春さんのひとりごと

年末の嬉しい思い出と年始の出会い

2017年が始まりました。昨年は多くの人たちとの出会いがあり、いろいろな思い出が出来ました。今年もまた年明けから新しい出会いや友人たちとの再会がありました。年末は忘れられない思い出が残り、新年のスタートは楽しい思い出で幕開きました。

●Nguyenさんの結婚式●

昨年の12月18日、ホーチミン市内の式場でNguyen(グエン)さんの結婚式がありました。彼女とは今から約五年前に、<青年文化会館>で毎週日曜日午前中に行われている「日本語会話クラブ」で初めて会いました。彼女は性格が非常に明るく、声も大きいので、しばらくして「日本語会話クラブ」の副責任者を任されるようになりました。

「日本語会話クラブ」自体は今年で24年目に入ろうとしています。責任者はずっとTan(タン)さんという男性です。Tanさんは旅行会社の通訳のアテンドもしているので、時々ベトナム国内や海外の旅行の通訳のアテンドに駆り出されて「日本語会話クラブ」を留守にすることがあります。

そういう時に、当日の参加者たちに毎週配っている“トピックス”をTanさんの代わりにNguyenさんが作成しています。「新人紹介」の司会なども彼女が担当します。彼女は日本語が流暢なので、Tanさんも自分が不在の時には安心して彼女に任せています。

実は、彼女は2008年5月に日本の愛知県に行き、実習生として働いていました。そして、三年間日本で働いた後、ベトナムに戻りました。それからしばらくして、「日本語会話クラブ」に参加するようになりました。私が彼女と初めて顔を合わせたのはその頃のことです。

彼女は日本にいる間も日本語の勉強を続けていて、ベトナムに帰った時には結構上達していました。最初の頃、彼女が作った“トピックス”を事前に私が読んで、表現のオカシイ所をチェックしていましたが、最近はほとんどその必要が無いくらいに上手くなっています。今彼女は「日本語能力試験N2」を取得しています。

今から約二年前のことになります。「日本語会話クラブ」に一人の日本人男性KDさんが参加されました。彼はサイゴンの日系企業で仕事をしていました。最初に参加して以来、毎週のように来てくれていました。毎週参加してゆくうちに、「日本語会話クラブ」のメンバーたちとも親しくなりましたが、個人的にはNguyenさんとのお付き合いが続いていたようです。しかし、私は知りませんでした。

そして、しばらくして、二人の交際が真剣なものであり、昨年のテトの時には、KDさんがNguyenさんの実家まで足を運び、ご両親にも会われたということを後で聞きました。そこまで聞いた時(KDさんは本気でNguyenさんとの結婚を考えているのだな・・・)と嬉しくなりました。

「日本語クラブ」で初めて知り合い、「日本語会話クラブ」が縁になって、めでたく“結婚”までに至った例を今まで五組ほど見てきました。その一番新しいカップルにKDさんとNguyenさんがなったのです。そのKDさんは今日本に帰り、IT関係の会社に勤められています。

二人の挙式の招待状を私がNguyenさんから「日本語会話クラブ」で頂いたのは、昨年の11月中旬でした。「喜んで出席しますよ!」と返事しました。新郎のKDさんは挙式の四日前にご両親と家族を連れて来越するとのことでしたので、ベトナム側での挙式の準備と手配はすべてNguyenさんのほうで行うことになります。

彼女も大変でしたでしょうが、嬉々として式場の手配や人数確認など、挙式に至るまでの準備をテキパキとこなしていました。日本におられるKDさんとは、細かい打ち合わせは電話やメールでしか出来ませんが、Nguyenさんの奮闘ぶりに安心されていたようです。

そして迎えた挙式当日。参加する人たちで式場が分からない人は「青年文化会館」で落ち合うことにして、バイクで向かいました。式はお昼の11時半からスタートです。私が披露宴会場に入った時には、もうすでに多くの方たちでテーブル席は埋まっていました。約二百人の人たちが来ていました。

係員が案内してくれた席に私が向かおうとした時、一人の女性が近づいて来て、私に「本当に久しぶりです。私を覚えていますか」と声をかけてきました。いきなり言われてもすぐには思い出せません。しかし、どこかで見たような顔ではあります。

私がしばし首を傾げていると、続けて彼女は「今から8年前に人材派遣会社の学校で日本語を教えて頂きました。今日ここで会えるなんて思いませんでした。本当にうれしいです。あそこに、その時同じクラスだった友達が二人来ていますよ」と言って、少し離れたテーブルを指しました。すると、その友達らしき二人が頭を下げて挨拶してくれました。

私は彼女の友人二人が座っている席に近づき、挨拶しました。そこで分かったのは、彼女たち三人は8年前に確かに私が教えていた生徒たちでした。Nguyenさんが日本に行く前に日本語を勉強していたのは別の会社でしたが、日本では同じ会社で働いていたというのです。Nguyenさんより彼女たちのほうが一年早くその会社で働いていました。ですから彼女たちはNguyenさんの先輩になります。今でもお付き合いが続いていたのです。

Nguyenさんの結婚式この日は三人全員が家族同伴で来ていました。三人全員が結婚していたのです。Nguyenさんの結婚式に参加出来ただけでも嬉しかったのに、こういう場でかつての教え子との再会というサプライズもあり、感動しました。

そして式が予定通り始まりました。新郎新婦の登場からスタートして、両家のご両親も舞台に立たれます。新郎新婦のお父さん二人の感謝の挨拶が終わり、続いて新郎新婦二人による「ケーキカット」「シャンパンタワー」

この場面が一番盛り上がり、みなさんカメラや携帯を手にして前のほうに出てきます。 二人もそれにサービスするかのようにゆっくり・ゆっくりした動作でケーキをカットし、シャンパンを注いでゆきます。結婚式の場面では、後で振り返っても、やはりこの瞬間がいつも一番思い出深いものです。

それが終ると、ベトナムの結婚式の定番のカラオケ大会です。ベトナムの人たちが先に歌うと、後で割り込む余地が無いぐらいにドンドン予約していきますので、Nguyenさんに、最初に我々「日本語会話クラブ」全員の参加者による曲を予約しておいてもらいました。

歌う曲は日本語で歌う“乾杯!”です。この日の式には約15人のクラブのメンバーが参加していましたので、全員が舞台に上がり、全員で乾杯!”を歌いました。舞台の上のクラブのメンバーも、他のお客さんたちも大いに盛り上がりました。式自体は三時頃まで続きました。

我々クラブのメンバーは式が終った後、酔い覚ましに近くの喫茶店でコーヒーを飲むことに。まだ、式の楽しい余韻が続いていました。同じクラブのメンバーの中から、今回二人のように結婚にゴールインした姿を眼の前にして、みんな嬉しい様子でした。

ベトナムでの結婚式が終った後、KDさんは三日後に家族とともに日本へ先に帰ってゆかれました。そして、Nguyenさんは今年のテトが終ってしばらくしてから日本に行き、二人で新しい生活を始められます。Nguyenさんが日本に旅立つ前に、クラブのメンバーで「送別会」をしてあげる予定です。

“二人の未来に幸せあれ!”

 ●SAORIさんとの再会 ●

2014年3月号に “ベトナムの思い出”を語った留学生、日本に帰る>という内容でSAORIさんの思い出を載せました。SAORIさんは2013年3月にベトナム語の「語学留学生」としてサイゴンにやってきました。そして、無事に一年間の語学留学を終えて、SAORIさんが日本に帰国したのは2014年の二月末でした。それからお互いに、特に連絡を取ることはありませんでした。

そして、昨年の12月末、私にSAORIさんからメールが届きました。「12月末から5日間ほどサイゴンに行きますので、みなさんに会いたいです!」と。それに対して、「いいですよ。お待ちしています」と返事を出しました。会う場所は「SUSHI KO」に決めました。

街中が歳末に近づくと、交通渋滞で混雑するので、SAORIさんに会うのは、彼女がサイゴンに着いた日の28日にしました。そして、その日の三日前に行われた「日本語会話クラブ」でSAORIさんを知るメンバーに、彼女がもうすぐサイゴンを訪問することを伝えました。そのメンバーの中の一人はベトナム人の男性でしたが、「えっ、本当ですか!是非会いたいです」と答えてくれましたので、待ち合わせ場所と時間を伝えました。

彼はこの時日本人女性の旅行者を連れて来ていて、彼女の通訳兼アテンドをしていると話してくれました。聞いたら大学生だというので、SAORIさんとあまり年齢が違いありません。彼女に「それなら、あなたも一緒に来てもいいですよ。SAORIさんも女性だし、あなたと同じ年齢ぐらいですから」と言うと喜んでいました。

そして当日28日、私は授業を終えた後、約束の時間よりも少し早めに先に「SUSHI KO」に着きました。彼女がここに来るのは初めてなので、(もしかしたら迷うかも・・・)と心配したからです。その後すぐに、クラブのメンバーのベトナム人の男性と日本人女性が到着。心配していたSAORIさんも予定時間通り来ました。

「迷いませんでしたか」と聞きますと、「いえ、大丈夫でしたよ。スマホで位置が分かりましたから」と答えてくれました。今も「ガラ携」しか使っていない私には想像出来ない世界ですが、最近のスマホの携帯は目的地を打ち込むと、その携帯の画面に現在地と目的地が表示されるという便利なもののようです。

四人で“SAORIさんの歓迎会”をしました。本当はSAORIさんがベトナムに来た当初、アパート探しなどでいろいろ助けてくれたXuanさんも呼びたかったのですが、お母さんの具合が悪いとかで、ちょうど田舎に帰っていました。Xuanさんも「会いたかったです!」と残念がっていました。

久しぶりに再会した彼女は二年前に別れた時と全然変わっていませんでした。変わっていたのは、2016年の春に大阪大学を卒業して、今は佐賀県で働いているということでした。「佐賀県ですか。佐賀県は私の先祖の出身地ですよ。佐賀県には孔子を祀った“多久聖廟”という有名な場所がありますので、一度暇な時に訪れてください」と言いますと、彼女はその名前を書きとめていました。

私は今から約20年前に、そこを訪問した思い出があります。“多久聖廟”では、毎年春と秋の年二回孔子を祀る伝統行事“釈菜(せきさい)”を行っていて、私は春に日本に帰国した時、それに両親と参加しました。地元の新聞社の方が「多久聖廟を建てた子孫がやって来た!」というので、取材に来られた記憶があります。今父は故人になりましたが・・・。

SAORIさんは席に座るや「ホーチミン市に着いた時、以前あれだけ勉強したベトナム語がすぐに通じなくて自分でも戸惑いました。そして、この二年間で大きな、高いビルが増えているのには驚きました」と、到着後の感想を笑いながら話していました。

今回は5日間ほどしかサイゴンには滞在しませんが、旧知の友人や旧知の場所を訪問するそうですので、懐かしい思い出に浸ることでしょう。翌日は今日初めて会った日本人女性がすぐ日本に帰るためにお土産を買うので、お土産屋さんに付き合いましょうと言っていました。

私とはこの日だけの短い再会で終りましたが、SAORIさんは「また時々ホーチミンに来ますよ。青春の思い出の街ですから」と言って、タクシーに乗って去ってゆきました。

 ●Haiさんとの出会い

新年が明けて1月3日、あの<さすらいのイベント屋NMさん>と「SUSHI KO」で会う予定にしていました。その前日にNMさんから「今回は美女が現れるかもしれません。彼女は日本語も流暢ですよ」という連絡がありました。友人のABさんにも「NMさんが明日は美女登場かもと言っていますので、是非来てください」とメッセージを送りました。

その日はNMさん、私が先に着きました。ABさんは仕事が立て込んでいるので、少し遅れるという連絡がきました。そして、我々二人で先にビールを飲んでいると、その“美女”が現れました。バイクタクシーの後ろに乗って。

私は彼女が現れるまで、(NMさんが言う“美女”は衣装や化粧が派手で、当然タクシーに乗って現れるだろう・・・)と思い込んでいましたから、これは意外でした。彼女は我々の席に近づき、頭を下げて挨拶しました。名前はHai(ハーイ=海)さん

Haiさん彼女は化粧もあまり濃くなく、服装も派手ではなく、見た印象は普通の女性でした。でも、顔立ちは知的な美しさを漂わせていました。彼女もビールは飲めるというので、乾杯しました。普段は男性だけでしか飲んでいないので、こういう女性が加わるとまた話も弾みます。

いろいろHaiさんと話を聴いてゆきながら、彼女の日本語の見事さに驚きました。そして、彼女の経歴を聞いて、さらに驚きました。彼女のご両親はベトナム戦争終結後に 「ポート・ピープル」で日本に行き、今現在は日本に住まわれているというのです。

今彼女は28歳です。両親は、彼女が17歳の時姉と一緒に日本に呼び寄せたそうです。ですから、11年間日本に住んでいることになります。彼女が話している日本語を聴いていますと、まったく日本人が話しているのと変わりありません。(17歳で日本に行ってから、さぞ日本語の勉強を頑張ったのだろうなぁー・・・)と想像しました。

17歳で異国に行き、外国語を身に付けるというのは大変でしょう。彼女は日本に行って、すぐに日本の高校に入ったといいます。回りは自分以外全員が日本人です。私が「イジメに遭いませんでしたか?」と聞きましたら「ええ、イジメに遭いました」と答えました。

しかし、彼女の担任の先生が非常に理解があり、良く出来た人で、彼女の面倒を親身になって見てくれたそうです。日本語も個別に教えてくれたといいます。そのおかげで、彼女は最初に高校に入って味わった孤独感、疎外感を乗り越えることができました。

高校二年生になった時、その担任の先生から「弁論大会に出てみないか」という誘いがありました。発表はもちろん日本語で行われます。(日本語もまだ不十分な自分がなんで弁論大会などに・・・)と乗り気ではありませんでした。

しかし、その先生は「まず、英語で文章を書いてみなさい。それを私が日本語に訳します。その訳した日本語を丸暗記して弁論大会に臨めばいいですよ」とアドバイスしてくれたそうです。

彼女は言われた通りに、英語で原稿を書きました。それを担任の先生が日本語に翻訳してくれたそうです。そこから彼女の奮闘努力が始まりました。発表する内容の日本語を丸暗記しないといけません。弁論大会の前まで、先生は表現の仕方、発表の仕方も直してくれました。

そして、当日の発表の順番が来ました。今までの努力の成果をぶつけるだけです。自分でも何とか満足のゆく発表が出来たそうです。その「弁論大会」の結果は、何と二位に輝きました。どんなに嬉しかったことでしょう。

それから、彼女は日本語の勉強に自信を持って取り組んでゆきました。今眼の前にいる彼女がここまで流暢に日本語を話しているのはそういう過去があったからだなぁーというのが良く理解できました。

ベトナム戦争後、彼女のご両親に限らず、多くのベトナム人が祖国を捨てて、故郷を捨てて、「ボート・ピープル」となって世界中に散らばりました。「何故そうなったのか。何故故国を捨て、命の危険までも冒して海外に逃げなければならなかったのか。何故、北と南の人民同士が協力して国の再建に立ち向かわなかったのか」、その理由については、あの<ベトナム戦争当時にメコンデルタでバナナを植えていた日本人・Yさん>にも話を聞いたことがあります。

裏切られたベトナム革命の本そのYさんの口からも直接いろんなケースを聞きました。そしてYさんは一冊の本を私に見せて、「これを読めば良く分かるよ」と言って、私にプレゼントして頂きました。その本とは「裏切られたベトナム革命:チュン ニュー タンの証言」(友田 錫著)
確かにこの本には、祖国を逃れた人が具体的な事例を生々しく語っていますので、その時代の状況がよく分かります。

Haiさんにもそのことをこの場で質問しました。彼女もご両親からその当時のことを直接聞いていたことがあるのでしょう。生々しい例を挙げて語ってくれました。敢えてここでは触れませんが、それを語る時の彼女の表情には哀しみが表れていました。

彼女はこの日の宴が終る頃、自分のカバンの中から雑誌を取り出して、私にくれました。 その雑誌はベトナムで発行されているフリー・ペーパーの「VINABOO」です。その中の広告ページを開いて「今私が働いているのはこの会社ですよ」と言って、笑いながら示してくれました。

ベトナム戦争の傷痕をこころの中に負っている彼女ですが、ベトナムに平和が訪れて久しい今、日本とベトナムの間を忙しく行き来する日々が続いているそうです。NMさんの紹介でHaiさんとの“縁”が出来ました。彼女とはまたこれからも会うことになることでしょう。

ガンボさんの来越

<ガンボさん>という通称でふだんは呼んでいますが、最近までその本名を知りませんでした。ガンボさんについて私が触れたのはずいぶん古く、2003年10月号に「Mさんの訪越」として紹介したことがありました。実に今から13年近くも前のことです。最初は浅野さんの紹介で知り合いました。浅野さんとは30年前からの付き合いだといいます。

その後、ガンボさんは結婚、子育てなどが続き、しばらくベトナム行きを中断されていました。それが一段落してまた再開されたのが、二年前からでした。ふだんは浅野さんがガンボさんの宿の手配をされていますが、今回は浅野さんが出張のため、私が予約に行くことにしました。

その時にふっと疑問が湧きました。(ガンボさんの本名は何というのだろうか・・・)。いつも「ガンボさん、ガンボさん」としか呼んでいないので、正しい名前を聞くのを忘れていたのでした。それで、ガンボさんが泊まる予定の宿に行き、「いつもここに泊まる日本人で、 浅野さんの友人だ。彼がまたサイゴンに来て、ここに泊まる」と言うと、すぐに理解してくれました。

ガンボさんは今回、1月5日から8日までサイゴンに滞在しました。その間出かけたのはNguyen Hue(グエン フエ)通りの歩行者天国や、帰国前にお土産屋さんに行ったぐらいで、まったくどこにも行かれず、旅行にも行かれませんでした。これは13年前も同じでした。

そして夕方になると、「豪遊しましょう!」と言って、ビールを飲みに、我々の行きつけの場所に行きます。今はそこが「SUSHI KO」に変わっただけです。ですから、以前もそうでしたが、今回も「どこに連れて行って欲しい」とか「買い物に行くので付き合って欲しい」というお願いなどは一切無く、この滞在中はずっと一人で行動されています。本当に手が掛からない人なのです。

さらには、ベトナムに来る時には、焼酎の一升瓶を二本と、お菓子やカップ麺などのお土産を山のように持ち込んで来られます。焼酎は浅野さんと私のため。それ以外は浅野さんや私の子どものためです。今回はさらにABさんの子どもさんのお土産も持って来られました。実に律儀な方です。自分の持ち物でかさ張るものは全くなく、着替えも一着ぶんだけで、一日が終ればそれを宿で洗濯されます。まさしく「Simple is Best !」を絵に描いたような人です。

ガンボさん到着の最初の日の宴会には、ガンボさん本人、浅野さん、ABさん、古い友人のOTくん、そして私が参加しましたが、その他に「特別な人」がたまたま参加しました。最近ホーチミン市で日系の歯科医院を開院されたAG先生の奥様のIAさんです。

IAさんは日本では元モデルをされていました。大変な美人ですが、「特別」というのはそのことではなく、彼女には「霊感」が備わっているというのです。IAさんは小さい時に事故で頭部にショックを受けました。それからしばらくして、人を見るとその人の「オーラ」が見えるようになったといいます。AG先生からその「オーラ」についての説明を頂きましたので、簡単に紹介します。

「ヒトから放たれるオーラは、人それぞれ色が違い、その人の性格や特徴、精神状態や周りの環境によって独自の色を持っております。それぞれの人が放つオーラは一色とは限らず、何層にも分かれて形成されることが多く、ほとんどの人が複数のオーラを持っていることが多いのです。最大七層までオーラが形成されるのですが、一層目のオーラの色がその人の特徴を一番表すということになります。」

それで、試しにこの場にいた数人のオーラを見てもらいました。ABさんは「オレンジ色」、その意味は「人生をエンジョイしている」。浅野さんは「緑色」、その意味は「人を癒す」。ガンボさんは「ピンク色」、その意味は「純粋な人」。私は「紺色」、その意味は「教師に多い」でした。

浅野さんの「緑色=人を癒す」の指摘には唸りました。まさにその通りだったからです。浅野さんがこのベトナム全土で「マングローブの植林活動」に勤しんでいるということには一言も触れなかったのに、浅野さんのその本質的なことを見事に言い当てられました。

IAさんはそれを気負いもなく、冷静に、淡々と言われました。大いに驚きました。生まれて初めて、こういう人が実在するのを眼にしました。私自身もこういう話題には昔から興味がありましたので、身を乗り出して聴いていました。

ちなみに、IAさんご自身のオーラは「シルバー」だそうで、「霊感を持った人」がこの色だといいます。最高位は「ゴールド」で「人のために尽くしている人」だそうです。ABさんが「Saint Vinh Son小学校の運営責任者のFさんは、おそらくゴールドなのでは・・・」と話されましたが、恐らくそうかもしれません。

この日のガンボさんを迎えての宴会は、AG先生とIAさんご夫妻の参加もあり、大いに盛り上がりました。ガンボさんとは最終日まで毎日「SUSHI KO」で会いました。最終日は浅野さんと私でお別れ会をしました。「また夏ごろには来ますよ」と言って、ガンボさんは爽やかに帰ってゆかれました。

※春さんは1997年春よりホーチミンに駐在しています。今ではすっかり現地の人となって、見分けもつかなくなっています。春さんに質問や相談があればメールをお送りください。

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。 「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

歩行者天国で「着ぐるみ」着てアメを売る若者たち

ホーチミン市1区の歩行者天国グエンフエ通りでは、1年ほど前から夜8時頃になると1km足らずの区間にミッキーマウスやピカチュウ、ドラえもんなど20体近くの着ぐるみが集まり、行き交う人にアメを売り歩いている。

子供に手を振りながら近づいて頭を撫で、「いないいないばあ」をしたり抱き上げたりすると子供たちは大喜び。サッと子供にアメを差し出して親を促すと、誰もが笑顔で快く代金を支払う。

アメの売値は1本2万VND(約104円)で着ぐるみの取り分は5000VND(約26円)、一晩で10万VND(約521円)程の収入になる。会社に雇われて着ぐるみを着ている人が多いが、自腹で大きさやキャラクターによって300万~600万VND(約1万6000~3万1000円)する着ぐるみを購入しアメを売り歩く人もいる。

着ぐるみを着ているのは高校生や大学生を中心とした若者たち。短大を卒業したものの仕事が見つからず、就職活動をしながら昼間はカフェで夜は着ぐるみ姿で生活費を捻出する24歳の男性、公演がない夜に新婚の妻と着ぐるみでアメを売る28歳のアマチュアマジシャンなど、着ぐるみを着る事情も様々だ。

歩行者天国には着ぐるみのアメ売りのほか、社会経験や商売のノウハウを学びたいと仲間内で制作したキーホルダーを売る人や、開業を夢見て手製のチーズケーキを売る学生グループなどもいる。

VIET JO

 解説 ◆

ホーチミン市内では至るところで、夜になるといろんな物売りの人たちが登場します。宝くじやガム売りなどの人たちはただその「物」を売るだけですが、中にはいろんな工夫や芸を披露して、楽しませてくれる「物売りさんたち」がいます。それらの芸を見て、物を買う・買わないはお客さんの自由です。強制ではありません。時たま、芸が上手い時には、私も買うことがあります。

「SUSHI KO」の前にもいろんな「物売りさんたち」が現れます。今までで一番面白かったのは、マイケル・ジャクソンの真似をした「物売りさん」です。マイケル・ジャクソンの例の音楽を大音響で鳴らしながら、右に左にエネルギッシュに踊ります。

その踊る場所は家の中ではなく、歩道上でもなく、バイクや車が通過する道路上なのです。よくぞ車やバイクにはねられないものだと感心します。車やバイクが彼を器用に避けてゆきます。そこであの「ムーン・ウォーク」も披露します。白人のお客さんたちも、ベトナムで見るマイケル・ジャクソンさんに拍手・大喝采です。その後、マイケル・ジャクソンさんは飴を売ります。

次に面白いのが手品師です。まだ若い男女のペアがバイクに手品道具を乗せて登場します。最初にみんなの拍手が多いのが、ハトを使った芸です。メニューの薄い冊子のようなものを開いて、そこに白いオシボリを挟んで二・三回開いたり、閉じたりした後、その薄いメニューから白いハトが突然飛び出してきます。 続けて、ステンレスの皿の上に何も無いのをお客さんたちに見せた後、その中に油を入れて火を点けます。そして上からフタをして、1・2・3の掛け声の後、フタを開けると、あら不思議、また白いハトが中から飛び立ちます。ペアのお姉さんがそのハトを捕まえます。

次に、お客さんのテーブル上にあるビールを借りて、自分のグラスに注ぎ、ストローでビールをかき混ぜます。数回ストローでかき回した後、口にストローをくわえて、グラスを持った手を離します。すると、これまた不思議、グラスは下に落ちもせず、ストローで吊られたような状態で空中に浮いています。みんな首を傾げて見ています。この他にもあと二つほどの演技を披露しますが、彼が見せる手品でこの三つだけは、どういうタネがあるのか、今でもよく分かりません。

これ以外に、口が利けない演技をして人指し指を横に振りながら、ボールペンを売りに来る女性。路上で灯油を口に含み、それに火を点けて演技する少年。この少年はカミソリの歯を自分の歯でバリバリと噛み砕きます。それらを芸として見せ、終ってから「物売り少年」に変身します。

この記事にあるように、手製のチーズケーキを売る学生グループも最近現れました。そして一番の最新版が、「着ぐるみ」の物売りさんです。同じく、ミッキーマウスやピカチュウ、ドラえもんが「SUSHI KO」にも登場します。先日はクマの「着ぐるみ」の物売りさんも来ました。「着ぐるみ」さんは頭からスッポリとヌイグルミを着ているので、言葉を出せません。

言葉を出せないので、そのぶん愛嬌のある動作で演技して、子どもたちの興味を惹きつけて、子どもたちを欲しい気持ちにさせ、親に「仕方がないなぁー」という気持ちにさせて、 財布を開けさせて上手にアメなどを売り付けます。

これからも、サイゴンの街中にどんな面白い「物売りさんたち」が現れるか、ビールを飲みながら楽しみにしています。これは日本には無い楽しみかたですね。

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