アオザイ通信
【2015年3月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<研修生たちの第五回『日本語スピーチ・コンテスト』>

今年もまた研修生たちの『日本語スピーチ・コンテスト』が、私が今教えている学校の中で実施されました。今年は2月28日(土)に行われました。今回で五回目になります。

5年前から実施して来たこの『日本語スピーチ・コンテスト』は、今や学校の恒例の行事になりました。当日はスピーチだけではなく、生徒たちや先生による歌や踊りなどのアトラクションもあります。普段は学校内で制服を着ている女子の生徒たちも、この時はキレイなアオザイに身を包んで登場します。

また、スピーチ・コンテストの優勝者には学校から賞金もプレゼントしています。毎日朝から夕方まで日本語を勉強しているベトナム人の生徒たちにとっては、各クラスから発表者が選ばれて日本語で発表しますので、クラス対抗戦のような雰囲気になり、大いに盛り上ります。

今年は、十クラスほどある中から候補者を一人ずつ選び出して、最終的には7人が発表者として残りました。その7人に対して、昨年の12月頃から事前にスピーチ用の原稿を日本語で作成してもらいました。

発表者たちの日本語学習歴は長い生徒で二年、短い生徒では半年ぐらいです。それぞれが自分で考えた文章を日本語で作成しました。原則として、そのクラスの担任のベトナム人の先生が最初に原稿に目を通して、日本語としてオカシイ部分をチェックします。

最初から日本人の先生が手直しをしてしますと、大幅に加筆・訂正してしまうことがあり、初めに書いた本人の原稿の内容から大きく変容してしまうからです。それでも、やはり生徒たちは日本人の先生たちにも一応原稿を見てもらいたいからでしょうか、「これでいいですか。」と聞いてきます。

そういう時、私は「てにをは」のオカシイ部分だけは手直しして、発表時の話し方や態度、演技などについてアドバイスしました。実際に先生たちが各自のスピーチの採点をする時にも、その項目が採点基準の一つになっています。

スピーチの時は、原稿も何も見ないで発表します。ですから、原稿の内容を全部覚えていないといけません。発表する予定の生徒が原稿を書き終えてからこの日が来るまで、授業の終了後に何人かの生徒が教室の片隅で一人ブツブツと口に出して練習していました。当日発表する予定の生徒たちでした。それを見た時、思わず胸の中で(ガンバレヨ!)と応援しました。

そして、第五回『日本語スピーチ・コンテスト』は当日の午後一時半からスタート。昨年は大会議室に先生も生徒も入り、クーラーや扇風機が回る中で行いました。しかし、今年はちょうどこの日に日本の大学からの来客があって大会議室が使えず、屋外で行いましたが、暑いこと、暑いこと。強烈な直射日光が照り付けてきます。

最初に生徒の歌の披露。それが終ると、アオザイを着た生徒たちによるベトナムの歌「故郷(Que Huong)」の合唱。この歌は昨年も歌いました。この曲は実に詩情溢れる、いい歌です。生徒たちはベトナムの菅笠であるノンラーを手に持ち、優美な踊りを披露してくれました。毎年見ますが、アオザイを着た女性たちが踊る姿は、実に美しい光景です。

それが終わり、いよいよ日本語のスピーチの始まりです。今回発表した7人のテーマは以下のようなものです。

  1. 友情  [Thao(タオ)さん・女性]
  2. 時間の使い方  [Trang(チャーン)さん・女性]
  3. 偉い女の人  [Dien(ディエン)くん・男性]
  4. 現在の若者のライフ・スタイル  [Thao(タオ)さん・女性]
  5. お母さんへの手紙  [Khoa(コア)くん・男性]
  6. 夢が叶います  [Tam(タム)くん・男性]
  7. 二十歳  [Ngat(ガット)さん・女性]

審査員の先生たちが評価する基準は、例年同じく『1、発表内容。2、発音・文法の正確さ。3、発表の仕方(表情や演技力)。4、質問への答え』の四点です。一つが5点、合計20点満点で評価します。今年は6人の日本人の先生たちだけで審査しました。

私達審査するほうの側は例年のことであり慣れています。しかし、彼ら発表者たちは全員がこの『スピーチ・コンテスト』に参加するのは初めてであり、彼らの表情からは緊張している感じが漂っています。

最初に登場したThaoさん【友情】について話してくれました。トップ・バッターで登場しただけに、少し緊張していたせいか、5・6秒ほど、話すべき言葉を忘れてしまったようでした。それに対して、聞いている観客の生徒たちが【頑張れ!】という思いやりをこめて、パチパチと拍手をします。(いい光景だな〜)と思いました。

一人・一人の発表を聞きながら、日本人の先生たちは発表者への質問も考えておかないといけません。私は3番目に発表する予定の、Dienくんの「偉い女の人」の原稿に目を通しました。一読して、大変感動しました。自分の母について、子どもの目から見て愛情溢れる気持ちが漂っています。大変素晴らしい内容なので、一部を抜粋してご紹介します。

「子どもの時、父は遠い所へ働きに行きましたから、母と一緒に住んでいた時間がたくさんありました。母は父より少し背が低いです。髪の毛が黒くて長いです。年をとっても顔がまだ若いです。母は毎朝早く起きて、私の兄弟が起きてからすぐご飯が食べられて学校に行けるように、朝ご飯を作っておきます。

それから私を学校へ連れて行って、市場へ買い物に行って、家に帰ります。母は料理が上手ですから、毎日他の料理も作ります。・・・・

母は美味しい料理が作れるように、必ず手を洗ったり、いい材料を選んだりしなければならないと言っていました。母の料理で私はカレーが一番好きです。だから私の勉強の成績が良い時には、一週間に一回ぐらいカレーを作ってもらいます。

母は毎日家の仕事を全部一人でしなければならないから、毎日忙しくて大変です。私は授業が終わった後で、母の仕事を手伝いたいです。でも母は私に一生懸命勉強して欲しいと言っていました。母はいつも、私の勉強が上手になるのが一番うれしいことだと言っています。だから母が心配しないように、毎日いつも一生懸命勉強するようにしています。・・・」

Dienくんが話している時の態度や話し方も大変落ち着いていました。途中で内容を忘れたり、話に詰まることもなく、最後まで立派に話を終えました。彼の話が終った後、私から質問しました。

私:「今年のテトは田舎に帰ってお母さんに会いましたか。久しぶりに会ったお母さんは何と言っていましたか。」

Dienくん:「はい、久しぶりに母に会えて、母も大変喜んでくれました。勉強のほうはしっかり頑張っているかと話しました。
       頑張っているから心配しないでと、私は母に言いました。」

私:「日本に行って三年間働いてベトナムに帰った後、両親にどんなことをしてあげたいですか。」

Dienくん:「私たち兄弟が小さい時から、父と母が苦労している姿を知っていますので、日本で三年間しっかり頑張って、
       両親を楽にしてあげたいです。両親のために新しい家を建ててあげたいと思っています」

彼が話してくれたことは、日本に行く前に実習生たちに質問した時に、みんなが同じような内容で答えますので、特に意外な答えではありません。しかし、彼が「偉い女の人」というテーマで書いていたお母さんへの強い愛情が溢れる文章を読んだ後だけに、(Dienくんはおそらくこの時答えたことを実現させるだろうな〜・・・)と想像しました。

私から見ても、発表時の態度といい、内容といい、日本語の流暢さといい、結構いいレベルに達していましたので、日本人の審査員から見ても高い得点が付けられたのではないかと思いました。この調子で日本でも続けて日本語の勉強を頑張れば、<N2合格>も夢ではないだろうなと思いました。

そして4人目のThaoさんのスピーチが終った後で、一旦休憩が入り、二回目のアトラクシ ョンの披露です。最初に、昨年の11月20日の「ベトナムの先生の日」に歌を披露してくれた、あのHuong先生が歌ってくれました。

実は私は最近知ったのですが、彼女は歌を歌うのが好きなようで、人前でも臆することな く堂々と歌います。彼女が私の生徒だった時には、彼女が歌を歌っていた場面を見たことはありませんでしたから、これは意外でした。

そして次は「ソーラン節」の踊りです。今年この「ソーラン節」をベトナム人の生徒たちに指導したのは、一年前からベトナムに来た日本人の若い先生HM先生です。HM先生は若いだけに、Youtubeなどで観た「ソーラン節」を研究して、約二ヶ月前から生徒たちに指導していました。そして、今年は赤い法被のような衣装もこのベトナムで業者に頼んで特別に用意しました。今年の「ソーラン節」は、それを全員が着て踊りましたので、きまっていました。

それが終わり、次は小柄な体格の生徒が前に出て来ました。空手着のようなものを着て、手にはヌンチャクを持っています。胸の辺りに書いてある文字を見ると、【テッコンドー】という文字がベトナム語の表記で書いてありました。彼が演技してくれたヌンチャクの演武は実に素晴らしいものでした。

動作が実に素早く、キビキビした動きで、前蹴りや横蹴りも足がピンと伸びて、相当長い修練を積んで来たのだろうな〜と想像出来ました。彼がヌンチャクを上に下に、右に左にビュンビュンと振り回している姿を見ていましたら、あのブルース・リーの映画をふと思い出しました。後で聞けば、彼の【テッコンドー】歴は五年で、今黒帯の三段を持っていると言いました。

そしてそれが終わり、審査結果の発表です。審査員特別賞は、Tamくんの「夢が叶います」。 三位は「友情」を発表したThaoさん。準優勝はKhoaくんの「お母さんへの手紙」でした。 そして、最優秀賞に選ばれたのは、何とやはりDienくんの「偉い女の人」でした。私自身も直接彼に質問していただけに、実に嬉しく思いました。彼も勿論大喜びでした。田舎にいるお母さんも、彼が最優秀賞に選ばれたことを知れば、涙を流して喜ばれたことでしょう。

今年の『スピーチ・コンテスト』では7人の生徒たちが自分から名乗りを挙げて参加してくれましたが、日本でも「外国人によるスピーチ・コンテスト」がありますので、日本に行った彼らはそういうイベントに積極的に参加してくれて、日本語の能力にさらに磨きをかけてもらいたいと願っています。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ ノンフィクション作家・阿奈井文彦氏が死去 ■

阿奈井文彦氏(あない・ふみひこ=ノンフィクション作家、本名・穴井典彦=あない・ふみひこ)3月7日、誤えん性肺炎のため死去、76歳。通夜は10日午後5時、静岡県藤枝市志太4の14の3、平安会館ふじえだで。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は弟、穴井信彦氏。

反戦運動団体「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」に参加し、戦時下のベトナム各地をを取材。主な著書に「アホウドリの仕事大全」「ベ平連と脱走米兵」など。

=サンケイ ニュース=

◆ 解説 ◆

3月9日のお昼に、私はベトナムでこの記事を読み、大いに驚きました。信じられない記事でした。そしてすぐに、ベトナム戦争当時にCai Be(カイベー)でバナナを植えていたあのYさんに私の携帯電話から連絡しました。Yさんはこの時ベトナムに戻られたばかりで、サイゴンにおられました。

Yさんは、その時点では阿奈井さんが亡くなられたことはご存知なかったようで、すぐに自分でも調べてそれが事実であると知り、「残念の一言です・・・」とメッセージを折り返し私に送ってこられました。

その後、日本におられる、浅草のお好み焼き屋「染太郎」の総支配人であられたSさんにも連絡されました。Sさん自身も、ベトナムにいるYさんから連絡が来るまではご存知なかったということでした。Sさんも阿奈井さんとはサイゴンで会われていました。

私自身は阿奈井さんと直接の面識はありません。その私が何故「阿奈井さん逝去」の報せを読んで驚いたかといいますと、実はその前日まで阿奈井さん自身が書かれた記事を何回も繰り返し読んでいた矢先だったからです。

その阿奈井さんが書かれた記事とは、何と今から24年ほど前の1991年に、雑誌の『中央公論』12月号に掲載された記事なのです。その『中央公論』を、二月末にサイゴンに戻られたYさん自身が持ち込んで来られました。私はYさんからその雑誌を貸して頂きましたので、それから毎日何回も文章を覚えるくらいまで読んでいました。阿奈井さんが書かれた記事の題名は<ベトナムに帰った「日本兵」>です。

ページ数にしたら22ページぐらいですが、そこにはYさんと阿奈井さんとの出会いが詳しく書かれてありました。さらには、この記事自体には興味深い人物が登場していました。ベトナム戦争当時にYさんと同じようにCai Beのバナナ島でバナナを栽培していた<松嶋春義さん>に関する記事が載っていたのです。

松嶋さんはYさんが経営していた、通称「第二農園」と呼ばれる場所で、Yさんの下で働かれていたのでした。ですから、私自身もYさんから松嶋さんのことは以前から詳しく聞いていました。阿奈井さんは、その松嶋さんに1966年にCai Beで会われていました。

松嶋さんの日本の故郷は、私と同じ熊本県。さらに、その田舎は驚くべきことに、私の田舎の隣町の『玉名郡南関町』の出身なのでした。そのことは数年前から、私もYさんから直接聞いて知ってはいました。

この『中央公論』に載っていた記事は、その松嶋さんが50年ぶりにベトナムから日本に戻り、自分の故郷を訪ねた時のルポルタージュなのでした。松嶋さんが日本に50年ぶりに帰られた時のことは、断片的に新聞記事に載っていたのは読んだことがありました。しかし、それはこの阿奈井さんが書かれた記事と比べれば、その内容の豊富さと詳しさにおいて雲泥の差がありました。

私はYさんが今回ベトナムに持ち込んで頂いたこの『中央公論』の記事によって、松嶋さんが50年ぶりに日本に帰国された時の様子を、実に詳しく知ることが出来ました。阿奈井さんが書かれたその記事の一部を抜き出してみます。記事中の年齢はその当時の年齢です。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

【松嶋さん今夜帰国】元日本兵半世紀ぶり祖国の土

第二次大戦の終結直前にベトナム南部のサイゴン(現ホーチミン市)に進駐し、戦後も農民としてとどまっていた元日本兵、松嶋春義さん(69)=熊本県玉名郡南関町出身=が22日午前11時過ぎ、ほぼ半世紀ぶりの一時帰国のため、ホーチミン市のタンソニヤット空港を出発。同日午後タイのバンコクに到着した。
松嶋さんはバンコク国際空港で「早く田舎に帰って両親の墓参りをし、弟や親類の人たちとゆっくり話しをしたい」と元気そうに語った。
一時帰国は二週間と短い滞在だが、心待ちにしていた里帰りを目前に心を弾ませている。

(熊本日日新聞一九九一年七月二十三日付け、朝刊)

ベトナムから旧日本兵の松嶋春義さんが一時帰国する、という新聞記事を読んだとき、私はぜひ再会したいと思った。
いまから二十五年ほど前になる。一九六六年の暮れに、私はベトナム戦争の取材で南ベトナム(当時)に渡り、メコンデルタの農村で松嶋さんに会っていた。
松嶋さんは一九四二(昭和十七)年に応召、陸軍第三一師団光部隊に所属し、中国へ上陸。ハノイ、サイゴンと敗走し、サイゴンで戦争の終結を迎えた。
その後ベトミン(ベトナム独立同盟)の対仏独立戦争に加わり、四九年にはベトナム人女性レ・チ・リンさんと結婚、そのままベトナムに残った。以来、松嶋さんはベトナム名、レ・ハ・タンを名のっている。

<ベトナムに帰った「日本兵」>より

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

その阿奈井さんをYさんに紹介したのは、あの作家の『開高 健さん』です。開高さんが書かれた「紹介状」を持って、阿奈井さんはサイゴンにいたYさんを訪ねて来られたそうです。その当時の出会いのことを、同じ記事の中で阿奈井さんは次のように書かれています。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「サイゴンの西南約百十キロメートル、ミト市を経由し、カイベという小さな漁港からモーター付きの小舟で一時間ほど河を下ると、松嶋さんの住む島に着いた。
島は通称「バナナ島」と呼ばれ、日本人の経営するバナナ園があった。東京から派遣されたY氏とS氏の二人が、サイゴンに事務所を借りていた。S氏はもっぱらサイゴンに常駐し、Y氏がバナナ島の管理にあたっていた。
元ちゃん、徹ちゃんと互いに呼びあっていたが、二人とも当時は私と同じく、二十代半ばの青年だった。・・・」

<ベトナムに帰った「日本兵」>より

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

実は昨年も、Yさんは東京で阿奈井さんに会われていました。その時に阿奈井さんはずいぶん足が弱っておられたとのことでした。そして、昨年Yさんに会われた時にこう言われたそうです。

「元(げん)ちゃん、もう一度Cai Beに行きたいよ〜・・・」

「元(げん)ちゃん」とはYさんのアダ名です。杖を付いて来られた阿奈井さんを見て、阿奈井さんがそう言われるのを聞いて、Yさんは返す言葉が無かったと話されました。

今年の冬に帰国された時には、Yさんは阿奈井さんにお会い出来なかったそうです。この日、阿奈井さんの訃報のニュースが流れた日の夜に、私はYさんにお会いしました。「こうなると分かっていれば、今年帰国した時に無理してでも会うべきだった・・・」とYさんは悔しがっておられました。

私はYさんから、阿奈井さんが書かれた著作の何冊かを、以前借りて読ませて頂いたことがあります。「ベ平連と脱走米兵」「アホウドリにあいにいった」などです。私は阿奈井さんが書かれたこの二冊の本と、開高さんが生前に雑誌に書かれた「ヴェトナム メコン河に遊ぶ」という記事によって、Yさんが二十代の青春時代を過ごしていたCai Beのバナナ島の様子や、その当時の時代背景も詳しく知ることが出来ました。

さらにそのCai Beには、「報道写真家の石川文洋さん」も訪れています。その石川さんは、今年の4月30日に行われる「ベトナム戦争終結40周年記念行事」にベトナム政府から招待されているとYさんから聞きましたので、4月の末にはサイゴンを訪問されることでしょう。

そして実は、今月の3月14日(土)には松嶋さんと同じく、もう一人の元・残留日本兵でCai Beでバナナを栽培されていた、<古川善治さんの40回目の法要>があります。古川さんは宮城県出身で、1975年のベトナム戦争終結後に日本に帰国しようとしていた矢先に、Cai Beで亡くなられました。その古川さんの法要には、Yさんと私の他、数人の日本人が参加します。全員が土曜日の夜から泊りがけでCai Beに行く予定です。

古川さんが亡くなられたのは、「太陽暦で1975年の3月8日」です。「旧暦では1月26日」になります。ベトナムでの冠婚葬祭はすべて旧暦に基いて行われます。それで、今年の暦で旧暦の1月26日は太陽暦で3月16日(月)になるのですが、Yさんは古川さんの家族にこう言われました。

「法要が平日に行われると、仕事の都合で来たくても来れない人が多いから、みんなが集り易い土曜日にしてくれ。多くの日本人に来てもらったほうが古川さんも喜ぶでしょう。みんなが土曜日に集れば、その日の夜もみんなでゆっくり語り合えるから・・・」

Yさんのアドバイスを受け容れて、今年の古川さんの「40回目の法要」は3月14日の土曜日に行われることになったのでした。それを聞いた私や、「さすらいのイベント屋」のNMさんは、Yさんに「当日は必ず参加します!」と早々と連絡していました。

古川さんが亡くなられたのは、1975年の3月8日。阿奈井さんが亡くなられたのが、それからちょうど40年後の2015年の3月7日。Yさんは(何か因縁めいたものを感じますねぇー・・・)と呟かれていました。

Yさんは東京の部屋に置いてある、自分の蔵書の多くの中から、たまたま阿奈井さんの記事が載っていた1991年の『中央公論』をベトナムに持ち込んで、私に見せてくれました。そして、それを私に貸して頂きました。Yさんは「何でたまたまあの本を選んだのか分からないが、あれは虫の知らせだったのだろうか・・・」と話されました。

私はそれを何回も読んでいて、3月14日の古川さんの法要に参加する日本人たちにもそれを読んでもらいたく、全員ぶんのコピーを終えていました。古川さんの法要に参加する人たちは、古川さんについてはYさんから良く聞いて知っていますが、松嶋さんのことについてはあまり知らない人たちが多いからです。

それで、この阿奈井さんの記事が松嶋さんに書かれたものの中では一番詳しく、分かり易いので、表紙も付けて準備し、Cai Beに行く途中のバスの中で読んでもらおうと考えていました。その矢先の、「阿奈井さん逝去」の報せでした。長い付き合いのあったYさんの悲しみは如何ばかりでしょうか・・・。

泊りがけになる日本人のお客を迎える準備をされるために、我々よりも一日早くCai Beに入られるYさんですが、古川さんの霊前に「阿奈井さん逝去」のことを報告されるでしょう。

Yさんに「元ちゃん、もう一度Cai Beに行きたいよ〜・・・」と話されていたという阿奈井さん。もし霊あらば、今ごろは古川さんとの再会を天国で果たされておられることでしょうか。

(こころから阿奈井さんのご冥福をお祈り致します)



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