昼を一緒に摂ることに。向かった先は、NMさんが「ハンバーガーが大変美味いよ!」と勧める〔BURGER BROS〕と言うお店。店長は日本人でした。

この店は昨年我々が食べたハンバーガー屋さんの本店なのでした。昨年は「蕃二郎」の前の店で食べました。昨年も三人で行った時、NMさんが「あの店は韓国人のお客さんが多いよ」と言われました。この日行ったのは別の場所でしたが、我々が入った後すぐに満席になりました。外で待っているグループもいます。やはりNMさんが勧めるだけあって、ここのハンバーガーも美味しかったです。

私たちが食べていると、眼の前には日本人のグループの方がいました。私たちのすぐ隣の席です。NMさんはその方々と知り合いでした。実は、眼の前に座っている男性を見て(どこかで見たことがあるなぁー)と私は思っていました。するとそのグループの人たちが店を出られる時に向こうから私に話かけてこられました。「以前サイゴンのSUSHI KOでお会いしましたテレビ局の者です」と。それで私も思い出しました。今回はダ ナンで行われるAPECの取材で来ていると言われました。

昼食を終えて、「チャム彫刻博物館」にはちょうど12時に到着。ダ ナンに着いた時に空港の受付に置いてあった小冊子「ベトナビマガジン」には、「チャム彫刻博物館」について次のような説明があります。

「2世紀から19世紀までの中部ベトナムを支配していたチャンパの彫刻や像などが展示されている。世界遺産ミー ソン遺跡に関する展示もあり、見どころ満載の博物館だ」

確かに「みどころ満載の博物館」でした。小さいサイズのものから大きいものまでいろんな種類、造形の展示品が置いてありました。建物の礎石にでも使ったのだろうかと思うようなサイズの大きいものもあります。あれだけ大きいものになりますと、一つの彫刻品を仕上げるのにどれだけの時間を要したのだろうかと思います。

NMさんは我々に「以前私が最初に来た時には展示品は整理されずに雑然と置かれていたが、今はキチンと整理・分類されて大変見やすく、理解しやすくなってきました」と言われました。確かに、展示してある作品の一つ・一つに、その彫刻品が何を表しているかの説明と彫刻作品が出来た時代がベトナム語と英語で表記されていました。これなら、外国人でも良く分かります。

この日「チャム彫刻博物館」を訪問し、嬉しかったことがさらにもう一つありました。たまたまここで「日本人画家・鳥羽美花さん」の展覧会が開かれていたからでした。NMさんは鳥羽さんとは知り合いのようで、鳥羽さんの作品についても良くご存知でした。

鳥羽さんの作品は「染色画」と紹介されていますが、その作品の大きさと緻密さと迫力には圧倒されました。日本の風景や自然から着想を得た作品、ベトナム各地の美しい風物や名所を描いた作品がありました。その一つ・一つに鳥羽さん自身の文章による説明がありました。

中でも私が感動して、しばらくじーっと魅入っていた作品はMy Son遺跡を描いた作品と鳥羽さんが書かれた詩的な文章でした。題名は「辿りついた場所」。その説明文を読んでいて「何と詩的な文章だろうか」と感じました。

鳥羽さんは詩人の眼を持たれた方だと想像しました。私自身もそのMy Son遺跡を見てきたばかりですので、こころに響いてきました。ここにそれを紹介しようかと思いましたが、やはりその作品と一緒に味わうべき文章だろうと思い、敢えて控えました。

「チャム彫刻博物館」では二時間ほどゆっくりと見学しました。NMさんは「先にホテルに帰ります。また夕方会いましょう」と言われるので、出口の所で一旦別れました。出口の所にはお土産屋さんがあり、そこで私はチャム様式の頭部の彫像を買いました。その近くに売店があり、ビールを売っていたのでS先生と二人で一息入れ、この博物館見学の余韻を味わいました。

そして、ホテルに戻り、夕方から市内までタクシーで行き、「Ba Naヒルズ」観光に行ったグループと合流して夕食を共にします。5時半ちょうどに「Ba Naヒルズ」に行ったグループが夕食会場に着きました。「どうだった?」と聞くと、「やはり雨に降られて大変でした。室内でゲームばかりしていました」との返事でした。

夕食が終ったのは早く、30分で終りました。S先生と私はNMさんと会う約束をしていたので、タクシーに乗って市内の中心部まで行くことに。会う場所は、昨年と同じく日本料理屋の「蕃二郎」。昨年は知りませんでしたが、実はこの「蕃二郎」と言う名前は、朱印船貿易時代にベトナムに渡り、そのままこちらに住み着き、ホイ アンに今も残っている日本人のお墓「蕃二郎」の名前から由来しているのでした。

この日の「蕃二郎」での夕食には、私達三人のほかにあと二人が来る予定でした。一人は昨年もダ ナンで会った「国際交流基金」のKTさん。KTさんは今年45歳です。KTさんにはダ ナン訪問の数日前に連絡を入れましたが、快く「いいですよ」と連絡を頂きました。

もう一人はベトナム人で、このダ ナンで人材派遣会社を経営しているThang(タン)くん。Thangくんは今年35歳。彼とはサイゴンで、今年の9月半ばに知人の紹介でSUSHI KOで知り合いました。その時に、「11月初旬にダ ナンに行くかもしれません」と話しましたら、「その時には是非連絡くださいね」と彼が言いました。それで、彼にも直前に連絡を入れましたら、前日まで彼はハノイにいて、ちょうどこの日にダ ナンに戻ってきたばかりでした。

みんなほぼ同じ時間頃に「蕃二郎」に到着しました。事前にNMさんが店に予約を入れてくれていて、個室が取ってあったので、周りに気兼ねすることなく、みんな談論風発という感じで大いに盛り上がりました。そして、ここ「蕃二郎」の料理も大変美味しいものでした。

「蕃二郎」には9時近くまでいて、そこでNMさん、KTさんの二人とは別れました。S先生と私はタクシーで帰ろうとしたら、Thangくんが「私は車で来ましたのでホテルまで送りますよ」と言ってくれたので、彼の車に乗せてもらいました。ホテルに着いて、「またの再会」を約束して別れました。同室のP先生はすでに寝ていました。夜中の「部屋が洪水」の顛末を彼は翌日知りました。

● ダ ナン から サイゴン へ ●

三泊四日の学校の旅行もこの日が最終日。全員9時半にバスを出ると、土産物屋さんにそのまま連れてゆかれました。場所は「五行山」の近くでした。この店では大理石やヒスイや貴金属を加工したお土産を販売しています。

当然値段も高いです。大理石で出来た大きな仏像などは、値段をよく見ると、日本円にして何と200万円の値札が付いていました。個人で買うようなレベルではないでしょう。「会社やホテルなどが買うのだ」と、ベトナム人の先生が話してくれました。

最後のお土産屋さんかもしれないし、ちょうどこの旅の時に娘が誕生日を迎えていたので、大理石で出来た腕輪などを数個購入しました。しかし、3個買っても、4個買っても、一万円ぐらい買っても、ここの店員は一万ドン(50円)も負けてはくれませんでした。

そしてバスは、ダ ナンで今回最後の観光となる「五行山」に到着。「五行山」の中の一つの山に登ることになりました。しかし、まだ雨は降っています。「五行山」には、「木山・陽火山・陰火山・土山・金山・水山」と名前を付けられた山があります。我々がこの日登ったのは「水山」です。

ガイドが言うには「エレベーターが壊れているので、階段を上ってください。ただし、雨が降っているので、一部大理石で出来ている階段は滑りやすいので注意してください。11時15分にバスに乗ってください」とのこと。確かに、階段を良く見ると、階段にはセメントが主に使われていますが、部分・部分に大理石も見えます。

ここに来ている観光客はベトナム人はもちろんですが、白人の団体さん、韓国人のグループ、中国人の団体などがいました。日本人の声はあまり聞こえなかったですね。階段を40段ぐらい上ると踊り場のような空間があり、そこには塔が建てられています。その塔の両側には柱があり、漢字が刻まれています。そういう塔や建物がこの「水山」だけでも10ほどありました。

ある階段を上ってゆくと、光が射さない暗い空間があり、そこには観音様がありました。その上にもまた小さな穴があり、人一人が通れるぐらいの大きさです。足元もツルツルしています。濡れているので危ないのです。(集合時間まで後15分ぐらいしかない。引き返そう)と思い、後ろを向きかけた時、薄暗い穴の上から聞き覚えのある声がします。

同僚の女性HM先生の声でした。HM先生は70歳を超えていますが、足腰は達者です。穴の上からしていた声がだんだん下に降りてきました。そして、光が少し見えたところに、HM先生の顔が見えました。間違いありません、HM先生でした。今私たちの学校でも生徒たちに「ラジオ体操第一」を率先して指導されている先生です。

薄暗い穴の中で私と顔を合わせた時、「この穴の上にある頂上まで行きました。大変見晴らしが良かったですよ」と言われて、その場所で撮った写真を私に見せて頂きました。私は(もう帰ろうか)と思っていたところでしたので、その元気良さには驚き、ほとほと感心しました。集合時間も迫っていたこともあり、結局私は頂上には登りませんでした。

それでも、昨年もそうでしたが、今まで「五行山」を訪れる機会はあったものの、山に登るのは今年が初めてでした。今まで眼の前に「五行山」を見ながら山に登ることは出来なかっただけに、ベトナム訪問最後の日に嬉しい出来事になりました。

そして、1時半にダ ナン空港にバスは到着。皮肉なことに空港に着く少し前ぐらいから雨も止みました。すぐに受付が始まり、3時半に機内に入り、3時50分に飛行機は離陸しました。上空を飛行中にエアー・ポケットに入り、機体がガクーンと大きな音がして降下しました。女性客の「キャーッ!!」と叫ぶ声が響きましたが、すぐに機体は安定しました。

そして、5時ちょうどにタン ソン ニャット空港に無事に着きました。この日のサイゴンは雨は降っていませんでしたが、曇っていました。3泊4日の旅が終りました。

● 旅の終わりに ●

今回の旅は台風の直撃を受けて、予定していた観光地に行けなかったこともありました。同僚の先生が「ご飯を食べて、お土産を買って終った旅でしたね」と笑っていましたが、それでも、私なりにはいろいろな感動、発見もありました。

初めて訪れたMy Son遺跡は、やはり世界遺産の名に恥じない、すごい遺跡群でした。そのMy Son遺跡に繋がる「チャム彫刻博物館」と「鳥羽美花さんの画」。同じ空間の中で、この二つの展示物と画を見ることが出来たのは幸運でした。

ダ ナンで再会した友人、知人たち。お忙しい中にもかかわらず、私たちのために時間を割いて会って頂けました。特に、ダ ナンでしか会えない人もいますので、再会出来たのは嬉しかったですね。

そして、今回の旅の“大きな発見と感動”は【JUNKO小学校】を自分の眼で見たことです。ずいぶん以前に読んだ記事が記憶の底に沈んでいて、それが見事に甦り、“感動の発見”になりました。

今回の旅が終わり、平常の授業に戻りました。その時、私が入るクラスの授業で、必ずその【JUNKO小学校】を見つけた時のことを話し、ベトナム語で書かれた記事を生徒に読んでもらいます。10クラスほどの生徒たちに、その話をしました。

みんなじーっと聴いています。特に【JUNKOさん】が亡くなった年齢に近い、20歳前後の生徒たちが多いだけに、みんな身近に感じていることでしょう。最後の一行を読み終えた時、全部のクラスで自然と生徒たちから拍手が起きました。

ベトナムの田舎の村で、日本人の名前を付けた小学校で、毎日ベトナムの小学生たちが学んでいる。【JUNKOさん】の遺志が夢で終らずに、ベトナムの大地で実現出来たこと。これほど感動的なことがあるでしょうか。あの小学校の思い出は【JUNKOさん】のエピソードと併せて、私のこころの中で今もずっと輝いています。

 

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

鳥羽美花さん展覧会 11月12日まで

11月12日まで、画家・鳥羽美花さんによるAPECサミット開催記念展「ベトナム・ミクロコスモスの世界」がダ ナン市チャム彫刻博物館で開催される。

ホイ アン旧市街やミー ソン遺跡、古都フエなどの美しさを日本独自の「型染め」技法を使って描いた作品が20点ほど展示されている。

鳥羽さんが初めてベトナムを訪れたのは1994年。以降ベトナムを愛し、各地の風景を描いた120点あまりの作品を制作、7回の展覧会を成功させた。

多数の受賞歴があるほか、これまでの文化活動が日本とベトナムの友好関係に貢献したとして日本国外務省からも表彰されている。

<Vietnam Guide Com>

◆ 解説 ◆

今回訪れたダ ナン市でたまたま「鳥羽美花」さんの展覧会を観賞することが出来たのは実に幸運だったとしか言いようがありません。私自身「鳥羽美花」さんの名前は聞いていましたが、その作品を見たのは初めてでした。

その作品は大きく、細部に描かれた絵は緻密で、その作品の前に立つと作品から放たれる迫力に圧倒されます。一つの作品にどれほどの時間と労力を費やされているのだろうかと思いました。展覧会場の受付に置いてあった「記入帳」に、私が受けた感動を素直にそう書かせて頂きました。

「さすらいのイベント屋のNMさん」は鳥羽さんとは知り合いとのことで、この記事に書いてある最終日の「11月12日」にダ ナンにまた行き、この展覧会場で鳥羽さんに会う予定であると言われました。

そうであれば、その時の様子をNMさんからまたお聞きするのが楽しみです。
そして、鳥羽さんご本人にも、いつかサイゴンでお会い出来たらと期待しています。

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