春さんのひとりごと

ベトナムを去る人、来る人

●サイゴンを去った日本語の先生●

7月末にベトナムを去られた日本人の知人・WB先生がいます。WB先生はサイゴン市内にあるHuflit大学で、日本人ただ一人の常勤講師として、二年間大学生たちに日本語を教えてこられました。日本に一時帰国された後は、9月から次の赴任先のフィリピンに赴かれます。

私が初めてWB先生にお会いしたのは、今から約一年前のことです。「青年文化会館」で毎週日曜日に開かれている<日本語会話クラブ>にWB先生が参加されたのです。そこでは、初めての参加者にいつものように「新人紹介」をしてもらいますが、WB先生もそこで自己紹介をされました。WB先生は私より一つ年上の65歳です。

「出身は三重県で、日本では学校で35年間英語を生徒たちに教えていました。今はHuflit大学でベトナム人の大学生たちに日本語を教えています」

そのように話された時、私自身も日本では英語を生徒たちに教えていただけに、強い親しみを感じて、<日本語会話クラブ>が終った後も、さらに続けて「青年文化会館」内の喫茶店で話しました。

故郷が三重県津市ということなので、2015年5月に私が教え子たちと再会した場所「サンヒルズ安濃」について聞きましたら、「えっ、それは私の家の近くですよ!」とびっくりされていました。それを聞いて、私のほうも驚きました。

WB先生は二年間のベトナム滞在時に、<日本語会話クラブ>には(本人曰く)十数回参加されましたが、いつも生徒たちとの楽しい話や、ベトナム滞在中に旅行した出来事などを嬉しそうに話されていました。

単に旅行に来た人たちとは違い、WB先生は普段は大学で授業をされています。それで、その大学の休みを利用して、ベトナムの中部や南部を精力的に旅行されました。二年という短期間ながら、ベトナム中南部の有名な観光地「Da Nang(ダ ナン)」「Hoi An(ホイ アン)」 「Gia Lai (ザー ライ)」「Dac Lac(ダク ラック)」「Da Lat(ダ ラット)」「Vung Tau(ブン タウ)」などの各地を訪問されたと言います。

ベトナムでの最後の旅はDac Lac省のBuon Ma Thuot(バン メ トート)で、生徒の家に招待されて、そこでホームステイをさせてもらい、「ベトナムの田舎の家族の人情の厚さに直に触れることが出来て大変感動しました!」と話されていました。

その二年間のベトナムでの任期が終るのが7月末でした。その二ヶ月前の五月に、同じく <日本語会話クラブ>に顔を出しているMZさんから私に連絡がありました。「WB先生からHaiさんへの奨学金の支援を頂きました」と。

この時私は日本に帰国中で、Haiさんへの奨学金の手渡しをMZさんに依頼していたからです。その知らせを日本で聞いたわけですが、もうすぐベトナムを去るのが決まっているのに、WB先生から支援の申し出があったことに頭が下がりました。

「Haiさんへの奨学金」については、2016年7月号】<Haiさんの奨学金支援の会>を立ち上げようと思ったと触れていますが、正式には昨年7月からスタートしました。そ して、今現在の賛同者は十名になりました。さまざまな職業の方々がおられますが、全員日本人です。

そして、WB先生がベトナムを去る日が近づいて来た7月中旬に「今度の日本語会話クラブがおそらく最後の参加になると思いますので、出席させて頂きます」という連絡が私に届きました。「分かりました。お待ちしています」と私も答えました。

WB先生が言われたように、7月23日の<日本語会話クラブ>が「最後の日本語会話クラブ」になりました。いつものように私が「青年文化会館」に行き、階段を上がりますと、そこにはすでにWB先生がベトナム人の若者たち数人を前にして椅子に座り、熱心に話されていました。この日は約40名の参加者がいました。

<日本語会話クラブ>自体は午前中で終りますので、11時半頃に「クラブが終る少し前にWB先生がもうすぐベトナムを去られること。今回が最後の日本語会話クラブへの参加になることを私がみんなに紹介しますので、先生はベトナムでの思い出を話してくださいませんか」と事前にお願いしました。

そして、クラブが終わりに近づいた頃、私からWB先生を紹介しました。「実は今ここにおられるWB先生は今日が最後の<日本語会話クラブ>への参加になりました。もうすぐベトナムを去られるからです。それで、今からWB先生にお別れの挨拶をして頂きます」と。 その後WB先生が前に立ち、次のように話されました。

 
「二年間の任期があっという間に過ぎました。今はただベトナムの人たち、そしてベトナムの若者たちとの楽しい思い出がいっぱいです。

ベトナム語を話せない私は、ベトナムの人たちの優しさに助けられてきました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ベトナムは本当にいい国だと思います。帰国前に中部にある教え子の家でホームステイをさせて頂きました。これもまた忘れられない思い出のひとつです。

日本に帰った後、9月からフィリピンに行きます。そこでの任期は一年ですが、休みが取れる時にはまたベトナムの人たち、教え子たちに会いに来たいと思いますので、その時には宜しくお願いします」

みんな神妙な表情で聴いていました。この場にはWB先生が教えている大学生たちも四人ほど来ていました。「恩師」からのお別れの言葉だけに、彼らの心中が一番寂しかったことだろうと思います。

そして、「日本語会話クラブ」が終わった後、お昼を摂りながらまた続けて話しました。食事が終わり一段落した後、WB先生から私に「Haiさんにこれを渡して頂いて、頑張るようにお伝えください!」と言って、私にHaiさんが卒業するまでの<2018年前期ぶん>までの支援金を渡されました。(最後の最後まで、Haiさんのことを気にかけていてくださる・・・)。そのことに、こころ打たれました。

本当はWB先生がみんなの前で顔を見せる最後のこの場に、Haiさんにも来てもらいたくて、この日の朝彼女に連絡したのですが、どうしても都合が付かないとかで、彼女は来ることが出来ませんでした。

お昼をWB先生たちと一緒に摂りながらまた続けて話しました。その時こう思いました。 (私はこうしてWB先生がベトナムを去られるのを知っているが、ほかの方たちは知らない・・・)。そう思い、<Hai さん支援奨学金参加者の方々>に声掛けして、WB先生と のお別れ会をしようと思いました。

それで、WB先生に「べトナムを去る日が近づき、帰国準備で毎日忙しいことと思います。 しかし、最後に先生とのお別れ会をSUSHI KOでしたいと思いますが、ご都合のいい日はいつですか」と聞きました。

WB先生は「お別れ会」をすることに対して恐縮されていましたが、手帳を取り出されて 「そのように言って頂いて有り難いです。そうですねー。今月31日の深夜便で帰国しますので、7月28日(金)なら、何とか都合がつくかと思いますが・・・」と、WB先生はそのように答えられました。

それで、《7月28日(金)、夕方6時頃SUSHI KOに集合!》のメッセージを流しました。Haiさんにも「この日がWB先生とのベトナムでの最後のお別れになるので、是非顔を出してくださいね」と連絡しました。彼女は「はい、必ず行きます」と返事をくれました。

当日私は準備のために少し早めに着いて、みんなの到着を待つ予定でSUSHI KOに向かいました。すると、私がそこに着いた時には、Haiさんはすでに席に座っていました。私の顔を見ると立ち上がって、ニコニコした笑顔で迎えてくれました。

その後すぐに、WB先生も到着されました。そして、私と同じくSUSHI KOの常連で、友人のABさんも到着。三十分ほど遅れて、女性のSEさんも来られました。彼女も「日本語会話クラブ」でWB先生と知り合いになり、この日の送別会のことを知り、急遽参加されました。

さらにはたまたま、今「人文社会科学大学」で日本語を教えておられるTM先生も夫婦で到着されました。同じ大学のベトナム人の先生二人とSUSHI KOで待ち合わせして食事することになっていますということなので、そういうことならばと、テーブルをくっつけて私たちの隣にセットしました。

TM先生はこの日の「WB先生の送別会」のことはご存知なく、偶然この日SUSHI KOに来られたのですが、グッドタイミングと言えました。何故なら、今年の新学期が9月から始まるHaiさんは大学四年生になりますが、その四年生の「日本語学科」の担当の日本人の先生が、まさしくTM先生その人だったからです。

新学期が9月から始まれば、Haiさんもそのことを自然に知ることになりますが、その事実がこの日に分かりました。Haiさんもこういう場で、次学年の担任の先生に会えるとは思いもかけなかったので、「えーっ、そうなんですか。よろしくお願いします」と恐縮しながら頭を下げていました。

Haiさんは7月初旬から二週間ほど、ベトナムの会社でインターンシップをしていました。今彼女は無事にインターンシップも済んで、次年度に進む四年生への準備中です。いろいろインターンシップ先での仕事のことを聞いていた時、Haiさんは「そこの社長は日本語が大変上手で、ベトナムでも大変有名な人らしいですよ」と言いました。

それを聞いて、「へえー、そうですか。それは嬉しいですね。そういう人なら、是非一度<日本語会話クラブ>に一緒に連れて来てください」と言いますと、彼女も「はい、分かりました」と答えました。「ところで、その社長さんの名前は何といいますか」と聞きました。それに対しての彼女の答えを聞いて大変驚きました。

「今インターンシップ先で働いている社長の名前は、Nguyen  Tri  Dungさんです」

その方は私も良く知っている方でした。以前にも何度かお会いしたことがあります。Nguyen  Tri Dungさんについては、以下に紹介記事があります。

http://www.nicd.co.jp/news141.html

2014年9月号にも載せていますが、我が社の「ベトナムマングローブ子ども親善大使」が日本に帰国する日、クチ トンネルを訪問した帰りに、空港近くにあるDungさんの会社に生徒たちと一緒に立ち寄っていろいろなお話を聞かせていただいたことがあったからです。(Haiさんがあの人と知り合いだったとは、何たる偶然か!)と驚いた次第です。

Haiさんは今、無事にインターンシップも済んで、次年度に進む四年生への準備中です。後一年で大学生活も終ります。それで私が「あの社長さんは有名な人だから、将来そこの会社で働いてみたら?」とHaiさんに言いますと、「いえ、いえ、仕事が大変そうなので、そこで働くことは、今は考えていません」と彼女は答えました。私は思わず笑ってしまいました。

WB先生は9月からフィリピンに赴かれて、一年間の契約でそこでも日本語を教えると言われました。フィリピンに行く動機がまた、誠実なWB先生らしいものでした。WB先生はベトナムに来るのが決まる前に、フィリピンにも仕事の応募をしていましたが、ベトナムの大学からの採用が少しだけ早く決まりました。

フィリピンからの「採用通知」が僅かだけ遅れて届いたそうです。律儀なWB先生は「ベトナムのほうが先に連絡が来たので、二年間だけはベトナムで働きます。その任期が切れた後、フィリピンで教えたいと思います」と、フィリピン側に連絡したそうです。その約束を忠実に果たすべく、9月からフィリピンに行かれるのです。

この日は9時までぐらいみんなでWB先生を囲んで話しが盛り上がりました。Haiさんも最後まで付き合ってくれました。「ベトナムにはまだ未練があります」と言われていましたので、またいつかベトナムでお会い出来ることでしょう。

日本語の先生を目指す67歳の人●

今年の3月中旬にサイゴンで出会った日本人の男性の方がいます。名前はSNさんといい、今年67歳の方です。SNさんを紹介して頂いたのは、2017年3月号に載せた<元日本兵・古川さんの「42回目の法要」>に登場するKSくんです。KSくんは、日本では「数学検定試験(通称・数検)」の会社で働いていました。

そのKSくんから、事前に「実は、今タイにいる僕の知人で、いずれアジアで日本語の先生として第二の人生をやってみたいという人がいます。その方がベトナムにいる僕を訪ねてサイゴンに来ますので、相談に乗ってあげてくださいませんか」というお願いがありました。

私は「いいですよ」と返事しました。そして、SUSHI KOで会いました。SNさんが言われるには「もうすぐ、今年の五月で67歳。残りの人生を若い未来のある青年たちのお役に立ちたいと思います。タイのバンコクでの仕事を終えたら一旦日本に帰り、420時間の<日本語教師養成講座>を受けて資格を取ろうと思います。そこでの資格を取った後、アジアの中でもベトナムで日本語を教えたいと思います」と熱情を込めて話されました。

SNさんの情熱的な話にじーっと私は聞き入りました。今まで会った日本語の先生の中で、ここまでの強い決意を持って話されたのはSNさんが初めてです。それで。私も「分かりました。もし私で手助けできることがあればやりますので、その時はまた相談してください」と言ってその日は別れました。

SNさんと別れた後、「67歳から、第二の人生を日本語の教育に情熱を注ごうとされている方がいる」ことに、深い感動を覚えながらバイクで帰ってゆきました。後で、KSくんに聞きましたら、SNさんはタイのバンコクの会社では役員をされているので、なかなかすぐには辞めさせてくれないのを、今年いっぱいまでと区切りを付けて会社を離れるというふうに決められたそうです。

SNさんと別れた後、「ベトナムの求人情報」をメールでいろいろ紹介しました。するとSNさんから「<ベトナムの日本語教師求人>を見ていると年齢制限があるようですが、私が日本に戻り420時間の講習が終了するころには68歳になっております。教師の仕事は見つかるでしょうか」という問い合わせが来ました。

それももっともな疑問です。それに対して、「それぞれの会社や学校の中での日本語の先生が足りているか。足りていないかの状況次第ですね。一応の年齢制限は決めているようですが、面接や知り合いからの紹介などで、SNさんのような年齢の方やもっと上の年齢の人も日本語の先生として働いていますよ。私の知り合いにも、68歳の人がいるし、さらには72歳の人までいますよ」と返事しますと「そうですか。運よく教壇に立てるように努力します」と言う返信がありました。

そして、SNさんが再度サイゴンに来られたのが、8月初旬の日曜日でした。この日もKSくんと一緒に来られました。そして、この日はたまたまHB大学のTR先生も顔を出されました。TR先生は8月からはHB大学から新しい会社(人材派遣会社)に移られて、9月から正式にそこで日本語を教えることになりました。

TR先生も同じく日本語の先生をされていますので、いろいろ相談相手になって頂きました。特に、TR先生自身がベトナムに来る前にいろいろ各国の「求人情報」を調べて、最後にはベトナム行きを決められただけに、「求人情報」については私以上に詳しい情報をお持ちでした。この場でもいろいろな「求人情報」を教えておられました。SN先生も感心され、かつ不安が薄らいでいったようです。

SNさんはこの日タイから持ち込んで来られた「生麺」を我々にプレゼントされました。この場で初めて知ったのですが、SNさんは「N食品会社」に勤められていて、SNさん自身がそこで開発した商品が「麺職人」だということでした。これには驚きました。

SNさんの故郷は札幌で、来年明けからその札幌に戻り、「日本語教師養成講座」を受けると話されていました。ですから、ベトナムでの日本語教師の仕事が見つかり、サイゴンに来るとしたら、やはり68歳ぐらいになりそうです。

この日SNさんが持ち込んで来られた麺をこの場で頂こうと思い、最後に鍋を注文しました。この鍋のダシは味噌味でしたが、そこにSNさんが持って来られた生麺を入れて四人で食べましたが、みんな「いやー、実に美味しいですねー」と言って、SNさんにお礼を言いました。

SNさんが無事にサイゴンで「日本語の先生」としてデビューされたら、この日集まったメンバーで「歓迎会」をしてあげたいなーと思います。SNさんの「やる気」を見ていますと、その「歓迎会」が実現する可能性は高いと感じています。そうなりますと、WB先生が去られて、また新しい「日本語の先生」の誕生になります。

 

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。 「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

新しいことに適応することは容易なのか

7月24日に、日本はテレワーク(telework)始める。日本は世界でもたくさんの発見をし、新しい流行を作り出す国だ。どうしていつも日本人は新しいものをよく創造し、ベトナム人より新しいことを柔軟に受け入れることが出来るのだろうか。

<変化は社会的に強い基盤の上に立たなければならない>

日本は世界からは距離的に離れた位置にある国だったが、時代の流れを読み取り、タイムリーに革新的な政治変革をしたおかげで、日本はアジアの中でもいち早く世界で主要な位置を確立した。

日本は明治維新で、旧暦から太陽暦に切り替えた、アジアの中でも最初の国家だ。また、第二次世界大戦後の廃墟から見事に復活し、日本は世界の中で第二の経済大国の位置を占めるまでになった。

日本は技術革新については先端的な国だが、Uberの採用については慎重である。この国の政府は、利便性よりも乗客の安全が一番大切なことだと考えているからである。日本がUberを受け入れることに賛成しないのは、今あるタクシー業界の標準が高い安全性をすでに確立しているからである。

日本が新しいことを受け入れる時には、多くの時間と議論を経て変更してゆくが、それは社会の発展と安全が保障されると見極めた時である。そのために、時代が変化した後でも日本社会はある一定の原理・原則を今でも保っていて、国民もその原則を遵守してゆく。

私はどのような国がどのような革命を経たとしても、社会の発展にためにはその基礎に科学と技術の発展が必要であり、さらにその民族の伝統は保持してゆかねばならないと思う。人間はお互いに団結する時に、強力なものになる。さらには、皆が団結することは共同体としての社会に重要な役割を持つ。

日本はいつも大きな天災を乗り越えてきた。日本は天然資源も少ない。日本人はエネルギーを効果的に活用しなければ、国は発展できないと知っている。日本は幾つかの問題を基本的に変更しなければならないという圧力も受けるが、最善の解決策を見つけるために常に伝統とのバランスを取りながら、現在の問題に対処してゆくのである。

Tuoitre Online

◆ 解説 ◆

 

この記事は、日本では会社に出掛けることなく、自宅で仕事をする「在宅勤務」が始まったというニュースを受けて、各界の日本をよく知るベトナム人に意見を求めたときの記事です。

いろいろな意見を寄せたそのベトナム人のトップに、今月号にも載せたHaiさんのインターンシップ先の社長・Nguyen Tri Dungさんのインタビュー記事が載っていたので嬉しくなり、ここに紹介した次第です。

Nguyen Tri Dungさんは「日本国総領事館」からも表彰状を授与されておられますが、まさしく<ベトナムと日本の架け橋>の役割を果たされてきた方だと思います。2014年9月号にDungさんの経歴も含めて載せていますが、まさに激動の時代を経て来られた方だなーという感じがします。

私は2014年に「ベトナムマングローブ子ども親善大使」の生徒たちを連れて、Dungさんの会社を訪問させて頂きました。その時にこころ温まる対応をして頂きました。生徒たちはDungさんがどういう人なのか、深くは知らないのでしたが、その日本語の余りの見事さに驚いていました。

Dungさんは18歳の時に「日本政府国費留学生」として日本に行かれましたが、それから半世紀が経っています。その間いろんなことが起きたことでしょうが、今も変わらぬ愛情を日本に持たれています。このインタビューの記事からも、Dungさんのその温かい愛情が伝わってくるのではないでしょうか。

 

 

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