アオザイ通信
【2014年8月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<『 Hoang Sa 諸島』に行った日本人フォト・ジャーナリスト >

6月下旬頃、日本にいた私にベトナムから電話が掛かってきました。それは、 <フォト・ジャーナリストの村山康文さん> からでした。村山さんは「今ベトナムにいます!写真家のNさんと一緒に食事しています。」と言われました。それを聞いた私は驚きました。

何故ならその前に、私がベトナム、村山さんが日本にいる時、 「もしかしたら、中国が石油リグを作った『 Hoang Sa ( ホアン サー ) 諸島』へ、写真の取材のためにもうすぐベトナムに飛ぶかもしれません。」 という連絡を受けていたからです。

しかし、私は6月初旬に日本に帰国しましたので、村山さんとその後の連絡を取ることが出来ませんでした。私が6月初旬に日本に帰ったそのちょうど一週間後に、村山さんはベトナムに来ていたのでした。村山さんの渡越は、今回で 37 回目になります。

村山さんは中国が石油掘削装置(リグ)を設置した、南シナ海の 『 Hoang Sa 諸島』 に直接自分で乗り込み、現場での事実を世界に向って発信したいという目的で、今回日本から飛んで来られました。しかし、その段階ではベトナム側に何のコネもツテもありませんでした。

5 月初旬に、中国が『 Hoang Sa 諸島』に石油リグを作った後、中国船とベトナム船の衝突が発生しました。それから、ベトナム各地で激しい 「反中デモ」 が起きました。最初はハノイ市とホーチミン市の「中国大使館」への抗議運動から始まりました。

しかし、ベトナム船の沈没という事態に至るや、ホーチミン市郊外の工業団地でも中国系企業が狙われて、 ≪工場への抗議⇒暴動⇒工場破壊⇒焼き討ち≫ にまで至るという非常事態に陥りました。そして、そのとばっちりは台湾系企業や日系企業にまで及んで来ました。

こういう<暴動⇒工場破壊⇒焼き討ち>の続発を怖れたベトナム政府は、 Nguyen Tan Dung( グエン タン ユン ) 首相の名前で 「暴動には参加しないように!冷静になって下さい!」 というメッセージを、携帯電話の SMS に送ってくるという状況にまでなりました。外国人の私の携帯電話にもそれが届きましたので、ベトナムで携帯電話を所有している人たち全員に送られていたのでしょう。

そして私がベトナムに戻った7月初旬、 サイゴンで村山さんにお会いしました。お会いした場所は 「 SUSHI ◎◎」 です。この時写真家のNさんも後で合流されました。写真家のNさんはいろいろな写真撮影を手がけられていて、企業の広告写真などにも関わっておられます。

Nさんともこの「 SUSHI ◎◎」で知り合いになり、 「写真家と言えば、私の友人にフォト・ジャーナリストの村山さんという方がおられますよ。」 と話しますと、すぐに連絡を取り、今回の村山さんの訪越時に初めて会われたのでした。

振り返れば、私と村山さんとの最初の出会いは 2001 年にまで遡ります。ちょうどその年のスタディツアーに来た大学生たちと一緒に、私がメコンデルタの Dong Thap( ドンタップ ) 省 に行く予定がありました。そこは、毎年洪水の被害が大きいことで知られています。彼らはそこにある小学校を訪問し、小学生たちとの交流会や、文具の進呈を企画していました。

それで、事前に私は洪水被災地の Dong Thap 省の情報を探していましたが、なかなか洪水の様子を撮影したものや、記事が見つかりませんでした。それも当然で、わざわざ洪水の時期に、そういう場所に乗り込んで行く人はいないのだろうな〜と思いました。

しかし、さらにいろいろ探していると、ある日本人が撮影した写真と記事がありました。それが村山さんその人でした。そして私から連絡を取り、その年にスタディツアーを引率されて来た村山さんと、サイゴン市内の Bui Vien( ブイ ビエン ) 通り にあるミニホテルで初めてお会いしました。

それ以来のお付き合いになりますから、最初に知り合ってからの期間は 13 年にも及びます。

日本では 「会わなかった」「会えなかった」 私たち日本人二人が、ベトナムで初めて出会うというのも、不思議な “縁” というべきです。今まで村山さんからは、実にいろんな人たちを紹介して頂きました。

村山さんの今回のベトナム滞在時にも、村山さんの紹介で私は初めて 「塩川実さん」 にお会いしました。 塩川さんは、ベトナム中部にある 高原地帯・ Buon Ma Thuot( バン メ トート ) で、 <無農薬・無化学肥料の野菜の生産> に携わっておられる日本人の方です。 「安心」「安全」 な野菜作りにこだわっておられます。今それが 「ニコニコヤサイ」 という名前で、ホーチミン市内でも販売されています。

2011 年 11 月号の 「ベトナムスケッチ」 に、塩川さんの活動が紹介されました。それで、そのお名前だけは以前から知ってはいました。私はこの日初めて塩川さんにお会いしましたが、 <大変な好青年!!> という印象を受けました。
http://www.vietnam-sketch.com/201111103614

さらにまた村山さんに紹介してもらった人で、たまたま私と繋がっている何人かを紹介されたこともあります。私自身がその 「偶然の出会い」 には大いに驚きました。これも、ベトナムという国が持つ <場の力> というべきでしょうが、そこにはいつも不思議なことに、村山さんが関わっていました。

その時から今に至るまで、村山さんはベトナムの 「過去」 「現在」 を追い続けています。 <枯葉剤被災者><鳥インフルエンザ><大物マフィア・ナムカムの裁判><ベトちゃん・ドクちゃんとの交友> 。そして最近では、ベトナム戦争当時に韓国軍がベトナム中部で住民に行った <大虐殺> <ライダイハン> の史実を取材にベトナム中部まで訪ね、さらにまたその裏付けの取材のために、韓国にまでも足を伸ばされています。

サイゴンで久しぶりに会ったこの席で、村山さんは次のように話されました。

「今回の訪越に当たっては、今ベトナムの外務省に様々な方面から、『 Hoang Sa 諸島』への渡航許可の申請を出しているのですが、外国人でもあり、しかも全くどこの組織にも属していないフリーのフォト・ジャーナリストの自分には、簡単には許可が下りないのです。ただ向こうからの連絡を待つしかありません・・・。」

さらには、今回の訪越に当たっては今まで働いていた勤務先を辞めて来たとも話されました。「その理由は?」と聞きますと、「もしも海上で不慮の事故に遭遇した場合に、勤め先に迷惑が掛かるからです。」と答えられました。村山さんはこの時務めて明るく話されていましたが ( 勤め先を辞めてまで、ベトナムに向う時の胸中は如何ばかりか・・・ ) と私は思いました。

そこまでの決意で、今回はベトナムに来られていたのでした。しかしこの時点では、今回の訪越で船に乗って『 Hoang Sa 諸島』まで行き、 中国が打ち建てた石油リグのある場所まで近づけるかどうかは、未知数でした。

しかしこの日から数日後、夜遅くに突然村山さんから電話があり、「ベトナムの外務省から今先ほど電話があり、渡航の許可が出ました!そして、明日中に中部の Da Nang( ダ ナン ) に来い!と言われましたので、明日 Da Nang に向けて飛行機で旅立つ予定です。」と連絡がありました。「そうですか!!それは良かったですね〜。おめでとうございます!!」と、私も嬉しくなりました。

後で聞けば、すぐに飛行機の予約を入れたけれども、突然の出発でもありビジネスクラスの席しか空いていなくて、已む無くそれで行くしかなかったのでした。「生まれて初めてビジネスクラスに乗りましたよ。」と、後で笑いながら話してくれました。

そして村山さんが Da Nang に向けて旅立ってから、 約一週間後 の7月中旬の朝、なにげなくベトナムの新聞を開きました。そして、数ページ目をめくった時驚きました。そこにはライフ・ジャケットを身に着けた村山さんの写真が載っていたからです。ベトナムの新聞に村山さんが大きく載っているのを見て、一週間前に本人と直接話していただけに、しばらくはその記事にじーっと見入ってしまいました。

タイトルは、 【 Ky niem dac biet cua mot nha bao Nhat( 一人の日本人ジャーナリストの特別な記念 ) 】 でした。この写真に見えるライフ・ジャケットは、彼の友人・知人や、同じ船に乗り合わせた世界中のジャーナリストたちが、今回の取材の平安を願い、記念に名前を書いてくれたもののようです。新聞の一面の半分のスペースが、村山さんの記事のために割かれていました。

そのことを知らせたく、村山さんの携帯電話に連絡しましたが、その時には海上にいたからでしょうか、全然繋がりませんでした。 村山さんはその時、着々と取材の対象に近づいていたのでしょう。 サイゴンにいる村山さんの友人・知人たちは、ただ村山さんの無事を祈るしかありませんでした。

そしてその新聞記事が出た二日後の 7 月 18 日、 無事サイゴンに帰って来られた村山さん に再会出来ました。村山さんが語る一語・一語が実に興味深い話ばかりでした。

Da Nang に着いた数日後、 ベトナム政府側が提供した船に乗って、『 Hoang Sa 諸島』まで約 15 時間かけて、中国が石油掘削装置を設置した近くまで行ったそうです。その時、船の中には外国人ジャーナリストが 10 人、ベトナム人側のジャーナリストが 20 人乗り込んでいたと言います。その中で、村山さんとあと一人だけがフリーのジャーナリストだったそうです。

二泊ほど船の中で過ごしたある日、船上に上ると村山さんたちが乗っていた一隻の船を、 20 隻の中国の巡視艇が追いかけて来たと言います。中国の巡視艇は大きく、船の長さが 86 mもあったといいます。

さらには中国の巡視艇の甲板上には放水銃と機関銃が、シート・カバーを外して剥き出しにされていたといいます。ベトナム側への威嚇のためでしょう。ベトナム側にも同じ装置が甲板上にあったのですが、ベトナム側の船は航海法通り、キチンと覆いがされていたということでした。

そして中国の巡視艇が、村山さんたちの乗った船を 300 mの距離の近さまで追いかけて来たといいます。しかし、村山さんたちが乗った船がベトナム側の領海域に入ったところで、中国の巡視艇は引き返して行ったそうです。

「一時はどうなることか?と思いましたよ。ヒヤヒヤしました。」と村山さんが話していました。とにかく、無事に帰って来られて、同席していた私たちは安心しました。この日の夜は、ひさしぶりの再会を祝して乾杯しました。

そしてそれから約一週間後、ホーチミン市内にある < VOV 大学> の中で、村山さんが撮り溜めた『 Hoang Sa 諸島』の写真の展覧会が開かれました。< VOV 大学> の名前は、 「 Voice Of Vietnam 」 と言う意味から来ているそうです。写真展のタイトルは 『 Hoang Sa への思い』 と名付けられていました。

しかし、ベトナムの大学の中で、村山さんのようなフリー・ジャーナリストの写真展が開かれるというのは異例のことです。村山さんの話では、今回の訪越時にそこの学長と親しくなり、その学長の好意で開いて頂いたそうです。私も村山さんから招待状を頂きましたので、出かけてきました。当日のスケジュールでは朝 8 時半に始まり、 11 時過ぎに終わるという予定になっていました。

私は朝 8 時少し前に着きましたが、その時には校内の中で村山さんがすでにインタビューを受けていました。 写真展の開幕前に、ベトナムのテレビ局や新聞社などの取材班がたくさん来ていました。ベトナムの新聞社が 25 社、 TV 局が 5 社来ていたそうです。

写真展は 8 時半に始まりました。開幕前には在校生による踊りと歌が披露されました。そして、司会者の紹介で村山さんが登場しました。その女性の司会者は大変話が上手で、私は最初プロの人かなと思いましたが、そうではありませんでした。 VOV 大学の在校生でした。

そして、いよいよ村山さんの発表が始まりました。ベトナムとの最初の出会いから、今までベトナムで行って来た活動内容。さらには自分が何故『 Hoang Sa 諸島』に行こうと決意したかを話されました。みんな神妙な面持ちで聴いていました。

村山さんの挨拶が終り、女性の副校長の挨拶が始まりました。そして、写真展開幕のテープカットが行われました。今回、 写真展の会場には 26 枚の写真が展示されていました。その写真の中には、 大阪で行われた中国へのデモの光景の写真がありました。それも、村山さん自身が日本で撮った写真でした。

さらには、ベトナムの国家主席・ Truong Tan Sang( チューン タン サーン ) 主席 とたまたま現地のダナンで遭遇して撮った写真もありました。村山さんはその写真について、「あれは本当に偶然で、ラッキーでしたね!」と嬉しそうでした。

そして 10 時過ぎから、「 村山さんとのトーク・ショー」が始まりました。この場面の様子もTV局の人が撮影していました。トーク・ショウーの半ば頃、今回船に乗り込む時みんなが寄せ書きしてくれた <ライフ・ジャケット> を見せてくれました。ベトナム人の友人や知人、外国人の記者など、いろいろな国の人たちの名前が書いてありました。

そして、次は大学生側から 村山さんに質問をする時間が設けられました。三人の大学生が立ち、村山さんに質問していました。先ずは、三人とも村山さんの今回の活動に対しての感謝を述べていました。さらに三人に共通していたのは 「何故外国人であるあなたが、そこまでベトナムのことを思い、いろいろな活動をしてくれるのか?」 という素朴な疑問でした。

村山さんはそれに対して、自分をベトナムに導いてくれた 「報道カメラマン・石川文洋さん」 との出会いから語り、ベトナムへの数々の思いを語られました。 37 回にも及ぶその 「ベトナム訪問歴」 の引き出しの中には、さぞギッシリと詰まった思い出が溢れていることでしょう。

そしてトーク・ショーが終った後、村山さんに記念品と花束の贈呈が行われました。 最後には、村山さんがこの日着ていた白いYシャツに、みんなが記念のサインをします。トーク・ショーの会場にいた参加者たちのほとんど全員が、次々と壇上に上がり、みんながどんどんと書いてゆきます。こういう辺りはベトナム人の若者達はノリがいいですね。

みんなのサイン書きが続き、 20 分ほどは なかなか解放されませんでした。みんなが書いてくれた記念のYシャツの完成品はもう書くスペースが無いくらいになりました。村山さんは満足そうでした。

最後に副校長から、アオザイ姿の女性の木彫り像をプレゼントされました。この日の写真展は 11 時半過ぎに終わりました。ここでの写真の数々は、大学側の希望もあり、村山さんは全て大学に寄贈されました。

村山さんの今回の訪越は約一ヶ月半にも及びました。今回のベトナム訪問では、今までの仕事を辞してまでも切望していた 『 Hoang Sa 諸島訪問』 を果たすことが出来ました。ベトナムの数々の新聞や、雑誌にも大きく採り上げられました。さらに嬉しいことには、ベトナムの大学の中での写真展も開くことが出来ました。実に大きな収穫があったと言うべきでしょう。

そして村山さんは 8 月 4 日にベトナムを去りました。私は村山さんがサイゴンから去った後、村山さんのトーク・ショーの中での、ある大学生の質問を思い返していました。

「何故あなたはそこまでベトナムのことを思ってくれるのか?」

村山さん自身はベトナム、そしてベトナムの人たちに対しては、今までの長い取材過程を通じて、余人には窺い知れない様々な、複雑な思いを抱かれています。それは私も聞いています。

しかし村山さんと永年付き合ってきて、村山さんの根底にあるのは

「ベトナムに対する深い理解と愛情」

ではないだろうか・・・と、私はあらためて今感じています。 「今回は非常に無理を重ねてベトナムに来たので、次の 38 回目の渡越がいつになるのかは分かりません。」 と、ベトナムを去る間際に話されていました。

しかし、また近いうちに村山さんはベトナムを訪問し、ベトナム在住の日本人や、ベトナム人の友人たちと再会を果たされるだろうな・・と、私個人は期待しています。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ Yanmar の漁船製造、漁師の収入増に貢献 ■

Yanmarの持続的なベトナム漁業開発プロジェクトにおける、最初のマグロ漁船が完成した。
Kikuchi Yukio事業責任者に聞いた。

Q:なぜこの事業をベトナムで進めることになったのでしょう? またそのプロセスは?
A: ベトナムのマグロ漁はほとんどが木製の船で、出漁が20〜25日と長く、燃料費がか  さみ、漁獲量が多くても、品質が非常に低い状態でした。刺身用として輸出できるのは漁獲量の20%どまり、残りは冷凍食品を加工する工場に安く売るしかありませんでした。これが、私たちがモデル市場にベトナムを選んだ理由のひとつです。

プロセスとしては、まず新素材の船を紹介します。ベトナムの漁師は、この船を通じて、漁獲から保管、船上でのマグロの下処理にいたる日本の技術を体験できます。また、Khanh Hoa、Phu Yen、Binh Dinhのマグロ漁重要3省、水産総局、農業農村開発省と、船団での漁業について作業を行っていきます。

Q: 漁場は遠く、漁獲やその後の保管能力に限りがあるなか、プロジェクトの目標を効果 的に達成するには?

A: 基本的に日本の漁師もベトナムの漁師と同じような問題を抱えています。

 経済モデルと近代的な技術により、漁獲後15日以内で保管が良好な魚なら、質は良く、漁獲量が多くても海上に長く滞在する漁師より高値で販売できます。主な目標は、漁獲増ではなく、品質の向上にあります。漁獲量は同じでも、現在の販売価格はキロわずか7万ドン(約3.5ドル)ですが、質が良ければキロ20万ドン(約10ドル)で売ることも可能です。

 弊社の研究開発部門が日本で検査を行っており、今後この漁船の試験を行いベトナムのデータを確認し、そこから体系的な指導資料などをまとめます。
これらの資料と、越日コンサルティング・造船社、Nha Trang大学などのパートナーとともに、中部3省で船団漁業に参加する漁師に対し、技術や経験、漁法、船上での保管方法を伝えていきます。ベトナムの漁 業がより専門的かつ効果的になるようなモデルを構築したいと思っています。

Q: ベトナムの漁師はどのようにしてプロジェクトに参加しますか?

A: 各方面の信頼を得るには、統括組織、つまり漁業株式会社がなければなりません。私 たちのパートナーは漁船価格の50%相当の投資を約束しており、漁師が株式保有の形で残り50%を出し、各人が1隻の船主となります。

 漁師たちは、育成を受けた後に漁に出ます。漁獲物は会社から日本に輸出され、キロ12ドルで売られ、空輸費を差し引いた後に会社が各方面に利益を分配します。

 成功すれば、漁師は残り50%を取得し漁船価値100%の株式を保有できるほか、漁業技術も会得できます。このモデルが効果的に実施されれば、 おのずと他の漁師の参加も増え、そうすればベトナムの漁業が組織立ったものとなり、国の管理もスムーズになるでしょう。
困難は多くありますが、ベトナムの 漁師とともに成し遂げられると信じています。漁業株式会社モデルの構築は、漁師に多くの利益をもたらします。若い漁師が豊かになり、人生を変えるチャンス になると思います。

< HOTNAM News >

◆ 解説 ◆

先日は、長野県の「川上村」で生産されているレタスが、日本人の指導員による栽培方法でDa Lat(ダ ラット)へ導入されるという記事が載りました。「Da Latはアジアでの野菜の倉庫になる」という刺激的なタイトルでした。おそらく近いうちに、Da Latで生産・栽培されたみずみずしいレタスが、今ベトナムで展開しているFamilyMartや、ベトナムのスーパーなどに日常的に出回ることでしょう。

そしてまた、日本の企業によるベトナムでのこのような支援で、ベトナムで獲られたマグロが回り回って、日本に送られて、日本人の食卓に届けられるというのは、日本人として何と嬉しいことではないでしょうか。

私が良く行く路上屋台の日本料理屋『SUSHI ◎◎』のベトナム人店長に、以前マグロの刺身を食べていた時に聞いたことがあります。「このマグロの刺身はどこで獲れるの?ベトナム、それとも外国からの輸入?」

すると、そのベトナム人の店長は「ベトナムのNha Trang(ニャー チャーン)だよ。」と答えました。他のベトナム人に聞いても、「マグロが獲れるのはNha Trangだ。」という答えしか返って来ませんでしたので、<ベトナムのマグロ=Nha Trang>とばかり思い込んでいました。

しかし、この記事によるとマグロはNha Trangだけではなく、ベトナム中部のBinh Dinh(ビン ディン)省でもマグロが獲られていたのですね。そして、ある日この記事を、日本関連のニュースの一つとして、私が日本語を教えているクラスで紹介しました。

そのクラスには、たまたまBinh Dinh省出身の生徒たちが五人ほどいました。彼らにこの記事に出て来た地名を読んであげますと「そこは私の故郷のすぐ近くです!」と大変喜んでいました。

「もしかしたら、君たちが日本に実習に行ってベトナムに帰って来た三年後には、君たちの故郷・Binh Dinhに日本向けの刺身用のマグロ輸出会社が出来ていて、日本との取引が増えて来て、日本語を流暢に話せるベトナム人を必要としているかもしれないね。そしたら、故郷でそのまま日本語を生かして働けるかも・・・。だから、日本に行っても続けて日本語をしっかり頑張ってね!」

私がそういう話をしてあげましたら、彼らも目を輝かせて聞いてくれていました。



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