春さんのひとりごと

「12年ぶりのLoanさんとの再会」と「Haiさんの就職祝い」

今、私はベトナムで「実習生」たちに日本語を教えていますが、平均すると彼等はベトナムで6ヶ月ほど日本語を学び、その後日本に行き、3年間日本で働きます。そして、日本に行って3年後にはベトナムに戻って来ます。

毎月、毎年、日本に行く生徒たちが多くいるのと同じように、ベトナムに戻って来る生徒たちも数多くいます。しかし、彼等がベトナムに戻って来ても、私自身が直接再会することは、あまり多くはありません。

彼等教え子たちはベトナムに帰国後、故郷に戻ってすぐ仕事に就いたり、結婚したりしますので、ベトナムで再会する機会は少ないのです。でも、私自身は「それでいいのだ!」と思っています。ベトナムに戻って、また「幸せな人生」を歩んでくれていればそれでいいなぁーと願っています。

しかし、サイゴンで再会する生徒たちも数人ですが、たまにはいます。その数少ない例が、2016年4月号のSUSHI KOで誕生日祝い」に載せたGさんであり2018年3月号の「教え子との再会」のVu(ヴー)くんなどです。

Gさんは今からちょうど6年前の2012年に日本に行き、2015年にベトナムに戻りました。彼女が日本に行ってすぐに、彼女の身の上に起きた事については2012年11月号」のBAO<親の恩を忘れるな!>「解説」でも触れています。

彼女はたまたま私と誕生日の月日が同じであり、それを知った彼女はベトナムにいる時、私の誕生日に自分の手描きの絵を私にプレゼントしてくれたのでした。日本に行ってからも、わざわざ郵便で学校の住所内の私の名前宛てにして、自分で描いた絵を送ってくれたりしていましたので、特に印象が強い生徒の一人です。彼女は今故郷のベンチェーで結婚しています。

もう一人のVuくんは2015年3月に日本に行きました。そして、2018年の3月にベトナムに戻ってきてすぐに私に連絡をくれて、「SUSHI KO」で再会することが出来たのでした。その二人が数少ない例ですが、Gさんが今から約6年前、Vuくんは3年前ぐらいに私がベトナムで日本語を教えた生徒です。

しかし、その二人よりもさらにはるか昔の教え子と、このサイゴンで懐かしい再会を果たすことが出来ました。その生徒は今から約12年前に日本に行ったLoan(ロアン)さんです。彼女のことは2006年8月号に「研修生・Lさんからの頼り」として載せているのですが、それはずいぶん昔のことでもあり、まさかサイゴンで12年ぶりに彼女と再会出来るとは思ってもいませんでした。

Loanさんは2006年3月に日本に行きました。日本で実習する場所は愛知県でした。同じクラスで日本語を勉強していた友人たちと一緒に行くことになりました。愛知県の隣の岐阜県には私の長年来の友人がいましたので、彼女の愛知県行きが決まった時、その友人に事前に連絡しました。

「実は私の教え子でLoanさんという女性がいて、同じクラスで日本語を勉強していた友人たち数人と一緒に日本に行き、愛知県で実習することになりました。日本には誰一人知人もいないのです。ついては、あなたの隣の県でもあるし、暇がある時に愛知県まで出向いて励ましてやってくれませんか」

それに対して、私の友人は「分かった!」と快諾してくれました。そして、Loanさんたちの仕事が落ち着いた頃、友人は自ら愛知県まで出向いて、Loanさんの同僚の友人たちも交えて食事に誘ってくれたのでした。

Loanさんはその後で私に「友人の方は大変優しい人で、私たちに食事をご馳走して頂きました。いろんな話をしてもらいました。いい人を紹介して頂いて、本当に有り難うございました」というメールを送ってくれました。

その後も、彼女は仕事が休みの時などは折りに触れて「日本での近況」などをメールで知らせてくれました。「ベトナムで想像していた日本と現実の日本の違い」「今の仕事のこと」「寮での生活」「日本での食べ物」「日本での旅」などについて、自分が感じたことを私にいろいろ連絡してくれました。それは、日本人である私にとっても「ベトナム人の眼で見た日本」という視点から大変興味深いものでした。

しかし、2009年に彼女がベトナムに帰ってからは、連絡が無くなりました。(ベトナムに戻ってから彼女もいろいろ忙しくなっているのだろうなぁ~)と思い、私も気には留めませんでした。ベトナムに戻った教え子たちはしばらくすると結婚したり、新しい職場に勤めたり、日本で稼いだお金で両親のために新しい家を建てたりと、忙しい日々を過ごしているのが想像できたからです。

そして、その彼女から実に久しぶりに連絡があったのが、2013年3月ぐらいでした。 その時彼女は「今サイゴン市内の日本料理屋で働いています」とメッセージを送ってきました。それを知り、私も彼女が日本語と繋がる仕事に就いていることに嬉しい気持ちがしました。それを知ってしばらくした後、その店を訪ねましたら、何と彼女はそこを少し前に辞めたばかりで、遂に会うことが出来ませんでした。

その後連絡がしばらく途絶え、突然彼女から連絡が来たのが、今年の5月のことでした。彼女から来たメッセージには「今年の6月に日本で日本人と結婚式を挙げます。主人は八丈島の人です」とあり、大いに驚き、嬉しくなりました。

しかし、私の教え子の中でも彼女ほど長い間に亘って連絡をしてくれた生徒はいません。それだけに、彼女から「日本人と結婚します!」と突然聞いた時には驚きましたが、嬉しい限りでした。

そして、8月に入り「今ベトナムでの用事が出来て、田舎のクチに戻っています。時々サイゴン市内に行く用事がありますので、都合のいい時に是非サイゴンで会いたいです」 と、彼女から連絡が来ました。私も「楽しみにしていますよ!」と返事をしました。

結局、12年ぶりに彼女と会えたのは9月3日のことでした。場所はいつものごとく「SUSHI KO」です。そこに着く前に「用事を済ませてから来ます」と事前に彼女から連絡があり、彼女が「SUSHI KO」に着いたのは8時頃でした。私は12年ぶりに再会した彼女を見て驚きました。12年前に私が教えていた当時のままの顔立ちだったからです。体つきも太ってもいず、痩せてもいず、昔のままの姿でした。

私が座っていた席のすぐ隣に座ってもらい、<再会の乾杯!>をしました。と言っても彼女はビールを飲まず、ジュースで乾杯です。「本当にひさしぶりですね~!今日は忙しいところをありがとう」と言いますと、彼女も「私も今日会えて、本当に嬉しいです!」と言ってくれました。

「Loanさんが日本に行ったのは何歳の時でしたか」と聞きますと「21歳でした」と言う答えでした。すると、彼女は今33歳になっているわけです。21歳の時に日本に行き、その後なかなか会えないでいた教え子のLoanさんが12年後の今、私の眼の前の座っています。12年前のことが思い出されてきて、胸が熱くなってきました。

彼女は私が先に注文して食べていたサシミ類よりも、「肉うどん」が好みらしく、それを別に頼み、美味しそうにズルズルと啜っていました。しかし、感心したのはその日本語の会話能力です。

私が普通の速さで話した日本語の会話にも首を捻ることなど全然無く、普通に会話が出来ました。(日本語能力試験で言えば「N2」のレベルには達しているかな・・・)と思い、「日本語能力試験のレベルで今何級を持っているの?」と尋ねますと、「N3です」と言う答えでした。でも、今眼の前にいる彼女の会話能力は高いので、おそらく日々の生活の中で日本人と接触する機会が多いのでしょう。

彼女にいろいろ話を聞くと、八丈島の日本人男性との結婚は今年の6月中旬に終わったそうで、今彼女は日本からベトナムに来た日本人の旅行者たちの旅行のアテンドで毎日忙しいということでした。

今後もずっと日本の旅行者たちのベトナム旅行のアテンドの予定が詰まっていて、それが終わってから日本に戻ると言う話でした。その後はずっと日本人のご主人と八丈島に住むということです。彼女からの話を聞くと、八丈島は大変海がキレイで、実に自然豊かな、美しい島だということです。

私自身はまだ八丈島に行ったこともないし、今後も行く機会があるかどうかは分かりません。12年ぶりにこのサイゴンで再会したLoanさんですが、八丈島で日本人のご主人と“幸せな結婚生活”を過ごして欲しいと願っています。


● Haiさんの就職祝い

2016年7月からスタートした「Hai(ハーイ)さん奨学金支援の会」は今年の2018年6月で終わりました。約2年間続いたことになります。

その「Haiさん奨学金支援の会」のきっかけは、「青年文化会館」毎週日曜日に行われている<日本語会話クラブ>で、私が2年前に初めて彼女に出会ったことからでした。 その当時から、<日本語会話クラブ>終了後には、続けて喫茶店でみんなと談笑するのが恒例になっていますが、そこにHaiさんも来てくれました。

いろいろな雑談をしていた時、私が隣に座った彼女に、なにげなく「Haiさんのお父さんは今いくつですか?」と聞きました。すると、彼女は悲しそうな顔をして「父は亡くなりました・・」と答えたのでした。

それ聞いて胸が痛くなりましたが、(お母さんは元気でおられることだろうな)と思い、続けて「お母さんは今どこにおられますか?」と聞きました。すると、彼女の答えは驚くべきものでした。Haiさんはさらに悲しそうな顔でこう答えたのでした。

「実は、母は10歳の時に亡くなり、父は19歳の時に病気で亡くなりました・・・」

まだ若い彼女だけに、当然両親はご健在だろうと思い、気軽に私が発した質問なのでしたが、それを聞いて(あぁー、申し訳ない、辛いことを聞いてしまったな・・・)と一瞬後悔もしました。

しかし、そういう状況でありながらも、彼女は<人文社会科学大学>に通っていたのでした。(どのようにして、学費や毎月の生活費を工面しているのだろうか?)と思い、それを尋ねますと「今、奨学金を頂いています」と答えてくれました。

さらに、「その奨学金はいくらなの?」と聞きますと、「一ヶ月に100万ドン(約5千円)です」とのこと。そして、「奨学金は毎年・毎年申請する必要があります。今年ももらえるか、それとももらえないのか、毎年不安はあります」と彼女は悲しい表情で答えました。

そこまで聞いて、日本語を勉強しながら大学に通っている彼女の余りに可哀そうな境遇 に思いを致し、

「よし、日本人の有志の方で“Haiさん奨学金支援制度”を作ろう!!」

と思い立ちました。その当時彼女は大学二年生でしたので、彼女が卒業する大学四年生までの二年間続けて支援しようと思いました。それで出来たのが「Haiさん奨学金支援の会」でした。

そして、その「Haiさん奨学金支援の会」を立ち上げた時に、たまたまSaint Vinh Son小学校」の「藤牧さんを囲む会」を七月初めに開く機会がありました。その会合は私の知人である、ベトナムで家具屋を展開されているABさんが音頭をとって頂き、「スシコ」で行われました。その時のことは2016年7月号「Saint Vinh Son小学校の“Fさんを囲む会”」に載せています。

そこに参加していた方々に、ちょうど良い機会だと思い、「Haiさん支援の会」立ち上げの趣旨を書いた内容の書類を配りました。そして、この時の会合に参加して頂いた方と、毎週日曜日の午前中に<青年文化会館>で行われている「日本語会話クラブ」に参加して頂いた方々の中から、最終的には合計で10名の方が「Haiさん奨学金支援の会」に賛同されました。

「Haiさん奨学金支援の会」には、その10人の方々に参加して頂き、毎月100万ドンをHaiさんに支援しました。全員が日本人の方々です。その中には、今ベトナムを離れて、フィリピンにおられる方もいます。その方は今、フィリピンで日本語の先生をされています。

そして、Haiさんを支援して頂いていたABさんが今年新しい会社を立ち上げたのに伴い、Haiさんはその会社に正社員として採用され、この8月から働き始めました。ただ大学の単位を数単位残しているので、大学自体の卒業は来年になるそうです。

ともかくも、ABさんの厚意により、Haiさんは正式な社員としてABさんの会社で働くことになりました。それで、「その就職のお祝いをみんなでしよう!」ということになり、8月末にSUSHI KOで<Haiさんの就職祝い>を開くことにしました。この日は、全員で14名の方々が参加しました。

主役のHaiさん、そして、奨学金を支援されていた方々の参加が私を含めて5名。ABさんのグループの参加者の友人・知人が9名。その中にはベトナム人の方も2名いました。さらには、ABさんが特別に招いて、「Saint Vin Son小学校」の運営責任者の藤牧さんまでも参加して頂きました。ABさんのグループの中には、ABさんの会社の社長の息子さんも参加していました。名前をTKくんと言いました。

TKくんは今「明治学院大学」の3年生です。「明治学院大学」と言えば、あの「JUNKO小学校」のJUNKOさんの母校です。実は、ABさんの会社の社長さんがこの少し前にベトナムに来られた時、「私の息子は今大学生ですが、もうすぐベトナムに来ますので宜しくお願いします!」と話されていました。その時、息子さんの大学名を聞きますと、「明治学院大学です」と答えられました。

さらに、「JUNKO小学校」のエピソードに関しては、また新しいエピソードが重なりました。何とABさんと、以前SUSHI KOに日本から「鮎」を持ち込んで頂いたINさんのお二人が、たまたまダ ナンに所要が出来て当地で会いました。そこで、少し時間の余裕が出来た時、以前私がお二人にも「JUNKO小学校」のことを話していましたので、「そうだ、今からJUNKO小学校を訪問しましょう!」と言うことになり、二人でタクシーに乗って行ったそうです。ガイドも通訳も無く、二人だけでの訪問でした。

当然アポも取らないで学校を訪ねた訳ですが、校内に入る時、普通は門の入り口にいる守衛さんもたまたまその時はいなくて、学校の中にすんなりと入れたそうです。そして、学校の回りをしばらく歩いて、教室のあるほうに行くと、その日は授業中でした。

教室の中で授業をされていた先生が指で「上に行け!」という合図を示されたので、階段を上ると、そこに女性の校長先生がおられて、二人を歓迎されたそうです。事前の約束など取り付けてもおらず、突然訪問したにもかかわらず歓迎してもらい、お二人とも喜んでおられました。

そして、JUNKOさんの遺影が飾ってある「伝統の部屋」に校長先生自らが案内されました。そこでお二人はJUNKOさんの遺影と対面しました。その時のお二人の気持ちはやはり感無量だったようです。INさんが後で私に次のように話されました。「校長先生の話を聞きながら、ABさんは下をうつむいて、涙を溢れさせていました・・・」と。それを聞いた私自身も涙が出てきました。

そのことがあったので、JUNKOさんと同じ「明治学院大学」の後輩でもある大学生が来ると知り、不思議な繋がりを感じましたし、大変嬉しく思いました。「JUNKO小学校」について、その社長の息子さんの大学生が果たして知っているかどうかは分かりませんでしたが、他の方々にも知ってもらういい機会だと思い、「JUNKO小学校」の記事を人数分準備しておきました。

また、ABさんの社員の方の中には数人のベトナム人の方も参加されると聞いていましたので、この日はこの場に、「JUNKO小学校」について触れた記事を日本語とベトナム語の二種類コピーして持ち込みました。それを参加者全員に配りました。ベトナムの方にはベトナム語版を配りました。

TKくんがSUSHI KOに着いた時、「今あなたは明治学院大学に通っているそうですね」と聞きますと、彼は「はい、そうです!」と元気良く答えました。それで、TKくんに「JUNKOさんのことを知っている?」と聞きますと「いいえ、知りません」との答えでした。

TKくんはやはり、JUNKOさんについて書いてある記事をここで配って初めて知ったようで、食い入るように読んでいました。彼は「日本に帰って、大学が始まったら、このJUNKOさんのことを友人達にも是非知らせたいと思います」と言ってくれました。それを聞いて、私も大変嬉しくなりました。

さらには、この日たまたま、ベトナムで「金融業」のビジネスをされているUEさん。そして、その奥さんと息子さん。さらに、UEさんの会社の新入社員の方々(全員が日本人です)がSUSHI KOに集合されて、<新人の入社祝い>をすることになり、我々のすぐ横の席で「宴会」をされましたので、大いに賑やかになりました。

彼等は全員が日本人ですので、その方々にも「JUNKO小学校」の記事を配り、私が解説しました。後で、その時の参加者の一人が「JUNKO小学校のことを初めて知り、大変感動しました。自分はまだベトナムに来て間もないですが、いつかJUNKOさんのようにベトナムで貢献できればと思います」と言うメールを私に送ってくれました。

夕方6時から始まったこの日の<<Haiさんの就職祝い>は夜9時半過ぎまで続きました。この日初対面となった人たちも多くいましたが、お互いの親睦も深めた、楽しい<Haiさんの就職祝いの壮行会>になりました。

 


「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。 「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

ビニール袋に入って川渡り通学する村、吊り橋の建設費を政府に申請

西北部ディエンビエン省ムオンチャー郡人民委員会は、地域の子供たちが安全に登校できるように、同省の交通運輸局を通じて河川の吊り橋の建設費用を中央政府に申請する計画だと明かした。

先頃、同郡のフオイハ地域からナーサン村中心部の中学校へ通学するために、ビニール袋に入って両地域をまたぐ幅20mのナムチム川を渡る生徒を撮影した動画がインターネット上で拡散された。

この動画の後には、女子生徒が入ったビニール袋2つを3人の男性が担いで川を渡る動画が新たにアップロードされている。動画には、川の向こう岸で大勢の女性がビニール袋を担ぐ男性たちを応援している様子も映っている。

フオイハ地域からは40人ほどの生徒がナーサン村中心部の中学校へ通っている。学校まで約17kmと遠いため、生徒たちは学校の寄宿舎で寝泊まりして週末に帰宅する。フオイハ地域から中学校までは、危険なナムチム川を渡り、さらに山道を5時間歩かなければならない。山道はバイクでも行けるが、雨季には道幅が1mと狭くなるため歩かざるを得ないのだ。

ナムチム川には木材と石で造られた簡素な橋が掛けられているが、6月から10月にかけての雨季にはこの橋を渡ることができないため、生徒たちはビニール袋に入って大人に担いでもらい、川を渡っている。

同郡はナーサン村地域の道路補修と下水道工事を入札にかけたところで、総経費は60億VND(約2800万円)超、雨季が終わり次第着工される見通しだ。

しかし、同郡人民委員会のディン・スアン・ティエン副主席によると、この工事が完了すれば雨量の少ない場合には効果的だが、大雨や洪水時には依然として往来が困難になるという。このことから、同省の交通運輸局は大雨の時でも安全に川を渡ることのできる吊り橋の建設費用を中央政府に申請する予定だ。

<VIET JO>

◆ 解説

この記事には写真も掲載されていましたが、最初記事を読む前に、その「ビニール袋に入って大人に担いでもらっている写真」を見て思わず笑ってしまいました。そして、次にこの記事を読んでゆくうちに(何とこんな過酷な環境の中でも、それにもめげずに、ここの地域の中学生たちは学校に通っているのか!)と、感心もしました。

私の小学生時代を振り返っても、中学生時代を振り返っても、学校に通うのにここまでの苦労をした思い出はありません。小学生時代は家から約5kmの距離を歩いて学校まで通っていましたし、中学生時代はさらにそれよりも遠い距離を自転車で通っていました。いずれも平坦な道のりでした。

しかし、この記事の中の中学生たちは違います。実に危険な道のりを毎日学校に通っています。そして、それを親も許しています。日本の保護者が同じ環境下に自分の子どもたちが置かれれば、まずこういう危険な状況下の中でわが子を学校には行かせないでしょう。

ベトナムの地方の村に行くと、実に貧しい地区があるのを私自身も知っています。今から十数年前にもなりますが、電気も水道も無い地区がありました。今現在はおそらく改善されているだろうとは思います。しかし、その当時でも、やはり山道を小学生・中学生たちが学校に通っている光景を見ました。

地図で確かめると、「西北部ディエンビエン省ムオンチャー郡」という場所は、ラオス国境に近い、山岳部の場所に位置しているようです。おそらく「少数民族」の子どもたちが通っている学校だと想像されます。ですから、家庭が貧しい環境下に置かれていても、こういう過酷な道路を通い、川を渡って学校に通っているのでしょう。しかし、ものすごい向学心だと思います。

「ベトナムの子どもたちは貧しい環境下でも向学心の灯火は絶やしていない」

そのことをサイゴンでも感じていたのが、「Saint Vinh Son小学校」の生徒さんたちでした。そこの生徒さんたちと毎年日本の小中学生たちが交流会をしていました。そして、今年の5月にその「Saint Vinh Son小学校」が閉校式を迎えた後、日本の生徒たちとの交流会を持続するために、校長先生のOanh先生から別の小学校を紹介して頂きました。それが、Vinh Hoi Vinh Son小学校でした。その学校はサイゴンの下町の四区にあります。

今年その学校を、わが社の「ベトナムマングローブ子ども親善大使」の生徒たち8人が初めて訪問しました。その学校では今、貧しい家庭の環境下にいる160人の小学生たちが「授業料無償」で勉強しています。その生徒たち160人全員に、今年我が社から「新しい体操着」を進呈することにしました。

今年が日本の生徒たちにとって初めての訪問だっただけに、私自身も大変心配していましたが、結果としてはベトナムの生徒たち、日本の生徒たち双方のこころに深い印象を刻んだ「日越交流会」が出来ました。交流会が終わった後、日本の生徒が以下のような感想を述べてくれました。それを紹介致します。

「制服を渡したときは、みんな笑顔で自分も自然と笑顔になりました。渡した時にたくさんの生徒さんが日本語で“ありがとう!”と言ってくれてとてもびっくりしました。」(Mさん)
「僕は、勉強はあまり好きじゃないし、学校も行きたくないと思うときがあるけれど、学校に行けることが、すでにすごく幸せなことだと分かりました。」 (Yくん)

これらの感想文を読んで「Oanh先生にVinh Hoi Vinh Son小学校を紹介して頂いて本当に良かった」と思いました。今年初めての交流会でしたが、「Vinh Hoi Vinh Son小学校」 の生徒さんたちと交流会が出来て、日本の生徒たちも本当に喜んでいました。今後もずっと、「Vinh Hoi Vinh Son小学校」の生徒さんたちとの交流を続けてゆくことになります。

 

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