春さんのひとりごと

<元日本兵・古川さんの「42回目の法要」>

今年の古川さんの法要は2月25日にCai Be(カイ ベー) で行われました。今年で「42回目の古川さんの法要」になります。昨年は残念ながら参加出来なかったので、今年はずいぶん早い時期から、「次回は必ず行きますよ!」とYさんに伝えていました。

Yさんも早くからCai Be の古川さんの家族と連絡を取り、日程を決めてゆきました。古川さんが亡くなられたのは旧暦「1975年1月26日」です。ベトナムでの冠婚葬祭は全て旧暦に基いて行われます、旧暦の1月26日は、今年の太陽暦で2月22日の水曜日になります。

カイベーの地図平日は、会社勤めの人たちは仕事があり、参加が難しくなります。そのため、また今年もみんなが集まりやすい土日に行うことになり、最終的には2月25日(土)に決まりました。この日に合わせて、サイゴン郊外やドンナィ省、さらにはカンボジア国境近くに住んでいる古川さんの親族がカイ ベーに集まります。

今年の「42回目の法要」には、私の学校の同僚の日本人の先生が三人と私。他にもう一人の日本人の計五人。そして、Yさんを入れて合計六人の日本人が参加しました。同僚の日本人の先生は、昨年11月のNha Trangへの旅にも同行したS先生とHS先生、そして今年から新しく来られたST先生です。

前々からいたS先生やHS先生には、以前から「元日本兵・古川さんの法要」の話をしていましたので、今回の法要のことを伝えますと、お二人とも「行きます!」と手を挙げられました。S先生は今年68歳、HS先生は36歳。そして、三ヶ月前にベトナムに来られたばかりのST先生は今年67歳になられますが、歴史に興味があり、今年の法要に参加出来るのを楽しみにされていました。

他の日本人一人は、私の古くからの知人で、日本では「数学検定試験(通称・数検)」の会社で働いていたKSくんです。KSくんは40代半ばです。私の日本での会社「ティエラコム」が数検に加盟していますので、その繋がりでベトナムで知り合いになりました。彼は6年前にベトナムにやって来て、最初はCafé屋を開き、その後「数学検定試験」の仕事にまた関わりましたが、今は「健康食品」の会社を新しく興しました。

彼もYさんと出会って以来、Yさんの話に大いに興味を示し、今回の法要にも進んで参加して来ました。彼は法要の前日の金曜日に、Yさんと一緒にバイクでカイ ベーに先発で向かいました。以上の四人の方々は、今回が初めての「古川さんの法要」への参加になります。

ほかには、「フォト・ジャーナリストの村山さん」にも声を掛けていましたが、ちょうどこの時、歴史的な「天皇皇后両陛下のベトナム初訪問」と重なっていました。今回の天皇皇后両陛下のベトナム初訪問は、ハノイとフエの二都市に2月28日から3月5日までの6日間滞在予定でした。村山さんはその取材の事前準備や手続きのために、4・5日前にはハノイに入る必要があり、カイ ベーに行くのは日程的に無理なことから、今回は「古川さんの法要」への参加を断念されました。

今回の法要では、私の同僚の先生方三人は市内で前泊しました。翌日の移動が朝6時に「ベンタン・バスターミナルに集合!」となっていたからです。Yさんの話では、「現地では法要の宴会が11時頃から始まるので、逆算すると10時半頃には古川さんの家に着いていて欲しい」という意向でした。それで、「ベン タン・バスターミナル」を朝6時台発のバスに乗り、7時に「ミエン タイ・バスターミナル」で、案内役の古川さんの四女・Thuyさんと落ち合う約束にしました。

私は当日の朝6時前のまだ薄暗い頃に「ベン タン・バスターミナル」に到着。そこからS先生に電話を掛けました。すると、「今近くのマクドナルドで朝食を摂っています。すぐ行きます」と言う返事があり、五分もしないうちに三人が予定時間に着きました。

「ミエン タイ・バスターミナル」に行くには2番と39番のバスがあり、前回は2番のバスで行きましたが、今回は39番のバスで行くことに。バスを良く利用しているS先生の話では、2番のバスはクーラーが効いていないとのこと。40分ほどで「ミエン タイ・バスターミナル」に到着。前回は一人の運賃は1万ドンでしたが、今年は5千ドンでした。前回はボラレていたのでしょう。

到着してすぐに案内役のThuy(トゥイ)さんに電話しました。彼女は六人の兄弟姉妹がいる古川さんの一番末で、今年45歳。六人いる子どもたちの中では、彼女と次男が一番古川さんに似ています。前回に続いて今回も彼女が同じように、この「ミエン タイ・バスターミナル」から案内役を努めてくれました。

彼女は私が電話をした後、すぐに私の前に現れました。近くでずっと我々の到着を待っていてくれたのでしょう。同僚の三人の先生たちは今回会うのが初めてなので、私から彼女を紹介してあげました。その後、すぐ眼の前にある切符売り場に行き、五人ぶんの切符を購入。

カイ ベーまでのバスの運賃は前回一人が十万ドンでしたが、今年は八万ドンでした。(安くなっているなー)と不思議に思っていたら、バスが前回のような大型バスではなく、25人乗りのマイクロバスでした。大型バスよりも窮屈でしたが仕方ありません。それに乗ることにしました。

バスはちょうど7時に出発。前回は待合室で少し待ってからバスに乗り込みましたが、今回は待ち時間もなくすぐに乗車。バスの中では、私は二つの記事のコピーを読むつもりで、カバンに入れて持ち込んでいました。何回も読んではいましたが、今からこの記事に書いてある現地に行くので、あらためて読み直すつもりでした。

しかし、この日は空席が全然無く、みんなギュウギュウ詰めの状態で座っている状態でした。小さい文庫本なら読めますが、A4のコピーを広げないといけないので、バスの中でそれを読むのは諦めました。外の景色を眺めたり、前の座席に座った同僚の三人にいろいろ話しかけることにしました。

その記事は、今回の法要にみんなが参加することが確定した数日前に「これを事前に読んでおくと理解が深まりますよ」と言って、それをコピーして、全員に配り終えていました。一つ目の記事は「開高 健」さんが書かれた<私の釣魚大全>の中の“ヴェトナム メコン河に遊ぶ”

二つ目は、1991年の「中央公論」「阿奈井文彦」さんが書かれた“ベトナムへ帰った「日本兵」”。この二つの記事を読みますと、ベトナム戦争当時の過酷な環境下で、メコンデルタのカイ ベーで働き、生活し、取材し、交友関係を広げ、青春・壮年時代を過ごしていた、Yさん、古川さん、松嶋さん、開高さん、阿奈井さんたちの姿が生き生きとしたタッチで描かれています。

開高さんは1989年に59歳ですでに故人となられ、阿奈井さんは2015年3月7日に76歳で亡くなられたばかりです。その時の阿奈井さんの記事は、2015年3月号のBAOに「ノンフィクション作家・阿奈井文彦氏が死去」として触れています。お二人が書かれたこの二つの記事を読めば、ベトナム戦争当時にカイ ベーで暮らしていたYさんの生活や、当時の時代背景が良く理解できます。

しかし、よくよく考えて見れば、メコンデルタに住んでいた古川さんと松嶋さんという元日本兵の当時の活動の足跡が、大作家の「開高健」さんやノンフィクション作家の「阿奈井文彦」さんの手による文章になって、今も読めるような形で残っていること自体が、実に奇跡的で感動的なことだと思います。この二つの記事により、古川さんと松嶋さんがどうしてカイ ベーで暮らすようになったのかが良く分かるからです。

それを可能にしたのが、1963年に21歳の若さでメコンデルタのカイ ベーに入り、バナナ園を開いたYさんという一人の日本人の存在なのです。Yさんは偶然にも最初に古川さんを知り、そして松嶋さんを知りました。その後、元日本兵の古川さんと松嶋さんとはバナナ園栽培という仕事を通して繋がりました。

その後、Yさんは開高健さんと阿奈井さんにサイゴンで会いました。そして、時期は違いますが、そのお二人がカイ ベーを訪問されました。その時の体験を元に書かれたのが、それら二つの記事です。開高健さんと阿奈井さんという二人の作家の手によるこの記事が無ければ、ベトナム戦争後四十年を超えた今、他の元日本兵の方々と同じように、古川さんも松嶋さんもその存在が知られることは無かったことでしょう。

この二つの記事は、カイ ベーでの「古川さんの法要」に初めて参加する日本人には必読の記事ですので、いつも必ず配っています。カイ ベーに先発でYさんと一緒に行くKSくんにも、Yさんに託してカイ ベーに着いたら渡しておいてもらうようにしました。今回参加した全員が、こういう史実を描いたノンフィクションの内容には関心を抱く人たちでしたので、私も嬉しかったです。

バスに乗り込んでからは、道中の景色も楽しみながら、Yさんに出発時から要所・要所の地点を通過した時には、携帯から「今どこどこを通過しました!」というショート・メッセージを送りました。バスがカイ ベーに着く頃に合わせて、Thuyさんも含めて五台のバイクが迎えに来ることになっていたからです。しかし、今回のバスの運転手はよく飛ばします。私の前に座っていたS先生がスピード・メーターを見ましたら、「今90kmで走っていますよ!」と話されました。

8時半に、ガソリンスタンドで一旦トイレ休憩。トイレに行きたい人や、タバコを吸いたい人たちがバスから降りました。私もトイレに行きました。そしてバスの近くまで戻って来ると、S先生が「ここはガソリンスタンドだけど、こんな所でタバコを吸っていいのかな」と笑って話しかけてきました。

私はタバコを吸わないのでうっかりしていましたが、確かにバスのすぐ前にはガソリンを車に給油する設備があります。しかし、「火気厳禁」の表示は文字も絵もありませんでした。従業員も注意している様子はありません。まるで無関心でした。他のガソリンスタンドでは今までこういう光景を見たことはありません。

しかし、こんな所で「大爆発」でも起こしたら、冗談では済まされません。(後日、他のガソリンスタンドを注意して見ましたら、やはり「火気厳禁」の表示がベトナム語で書いてありました。やはり、あそこが普通ではなかったのでしょう)。

そして、My Tho( ミートー )市内を過ぎてもう少しでカイ ベーに着く手前で、橋の工事のせいで交通渋滞が起こり、Yさんから「えらい到着が遅いですねー。私たち五人はすでに待機していますよ」という連絡が入りました。交通渋滞をようやく抜けて、9時半にバスはそのままMy Thuan(ミー トゥァン)橋に向かう国道と、カイ ベーへの別れ道の三差路に到着。道路の向こう側でみんなが待っているのが見えました。Yさんが私たちに向かって手を振っています。

道路の向こう側に渡るには、車がビュン・ビュンと通過して行く間隙をぬって行かないと渡れません。車の流れが途切れたところで、一斉に渡り、無事にYさんと対面。バイクは五台来ていました。一台のバイクそれぞれに一人ずつ乗りました。

私はKSくんのバイクに同乗。ここからフェリー乗り場まで向かいます。KSくんと私は同じ日本人同士ですので、前後ろに座ってついついいろんな話をしてしまいました。これが失敗でした。その時もKSくんと話しながら、バイクに乗って十分ほど走り、十字路に差し掛かった所で、ちょうどKSくんが後ろをチラッと振り向いた時、横から飛び出て来たバイクと衝突。

KSくんと私は道路に投げ出されました。一瞬何が起きたのか分からず、ポカンとしていた状態だったのか、気づくと上に青空が見えました。KSくんも転んでいました。二人とも起き上がって怪我が無いか確かめました。私が左手上腕部に擦り傷。KSくんも肩に同じく擦り傷。でもKSくんのほうの傷が少し深く、血が流れています。でも運転できないような大きい怪我ではありませんので、ホッとしました。

相手の運転手はまだ若い青年で、バイクを停めて、こちらを心配そうに見ています。すぐ側で工事をしていた人たちも、立ち上がって我々二人を眺めています。他に異常がないかどうか確かめると、私のほうはカメラが故障してしまいました。電源スイッチは入るのですが、カメラのシャッターが壊れて動きません。何度試してもダメでした。

でも、大きな人身事故ではなかったし、ここで時間を費やして「古川さんの法要」に余り遅れてもいけないので、その若者に「大したことはない。大丈夫だ!」と言うと、彼もホッとした顔をしました。ついつい二人で雑談をして横見していた私たちも悪いので、相手方の青年は無罪放免にしました。

服の汚れを落とし、そのまま続けてフェリー乗り場まで行くことにしました。しかし結局、このカイ ベーでの滞在中、写真は一枚も撮ることが出来なくなり、必要な写真は後でS先生とST先生から送ってもらうことになりました。壊れたカメラは惜しかったですが、(大きな怪我が無くて済んだのは、カメラが身代わりになってくれたのかも・・・)と思い直しました。

そして、10時ちょうどにフェリー乗り場に到着。それからまたバイクに乗り、予定通り10時半に古川さんの家に到着。この時はすでに親族や近所の人たちを含めて30人近くが来ていました。料理はまだ出てきていませんでしたが、ビールを飲んでいました。長男も車椅子に座り、みんなと談笑していました。ベトナムの法要にはお坊さんなどは来ません。堅苦しい挨拶などもなく、宴会だけで楽しく終わります。

まず、その長男に日本人全員で挨拶をして、それから古川さんと奥さんの写真が飾ってある写真の前にみんなを案内して、一人ずつ線香を上げてもらいました。私も線香を上げさせて頂きました。私は元日本兵・古川さんとは面識は全然ありません。以前、古川さんを知るYさんから「古川さんのお墓参り」の話を聞き、初めてカイ ベーを訪れて、お墓参りをさせていただいたのが2008年12月のことでした。

そして、2011年にYさんの声掛けで、七人の日本人が「古川さんの法要」に参加して以来、2013年、2014年、2015年と、カイ ベーでの「古川さんの法要」と「古川さんの奥さんの法要」に参加させて頂いています。それだけに、祭壇に飾られているお二人の写真を見つめていますと、ずいぶん以前から知っているような感じがしてきて、この時も胸に熱いものが込み上げてきました。今回もまた遺影に向かい、挨拶をさせて頂きました。

「古川さん、奥さん、今年もカイ ベーでの法要に来ることが出来ました。今年は初めて古川さんの法要に参加される四人の日本人が来ました。かつてメコンデルタに古川さんという日本人がいたことを知り、四人とも古川さんの法要に参加するのを希望していました。古川さんにも奥さんにも喜んで頂けることと思います。さらにまた嬉しいお知らせもあります。もうすぐ天皇皇后両陛下がベトナムを訪問されます。古川さんがもしご健在であれば、どんなに喜ばれることでしょうか・・・。今回も、今日明日このお家でまたお世話になります。宜しくお願い致します」

この日は全部で四つの丸テーブルが用意されていて、三つのテーブルには親族や近所の人たちがすでに座っていました。そして、もう一つのテーブルには我々日本人たちのグループと次男が座りました。この次男の名前はVu(ブー)さんと言い、今年49歳。古川さんの写真で見ると、男の兄弟では彼が一番古川さんに良く似ています。

Yさんの話では、彼が兄弟姉妹の中では一番出世していて、今製薬会社に勤めているということでした。我々が怪我をしたことを知った彼は、フェリーから我々が降りてバイクでここに来る途中、薬屋の前でバイクを停めて、包帯や消毒薬を購入までしてくれました。

法要の時間の11時になりました。まず、長男が音頭を取り、ビールで乾杯!私は朝バスに乗ってから何も飲まないでここまで来たので、ノドが乾いていたこともあり、堪えられない旨さでした。

乾杯の音頭が終ると、古川さんの長男が車椅子を自分で動かして我々のテーブル席まで来てくれました。彼は次男のVuさんより一つ年上の今年50歳。24歳の時に椰子の木に登っていた時そこから落ちて腰を強打し、以来歩くことが出来なくなり、車椅子生活です。

それ以来、果樹園の仕事、子育て、家庭内の用事、あらゆる雑用は奥さんの担当になり、それらを一人で全部こなしています。長男は一人ではトイレに行くことも出来ないので、そちらの世話も彼女がずっとしてきました。Yさんがいつも私に言われる言葉は、「本当に良く出来た奥さんだよ。亭主はああいう体になって以来、何もしない、何も出来ないが、奥さんが文句一つも言わず黙々と働いているのを見ると頭が下がるよ・・・」です。

その長男が我々のテーブルに近づいて来て、我々全員に向かってお礼の挨拶をしてくれました。それを私が通訳しました。「今日は、このように多くの日本人のみなさんたちに参加して頂き本当に有難うございます。遠い所から来て頂いて、亡き父も大変喜んでいると思います。これから食事をして頂き、今日一日をゆっくりとここで過ごしてください」

Yさんは事前に、「今回は初めて来られた日本人が多いので、キチンと挨拶してくださいね」と、長男に言われていたそうです。初めて今回参加された四人の日本人たちも、その長男の挨拶を聞いて恐縮していました。

それから、食事が始まりました。ふだんであればここの田舎の人たちが食べることはないような、大変なご馳走が出てきました。豚肉、牛肉、魚などを焼いたり、炒めたり、唐揚げにしたり、鍋にしたり、お粥にしたり、ここまでの料理を作って頂くのにどれだけの準備をされたのだろうかと思うぐらいです。

Yさんの話では「前の日に、これだけの大きな牛肉の塊を買ってきていたよ」と、両手を広げて言われました。そういうことは十分予想されましたので、日本人としては心苦しいということで、今回参加した日本人全員の方から香典代や料理代、宿泊費をまとめて「寸志」として集め、古川さんの長男に渡すことにしました。最初Yさんは「そんなのは要らないよ!」と手を横に振っていましたが、「これは古川さんの家族に渡すのですから、どうぞ受け取って長男家族にお渡しください。」と言って、ようやく承知して頂きました。

それらのご馳走を食べながら、ビールを飲みながら、全員がYさんの話に耳を傾けています。Yさんの話は1963年にベトナムに渡る前の、日本出国時の空港での回想から始まりました。まだ、KSくんやHS先生が生まれていない時代です。

「ベトナムに行くことが決まって、空港に友人・知人たちが見送りに来てくれてね。もちろん両親や家族も来ていました。でも、両親は見送りではなく、ベトナムに行くのを反対するために来ていたんです。“戦争真っ只中の国に何を好き好んで行くんだ!”という気持ちでね。しかし、その当時の私は“何でも見てやろう!”の精神でしたよ」

バナナ園開拓の時期から話はスタートし、当時の状況からYさんは回想されて話されます。 私には以前聞いた内容と重なることが多いのですが、今回カイ ベーを初めて訪問した四人の日本人たちにはそのすべてが新鮮な内容で、初めて聴く話です。四人とも興味津々という表情で聴いています。

しかし、いつ聴いてもYさんの話は面白い。駄洒落、冗談、例え話などを織り交ぜて、話が途切れることがありません。まさに≪談論風発≫という感じです。私は今までのYさんとの長いお付き合いでそういう一面を知っていますが、四人の中でも今回初めてYさんに会ったSTさんは特に圧倒されています。横で見ていて面白かったです。

Yさんの話はドンドン佳境に入ります。Yさんの話は、話題があちらへ飛び、こちらへ戻り、過去現在を行き来します。ポンポン飛んでゆく話題にS先生は感心したように聴き入り、ST先生は熱心に手帳に書き留め、HS先生は写真をバチバチ撮っていました。しかし、Yさんが作家になられたら、さぞ面白い作品を発表されるのでは・・・と、私は一人想像しています。

「開高さんは本当に物識りでねー。カイ ベーに来られた当時はまだ38歳ぐらいで若かったけれど、いろんなことを良く知っておられたよ。開高さんの話を聴いていて、いつも感心していました」

「ベトナム戦争を扱ったものの本や新聞記事の中には“民族解放戦線”という言葉を使っているのがあるけれど、正しくは“解放民族戦線”と表記すべきなのです。ベトナム語では“Mat tran Dan toc Giai phong”と表記します。*注* Mat tran(マッ チャン)=戦線、Dan toc(ヤン トック) =民族、Giai phong(ザーイ フォン)=解放 」

「私がカイ ベーに来た当初から、古川さんの奥さんからは親身になって親切にして頂いたという思い出がいっぱいあります。私に人が良く、【古川さんが亡くなって四十年も経ち、肉親でも親戚でもないのに、どうしてそこまで今も古川さんの家族に尽くし、長い付き合いを続けてゆけるのか不思議に思う】と聞いてくることがありますが、それは古川さんの奥さんから受けた当時の恩義に報いたい気持ちからです」

食べながら、ビールを飲みながら話している我々の眼の前には、二年前に来た時と比べると、大きく成長したドリアンの木があります。カイ ベーに行く前、「もしかしたらドリアンが実を付けていて、食べられるかも」とYさんが話していましたが、残念ながらすでにこの時期は実を収穫した後で、代わりにドリアンの白い花が咲いていました。ドリアンの花は初めて見ましたが、なかなかキレイでした。

昼を過ぎて二時頃になり、S先生とST先生と私は眠くなり、昼寝をすることに。しかし、YさんはKSくんとHS先生を相手に話を続けています。昼寝などされません。すこぶる壮健です。その元気さには驚かされます。

そして一時間ほど昼寝して、ST先生とHS先生と私は近くを散歩することに。と言っても近くには果樹園と魚の養殖場しかありません。それでも初めてこのカイ ベーに来た日本人からすれば、「ドリアン」や「竜眼」や「パパイヤ」の木を見ること自体が珍しく、しばらくじーっと眺めていたり、写真に撮ったりしていました。ドリアンの木が花を付けている光景などはサイゴンで見ることはあまりないので、みなさんの興味を強く惹いていました。

そして、夕方五時過ぎからまた宴会が開始。近所の人たちは昼間の宴会だけの参加で、この時にはもう帰っていたので、家族や親戚の方々と我々日本人たちだけです。Yさんはまだ続けてビールを飲み、話を続けられます。Yさんの体の中の辞書には“疲れ”という単語は無いかのようです。今年74歳だとは到底信じられません。

そして、我々が食べて、飲んでいる時、長男の奥さんが一人でホースを手にして、それを引っ張りながら。ドリアンの木の根元に散水し始めました。Yさんが「果樹園の仕事もすべて奥さんが一人でやっているんだよ」と言われたとおりでした。慣れていない我々は家の軒下に座りながら眺めているだけです。

そして、そのすぐ後、二月にしては珍しく、少し強い雨が降りました。Yさんは「この地域に二月に雨が降るというのは珍しいねー。私はカイ ベーにいた六年間は、毎日日記をつけて、その日の天気や気温も記録していたけれど、雨が降ったことはない」と不思議がっておられました。

夕方からの宴会は夜十時になってもまだ我々日本人だけで続いてゆきました。果樹園のほうを見ると、枝にホタルが飛び交っているのが見えました。S先生、ST先生と私は、十時半を過ぎた頃からビールを飲み過ぎて、だんだん眠くなりました。しかし、Yさんは我々以上に飲んでいるのに全然平気です。私たち三人は「お先に寝させてもらいます」とYさんに断りました。

しかし、それにしてもYさんのタフさに感心して、「どうしてそんなに元気なんですか?それだけ飲んでもまだ酔いませんか」と聞くと、「いやー、ここだと飲んでからバイクを運転して家まで帰る必要もないし、眠くなればすぐそこの寝床に転がればいいから安心して何本でも飲めますよ。ハッハッハー」と笑い飛ばされました。それからまた続けてKSくんとHS先生を相手に飲み続けられました。

そして、私はすぐに眠りに落ちました。しばらくしてふっと眼が覚め、時計を見ると深夜一時半です。裸電球が一つ付いていて、目を凝らして見ると、誰かが一人丸いテーブルに向かい座っているのが見えました。薄暗い中で良く見ると、その人はYさんでした。他には誰もいません。

(Yさんはまだ寝ておられないのか・・・、しかし、Yさんは一人で何をされているのだろう)と思いました。KSくんやHS先生の姿はそこには無かったので、二人は先に寝たのでしょう。Yさんは一人で右手を動かしながら、時折小さな声で何かを呟かれています。

そこへ、長女のAさんが来て「早く寝なさいよ」と声をかけています。Yさんは眠りこけているわけではなく、「いいから先に寝なさい」と、ハッキリした返事をして、Aさんを帰しました。その後はまた私自身深い眠りに落ちたので、Yさんが何時に寝られたのかは知りません。

次の日は、朝6時半に起床。すでに起きている人がほとんどで、みんな体調も良く、元気です。私はすぐには立たないで、(昨日は良く飲んだなぁ~)と思いながら、マットレスの上にしばらく座っていました。そして、ふと何気なく座っている足元を見ました。

敷布とマットレスは、一見したところ、手で触ったところ、どうも新しく買ったもののような感じがします。後に、カイ ベーでの法要が終わり、サイゴンでYさんにそのことを聞きました。「ああー、気づきましたか。実はそうみたいです。みなさんたち日本人が来られるというので、前もって買いに行ったようです」と言われました。

朝食は今回もインスタント・ラーメンを作って頂きました。昨日は昼から、肉を食べ、魚を食べ、ビールを飲みすぎましたので、朝食にはこういう軽いものが一番です。みんな「美味しい、美味しい!」と言って平らげました。

ラーメンを食べながら、KSくんとHS先生に「昨日は何時に寝たの?」と聞くと、「0時には寝ました」という答え。ということは、その後、一時間ほどはYさん一人で起きておられたということです。私の前に座られたYさんに「昨日夜中に起きたら、一人だけ起きておられて、手を動かしながら、何かを呟かれていましたが・・・」と聞きました。Yさんは「実は、あの時は考え事をしていました」と言われました。

何を考えておられたのかはYさんのみぞ知るですが、カイ ベーでのさまざまなことを思い出されていたのだろうとは想像出来ます。戦時から始まるYさんのカイ ベーでの体験ですから、我々余人には伺い知ることが出来ない、多くのことがあったことでしょう。「何を考えておられたのですか」とは聞きませんでした。

そして、朝9時ちょうどに古川さんの家を出ました。家を出る前に、古川さんと奥さんの写真に向かい、線香を上げました。その後、寝台の上で寝ている長男にみんなで挨拶に行き、今回の法要でお世話になったお礼を述べました。「たくさんの料理をご馳走して頂き、大変有難うございました。来年またお会いしましょう」と言いました。来年は古川さんの奥さんの法要になります。

それからまた五台のバイクに乗り、バス乗り場まで移動。9時半過ぎにバス停に到着。そこで、バイクに我々を乗せてバス停まで見送りに来てくれた家族の人たちにお別れの挨拶。「ミエンタイ・バスターミナル」までは、古川さんの長女Aさんの娘・Linh(リン)さんが一緒に付いて来てくれました。

そして、9時55分発のバスに乗り、カイ ベーとの別れを告げました。今年「42回目の古川さんの法要」に参加出来た貴重な体験を、みんなが喜んでいました。昼11時半に、バスは「ミエンタイ・バスターミナル」に到着。そのターミナルに、ちょうど学校近くまで行くバスが待機していたので、S先生とST先生はそれに乗り、HS先生と私は「ベンタン・バスターミナル」行きのバスに乗ることにし、Linhさんともここでお別れ。これで、今年の法要が終りましたと思いましたが、実はまだその余韻が続くことに・・・。

法要が終り、一段落してからちょうど一週間後の日曜日の昼前、KSくんから電話が掛かってきました。彼が言うには「今古川さんの次男のVuさんがサイゴン市内に来ていると私に電話があり、二人でSUSHI KOのすぐ隣にある喫茶店でコーヒーを飲んでいます。ここに来ませんか」と。

(えっ、あのVuさんがサイゴン市内に!何でまたSUSHI KOのすぐ側まで来たのだろうか・・・)と思いましたが、わざわざ来てくれたので「そうですか。すぐに行きます」と答え、15分後ぐらいにはそこに着きました。

確かに彼がいました。Vuさんが言うには、もともと彼の住まいは「ミエンタイ・バスターミナル」の近くにあり、今日は友人の家がこの近くにあるので遊びに来たとのこと。それを聞いて、「ああ、そうですか」と理解しました。そうであれば(せっかく元日本兵・古川さんの息子さんが来ているのだから、村山さんに連絡してみよう!)と思いました。

村山さんも日程さえ合えば、「古川さんの42回目の法要」に参加したい気持ちは強く持たれていたからです。出来れば、古川さんの家族にインタビューするために、Yさんと一緒にまたカイ ベーに行きたいとも言われていました。

村山さんに電話するとすぐに繋がり「今から、すぐにそこに行きます」と言う返事でした。しばらくして村山さんが登場し、早速古川さんの次男・Vuさんにインタビュー開始。古川さんの家族構成から、父親としての古川さんの印象。Vuさんの今の仕事など・・・。

それらについて、Vuさん自身にもベトナム語で書いてもらいました。彼が家族構成を書いているのを見ていて、感心したことがあります。父親・古川さん、母親・Anhさん、そして六人の兄弟姉妹の生年をあまり考え込む様子もなく、スラスラと書いていったからです。

この時初めて、日本人・古川さんが遺された、古川さんの血を引く六人の子どもたちの正確な生年が分かりました。村山さんの手帳に彼が書いたメモによると、長女A(アー)さん:1954年生まれ。次女B(ベー)さん:1956年生まれ。三女Hue(フエ)さん:1958年生まれ。長男Tuan(トゥァン)さん:1967年生まれ。次男Vu(ヴー)さん:1968年生まれ。四女Thuy(トゥイ)さん:1972年生まれ。

村山さんもカイ ベーに行く時間が取れなかっただけに、ここでVuさんにインタビューが出来て喜んでいました。実は、彼はビザ手続きの関係で、この翌日にはタイに飛んで行く予定だったからです。ギリギリのタイミングで間に合いました。インタビューを終えると、Vuさんに厚くお礼を述べて、すぐに村山さんはまた翌日の準備のために戻ってゆきました。

お昼近くになってきたので、VuさんとKSくんと私は三人で近く路上屋台の食堂でご飯を食べることに。Vuさんには「今回初めてカイ ベーでお父さんの法要に参加して、同僚の三人の日本人たちも大変喜んでいましたよ」と言いますと、Vuさんも喜んでくれました。事実、この法要が終わった後、三人全員がその感想を書いてくれましたので、その一部を紹介します。

<S先生>
貴重な体験をさせていただきありがとうございます。
帝国陸軍兵士の子孫がメコンデルタ地帯に生活していることに人生の不思議を見る思いでした。これらの人々の顔にはまぎれもなく日本民族の血が流れているのだと思うと、自分の子孫にも同じことが言えるのだなと感慨にふける週末でした。
そして、若かりし頃のYさんの活躍ぶりを見たり聞いたりしていると、今の日本のありかたや若者たちのことを比較せずにはいられません。日本の若者たちにこそYさんの行動力と精神力を知ってもらいたいものです。

<ST先生>
この度は稀有の経験をさせていただき、ありがとうございました。

Yさんは本当に貴重な、想像を絶する体験談をユーモアを織り交ぜながら、わかり易くお話ししていただき、歴史に翻弄された人々の暮らしを垣間見ることができて、大変参考になりました。

また、古川家のご家族・ご親戚・知人の方々にはご多用中のところ、心温まるもてなしと美味しい料理をご用意頂いて、恐縮の至りです。

個人のご冥福をお祈りすると同時に、これを機に微力ながら少しでも日越友好関係の醸成に役立つことができたらと考えています。

<HS先生>
カイ ベーでは多くの体験を聞かせて頂いて、有難うございました。

Yさんは古川さんのご家族一人一人と本当に家族のような関係にあると思います。日本では夫婦とその子ども三人で生活することが当たり前になっていて、そのせいで家族や親戚と疎遠になることが多く、自分は近い親戚でも名前を知らない方や会った事もない人までいます。

今回カイ ベーに行くまでは、今の日本の家族構成のせいで、日本はそういう風になってしまったんだと思っていました。でも違うんですね。自分はカイベーに行って、古川さんのご家族、奥様のお子さん方や、それ以外の方、近所の方、みんなの心のつながりが見えたように思えました。それは、誰でも、どんな家族でも、ずっと持ち続けなければならないものではないかなと思いました。

本当は持っていて当たり前のものなのに、自分のまわりには、あんなに強い「つながり」は無いなと思います。自分が見た、あの大きな家族の「つながり」「絆」なんだなと感じました。

これら三人の方の感想はYさんにも渡しました。初めて参加した三人の先生がたでしたが、一人・一人のこころの中にさまざまな感慨を抱かせた、今回「42回目の古川さんの法要」だったようです。

 

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

「こんなに嬉しいことはない」両陛下と対面した旧日本兵家族

「いろいろとご苦労もあったでしょう。平和というものが本当に大事だと思います」
3月2日、旧日本兵の家族と面会された天皇皇后両陛下は、ひとりひとりとお話され、家族らの自己紹介、境遇、日本人の夫や父との関係に耳を傾けられた。両陛下は、ベトナムと日本の関係がますます深まり、両国の友好関係が増進することを願われた。

この日両陛下と面会した16名の家族では、Nguyen Thi Xuanさん(94歳)が唯一、今から70年あまり前の日本兵の妻として出席した。その他は息子や娘、その妻や夫だった。

ハノイ市内のホテルで両陛下と旧日本兵の家族は、個人的な話を中心に交流された。高齢のために母親が出席できなかったという話を聞き両陛下は、健康をお祈りする言葉を伝えられた。

会場に早くから訪れていたXuanさんとその4人の子供は、両陛下にお会いできることで胸が高鳴り、朝5時には起きていたという。

「とても感動しました。何年もの困難な抗戦を乗り越えて、今こうして天皇皇后両陛下が関心を持って訪れてくださいました。これ以上嬉しいことはありません。両国の繁栄が続くことを願っています」とXuanさんは話した。

Tran Duc Longさん(63歳)もまた、この日を待ちわびていた。Dungさんは、たちばなさん、Tran Duc Trungというベトナム名を持つ旧日本兵の息子だ。

インドシナ半島に進駐していた当時の大日本帝国の兵士のなかで、1945年8月の降伏後、現地に残った人々はおよそ600人。多くの人が1946~1954年にベトミンに参加し、仏植民地支配と戦った。そしてこの半数以上が戦場で命を落としたか、病気で亡くなった。

ベトナム人女性と結婚し子供をもうけた日本兵も多かったが、家族を連れて帰国することは許されなかった。旧日本兵の妻や子供は現在、数百人がベトナムにいると見られる。

Dungさんによると、たちばなさんは1954年、息子がまだ生後数カ月の頃にベトナムを離れた。Dungさんは2004年に1度父親に会えたが、以降、連絡は途絶えている。自分の父親の現在の情報を知りたいという 。Dungさんの母は1986年に亡くなった。

「両陛下がお元気で、お幸せで、両国関係の素晴らしい発展の手助けをしてくださることを望んでいます」とDungさんは話した。

<HOTNAM News>

歴史に翻弄された残留日本兵のベトナム人妻、夫の軍服を巻いた枕を抱き眠る

「これは主人なんです」。グエン・ティ・スアンさん(94歳)はベトナムの国旗を巻き付けた枕を指差して言う。国旗の下には日本の軍服が折り畳まれて巻き付けられており、スアンさんは毎晩この枕と一緒に眠るのだ。

2月28日からベトナムをご訪問される天皇、皇后両陛下はハノイ市で残留日本兵の妻らとご懇談される予定で、スアンさんも残留日本兵の妻の1人だ。 スアンさんの夫は第二次世界大戦後に日本へ帰国したままベトナムへは戻ってこなかった。残留日本兵とベトナム人女性の家族は日本とベトナム両国間の歴史の荒波に翻弄されてきた。

1940年代に日本軍がベトナムの一部地域を占領したことについて、依然として多くのベトナム人が嫌悪感を抱いている一方で、日本軍による占領はフランスのインドシナ植民地支配を終わりに向かわせる足がかりとなったと据える人もいる。

当時のベトナムでは日本軍とフランス軍の占領により数百万人のベトナム人が餓死し、一方ではスアンさんのように日本兵と家庭を築く者もいた。「彼はベトナム語がとても上手で、ベトナム語の歌も唄えたんですよ」とスアンさんは夫に思いをはせる。

スアンさんと夫は1945年に日本軍の降伏後に結婚した。当時インドシナには約10万人の日本兵が駐屯しており、スアンさんの夫を始め約600人の日本兵がベトナムに残留し、ベトナム独立同盟会(ベトミン)として第一次インドシナ戦争に参戦した。

約半数の残留日本兵が戦死や病死し、第一次インドシナ戦争が終結した1954年には生存していた残留日本兵の一部が帰国を余儀なくされた。

1954年に1回目の残留日本兵引き揚げがあり、スアンさんの夫を含む71人が日本へ帰国したが、家族の同伴は許されなかった。1961年の2回目の引き揚げでは妻子の同伴が許されたものの、複数のベトナム人女性との間に子供を儲けていた者も多く、取り残された女性や子供もいたという。

残留日本兵を父親に持つグエン・ティ・バンさん(63歳)は「父は必ず迎えに来ると約束をしましたが、約束を果たすことができませんでした」と語る。父親は復員して7年後に亡くなった。

ベトナム戦争勃発後は、日本が米国と同盟国であったことから残留日本兵とベトナム人妻の家族は苦境にさらされた。状況が好転したのは1975年以降のことで、冷戦終結後は日本とベトナムの両国関係も急速に改善されていった。

スアンさんは夫が帰国しても再婚することはなく女手一つで子供を育てた。2005年にスアンさんの夫は日本の家族を連れてベトナムを訪れ、スアンさんとの再会を果たした。

スアンさんは当時のことをこう振り返る。「一度だけでも彼と再会できたので思い残すことはありません。過去は過去です。前に進む時が来たのです」。

1月の安倍晋三首相のベトナム訪問に続き、この度の両陛下のベトナムご訪問は両国にとって非常に意義深いものとなるだろう。

<VIET JO>

◆ 解説 ◆

天皇皇后両陛下はベトナム、そしてタイへのご訪問を終えられ、3月6日日本にご帰国されました。お二人ともご高齢ながら最後まで公務に励まれ、ベトナムでは各地でこころ温まる歓迎を受けられました。 <HOTNAM News>の記事は、両陛下がベトナムをご訪問された時の記事、<VIET JO>の記事はベトナムご訪問前の記事です。

今回の=BAO=にこの二つの記事を載せた意味は、二つの記事に共通の94歳の女性・Xuanさんが登場されているからです。二つの記事を併せて読むことで、さらに理解が深まると思います。事実、一世紀近くに亘る波乱の人生を歩まれた、Xuanさんという女性の過去の歴史に関するこの二つの話を読んで、こころを動かさない人はいないでしょう。

そして、今回天皇皇后両陛下に会われたことは、Xuanさんにとって感無量の思いがあるだろうということは想像出来ます。

(もしも・・・)というのは叶わぬ言葉ですが、カイ ベーで亡くなられた元日本兵・古川さんやほか日本に帰ることなく異郷の地で果てられた、多くの元日本兵の方々がもしご存命中に両陛下がご来越されていたとしたら、どんなに喜ばれたことだろうか・・・と想像するだけです。

私の父は近衛兵で、今の天皇陛下のお側近くに仕えていました。それだけに、幼い時から皇室についてはいろいろな話を父から聞かされていました。日本にいた時には、皇室が日本国にあることが当たり前という感じでしたが、異国に来てしみじみと実感しています。万世一系の皇室を戴く国・日本国の有り難さを・・・。

最近私が読んだ本で、敬愛する渡部昇一先生【決定版 日本人論~日本人だけが持つ「強み」とは何か~】<まえがき>に次のような内容があります。

「日本の皇室は他の国の王朝とは異なる特色を持っている。ほとんどの国は、時代によって王朝は倒され、時には支配者の民族が入れ替わっている。ところが、日本の場合は『古事記』『日本書記』に示されている通り、神話から始まる皇室が万世一系の流れで現代に受け継がれて連続性を持っているのである。

日本の歴史をみたとき、この万世一系の連続性を考慮しない限り、説明が不可能な史実が日本史には随所に存在していることが本書を読み進めていただければ分かるはずである。・・・(中略)

日本人が個別に意識しなくても、古代から途絶えることなく続く歴史が、日本人の骨となり肉となっていて、日本人の矜持を形作っているのである。日本人はこのことを決して忘れてはいけないのである。」

まさに卓見であり、深い洞察が込められていると思います。日本国内にいる時、我々日本人は<日本および日本人>を特に強く意識することはありません。それは空気のように、当たり前に存在しているからです。

しかし、異国においては、そうではありません。異国で日本国、日本の文化、日本語に携わる仕事に関係している日本人たちは、程度の差こそあれ<日本および日本人>、そして<皇室>を強く意識してゆくようになるのです。

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