アオザイ通信
【2016年6月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<日本帰国時のこと〜後編〜>

今年の<熊本大地震>では、多くの日本人の友人やベトナム人の知り合いや生徒たちから

「お母さんやお家は大丈夫でしたか?」

と言う言葉をたくさん頂きました。我が家は熊本県の北部にあり、母親に怪我も、家にも損傷はありませんでした。しかし、熊本市内ではまだ避難所暮らしをしている多くの人たちがいます。

私の友人にも家が倒壊し、一時期体育館の中の避難所で過ごしていた友人がいます。(自分の家が地震で無くなる)というのは、どれほど辛いことでしょうか・・・。一瞬にして、日々の平穏な生活が地震により奪われてしまいました。その悲しみと苦難は察するに余りあります。その友人に会った時、慰めるべき言葉が見つかりませんでした。

そして、今回<熊本大地震>が起こったことで、例年楽しみにしていた熊本での友人・知人たちとの再会も叶いませんでした。大地震の影響で交通網がマヒしたり、仕事にも影響が出てきて、私が日本に帰国した時に毎年再会していた熊本の友人・知人たちには会えなかったのでした。

それでも、地震後しばらくして、運休していた新幹線がようやく開通した5月初旬に、鹿児島にいる実習生たちと、熊本市内にいる留学生たちに会いに行くことが出来ました。

● 5月6日(金)鹿児島県へ実習生を訪問 ●

朝9時57分 新玉名発の新幹線で鹿児島中央駅へ。途中徐行運転などもなく、新幹線は予定通り11時34分に鹿児島中央駅着。昨年と同じようにUさんが鹿児島中央駅まで迎えに来てくれていました。

そのままUさんの車に30分ほど乗り、病院に入院しているTさんのお見舞いに行くことに。日本に行って一人だけ病気になり、寂しい思いをしていたことでしょう。私たちのお見舞いを大変喜んでくれました。

そして、午後2時に垂水漁協を訪問。ちょうど私たちが着いた時に、向こう側から二人の教え子たちが歩いてきました。二人とも驚いたように立ち止まり、私のほうを見ていました。一年ぶりの再会でした。朝早くから始めた仕事がこの時間に終わり、今から寮に帰るとのことでした。

実習生の教え子たちとの再会いつもこの漁協で私の相手をしてくれていたSKさんが、何と先月から病院に入院しているとのこと。職員の方々にお見舞いの言葉を述べて、お土産を渡してそこを去り、その後実習生の住む寮を訪問。

ちょうど仕事が終わっていた時間なので、この時5人いました。1期生のQさんたち4人は今年の9月にベトナムに戻る予定です。3年間があっという間に過ぎました。漁協の人たちからも可愛がられて、いい経験を積んだようです。「またベトナムで会いましょう!」と告げて、そこを去りました。

鹿児島に行った実習生たちは毎年盛大な歓迎会を開いて頂いたり、鹿児島県版の新聞にも採り上げられて、地元のみなさんたちにも良く知られる存在になりました。その新聞記事を読んだ地元の建築会社の方が、昨年から男子の実習生たちを採用しています。次に、そこを訪問することにしました。

そこへは垂水市から鹿児島市に戻り、車で40分ほど掛かりました。東谷山というところでした。Uさんも「最初にあそこに着くまでは大きい道路も少なく、標識もあまり無いので、一回来たくらいではなかなか道順を覚えられなかったよ」と笑って言われました。

私が訪問した時にはたまたまその建築会社の社長さんがおられて、アポ無しで突然訪れたにもかかわらず、親切に対応して頂きました。この時実習生たちはまだ現場で働いている時間帯ですよと言われました。ここには今五人の実習生たちがいますが、この日彼らと直接会うことは出来ませんでしたが、その社長さんから彼らの評判を聞くことが出来ました。

「同世代の日本の若者もここで働いていますが、ベトナムの若者たちのほうが飲み込みも早いし、向上心が強いですよ。そして彼らは大変素直ですね。年配者の指示には良く従ってくれます。またここはご覧の通りの田舎なので、遊びに行く場所も少なく、みんな真面目に過ごしていますよ」

 ベトナムでの彼らを知っている私からすると、大変好意的な評価をしてくださいました。その言葉を聞いて、私のほうも大変嬉しくなりました。遊ぶ場所も無い場所で働いているだけに、腰を据えて三年間頑張ってくれることでしょう。

●「知覧特攻平和会館」を訪ねる●

今年日本に帰国した時、本屋でたまたま百田尚樹さん『永遠の0』を見つけました。この本は今から十年ほど前に大ベストセラーになった小説ですが、私自身はまだ読んでいませんでした。それが眼の前に置いてありましたので、早速購入しました。

そして、鹿児島に行く新幹線の中でもずっとそれを読んでいました。ページをめくるたびに涙が溢れそうになり、そのたびに本から眼を離して車窓の外に見える林や青空をじーっと見ていました。そして、新幹線の中で決めました。

 「今回知覧に行こう!」

かつて知覧にあった<特攻隊>の出撃基地跡には、今『知覧特攻平和会館』という資料館が建てられています。<特攻隊>の基地があった知覧については以前から聞いてはいても、今まで私はそこに行ったことはありませんでした。以前から一度は訪ねたいとは思っていました。しかも、私自身が鹿児島に行くのは一年に一度のことでもあり、今後もたびたび行くことは出来ないので、今回がいい機会かなと思いました。

それで、鹿児島に着いたその日に、車の中でUさんに「実は翌日知覧に行きたいのですが・・・。どこから観光バスが出ますか」と尋ねますと、「あー、そう。いいですよ。明日朝から行きましょう。私の車で案内しますよ」と快く引き受けて頂きました。

そして当日は朝9時半にUさんが迎えに来て頂いて、車に乗って知覧に向かいました。車の中で、私は知覧に向かう途中の景色に見とれていました。ちょうど朝方降った雨が止み、山の緑がみずみずしい濃さで朝陽に映えていました。 特に知覧名物の茶畑の美しさには見惚れてしまいました。

知覧町に入った頃、街路樹の間に石灯籠がずっと並んでいる光景には眼を奪われました。
その石灯籠には意味があり、特攻隊で戦死した1036人の方々を祀るために、遺族の人たちが寄贈したそうです。1036柱の石灯籠が完成した後もさらに申し込みは続き、その数は増えているといいます。

11時半に『知覧特攻平和会館』の駐車場に到着。車を停めた所で、知覧の新茶を売っているテーブルがあり、そこで新茶を飲ませて頂きましたが、実に美味しいものでした。そして歩いて数分で『知覧特攻平和会館』に着きました。会館の前には石碑が幾つか建ててありました。「ホタル」とだけ刻まれた石碑と、もう一つは和歌の碑があり、こう刻まれていました。

帰るなき機をあやつりて征きしはや 開聞よ 母よ さらばさらばと
鶴田正義
さらに、あと一つの石碑には石原慎太郎氏の文が刻まれていました。
短い青春を
懸命に生き抜き
散っていった
特攻隊の若者たちが
「お母さん」
と呼んで慕った
富屋食堂の女主人
鳥濱トメさんは、
折節にこの世に現れ
人々を救う菩薩でした。
石原慎太郎

この日は土曜日だったせいか、多くの訪問者がいました。私たちが『知覧特攻平和会館』に着く前に、Uさんは車の中で「私は今まで何回も訪ねたし、あそこに行くたびに辛い思いをするので、今日は中には入りません。外で待っていますから、一時間ほどゆっくりと見学してください」と言われましたので、記念会館の中には一人で入りました。

中に入ると、まず最初にビデオによる説明が20分ほど流されていました。その中の説明で、全員で1036人の若者たちが特攻隊で散華したという話がありました。そのうち439名がこの知覧の飛行場から飛び立って行ったそうです。「1036人」という数字を聞いて、あの石灯籠が思い浮かびました。

そのビデオが終わり、次の部屋に入ると多くの顔写真が眼に飛び込んできました。全て特攻隊で亡くなった方々の顔写真です。部屋の左右の壁にその方々の写真が掲示してありました。顔写真のすべてが自分のほうを見つめているような感じがして、しばらくそこに立ち尽くしました。

部屋の中には特攻隊の方々が生前に書き遺した手紙類があります。自分の両親に宛てた手紙。特に母親だけに書いた手紙。まだ幼い子どもに、子どもが読めるようにとカタカナで書いた手紙など、多くの手紙が展示してありますが、これを読んで涙を流さない人はいないでしょう。

ゼロ戦の実物も据えてありました。実物を見るのは初めてでした。「永遠の0」で読んで、あの中の登場人物たちが乗っていたゼロ戦とはこの飛行機だったのか・・・と、しみじみと思いました。館内は写真撮影が禁止なので、ひとつひとつをゆっくりと眼に焼き付けるようにして見て回りました。

一時間ほどの『知覧特攻平和会館』の見学は終りました。出口の所で特攻隊に関する書籍がいろいろ置いてあり、その中で三冊ほどを買い求めました。さらにパンフレットもありそれも頂きました。そのパンフレットには、「かごしまロケ地散策」とあり、〔鹿児島を舞台にした映画“ホタル”〕と書かれてありました。

あの高倉健さんが“ホタル”の映画撮影でこの知覧にも来られていたことを、このパンフレットで初めて知りました。後でUさんに聞きましたら、高倉健さんは何と、今ベトナム人の教え子たちがいる垂水漁港にも足を運ばれたということでした。それを聞いた時、実に嬉しかったですね。

さらに帰り道には、Uさんの案内で『知覧の武家屋敷』『富屋食堂』にも立ち寄らせて頂きました。『知覧の武家屋敷』には車から降りて、歩いて昔の武家屋敷を回りました。武家屋敷の生垣の見事さ、庭の美しさには息を呑む思いでした。良く手入れされているなーと感心しました。また武家屋敷のすぐ側を流れる小川の清らかさにもこころ洗われました。

特攻隊の隊員たちを母親のようにして面倒を見ていたというトメさんの『富屋食堂』は道路のすぐ側に面して建っていました。普通の民家を改造して、食堂として場所を提供していたのかな・・・と思うような質素な作りの食堂でした。隊員たちのこころの拠り所となっていたという雰囲気が今でも偲ばれてきます。

そこを最後にして知覧を離れて、鹿児島中央駅に向かいました。鹿児島中央駅でUさんとはお別れしました。また近いうちにベトナムに来る予定があるそうなので、サイゴンでの再会を約束しました。

そして、Uさんと鹿児島中央駅で別れてから、私自身のこころの中では重苦しい気持ちが新幹線の中でもずっと続いていました。Uさんが「あそこに行くたびに辛いのです」という気持ちもよく理解できました。

1945年の8月15日の終戦の日ギリギリまで続けられた「神風特別攻撃隊」。わずか十代後半、二十代初期で散華した若者たちもいた特攻隊。Uさんからは、特攻隊に自分の若い部下を参加させるのに反対した将校もいたと聞きました。でも、多くの若者たちは「国のため、家族のため」と思い、大空に散っていったのでしょう。

『知覧特攻平和会館』で買った本の一冊を帰りの新幹線の中で開きました。その本のタイトルは「陸軍特別攻撃隊の真実 只一筋に征く 愛するものを護るため、大空に飛び立った若者たち」。この本には特攻隊で散っていった飛行士たちが、両親に、家族に、妻に、子どもに宛てた手紙の全てが収められています。

たまたま開いたその本の、最後のページに載っていた一兵士の手紙に眼を奪われ、一時間半ほど乗っていた新幹線の中では、その一通の手紙の内容だけを繰り返し読み、それ以上の手紙を読むことが出来ませんでした。

「 思い出すのは幼い頃の
母の背中よ 水色星よ
蛍飛ぶ飛ぶあぜ道の
遠い祭りの笛太鼓
思い出すのは兄弟けんか
父に叱られ小薮のかげに
我が家なつかしい思い出の
呼んだやさしい母の声
思い出すのは門出の朝の
母のあのかお小さい姿
ふった日の丸思い出の
手柄立てずに死なれよか 」
岸田伍長(21歳)

● 5月9日(月)「熊本外語学校」へ留学生を訪問 ●

熊本に帰って初めて、大地震が起きた後の熊本市内に入りました。辛島町で市電を降りると、そこの近くにあった広場に「ボランティアセンター」の受付のテントが設けられていました。全国から集まって来た有志の方たちの受付をするのがこの場所なのでした。

最初に、熊本城を見に行くことにしました。川沿いの石垣と土塀はやはり、無残にも崩れていました。涙が出てきました・・・。平成19年(2007年)に築城400年を迎えた熊本城なのですが、子どもの頃から見慣れていたお城の石垣が崩れていました。

お昼12時過ぎに「熊本外語学校」を訪問。Y校長先生と再会。聞けば、ベトナムから来た生徒たちには怪我はなく、寮も壊れたりはしていないとのこと。一人だけ、ちょうど大地震が起こった時に、寮の中でラーメンを作っていた最中で、熱湯が腕にかかって軽い火傷をしたとのこと。Y校長先生に

「落ち着いたら、ベトナムの生徒たちにもボランティア活動に出てもらったらどうでしょうか。語学だけの勉強とは違う、日本で日本人を助けたという体験が積めると思います。」

と話しますと、「今すぐはまだ現場に危険な場所がありますので出来ませんが、少し時間が経てば、それを考えています」とのこと。

今年もサプライズで、私がこの日に学校に来ることは生徒たちには内密にしていました。しばらくして、フロアー内に放送が流れてきました。

「ベトナムから来た生徒さんたちはルーム◎に入ってください」

みんな全員が教室に集まった頃に、私がドアを開けて入ると「ワー!!」と言う生徒たちの声が挙がりました。昨年よりもまたまた増えていて、20数人の生徒たちがこの日集まっていました。一つの教室が満席でした。最初は少人数から始めただけに、感無量です。

しかし、初めて日本で体験した大地震には、彼らもさぞ驚いたことでしょう。ほとんどの熊本人にとっても初めてのこと。いわんや今までベトナムで地震を経験していない彼らにとって、どんなに怖かったことでしょう。

新聞に載っていた記事では、熊本での今回のような大きな地震は128年ぶりだということでした。私の父はすでに亡くなりましたが、そのお姉さんに当たるおばさんは今でも健在で、今年97歳になります。今は老人ホームで暮らしていますが、記憶力が驚くほど鮮明で、兄弟姉妹6人の誕生日をしっかりと覚えています。

地元の新聞の文芸欄にある「肥後狂句」にも投稿していて、その幾つかは入選したことがあります。自分のお気に入りの狂句は短冊に書いて、ベッドの上のほうに貼ってあります。その一つを見た時には思わず吹き出しました。

「もうもてん 早う先生 呼んでくれ」

そのおばさんに、「今までおばさんの歳まで生きてきて、熊本で今年のような大地震の経験はありますか」と尋ねますと、きっぱりと「無いね。今まで今年のように大きな地震は聞いたことも、見たこともない」と言われました。やはり、<想定外の大地震>だったということです。

でも、熊本県人でも想定外だったこの大地震の後でも、Y校長先生の話では「ベトナムに早く帰りたい!」と言う生徒たちは一人もいなかったそうです。さらにまた、怪我の功名で、先生たちは避難所暮らしを生徒たちと一緒に過ごして、生徒たちとの交流が密になったそうです。この日、生徒たちみんなに私は話しました。

「みなさんも初めての地震を体験して、大変驚いたことでしょうね。でも、安心してください。もう地震は収まりつつあります。もうしばらくしたら、余震も終るでしょう。また、日本語の勉強に打ち込んでくださいね。そして、生活も勉強も落ち着いたら、ボランティア活動に協力してあげてください。まだ避難所で暮らしながら、苦労している人たちがたくさんいますので。その人たちを助けるのもまた、<日本での勉強>のひとつですから」

久しぶりに再会出来た嬉しさと励ましを込めて、今年もまた「サライ」の歌をみんなの前で歌い、そこを去りました。また来年の再会を約束して・・・。

● 神戸で教え子たちと偶然の再会 ●

五月末にベトナムに戻ることになり、その前日に神戸に入りました。そして本社での打ち合わせが終わり、会社の同僚のみなさんたちと日本滞在最後の夕食会に行きました。神戸駅の構内に新しく開いた「宮崎県産の地鶏の店」に行きましたが、そこでは元気のいいサービスと、意表をつく料理の種類の数々に十分堪能しました。

そして、同僚のみなさんたちと楽しい宴を過ごして、夜8時半過ぎにそこの店でお別れして、ホテルへ戻ることにしました。明日の朝は早いので、ホテルに帰ったら、すぐに寝るつもりでした。フロントに行くためにホテルの階段を千鳥足で上がっていた時、突然頭の上から私の名前を呼ぶ声が数名してきました。

(こんな所で、こんな時間に私の名前を呼ぶのは誰だろうか・・・?)

と不思議に思い、階段下から上を見上げると、30人近い若者 たちがロビーから私を見つめていました。全員が男の子たちでした。その顔を一人・一人見回していますと、かつて私がベトナムで教えていた生徒たちではありませんか。「ええーっ!!」と私も驚きました。信じられませんでした。

彼ら全員が、3年前に私が教えていた生徒たちでした。 その彼らが3年間の実習が終わり、まさに翌日の便でベトナムに帰るために、神戸で宿泊していたのでした。そして、そのホテルがたまたま私と同じホテルなのでした。嬉しさのあまり、彼らと抱き合いました、涙が出て来ました。彼らもまさかこのホテルで私に会えるというのは予定外のことでしたので、大変喜んでくれました。

特に嬉しかったのは、この日集まっていた教え子たちの中には、2013年3月号に載せた<研修生たちの日本語スピーチ・コンテスト>で優勝したRoaくんもそこにいたのでした。Roaくんは3年前のスピーチ・コンテストでは「私の先生」というテーマで発表して、見事優勝しました。それだけに大変印象深い生徒なのでした。

そして、彼らはその後居酒屋に行くということで、私も誘われましたので、一緒に付いてゆくことに。そこで、またまた話が弾みました。結局、夜の11時半頃まで付き合いました。

翌日も私が乗る便と同じ便だということで、関空まで彼らのバスに同乗させて頂きました。
そして、関空でもいろんな話をして彼らと行動を共にして、楽しい時間を過ごしました。

昨年も神戸駅に登るエスカレーターの前で、生徒たちに会いましたが、今年もまたまた生徒たちに会えるとは思いませんでした。嬉しい再会でした。時間が少しずれていたら叶わない彼らとの再会でしたので、今でも不思議な気持ちがしています。

今年は熊本での大地震があり、本当に、こころ塞ぐことが多い日本滞在でしたが、日本滞在最後の日に、「教え子たちとの偶然の再会」という、<嬉しい想定外>を味わいました。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■【熊本地震】今後どうなるのか――現地に住むベトナム人は今 ■

4月16日午前1時25分、就寝中だった、熊本大学で修士課程を学ぶDo Thao Linh(27歳)は、揺れで目を覚ました。その揺れは棚の物が床に飛び、ベッドの位置を20cmほどずらす強いものだった。

住まいは熊本市の西部。ただ彼女は、28時間ほど前に起きたマグニチュード(M)6.4の強い地震のときのように受身ではなく、状況が悪化した際の備えをしていた。地震があればすぐに潜り込めるよう、コタツのすぐ側で寝て、持ち出せる必需品を少し用意していた。

しかしLinhによると、多くの日本人またベトナム人がこのような強い揺れがさらに来るとは予想していなかった。友人のベトナム人には、靴すら 履かず、外に飛び出た人が大勢いるという。「立っていれば倒れてしまうほど」彼女はその揺れをこう表現した。2度目の地震はM7.1、最初の地震より強 かった。

Linhが机の下に潜り込んだその時、停電になった。携帯電話を手繰り寄せ明かりを得て、バッグとコートを持ち、スリッパを履き足もとを探る。割れた食器の上を歩き、ブレーカーを落とし、外に出る。ちょうど降りてくる皆と出会った。

その後も強い余震が続き、歩いて10分ほどの中学校に避難することにした。「みんな黙り込んで、ただヘリコプターと救急車、パトカー、自動車の音が聞こえるだけでした」Linhは振り返る。

彼女によると、みな2人以上のグループで、どこに行き、何をすべきか知っていたためかなり冷静で、歩きながら知人に連絡を取り、状況を尋ねつつ、どこに行くのかを伝えていた。

<雨水でご飯を炊く>

熊本市の中心部に住むDo Van Giap(25歳)は毎晩、小学校で夜を明かしている。ここは、地震に耐えられる堅牢なつくりになっている。

「今いる所には2,000人くらいいて、ベトナム人もいます。こんな人数なので、みな肩を寄せ合って横になっています」とGiapは言う。住まいの近くにあった熊本城も、地震で深刻な被害を受けた。Giapは崩れた石垣の写真を撮影した。

レストランでアルバイトをしながら専門学校でITを学び、この街に住みもう2年になるが、こんなに強い地震は初めてと言う。

彼が住んでいる地域は停電していないが、断水しており、配られる、または購入する水も、飲む分しかない。「とても信じられません。この3日お風 呂に入っていません。昨日なんて雨水を使ってご飯を炊いたほどです」とGiapは言う。常に備え、水と少しの食料を備蓄しておくことが大切だと、そんな経 験を得た。

「こっちは普段はとても便利で、何か食べたければお弁当屋さんもコンビニもスーパーもあって、お惣菜やお弁当を購入できます。でも地震のあとは 全て品切れで、スーパーもお店も閉店しているか、開いていてもインスタントラーメンとかパンとかおにぎりとか、そんなものを少ししか買えません」と Linhは言う。

Giapの友人は、飛行機で東京に恋人に会いに行く予定だったが、空港が閉鎖され行けなくなった。新幹線も止まった。昨日米軍が、被災地での救援活動に加わった。

LinhとGiapのほかに、熊本県にはおよそ1,600人のベトナム人が住んでいる。

「普段の留学生の生活は、朝学校に行き、夕方や夜はアルバイト。今は学校にもアルバイトにも行けなくなりました。あったとしても、みんな行かないでしょうね」とLinhは言う。

Linhの学校もGiapの学校も休校になっている。取材のあいだにも2人は、また余震だと言う。「どうなるかまだ分からない」2人は現在の状況をこう語った。

==HOTNAM News==

◆ 解説 ◆

2015年5月度の時点での、日本への留学生の総数は152,062人だという記事が新聞
に載っていました。昨年よりも、12,877人アップだそうです。留学生の多い順から、1位:中国74,921人。2位:ベトナム20,131人。3位:韓国13,397人。4位:ネパール8,691人。5位:台湾5,610人・・・となっていて、アジアからの留学生が全体の91.4%を占めているといいます。

熊本県にも多くの実習生や留学生たちが暮らしています。直接私が知る生徒たちもいるだけに、今回の大地震は熊本県人にも、外国からの実習生や留学生たちにも深い傷痕をこころに残しただろうと思います。しかし、それでも、あの大地震が起きた後でも、Y校長先生が言われた「ベトナムに早く帰りたい!」と言う生徒は一人もいなかったという話を聞いて、その強い決意に深い感動を覚えました。

私は今回の大地震の後、こころを落ち着かせるためにいろいろな記事や本を読んでいて、ある人が書かれた本の中の一節に激しくこころを揺さぶられました。その人は今からちょうど20年前に亡くなられた「司馬遼太郎さん」、その人です。

<二十一世紀に生きる君たちへ>

むかしも今も、また未来においても変わらないことがある。そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動植物、さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ生きているということである。

自然こそ普遍の価値なのである。なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることが出来ないし、水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。

さて、自然という「不変のもの」を基準に置いて、人間のことを考えてみたい。人間は――くり返すようだが――自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた

その態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。――人間こそいちばんえらい存在だ。――という思いあがった考えが頭をもたげた。二十世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。

同時に、人間は決しておろかではない。思い上がるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。つまり、私ども人間とは自然の一部に過ぎない、というすなおな考えである。・・・

「人間は自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている。」と中世の人々は、ヨーロッパにおいても、そのようにへりくだって考えていた。この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、右に述べたように、近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取り戻しつつあるように思われる。

この自然へのすなおな態度こそ、二十一世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。そういうすなおさを君たちが持ち、その気分を広めてほしいのである。

そうなれば、二十一世紀の人間は、よりいっそう自然を尊敬することになるだろう。そして、自然の一部である人間どうしについても、前世紀にもまして尊敬し合うようになるのにちがいない。そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。・・・

自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようには作られていない。このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。助け合うという気持ちや行動のもとは、いたわりという感情である。他人の痛みを感じることと言っていい。やさしさと言いかえてもいい。

司馬さんはこの同じ文章の中で、「ただ寂しく思うことがある、私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。私の人生はすでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。」とも書かれています。

まさしく、その言葉通り、司馬さんは二十一世紀を迎える前に亡くなられました。しかし、上記の言葉は「大地震」について述べられたものではないのでしょうが、その文章の一行一行に深い洞察を感じます。

大自然は春夏秋冬の恵みも与えてくれますが、地震や台風の大災害ももたらします。日本列島に住む日本人は、その「恵み」「災い」をもたらす大自然とこれからも向き合って生きてゆかねばならないということでしょう。



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