アオザイ通信
【2012年6月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<屋久島への旅 〜『有時』を共有する〜 >

五月初旬、私のかねてからの念願であった <屋久島> を訪問しました。「念願であった・・・」というのは、日本に帰国するたびに、私の同僚でもあり、友人でもあるNIさんと、ずいぶん以前から、「一緒に屋久島に行こうね!」と話していたからでした。そしてその屋久島が、彼の故郷なのでした。私には二度目の 『屋久島訪問』 となりました。

さらにはこの屋久島行きには、同僚の N 氏が熊本駅から私と同行してくれました。N氏も私と同じ熊本出身です。彼とは約三年前に、東京の浅草にある、あの有名なお好み焼き屋さん 『染太郎』 へ一緒に訪問した、懐かしい思い出があります。お好み焼き屋 『染太郎』に行ったのは、二人とも初めてでしたが、私たちは大いに感激しました。

私とN氏は、朝 10 時過ぎの 九州新幹線 に乗り込みました。新幹線に乗って鹿児島に着き、そこから鹿児島湾まで行き、高速船 「トッピー」 で屋久島までの移動計画です。関西に居のあるNIさんは、屋久島までは奥さんと一緒に飛行機で先に着いて、私たちを待っていてくれていました。

11 時を少し過ぎた頃に、私たちは 鹿児島中央駅 に着きました。熊本駅から何と、わずか一時間足らずで到着しました。新幹線が走っていなかった当時に、 熊本⇒鹿児島間 に要した時間を知る私には、大変な速さでした。そして鹿児島湾に着き、ちょうど 12 時発の高速船 「トッピー」 に乗り込みました。

その船の中に座って、鹿児島湾の海の上を船で走りながら進んでゆく時に、私は今からちょうど 13 年前に、屋久島を初めて訪問した時のことを思い出していました。あの時には飛行機で行きました。そして最初の屋久島訪問時には、 「マングローブ植林行動計画」 向後さん 、さらに二人のベトナム人の方が同行していました。

「森林保全局」 の局長・ Sinh さん 、そしてかつて 「ホーチミン市農業局」 に勤めていた Nam さん 。そのお二人です。 Nam さんは今、 Bien Hoa( ビエン ホア ) にある 「農林大学」 の先生をされています。

私の最初の屋久島訪問は、初春の頃にこの四人で行きました。まだ朝夕は寒く、車に乗って 「紀元杉」 まで着いた時には、その杉の根元辺りにまだ雪が積もっていたのを覚えています。私たちが泊まったホテルの部屋にもまだコタツが入れてあり、そのコタツを囲みながら、向後さんはある日の夜に、屋久島在住の作家であり、翻訳家でもあるHさんにも会われて、歓談されていました。

彼らベトナム人の二人を屋久島まで連れて行った目的の一つには、日本列島に在る日本の数々の自然美の中でも群を抜いた、屋久島の自然の豊かさを知ってもらいたいこと。二つには、屋久島に生息しているサルの扱い方を、カンザーにもいるサルの管理に研究・応用してもらいたいからということでした。

二人のベトナム人の方と朝から晩まで過ごしていて、幾つかの珍談・奇談もありました。屋久島の中では当然ながら、朝から晩まで日本料理しか出て来ません。ベトナム料理などはホテルでも、外に出てもどこにもありません。それで彼ら二人もやむなく毎日それを食べていました。

しかし、日本料理は全般的にベトナムの人にとっては <薄味> と感じるようで、そのままで食べるには物足りないような様子でした。 Nam さんは卓上に置いてある醤油や、胡椒や、アジ塩などの調味料類を手に取って、少量を手の平の上にこぼして舐めていました。 Sinh さんにも同じように舐めさせました。

そしていろいろな調味料類を舐めた後に、「これだ!」と二人が頷いて、ニコッとした顔で Nam さんがある一つの小瓶を手に取り、それを私たちに見せました。その小瓶に貼ってあるラベルには、 『七味唐辛子』 と書いてありました。

ベトナムでは生のまま丸ごと一本の唐辛子や、一本の唐辛子を薄くカットしたものや、すり潰した唐辛子、酢に浸した唐辛子などが普通にテーブルの上に置いてあります。私がベトナムに来た当初は、薄く切った唐辛子を二・三片口に入れただけで、唐辛子のあまりの辛さで二十分くらいは舌が痺れるように痛くて、食べ物の味が分からなかった思い出があります。舌はヒリヒリするし、汗は出るし、水を何杯も飲みました。

しかし馴れというのは不思議なもので、その後一年くらい経つと、昼飯のオカズを食べる時に、一緒に生の唐辛子を五・六本食べても全く平気になりました。むしろ、オカズと一緒に唐辛子をかじって食べないと、物足りなく思うようになりました。(ただし、やはり唐辛子の過度の摂取は体に良くないということを、後で私自身が身をもって知りました。)

それでベトナム人が日本に来て、初めて日本料理を食べた時に、その味の薄さにすぐには馴れないだろうな〜とは容易に想像出来ます。しかし、日本では普通のレストランや食堂には、生の唐辛子も、すり潰した唐辛子もないのです。乾燥した 『一味唐辛子』 や『七味唐辛子』があるだけですね。

母国で唐辛子を使った料理の味に馴れていた二人の舌には、薄味で物足りなかった日本料理なのですが、ようやく母国の味に近づけてくれる調味料『七味唐辛子』に出会いました。それ以来この『七味唐辛子』が二人の大のお気に入りになりました。

屋久島滞在中の二人の食事風景を見ていましたら、味噌汁にも入れます。浅漬けのタクアンやキュウリの漬物にも振りかけます。さらには、ブリの刺身にもその刺身が真っ赤になるくらい上からかけていました。ふりかけないのは白ご飯だけです。

とにかく、出された料理ほとんどに ( これは薄味だな・・・ ) と感じたら、『七味唐辛子』をバンバン振りかけていましたね。二人で一本の『七味唐辛子』を奪い合うようにして交互にかけていましたので、一回の食事だけで卓上の『七味唐辛子』は中身が空っぽになったのでした。向後さんと私は驚き、呆れ、笑って見ていました。

そしてその屋久島滞在の中で、このお二人のベトナム人が私たちに向かって、

 「信じられない!ベトナムではこういう光景は見たことがない。」

と驚いていたことがありました。

屋久島の山の中を流れる、あまりに清冽な川の美しさを見た時の彼ら二人の表情は呆然としていました。(これは何だ・・・!)という顔つきをしていました。そこにはふだん濁った色をした川しか見たことがないベトナムでは、まさに【信じられない光景】が現れていました。

屋久島の川の水は、そのあまりの透明さに太陽の光が川の中の奥深くにまで射し込み、川底の石までがキラキラと光り輝いていたのでした。私の故郷・熊本にも 『菊池渓谷』 という自然美の名所がありますが、ここまでの川の透明度はありません。

日本人である私自身が驚いたくらいですから、いつもメコンデルタの濁った色をした川しか見慣れていない彼ら二人からしたら、信じられない光景だったのは間違いありません。そして今でも二人に会う時、あの『屋久島の思い出』を懐かしそうに語ってくれることがあります。二人にとっては、やはり思い出深い、印象に強く残る『屋久島』だったのでしょう。

そして高速船は、午後 1 時 45 分に宮之浦港に着きました。船に乗っている間は、大きな揺れもなく、外は快晴で、種子島も見えたりして、快適な船の旅でした。 ( いよいよ屋久島に着いたのか〜 ) と、私には感慨深いものがありました。目の前には、屋久島の高い山々が、海岸近くまでせり出しているような光景が現れました。

高速船が岸壁に着き、二度目の屋久島への第一歩を踏みしめました。波止場の岸壁に、NIさんの奥さんと、お姉さんが私たちを迎えに来ておられました。お二人ともにこやかな笑顔で挨拶されました。私たちはお姉さんとお会いするのはこの時が初めてでしたが、NIさんに似て、明るく、快活な方でした。

お姉さんの家まで車で行くことになりました。そこにNIさんが待っているのでした。十分もしないうちに着きました。家の中にNIさんと二人のお姉さん、そしてお孫さんたちがおられました。NIさんに聞けば、何と七人兄弟ということでした。

私たち二人が通された部屋には、二人ぶんのお昼ご飯がすでに用意されていました。そのオカズには、何と飛び魚の干物がありました。サツマ揚げもありました。お味噌汁の中には、根曲がり竹が何本も豪快に入れてありました。屋久島ではあれが普通なのか聞き忘れましたが、私は初めてあのような味噌汁を味わいました。私たち二人とも船中では昼食を摂っていなかったので、大変美味しく頂きました。

そして食事を終えて、レンタカーを借りて島内への周遊に出発。車はN氏が自ら運転します。彼の運転技術はプロ級の腕前です。屋久島は上から見ると、ちょうど五角形の姿をしています。太古の火山活動の結果、偶然にそうなったのでしょうが、これも私には神秘的に思えます。今も造山活動をしているといいますから、まさに 『生きている世界自然遺産』 なのでしょう。

出発地点はその五角形の辺で言えば、右上の辺上にある 『宮之浦』 。そこから時計回りに車でグルリと下に回りました。屋久島は車で回るには、実に分かりやすい地形をしています。周囲をぐるりと回っても 130 kmぐらい。車で三時間ぐらい走れば、また元の場所に帰り着きます。

私は今回の『屋久島訪問』にあたっては、白紙の状態で臨みました。何も準備しませんでした。『屋久島』の資料を探せば、本を買えば、インターネットで調べれば、それは容易に手には入ります。しかし、敢えてそうはしませんでした。資料を読めば、本を買えばどうしても、「ここに行きたい!あれを見たい!」という欲が出て来ます。

屋久島を故郷とするNIさんの時間の流れに合わせて、 <川の流れのように> 過ごそうと思いました。今回の『屋久島訪問』の大きな <目的と計画> は、NIさんの故郷で同じ空間、同じ時間を共有すること。・・・それが、NIさん、N氏そして私の三人が初めから抱いていた気持ちでした。いわば 「無計画という計画」 なのでした。

ですから、レンタカーを借りても、「どこに行きたい!」「あそこを見たい!」「ここは是非記念に行っておきたい!」という希望は特になく、ただただ屋久島の周りを縁どる国道沿いに車を進め、車を停める時も、「では、ここらで一服しましょうか。」くらいの気持ちで降りました。目的地を決めて行くと、どうしても気分的に急いでしまうからです。

何故そうしたのかと言えば、それは私たち三人の古い交友歴にまで遡ります。NIさんとは実に三十年近く、そしてN氏とは二十五年近くの永い付き合いがあるからです。特に私が日本で二人に会うことが出来るのは、一年に一度あるか無いかであり、三人が同じ場所で、同じ時間を二日も三日も過ごすことは本当に珍しいことでもあり、おそらく今後もあるかどうか分からないだろうな〜と思いました。

それだけに、ただ三人が共にそこにいれば、特に何をしなくても十分な 『有時(うじ)』 のひとときを共有出来るからです。

いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。

【時間はすなわち存在で、存在はすなわち時間である。】

= 道元 禅師 =

あの文化勲章受章者にして、偉大な数学者でもあり、 小林秀雄氏 との対談集 「人間の建設」 でも有名な 岡 潔博士 が書かれた文章に、私は高校三年生の時に初めて出会い、 その著作を読みました。そしてこころの底から深く感動し、大きな影響を受けました。

その当時読んだ岡博士の本には、実に詩的な、哲学的な、印象的な、感動する言葉が数多くあります。今でも、岡博士が書かれた本の一冊の中で、大好きな一節がふと口を突いて出ることがあります。

「理想とか、その内容である真善美は、私には理性の世界のものではなく、ただ実在感としてこの世界と交渉を持つもののように思われる。芥川 龍之介は、それを『悠久なものの影』という言葉で言いあらわしている。・・・」  

 ― 「春宵十話」 情操と知力の光

その岡博士の著作の中に、道元禅師のこの言葉『有時』が出てきたのですが、それ以来この言葉は、私にとって忘れられない言葉になりました。岡博士は道元禅師の著作 <正法眼蔵> の中に出て来る『有時』のことを、

“竹の節のようにぎっしりと詰まった時間の状態”

であると説明されていたような記憶があります。

人はふつう一日・一週間・一ヶ月・一年を時間の流れに流されながら、竹の筒のガランドウの空白のように、中身が詰まっていない状態で生きてゆきます。そしてそういう時間の流れの中で過ごしたことは、あまり覚えてもいないし、何の印象も甦りません。

しかし、後で振り返る時にまざまざと、ある日、ある時、ある一瞬、空白を繋ぐ竹の節の部分のように 「鮮やかな記憶と共に思い出す、充実した時間」 が、自分の記憶のなかから浮かび上がることがあります。それを道元禅師は 『有時』 と呼んだのでした。私たちも、何年・何十年か後に振り返る時に、それをこの屋久島で共有できうれば、それで十分だと思うのでした。

屋久島空港を通り過ぎ、途中でアイスクリームの美味しい店でそれを食べ、ゆっくりと車を走らせて、とある大きなホテルに着きました。 「屋久島いわさきホテル」 という、地元では有名なホテルとのことでした。ホテルに着くまでの坂道沿いには、見事に美しく刈り込まれた生垣がずーっと続いていました。

ホテルの中に入って驚きました。先ず一つは、ホテルの広いフロント前に、天井に届くまでの高さの巨大な 『屋久杉』 のオブジェが、デ―ンと据えられていたことです。見た感じは、まったく本物の杉のような感じでした。高さは何メートルあるのか分かりません。そのオブジェの前に説明板がありました。

<屋久杉オブジェ>

「この屋久杉のオブジェは、屋久島の代表的な縄文杉・紀元杉などを基に、アメリカの造形美術の専門会社・R社がオリジナルなデザインで造った人工物です。・・・

高さ: 13.5m  最大幹周り:10m  総費用:約7,200万円」                    

費用まで書いてある念の入れようには、思わずみんな笑いましたが、ホテルのホールに大きく、高く立つ、その姿は圧巻でした。ついその幹を撫でたい気持ちになり、足を近付けましたら、さらに<注意書き>がありましたので、手を引っ込めました。

「尚、このオブジェは大変精巧に造られておりますので、直接触れますと変形・変色したり、破損の原因となりますので、手で触れないようお願い致します。」

このホテルに来たのは、ここの喫茶店にある大きなアトリウム越しに、屋久島の代表的な山々が、パノラマのように美しく見えるからでした。確かに見えました。しかも快晴の天気の中で、鮮やかに屋久島の高い山々が、緑に映えていました。屋久島は雨が多いのですが、N氏が自ら「私は晴れ男なんです。」と言った通りに、この日は晴れていました。

アトリウム越しに見える山々の右端に聳え立つのが、 「本富岳 (モッチョムだけ):944m」 。その左にある、尖った形の山が 「耳岳 (みみだけ):1,202m」 。さらにそのまた左に、この二つの山よりもさらに高い 「割石岳 (わりいしだけ)1,410m」 がありました。

ここから眺める光景は、ホテル自体が小高い山の上に建てられているおかげもあり、さらにちょうどこの時間帯にそれらの山々に夕陽が当たり、それは目が覚めるような、見事な光景を呈していました。そして私は知りませんでしたが、この 「いわさきホテル」 グループは、鹿児島県では有名なホテル・グループだということでした。

そのホテルを出る頃に、夕陽がだんだんと陰って来ましたので、今日の宿に行くことにしました。私はてっきり『民宿』に泊まるのだろうと思っていたのに、NIさんの義理のお姉さんの家の前で車が停まりました。今日の宿は、そのお姉さんの家なのでした。

私たちが畳に座ると同時に、食卓の上に次々と夕食のオカズが運ばれてきました。出てきたオカズの中で、私が驚いたものがありました。それは 『旭ガニ』 でした。「今日たまたま市場に行ったら、ふだんはめったに無いのに、運よくこの『旭ガニ』があったので買って来たんですよ。」とお姉さんが言われました。

しかしこの時卓上に出されていた『旭ガニ』は、その見事に美しいまでの赤い色といい、大きさといい、カニ味噌の美味しさといい、私が今まで食べてきた『旭ガニ』とは格段に違いました。以前私は宮崎でこの『旭ガニ』を食べたことがありましたが、宮崎の『旭ガニ』は甲羅の部分は大きくても、胴体は小さかったですね。

それがこの屋久島で出された『旭ガニ』は、甲羅も胴体も大きいのでびっくりしました。胴体を手に取って見ると、中身がびっしりと詰まっているのが分かります。宮崎で食べた『旭ガニ』は両手で簡単に甲羅が外せて胴体が剥けましたが、この屋久島の『旭ガニ』は甲羅も胴体も硬く、大きいので、両手を使ったくらいではどうしてもそれが二つに離れませんでした。無理をすると、手を怪我しそうでした。

それでやむなく、頑丈なフォークを甲羅と胴体の間にズブッと差し込んで、ようやく二つに離しました。皆んな中身がなかなか出せないので、私が手伝ってあげて同じ方法で甲羅を外してあげました。それからカニを食べ終わるまでは、みんなモクモクと無言で『旭ガニ』と格闘していました。

この『旭ガニ』は、絶品というべき味でした。私の田舎の人たちは、秋になると今でもモクズガニ (私の田舎では、 ヤマタロウガネ と言います。カニはガネと呼びます。姿・形はあの上海ガニと同じです。)を食べています。以前よりは少なくなったそうですが。

しかしこの日に食べた『旭ガニ』は、その大きさといい、形の美しさといい、茹で上げた時の鮮やかな色の赤さといい、カニ味噌の多さといい、私がかつて田舎で食べていたモクズガニを超えていました。

ただモクズガニも、素朴なカニの美味しさがあります。特にモクズガニのメスが美味しく、甲羅を外すと、赤い卵が詰まっています。私の故郷では、モクズガニのオスは 「フンドシを穿いている。」 と言い、メスは 「スカートを穿いている。」 といいます。甲羅を裏返すと、腹の形がまさにそういう形状をしているからです。それで、オス・メスを見分けます。誰がそういう表現をしたのかは知りませんが、今でも感心しています。

私が子どもの時には、親父が秋になると川にカニを獲る頑丈なワナを仕掛けていて、朝早くからそれを引き上げに行くのが、学校に行く前の楽しみでした。時には、一つのワナの中に、一人では川から抱え上げられないくらいの、多くのカニが取れたことがありました。

秋にカニが獲れる時季には、毎晩カニを食べていましたので、いかに上手にカニを食べるかも親父からうるさく教えてもらい、身一つ残さずに食べる方法を自然と覚えました。少しでも無駄に身を残していたら「モッチャナカ (もったいない)!」と言って厳しく叱られました。それだけに、この『旭ガニ』も身一つ残さずに食べ尽くしました。

それを食べ終えて、ようやくみんなビールを手に持ち『乾杯!』の音頭をあげました。しかしこの時にお姉さんが作って頂いた料理は、そこらの居酒屋顔負けのメニューの数々でした。私たちを迎えるにあたり、 (どれだけの準備をして頂いたのだろうか・・・)と想像して、胸が熱くなりました。

さらにはこの日NIさんとそのご家族に歓迎して頂いて、私たちを囲んでの宴会モードになった時に、お姉さんの息子さん・Kくんのビデオを見せてもらいましたが、私は本当に感激しました。彼の趣味は何と 『春日流日本舞踊』 だというのです。小学生の時から始めたというのでした。

Kくんは今高校生で、ふだんは鹿児島市内に住んでいます。しかし、たまたま私たちが今回屋久島を訪問したこの時に帰省していました。身長は 180cmを超えていて、体格も良く、私たちと初めて会った時にも、ニコニコした笑顔で出迎えてくれました。その彼が「日本舞踊が趣味」というので、「それを写した映像はある?」と私が聞きますと、「有ります。」と答えましたので、そのビデオを見せてもらったのでした。

そのビデオを見て、私は大変驚きました。手の振り付け、腰の据わり方、体全体を使っての貫禄ある舞踊。「これが高校生の演舞だろうか!」と、実に驚きました。わずか高校生の年齢ほどで、そこまでの日本舞踊のレベルに達した芸を見たのは初めてでした。しかも今目の前に座っているKくんは素顔のままですが、ビデオの中では化粧をして登場していたので、最初は別人かと思いました。

多くのお客さんの前で、高校生であるKくんは日本舞踊を披露していたのでした。まだ若い高校生の年齢で、多くの観衆の前で、そこまでの芸を身につけて、堂々と踊っているKくんは (何とすごい高校生なのだろうか。)と、感心しました。

そして 2010年の夏に、 「ベトナムマングローブ子ども親善大使」 に参加して、ベトナムにやって来た、当時小学4年生だったHくんが、 「柳生新陰流の居合いの型」 をベトナム人学生の前で実演してくれた時のことを思い出しました。あの時は、ベトナム人の大人たちも学生たちも、初めて見るその居合いの型の実演に称賛しきりでした。

珍しい『旭ガニ』を食べ、お姉さんの美味しい手料理をご馳走になり、ビールも腹いっぱい飲み、Kくんの見事な『春日流日本舞踊』の踊りも見せてもらい、N氏と私は心地よく眠りに就きました。少し開けた窓ガラスの間から、涼しい風が吹いてきました。

翌日は曇り空の天気でしたが、雨は降りませんでした。カーテンを開けると高い、大きな、緑したたる山が目の前に聳えていました。それは私の故郷にある山よりもはるかに高く、大きく、裾野が広いものでした。ちょうどお椀を伏せたような形をしています。形は違うものの、私の田舎の山を思い出しました。

私が日本に帰った時に、最初に足を下ろすのは関西空港なのですが、熊本の故郷の山が視界に入った時にいつも、 (ああ〜、日本に帰って来たなあ〜)という実感がしみじみと湧きます。NIさんにそのことを話しますと、「自分もそうです。飛行機から屋久島の高い山々が見え始めると、故郷に帰って来た感を深くしますよ。」と頷かれました。

この日はみんなで、 『白谷雲水峡』 に行くことにしました。NIさんの友人の女性が自分の車を出してくれて、自ら運転して案内してくれました。その女性から頂いた名刺には、 「屋久杉加工工場T産業」 の社長と書いてありました。お土産屋さんも島内にお持ちでした。彼女が話される言葉の一つ・一つに、優しいこころ遣いを感じました。

一緒にNIさんのお姉さんたちも、車に乗り込みました。いろいろ道中の景色を説明してくれますので、車中が賑やかになりました。車はどんどん山の上へ登って行きました。はるか下には、宮之浦の町が見えます。窓を少し開けた間から、屋久島の森から空に放つ、木々の若葉のム〜ンとむせるような、いい匂いが車の中に入り込んできました。

車で山の道を半分ほどの高さまで登った時に、何と一匹の鹿が道路に出て、歩いていました。人間を全然警戒しないような動作で、ゆっくりと歩いていました。これが 「ヤクシカ」 だったのでした。実に可愛らしい姿をしていました。人が危害を加えないので、それを知ってか、道路をゆっくりと歩いていました。

しかし、現在この「ヤクシカ」は繁殖し過ぎているようで、聞いたところによりますと、今15,000頭くらいまで増えて来て、その結果最近では、名産のタンカンなどを食べる農業への被害や、杉などの林業への被害が及んでいるとのことでした。

私の田舎では田畑を荒らすイノシシを退治するために、私のおじさんが害獣駆除の免許を許されて、今から約 10年前からイノシシを獲っています。今までに獲ったイノシシは約百頭以上になるということですが、一番大きいのは、重さ百キロを超えていたといいます。そのイノシシを、四人がかりで軽トラックの荷台に載せたそうです。

そしておじさんは毎年ワナを仕掛けていましたが、今年は私もある日一緒に付いていき、初めてそのワナの仕掛け方をじっくりと観察出来ました。そしてそのワナを掛けてちょうど十日後に、今年も見事に 45kgのイノシシがそのワナに掛かりました。今回はその捕獲から、解体までを全部見ました。

45kgのイノシシの解体には私も付き合いましたが、解体の全てが終わるまでには約一時間半を要し、大変な作業でした。イノシシの体を覆う剛毛を、熱湯を胴体にくりかけながら、金属性のコテでゴシゴシとそれを削り落とします。それから解体作業が始まるのでした。そして最後にはその肉をみんなで分け合い、家に持ち帰り、イノシシの焼肉にして食べてしまいます。

そして車に乗って 30分ほどで、 『白谷雲水峡』に着きました。私は今回ここに初めて来ました。いや〜、驚きました。河原には大きな花崗岩の岩がゴロゴロ転がっていて、その中を屋久島の山の上から落ちて来た豊富で、清冽な水が流れています。川底までが透き通るような、水の清らかさでした。

ここは、 「5km白谷雲水峡原生林トレッキングコース」 のためのスタート・ゴール地点になっているのでした。ここから最初は、花崗岩の間を歩いて上ります。その横を流れるキレイな川を眺めながら歩きます。そして遊歩道に入り、 『二代杉』 の側を通り、途中では山の上から流れて来る清水を手のひらですくって飲みながら、有名な屋久杉の一つである 『弥生杉』 まで行きました。

『弥生杉』自体は、その杉の胴体の表皮は三分の一ほどが剥げていましたが、枝から出ている葉はまだ若々しいみどり色をしていました。『縄文杉』ほどの年齢はないようですが、それでも人間から見れば、気が遠くなるような歳月を、この山の中でひっそりと生きて来たし、今も生きているのは間違いありません。

そこの説明板には、『弥生杉』について次のように書かれていました。

樹高: 26.1m 胸高周囲: 8.1m 樹齢: 約 3,000年 標高: 710m

写真で全体を撮るにはあまりに杉の木が高過ぎるし、後ろに下がる場所もないので、どうしても一枚の写真には収まりませんでした。そしてここでもまたヤクシカに出会いました。森の中の木の葉を食べていました。我々を恐れる気配はなく、立ち止まってじっと見ていたらそのまま森の中に消えてゆきました。

道中はこのコースを同じように歩いている、多くの人たちに会いました。外国人の方もいました。どこから来たのか聞きますと、何とスイスから来たということでした。日本人でも「屋久島」まで来るのは、その移動距離において大変なのに、 (へえ〜、良くもそんな遠い国から来たものだな〜)と感心しましたが、良く聞いて見ると、日本に今留学中とのことでした。

我々はまた出発点の位置まで戻りました。お姉さん方が待たれていました。まだ 11時くらいでしたが、少し早目の昼食を摂りました。山に登る前に、T産業の女性社長さんが途中の店に立ち寄り、お弁当を買われていましたので、それを頂きました。

食べた場所は、花崗岩の大きな岩がゴロゴロとある河原の中です。目の前には、川底までが透き通って見える川が流れています。川の上には入山者が切符を買う管理棟があり、当然私たちがそこで (今からお昼ご飯を食べようとしているな・・・)というのは見えています。

私は (こんなところで食べていいのだろうか・・・?)と思いましたが、NIさんもお姉さんたちも、大きい岩に腰掛けて、どんどん弁当の包みを開けてゆきます。地元の人が先陣を切ってそうしているので、(特に問題はないのだろう。食べ終えたら、みんなキレイにゴミを片付けて帰ってくれると思っているのだろうな。)と考えました。

後でこのことについてNIさんに直接聞きましたが、特に地元で顔が広いT産業の女性社長さんの「顔パス」ということではなく、そういうことを喧しく言う「屋久島人」はいないよとのことでした。何とも大らかな、屋久島の人たちであることでしょうか。その「大らかさ」のおかげで、部屋の中ではなく、屋外の最高の舞台でお昼ご飯を食べることが出来ました。

自然の花崗岩が椅子代わりになり、すぐ側を流れる清水で手を洗い、上から流れ落ちてくる滝のような川を眺め、水が跳ねて岩にあたり、その水が川に流れる音の協奏曲を聴きながら、お弁当のフタを開けました。頭を上に上げると、多くの巨樹の枝から若葉が芽をふいています。小鳥のさえずりも聞こえて来ました。

(ああ〜、何という時間だろうか・・・)

と、一瞬時間がその時停まったような感覚を覚えました。今振り返っても、みんなであの時、あそこでお昼ご飯を食べている一瞬の光景が脳裏に貼り付き、ベトナムに戻ってからも剥がすことが出来ません。

特にNIさん、N氏、私の三人は、ふだん日本でも三人一緒に会うことは少なく、それが、あの日、あの時に、同じ場所で、同じ時間を共有出来たというのは珍しいことでした。しかもそれが、九州から少し離れた『屋久島』という場所で・・・。

この後は、屋久島の形で言えば、五角形のほぼ頂点の場所にある、「志戸子ガジュマル公園」に行きましたが、そのガジュマルの木の大きさにはびっくりしました。ホーチミン市内にも、大きなガジュマルの木が公園内などにありますが、同じ場所には数本くらいしかありません。

しかしここにはガジュマルの大木が群生していました。園内にあった説明には、「屋久島がガジュマルの分布の北限である。」と記してありました。その大きさは、私がベトナムで今まで見たものよりも、はるかに大きく、高いものがありました。聞けば、「 300年くらいの木もありますよ。」という話でした。

そして次に、海ガメの産卵地で有名な 「いなか浜」 に行きました。五角形の形の左の斜辺の部分にあります。この時海がめは砂浜にはいませんでした。砂浜をみんなで歩きましたが、ピラミッド型に砂が盛り上っている所が三つほどありました。N氏が言うには、「これは海がめが産卵した後ですよ。」

ちなみにN氏は 「食育インストラクター」 としても活躍していて、 『日本人の食の事情』 には大変詳しい知識を持っています。その彼がそういうので、我々は信じました。私たちは、海ガメがこの「いなか浜」に毎年産卵に来る光景を想像するだけで十分でした。

それ以上に、三人そろってこの砂浜を踏みしめていますと、以前私がNIさんに「いつか屋久島の空に輝く星を見上げながら、酒を飲みながら、砂浜を歩きたいものですね。何も話す必要はありません。」と言ったその一つが実現しました。まだ夕方なので星は見えないし、酒も飲んでいませんでしたが、砂浜を三人で黙々とただ歩きました。

そして実はN氏は屋久島空港からこの日の夕方の便で、屋久島を去るのでした。それを知った女性社長さんが「ではあまり時間が無いけれども、是非 <屋久島環境文化村センター> にある、屋久島紹介の映画を見に行きましょう!」ということでそこに連れて行ってもらいました。

「文化村センター」の展示ホールの館内に入って驚きました。そのスクリーンの大きさにです。縦が 14m。横が20mはあるというのです。映画の題名は、 「屋久島〜森と水のシンフォニー〜」 。そこに映し出された映像は、実に美しいものでした。特に空撮の映像は、屋久島の春夏秋冬を美しく撮っていました。音楽も素晴らしかったです。

そして、この映画の最後に出てきたナレーションに、私は深く感動しました。

◎屋久島の水は、滴る水もみどり色。

◎地球上で一つ。宇宙上で一つの屋久島。

「あの最後の映像に屋久島の『島民歌』を重ねたら、もっと感動が高まるでしょうね。」とNIさんに後に話しました。映像があれだけ素晴らしいだけに、屋久島の美しさを盛り込んだ、詩情溢れる歌詞が誕生すればいいな〜と思いました。もしかしたら、豊かな文才を持ったNIさんの手に成る、『屋久島の歌』が、いつか完成するかもしれません。

そして、N氏は私よりも一日早く屋久島を去りました。私は夕方にNIさんのお姉さんの家の近くを、一人でぶらぶらと歩きました。すぐそばに 「宮之浦川」 が流れています。川幅も結構広く、数人が魚釣りをしていました。その奥には屋久島の山々が夕陽に映えていました。

それをしばらくじーっと見ている内に、今のこの気持ちを、屋久島訪問の思い出として、熱が冷めないうちに忘れないようにしようと思い、たまたま胸に入れていた白紙片に書き留めました。

・・・ 屋久島を故郷とする人が、故郷に帰る時に対峙するのが、まずその高い山々なのでしょう。
あの高い山々を見て最初に、「屋久島人」はこころ揺さぶられるのでしょう。
・・・ 神々しいまでの、深い緑を湛えた森。森の中を吹き渡る風の涼しさよ。
その深い森の中で生きる、鹿やサルたち。
「トトロの森」そのままの森が存在していました。
・・・ 山の裾野には多くの人が住んでいるような場所で、川底までが光り輝くような川は、世界広しといえども、おそらく屋久島だけでしょう。
屋久島以外にあれば、是非行って見たいものです。
・・・ そのような森・山・川を潜り抜けて、地上に溢れ出る水の美味しさを、普通に、あたりまえのように味わえる屋久島の人たちは、実に幸せというべきです。
人情 ・・・ NIさんの家にホーム・ステイして垣間見られた人情の温かさ、優しさ、明るさ。お姉さま方との話の中で垣間見られた、兄弟愛の深さ、仲の良さ。

酒屋のご主人と、ひさしぶりの再会を抱き合いながら「元気だったか!懐かしいな〜。」と喜ばれていた姿。今も脳裏に焼きついて離れません。

NIさんにとっての『屋久島』は、 <いつもそこに、自然にある「故郷」> なのでしょうが、やはり、私には 【屋久島は 日本の宝である。】 と 思えました。

N氏が屋久島空港から屋久島を去る時間ころになって、不思議にも雨が降り始めました。やはり、N氏は「晴れ男」だったのでしょう。夕食には、またまた珍しいのを出して頂きました。根曲がり竹の天ぷらや、飛び魚のから揚げでした。飛び魚のから揚げは生まれて初めて食べましたが、その長い胸ビレや尾ひれがカリカリとして美味しく、全部食べてしまいました。

そしてお姉さんが夕食後に思い立ったように、「そうだ!今から蛍を見に行きましょうか。」と言われたので、みんなで出かけましたが、やはりその雨で蛍さんもお休み中でした。見ることが出来ませんでした。

外はシトシトと雨が降る中で、この二泊三日の屋久島訪問を思い返していました。こころに残る印象的な思い出がぎっしりと詰まっていました。それを頭の中で整理してゆくうちに、深い眠りに就きました。

翌日は朝十時の高速船で、私は屋久島を離れました。NIさん、奥さん、そしてお姉さん、息子さんのKくんが見送りに来てくれました。高速船が出発する時間になり、私はNIさんと抱き合って別れました。最後に屋久島を離れる時に、フェリー乗り場の埠頭で、一旦は手を振ってみなさんにお別れの挨拶をしました。

船に乗り込んだ時に私が座った席は、波止場のほうが見えませんでした。それで船が出てすぐに、反対側の窓のほうに移動しました。すると、船の中にいる私の姿がおそらく見えるはずもないでしょうに、岸壁の上に立ち、私に向かって船が小さく見えなくなる瞬間まで、何度も何度も手を振っておられました。その四人の姿を、私もずっと見ていました。

しばらくしたら、四人の姿が小さく滲んで、波の中に吸いこまれてゆきました。

屋久島の
山 森 人と
別れ告ぐ




「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

交通安全のためのいくつかのアイデア

私は 3年間ベトナムに滞在しているが、ベトナム風の運転の仕方に何度も驚くことがあった。

最近は、喫茶店などでベトナム人も、毎日頻繁に起きる交通の混乱状態について話題にするようになってきた。今年の 2012年は、交通の安全の向上のために、道路交通法を整備し、交通ルールを引き締めようとする動きがあるからだ。現在の状況を見ると、確かにこの提案は極めて実用的で、大事な提案ではある。

しかし私は、交通の規則を整備するよりも先に、運転者の安全の意識向上を図るほうが良いのではと思う。誰でも覚えるのが難しい細かいルールや規則を導入するよりも、運転者等の態度を変えてほしいものである。

学校などでも、交通安全のスローガンを掲示し、ポスターを作り、路上や公園で交通安全フェアやパレードなどを行うことを考えてはどうかと思う。

あるいは、学生にスローガンが書いてある Tシャツを無料で配布したり、交通安全のモラル向上の教育のために、交通安全スローガンを学校の前の壁にペンキで描いたりしても良いのではないか。

最近ベトナムの若い人達の中には、変な英語のスローガンが印刷してある Tシャツを着ている人たちがいる。しかし、彼らはTシャツを買う前にそのスローガンをちゃんと理解しているのかどうか、大変疑問である。

むしろそういう意味のないスローガンよりも、「道路のほうを見て、私を見ないで!」とか、「何で自分の命よりも、携帯電話のほうが大事なの?」とか、「おしゃれのためなら、ヘルメットを被らなくてもいいの?」などのスローガンが描かれた Tシャツを着た方が、余程実用的だろうにと思う。

交通ルールを指示する標識よりも、 “愚かなドライバー” をテーマとする、面白い絵を描いて示すような逆転の発想をしては如何だろうか?「左折する時に、前後を見ないあなたは“愚かなドライバー”」「ライトをいつも遠くに照らしているあなたは“愚かなドライバー”」などなど・・・。

もし、可能であれば、交通安全についてのスローガンの募集、交通安全をテーマとした漫画や図画の募集などを行い、コンテストなどを開催するのも一つの方法でだろう。そして、そのような活動は、芸術好きな若者たちにとっては、格好の“創造のための遊び場”になるだろう。

そして、そんな“遊び場”が活気づけば、素晴らしい作品が沢山製作され、優秀な作品には賞金を出すなどの動きにも発展し、それらの作品が新しい商品となって、 Tシャツ、バッグ、帽子、カバンなどに印刷されて、老若男女を問わず多くの人が着用できるように、手頃な価格で販売してみても良いかもしれない。

オーストラリアでも、私は ショッキングなほど 面白い広告やポスターなど、交通安全のキャンペーンに関する興味深い取り組みにも出会ったことがある。こうした取り組みの主な目的は、交通安全の祈願の立場から飲酒運転などのような最も危険な行為をしない、また歩行中の携帯電話やメールなどを使用しない、そして人々のモラル向上と、交通ルールやマナーの高揚を目指すことである。

大事な家族や大切な多くの人々の命を守るために、交通事故の一掃と、一人一人の交通ルールの遵守と、意識の高揚活動こそが最も大切なことである。

STIVI  COOKE(教師、オーストラリア)

◆ 解説 ◆

日本に行ったベトナム人研修生たちが、十日、二十日、一ヶ月と経ち、街中を通り過ぎて行く時に、 ( あれ・・・? ) と、彼らが不思議に思う光景があります。信号のある交差点には、ベトナムにはどこにでも、いつもいる 【交通警察】 がいないからでした。

( ベトナムには至るところにいるのに、日本にはどうしていないのだろうか? )

それが、彼らの日本での最初の疑問の出発点になります。そこからベトナムと、日本の文化や、交通ルールの違いを徐々に知ることになります。

「日本は交通警察がいなくても、みんなが交通ルールを守るから、要らないのだ。」

ということを。

実際日本では、「警察が見ているから交通ルールを守るのだ。」という考えで、毎日車やバイクを走らせている人は稀でしょう。警察が交差点にいようがいまいが、「赤信号の交差点では停まる」人たちがほとんどでしょう。日本人は、まだ交通ルールの遵守の精神においては高いものがあります。

しかしこのベトナムでは、 40 km以上のスピードでバイクを走らせると危ないのです。なぜなら、交通ルールを守らない人たちが多いからです。私もバイクで走る時には、 40 km以上のスピードは出さないようにしています。スピードを出し過ぎると、大きな事故を避けきれないからです。

ですから、信号が青に変わったからといって、それを信じて「青信号になったから大丈夫だ!」と日本と同じ感覚で考えて、交差点にスピードを上げて突入して行ったら、まず大事故になるのは目に見えています。大怪我をします。命取りになります。

目の前の信号が青に変わっても、右を見ながら、左を見ながら、ゆっくりと交差点に入らないと危険です。事実、ベトナム人のドライバーが交差点ではそのようにしてバイクを、車を走らせて行きます。赤信号になっても平気で交差点に突入して来るバイクがいるのを知っているからです。

COOKEさんがこの記事の中に書かれているように、携帯電話を掛けながら、バイクを走らせているベトナムの人も少なからずいます。しかも、電話が鳴り出すと、彼らは突然停まります。後ろから走って来ているであろうバイクや車のことは、頭の中に思い浮かばないようです。道路の端にバイクを寄せる人のほうが少ないですね。非常に 【危機管理能力が弱い】 と言わざるを得ません。

私の知人でバイクに乗っている人が十人はいますが、そのうち七人はバイクによる大きな事故を経験しています。私自身も二年前に遭いました。私の場合は、前・右・左は注意して走っているのですが、猛スピードで走って来たバイクに後ろから追突されました。それだけに、このベトナムでバイクを運転する人たちは、くれぐれも 【事故には要注意】 です。

そしてこのベトナムでは、将来の地下鉄の計画も持ち上がっていますが、私はベトナムの人は今後もずっとバイク依存の社会の体質は変わらないだろうと考えています。何故なら、バイクを駐車場に預けて、そこからわざわざ歩いて地下鉄の駅まで行くことは良しとしない人たちが多いでしょうから。



ベトナム写真館 バックナンバーINDEX