アオザイ通信
【2015年1月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<タイへの旅>

2014年12月20日から24日まで、学校の社員旅行でタイ国へ行きました。私に とっては十数年ぶりのタイへの訪問でした。しかし、十数年前にタイを訪れた時には、仕事で行きましたので、観光地を訪問することもないままベトナムに戻りました。それで<観光>としては、今回が初めてのタイ国への訪問になりました。

十数年前にタイを訪問した時の印象として、おぼろげな記憶の中から私には二つの 印象的な思い出があります。一つは、ベトナムと比べて“街中が大変静かであったこと”。これは、昨年訪問したカンボジアでも同じでした。車もバイクもベトナムのようにクラクションをブーブーと鳴らしません。ベトナムのほうが異常なのでしょう。

二つ目は、“タイの人たちの挨拶の仕方”。ホテルやレストランやお店などで、 店員さんが「ありがとう!」の気持ちを表す時に、男性も女性も手を胸の位置で合わせて、頭をゆっくりと下げる仕草です。最初にそれを見た時(何と優美な挨拶の仕方だろうか・・・)と感動しました。

日本人の「お辞儀」も、美しい挨拶のスタイルの一つと言えますが、タイの人たちのあの挨拶には、何とも言えない<優しさ>を感じます。そして今回、この二つとも十数年前にタイを訪れた時と同じままに残っていました。

● サイゴン ⇒ タイ国バンコクへ ●

12月20日の夕方4時に、全員がタンソニャット空港に集合しました。今回は40人近い参加者がいました。その中には、何と7年前に私が日本語を教えた当時の教え子の女性もいました。彼女は学校の事務員さんの妹さんで、今回家族優待サービスで参加していました。本当は私も女房と娘を一緒に連れて行きたかったのですが、残念ながら娘は学校があり、それは今回叶いませんでした。

我々が乗った飛行機の会社名は<Jet Airways>。私は初めてこの航空会社の飛行機に乗りましたが、聞けばこの航空会社はインドの会社ということでした。 事実、この時の機内のスタッフは男女とも全員インド人の顔立ちをしていました。 しかし、座席は前の席との間が狭く、大変窮屈でした。

そして、定刻通りに6時20分にホーチミンを飛び立ちました。事前の連絡では、 「夕食は出ないので、何か食べて来て下さい。」ということになっていましたが、機内で簡単な軽食が出ました。意外と美味しかったです。みんな(一時間半ほどでタイには着くから、食事などは出ないだろうな・・・)と思い込んでいましたので、これは嬉しい誤算でした。バンコクには予定より30分ほど早く、7時半過ぎに国際空港に到着しました。

空港の名前は、<スワンナプーム国際空港>。私はこの空港を見るのは初めてでしたが、その広さと大きさには驚きました。ガイドの話では、空港のターミナルビルはドイツ人の建築家が設計したということでした。2006年にこの空港は完成したそうです。私が初めてタイを訪れた十数年前には、まだ完成していなかったわけです。

昨年のカンボジア旅行に続いて、今回も同行したS先生によりますと、この空港は「成田国際空港の3倍の広さがありますよ。」と話されていました。S先生はタイには数回来ていますので、タイ事情に詳しいのです。そして、このタイ旅行の間は、みんなとの夕食を終えた後さらに、私とS先生は二人だけで街中にビールを飲みに出かけるのが常でした。S先生は今年の一月に66歳になられたばかりです。

今回のタイ訪問時の為替のレートは、<1ドル=32バーツ=21,357ベトナムドン>だとガイドから事前に知らされていました。S先生からは「買い物する時や料理の支払いの時には、表示金額のバーツを3倍した金額が、大体の日本円の目安だと思えばいいですよ。100バーツであれば約300円くらいだと思えばいいです。」とアドバイスを頂きましたが、このアドバイスはタイ訪問中に大変参考になりました。

夜9時頃、バスに乗って空港を出てバンコク市内にあるホテルに向かいます。バスの中には今回ガイド役をしてくれる二人の方がいます。一人は66歳の男性。もう一人は二十数歳くらいの女性です。二人ともベトナム語がペラペラでした。

聞けば、男性のほうは独学で勉強し、若い女性のほうはベトナム中部のNha Trang(ニャー チャーン)にある【水産大学】に三年間留学していたということでした。今回のタイ訪問ではずっとこの二人のガイドさんにお世話になりました。二人とも非常に性格が明るくて、ベトナム人たちからも慕われていました。

ホテルにはちょうど十時に到着。ホテルの名前はPalazzo Hotel。ベトナム人の人たちは部屋にチェックインした後はそのままどこにも出かけないようでしたが、私とS先生はすぐにビールを飲みに外に行くことにしました。さらにこの夜は二人の同僚も加わり、街中の見物も兼ねてぶらぶらと歩いて行きました。

この日のバンコクの夜の気温は全然暑くなく、涼しくて快適でした。さらには、今回の旅の間もずっと雨は降りませんでしたので、サイゴンと同じように<乾季>に入っていたのでしょう。ガイドさんに聞きましたら、タイは「10月から2月までが乾季」という話でした。ベトナムの南部は「11月から4月までが乾季」ですから、少しだけずれるぐらいです。

夜の10時過ぎに4人でホテルを出て、サイゴンのような路上の屋台風の居酒屋が無いか探しに行きました。そして、歩くこと15分。路上にはサイゴンと同じように、お土産物屋さんはたくさんありますが、なかなか路上の屋台の店がありません。

私たちが通りを歩いていると、日本人らしいグループの人たちがいましたので、初対面ながら「この近くにビールが飲めるような屋台はありませんか。」と聞きました。やはり、日本人の方でした。その中の一人の方が「あちらの方に歩いて行けば、5・6分のところに屋台がありますよ。」と指差して教えて頂きましたので、そちらのほうに歩いて行きました。

道路には多くの土産物屋さんや果物屋さんが営業していましたが、しばらく歩いて行くと果たして居酒屋らしき屋台風の店がありました。そこは路上にテーブルを置けるようなスペースは無く、店の中で食事が出来るようになっていました。エビやカニや貝などが、店の前にいろいろ並べてありましたので、迷わず「ここにしましょう!」と言って入りました。

席に着いてすぐにビールを注文します。Heineken TigerビールやタイのSINGHA(シンハー)ビールLEO(リオ)がありました。まずそれぞれを一本ずつ頼んで、全員で飲み比べてみました。全員が一致して、「やはり、SINGHAビールが美味いです!」と、SINGHAビールに軍配を上げました。一口飲んだ時に、大変コクがあったからですが、タイに滞在中ずっと私達は迷わずにこのビールを頼みました。

タイに着いて初めて入ったその店は、クーラーも効いていて涼しく、遅い時間ながら落ち着いて飲めました。この日私はS先生がベトナムに来る以前の履歴を、直接S先生の口からいろいろ聞くことが出来ました。ふだん事務所の中では、そういうプライベートなことを話す雰囲気も、時間もありませんので、得がたいタイ訪問の初日でした。

S先生は今まで数回訪れたタイ国の印象を「タイ国はベトナムの20年先を進んでいる国ですね。」とさらりと話されました。確かにタイのインフラ面での充実は、今のベトナムとは比べ物になりません。しかし、タイはタイ、ベトナムはベトナムで、それぞれが独自の道を歩いてゆくことだろうと思います。
サイゴンにも、今ようやく地下鉄工事が始まりましたので、徐々にインフラも整ってゆくことでしょう。

● バンコク市内の宮殿とお寺を観光 ●

朝食はホテル内のビュッフェで済ませて、8時にホテルを出て市内観光に向かいました。この日は一日中ずっとバンコク市内にある宮殿や寺院を回りました。バスの中で昨日の男性のガイド(名前はLy[リー]さん)が面白いことを話してくれました。

現国王はラーマ9世です。ラーマ9世は自分で牧場を持ち、多数の乳牛を飼育しているというのですが、小学校にもその牛乳を支給しています。「小学校の先生は生徒が熱心に勉強しなくても叱らないが、生徒が国王から頂いた牛乳を飲まないと叱る。」と彼は言うのです。

朝8時40分に最初の観光地に到着。名前はVimanmek Mansion Palace(ウィマン メーク宮殿)ラーマ5世(1853〜1910)時代の木造の建築物で、全てがチーク材を使用し、三階建ての建物ながら釘を一切使用していないと、事前にLyさんが話してくれました。1901年に完成したといいますから、100年以上は経過しているわけです。

しかし、ここを訪問した時には様々な厳しい決まりがありました。王宮内の入場ゲートに入った場所からは、「半ズボンは禁止」「穴が空いたGパンは禁止」「露出の多い服装は禁止」「携帯電話も持ち込み禁止」「カメラも持ち込み禁止」などなどでした。タイ国の王宮を見学するのだから、見物客にもそれなりの礼儀と身だしなみを求めているような感じです。

それで、半ズボンや穴あきGパンを穿いて来た人たちには、下半身を覆うような広いスカーフのようなものを有料で配っていました。男性も女性もそれを腰から下に撒きつけて王宮内を見学することになりました。

面白かったのは、王宮のゲートを入る前のところに注意書きの立て看板があったのですが、その表記が英語と中国語の二種類だったことです。「タバコを吸うな」「タンを吐くな」・・・「違反したら罰金2,000バーツ(約六千円)」とそこには書いてありました。日本語や韓国語はありませんでした。事実、この日は中国人の観光客が多く来ていました。噂では聞く「今世界各地での中国人の観光客の多さ」を直に見たのはこの日が初めてでした。

それで、結局はカメラや携帯電話などは全てロッカーに預け入れるか、ロッカーが満杯の時にはテーブルの上に全員がそれを出して、ガイドさんに見張ってもらって王宮内を見学することになりました。その間ガイドさんはトイレにも立てないでしょう。毎日ものスゴイ数の観光客が来るはずでしょうから、その煩雑さは想像するに余りあります。

王宮内には多くの部屋があり。そこには様々な珍しいもの、高価なものが展示・陳列されていました。玉虫の羽を集めて作成した調度品。象牙を集めた部屋。水牛の角が飾ってある部屋。ワニの頭の部分だけを台の上に置いてある部屋。象の足の部分だけが置いてある部屋。

さらには、世界各国からの贈り物が並べられてあり、その中には日本の天皇陛下からタイ国王に贈られた物もありました。金銀で出来た装飾品やダイヤやヒスイやエメラルドなどで出来た飾り物もありました。眩いばかりの財宝の数々でした。

それらをいろいろ見ているうちに(タイの王室は何と贅沢な生活をしていたのだろうか。また惜しげもなく、こういうのを外部の人たちによくぞ見せるものだな〜・・・)と率直に思いました。日本の天皇家にも今まで世界各国から様々な貴重な物が贈られていることでしょうが、こういう形で外部に見せることはしていないでしょう。

そこを出た後に、また歩いてすぐの所にあるAnantha Samakhom Place(旧国会議事堂)を見学しましたが、ここでもまた身に付けている携帯電話やカメラは持ち込み禁止でした。これはまた一際大きい建物でした。この建物は1907年にラーマ5世の時に着工されて、8年後のラーマ6世の時代に完成した建物だとガイドさんが話してくれました。

建物と庭園はルネッサンス様式で構成されています。建物の内と外には大理石が使用されていましたが、何とそれはわざわざイタリアから運ばれて来たものだというのです。タイ王室の豪奢知るべしです。タイ国民は王室に対しての尊敬心が篤い国民とは聞いていますが、こういうのをずっと見ていますと、(タイの国民は王室が贅沢するのには寛容なのかな・・・)とも思いました。

この中には、ウィマンメーク宮殿にあった財宝類を凌ぐ規模の大きさと、細かい細工の調度品やヒスイやダイヤが散りばめられた作品が陳列されていました。<侘びさび>の美意識を良しとして来た日本人の感覚からすると、あまりに豪華絢爛すぎて、正直言いましてだんだんと食傷してきました。

この後昼食に行くことになりました。バンコク市内で一番高いビル・Baiyok Skyホテルの76階のビュッフェで食事を摂ることになりました。レストランからの眺めはバンコク市内が一望に出来て、快晴でもあり大変見晴らしがいいものでした。

料理はビュッフェ形式ながら、タイ料理はもちろん西洋料理や日本料理までもありました。スシやサケの刺身や蕎麦まで用意されていました。私は今までビュッフェ形式の食事で美味しいと思ったことは少ないのですが、ここの料理は種類も多く、大変美味しいものでした。

そして、ここにもまた中国人客が大勢来ていました。彼らはエビを蒸した料理などは、手にした大きい皿に山盛りに載せて、自分のテーブルに持ち帰っていました。しかし、結局は自分の胃袋の大きさを超えていたのか、全部は食べずに残していましたね。

S先生がその光景を見て、笑いながら言われました。「かの中国では料理を残すことが美徳なのですからね。」と。中国では出された料理を全部食べてしまうと(まだ食べ足りないのか?)と思われるそうですので、全部を食べずにわざと残すというのです。14億人近くいる中国全土では、壮大な浪費が進行しているのでしょう。

実に愚かな風習というべきですが、その愚かな風習を自国の中だけで終らせずに、海外にまで出かけて行っても、こういうビュッフェ形式の料理においても、そうした風習を変えることなく続けているのですから、今世界中で中国人のマナーが顰蹙を買っているというのも当然と言えます。

そしてやはり、ここにも中国人向けの<注意書き>が掲示してありました。
お湯を注ぐタンクの前にその表示がありましたが、英語も日本語も韓国語もありませんでした。表示は中国語だけでしたので、間違いなく中国人だけに向けた注意書きです。「恕勿外帯」と書いて水筒の絵が描いてありました。違反はまた[罰金]となっていました。

想像するに、タンク内にあるお湯を、自分が持参した水筒に入れてしまう中国人が数多く現われて来たのでしょう。一人・二人のレベルではこういう表示書きまではせずに、口頭で済ませるでしょうから、それでは対応し切れなくなって、こういう掲示物が貼られているのでしょう。同行したベトナムの人たちも、これを見て漢字は分からないでも、絵を見たら分かりますので笑っていました。

ビュッフェでの食事を終えて、2時半過ぎに次の観光地・Golden Buddha Templeを訪問しました。バスから降りてそのお寺を見ますと、屋根は金色に輝いています。中にいるお釈迦様も金箔が全体を覆っています。

日本の奈良の東大寺の大仏様も今でこそ黒光りした色をしていますが、創建当初は金箔が塗られていて、このタイのお釈迦様と同じように光り輝いていたはずです。日本人から見たらケバケバしい感じがしますが、日々このお釈迦様の像を拝んでいる人たちには、これが当たり前のお釈迦様の像なのでしょう。

そこは一時間ほどで見学を終り、次に船の形をしたYannawa Templeを訪問しました。このお寺の中には、仏教の高僧たちの遺骨の舎利が数え切れないくらい、透明の容器に入れて納められていました。この中には写真も掲示されていましたが、国王や政治家と一緒に写った僧侶の写真があり、タイでは仏教の高僧の地位が高いものだと理解できます。

そしてそこを5時過ぎに出て、目の前にある「チャオプラヤ川」を小型の船に乗って観光しました。川岸には多くの寺院が建っていました。20分ほど乗ってまたYannawa Templeに戻ることになりました。川面を吹き渡る風が大変心地よいものでした。さらに、ちょうど夕陽が沈む時間頃になり、寺院の向こうに沈む夕陽が実に美しく、赤く輝いていました。

ホテルに戻って、夕食はまたホテルでのビュッフェでしたので、私とS先生は軽く食事を済ませて、また昨日の店に二人で飲みに行くことにしました。この日は手長エビが水槽に泳いでいましたので、それを注文しましたが、やはり美味いものでした。それをツマミにビールで乾杯して、今日一日の終わりを締めました。

この日もビールを飲みながら、S先生と話しました。S先生はベトナム滞在が三年目に入りましたが、それ以前はハワイに25年間住んでいました。近い将来イタリアに行き、「イタリア料理」を勉強したいという“夢”を持たれています。

S先生は私よりも5歳年長ですが、まだまだ新しい目標を持って、 “次の異国での夢”を描いておられます。ホテルまで一緒に歩いて帰りながら、(すごい人だな・・・)と思うしかありませんでした。

● PATTAYAに行く ●

バンコクでの二日間の滞在が終わり、22日からバンコクの東南に位置するPATTAYA(パタヤ)に移動しました。何でもPATTAYAにはビーチがあるというのです。PATTAYAは1960年代に、ベトナム戦争でのアメリカ兵の休息地として開かれたとLyさんが話してくれました。

私個人としては、そういうビーチ・リゾートなどに行くよりも、古都・AYUTTHAYA(アユタヤー)に行きたい希望があったのですが、団体旅行なので残念ですが仕方がありません。S先生は以前AYUTTHAYAにも行ったことがあるそうで、その魅力をいろいろ語ってくれました。

朝8時にバスはホテルを出ました。そして走ること一時間半。バスはとある建物に着きました。トイレ休憩をそこで取り、お昼ご飯もそこで食べるというのでした。そこの建物内の壁面には、大きなワニの剥製が壁に飾ってありました。そこはワニ革製品を売る店なのでした。そして、やはりそこにも中国人が観光バスを連ねて、続々とバスから降りて来ました。

この店の中にはワニ革の財布やハンドバッグやベルトなど、ワニ革の製品が山のように積まれ、並べられていました。さらには指輪やネックレスなどもありましたが、素材が素材だけに、驚くほどの値段の高さでした。ワニ革の製品でも、日本円で数万円。指輪などは数十万円の表示がありました。

でもやはり、そういう高価な商品でも中国人の団体客がカードで払ったりして購入していました。やはり、こういう外国を旅行している中国人たちは、中国の中でもお金持ちの部類に入るのでしょう。

そしてガイドさんが「10時半からお昼ご飯を食べます。」と言って、一階のレストランに案内しました。えらく早い昼食になりました。お昼のメニューは日本ふうの「スキヤキ」でした。しかし、鍋の中のスープに肉を入れるやり方なので、「スキヤキ鍋」と言うべきでした。

生卵が二個、一人・一人の茶碗の中にではなく、大皿に盛られた肉の上に割って落としてありました。当然、肉と卵をかき混ぜて鍋に入れるしかありませんが、日本人の私たちからすると(?)と首を傾げるやり方です。でも、味はまあまあでした。

私たちが食べ初めてしばらくすると、中国人の団体客がドカドカと入って来ました。やはり、彼らが中国語で話しているその声は大きいですね。すぐに(ああ、中国人だな)と分かります。

それはいいのですが、彼らはテーブル上に置いてあるティッシュを使用した後、大人も子どもたちも、その使用済みの紙をテーブルの下にバンバン投げ捨てていました。ここは路上の店ではなく、キチンとしたレストランの中なのです。しかし、彼らはお構いなしに捨てていました。他にはそういう行為をしている団体客はいなかったので、ベトナムの人たちも呆れて見ていました。

そこを11時40分にバスは出て、次はPATTAYAに向う途中にSRIRACHA TIGER ZOO(シーラチャ タイガー ズー)という、ベンガル虎を飼育している動物園に立ち寄りました。この動物園には16万頭の虎が飼育されているといいます。ここでは虎のショーを見せてくれました。虎が火の輪を潜ったり、空中高くに据えたハシゴを虎が渡る芸などです。

あの凶暴な虎さんが飼育係りの持っているムチ一本で、様々な芸を披露します。(よくぞ跳びかかって襲わないものだな・・・)と心配になりますが、小さい頃から飼育しているので、人さまに馴れているのでしょう。

それを見終わると、次はワニのショーをやっている場所へ移動。階段状に座席が造られた大きな体育館のような建物の真ん中に、ワニさんたちが登場する舞台があり、二人の男女がワニの芸を披露してくれます。ワニの口に棒を入れてみたり、手を入れたり、最後にはワニの口に自分の頭を入れて、観光客のほうを見てピース・サインをして楽しませてくれます。

ワニの口中に入れた頭をガブリと噛まれたら、ピース・サインも洒落にはなりませんが、この時は大丈夫でした。まあ、これと同じような趣向のワニさんの芸は、ホーチミン市のカンザー郡のワニ園にもあります。しかし、ここのタイのほうがはるかに大掛かりです。ワニのショーが終った最後には、二人の男女にお客さんがチップを上げていました。

そこを出ると、また次のショーにガイドが案内します。次はブタのショーです。檻に入れられていたブタさんが二十メートルほどの長さの通路をただ走るだけのショーです。「算数の計算をするブタさん」も登場しました。1から10までの数字を並べて、ブタさんに問題を出して、正解を当ててもらうショーです。

観光客に一桁の足し算や引き算の問題を出してもらいますと、地面に置かれた数字をブタさんが鼻で押しのけて口に咥えます。ブタさんが口に咥えた数字は正しい答えになっています。何か種があるのでしょうが、小学生くらいの子どもたちは感心したように喜んでいます。

そして、ブタさんの胴体にはヒモが通してあり、背中にチップが挟めるようにして、ブタさんがグルグルと柵の中を回りますと、チップがどんどんと増えてゆく仕組みになっています。ブタさんも自分の給料を自分で稼いでいるような光景です。

しかし、この動物園にもやはり多くの中国人観光客が見物に来ていました。中国人の男性は至る所でタバコをスパスパ吸っていました。タバコをスパスパ吸うぐらいはまだいいのですが、目を疑ったのはタバコを吸い終わった後、火が付いたままの吸殻をそのままゴミ箱に捨てていたことです。

信じられない光景でした。ゴミ箱の中には紙類も当然入っています。日本に観光に行っている中国人の観光客も、やはり同じような行動を取っているのでしょうか。最近、日本の旅館で「中国人客お断り!!」の通達を出した所があったそうですが、当然だろうなと思います。一番来て欲しい日本人のお客さんが来なくなるでしょうから。

そこを夕方3時前に出て、次は山のほうに向いました。しばらくバスに乗って行きますと、大きな、尖った山が見えて来ました。しかもその岩肌には金色の仏像が描かれていました。この観光地の名前は、Khao Chee Chan(カオ シー チャン) Buddha Mountain

その仏像の高さは約150メートルもあると言います。岩肌をレーザーで彫り、金を埋め込んで描いたそうです。1995年に現国王の在位50年を記念して作成されたと言いますが、そのスケールの大きさには圧倒されました。

この日の一番の感動は、この岩に刻まれた大仏さまでした。そこを訪問した記念に、その大仏さまの写真が額に入ったのを200Bで売っていましたので、ためらわずにそれを買いました。サイゴンに持ち帰った今も、部屋の中に飾っています。

そこを30分ほど見物して、次は水上マーケットへ。池の中には多くの店があり、いろんな物を売っています。お土産屋さんもたくさんありますが、買いたいと思うような物はあまり有りません。それに、今ここでかさばるのを買っても、あちこちと移動する時に荷物になるだけなので、ここで土産を買うのは止めました。

そしてそこを出た後、途中のレストランで夕食を摂り、ホテルには夜7時半に到着。その後また、S先生と私はPATTAYAの街の探訪も兼ねて、二人でビールを飲みに外に出かけました。海岸沿いも歩きました。海のほうから涼しい風が吹いてきます。しかし、海のほうは暗いために、海がキレイなのかどうかは見えません。

このPATTAYAは歓楽街というべき街でした。レストランやバーなど、様々な店が営業しています。土産物屋もたくさんありました。S先生がその一角の店で足を止めて、貝殻を手にして眺めています。そこにはキレイな貝殻が並べてありました。

なんでも、ハワイにいる娘さんが貝殻を集めるのが趣味らしく、娘さんのために買おうとされているのでした。そこには店番の男性が一人いました。その顔を見ると、どう見てもタイ人には見えません。西洋人の風貌でした。年齢は30代くらいの感じでした。

「どこから来ましたか?」と英語で聞きましたら、「トルコからです。」と彼は答えました。私がトルコの人に出会ったのは、この時が生まれて初めてのことでした。そして、大いに嬉しくなりました。今からはるか昔の高校生の時、大島直政さんの著書「遠くて近い国トルコ」という本を読んでから、私はトルコという国には憧れを抱いていました。

日本とトルコの間には、幾つかの<感動的な秘話>があります。古くはあの1890年にエルトゥールル号が和歌山県串本町の沖合いで台風のために遭難し、多くのトルコ人の乗組員が亡くなりましたが、生き残った人たちを住民総出で介抱して、明治天皇も軍艦でトルコまで彼らを送り届けました。それ以来、トルコと日本の<友好親善の歴史>がスタートしたといわれています。

さらに、それから約100年が過ぎた1985年の「イラン・イラク戦争」の時、当時のイラクの大統領サダム・フセインが「48時間後にイラン上空を飛ぶ飛行機を全て打ち落とす!」と言う発言をして、世界を驚かせました。世界の国々はイランに在住している自国民救出のために、多くの救援機をイランに飛ばしました。イラン在住の外国人たちは、その自国の救援機に乗り、タイム・リミットが迫る以前に、次々と故国に帰って行きました。

しかし、イランに在住していた日本人を救うための救援機は、日本からただの一機も飛んで来ませんでした。テヘランの空港に取り残された日本人たちは(日本からは一機も飛んで来ない。我々はここで命を落とすのか・・・)と絶望的な気持ちになっていた時に、上空から一機の飛行機がテヘランの空港に着陸しました。

それはトルコ航空の飛行機でした。そして、空港にいた215 名の日本人全員を乗せて、成田に向けて飛び立って行きました。サダム・フセインが宣言したタイム・リミットぎりぎりの1時間15 分前でした。

その時に、飛行機に乗っていた日本人たちは、(日本からすら飛行機が来ないのに、何故トルコから日本人を救うために飛行機が来てくれたのか。)・・・、その理由が分からなかったと言います。トルコ航空が何故テヘランまで日本人を救うために飛んだのかの理由について、しばらくして駐日トルコ大使の口から次のように明かされました。

「百年前のエルトゥールル号の恩をお返ししただけです。」

そのエピソードを聞いた日本人で、トルコの人たちの厚情に涙を流さない日本人はいないでしょう。今年はエルトゥールル号の海難事件から始まった「日本とトルコの友好の歴史」を描いた、日本・トルコの合作映画が公開されるそうですので楽しみです。そのトルコの人と、この夜にPATTAYAの街で出会えるとは実にラッキーと言うべきでした。

聞けば彼の奥さんがタイ人で、タイに7年間在住しているそうです。彼も私達が日本人であることを知ると笑顔になり、「トルコと日本はベスト・フレンドの国です。サービスしますよ!」と言って、S先生が買うつもりで手にしていた貝の値段を安くしてくれました。

私は、あまりの嬉しさに彼の名前を聞くのを忘れましたが、記念の写真を彼の奥さんも一緒に入れて撮りました。またPATTAYAに行く機会があれば、是非彼との再会を果たしたいものだと思います。本当はこの時、彼も誘って一緒にビールを飲みたかったのですが、彼は店の番があるようでダメでした。

S先生と私は、すぐ近くにある喫茶店で、タイ人女性が英語で歌うジャズ風の歌を聴きながら、ビールでこの日の終わりを乾杯しました。この日は、Khao Chee Chanの大仏様と、トルコ人の彼に出会えたのが最大の収穫でした。

● PATTAYAでの一日 ●

この日は一日中PATTAYAにいました。朝7時過ぎに数隻のボートに乗って、ビーチがあるCoral(コーラル)島にスピードボートで向いました。船長が海上をもの凄いスピードで飛ばして行きましたので揺れが激しく、女性の先生は10分ほどして船酔いで戻してしまいました。島には約20分弱で着きました。

しかし、ここにも中国人が大挙して押し寄せて来ていました。船から島の上に上る道の両側には、ウチワサボテンが群生していましたが、そのほとんどに英語や中国語で名前が深く刻まれていました。休憩所に行きますと、長椅子に座っているのは、そのほとんどが中国人の集団でした。ここには一時間だけ休憩しますと、ガイドさんが説明していました。

期待して行った割には、ビーチはさほどキレイではなく、波も荒く、砂浜も広くはないので、ここで海に浸かっても中国人の集団と一緒になり、芋の子を洗うような状態になるのは想像出来ましたので、私は長椅子に座ってゆっくりと寝ていました。

後で聞いた同僚の話では、前から歩いて来た中国人の集団とすれ違う時、その中の一人の中国人が「カーーッ」と吐いた痰が、危うく彼の足にかかりそうになったそうです。

そして、時間になりスピードボートに乗り、10時前にまたPATTAYA市内に戻りました。このCoral島観光にはオプションでパラセーリングもあるそうで、5人ほどがそれに申し込んでパラセーリングを楽しんで空を飛んだようで、後でその写真を見せてくれました。

そして午後からはMIMOSAという名前の観光地に行きました。このMIMOSAは別名が「愛の街」と呼ばれているそうですが、何が「愛の街」なのか、さっぱり分かりません。簡単に言えば、ヨーロッパのキレイな街を模倣して造ったお土産屋さんの集りのような感じです。

事実、ここにはいろんなお土産が売られていました。(そろそろクリスマスが近づいて来ているな・・・)と思い、私も女房と娘のために幾つかお土産を買いました。ここで、今まで両替したタイ・バーツは全て無くなりました。それで、ガイドさんに「ここは愛の街ではなく、お金が無くなる街ですね。」と冗談で言いましたら、二人とも大笑いしていました。

そこを出た後に、今度は貴金属の店に連れて行かれました。ダイヤやヒスイやメノウなどで加工・作成されたネックレスや指輪などが販売されています。ここに観光客を案内した目的は、店の商品を買わせたいがためでしょう。しかし、その値段の高さはケタが違いました。日本円にして、十万円・二十万円単位の商品が、ガラスケースの中に山ほど並べてありました。

私たちには到底手が出るものではありませんが、ここでもやはり中国人観光客がカードを提示して、淡々という感じで買っているのを何人も見かけました。 かくも気前良くお金を払えるのは、一体中国でどんな仕事に就いている人たちなのか興味がありましたが、中国語が出来ない私にはそれは聞けませんでした。

しかし、今回の旅を振り返りますと、タイ国を訪問してタイのいろんな観光地を見たのは事実ですが、どこに行ってもその至る所に中国人観光客の団体がいて、 タイ国を観光したのと同じくらい、<中国人の観光客を見物した>という印象でした。

私の感想では、今回のツアーのコースは「観光地⇒買い物パターン」が多く、こういうのは中国人が好むツアーのプログラムなのではと思いました。そして、それと同じコースを我々も歩かされたのではないかと。

そこを出た後、途中で夕食を摂りました。そしてこの日最後のPATTAYAの夜は、S先生と私の二人だけではなく、ベトナム人の同僚たちも誘って8人くらいで飲みに行くことにしました。

しかし、みんなが行き付けの飲み屋がある訳ではなく、いろいろ探し回ること30分くらいして、中華料理のようなメニューがある店を探し当てました。出された料理は実に美味しいものでした。ビールも、全員で一ケース以上は飲みました。そこの店員さんが目を丸くしていました。その店を出たのは夜の11時を過ぎていました。

● タイ国 ⇒ホーチミン市へ ●

24 日がタイ国滞在の最終日になりました。この日もまだまだ観光地巡りは続きました。朝8時20分に「Butterfly Garden」に到着。ここでは「燕の巣」のスープや天然蜂蜜や熊の肝や虎の体の一部分などなど、健康食品と銘打った漢方薬などが販売されていました。ここにもまた中国人観光客が多数来ていました。

「燕の巣」のスープには興味がもともと有ったので、せっかくの機会だと思い、茶碗一杯で200Bのスープを飲んでみました。味は美味しいというものではなく、淡白な味でした。この館内には燕の巣を獲るまでの映像や写真がありましたが、大変な手間ひまが掛かっているのは良く分かりましたので、有り難く頂きました。

しかしながら、こういう「燕の巣」というものに目を付けて、それを人間の口に合うように手を加え、商品として成立させている中国人の商魂の逞しさにはホトホト感心します。中国人のさまざまな“食”に関する探究心というのは、世界の中でも群を抜いていると思います。

そしてまた次は、コブラのショーを見せてくれる場所に私達は案内されました。舞台の中央で、コブラと人間のショーが始まりました。コブラの頭を叩いたり、尻尾を振り回したりして、コブラがエラを張って人間を威嚇する様を演出してくれましたが、所詮ヘビはヘビですから、見ていてあまり気持ちのいいものではありません。

その後は別室で、お医者さんらしき白衣を着た男性職員がコブラの体とその毒の全般の効能を真面目そうに話します。そして、そのコブラの体と毒から抽出して出来た薬の名前とその効能を説明してくれます。しかし、その薬一本の値段は日本円にして十万円を超えていました。(そんな高価なものを誰が買うかい!)と、思いました。この場で中国人が買っているのも見かけませんでした。

そこを11時過ぎに出て、ホーチミン市に帰るために国際空港に向かいました。昼食は空港内にあるレストランで食事を摂ることになりました。ガイドさんから100B(約300円)の食券を貰いました。その金額内でしたら、何を食べても自由だというのです。例えその金額を超えても、その超えた分だけを自分で払えば良いというやり方でした。

そこでの食事を終えた後に、また全員で指定の場所に集合しました。目の前にはフライトの便名が掲示されています。それを見て全員が驚きました。当初の予定では3時45分発の便が遅延して、5時半発に変更されていたのでした。しかし、飛び立たないものは仕方ありません。バンコク発の時間が遅れたことで、私はふと<あること>を思い出しました。

最終的には、やはり5時半にバンコクの空港を飛び立ちました。そして7時10分にホーチミン着。実は<あること>というのは、私がサイゴンに戻ったちょうどその日に、日本に向けて旅立つ四人の教え子たちがいました。そのことを思い出したのでした。

彼らが集合するのは7時半です。タイ発の遅れが原因で、ホーチミン市には遅れて着きました。遅れて着いた時間が、たまたま彼らが集合する時間と重なっていました。それで、国際線の二階の出発ゲートの方まで荷物を背負い、歩いて行きました。

すると、果たして二人の教え子たちと、その家族が到着していました。私の顔を見ると、この日に会う約束をしていなかっただけに、大変喜んでくれました。
私も事前に約束していたわけでも無い状況で、彼らに会えて大変嬉しかったです。
30分くらいして、残りの二人も到着しました。彼らもまた喜んでくれました。

定刻になり、出発ゲートから彼らは中に入り、その姿が見えなくなるまで、名残惜しいかのように手を振ってご両親や家族たちに別れを告げていました。遠すぎて見えませんでしたが、おそらく彼らは涙を流しながらご両親や家族のほうを見つめていたことでしょう。

彼らがガラス戸越しに見えるゲートの中に消えて行った後、瞼の中に残像のように浮かんだ彼らの姿を見た時、それがタイから帰った日の強烈な、印象的な思い出として残りました。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ リタイア後に住みたい国、ベトナムが初のトップ25入り ■

世界各国で販売されているアイルランドの海外移住専門誌「インターナショナル・リビング」が毎年発表している「リタイア後に住みたい国トップ25」に、ベトナムが初めてランクインした。1位は南米のエクアドルだった。

同雑誌では、退職後の理想的な生活の指標として、「買い物・賃貸料」「福利厚生」「生活コスト」「溶け込みやすさ」「エンターテイメント・人々の態度」「医療サービス」「インフラ基盤」「気候」の8つの指標をそれぞれ100点満点で評価し、その平均点でランク付けしている。ベトナムは平均67.3点を獲得して25位。そのうち、「生活コスト」は100点をマークした。

ベトナムのほか、アジアから◇マレーシア(4位:86.8点)、◇タイ(10位:84.6点)、◇フィリピン(23位:76.3点)、カンボジア(24位:73.7点)がランク入りしている。

1位のエクアドルは平均92.7点を獲得。特に、「買い物・賃貸料」と「気候」が25か国中唯一100点満点、「エンターテイメント・人々の態度」も98点の高得点だった。2位の中米パナマは、「福利厚生」、「エンターテイメント・人々の態度」が100点満点だった。

<VIET JO>

◆ 解説 ◆

私が最近知り合った人でNGさんという方がいます。まだ知り合って三ヶ月くらいです。彼はベトナムに来る前は上海に10年住んでいました。それがふとしたきっかけからサイゴンで暮らすようになりました。今サイゴンに来て二年を少し超えたぐらいです。年齢は私と同じくらいです。

彼は初めて私に会った時に、「このサイゴンを拠点にして、終の棲家をどこにするかを探そうと考えています。」と話してくれました。さらに続けて、「ひとつの目星はあります。マレーシアのクアラルンプールか、ペナン島辺りがいいかと・・・」と話しました。

クアラルンプールにもペナン島にも行ったことが無い私は、ただ「はぁー、そうですか・・・」と答えるしかありませんでした。それからしばらくして、実際にNGさんは昨年の11月に十日間ほどそこに行きました。そしてサイゴンに帰って来て、その旅の感想を私に聞かせてくれました。

「いろいろ回りましたが、結論を言えば・・・やはり、ホーチミンが一番いいです。」

それを聞いて、あらためて二人で大笑いしました。そして、NGさんは旅をしながらいろいろ考えていたという、「住むなら、何故ホーチミン市が良いか」について、彼が考えたその理由を話してくれました。

◎一つ目は、ホーチミンは気候がいいこと。雨季の雨でも一時にザーッと降ったらすぐ上がる。クアラルンプールやペナン島は日本と同じようにじとじと一日中雨が降り続く。

◎二つ目は、誰も友人・知人がいない所に行くのは精神的にキツイ。今から新しい場所で友人を作り直すのは、相当な気力が要る。

◎三つ目はマレーシアよりもホーチミン市のほうが、まだ物価が安い。特にお酒とタバコがそう。

「その結論が出ただけで、今回の旅は成功でした。」と彼は笑いながら話してくれました。そして、「その結論が出ましたので、これからホーチミンに腰を据えて、本格的に仕事に取り掛かろうと思います。」と意欲を燃やしていました。

衣・食・住・インフラ・福利厚生などの全ての点において、満点を取れる天国のような国が世界の中にあるはずがありません。しかし、そのような天国は無くても、世界中どこでもしばらくの間住み続けていれば、そこが「住めば都」になるのだと思います。

「ホーチミン市が一番いいです。」と、NGさんがいろいろ挙げてくれたホーチミン市の長所の他に、さらにそれに加えて、私はホーチミン市には「寒い冬が無い」ことを得点のポイントに入れたいと思います。特に今のこの時期は朝夕大変涼しく、夕方も雨が降らず、大変快適な季節です。

今年で私はベトナム滞在が18年目に入りますが、ホーチミン市は私にとっても「第二の故郷」になりました。今母親が住んでいる、友人がいる、日本という「第一の故郷」に帰ればこころが安らぎますし、私の家族が待っている、多くの教え子たちがいる「第二の故郷」ホーチミン市に、日本から帰れば嬉しさに包まれます。

確かに東南アジアにはタイカンボジアラオスマレーシアなどのように、魅力的な国々がたくさんあります。しかし、私はそれらの国々へ<観光>で行くことはあっても、それらの国々に<住んで生活する>ことは、今後も無いでしょう。



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