春さんのひとりごと

日本帰国余話・後編

今年日本へ帰国した時に、日本で教え子たちに会いたいと思い、三ヶ所の地を訪れました。まず、最初は私の故郷の近くの「トヨタ関係の会社」で働いている生徒たち。二回目は、毎年訪問している「熊本外語専門学校」。三回目は、鹿児島県垂水市で「カンパチの加工」をしている生徒たちです。そして、この最後の鹿児島行きでは、私自身も驚いたドラマがありました。(まさか、あの鹿児島の地で・・・)と、今でも信じられない、不思議な思いがしています。

● 熊本県玉名郡南関町での再会 ●

今年の2月から私の故郷のすぐ近くで、15人の男子の教え子たちが働き始めました。まさか、私の地元にまで、直接私自身が教えていたベトナム人の生徒たちが来るようになるとは思いもしませんでした。それだけ、今の日本の「人手不足」の現状を映し出しているのかもしれません。

昨年末、私がクラスの中で授業をしていた時、生徒たちが私にこう話しかけてきました。

生徒:「実は、来年2月から日本で働くことになりました!」
私 :「そうですか。それはおめでとう!それで、日本のどこで働くの?」
生徒:「クマモトです!」
私 :「えっ、熊本!!?? 熊本のどこ?」
生徒:「タマナです!」
私 :「えっ、玉名・・・!!玉名のどこ?」
生徒:「ナンカンです!」
私 :「えっ、南関・・・!!」
生徒:「ナンカンを知っていますか?」
私 :「知っているも何も、その南関は私の家から車で20分ぐらいだよ」
生徒:「えっ、本当ですか!!じゃー、帰国した時には、是非会社に来てくださいね!」
私 :「分かった。必ず行くよ!」

そういう約束をしていたので、日本に帰国していた時の、5月15日にそこを訪問しました。やはり、車で20分ほどしてそこに着きました。会社名は「AT-Kエイティー・九州」。大変大きな会社でした。

会社の受付に行くと、最初に出て来た人が、ベトナムで私と同じ学校で働いていたBAO(バオ)君。彼は実習生たちの通訳として日本に行っていたというのは聞いていましたが、まさかここに来ていたとは知らず、これには驚きました。聞けば、私がベトナムに戻る日と同じ頃に、彼もベトナムに帰ると言う話でした。

日本人の案内役はOSさん。OSさんに話を聞きました。「ベトナム人の実習生たちの働きぶりはどうですか」と。OSさんは次のように答えられました。「彼らは真面目で、良く頑張ってくれていますよ。日本人の従業員以上に働きますね。朝8時から働いているグループは残業を入れると夜7時までです」。

彼ら二人の案内で工場の中を見学しました。ここの会社はトヨタ関係の会社で、車のブレーキ・ディスクを作っています。工場内は写真撮影が禁止です。企業の秘密に関わる作業場が多いからでしょう。ここでは全員で約200人の社員が働いているそうですが、ベトナムからは15人の教え子たちが働いています。

私がそこを訪問した時は、彼らが働き始めてちょうど二ヶ月目ぐらいでした。この時は仕事中だったので、残念ながらゆっくり会話を交わす時間はありませんでした。しかし、もの凄い騒音と匂いです。大きな機械で部品を削る音や、機械が工場内を移動する音が響き、さらには、金属とゴムなどを加工している臭いが工場内に漂っています。

彼らの顔を見ても、マスクで顔を覆っているので、誰なのかは良く分かりません。でも私の顔を見て、眼元をニコッとさせて握手を求めてきました。私も強く握り返しました。(良く頑張っているな~)と感心しました。

その生徒は顔をマスクで覆い、話をしたくても出来ない状態なのが分かりましたので、なおさら胸がジーンとしてきました。15人の生徒たちは三交代制なので、この日工場内で働いていたのは全員ではありません。

その後、すぐ近くにある寮を見学。寮は会社から車で5分ほどのところにあり、一部屋に三人一緒に住んでいます。私がそこを訪ねた時には、みんな昼寝中でフトンにもぐりこんでいました。私が訪ねて来て、眠い眼をこすりながら出てきました。三交代を終えて、寮で寝ていたのかなと思いました。

しかし、ここはまさしく山と森に囲まれた盆地にあり、大変な田舎町です。遊びに行けるような娯楽施設も、繁華街もありません。休日にみんなで食べに行く時には「玉名市内」まで出かけて行くということでした。無駄遣いをするような場所が無いので、さぞ貯金もしっかりと出来るのではと思います。

面白かったのは、寮の前に置いてあった鉢植えに、トウガラシとミントの苗が植えてあったことです。やはり、ベトナムの味が忘れられないのでしょう。数ヶ月後にそれらが育ち、寮のテーブル上に置いてトウガラシやミントを味わった時、故郷・ベトナムに思いを馳せるのかもしれません。

寮の外に出て、彼らと肩を組んで写真を撮り、「来年、また来るからね!」と言って、彼らに別れを告げました。もしかしたら、来年は今の15人からもっと増えているかもしれません。


● 熊本外語専門学校での再会 ●

5月16日に「熊本外語専門学校」を訪問しました。ここへは毎年訪問しています。学校に行き、まず校長先生のY先生に挨拶。Y校長先生のお話では、嬉しいことに、今年はあの広島大学にベトナム人の留学生が一名合格したそうです。

しかし、Y校長先生の話では「昨年から今年にかけては、ベトナム人の留学生たちに対しての入管の眼が厳しくなりました。NHKでベトナム人留学生たちの問題点が採り上げられたこともあり、入国が厳しくなっていました。今年あたりからは少し緩やかになるだろうと予想しています」と話されました。

待合室には、彼らが自分で筆を握って和紙に墨で書いた漢字も貼ってありました。その後、教室に上がり、クラスの中に入りました。今ここには20数名のベトナム人の留学生たちが日本語を勉強しています。昨年はここに50名の留学生たちがいましたが、先にここに来た生徒たちが短大や専門学校に進み、今はその半分近くが残っていました。

授業の終了時に、館内放送で「ホーチミン市の○○○学校から来た生徒さんたちは教室に入ってください」と告げましたので、生徒たちは全員そこに集まってくれていました。最近はこの館内放送があると、(ははぁ~、また来たのだなぁー)と、私が来たことが生徒たちも分かりだしましたので、サプライズが通用しなくなりました。

教室に入ると、そのすぐ後に、ベトナムで同じ学校で教えていた、あのUA先生と再会!!UA先生は大粒の涙を流して喜んでくれました。生徒たちに向かっては、あらためて「日本での目標」を話してあげました。「この日本でのみなさんの目標は“日本語をしっかり勉強すること”。“アルバイトをしっかりすること”が目標ではない」と。

いろんな話をしましたが、「目標を高く持って頑張って欲しい。ベトナムにいるご両親もみなさんが日本で頑張っている姿を想像していますよ」と最後に話して、みんなとお別れをしました。午後2時半が授業の終わりだということで、みんなそのまま寮に帰ってゆきました。

 

  ●  鹿児島県垂水漁協での再会 ●

5月21日に【鹿児島県垂水漁協】を訪問しました。ここも毎年訪れている所です。ここでは今7名の教え子たちが「カンパチ」の加工の仕事に携わっています。今年の「ドラマ」は彼らを訪問をした鹿児島の地で起きました。

まずこの日は、新幹線で「新玉名駅」から「鹿児島中央駅」まで移動。今年私を垂水まで案内してくれたのは、私とは実に三十年来の付き合いのある、友人のDKさん。彼は今年でちょうど70歳になったと言われました。

彼はかつてわが社の塾部門で、鹿児島県の鹿屋市の教室を担当していました。20数年以上前にわが社を退職されましたが、非常に情に厚く、義理堅い人で、今でもお付き合いが続いています。毎年鹿児島で生徒たちに会った日は鹿児島市内に泊まっていますので、事前に鹿児島市内に泊まる日を連絡して、毎年夕方から市内で再会していました。

毎年私が鹿児島に移動して、鹿児島中央駅まで迎えに来て頂き、垂水まで案内してもらっていたのは鹿児島在住のUさんでした。しかし、今年はUさんのほうでどうしても外せない急用が出来たので、Uさんの代わりにDKさんにお願いをしますと、「いいですよ!」と快く引き受けて頂きました。

それで、鹿児島中央駅で待ち合わせして、DKさんの車に乗り、垂水市まで移動することに。鹿児島中央駅の構内には、今年のNHKの大河ドラマで放映されている「西郷どん」の大きな看板が写真パネルで立てられていました。(鹿児島県自体も大いに力を入れているのだなー)と思わせる、数々の写真が展示されていました。

いつものようにフェリーに乗りました。しかし、鹿児島市内から垂水まで行く時に乗っていたこのフェリーですが、今まで私は一種類しかないものと思い込んでいました。いつも、Uさんの車に乗って、あまり注意も払わずに移動していたからです。いつも乗っていたフェリーは15分ぐらいで対岸に着きました。

DKさんの車が着いたフェリー乗り場を見た時、(いつもの場所と少し違うかな)とは思いましたが、昨年乗った時の場所と似たような光景でしたので、何の疑問も持たずにそのまま乗り込みました。しかし、この日乗ったフェリーは20分経っても、30分経っても対岸に着きません。(おかしいなぁ~・・・)と、思いDKさんに聞きました。

「いつもは15分くらいで対岸に着くのに、今日はえらく時間が掛かりますね」。私がそう言いますと、「ええ-っ、そうでしたか!垂水市に行く時は、フェリーを降りてからはこのフェリーのほうが一番距離も短くて早いので、このフェリーに乗りましたが、今まで乗っていたのは<桜島フェリー>のほうだったのでしょうね」とDKさんが答えられました。

それを聞いて、鹿児島市から垂水市まで移動する時のフェリーには二つの種類のフェリーがあることを、この時初めて知りました。<桜島フェリー><垂水フェリー>の二つです。DKさんが今回利用したのは、<垂水フェリー>のほうだったのです。<桜島フェリー>はその名前のように「桜島」の麓辺りに着きます。<垂水フェリー>は乗船時間が長く、垂水市に着きます。「垂水漁協」はそこに着いてから少し北上します。

最終目的地の垂水まで行く時間はトータルでは同じですが、フェリーに乗ってからの時間と、フェリーを降りてからの時間が違うだけです。<桜島フェリー>では、フェリーに乗る時間は15分ぐらい。フェリーを降りて、垂水漁協まで行くのに40分ぐらいを要しました。

<垂水フェリー>の場合は、フェリーに乗っていた時間は45分ぐらい。フェリーを降りて、車で垂水漁協まで行くのには20分ぐらいで着きました。ですから、所要時間はどちらでも、あまり変わりはありません。料金も少し違いました。フェリーの料金は<桜島フェリー>のほうが少し安いぐらいです。

お昼過ぎの2時半頃に、ともかく「垂水漁協」に到着しました。まず漁協の事務所を訪問し、組合長のHNさんに挨拶。「彼らの仕事ぶりはどうですか」と尋ねますと、「いやー、大変真面目でよく頑張ってくれているので、大いに助かっています」との、HNさんの返事でした。

HNさんと話し終えて、彼らの仕事場に向かいますと、ちょうどその時間に教え子たちも仕事が終わり、寮に帰ってゆくところでしたので、寮の中で再会。「今の仕事は何時から何時までなの?」と聞くと、「朝6時半から昼過ぎの2時半までです」との答え。これは昨年も変わっていません。今年から二人の実習生が新しく働き始めました。

彼らにはベトナムから持ち込んだ、ベトナムのお菓子類(ドリアンやマンゴーやジャック・フルーツなど)を渡しましたが、大変喜んでくれました。全員が女性なので、寮内では仲も良く、にぎやかです。キャー・キャー笑ってうるさいぐらいです。

テーブルの上にはまだ青い梅の実がボールいっぱいに入っています。「これはどうしたの?」と聞くと、すぐ隣にある、小さい神社の中に梅の木があり、その木の枝が寮の敷地内まで入り、青い実を付けているので、それをちぎってそこに置いていると言うのでした。

「日本人は誰もそれを採りに来る人がいないので、私たちが頂いています」と言って、ベトナムから持ち込んで来た「タイニンのエビ塩」を付けて、美味しそうに私の目の前でガリガリとかじりました。思わず笑いました。マンゴーの青い実に「タイニンのエビ塩」を付けて食べるのは私もベトナムでは普通にしていますが、青い梅もそのようにして食べることが出来るとは思いませんでした。

そこではいろいろな話をしました。私を案内してくれたDKさんはベトナム語が全く分からないのですが、黙って横で聴いていて、彼らと別れた後、車の中でこう話してくれました。

「彼らはみんな明るくて、素直な子たちですねー。感心しました。会社の人たちからもさぞみんな可愛がられていることでしょうね」

私もそう思います。私がベトナムで教えた中では、彼らが日本の最南端で頑張っているのですが、会社の人たちから可愛がられるように、三年間いい仕事をしてくれたらいいな・・・と願っています。

そして、寮の前で彼らとお別れをして、車で鹿児島市内まで移動しました。車を走らせて15分ぐらいした所で、眼の前に聳えている「桜島」から大きな噴煙が上がりました。真っ黒い色をした煙が「桜島」の頂上から噴き上げています。「これはすごい!」と思いました。彼らの寮からも見えていたことでしょう。

DKさんが「風向き次第では、鹿児島市内までこの噴煙による火山灰が流れるでしょうね」と言われました。私が「鹿児島の人たちは大変な生活を強いられているのでしょうね」と言いますと、「昔からのことなので、鹿児島の人たちは慣れていますよ」と答えられました。

「展望台がこの先にあるので、そこから桜島を見てみましょうか」とDKさんが言われたので、「お願いします」と言って、そこに向かいました。そして、今回のドラマはこの時に起きました。 高い位置に見える展望台の場所に着き、その下の駐車場に車を停めて、歩いて展望台に向かいます。足元には今まで降っていた火山灰が積もっています。展望台に着きました。さほど高くはない展望台です。この日は平日だったせいもあり、観光客は多くはありません。我々以外は、2・3人のグループが数組と5・6人のグループが一組だけでした。

「桜島」の頂上を見ると、この時も火口から黒い噴煙が噴き上げていました。DKさんはいつものことなので見慣れているのでしょう。さほど興味は示されませんでした。私は「桜島」が噴煙を上げているのはまだ数回しか見たことは無いので、しばらくそれを見つめていました。それを見終えて、土産物を売っているほうに向かいました。

そこには、先ほど同じ展望台にいた5・6人のグループの方たちもいました。皆さんが年配の方たちでした。その方たちの近くで、私は(何か面白い土産物は無いかな・・・)と思い、土産物を手に取って見ていました。すると、私の耳にベトナム語で話しているらしい会話が聞こえてきました。

(まさか、こんなところで・・・)と私も思いました。静かに聴いていますと、やはりベトナム語に間違いありません。年配の女性がベトナム語でいろいろ質問しているのを、年配の男性が日本語でお店の人に話しかけて、それを年配の女性にベトナム語に通訳していました。その男性の方の顔を見ると、(おそらく日本人では・・・)と、私は思いました。

しばらくその方たちの話を聴いた後、私は思い切って、日本語で「もしかしたら、みなさんはベトナムの方ですか」と尋ねました。すると、年配の女性の方が「はい、私はベトナム人ですよ。でもこの人は日本人です」と、先ほどベトナム語に通訳していた年配の男性を指して、日本語で答えられたのでした。その年配の女性の方は日本語も話せるベトナム人の方でした。

それで、次は年配の男性に向かい、「横で聴いていましたら、大変ベトナム語が上手なのに驚きましたので、つい尋ねました」と言いますと、先ほどのベトナム人の女性の方が「ええ、そうでしょう!この人はベトナム戦争当時にベトナムに来ていた人ですからね」と、ニコニコして笑いながら答えられたではありませんか。

「ベトナム戦争当時にベトナムに来ていた人」という言葉を聞いて、私は大いに驚きました。「えっ、本当ですか!私は同じように、ベトナム戦争当時にベトナムに来ていた人を知っていますよ。その方はベトナム南部のCai Beという所でバナナの栽培をされていましたよ」と、その男性の方に言いますと、その方は「ああー、その人なら僕も知っていますよ。Yさんでしょう。Yさんの姓は漢字でこう書くでしょう」と答えられて、私が知るYさんの姓をまさしく私に示されたのでした。

(これは間違いない!)と私も確信しました。さらには「東京にある<お好み焼き屋・染太郎>で働いていたSさんや、石川文洋さんも知っていますよ。Sさんは昨年亡くなられましたが・・・」と言われたではありませんか。そこまで聞いた時、私は驚きを通り越して、不思議な気持ちに襲われました。

 (この鹿児島の地で、YさんやSさんや石川文洋さんを知る人に出会うとは・・・)

(何という偶然だろうか・・・)と思いました。「実は、私はもうすぐベトナムに戻りますが、Yさんもまだその時はベトナムにいるはずなので、今日あなたにお会いしたことを話します」と言いますと、その男性の方は「私はMYと言います。一年に二度ほどはベトナムに行きますよ。機会があれば、ベトナムで会いましょう」と言われました。

MYさんは名刺を持たれていなかったので、私のほうから名刺を渡しました。そこではあまり時間が無かったので、それ以上の深い話は出来ませんでした。「桜島」の噴煙を見るためにそこに立ち寄っただけでしたが、噴煙を見た上に、ベトナム戦争当時にベトナムにいた日本人の方にさらに会えるとは望外の喜びでした。車の中で待ってくれていたDKさんにこのことを話しますと「へー、そんなことが有り得るのですね」と肯かれていました。

そして、ベトナムには5月末に戻り、着いたその日にYさんに会い、早速その話をしました。やはり、Yさんも良く知る日本人の方でした。「MYさんは自分よりも二歳年長で、ベトナム戦争当時に確かに来られていました。その当時は貿易の仕事をされていましたよ。1975年の<外国人退去命令>が出てお互いサイゴンを出て以来、まだ一度も会えていません。数年前に、MYさんがベトナムに来た時に私に連絡があったのですが、たまたまCai BeやDong Naiに行っていたりした時だったので、会えなかったのです」と言われました。

「それにしても、よく鹿児島でMYさんに会えたねー。不思議ですね」とYさんは言われました。実は、私自身が一番そう思っているのです。MYさんには私の名刺を渡しましたので、いつかサイゴンでYさんとMYさんとの再会の時に、一緒に席を同じくさせて頂くことが出来るかもしれません。その時、YさんとMYさんは「40数年ぶりの再会」になることでしょう。

Yさんは6月14日に日本に戻られました。その日は奇しくも<お好み焼き屋・染太郎>の総支配人をされていたSさんの命日なのでした。たまたまだったのでしょうが、何か不思議な感じがしました。Yさんは、今は亡きSさんの遺品のサングラスを大事にされていて、バイクでサイゴンの街中や郊外を走られる時には、いつもそれを掛けていると言われました。それは、Sさんが亡くなられた後、Sさんの娘さんから、Sさんの形見としてYさんにプレゼントされたと聞きました。

そして、バイクを走らせながら「Sよ、見えるか。今のサイゴンはこんなふうに変わったぞー!」と、呟かれるそうです。その時のYさんの心中を想い測ることはYさんしか出来ません。しかし、私自身はその話を聞いた時、胸に熱いものが込みあげてきました。

私のベトナム生活は今年で21年目に入りました。私はYさんとは2005年に初めて会いました。その時のことは、2005年4月号「ベトナム戦争中にバナナを栽培していた日本人」として触れています。それ以来、13年間のお付き合いになります。Yさんとはいろんな所に一緒に行き、いろんな人たちを紹介して頂きました。日本にいた時にはまず出会うことがない人たちが数多くいました。

ベトナムに滞在してからの半分以上の期間は、Yさんと出会ってから大変充実したものになりました。YさんからはSさんを紹介して頂き、石川文洋さんも紹介して頂きました。 そのおかげで、2015年に石川さんの「トークショー」をサイゴンで開いた時、石川さんのサイン入りの写真集も頂きました。

さらには、「元日本兵・古川さんの家族」たちまで紹介して頂きました。メコンデルタにおられた元日本兵の方の存在などは、本の中で知ることはあっても、その家族の方たちと交流が出来るとは思いもしませんでした。全てこれYさんの厚意のおかげなのです。それだけに、Yさんに対しては、ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。


「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。 「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

経済特区法案で抗議デモ、中国への領土譲渡懸念

特別行政経済区法(経済特区法)案に含まれていた「土地リース期間を最長99年間とする」との条項に対する抗議として、ホーチミン市や南中部沿岸地方ダナン市、同カインホア省、同ビントゥアン省など全国各地で10日にデモ行進が行われた。

同条項が「国の領有権を侵害し、他国(中国)へ領土を譲渡することと同然」とされ、デモに発展したが、政府は既に同条項の削除を発表している。

ホーチミン市では、数千人のデモ隊が午前からプラカードや横断幕を持って市中心部のグエンフエ通り、レズアン通り、ドゥックバー(聖母マリア)教会、4月30日公園などを行進して抗議を訴えた。

タンビン区にあるタンソンニャット国際空港付近では、別のデモ隊が早朝からホアンバントゥ公園、ランチャーカーロータリー、グエンバンチョイ通り、ホアンバントゥ通り、ファンディンゾット通り、チュオンソン通りに集合しデモを行ったため、一帯が激しい交通渋滞となった。警察や特殊警察などが出動して秩序維持にあたり、13時ごろにようやく落ち着きを取り戻した。

ビントゥアン省では、デモ隊が国道1号線で交通を阻害した。また、同日夜に同省人民委員会庁舎、同省国境警備司令部庁舎で暴動を起こし、複数人がレンガや火炎瓶で公用車や公的施設を破壊した。警察は催涙ガスや放水で鎮圧を試みたが効果が出ず、11日未明になってようやく落ち着きを取り戻した。

警察はこの暴動で102人の身柄を拘束したほか、違法デモ行進扇動容疑で複数人を逮捕している。デモ行進や暴動は反政府組織が扇動したものと見て、引き続き捜査を進めている。

<VIET JO>

解説◆

このデモが行われた10日はちょうど日曜日に当たり、<青年文化会館>「日本語会話クラブ」が行われる日でもありました。この日、朝早く、私に「日本語会話クラブ」の責任者のTan(タン)さんから私に連絡がありました。

「今日は市内中心部に多くのデモ隊が集まり、それを公安警察が取り囲む騒ぎになっていて、<青年文化会館>に行くまでの道路は通れない状態なので、“日本語会話クラブ”はお休みにしました。みなさんたちも市内中心部には近づかないようにしてください」

そういう内容のメッセージが来ましたので、驚きました。そのデモ隊の写真も送ってくれました。<青年文化会館>はこの記事にある、「レズアン通り、ドゥックバー(聖母マリア)教会、4月30日公園」の場所近くに位置しているので、この三ヶ所をデモ隊の行進が続いているとすると、まずその付近をバイクで通過するのは無理だろうな・・・と思いました。それで、この日に「日本語会話クラブ」に参加するのは諦めました。

実は、デモが発生した2日前の8日に「日本領事館」からも<デモ発生に関する注意喚起>という通達が出されていました。その通達を余り重くは受け止めていなかったので、(何で今頃デモが・・・?)ぐらいに考えていたのですが、実はこのデモ発生の前には布石があったのでした。それが6月7日に、同じく<VIET JO>の記事に載っていた以下の記事でした。

「経済特区の土地リース期間は最長99年―国会で賛否両論
https://www.viet-jo.com/news/economy/180607083044.html

最近国会で、今は観光地として有名なPhu Quoc(フー コック)を99年間貸すという法案が審議されていて、その貸す相手が「中国」であるらしいという話から、民衆の怒りの火が点いて、今回のデモ隊の発生に繋がったようです。四年前にも、中国が『 Hoang Sa (ホアン サー) 諸島』に石油リグを作った時にも同じようなデモ隊が発生したことがありましたが、ベトナムは中国が絡むとこういうデモ隊が良く起きます。

あのYさんは日本に帰国される前に「仮に中国に99年間貸したとしたら、いろいろ理屈を付けて返すことなどないよ。スリランカの港が中国からの“借金のカタ”に奪われたのと同じ、二の舞になるよ」と話されていましたが、私も同感です。

個人的には、是非ともあの法案は次の国会で廃案にしてもらいたいと思います。でないと、今後も頻繁にデモ隊が発生して、「日本語会話クラブ」自体がずっとお休みになってしまいかねないのですから。

 

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