春さんのひとりごと

元日本兵・古川さんの44回目の法要

今年も、メコンデルタのCai Be(カイ ベー)で行われた「元日本兵・古川さんの44回目の法要」に参加させて頂きました。今年は3月2~3日の2日間に亘って行われました。今回の法要に、日本人側は「ベトナム戦争当時にバナナを植えていた日本人・Yさん」「さすらいのイベント屋・NMさん」、そして私の三人が参加しました。今回の「古川さんの法要」では、今でも思い出すたびに、私自身にとって大変感動的な出来事がありました。

●サイゴン ⇒ Cai Beへ ●

「古川さん」のお家があるCai Beには今までローカル・バスで移動していましたが、今回は7人乗りの乗用車で移動しました。法要が行われる数日前に、Yさんから「今年はDong Nai (ドン ナーイ)にいる古川さんの親族が7人乗りの乗用車を手配してくれたから、その車に一緒に乗って来たらいいですよ」と言われました。(それは願ったりだ!)と思い、その申し出を有り難く受けさせて頂きました。

その車と落ち合う場所と時間は「Mien Tay (ミエン タイ)バス・ターミナル」の門の下で、朝7時にしました。それで、NMさんにもそこにバイク・タクシーで来てもらうことにしました。実は、NMさんは今回の「古川さんの法要」に参加するために、その前日の3月1日にハノイから飛行機で飛んで来られたのでした。その熱い想いには、頭が下がりました。

「Mien Tayバス・ターミナル」には朝6時40分頃に私が先に着き、その十分後ぐらいしてNMさんも到着しました。いつもなら、それから切符売り場まで行き、そこで切符を購入し、バスの発車時刻まで待合室で時間を潰しているのですが、この日はDong Naiから来る予定の乗用車を待っているだけでした。

すると、7時少し前に、古川さんの末娘のThuy (トゥイ)さんが、バス・ターミナルの門の下にいた私たち二人に (こっちに来て!) と声を掛けてくれて、手招きしてくれました。そこにはDong Naiから来たA(アー)さんの他、5人が座っていましたので、7人乗りの車でCai Be まで行くには、ちょうどピッタシの人数です。

車はちょうど7時に「Mien Tayバス・ターミナル」を出発。車が出てすぐに、Cai Beで我々の到着を待っておられるYさんに連絡しました。Yさんは「古川さんの法要」の2日前に先発で現地に入り、古川さんの家族たちと事前に打ち合わせをして、必要な物について細かい指示をされ、 準備万端整えて我々の到着を待たれていました。今回の法要でみんなが飲むビールなどはケースで幾つも購入されていました。

車は30分ほどして「高速道路」に入りました。いつもの光景ですが、この3月初旬の時期に、車の窓の外に見える平野には、視界に入るずっと先のほうまで黄色く色づいた稲の田んぼが広がっています。もうすでに刈り取られている田んぼもありました。熊本の私の田舎ではいつも5月の連休時に、田植え機用に種モミを撒く「苗床作り」をしていましたから、大変な違いがあります。

今回私はCai Be まで初めて車で移動しましたが、運転手がCai Be までの道に慣れていないこともあり、いつもは国道一号線をそのまま走って行けばCai Beの三差路に着くはずなのに、途中で近道に入ったために道に迷いました。Cai Be へのフェリー乗り場までの道順を、何回も通行人に聞いていました。迷いに迷った末、そのフェリー乗り場に着いたのは9時半でした。

フェリーが出るまでは少し時間が有るらしく、Aさんが全員に肉まんとサトウキビ・ジュースを買ってくれました。NMさんも私も朝ご飯を食べていなかったので、有り難く頂きました。しばらくして、フェリーが着いて、運転手は我々が乗って来た乗用車をバックでフェリーに入れて載せました。我々は事前に車から降ります。対岸には7分ほどで到着。

そこにYさんがいつものように迎えに来てくれていました。古川さんの次男のVuさんもバイクに乗って来ていました。Vuさんとは一年ぶりの再会になります。Vuさんはバイクで家族と一緒に先に着いていて、我々の到着に合わせて、フェリー乗り場までYさんと2人でバイクに乗って来ていたのでした。(今回の法要では、そのVuさんに関係したことで、胸が熱くなる出来事がありました)

しかし、ここから先は細い道路になりますので、我々が乗って来た車は、古川さんの家まで行くことは出来ません。それで、フェリー乗り場から降りて、また車に乗って少し行った先に、運転手が車を駐車する場所を見つけてきました。そこは「人民委員会」の敷地内でした。この日は土曜日でしたので、「人民委員会」もお休みだったのでしょう。

ともかく、そこに車を置いてもらうことが出来ました。そこから、NMさんはYさんのバイク、私はVuさんのバイクに乗り、古川さんの家に向かうことにしました。Dong Naiの家族たちもここで車を降りて、バイク・タクシーを雇い、我々の後に続いて古川さんの家まで向かいました。家のすぐ近くの小道を走った時には、竜眼の木から竜眼の実がたわわにぶら下がっていて、 「竜眼のトンネル」のような光景になっています。

そして、10時ちょうどに古川さんの家に到着。この日来るのは古川さんの親族だけで、翌日の日曜日に近所の人たちが集合する流れで、二日間に亘って「法要」が行われると言うYさんの話でした。「古川さん」の家に着いた後、先ず古川さんの長男夫妻に挨拶し、「古川さんご夫妻」の写真が置いてある部屋に入り、そこの祭壇に線香をお供えしました。

そのすぐ横には、2年前に逝去された、東京浅草にある「お好み焼き屋・染太郎」の元総支配人をされていたSさんの遺影も置いてありました。その写真はSさんの親友でもあった、Yさんが日本から持ち込まれたものです。「古川さんご夫妻」とSさんの写真に向かい、両手を合わせました。それから、「古川さんご夫妻」の写真に向かい、「また今年もここに来ることが出来ました。一晩お世話になりますが、よろしくお願い致します」と挨拶させて頂きました。

それから、家の周りを見ますと、道路を隔てた先にあるのが「竜眼の木」。古川さんの敷地内にあるのが「ドリアンの木」です。「竜眼の木」は他所の家のものですが、まだ実が小さく、固いので、食べられる時期ではありません。「ドリアンの木」は6年前に植えられました。それまで古川さんの敷地内にも竜眼の木が植えられていましたが、「ドリアン」のほうの単価が高いので植え代えられたのです。

今年はその「ドリアンの木」から大きな実が幾つもぶら下がっていました。Yさんは「もう十分出荷出来るまでに実も大きくなってきましたね。これから一家にとって、大きな収入になることでしょう」と話されました。ここに住んでいる古川さんの長男はTuan (トゥアン)と言いますが、若い時椰子の木から落ちて腰を強く打ち、それ以来車椅子生活です。

それで、畑仕事や家事全般は奥さんが一人でこなしています。息子夫婦は今サイゴン市内で仕事をしていて実家にはいません。ドリアンは収穫するまでが大変なようです。ドリアンの実は重いので、実が幹から落ちないようにヒモを掛ける必要があるそうです。それも奥さんの役割で、毎日の果樹園の水遣りも全て奥さんの仕事です。大変な労力です。

昨年、私も奥さんがホースを持ってドリアンの木の根元に水を掛けているのを実際に見ました。今年はその「水遣り」を自動化して、水道管の所定の位置にスプリンクラーのようなものを取り付けていて、元栓を捻るとそれがグルグルと回りだし、木の根元に水を散布するようなやり方に変わっていました。この方法だと「水遣り」も大変楽になったことでしょう。

Yさんは長男の奥さんを評して「本当に感心だよ。亭主はああして車椅子の生活だから“ああしろ、こうしろ!”と口に出して叫ぶだけ。奥さんは亭主の世話から家事全般、畑仕事まで全て一人で切り盛りしているのだから」と感に堪えない表情で、いつも私に話されるのでした。

親族が集まるまではまだ少し時間があるとのことなので、しばらくNMさんと私は古川さんの家の周りを散策しました。メコン川のほうにも歩いて行きました。昨年はそのメコン川に向かって、Yさんが「Sよー、何でお前はオレよりも先に逝ってしまったんだよーー!」と大声を上げて慟哭されました。その時のことを思い出しました。メコン川は今でも、あの時と変わらない水を湛えて流れています。

そして、11時を過ぎた頃に、サイゴンの位置から見て東にあるChau Doc (チャウ ドック)から、いつものように喧しいおじさんがバイクに乗って家族でやって来ました。Chau Docはカンボジアの国境と向かい合っている遠い場所にあります。この喧しいおじさんはいつも焼酎を持参して来ます。今年は瓶の中に果実を入れてありました。

古川さんの長男の家族、Dong Naiから来た家族、Chau Docの家族たちも集まり、11時半から「古川さんの44回目の法要」が始まりました。若い子達や女性たちが次々と料理を運んできて、テーブル上に並べてくれます。ベトナムでの「法要」にはお坊さんなど来ません。ただ、故人を偲んで、食べて、飲んで終わりです。

Yさんは発泡スチロールの箱に中に入れておいたビールを出してきて、みんなに渡してくれます。しっかりと冷えています。みんなにビールや飲み物が渡ったところで、宴会の時いつも叫ぶ「1・2・3(モッ・ハーイ・バー) ヨー!」と言う掛け声をして、宴会のスタートです。

喧しいおじさんはYさんと仲が良いので、我々のテーブルに座ります。そして、しきりに持参して来た「自家製・焼酎」を勧めます。Yさんはビール一辺倒なので、それを断ります。私は彼に勧められて、小さいグラスにその焼酎を注いでもらいました。チビリ・チビリ頂くことにしました。しかし、無くなると、喧しいおじさんがまた注ぎます。

しばらくそうして盛り上がった頃、Vuさんが私たちのテーブルに、若い女性を連れて来ました。Vuさんが「これは私の娘です!」と紹介したので驚きました。今まで奥の部屋のほうにいたようで、この時が初対面でした。Vuさんにこういう娘さんがいたことも、今回初めて知りました。今までこの「古川さんの法要」には連れて来ていなかったのでした。

それから、彼女が口を開きました。何と日本語で「私の名前はNhi (ニー)です」と言ったではありませんか。NMさんも私も大いに驚きました。Yさんも「ええーっ、日本語が出来るの?」と、いかにも嬉しそうな顔をしています。横でVuさんがニヤニヤしています。Vuさんが今年初めて娘さんを参加させたのは、こうして我々日本人たちに紹介したかったのだなと思いました。

Nhiさんは日本語が片言ながら出来るので、日本語を交えながら話しました。日本語の意味が分からない時にはベトナム語で話しました。彼女が言うには「私は今年18歳で、サイゴン市内の大学で法律の勉強をしています。今、日本語をDong Du学校で勉強しています。習い始めて5ヶ月目です」とのことでした。それを聞いた私たち3人の日本人は大いに嬉しくなりました。特に、Yさんはビールを飲み続けていたからなのか、「分からないことは何でも聞いてね!」と声も弾んで陽気になりました。

そして、その次にNhiさんが話してくれた言葉に、私は今までビールを飲んでいたコップを置きました。彼女はこう話してくれたのでした。「日本語をもっと勉強して、日本に留学するつもりです!」と。(何と素晴らしいことだろうか。古川さんのお孫さんが日本に留学するとは・・・)。そのことを聞いた時、いつか将来、Nhiさんが日本に降り立ち、おじいさんの故郷を訪ねることが出来る日が来た時のことを想像すると、この時目頭が熱くなってきました。

2009年に私は、今の古川さんのお家から少し離れた場所にあるAn Huu (アンフー)村まで、古川さんのお墓を初めて訪ねました。古川さんのお墓の大理石には「1915~1975」と、古川さんの生年と没年が刻まれていました。 その時のことは【2009年1月号】に<元日本兵の墓を訪ねて>でも触れています。私自身は古川さんとは直接の面識はありませんが、Yさんとの繋がりで、それ以来機会があれば「古川さんの法要」に参加させて頂き、今に到っています。

11時半過ぎから始まった法要の「宴会」は2時になっても、3時になっても続いてゆきます。サイゴン郊外からも親族たちが集まり、大宴会の始まりです。カラオケ用のスピーカーも準備されていて、大音響で歌を唄いながら、みんな楽しい宴会を続けてゆきます。3時過ぎ頃になると、NMさんと私は眠気がしてきて、昼寝をしました。しかし、Yさんは立て続けにビールを飲んでいても、談論風発ぶりは全然衰えません。みんなと大きな声で冗談を飛ばしています。

そして、5時頃になり「さぁー、夕ご飯だよ」と言う声で起こされました。まだ、あまりお腹が空いているわけでもないのですが、ビールをまた飲み、つまみを食べることにしました。Yさんを見ると、ビールを飲むペースは全然変わりません。「よくそんなに飲めますねー。ホトホト感心します」と言いますと、Yさんは「ここで飲む時には、バイクで帰る心配が無いので、何本飲んでも平気ですよ」と答えられるのでした。私はビールと焼酎を一緒に飲んだせいもあり、すでにダウン気味なので、(そういう問題ではないだろう・・・)と思いますが、本人が自分でそう言われるので問題無いのでしょう。

夕食後に、NMさんと二人でメコン川に沈む夕陽を眺めに行きました。メコン川に沈む夕陽はこの時、眩いばかりに輝いていて、見ている間に水平線の向こうにあるメコン川に沈みながら、ゆっくりと消えてゆきました。「古川さん」は国の命令で20代の若さで故国・日本を離れて以来、一度も日本の土を踏むことなく、ご両親との再会も遂に叶わずに、異国の地・ベトナムで60歳の生涯を終えられました。おそらく毎日、このメコン川に沈む夕陽を眺めながら、故郷を偲んでおられたことでしょう。

この日の宴会は、昼前の11時半から何と夜の11時半過ぎまで続きました。12時間近くも続いたわけです。その間、ベトナム人の相手をずっとしていたのはYさんでした。NMさんと私は9時過ぎには蚊帳の中に作って頂いたマットレスの上で寝てしまいましたが、Yさんは一人で古川さんの親族の男性たちと円卓を囲んでビールを飲みながら、大きな声で冗談を交わしていました。その声は私の寝床のほうまで聞こえてきました。(今年76歳になられるのに、あの元気の良さは一体どこから来るのだろうか・・・)と、毎年のことですが、感嘆と不思議の念に堪えません。私はYさんとベトナム人の方たちの冗談を聞きながらだんだんと深い眠りに落ちました。

● Cai Be の家族たちとお別れ⇒サイゴンへ ●

翌日の2日が近所の人たちも招いての法要になります。この日は朝6時には起こされました。田舎の朝は肌寒いぐらいの温度でした。朝ご飯の支度がすでに出来ていました。熱いスープに浸ったインスタント・ラーメンが運ばれてきました。毎年このパターンです。前日に良く食べ、良く飲んでいるので、こういう軽い朝ご飯がちょうどいいです。

そして、7時頃から近所人たちが続々とこの日の法要で提供される料理の手伝いにやってきました。全員女性で、8人ぐらいいました。みんなが野菜を洗い、肉を切り、魚のウロコを落としたり、春巻きを作ったりと大忙しです。男性陣は料理に関しては何の手伝いもしませんし、出来ません。

古川さんの長男の奥さんは市場へ料理用の食材や氷などを買出しに行き、バイクで何回も往復していました。家に帰る度にバイクの前や後ろに大量の荷物を積んで帰ってきました。それを降ろす作業を男性陣が手伝います。市場に行って材料を買う時値段交渉をしないといけないので、他人任せには出来ないのでしょう。(この2日間の「法要」の接待は彼女にとっては大変な労力だったろうな・・・)と想像しました。でも、私たちに接する時は、彼女はいつもニコニコしています。

そして朝9時から「古川さんの44回目の法要」が正式に始まりました。円卓のテーブル上には近所の人たちの協力で、大変なご馳走の数々が並びました。その中には一皿だけ見慣れない料理がありました。「これは何?」と聞くと、「畑に舞い降りたシラサギを捕まえて料理した」とのことでした。それで何羽も捕まえたわけではないので、我々のテーブルにだけそれが置いてありました。それを食べてみました。味付けにもよるのでしょうが、これが実に美味しいものでした。私はそれが大いに気に入り、そればかり食べていました。

そして、この日もまた「カラオケ」が始まりました。この日は、昨年ここに来た日本人の若者・NHくんと肩を組んで デュエットで歌った女性も来てくれていました。昨年は二人で一緒に歌って、踊っていました。今年もまた別の男性たちと楽しく歌っていました。故人を偲ぶ「法要」というよりも、「カラオケ大会」のような感じです。一曲終わると、次の人がまた別の曲を歌います。それも大音量です。(少しぐらい休んだら・・・)と思いますが、切れ目無く次々に歌い続けます。

9時から始まった「法要」は「宴会」の様子に移り、「カラオケ大会」になりました。ベトナムの人たちは、しんみりした雰囲気よりも賑やかな雰囲気を好むので、「法要」もそういう感じになります。11時、12時までも同じような調子で「法要」が続いてゆきます。午後1時頃になった時、Vuさんの家族が我々に「今から帰ります」と挨拶に来てくれました。Vuさんのバイクの後ろにはNhiさんが乗っています。彼女もニコッとして、私たちに「さようなら」と別れの挨拶を日本語でしてくれました。NMさんはその時の姿を写真に撮っています。

「竜眼のトンネル」のような小道を、VuさんとNhiさんがバイクで去ってゆく後ろ姿を見ていると、熱いものが胸に込み上げてきました。NMさんも同じ思いのようでした。また私たちは「宴会」の続きをしました。そこで、NMさんは次のように話されました。 「古川さんの故郷は宮城県だと聞きましたが、サイゴンには【宮城県人会】があるので、もしNhiさんが日本に留学することが出来たら、彼らに協力して頂き、Nhiさんに<おじいさんの故郷>を訪問してもらいたいですね」と。

私もそれが実現出来たら、泉下の「古川さん」はどんなに喜ばれることだろうかと思います。1975年に亡くなられた「古川さん」は、もちろん今年18歳になる孫のNhiさんに会ったことも無ければ、その存在も知りません。でも、いつか、自分の血を引く孫のNhiさんが<おじいさんの故郷>を訪ねることが実現出来れば、Cai Beで生まれた「古川さん」の6人の子どもたちにとっては、<お父さんの故郷>を孫が訪ねることになるわけです。

作家の「阿奈井文彦」さんが書かれた「ベトナムへ帰った日本兵」の中に、古川さんについての記述が以下のようにあります。

「宮城県刈田郡の出身で、ジャワ、ガダルカナル、ラバウル、マニラ、スマトラと転戦し、巡洋艦【足柄】でシンガポールへ向かう途中、潜水艦の魚雷攻撃を受け、この時古川さんは4時間泳いで助かったという。サイゴンで敗戦を迎えた時は陸軍兵長。以後、対仏独立戦争でベトミンの一員として戦い、1954年のジュネーブ協定で独立戦争が終結した後も、サイゴンにとどまった。この年、日本の留守家族には、古川さんの生存が確認されている。 古川さんは松嶋さんより3年ほどはやく、1962年頃からこの日系のバナナ園を管理していた。ベトナム名、クェン・トゥ・テンと名乗り、当時、56歳(1967年)、ベトナム人の妻、エンさんとのあいだに5人の子供がいた。・・・エンさんのお腹はまた大きいようだった。・・・」

ここには「エンさんのお腹はまた大きいようだった」とありますが、その時エンさんのお腹にいたのが末娘の四女Thuy (トゥイ)さんということです。さらに、「古川さんの故郷」は「宮城県刈田郡」という記述がありますので、そこの地を訪れることが出来れば、「古川さん」のご実家や親族の方々に繋がる情報は得られるのではと思います。その「夢」がいつ実現出来るかは、今の段階ではまだ分かりませんが、Nhiさんが日本に留学し、日本の土を踏んだ時から、その「夢」の実現に近づいてゆくような気がしています。

NMさんの話を聞きながら、その「夢」が実現した時のことを想像すると、日本にまだ誰一人として行ったことがないCai Beの家族たち、古川さんの親族たちにも、大きな喜びを与えてくれることだろうと思います。今の段階ではまだ「夢」にしか過ぎませんので、Nhiさんの「日本留学」が決まったら、その「夢」をYさんからNhiさんに話してもらいたいと考えています。

2時過ぎには私たちもサイゴンに戻ることになり、帰り支度をしました。最後に、古川さんの遺影に向かい、お別れの挨拶をし線香を上げました。古川さんの家族たちにもお礼の言葉を交わして、Cai Beを後にして、サイゴンに向かいました。来年もまた「古川さんの45回目の法要」に参加するつもりです。

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。 「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

ホーチミン:中心部への車両乗り入れ制限案、市民の63%が支持

交通運輸開発戦略研究所(TDSI)は、「ホーチミン市における公共交通システムの増強および個人車両制限の計画案」を発表した。TDSIが同計画案を策定するにあたり実施した調査で、市民の6割強が中心部への車両乗り入れ制限を支持していることが分かった。この調査は同市24区・郡に住む3万世帯を対象に行ったもの。

調査結果によると、63%が「乗用車・バイクに対して中心部への乗り入れを制限する必要がある」と回答し、80%が「通勤・通学時間を調整すること」、70%が「中心部へ乗り入れる自動車から料金を徴収すること」、86%が「自動料金収受システム(ETC)や罰金処分などの交通管理面で情報技術(IT)を活用すること」を支持している。

同計画案によると、同市登録の自動車台数は52万台(うち乗用車30万台)、バイク台数は800万台だが、同市以外の地方登録の車両と外部から乗り入れる車両も含めると、乗用車が33万台、バイクが850万台となっている。

TDSIは今回の調査結果と同市の交通事情を踏まえ、「2020年まで」「2021年~2025年まで」「2026年~2030年まで」の3期に分けて、個人車両に対して中心部(1区、3区、5区、10区など)への乗り入れを段階的に制限していくことを提案している。これに合わせて、2030年までに公共交通システムのシェアを29~37%に拡大させることの必要性を強調している。

<VIET JO>

◆ 解説 ◆

ホーチミン市の人口は公式に発表されているだけでも、870万人いるとされています。バイクの数は、この記事には850万台と載っていますが、これはあくまでも登録されている数字で、実態はもっと多いはずです。

私もホーチミン市内をバイクで毎日走っていますが、特別な行事の日(テトの前、サイゴン解放の日の前、サッカーの国際試合でベトナムが勝利した日)などは、市内の道路は大変な混雑になります。身動きが取れなくなることが頻繁に起こります。 最近では「国際女性の日」がそうでした。いつものようにバイクで走っていると、 市内の1区に入った所で交通渋滞に巻き込まれました。(何で平日の日にこんなにバイクが多いの?)と不思議でしたが、後でその理由が「国際女性の日」だったからだと分かりました。

ベトナムの人たちは普段でも、何か特別な行事がある時でも、バイクで外に繰り出しますので、必然的に交通渋滞に なります。こういう日にバイクで外出する時には、交通事故に遭わないように注意してバイクを走らせないといけま せん。交差点で車やバイクが身動き出来ないような場面を見た外国人の旅行者は、自分の国ではまずお目に掛からな い光景だからか、笑いながら、興味深い顔つきで、写真をバチバチ撮っています。

私の古い知人が、最近こういう話をしてくれました。「ベトナムに来たら、日本と同じ感覚でバイクに乗っていては ダメです。ベトナム人のバイクの運転には“無法の法がある。無法地帯のようで無法のルールがある”ことを知らな いと、大怪我をしますよ」と。私が「どういうこと?」と訊きますと、次のように分かり易く話してくれました。

①日本と同じ感覚で「自分の前の信号が青信号になったからと言ってGo!ではダメ」。ベトナムの人は自分の目の前の信号が赤でも、左右を見てバイクや車の数が無い、 少ないと分かれば、赤信号でも平気で交差点に突っ込んでくる。

②一方通行の道を逆走して来るバイクもまた多い。(一方通行の道なのだから、後ろから追い越すバイクはあっても、前からバイクが走って来ることなど有り得ない)と思い込んでいると、これまた大怪我をする。平気で逆走してくるバイクが多いので一方通行の道でも要注意。

③交差点の中が車やバイクで身動き出来ないぐらい渋滞していても、さらに平気でその中に突っ込んで行く。だから、青信号になろうが、赤信号でも関係が無い。少しでも空きペースがあればそこの場所を占有しようという本能が働く。

④道路が渋滞を起こしていると、歩道に乗り上げてビュンビュンとバイクを走らせるのも当たり前。だから歩道を歩いている人たちも安心は出来ない。前と後ろから来るバイクに細心の注意を払わないといけない。日本と同じ感覚でノンビリ歩いているとバイクに撥ねられる。

・・・以上のような内容でした。私自身も以前、後ろから来たバイクに追突されて、足を大ケガした痛い思い出がありますので 「無法の法」の話には妙に納得させられたことでした。ベトナム、特にバイクの台数が多いホーチミン市でバイクに乗る時には要注意です。

↑このページのTOPへ