アオザイ通信
【2011年7月号】

ベトナムの現地駐在員による最新情報をお届けします。

春さんのひとりごと

<いろいろな研修生たち>

その日も日本語を教えるためにバイクで会社まで行き、いつものごとくに教員室に入りますと、先生たちはもちろんですが、事務のスタッフまでがそこに全員集まっていました。そして、ベトナム人の社長がみんなの前で早口のベトナム語で喋っていました。

社長が教員室まで来て、全員を集めて話すということは普段あまりないことなので、 ( ははあ〜、何か研修生が問題を起こしたのかな・・・ ) と思い、私は後ろのほうで教材を揃えながら、ネクタイを締めながら、静かに聞いていました。

しばらくじーっと話を聞いていまして、「何が起きたのか?」については段々と分って来ました。その社長は一方的に早口で話した後、「この問題について対処の仕方について、みなさん方の意見を聞きたい。」と言って、数人の先生方や事務員さんたちに意見を求めました。ベトナム語を解さない日本人の先生には、日本語の達者なベトナム人社員が通訳してくれていました。

「この問題」というのは、日本で同じ会社に勤務する二人の研修生が、スーパーで「万引き」をしたということなのでした。そのことが原因で、日本の会社の社長が、「万引きした本人は勿論すぐ帰国させるが、ほかのベトナム人研修生たちも連帯責任でみんなベトナムに帰す。会社の名前を傷つけるような、そんな研修生たちは要らない!」とカンカンに怒っているというのでした。そしてベトナム側の社長にも、当然クレームが来ていたのでした。

その社長は、「近日中にすぐ日本に飛んで行き、日本の会社へのお詫びと、この問題へのより良い対処をして来る。でないと、すでに日本で働いている研修生たちはもちろん、このベトナムでこれから日本へ行こうと準備している研修生たちにも影響が出て来るからね。全く困ったことをしてくれたもんだ。」と言って、寂しそうな顔をしていました。

今現在日本には、約 3 万 5 千人のベトナム人の研修生 ( 正しくは、【技能実習生】) がいます。今日本は 14 ヶ国から外国人の実習生を受け入れていますが、中国からの実習生が一番多く、二番目がベトナムです。

そして私はこちらで、いろんな人材派遣会社の日本人、ベトナム人の知人がいます。彼らと話している時に、共通して出て来る最大の<悩みの一つ>がこのベトナム人研修生による「万引き事件」です。昨年ベトナムに来られた同僚の ST 先生は、日本でそういうトラブル処理を担当していたこともあり、日本での事情を大変詳しくご存知でした。

ST 先生によりますと、研修生たちの「万引き事件」は個人が盗んで、自分一人がそれをこっそり使うレベルではなく、もっと組織的で、多くの人間が関与していて、それをベトナム人同士の間で売買して利益を得ているようなものなのでした。つまり研修生たちが盗んだ品物を、ある組織が買い取る、売りさばくルートが出来ているのでした。

彼らが盗む商品は、生活用品だけではなく、有名化粧品、薬、ブランドのバッグ、さらには袋入りの米もありました。以前寮の部屋に隠していたそれらの盗品を写した写真を見たことがあります。それはおびただしい数の盗品の山でした。その中には、どういうつもりで盗ったのか、鉄アレイまでありました。そしてさらには日本国内にいる研修生だけではなく、その盗品をベトナムまでも運ぶルートがあり、それをベトナムでも売りさばいているというのです。

そう言えば、以前五区のほうにある市場で、日本の値札が付いたままのS社の化粧品が堂々と売られていたというのを聞いたことがあります。わざと値札を剥がさないのは、本物の「日本製」であることを強調したいがためです。私自身はまだそれを直接見たことはありませんが・・・。

ベトナム人の社長が「みんなの意見を聞きたい。」というのは、今このベトナムでこれから日本に行こうとして、日本語を勉強し、いろんな準備をしている生徒たちに、『この二人が起こした事件を、どういう形で知らせるべきか?』ということでした。

社長から個人的な意見を求められた人たちは、様々な考えを述べました。日本の実情についてまだ何も知らない生徒たちには、「敢えて何も言わない。知らせない。」「みんなに知らせて、社長がカンカンに怒っているということを伝えるべき。」

「今後のためにも、こういう事件が起きると日本ですでに働いている研修生たちはもちろん、ベトナムにいる生徒たちにも影響が出ることを知らせるべき。」「掲示板に本人の名前を出すべきです。」「ご両親にだけは伝えて、今いる生徒たちには伝えなくても良いのでは・・・。」など、いろんな意見を出していました。

その日本人の ST 先生に社長が聞きました。 ST 先生は、「全体を集めての朝礼で、その事件が起きたことと、これからの対応と影響については生徒たちにも話したほうが良いと思います。しかし、事件を起こした本人たちの実名と顔写真を掲示板に出すべきかどうかについては迷います。今日本には【個人情報保護法】というのがあり、日本の会社側がもしそのことを日本で聞かれたら、どう思われるかな・・・、と考えます。」と述べられました。

ベトナム人の社長は、「うん、うん」と頷きながら聞いていました。そして次に私に意見を求められました。私もこの段階まで話が及んで来た時には、大体の状況が呑み込めて来ましたので、次のように言いました。

「 ST 先生の言う通りです。両親には勿論ですが、今ここで日本語を勉強し、日本へ行く準備をしている全員の生徒たちにも今回の事件を伝えて下さい。そしてそれによって、どういう影響が今後出て来るかを話して欲しいと思います。さらに今後のためにも、日本に行って目先の欲に眼が眩み、このような事件を起こしたら自分にとっていかに不利益になるかを分らせるためにも、掲示板に実名と写真を掲示しても可と、私は考えます。」と

「何故なら、ひと握りのこのような素行不良の研修生たちが引き起こした事件をうやむやにしておいたら、

『日本で真面目に、仕事にも勉強にも頑張っている他の研修生たちが可哀想』

だ、と思うからです。素行不良の研修生たちの【個人情報】など、【保護】する必要は全くありません。そしてそのような事件を起こした研修生たちに、穏便に済まそうとか、甘い対応をしていたら、日本側の会社からも信用されなくなり、さらに今後の研修生たちの日本への派遣にも悪影響が出てくるでしょう。

そして真面目にコツコツと頑張っている研修生たちには、連帯責任が及ばないようにこちら側でその事件を毅然と処置し、さらに<今後そのような事件を出さないように、今これだけ努力している>という姿勢を見せることが大事ではないでしょうか。」と。

そのベトナム人の社長は、私が述べた意見にも「うん、うん」と頷いていました。そして数日後に、その実名と顔写真が寮の中にある掲示板に貼り出されました。その掲示板は、いつも研修生たちが目にすることが出来る場所にあります。

実はこのベトナム人の社長とは、今年のテト前の社員旅行でベトナムの中部を旅した時に、旅の道すがら、『会社の企業哲学』について二人でいろいろ意見を交わしたという経緯がありました。

私が、「人材派遣会社というのはこのサイゴンには山ほどありますが、ただベトナム人研修生を日本に送り込んで、その紹介手数料をもらって「お金儲けをしたらそれで終わり」という会社がほとんどではないですか。どういう『企業哲学』を持ち、どういう『経営理念』を持っているか、それを表に出していないので、何を考えてやっているかがさっぱり分りませんね。社員の末端に至るまでぶれない考えを持てるように、そういうのが必要ではないでしょうか。」と雑談ふうに話したことがありました。

するとそのベトナム人の社長はしばらく考えて、「それでは、あなたがそれを作ってくれませんか?」と、私が雑談で話したことを、こっちに振って来たので驚きました。 ( 経営者でもない、ただ一介の、日本語を教えているだけの人間が、何で会社の大事な『企業哲学』を考えないといけないのか・・・ ) と。しかしまた、 ( 自分が考えたのが、会社の『企業哲学』になれば、それはそれで面白いな! ) と思い、軽い気持ちで引き受けました。

そして数日後社長に会い、私が日本語で文書にしたものを手渡しました。するとしばらく目を通していた社長 ( 彼の日本語能力は高いです ) は、あっさりと「いいですね〜。これでいきましょう。」とすぐにその場でゴー・サインを出し、社員を呼んで「この文章をキーワードにして会社紹介の写真も上手く組み合わせて、今からパンフレットを作成する準備をしなさい。」と指示を出しました。

私はしばらく時間をおいて結論を出すのかなと思いましたが、その決断の速さには驚きました。そして三週間ほどして、果たしてパンフレットが出来上がりました。そこには私が『企業哲学』として書いていた二つの言葉が、ベトナム語に翻訳されていました。

■         ■         ■

我が 社の目標、そして企業哲学として、次の理念を持ち続けたいと思います。

● 「ベトナムのイメージを高めるようにしたい!」

● 「ベトナムと日本の架け橋になるような人材を育成したい!」

■         ■         ■

私が社長に渡した文書には、その説明として以下のように書いていました。

■         ■         ■

わが社はベトナムにおいて、「人材派遣会社」としての活動を行っています。しかし私たちは、 「ただ単に、日本の企業に研修生を派遣だけすれば終わり、それで良し。」 とは考えていません。それだけでは、社会的使命を達成することにはならないと考えます。

ベトナムから日本に行った研修生たちが、3年間日本で働く間に、日本人は彼らベトナムの研修生たちを通して、「ベトナムという国とベトナム人」について、そのイメージを描きます。

ベトナムのイメージが良くなるか、悪くなるかは、日本に行く一人・一人のベトナム人研修生たちの振る舞いにも大きく影響されると考えています。

だからこそ、日本に行く研修生たちには、「 あなたたちはベトナムから、ベトナムを代表して日本に行ってるのですよ。」 という意識を研修生たちに持たせるように、企業としても努力していく所存です。

以上に掲げた二つの「企業哲学」は、「人材派遣会社」として、そういう目標と哲学を持たなければ、日本の多くの会社の方々から信頼を勝ち得ることは出来ないだろうし、長い信頼関係を築くことは出来ないだろうと考えるからです。

■         ■          ■

このパンフレットの言葉については、これで終わりました。さらにしばらくして、またその社長に会った私は、「そう言えば、うちの日本の会社は塾なのですが、そこには生徒を指導する時に「○○五訓」というのがあり、日々生徒たちにそれを教えていますよ。」と話し、その「○○五訓」の大体の意味を説明しました。

すると社長は目を開き「それはいいですね。ここでもそれをやりましょう!」と膝を叩き、今度は「あなたがまたそれを作って下さい。」とは言わず、「今回はこちらで考えます。」と話しました。そして数日して、寮の中で生活している研修生たちに向けて、日々唱和する言葉が生まれました。今実際毎日全員がこれを日本語で、大きな声で唱和しています。次がそれです。

【 私たちは宣誓致します! 】

1、学習も仕事も、全力で頑張ります!

2、規則を厳守します!

3、悪いことを絶対にしません!

4、ベトナム国の名誉を守ります

 ※ 私たちはベトナムを代表する研修生で、日本に勉強と仕事をしに行きます。

 ※ 自分の将来のため、家族のため、そしてベトナム国のために。

 ※ 私たちは責任を持って、日本に研修しに行きます。

 ※ 日本の企業と、両親と、そして会社に感謝致します。

そのような経緯もあり、私は日々研修生たちが唱和している

2、規則を厳守します!

3、悪いことを絶対にしません!

という項目の部分を、その素行不良の研修生たちが引き起こした事件を反面教師として、今後のためにも生徒たちに強く指導する必要があるな、と考えました。起こった事件は事件として、これから日本に行く研修生たちが、その同じ轍を踏まないように指導していくことが大事だろうと思いました。

そして数日後に、その後の展開を聞きますと、事件を起こした本人たちはもちろん『強制送還』と決まりましたが、それ以外の研修生たちは何とか日本側の怒りも収まり、そのまま引き続き働けるようになったということでした。一部の不心得者のために、真面目に頑張っている研修生たちにも影響が出て来るのか・・・と心配していただけに、これにはホッとしました。

そしてこの事件から一週間後、私は偶然にも、日本での三年間の研修の最後に、仕事場から逃亡”し、最後は『強制送還』されたというベトナム人女性に会いました。サイゴンにいる私の知人が、「研修生で五年間日本にいた女性がいますよ。」と話してくれたのでした。

「研修生で五年間!?普通は三年間しか滞在出来ませんよ。五年間もいるとすれば、それは技師でしょう。」と知人に聞きますと、「いえ、技師ではなくて、研修生だと話していました。何でも、三年間の研修が終わる頃に、“逃亡”したそうです。」と答えたのでした。

「逃亡」・・・これもまた、人材派遣の会社に関わる人たちが共通して抱える<悩みの二つめ>の問題なのでした。

私も今まで間接的には、“逃亡”したベトナム人研修生の話は聞いたことはありました。しかし、そういう研修生たちは日本にいても連絡が取れず、現在ベトナムに戻って来ているのか、いないのかも不明のままでした。

それが、かつて日本で「逃亡」したベトナム人研修生が、今このサイゴンに舞い戻って来ているとは!私はその知人を通して、「その人に会いたいと伝えて下さい。」とお願いしました。私は話には聞く「逃亡者」が、一体どんな気持ちで逃亡したのか、そしてその後の過ごし方についても、是非聞きたいと強く思いました。するとそれから二日もおかずに、その女性に会うことが出来たのでした。

彼女の名前はLさんで、今年 28 歳でした。背はスラリと高く、一見非常に明るい性格で、日本滞在時のこと、そして「逃亡生活」のことをあっけらかんと話してくれました。彼女は 22 歳の時、友人のベトナム人女性と一緒に、日本の大阪へ研修生として行きました。そこでの仕事内容は、印刷関係でした。

彼女は日本で、『日本語能力試験』の三級〔今のN3〕に合格していました。しかし私と話している時の彼女の会話能力は見事なもので、発音もキレイであり、私が質問したことにもスラスラと答えました。 ( 会話能力では二級〔今のN2〕レベルには達しているな ) 、と感じました。

彼女は日本へ行く前には、 H 人材派遣会社に日本円にして約百万円近くの保証金を払ったと言いました。もし「逃亡」した場合は、その保証金は全て没収されてしまうのでした。彼女は一緒に行った友人にもその行く先を告げずに、三年の契約が終わろうとする直前に、仕事場から「逃亡」しました。行き先は名古屋でした。

「保証金を没収されるのを覚悟の上で、何故また“逃亡”しようとしたのですか。」「何故そこまでのリスクを冒してまで“逃亡”したかったのですか。」などについて聞きました。

すると彼女は、「百万円の保証金を没収されても、次の仕事場での給料とさらにアルバイトをすれば、五ヶ月くらいでそれは回収できると、友人たちから聞いていました。日本にいる間に出来るだけお金を溜めて、苦労を掛けた両親に恩返しをしたい、家族を助けたいという気持ちから、“逃亡”しようと思いました。」と答えたのでした。

この『両親に恩返しをしたい、家族を助けたい』という言葉は、ベトナム人研修生が日本へ行く時に共通して言う言葉です。しかし「逃亡という不法なこと」をしてまでも、それをしてあげたいというところに、大いなる考え違いをしている気がします。

彼女は逃亡先の仕事場の名古屋で、二年間働いていたといいます。その名古屋での生活を聞きますと、朝 8 時から夕方 6 時までは工場で働き、その後さらに夜 10 時から深夜 2 時までラーメン屋さんで働いていたそうです。しかし不法滞在とはいえ、大変な頑張り屋さんですね。この間は、一月に約 20 万円くらいの収入があったといいますから、同じ年齢の工員さんと比べればベトナムでは考えられない高給取りです。

そして逃亡してから二年目のある日、入国管理局の職員にたまたま顔を覚えられていたせいで、寮の前で待ち伏せされて、遂に捕まりました。そしてベトナムに強制送還されました。その時の飛行機代は、当然ながらすべて彼女が払わないといけなかったのでした。彼女は、今から一年前にベトナムに帰って来ました。

しかしこの「逃亡時代」の二年間、いつ職務質問されるか、いつ捕まるかにビクビク怯えながら過ごしていたことだろうと思います。そしてベトナムへ帰る飛行機代は自分で払いましたが、「逃亡時代」の 2 年間に稼いだお金は、全て自分で持ち帰ることが出来ました。

「いくらお金を稼げるとはいえ、あなたが逃亡している間、ご両親はどんなに心配されていたことでしょうか。さらにまた、一緒にあなたと日本に来た友人も、あなたが「逃亡」した後では、いくら真面目に働いても同じように“彼女もまた逃亡するのでは?”という目で見られて、おそらく辛かったことでしょうね。」と言いますと、彼女も下を向いてシンミリしていました。

私はわざわざ忙しい中を時間を割いて来てくれた彼女に対して、 ( 少し説教調になったかな・・・ ) と思い、後で反省しました。彼女は今は日本料理屋さんで働き、マネージャーの仕事を任されています。性格も明るく、日本語能力のレベルも高いので、そこの社長からも信頼されているようでした。

今日本では、「真面目に働いている研修生には、滞在期間の延長を認める。再入国も認めようか。」という動きも出て来ているそうです。しかしそれがまだ今決定していない時に来日した研修生たちは、いかなる事情があろうが、その期間内に働く期限が切れたら、最初に決められた通りに帰国するのが当然だと思います。実際、研修生たちのほとんどは、その決められたルールに今従っているのですから。

私は今教えている研修生たちにはいつも次のようなことを話しています。「日本で三年間働いて、お金を溜めることだけが目的ではなく、<『ベトナムに帰ってから何をしようか』を考えながら三年間過ごしなさい>。そういう気持ちがあってこそ、日本で学んだことがベトナムで役に立つのです。」と。

この時に、研修生たちにとって具体的なヒントになるのが、以前 <日本とベトナムの架け橋になりたい> と話していた、同じ研修生の、あのBくんの日本での過ごし方です。そして実は、私が会社のパンフの『企業哲学』に引用した言葉も、このBくんが話してくれた言葉がヒントになっているのです。

彼は 22 歳の時、日本の三重県に研修生として行きました。そして日本滞在二年目にして、『日本語能力試験』の二級に合格し、三年目に一級〔今のN1〕に合格しました。私が彼に会ったのは、 2009 年の 9 月です。会社が人事募集していた応募者の中に、彼がいたのでした。彼は日本語の先生の仕事を希望していました。この時まだ 25 歳でした。

日本への留学生でもない研修生が、日本で『日本語能力試験』の一級に合格していたという彼の履歴書に目を通した時に、私はもちろんですが、ベトナム側の人事担当者たちも大変驚いていました。その時私は、 ( 毎日働かないといけない「研修生」という生活をしながらも、一体どのようにして一級合格に至るまでの日本語能力を習得出来たのか。 ) について大いに興味が湧き、彼の面接の番が来た時にそこを深く尋ねました。

すると彼は、「会社が 9 時から始まりますので、朝 5 時に起きて 8 時までの 3 時間日本語を勉強しました。そして夕方 6 時に仕事が終わり、寮に帰ってから夕食を摂り、また 7 時から 11 時までの 4 時間勉強しました。毎日 7 時間を目標に日本語を勉強しました。」ということを、淡々と話してくれたのでした。

彼はすぐに採用され、同じ会社で働くことになりましたが、事情があって一年ほどしてそこを辞めて、今は日系企業で働いています。私は今でも彼とは親交があり、月に一度くらいは彼と会って、彼の近況などを聞いています。今彼は夕方まではその日系企業で働きながら、夜は大学に通っています。やはり、どこにいても『努力家』なんですよね。

彼が「研修生」という環境の中でも、『日本語能力試験』一級に合格したというのは、彼を受け入れた日本側の組合の間でも大いに評判になったらしく、私と同じ会社で働いていた頃、サイゴンでその組合のインタビューを受けました。その時の内容を紹介します。質問への答えが、彼の言葉です。

◇       ◇       ◇

1、<日本語試験一級合格!>と知った時の感想を聞かせてください。

結果を知った時に、本当に嬉しかったです。周りのみんなの支えと、自分の努力が報われたと思いました。

2、日本語を勉強している目的は何ですか?日本語能力試験一級の結果をどう活かそうと思っていますか?

私が日本語を勉強している目的は、日本人と話せて、一緒に仕事ができることです。私は日越の掛け橋になりたいです。日本人にベトナムの文化を知ってほしいのと同様に、ベトナム人に日本の文化、日本の『侍精神』を知ってほしいと思っています。一級の結果を活かして、日本との関係がある仕事をしたいです。日本語を使う機会が多ければ多いような仕事がいいです。そして、日本語を勉強したい人に日本語を教えたいです。

3、優秀な研修生として日本での研修プログラムをやり遂げて、無事にベトナムに帰りました。自分の現在の状況と将来の予定を教えてもらえますか?

今、私は日本に研修生を送り出す機関で働いています。将来、もう一度大学を受験したいです。大学を卒業し、出世して、安定した生活を送りたいです。そうしないと、私は自分が日越の掛け橋になる夢を実現できないと思います。

4、三年間の研修を終えて、日本についての印象はどうですか?ベトナムに帰った今、両国の違いはどう感じていますか?

私の日本の印象は、清潔で、交通機関が整っていて、とても素晴らしいことです。日本人のみなさんは団体、社会への意識がとても高いと思います。日本とベトナムはかなり違います。代表的なのは、日本と比べ、ベトナムの交通機関はまだ発達していない、社会への責任感もまだ低い、清潔さを保とうという意識がまだ低いことです。
特に、自分のことしか考えていない人たちがまだ多いです。例えば、外国人観光客をだましたりしている人達です。このままだといつか外国人観光客がベトナムのことを嫌がって、二度と来なくなったらベトナムの観光業が大変なことになります。

5、Bさんから今、日本にいる研修生へのメッセージをお願いします。

日本での 3 年間はとても短いです。仕事と勉強、両立できるように有効に時間を調整した方がいいと思います。時間が無駄に過ぎるのをぼんやりと見ていないでください。“ 自分の決心が鈍らない限り、出来ないことはない ”。みんな!頑張ってください。

◇       ◇       ◇

このBくんの言葉はベトナム語訳もあります。それで私は日本語を習いたてのクラスに入る時には必ず、このBくんの日本での過ごし方の話と、一級合格に至るまで<三年間、毎日七時間日本語を勉強していた>という、彼の努力のすごさを話してあげます。日本に行く前の彼らの中から、一人でも二人でも、Bくんのように日本での目標を高く持ってくれる人が出てくれたらと思うからです。

そして私自身が直接知るBくんの話をいろいろしますと、 ( 同じ研修生の先輩に、そういう人が実在するのだ ) ということに親近感を覚えるのか、みんな目を見開いて聞いています。さらに彼が話した上記のベトナム語訳を渡しますと、みんながその記事を食い入るように読んでいます。

そして私は、 「ベトナムに帰ったら何をするかを、いつも考えておいて下さい。」という話と重ね合わせて、最後にこういう話をします。

「今あなたたちは教室の中で、黒板を前にして <生徒として> そこの椅子に座って、毎日日本語の授業を受けています。そしてこれから日本で三年間必死に働きながら、日本語もしっかり勉強して、出来れば二級以上を取得してベトナムに帰って来て下さい。

その時には、教室の中に入ったら黒板を背にして <先生として> 教壇の上に立ち、毎日日本語の授業を教える『日本語の先生』として、ここでデビューすればよいのです。ちょうど、あのBくんがそうであったように。」と。





「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ Sendaiに向うベトナム人ボランティアたち ■

2011年6月16日朝8時、私たちは日本に到着した。東京は以前となんら変わりなかった。唯一変わっていたのは、徹底した省エネ意識だろう。今人々の心はみな、震災で破壊された地方に向いている。

多くの外国人が、『地震と津波で破壊された故郷を再建する日本人を支援したい。』と思い、日本に戻ってきている。そして3カ月前の地震と津波に遭い、今も深刻な余震に苦しめられている、仙台に向かうボランティアたちを乗せた、たくさんの車を目にした。

■習慣化した節約■

今『節約』は日本人の毎日の習慣となっていた。高層ビルの窓は自然の風を入れるために開け放たれ、エアコンのスイッチは切り、公務員はノーネクタイ。自家用車の代わりに電車を待つ人々の長い列ができ、以前は鮮やかに彩られていたレインボーブリッジのイルミネーションも、いくつかの明かりをつけているだけである。

夜の東京はもはや、電灯が煌々とはしてはいないが、ビルの夜間節電、毎日仙台に向かうボランティアの一行、そして何より『日本人の不屈の精神』が、これ以上ないほどの美しさを放っていると私は感じた。

エレベーターから公共の場所まで、「節電によりご迷惑をおかけしています」という断り書きが目に付く。同行した友人は10回ほど日本を訪れたことがあるが、今ほど日本という国に特別な愛着を感じたことはないと言う。大震災後の今も力強く続けられている日々の生活は、過去に日本が成し遂げた経済的な偉業以上に印象的である。私たちの車を運転してくれたYoshioさんは、毎週仙台までボランティアの人々をバスで運んでいると教えてくれた。

ボランティアグループの中には外国人も多い。彼らは東京に集まり、無料バスで仙台に向かう。仙台にやってきたボランティアの人々は原則として泣いてはならない。女性は化粧してはならず、自分のことはすべて自分で面倒を見る。

■仙台で泣いてはならない■

前向きに手を取り合って行かねばならない時、泣いている暇はない。仙台に向かうボランティア一行の中で、東京とシンガポールにオフィスを構える企業経営者Miharuさんに会った。彼女はこう語った。

「毎週数日間オフィスを閉めて、スタッフと一緒に食料、衣類、清掃用具を持って仙台に向かいます。仙台の人々にとって一番大切なのは、瓦礫の中に埋もれてしまった家族の写真です。写真を1枚見つけるたびに、きれいに洗って、この写真の人々が早く再会できるよう祈るのです。あまりにもたくさんの悲しい場面を目の当たりにすると、涙を抑えるのは難しいですが、ボランティアの微笑みと差し伸べる手のひらこそが、この人たちが最も必要としているものだ、と信じて涙をこらえるのです。」と。

私たちがベトナム人だと知ると、Miharuさんの目が輝いた。「仙台の人たちとボランティアたちのために、フォーの材料を持っていくといいわよ。」。

彼女の会社のウェブサイトには、ボランティア参加の登録情報が掲載されている。4日間のツアーである。仙台行きの準備をしているインド、スリランカ、アメリカ、インドネシアからのボランティアにも出会った。どの顔も緊張した面持ちだったが、早期復興のために何とかして力になりたいという熱情が見て取れた。

3月11日の地震と津波の影響を最も強く受けた仙台。東京からの道路は基本的に復旧している。救援物資やボランティアを運ぶ車が、昼夜を問わず仙台に向かう。仙台在住の弟を持つある観光庁担当者は、震災後の仙台の生活を目の当たりにし、こう言う。「日本のほんの一部が影響を受けただけですし、私たちはこの地域の復興に努力しています。観光客や日本で働く外国人も、日本に戻ってきています。みなさんには安心して日本を観光していただき、またご希望があればボランティアに参加してほしい。日本は安全です。」。

(ベトナムニュース HOTNAMより)

◆ 解説 ◆

今ベトナムにある大手の旅行会社・SaigontouristVietravelでは、日本行きのツアーを組んでいます。日本で富士山や京都、東京などの名所・旧跡などの観光地巡りのほかに、『東日本大震災』で被害を受けた、この仙台訪問が二社ともに入っています。

Saigontouristのツアー内容を具体的に紹介しますと、「この特別ツアーの参加者は、ホーチミンから出発して東京に向かい、東京での観光を終えた後、一日だけ仙台で日本人ボランティアらと共にボランティア活動に参加する。活動の内容は、被害に遭った家屋の清掃、身寄りのない高齢者のケア、料理の手伝いなど。

この特別ツアーは、 7月7日と14日の出発で、日程は4日間以上。ツアー料金は一人当たり約3,500万ドン(約14万円)となっている。」という内容でした。ですから、まだ今の段階では日本に出発していませんが、ツアー終了後にはまた報告が出るかと思います。

今回の『東日本大震災』で想像を絶する被害を受けた人たちに対しての、ベトナムの人たちの温かい支援の気持ちや募金活動は、至るところで自然発生的に起こりました。それは日々日本から報道されて来るテレビの映像や新聞を読めば、誰しもがそのあまりの惨状にこころを痛め、「このベトナムから何とか応援したい!」という気持ちを、多くのベトナムの人たちが抱かれたのは間違いのないことでした。

そしてその気持ちをさらに奮起させたのが、<ベトナム人記者の眼で見た>『東日本大震災』に関する、ある新聞記事なのでした。その記者は、震災に遭って両親を亡くし、ミゾレ混じりの雪が降る中で、コップ一杯のお湯を並んで待っていた一人の 9歳の少年を取材し、それをベトナムに向けて発信しました。その記事を読んだ多くのベトナム人読者が、その少年のあまりの境遇の痛々しさに涙を流しました。次のようなこともあったそうです。

「 ある 81歳のお年寄りが、日本大使館に足を引きずりながらやって来られて、『私はベトナム語しか出来ませんから、日本語に訳して被災された方たちにお伝え下さい。 私は一人暮らしで、自宅が4部屋あり3部屋は空いていますから、よかったらこちらに来て使ってください。もちろん無料です』と、言って寄付して帰られたそうだ。」

そしてしばらくして、その少年の記事に関してある新聞に、次のような内容が載りました。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

「こういう子どもはベトナムにはいない」

過去 10 年間、日本は世界最大の経済協力授与国だった。今年は震災で経済協力受益国として世界最大になりそうだ。ベトナムからも 100 万ドルの義援金を送っていただいた。 5 万ドルだけある特定の少年に上げてほしいという珍しい条件つきだったが、その理由は、あるベトナム人記者の報道で義援金が集まったからだ。

ベトナム人記者は父母を亡くした少年を取材し、震える少年に自分のジャンパーを着せてあげた。その時、ポケットからバナナが落ちた。記者はバナナを少年にあげた。彼はそれを自分で食べずに、みんなで分け合う食料置き場に持って行った。

記者が、「こういう子供はベトナムにはいない」と報道した。この少年は、立派な日本国民としての日本精神を、まだ幼いそのこころの中にすでに刻んでいる。彼一人でなく、将来の日本を支える若い人の中にこういう人たちは少なくない。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

大震災発生からすでに早四ヶ月が経とうとしています。未だ復興計画は遅々として描けず、進まず、東北地方の方々にも暑い夏が近付いて来ました。そして4月号の<いつか帰る 愛の故郷>で紹介した、研修生たちが寄せ書きして作成してくれた日の丸の旗と千羽鶴を、七月末に私の同僚の ST 先生があの陸前高田の教育委員会に持参することになりました。

会社や職員の人たち、そして研修生たちから頂いた募金はすでに日本領事館に渡していましたので、今度はその二つを ST 先生が日本に持って行くことになったのでした。そして ST 先生の故郷が、実は岩手県なのでした。今回奥さんと二歳のお子さんも一緒に故郷に帰られるのですが、故郷の変貌ぶりを目にした時の気持ちはいかばかりかと察しています。

私は震災発生から、一ヶ月、二ヶ月経つ中で、「東北地方の人たちは、何故ああも忍耐強いのか。」について、思いを巡らせていました。そして日本に帰国していたある日、何げなくテレビを見ていて、一人の<アメリカ人作家の眼で見た>、「津波」をテーマにした日本人の死生観を描いた、 60 年以上も前の、ある「作品」を初めて観ました。

そこに引用されていた文章を読んで、私は今回の大震災と重ね合わせて涙が止まらなかったと同時に、 ( もしかしたら東北地方の人達は、この「作品」の中の登場人物と同じように、今でもその精神は変わらないままなのではなかろうか ) と思ったのでした。

その作品の名前は、ずばり『 The Big Wave―大津波―』(1947 年刊 ) です。作者はあの『大地』で ピュリツァー賞を受賞した、パール・バックです。彼女は、 1938年にアメリカ人女性として初めてノーベル文学賞を受賞しています。

パール・バック女史の『大地』という作品は有名ですが、同じ作者がこの『 The Big Wave ―大津波―』という作品を書かれていたというのは、全然知りませんでした。しかし何という深い洞察力でしょうか。 60 年以上も前の作品でありながら、その一行・一行がこころを強く打ちます。

※そしてベトナムに戻った後で、Youtubeでもそれを観ることが出来ました。次のアドレスがそれです。その詩情あふれる童画とともに、これもまたこころに沁みるものがありました。日本語に英語の対訳がついています。http://www.youtube.com/watch?v=uiIbBiUnMxs

アメリカ人の作家にしてこのような作品を遺されていることに、私はただただ敬服するのみです。今東北地方で復興に向けて汗を流しておられる人たちの姿に、私はこの作品が重なって見えて来たのでした。

• 日本で生まれて損したと思わんか?

• 生きる限りはいさましく生きること、命を大事にすること。

• 仕事を楽しんですること。

• わしら日本人は幸せじゃ。

• わしらは、死を恐れたりはせん。それは、死があって生があると分かっておるからじゃ。

• おれ、海に立ち向かって生きる。恐がったりなどせん。

地震も津波も火山もほとんどないベトナム。しかし地震・台風・津波・火山などの自然災害に次々と襲われる日本列島に永い間住んで来た日本人。そういう自然環境の中に住むしかない我々は、「大自然の力には、人間は逆らえないのだ」というのが『日本人の常識』だったのだろうと思います。どんなに人間が思慮をめぐらせて「想定」しても、大自然はそれを軽々と乗り越えて行くのだということを、今回改めて知らされました。

「大自然の力には、人間は逆らえない」という『常識』を持った日本人だからこそ、日本人特有の 『人生観・死生観』が培われたのでしょう。忍耐強く我慢する。潔く諦める。クヨクヨ考えない。済んだことは、きれいさっぱりと忘れる。すぐ立ち直る。次の目標に向って進む。まだ煙が立ち昇る焼け跡から、復興の金づちの音が聞こえて来る・・・。

そして私もいつか将来、我が娘から「父ちゃん、日本で生まれて損したと思わんか?」と聞かれたら、キノの父親のように、「日本で生まれて損したとは全然思わん。」と答えることでしょう。



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