アオザイ通信
【2014年11月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<ハノイへ旅立った青年・TMくん>

2013年の8月初旬に、サイゴンにやって来た一人の日本人の青年がいます。TMくんと言います。今年29歳です。彼はもともと「若い時に海外で働きたい!」という夢を抱いていました。

それで、ベトナムに来る前に、フィリピンやインドネシアなどのアジアの国を幾つか回りました。そして最終的に、「海外で働きたい」場所として、ベトナムを選びました。ベトナムを選んだ理由について、後に私に語ってくれましたが、それは意外な理由からでした。

彼は日本にいた時ベトナムでのビジネスを考え、インターネットでいろいろ調べている時に、私の知人でもあるIT会社の社長である、KRさんとの繋がりが出来ました。それで、そのKRさんに会うべく、2013年の6月中旬頃にサイゴンを訪問しました。

そして、初めて訪れたベトナムが大変気に入り、一ヶ月後の7月半ば頃に、ここベトナムでの就職先が決まり、「若い時に海外で働きたい!」という夢が実現する日が近づきました。
しかし、「人と人との縁」というのは、実に不思議なものだと思います。そのKRさんとの「縁」が無ければ、TMくんがベトナムに来る可能性は少なかったかもしれません。

8月に入ってすぐに、KRさんに連れられて「SUSHI ◎◎」に現われたTMくんに、私は初めて会いました。この時には彼はまだファン・グー・ラオ通りにある安宿街に滞在していました。それからしばらくして、彼はKRさんが住んでいる、その住人がベトナム人ばかりの公団住宅に居を移しました。

私が初めて彼に会った時に、彼は28歳。彼が自分の紹介をした時、私は彼に対して非常に明るく、爽やかな印象を持ちました。聞けば、彼のお父さんの年齢は私と全く同じ歳でした。それを聞いた私は、彼のお父さんにも親近感を持ちました。彼のお父さんは学校の先生をされているということでした。

そして、彼の口から直接「KRさんとの縁でこのベトナムに足を踏み入れようと思いました。」と、ベトナムに来たいきさつを話してくれました。TMくんはベトナムに来るまでKRさんには直接会ったことも無く、サイゴンに来て初めてKRさんに出会ったのです。そういう意味では、一人の若者の人生の歩み方に影響力を与えた、KRさんという人の存在感は大したものだな〜と、あらためて思いました。

私たちは「SUSHI ◎◎」でビールを飲み、サシミを食べながら、TMくんのこれからの仕事のことについて話をして、一時間ほどを過ごしていました。するとこの日に、十数メートルほど離れた向かいにある路上屋台の店で、たまたまある一つの家族の「誕生日パーティー」が開かれていました。

日本では考えられないことですが、ベトナムでの「誕生日パーティー」が路上屋台の店で開かれる時には、お客さんがマイクを握って歌い、路上に置かれた大きなスピーカーからとてつもない大音量の歌が流れてきます。

この時もまさしくそのパターンでした。聞いている人の腹の中に響くような、「ズーン・ズーン」という大音響が響いて来ました。当然我々が会話することは出来ません。それくらいの大きな音でした。それに対して、隣の店や近くにいるお客が抗議することもありません。当たり前のように平気で料理を食べ、ビールを飲んでいます。

サイゴン生活に慣れた私は、そういう大音響の音楽が流れてきても(ああー、またいつものパターンか・・・)と思いました。それで、いつもと同じようにビールを飲んでいました。でもやはり、私でもだんだんとイライラして来るような大きな音量であるのは事実でした。眼の前に座ったTMくんの様子が気になりました。

TMくんはこういう経験は初めてでした。それで、その音楽が流れ始めて十分くらい経つと、ハシをテーブルの上に置き、額に手を当ててうつむきました。さらに音楽が五分・十分も続いて流れてくると、だんだんと顔色が蒼ざめてくるのが良く分かりました。

しばらくずっと顔を伏せて、手を額に当てていました。そしてすっと立ち上がり、「ちょっと失礼します。」と言って座を外しました。やはり、あの大音量の音楽が原因で、気分が悪くなったようでした。

1963年に20歳で日本からベトナムに来て、メコンデルタのCai Be( カイベー )でバナナを植えられていたあのYさんも、後日TMくんに会いました。そして、後でその話を我々から聞いて笑っておられました。

Yさんは20歳の時に、電気も無い、水道も無い、シャワーも無い、ガスも無い、台所も無い、トイレも無いような辺鄙な村で暮らしておられただけに、精神的にも肉体的にも、昔も今も実にタフです。

Yさんが言われるには、「それくらいの困難は乗り越えないと、ベトナムでは長くはもたないよ。」と。ベトナム戦争の激しい時に、サイゴンに乗り込んで来られたYさんが言われるだけに、強い説得力があります。

しかし、この時彼の様子が大変辛そうだったので、その場でお開きにして、この日は別れました。その後、彼のベトナムでの就職先も決まったということを彼から聞きました。その会社は機械部品の販売をしているそうで、彼は「営業」を任されたということでした。

「郊外にも営業をしに行かないといけないので、帰りが遅くなり、みなさんに会えないのが残念です。」と、時に私の携帯にメッセージを送ってきました。(若いのに、非常に律儀な青年だな〜)と思い、そのことをYさんに話しますと、「そうですね。彼は好青年ですね。」と肯かれていました。

最初の出会いから二ヶ月ほど経った頃、ある日曜日に「SUSHI ◎◎」でまた彼に会うことが出来ました。私とYさんが二人で夜風に吹かれながら、ビールを飲んでいる席に彼が来ました。

そして、席に座るなり、「今日は嬉しいことがあったので、皆さんに報告をと思い、ここにやって来ました。」というのでした。彼がニコニコしながら、「実は、会社が僕の給料を上げてくれました。」と話しました。何でも彼の社長が「TMくんは良い営業結果を出している。」と誉めてくれて、昇給してくれたというのです。

そう言って嬉しそうに話してくれる彼の笑顔を見ていますと、最初に「SUSHI ◎◎」で会った時、カラオケの大音量で気分を悪くしていた時の光景を思い出し、(逞しくなって来たな〜)と感じました。Yさんも「それは良かったねー。」と喜んでおられました。

その後、今年に入ってからも週に一回ほど我々の集りに加わり、近況報告をしてくれました。彼と同世代の、サイゴン在住の若い人たちとの交友関係も広く築いている様子でした。タイで出張に行った時のこと、カンボジアを旅行で訪問した時の出来事なども話してくれました。

今の自分の仕事についても、「営業というのはいつも・いつも、順調にゆく訳ではなく、ある週などは足を棒のようにして回っても、全然契約が取れない時もありました。そういう時には落ち込みましたが、次の週に思いがけない契約が取れたりすると嬉しくなり、落ち込んでいた気持ちが吹き飛びました。営業の仕事は【結果がすべて】ですが、今の仕事は大変楽しいです。」と、落ち着いた話しぶりで語ってくれました。

彼はいつも朝早い時間に会社に出勤するので、「すみません。お先に失礼します。」と言って、Yさんと私を残して先に帰るのが常でした。ベトナムに彼が初めて来た時以来、たまに「SUSHI ◎◎」で顔を合わせる彼の様子を見ていまして、二人で「ずいぶん変わりましたねー。逞しくなりましたねー。」と話したことでした。

そして、今年の9月の初め頃に私とYさんが「SUSHI ◎◎」で会っていた時に、少し離れた席に、ベトナム紹介のブログ「べとまる」の、あの水嶋さんが友人たち数人と来られていました。その席にはTMくんも来ていて、私たちの方に顔を向けて会釈しました。

それから少し時間が経った頃、彼が一人でその席を立ち、我々のほうに挨拶に来てくれました。そして、最近の状況を話してくれました。彼は「最近お客さんとの契約が順調にまとまって来ていまして、営業の実績も伸びて来ました。以前何度も足を運んでダメだった所からも、前向きな返事を頂いたケースがあります。そういう意味では、営業という仕事について、いい経験を積んだと思います。」と嬉しそうに話してくれました。

そして、「実は・・・」と切り出して、「11月初旬からハノイに転勤することが決まりました。サイゴンで働いたのはわずか一年と二ヶ月くらいなので、まだまだこちらで頑張りたいと思っていたのですが、会社からの辞令なので仕方がありません。一応任期は一年なので、一年間の間はみなさんとお会い出来なくなりますが、ハノイで頑張りたいと思います。」と、すでにその意志を固めているような表情で話しました。

私はそれを聞いて、「ええーっ、そうですか。会社の命令であればそれは仕方が無いですね。サイゴンと違って、夏のハノイは蒸し暑く、冬のハノイは寒くて、空がどんよりと曇り、洗濯物も乾かないようなところですが、健康に気を付けて下さいね。」くらいしか言えませんでした。

事実、私は観光や仕事で数日ハノイに滞在したことがありました。ハノイの街自体は、市内の中心部に「ホアン・キエム湖」があり、料理もPho(フォー)Bun Cha(ブンチャー)などのように美味しい料理があり、ベトナムの中でも好きな街の一つです。

しかし、夏の蒸し暑さと、冬の寒さ。さらに、冬にシトシトと降る陰鬱な雨模様の天気には閉口しました。宿にしていたミニ・ホテルには壁にカビが広がり、黒いシミになっていました。私の知り合いにも、ハノイ人でそのハノイの気候を嫌い、サイゴンに移り住んだ人が何人もいます。

そのような情報はTMくんもベトナム人の友人たちから聞いていたらしく、「気候的にハノイは、サイゴンよりも大変厳しいところだとは聞きました。でも、このハノイ赴任は自分の経験を広げるチャンスだと思い、一年間頑張ろうと思いました。」と、言うのでした。

そして、水嶋さんたちがいる席にまた戻って行きました。私も水嶋さんの席まで歩いて行き、「もうすぐTMくんがサイゴンを離れると、今聞きました。つきましては、TMくんと同じ若い世代の友人代表として、水嶋さんがTMくんの送別会の窓口になって頂けませんか。」と言いますと、彼は一瞬ポカンとしていましたが、すぐに「分かりました。引き受けます。」と答えてくれました。

そして、TMくんの送別会のお知らせが来ました。日付は10月31日となっていました。場所はいつものように「SUSHI ◎◎」。予定では十人の参加者が集まるということでした。Yさんも参加されることになりました。

私はYさんとは長い付き合いでもあり、ある程度は知っていますが、他の若い世代の人たちは全然知りません。それで、10月31日の集りには、「TMくんの送別会」ではありましたが、参加者たちにベトナム戦争当時からベトナムに関わって来られたYさんの活動内容を知ってもらいたいと思いました。

それで、今から四年前にCai Beで亡くなられた元日本兵・古川さんの36回忌の法要の時に、Yさんが私に渡された、「開高健」さんとの交流を綴った資料を人数分コピーして、「SUSHI ◎」に持ち込みました。

私が「SUSHI ◎」に着いた時には、すでにYさんと水嶋さんが二人先に来ていて、ビールも飲まないで、二人で真剣な表情で話し込んでいました。「べとまる」にいろいろな記事を書いている水嶋さんにすれば、「実に興味深い人物に遭遇した!」と思われたことでしょう。

この日の「TMくんの送別会」には、最終的に7人の人たちが参加してくれました。最初に「乾杯!」の挨拶の後、初対面の人たちが多いので、それぞれの自己紹介をしてもらいました。最後にYさんに順番が来た時に、私が持参して来たコピーをみんなに配りました。

みんな興味津々という表情で読んでいました。「TMくんの送別会」がメインなのですが、「Yさんの紹介」も兼ねたパーティーになりました。やはり、みんながベトナム戦争当時にサイゴンに来たYさんには大きな関心を寄せて、いろいろな質問を浴びせていました。

ここに参加した若い人たちも、同世代の人たちとの付き合いや飲み会はあるでしょうが、ベトナム戦争当時を知る70歳を超えた日本人との対面は初めてのことでした。「当時の<大統領官邸>に戦車が突入した時には、私はその現場にいましたよ。」とYさんが言いますと、全員が「ええーっ!」と驚いていました。

それから、Yさんが知る、当時のサイゴンの様子や戦争当時の出来事を全員がいろいろと質問していました。Yさんはそれに対して、じーっと昔を思い出す様子も無く、さっと答えを引き出されます。

私はYさんとの付き合いがもうすぐ十年近くになりますので、Yさんのそういう対応には慣れていますが、やはりその記憶力の確かさにはいつも驚かされます。ここに参加したみんなも同じような感想を抱いたようでした。

「今から五十年も前の昔の出来事を、よく覚えておられますねー。」とある若い女性が感心していました。(何か特別な記憶の方法でもあるのだろうか・・・?)と、私も常々疑問に思っていましたが、Yさんはある日私にサラッと次のようなことを言われました。

「ベトナム南部は日本と違い四季が無いので、いつ・誰に・どこで会ったのかが後で良く思い出せないことが多いです。それで、カレンダーにそれらをメモしています。Cai Be にいた時には、毎日の天気と気温も記録していました。ですから一年前にはいつ頃から乾季・雨季に入ったのかは、そのカレンダーを見れば分かりました。」

言われてみれば確かにそうで、四季のある日本では季節の節目・節目で時の流れが区切れていて、それに即して(いつ頃、どこで、誰に会っていたか)を思い出すことが多いのですが、一年中暑いサイゴンに住んでいますと、時間の流れが水飴を伸ばしたように切れ目が無いので、(いつのことか?どこでだったか?)を、明確に思い出せない場合が多いですね。単純に年を取ったせいもあるでしょうが・・・。

パーティーが終りに近づいた頃、TMくんとしばしのお別れの気持ちを籠めて、私がいつも生徒たちに教えている日本の歌“サライ”を私の携帯電話から選び出して、音楽を鳴らしました。この歌を知らない若い人もいるかもと思い、その歌詞をコピーして、Yさんを紹介した冊子の中に挟んで入れておきました。

♪ 遠い夢 捨てきれずに 故郷を 捨てた ♪
穏やかな 春の陽射しが 揺れる 小さな駅
別れより 悲しみより 憧憬れは強く
寂しさと 背中合わせの ひとりきりの 旅立ち

みんなシーンとした様子で聴いていました。七時から始めた「TMくんの送別会」は9時半過ぎにお開きになりました。後でTMくんからは「お陰さまで最高の送別会になりました。ハノイから帰って来ましたら、またお世話になります。行って参ります!」という連絡を貰いました。

11月初めにはハノイに着いて、新天地での新しいスタートを切っていることでしょう。一年間のハノイ生活で、さらに見聞を広め、逞しくなってサイゴンに帰って来ることを、Yさんと私は願っています。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 姿を消しつつあるエデ族の伝統的長屋 ■

現代社会の発展に伴い、南中部高原地方ダクラク省に住むエデ族の伝統的な長屋(ロングハウス)が姿を消しつつあり、危機的状況に追い込まれている。長屋は同地方に住む少数民族の特徴的かつ伝統的な建築として知られている。長屋は高床式で、木材や竹などを用いて築かれており、中は広く数十人が居住することができる。

同省文化スポーツ観光局によると、省内の長屋の数は2012年に比べて▲600軒減少し、2000軒程度に留まっている。同省のククイン郡やクロンパク 郡、クロンブク郡、エアカル郡にある集落の多くでは、既にこの伝統的な長屋は姿を消してしまった。また、残存するものも、その建築様式は昔と比べて大きく 変化しているという。

長屋が姿を消しつつある理由として、農村都市化に伴い木材の供給が不足し、原材料の価格が高騰しているため、伝統的な長屋に代わってベト族(キン族)の 現代的な住宅に切り替える傾向にあることが挙げられる。木材を用いた伝統的な長屋の建築には、現代的な住宅の建築の1.5倍以上にも上る費用がかかる。

同地方の文化を研究する専門家は、エデ族の伝統である母系制度を象徴する長屋が姿を消しつつある状況を危惧しており、ダクラク省は少数民族の文化的価値の保全に向けた対策を早急に打ち出す必要があるとコメントしている。

<VIET JO>

◆ 解説 ◆

私がこの記事中にある中部高原のダクラク省を初めて訪問したのは、2001年9月でした。
その後、旅の感想を「ベトナム少数民族の村・訪問記」として日記ふうに書きましたが、その出だしには次のように書いています。

「世界には自国の中に少数民族を抱えている国が多数あるが、ベトナムもその一つである。言語や文化・宗教の違いから時には紛争の種にもなるが、外国人の眼からみるとこれほど興味深い対象はない。少数民族と会うといつも心ときめくものを感じる。どんな山奥でも、会えるというだけでワクワクしてくる。

ベトナムには北から南まで約53の少数民族が存在すると言われているが、私もまだそのうち会えたのは数えるほどしかいない。全部の民族に会おうとすれば相当の山奥まで入らないと行けないし、そもそも国境に近い所に住んでいる少数民族に外国人が会える可能性は低いだろう。今回は中部高原の少数民族、Ede族とBa Na族を訪ねて来た。」

サイゴンからローカルバスに乗り、バンメートート市内に泊まり、現地でバイクを借りて、Ede族が住んでいる村を訪ねました。そして、そのEde族の高床式の家を直接自分の眼で見た時には、大いに感動しました。

大きい柱と厚い板を使用して建てられた家は、ペンキなどは塗られず、永い歳月に洗われて独特の風格がありました。(しかし、これだけの木材を今後山から伐りだすことは難しく、このような家は減ることはあっても増えることは無いだろうな・・・)とは想像出来ました。

最初にこの村を訪問して以来、途中の風景や、この村の景色と建物が大変好きになり、その後三度ほど訪れました。北部を旅している時にも、少数民族の村を訪問しました。その時にはたまたま村で結婚式をしていて、外国人でもある見ず知らずの私を、その宴会の中に入れて酒を勧めてくれました。

時代の流れで、こういう少数民族特有の建物が消えてゆくのは寂しいことですが、ベトナムの少数民族もまた「ベトナムの魅力の一つ」だと思います。ダクラク省は<少数民族の文化的価値の保全に向けて>動いて欲しいと思います。私はそのうち、またあの村を訪問したいと思っていますので・・・。



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