アオザイ通信
【2013年8月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

14 年ぶりに会ったベトナム人の『青年』

今から遡ること 14 年前の 1999 年の 8 月頃、私はあるベトナム人の青年と出会いました。名前は Dat( ダット ) くんと言います。その時彼は 25 歳でした。

彼を紹介してくれたのは、私の友人でした。私の友人はその時、今の 人文社会科学大学 (当時の名前は総合大学)にベトナム語を習いに行っていました。その同じクラスに Dat くんがいたのでした。その友人は私に「私のクラスに、面白いベトナム人の若者がいますよ。」と言いました。

私が抱いた素朴な疑問は、(ベトナム語のクラスに、何故ベトナム人の若者が入っているのだろう・・・)ということでした。友人にそれを聞きますと、「さあー、詳しいことは私も知りません。」と答えただけでした。そしてそれに続けて、「今度紹介してあげますよ。」と言ってくれました。

そして数日後、その私の友人が当時経営していた 『日越喫茶・ひろば』 で、私は Dat くんに会うことが出来ました。一目見ただけでは日本人のようでした。背はスラリと高く、爽やかな雰囲気が漂う青年でした。友人が最初に私に Dat くんを紹介してくれて、その後は二人で話しました。会話は当然日本語だけです。彼は、少し前にサイゴンに来たばかりの頃でした。

私が抱いた疑問点、「どうしてベトナム人のあなたが、ベトナム語のクラスでベトナム語を勉強しているの?」に対して、彼は次のような驚くべき答えを返しました。

「僕は8歳の時に、ボートピープルとしてベトナムを出て、日本へ難民で着いたのです。」

それ以来ずっと日本で過ごし、小・中・高も日本の学校で学び、大学も日本の R 大を卒業したそうです。家の中では会話はベトナム語で話していたそうですが、ベトナム語の書き言葉がまだ<ベトナム人としては完璧ではない>ので、ベトナムの大学に来て「ベトナム語」を勉強しているというのでした。日本で生活した期間は、ベトナムに住んでいたよりも長いのですが、『国籍』はベトナムのままだと言いました。

「日本へ難民で着いた」 という彼の言葉を聞いて、私は大いに驚きました。そういう体験を実際にしていたベトナム人に出会うのは初めてのことでした。目の前に座っている彼が、わずか8歳の時ボートで祖国を出たという状況が、どれだけの苦難に満ちたものであったのか・・・、その時に、まだベトナム滞在が短かった私には想像出来ませんでした。

私は昨年五月に『屋久島』を訪問した時に、屋久島出身の知人から屋久島にベトナムの難民を乗せたボートが着いて、数年前までそれが海岸近くの公園に展示してあったということを聞きました。木造舟でしたから、古くなって朽ちてきてしまい、その時は展示してありませんでした。彼が言うには「よくぞあんな小さい舟で屋久島までたどり着いたものだ。」と思ったそうです。

以前私も、難民の人たちが乗り込んでいた写真を見たことがありますが、「船」ではなく小 さな漁船 というべき「舟」でした。その「舟」に立錐の余地も無いくらいに、多くの人たちが詰め込まれていました。「ベトナムのボート・ピープル」で調べれば、いかに過酷な状態で舟に乗り込んでいたかがよく分かるような写真がたくさんあります。

Wikipedia には、「ボート・ピープル」に関して、次のような記述があります。

『古い小型船舶に多数の難民が乗船するなどして、船内の環境は劣悪だった。水・食糧の奪い合い、死体を食べたり、海賊による略奪・襲撃にあったりもした。船に公海上での方向指示機能が無いことも多く、海難により多数の犠牲者が出ることもある。南シナ海では、タイの海賊や不良漁民によって金品を狙った強盗が行われ、時には強姦、殺人も起こった。タイの海賊は、ボート・ピープルが財産として持ち出した宝石や貴金属などをターゲットとした。 1981 年にベトナムを離れた避難民のうち、 7 割以上がタイの海賊に一度は遭遇したともいわれる。』

小さな漁船に乗り、ベトナムから脱出した「ボート・ピープル」については、以前 【ベトナム戦争当時にバナナを植えていた日本人】 Y さんからも話を伺ったことがあります。「彼らが何故祖国を捨てて、小さい舟に乗って危険な海に逃げ出さざるを得なかったのか・・・」というところに話が及ぶと、 Y さんの口調は厳しくなります。

しかし、日本にいる時から話には聞いていた、ベトナムから脱出した「ボート・ピープル」の苦難に遭った人が、今私の目の前に座っているのには、胸がふさがる思いがして、この時にはそれ以上詳しいことを聞く気持ちが出てきませんでした。

「日本ではどこの学校に通っていましたか。」「今何をしているのですか。」というような、日本での様子や、現在の近況を聞きました。「最近サイゴンに来たばかりなので、特に仕事はしていません。」と彼は答えました。

実は私が彼に会ったその時期は、その二週間後くらいに我が社の 『ベトナムマングローブ子ども親善大使』 がベトナムにやって来る頃でした。そしてちょうどその頃、もうすぐサイゴンにやって来る「映像制作関係」の知人がいました。私たちがカンザーへマングローブの植林活動に行く時には、その知人も私たちが活動する場所に近い所で、 「マングローブ林」 「エビ池」 を撮影したいという計画を立てていました。

それで、彼が私に「誰か、日本語の出来るベトナム人を探して欲しい。」という依頼をして来ました。私もこころ当たりを探していましたが、なかなかいませんでした。この時目の前にいる Dat くんを見て、(この人がいいな!)と思いました。

それで、彼にその件をお願いすると、「ボクで良ければ、喜んで引き受けますよ!」と快諾してくれました。そして私達「親善大使」の生徒たちがカンザーに行く同じ期間に、 Dat くんも 映像制作関係の知人に同行してカンザーに入って来ました。

ただ現地では私たちが行動する区域と、彼らが取材対象にしている場所は違うので、ほとんど会うことはありませんでしたが、一度だけ「エビ池」の場所で鉢合わせしました。私がその「映像制作」の知人に「 Dat くんはどうですか。」と聞きますと、「いやー、日本語もベトナム語も流暢に出来るし、大変助かっていますよ。」と喜んでいました。

その後、彼とは二ヶ月ほどの間時々会っていましたが、ある時から全く連絡が取れなくなりました。 『日越喫茶・ひろば』の友人が言うには、「どうも日本に帰ったらしいようです。」と言う話でした。

さらに続けて言うには、「 Dat くんを知る人が五区の Cho Lon( チョー ロン ) の市場】 にいるそうなので、一度そこに行って連絡先を聞いてみましょうか。」というので、一緒に行くことにしました。

この【 Cho Lon 】という地名は 、 Cho が「市場」、 Lon が「大きい」という意味で、その名前の通りその地区には、「大きい市場」があります。そして実はこの地区は、南部に居住している 華人 の多くが住んでいる場所としても有名です。

二人でバイクに乗ってその 【 Cho Lon 】まで行きました。市場の中は雑然としていました。エスカレーターもありましたが、とっくの昔に壊れているようで、エスカレーターの階段には、荷物が階段状に山積みされていました。

その市場の中にある雑貨屋さんのような店に、私の友人が連れて行きました。「この店に Datくんの知人がいるのですよ。」と言うのでした。それでその中で働いている若い女性に「 Datくんを知 っている?」と聞きますと、「知っているよ。」と答えてくれました。

それを聞いた私は大変嬉しくなり、「今 Datくんはどこにいるの。」と聞きましたら、「日本にいますよ。」という返事でした。「次はいつサイゴンに戻るの?」とその女性に聞きますと、「毎年テトの時には帰って来るみたいですよ。」と答えました。

それを聞いた私は大変嬉しくなり、「もし Datくんがテトの時にベトナムに帰って来たら、私に連絡するようにして下さい!」とお願いして、私の電話番号を書いた紙を渡してそこを離れました。しかしそれから最近に至るまで、その女性から私の携帯に電話は掛かって来ませんでした。

それから 14年の歳月が流れました。Datくんのことは私の記憶の中に留めてはいましたが、彼との連絡を取る術がないままでした。しかし、5月の末に意外な形でまた消息がつかめました。

5月末に、元『ひろば』の経営者の私の友人が日本に帰る用事が出来て、空港に行きました。そしてその空港の中を歩いている時に、彼に話しかけて来た人物がいました。それがDatくんでした。私の友人は意外な再会に大いに喜び、すぐその場から私にも電話を掛けて来てくれました。

その時、夜の 11時頃でした。私の友人が「今Datくんと空港で会っているよ。今から電話を代わるから。」と言って、Datくんに携帯電話を渡して話を繋いでくれました。私も突然そのようにして彼とまた連絡が取れるとは思いもしなかっただけに、大いに驚きました。

しかし、この時はもうすぐ二人は機内に入る時間が近付いていた頃でしたので、「また日本からベトナムに帰って来た時に、ゆっくり会いましょう。」と言って、その場では少し話しただけで電話を切りました。電話を切った後も、 Datくんと実にひさしぶりに連絡が取れた嬉しさの余韻が続いていました。

Datくんはその時「一週間ほど日本に滞在して、またベトナムに戻りますので、その後会いましょう。」と言っていましたが、最近ベトナムで始めた仕事が忙しいらしく、すぐには会えませんでした。そして空港での電話から一ヶ月ぐらいして、七月の初めにようやく会うことが出来ました。

会った場所は、最近私が行きつけの 路上屋台『 SUSHI ○○』 です。最近路上の屋台で友人と会う時には、そこしか行かなくなりました。、 Datくんもこの店の名前は初めて聞くようで、事前にその住所を詳しく聞いてきました。

私が先に着き、しばらくして、 Datくんがバイクで着きました。ある一人の男性がバイクから降りでマスクを外した時、すぐに彼と分かりました。実に14年ぶりの再会でした。少し太ったような感じでしたが、あの当時の爽やかな印象の顔立ちは昔のままでした。

お互いに「いや〜、本当にひさしぶりですねー!」という言葉が出て来ました。日本でも、 14年間も会えなかった友人と再会出来ることは稀でしょう。いわんや異国においては、その本人を知る人が少ないだけに、本人との連絡が取れないまま音信不通になってしまいます。それだけに、、Datくんとここで、このように再会出来たこと自体が信じられない思いがしました。

私たち二人は最初に先ず、 <再会の乾杯!!> をしました。私が「今何歳になりましたか。」と聞きますと、「 39歳です。もうすぐ40歳ですよ。」と答えました。あの時「25歳」だった『青年』は、もうすぐ40歳になろうというのです。やはり、「14年の歳月」が矢の如く流れていました。

私たちの話は、 14年前にカンザーに行った時のことや、あの当時に『喫茶・ひろば』で出会った人たちのことに話が及びました。私がDatくんの消息を知りたくて 【 Cho Lon 】の市場まで行ったことを話しますと、彼は「えーっ、そうなんですか!」と、初めて知ったという表情をしました。

そして話は自然と、彼がベトナムを両親と脱出した「ボート・ピープル」の話になりました。 彼は8人兄弟の5番目だそうですが、全員の兄弟がこの時脱出出来たわけではないそうで、この時一緒に行けなかった兄弟たちは、後に飛行機で日本に着いたと言います。

「ボートの中はどうでしたか?」と聞きますと、「すし詰め状態だったような記憶があります。」と答えました。ボートに乗ってサイゴンを出た時には彼は8歳だったので、鮮明には覚えていないのでした。しかし、「大変辛かったという記憶はあります。」と言うのです。

Wikipedia にも、暗い海の上で漂っているボートに「すし詰め」状態で多くの人が乗っている写真がありますが、 Datくんもおそらくあの写真と同じか、またはそれ以上に苛酷な状況下に置かれていたことは間違いないだろうと想像しました。

しかし幸運にも、サイゴンをボートで出てしばらくして、アメリカの船に救助されて、日本に送り届けられて、長崎にある「難民収容施設」に着いたということでした。その時から、彼の日本での生活が始まったわけです。しかし、慣れない異国で様々な苦労を経験しただろうなーとは想像出来ます。

彼にその時のことをちらっと聞いた時、彼は暗い表情は出さずに、務めて明るくしていました。しかし、せっかく 14年ぶりに再会したのに、その当時のことをDatくんに聞くのは、彼にその時の辛い記憶を呼び起こしてしまうだろうと思い、それ以上のことを聞く気持ちにはなれませんでした。

「もう結婚したの?」と聞きましたら、「ええ、ベトナム人と結婚しました。今2人の子どもがいますよ。」と嬉しそうに言いました。彼は今、「水道関係」の会社に勤めているそうで、仕事も安定している様子でした。

14年経った今に至るまで、私が彼のことを忘れられなかったのは、彼には 「並の日本人以上に義理堅く・礼儀正しい」 ところが有ったからです。まだ25歳の若い、あの当時にしてそうでした。実はこの日には、カンボジアからその元「ひろば」の友人がサイゴンに来ていたのですが、 Dat くんは 「以前、大変お世話になりましたから・・・」と言って、頑として私達にその場の支払いをさせてはくれませんでした。他にいた私の友人たちも、大いに恐縮していました。

偶然ながら 14年後に再会出来た Dat くんは、「義理堅さ」も「礼儀正しさ」も昔のままでした。彼は今、生活の拠点はサイゴンに置いていますので、これからもまた私達は時々会えることでしょう。

※春さんは1997年春よりホーチミンに駐在しています。今ではすっかり現地の人となって、見分けもつかなくなっています。春さんに質問や相談があればメールをお送りください。
info@te-campus.com ※件名を「春さんに質問!」にしてくださいね。 尚、パソコンからのメールを受信できない設定にしていると、春さんからの返信が届きませんのでご注意ください。




「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■  松井秀喜さんに “ベトナムの娘”から感謝の声  ■

29日に米ニューヨークのヤンキースタジアムで引退記念式典に臨む松井秀喜氏(39)に、ベトナムから感謝の思いが寄せられている。

松井氏は現役引退前までの12年間、親を亡くすなど家庭の事情で学費に困っていたベトナムの子供たちに里親として奨学金を送り続けてきた。「松井さんのおかげで勉強できた」。松井氏の思いは約20人の子供たちに将来への希望を与えた。支援を受けた1人の少女は松井氏のように世界で活躍することを夢見て、今も勉強を続け ている。

 「松井さんの活躍のおかげで多くのベトナムの子が助かった。本当に感謝している。お疲れさまでした」

ベトナム・ホーチミン市の女子大生、フン・ホーティ・チャさん(18)は松井氏の野球人としての区切りに特別な思いを抱いていた。フンさんは中学生のころから松井氏の奨学金で勉強に打ち込んできた。

支援は、現地の窓口となっている日本語学校を通じて受けていたが、当初は里親が誰なのか知らされていなかった。毎月、自分や家族の近況、勉強の内容、テストで良い点が取れた喜びをつづった里親あての手紙を送り続けた。手紙は松井氏に届けられていた。

松井氏は平成12年、地元石川県の「北陸ベトナム友好協会」(金沢市)を通じて奨学金を送り始めた。ベトナムを訪問した父の昌雄さんから、学習意欲があっても貧しさから進学をあきらめる子供が大勢いることを聞かされたことがきっかけだった。

「1人でも多くの子供が学校に行ければうれしい」。松井氏は15年(2003年)の米大リーグのオールスター戦前、奨学金支援に込める思いを語っていた。昨年夏までの約12年間、フンさんら約20人に奨学金を送り、その中には孤児や父親を亡くした子供もいた。

この間、松井氏自身は左手首骨折などのケガに悩まされ、順風満帆といえる状況ではなかった。北陸ベトナム友好協会の林敦会長(78)は「自身が苦境に立たされたときも、ずっと支援を続けてくれた。子供たちにもそんな心は伝わっていると思う」と語る。

「支えてくれた人が、有名な野球選手だと知って驚き、励みになった」。フンさんは1年前、日本語学校側から里親が松井氏と聞かされ、感激したという。

今春からはハンバーガーショップでアルバイトをしながら、大学で英語を勉強している。将来の目標は通訳。「米国で松井さんのような大リーガーの通訳をする機会があればうれしい」と声を弾ませた。

〜産経 ニュース〜

◆  解説 ◆

松井選手の引退の前日に、日本の新聞にこの記事が載りました。今まで日本の新聞をここに載せたことはありませんでしたが、この記事を読んで実に感動し、今回敢えて載せることにしました。

私はこの記事を読んで、松井選手がベトナムの子供たちに里親として奨学金を送り続けてきたのは12年間にも及んでいたことを知りました。ということは、2000年頃からベトナムの恵まれない子どもたちへの奨学金の支給が始まっていたということです。

私が、 「ベトナムの経済的に恵まれない生徒たちを支援する団体」 から、「生徒たちがベトナム語で書いた手紙を日本語に翻訳してほしい。」という依頼を受けて、「いいですよ。」と、それを引き受けたのは2002年頃だったと思います。ですから、その時すでに2年経っていたわけです。

私が日本語に翻訳していた時にも、生徒たちは自分に奨学金を支給してくれている人物が、あの有名な「松井選手」であることは一切知らない様子でした。ただ一人の里親に対して、普通にお礼の言葉と、学校での成績などを報告していました。

私がその団体に「ここにローマ字で Matsui Hidekiとあるのは、あの松井選手のことですか。」と聞いた時、受付の人は「はい」とも「いいえ」とも言わずに、笑って下を向いていただけでしたので、おそらく「松井選手」がその団体に対して、(生徒たちには言わないように!)と口止めされていたのでしょう。

自分の里親がどんな人なのかを知らないまま、中学生の時から「松井選手」の奨学金で学校に進み、今や大学生になり、最近初めてそのことを知ったフンさんのような若者がいるわけです。その時のフンさんの “感激” は如何ばかりでしょうか。人並み以上に頑張る大学生になることでしょう。

それだけに、当時その手紙を翻訳していた私は、この記事の中の 『手紙は松井氏に届けられていた。』 という箇所 を読んで、ジーンとした深い “感動” をおぼえました。何故なら、私自身が翻訳したうちの何通かは、「松井選手」の手元に届いていたのだなあ〜と想像しているからです。

「松井選手」はさりげない行動や言葉の中に、多くの人たちを感動に包むインパクトを秘めた人物なのだなーと、つくづくと思います。遠いベトナムの地から、フンさんのように、そういう「松井選手」の人となりを慕う人たちが数多くいるのです。

そういう意味では、アメリカの大舞台でも “感動” “感激” を与えてくれた「松井選手」は、ユニフォームを脱いだ後もまた、いつでも、どこででも、 “感動” “感激”を与えてくれる人なのだと思います。



ベトナム写真館 バックナンバーINDEX