アオザイ通信
【2015年10月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<Michiko先生を偲ぶ会>

サイゴン市内にある人文社会科学大学」の構内で、そこに集う大学生たちに個別に日本語を教えておられたMichiko先生が亡くなられて、早や二年になりました。9月30日がその命日です。

Michiko先生の命日が近づいてくると、昨年も今年も、私は自分が教えているクラスに入った時、Michiko先生についてその人となりを紹介し、「実はその方は、サイゴンで交通事故に遭われて亡くなられました・・・」と静かに話してあげます。

その後で、以前Michiko先生についてベトナムの新聞に掲載されたベトナム語の記事をクラスの中の一人に読んでもらいます。Michiko先生について書かれたその記事は、2007年10月にベトナムの新聞に載りました。それを私が日本語に訳したことがありました。

そして、Michiko先生が亡くなられた後、「サイゴン日本語クラブ」というWeb-Siteの責任者・Thanh(タン)さんから「ずいぶん昔の記事ですから、日本人もベトナム人もそのMichiko先生の記事を読んだ人が今は少ないと思うので、原文と日本語訳を送ってくださいますか」と請われましたので、その新聞記事と日本語訳を寄稿しました。それで、そこを開けば今も日本語とベトナム語の両方で読むことが出来ます。以下がそのアドレスです。
http://www.saigonjsg.com/miyamoto-michiko

私は生徒がベトナム語で書かれたその記事を読んでくれている時、じっと目を閉じています。生徒たちがシーンとして聞いている様子が伺えます。誰一人として、お喋りをしている生徒はいません。そして、生徒がベトナム語で書かれた、A4にして約2ページ半に及ぶMichiko先生の記事を読み終えた時、静かに目を開けます。

記事を読んでくれた生徒に向かい、「ありがとう!」とお礼を言い、クラス全体に向かって「しかし、今このMichiko先生はこの世におられないのです・・」と話してあげます。クラスの中の隅のほうで、下を向いて肩を震わせている生徒たちがいます。涙を拭っている子もいます。

私も涙を抑えきれなくなりそうになり、ふっとガラス窓のほうに近寄り、青空を見上げます。青い空にMichiko先生の顔が浮かんできます。昨年もそうでしたが、今年もやはり同じような姿を生徒たちに見せてしまいました。

ちなみに、私がベトナムの生徒たちの前で紹介するのは、日本人ではMichiko先生お一人。ベトナム人ではPhan Boi Chau(ファン ボイ チャウ)Bao(バオ)くんの二人です。生徒たちに話すのは、Michiko先生の場合はその命日が近づいてきた時と、授業中に突如ふっと思い浮かんだ時。

Phan Boi ChauとBaoくんについては、新しいクラスがスタートした時の初めの頃に、必ず紹介してあげます。日本に行く彼らの先達や先輩にこういう人たちがいたのだということを知ってもらいたいためにです。

Phan Boi Chauは今から約百年前に、フランスからベトナムの独立を成し遂げるために、<反仏独立運動>に参加して、ベトナムの留学生たちを日本に留学させる『東遊 (ドンズー) 運動』を興した人物です。そのために、Phan Boi Chau自ら日本に留学しました。

2013年9月末に、「日越国交樹立40周年記念番組〜愛しき百年の友へ〜」と題して、ベトナム人Phan Boi Chauと、日本人医師・浅羽佐喜太郎の交友を描いた番組が日本とベトナムの双方で放映されたことから、この二人の存在がベトナムでも日本でもあらためて広く知られるようになりました。

Baoくんは今年31歳の青年です。彼は2006年に実習生として日本に行き、2009年にベトナムに帰国しました。そして、その日本にいた一年半目に、「日本語能力試験二級」に合格し、二年半目に「日本語能力試験一級」に合格しました。

「日本に行った実習生が日本語能力試験一級に合格した!」

という例を聞いたことがなかった私は、彼に「一体、どういう勉強をしたのですか」と聞いたことがありました。彼が答えた内容は驚くべきものでした。

「毎朝5時に起きて、8時まで3時間勉強しました。そして、9時から6時まで工場で働いて、それが終わるとすぐに寮へ帰りました。そして、夜7時から11時までまた勉強しました。それから、12時に寝ました」

実に一日7時間も日本語を勉強していたというのです。それを3年間も続けながら・・・。Baoくんの答えを聞いた時、(そこまで頑張っていたベトナム人の若者がいた!)という事実に深く感動し、涙が出る思いでした。

彼ら二人のベトナム人を生徒たちに紹介するのは、こういう先達、先輩の存在が彼らの記憶の中に残り、彼ら実習生たちが日本にいる時に、「Phan Boi Chauが恩人・浅羽佐喜太郎のために建てた石碑を見に行こう!」と思い立って<静岡県袋井市>を訪ねたり、「Baoくんのように毎年日本語能力試験に挑戦して、二級や一級に合格しよう!」と、日本語の勉強にも勤しんでくれたらと思うからです。

事実、静岡県にいる私の教え子にも、<Phan Boi Chauが建てた石碑>を見に行った者がいます。彼が「静岡県にある<Phan Boi Chauが建てた石碑>を見に行きました」というメールを私まで送ってくれた時には、深く感動しました。

そして今年、10月3日の土曜日に有志の方々が集まり、<Michiko先生を偲ぶ会>を行うことになりました。平日は集まりにくいので、土曜日にしました。<偲ぶ会>の場所は、昨年と同じく「SUSHI KO」でした。今年は、全員で六人の人たちが集まりました。日本人が四人、ベトナム人が二人参加しました。全員が直接・間接的にMichiko先生を知っている人たちです。

日本人の参加者は、今もMichiko先生の知人に日本語を教えておられるMZさん。サイゴンでケーキ屋さんを営まれているYAさん。Hong Bang(ホン バン)大学で日本語を指導しておられるTRさん。そして、私の四人です。全員が昨年も行った<Michiko先生を偲ぶ会>に参加しています。

実は、Michiko先生が亡くなられた当日、その夜の十時半過ぎにMichiko先生の訃報を私に知らせてくれたのがMZさんとYAさんでした。私はその二ヶ月前にMichiko先生にお会いしたばかりだったので、どうにも信じられない思いでした。しかし、そのお二人から続けてMichiko先生の訃報」の連絡を受けて、私もMichiko先生逝去」の悲しい事実を、その日の夜に重く受け止めざるを得ませんでした。涙を抑えることが出来ませんでした。

MZさんからは、ベトナムでMichiko先生が亡くなられた後に、日本の「北日本新聞」に掲載されたMichiko先生の新聞記事を頂きました。その記事には「日越つないだ懸け橋」というタイトルで、Michiko先生の写真と記事が一面に載り、Michiko先生がアオザイを着て真ん中に立っておられる写真とともに、次のように書かれています。

「日本を離れ、ベトナムで10年以上にわたって若者たちに日本語を教えていた女性がいた。南部ホーチミン市で9月、交通事故で亡くなった富山県出身の宮本美智子さん=当時(60.)。一人で海を渡り、不自由な体に負けず、両国をつなぐ懸け橋となっていた。突然の別れを惜しみ、現地では教え子や在ホーチミン日本国総領事も参列し、葬儀が営まれた。遺品は今後、図書館に展示されるという。宮本さんの足跡は小さくとも、確かに現地に残される。」

 =2013年11月4日付け 北日本新聞=

そして、この日は二人のベトナム人の青年も参加してくれました。男性のDさんと女性のHさん。二人とも、毎週の日曜日に「青年文化会館」で行われている<日本語会話クラブ>のメンバーたちです。二人はMichiko先生に直接会ったことはないと言っていましたが、友人やいろんな情報からMichiko先生の存在と、その逝去のことを知っていました。

「サイゴン日本語クラブ」の編集責任者・Thanh(タン)さんは昨年参加しました。しかし、今年はちょうど日本行きの出張と重なり、どうしても参加出来ないことを事前に伝えてくれていました。彼は旅行会社に勤めているので、土日が特に忙しい様子でした。

昨年彼が参加した時に、私に手渡してくれた一枚の紙を今も私は大事に持っています。そこには、彼の手書きの字で次のような漢詩がしたためられていました。ベトナム人の若者にして、これだけの漢詩が書けるというのはすごいことで、彼は中国語も勉強してきたのだろうか・・・とその時想像しました。

<在 如 敬>

日本国出身重義
宮本美智子先生
越南国開道重情
道義之心    

宮本美智子先生
両国之情    

これら六人の有志の人たちが夕方「SUSHI KO」に集まりました。そこに私は一冊のファイルを持参しました。ファイルの最初のページ部分には、Michiko先生の写真を入れています。その次のページから、Michiko先生が亡くなられた後に、ベトナム語や日本語でインターネット上にいろんな人たちが書いてくれていた記事内容を、私が目にした限り全て印刷して、それらをその一冊のファイルに収めていました。

それらを皆さんたちに読んでもらえれば、「Michiko先生を偲ぶ会」に参加した人たちに、Michiko先生の人柄や亡くなられるまでの活動内容をより深く理解して頂けるだろうと思ったからです。ベトナム語で書かれた記事も結構ありますので、二人のベトナム人の参加者にもより良く分かったようで、二人とも熱心に読んでいました。

この場に参加していた方々で、一番身近にMichiko先生と付き合っておられたのは何と言ってもMZさんです。彼は「人文社会科学大学」でMichiko先生が大学生たちに日本語を教えている時の姿を直接見ていました。

私が何回か直接Michiko先生にお会いした時には、いつもニコニコしておられたので(生徒たちにもそうだったのだろうなぁ〜)と想像していたのですが、実際には生徒たちには大変厳しかったそうです。Michiko先生が亡き今、その「厳しさ」もまた、「優しさ」と背中合わせだったMichiko先生のお人柄でもあり、魅力だったことでしょう。直接Michiko先生から指導を受けていた生徒たちは、Michiko先生の生前の時の姿を思い出し、深い悲しみを覚えていたことだろう・・・と想像します。

実は私自身もMichiko先生のことを思い出した時、個人的に深い感慨にとらわれた出来事がありました。それはMichiko先生が亡くなられてちょうど一年目を迎えた頃のことでした。

朝早く娘を学校に送るために、バイクの後ろに娘を乗せて学校に向かいました。いつも通る道を、いつもと同じゆっくりしたスピードでバイクを走らせていました。ただ違っていたのは、もうすぐMichiko先生の命日が来る日のことを思い出し、生前のMichiko先生のことをいろいろ考えながらバイクで走っていたことでした。気持ちがその方にずーっと向いていて、周りの情景が一時的にぼやけてきました。

そして、広い交差点に入った時に、赤信号に変わったのに全然気づきませんでした。娘もこの時には、バイクの後ろでうつらうつらして眠っていたらしく、「赤信号だよ!」と私に注意することもありませんでした。後で振り返れば、私以外のバイクは後ろで停止していたような記憶があります。

私は赤信号のまま、交差点に入ってしまったのでした。右側から進行して来るバイクが多いなぁーという感じがしましたが、私を避けて通り過ぎました。その時もずっと私はMichiko先生のことを考え続けていて、まだぼんやりとしていたようです。

そして、左側から何やら大きい物体が走って来たのが分かりました。そして、その大きな物体は私のバイクの横にぶつかる寸前で急ブレーキを掛けて、大きな音を立てて停まりました。それは多くの乗客を乗せた市内バスでした。しかし、私にぶつかることはありませんでした。私は娘を後ろに乗せたまま、そのまま交差点をバイクで抜けて行きました。2・3分ほど経った後、ようやく我に返りゾッとしました。

あの時バスが急ブレーキを掛けて停まってくれたからいいようなものの、もし停まってくれなかったら・・・と思うと背筋が寒くなってきました。たまたま運が良かったと言うしかないのですが、後でしみじみとして思ったのは、

(あれはMichiko先生のご加護だったのではないのか・・・)

という思いです。今振り返っても、私と娘が乗っていたバイクにバスが衝突しても不思議ではない状況でした。しかし、あの時バスはギリギリの所で急ブレーキを掛けて停まってくれました。亡くなられた後も、Michiko先生は天国で私と娘を護って頂いた・・・、今でも私はそう思っています。

皆さんがそれぞれMichiko先生の思い出や、気持ちを語り合いながら、この日の<Michiko先生を偲ぶ会>は夜の十時近くまで続きました。来年も再来年も、そしてこれからもずっと、有志の方々に集まって頂き、<Michiko先生を偲ぶ会>を続けていくつもりです。

※春さんは1997年春よりホーチミンに駐在しています。今ではすっかり現地の人となって、見分けもつかなくなっています。春さんに質問や相談があればメールをお送りください。




「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 石川文洋さん<ホーチミン市友好交流賞>受賞:ベトナム戦争の写真評価 ■

戦争中の南ベトナムで4年間戦況を取材し、爆撃に遭う北ベトナムも記録した報道写真家の石川文洋さん(77)=諏訪市尾玉町=は、ベトナムホーチミン市か ら同市紋章「ホーチミン市友好交流賞」を受けた。同国最大の博物館「戦争証跡博物館」にベトナム戦争の写真を寄贈したことや日本での「戦争と平和 ベトナム35年」の写真展開催などが、「日本と同市との友好に大きな功績をもたらした」として贈られた。

石川さんは那覇市生まれ。1964年から南ベトナム政府軍や米軍の主要戦闘部隊に同行し、寸前の所で命拾いをするなど命懸けの取材を重ねた。戦場の真っただ中で黙々と作業する現地農民、恐怖 におののく子どもやお年寄りなど、戦争に押しつぶされる被災者の姿も追った。戦争終結後も、戦争中に米軍が散布した枯葉剤の後遺症被害をテーマに取材を続け、撮影したコマ数は数十万枚に及ぶ。

戦時下の南ベトナム、北ベトナム両方を記録した人は世界で石川さん一人といわれ、写真は戦争、戦争後の実相を伝える貴重な記録として国内外で発表。このうちベトナムへは250点を寄贈、戦争証跡博物館で1998年から常設している。昨年は劣化が激しい150点をこれまでの2倍の大全紙判で贈った。

同博物館は1日2000〜4000人が世界各地から来館。戦争を知らない世代が増える中、石川作品が目当ての来館者も多いという。同館の一角には取材中に命を落とした沢田教一、一ノ瀬泰造らの写真も展示している。

市紋章は表彰状と受賞メダルで、9月中旬、石川さんが同館を訪れた際に贈られた。「写真が評価されたことを素直にうれしく思う」と喜び、「当時は、第三者として5台のカメラを下げて夢中で撮影した。将来写真がベトナムで展示されることは全く予想していなかった」と振り返り「幸いにも自分は今生きているが、 亡くなった日本人ジャーナリスト14人も含めての受賞と思っている」と話した。

◇◇長野日報◇◇

◆ 解説 

9月中旬にベトナムを訪問された石川文洋さんに、「戦争証跡博物館」で再会することが出来ました。今年の4月末にサイゴンを訪問された時に、「石川文洋さんを囲むトーク・ショー」を行いましたが、その時に私は初めて石川さんにお会いしました。

この日に石川さんが「戦争証跡博物館」を訪問されることは、その少し前からサイゴンに滞在していたフォト・ジャーナリストの村山さんから事前に聞いていましたので、石川さんがそこを訪問される時間に合わせて、我々もそこを訪れることにしました。今回の石川さんのベトナム訪問は「石川文洋を旅する」というツアーで来られていました。

村山さんと私が館内でしばし待っていますと、「戦争証跡博物館」に石川さんと同じように、ご自身の写真が展示されている「西村洋一」さんがそこに見えられました。西村さんの写真は今博物館内に十枚展示されています。二年前に私は西村さんにお会いしたことがあります。そして、この時はSaint Vinh Son小学校の運営責任者のFさんも一緒に来られました。西村さんとFさんは親しい友人なのでした。

しばらくすると、石川さんが大勢の日本人の方々と一緒に館内に入って来られました。石川さんが引率者兼解説者のような立場でしたから、大変お忙しい様子でした。しばらくは、石川さんのお話が終わるまで声をかけるのは控えていました。

そして、一段落した頃に石川さんに近づき、「4月の石川さんのトーク・ショーの時には大変お世話になりました。みなさん大変喜んでおられました」と挨拶をしました。石川さんも私を覚えておられました。石川さんはニコニコした表情で「いえ、いえ」と答えられました。そして、その場にみなさんが集まり、石川さんを囲んで記念撮影をしました。

村山さんと私は石川さんに挨拶をした後、(石川さんもお忙しいだろうなぁ〜)と考えて、その段階で辞するつもりでしたが、館内の係員の女性や、「戦争証跡博物館」の館長のVan(バン)さんが、我々のほうを手招きして「今から石川さんに対してホーチミン市から感謝の気持ちを込めて表彰式がありますので、皆さんたちも是非参加して下さい」という誘いがありました。

石川さんに「我々が一緒に参加してもいいのですか」と尋ねますと「いいですよ。どうぞ、どうぞ」と答えられましたので、喜んで参加させて頂きました。エレベーターで二階に上がり、その表彰式の部屋に入りました。さほど広い部屋でもないので、満席の状態でした。この部屋には、ベトナムの新聞社やテレビ局の取材班も来ていました。

幸いにも私は一番前から二列目の、石川さんの背中が目の前に見える席に座ることが出来ました。Vanさんも石川さんのすぐ隣に座っていました。しかし、ずいぶんと日本人の参加者が多かったですね。式典の中で説明がありましたが、今回の「石川文洋を旅する」には、沖縄県から20名、福島県から10名、東京近郊から10名で、合計40名近くの参加者がいたそうです。石川さんもお忙しいはずです。

Vanさんから石川さんの経歴とその活動内容が紹介されて、表彰状や楯や記念品が石川さんに贈られました。新聞社のカメラマンや、テレビ局の撮影班がバチバチ写真を撮り、撮影していました。私も写真を撮りました。後日談になりますが、実はこの時にテレビ局が撮影していたのが、日本でも放映されたそうです。

先日、10月初め頃に、日本にいる私の教え子から「日本のテレビで、石川さんと一緒にいた場面の番組を観ましたよ」という連絡をもらいました。その中に、私が石川さんと映っていたこの日の場面が放映されたそうです。しかし、残念ながらベトナムにいる私はそれを観ることは出来ませんでした。

そして、Vanさんの挨拶が終わった後、それに対して石川さんがお礼の言葉を述べられました。この「長野日報」に掲載された言葉がその内容です。石川さんが日本語で話された内容を、通訳の人がその場でベトナム語に訳しました。その式典は約30分で終わりました。

部屋を出た一行は石川さんと一緒に、多くの写真が掲示してある部屋に入ってゆかれました。写真の説明などでお忙しそうにしておられる石川さんに同行させて頂くのもご迷惑だろうと思い、私と村山さんは少し石川さんの時間が空いた時にお別れの挨拶をして、そこを離れました。

石川さんにお別れの挨拶をした時に、「次にベトナムに来られるのは、来年でしょうか」と私が聞きますと「いえ、また11月に来る予定ですよ」と話されました。その時には石川さんの親友のYさんはまだサイゴンにおられますので、石川さんのご都合が許せば、また是非お会いしたいものだと希望しています。

 



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