春さんのひとりごと

十五年後の懐かしい再会

今年の「テト」は1月28日でした。今年の「テト」もサイゴン市内で家族と一緒に過ごしました。恒例の公園での「花市」「Flower Road」見物は家族で行き、市内の動物園には女房の両親や兄弟姉妹全員で行きました。

ここ最近、毎年の「テト」はサイゴンで過ごしていますが、この時期は街中に花が溢れるように飾られ、至るところに「テト」の時のおなじみの、菊やHoa Mai(ホア マーイ)の花が置かれています。「テト」の時、ベトナムでは黄色い花が好まれます。花が少ない日本のお正月と比べると、やはり、「ベトナムのテト」はいいものだなーというのを実感します。

そして、「テト休み」が終わり、(明日からいよいよスタート。仕事始めだなぁ~)と考えていた2月1日のお昼過ぎ、一本の電話が掛かってきました。掛けてきたのは女性でした。最初は自分の名前だけしか名乗らなかったのですぐには分からず、(誰だろうか?)と、考えていました。するとその女性は「MZの妻のLam(ラム)ですよ!」と告げ、さらに続けて「主人と一緒に、出来れば今日是非会いたいです!」と言ったので大いに驚きました。

何故ならMZくんといい、Lamさんといい、 (最後に二人に会ったのは今から何年前だろうか?)と、昔の記憶を手繰り寄せてもなかなか思い出せないぐらい、長い間会っていなかったからです。MZくんは日本人で、銀行の駐在員としてベトナムに派遣され、将来を嘱望されて、ベトナム語の勉強のために滞在していました。そして、2000年頃にLamさんと結婚しました。

「しかし、よく私の電話番号が分かりましたねー!」と不思議に思っていると、共通の知人のOTくんの奥さんから聞いたと言うのでした。OTくんについては、先月号の「ガンボさんの来越」でも触れました。ガンボさんを囲んで歓迎会をした時に参加していた日本人の男性で、私の「古い友人」として登場しています。その奥さんはTrang(チャーン)さんと言います。

実は、私とMZくんとその奥さんのLamさん。そしてOTくんと奥さんのTrangさん。以上の五人は「古い友人同士」として全員がお互いに知っている間柄なのでした。そして、私が今の女房と知り合いになってからは、女房もこの付き合いの輪の中に入ってゆくようになり、みんなで一緒にいろんな場所へ遊びにも行ったりしました。

最初に私たち五人を結びつけてくれた場所は、サイゴン市内にある「人文社会科学大学」でした。1997年5月から私のベトナム生活が始まりましたが、しばらくしてから私は「人文社会科学大学」の中で開かれていた<ベトナム語教室>のクラスに参加しました。私が参加した時のクラスには全員で十人ほどいて、日本人は私が一人、他には韓国人、アメリカ人、フランス人などが参加していました。

ほどなくして、OTくんとMZくんが同じくベトナム語のクラスに参加してきました。時期が違っていたので、私とはクラスが違いました。授業が終った後、大学の構内にある喫茶店で昼食を摂っている時、そこで初めて顔を合わせました。同じ日本人ということもあり、 すぐに仲良くなりました。お昼ご版をいつも一緒に食べながら雑談をしていた思い出があります。

そして、ベトナム人のLamさんとTrangさんを知ったのも、この「人文社会科学大学」です。「人文社会科学大学」では、毎週日曜日の午前中から「東日クラブ」という名前の「日本語会話クラブ」が開かれていました。この「日本語会話クラブ」は1996年から開かれたと聞いた記憶があります。「青年文化会館」の「日本語会話クラブ」のほうが「東日クラブ」より三年ほど古くなりますが、どちらも今年で20年を超えました。

彼女たちは二人とも「人文社会科学大学」の大学生でした。彼女たちの専攻は「日本語学科」で、それで「東日クラブ」に参加していました。そこで私たちは知り合いになりました。その当時、二人は二十歳前後でした。Trangさんのほうが三歳ほど年上でした。

私とOTくんとMZくんたちは、その「東日クラブ」に参加してから、多くのベトナム人の若者たちと知り合いになりましたが、その中にLamさんとTrangさんがいました。ちなみに、OTくんとMZくんは同年齢で、当時26歳でした。四人は年齢が近かったので、すぐに親密になり、真剣な交際を始めたとは後で聞きました。

そして、交際を始めてからしばらくして、最初にMZくんとLamさんが結婚式を挙げました。それが2000年頃でした。結婚式はLamさんの実家のLong An(ロン アン)で行われることになり、MZくん側が手配してくれたマイクロバスに乗り、私もOTくんと一緒に参加しました。

その後、さらにまたしばらくして、OTくんとTrangさんの結婚式が続きました。(ちなみに、みんなの共通の友人でもある浅野さんの結婚式もこのすぐ後に行われました)。そして、 最後に私の結婚式が終ったのが2001年5月のことでした。

それからOTくんとMZくんは奥さんを連れて日本に帰国したので、連絡が取れなくなりました。後で聞きましたら、二人は日本でたまに会っていたといいます。浅野さんと私はずっとサイゴンにいましたので、容易に連絡は取れたし、用事がある時には電話一本で会えました。私の気持ちの中では、(いつかまた是非会いたいなぁ~)という思いがありました。

今回Lamさんが私に電話をくれたきっかけは、一年半ほど前に「SUSHI KO」でOTくんの奥さんのTrangさんと会ったことにあります。その時、彼女は少し離れた席に、友人たちと座っていました。最初私は、彼女が友人たちの中にいたのでそこにいることに気づかず、彼女のほうから先に声をかけてくれました。私は大いに驚きました。しかし、彼女はあまり変わっていなかったので、(あー、Trangさんだ!)と、すぐに分かりました。

彼女の話では、仕事の関係があり、二人の子どもさんも連れて今サイゴンに住んでいると 言うのでした。そして、あと半年ほどすると、OTくんもこちらで新しい仕事に就くので、一緒にサイゴンに住むことになると。「そうですか!」と、それを聞いた私は嬉しくなり、「OTくんがサイゴンに戻ってきたら是非連絡してくださいね。またここでみんなで会いましょう」と言って、その場で別れました。

そして、彼女が言った通り、一年後にOTくんがベトナムに戻ってきました。「SUSHI KO」で再会を果たしました。こちらでは、日系の会社に勤めることになったと話してくれました。OTくんは奥さんと二人の娘さんも一緒に連れて来てくれました。二人とも小学校に通っています。私のほうも女房と娘を連れて行きました。女房もTrangさんとは久しぶりの再会でもあり大いに話が弾んでいました。

それ以来、OTくんは仕事帰りにフラッと「SUSHI KO」に立ち寄ってくれることもあり、彼から「二年ほど前からMZくんがサイゴンに戻りましたよ。Lamさんも一緒です。子どもさんも二人いるそうです」と聞きました。私は「それは是非会いたいですね。そのように伝えてください」とOTくんに頼んでおきました。

その後、OTくんからTrangさんに話が伝わり、TrangさんからLamさんに連絡が行ったのでしょう。それが2月1日にLamさんから私に掛かってきた電話でした。私も大変嬉しくなり、「いいですよ。今日の夕方SUSHI KOで会いましょう!」と返事をしました。そして、すぐにOTくんに連絡しましたら、彼も「OKです」との返事でした。

次に、浅野さんに電話すると「今テト休みでダ ラットに来ています。明日サイゴンに戻るので、今日は無理です。みなさんによろしく伝えてください」との返事でした。結局、 その日浅野さんは欠席。みんなが集まる機会はなかなか少ないだけに、浅野さんも残念がっていました。

そして、みんなに会うのは2月1日の夕方6時過ぎにしました。この日は、当日の午後から、私は家族と女房の両親や兄弟全員で市内にある動物園に行く予定にしていました。こういうふうに兄弟全員が集まって、同じ場所に遊びに行く機会は「テト」の時しかありません。大人にとっては大して珍しい動物がいるわけではありませんが、普段街中では見ることが出来ない、いろんな大型の動物がいるので、子どもたちが大変喜びます。

私はみんなに会う夕方の時間が近づいてきたので、早めに帰りました。女房と娘は遅れて参加することになりました。夕方6時前には「SUSHI KO」に着き、店員に席の準備をしてもらいました。そして、最初にOTくんとTrangさんと二人の娘さんが到着。一番上の娘さんは私の娘よりも少し年下です。Trangさんともひさしぶりの再会でした。

それから十分ぐらいして、いよいよMZくんとLamさんがバイクに二人乗りして着きました。道路のほうからこちらを見て、手を振っています。遠くから見てもすぐに分かりました。二人とは実に嬉しい、懐かしい再会になりました。二人と固い握手を交わしました。二人ともあまり風貌は変わっていませんでした。

先ず、「再会の乾杯!!」をしました。乾杯しながら、私の左右に座っているOTくん夫妻、MZくん夫妻を見ていましたが、四人ともあまり風貌は変わっていませんでした。しかし、最初の出会いから早や20年近い歳月が流れ、あの当時20代半ばだったOTくんとMZくんは今ともに46歳。TrangさんとLamさんは40代初めに入っていました。そして、私は
60代半ば近くに・・・。

それから少しして、私の女房と娘も到着。三家族が揃ってのひさしぶりの再会には、女房も大変喜びました。しかし、MZくん夫妻と最後に会ったのは一体いつなのか、私も記憶がはっきりしないので、それを聞きますと

「いや~、実に十五年ぶりの再会ですよ!」

と、彼も感極まったような表情で答えてくれました。そうです、最初の出会いから約二十年。そして、最後に顔を合わせてから十五年の歳月が過ぎていたのでした。MZくんはまだ私よりもはるかに若いので、彼の記憶が正しいのでしょう。しかし、お互いに年を重ねたものです。

MZくんと出会った最初、私は(非常に実直で、真面目な青年だなぁー)という印象を受けました。それで、私自身もLamさんとずっと仲良く付き合ってくれたらいいなぁーと願っていました。そして、「このサイゴンで結婚式を挙げます!」と二人から報告を受けた時には、実に嬉しかったです。彼はサイゴンに赴任して来た今、ある銀行の部長の役職に就いています。Lamさんも素晴らしい伴侶を得たと言えます。

私たちの話はお互いの最初の出会いから、結婚式の思い出、子どもたちの教育のこと、今の仕事のことなど、いろいろ話しました。その中でも、みんなの『強烈な共通の思い出』 として鮮烈に残っていたのが「カンザーでの日本人歌手三人によるコンサート」でした。

私がベトナムに赴任した一年後の1998年、『マングローブ植林行動計画・アクトマン(ACTMANG)』の主催で、カンザーで三人の日本人歌手によるコンサートが開かれました。 三人の日本人歌手とは、喜納昌吉さん、加藤登紀子さん、新井英一さです。

この「カンザーでのコンサート」が実現するまでに、日本側での観客動員と歌手の方々への事前の交渉は「アクトマン」が日本で行いました。そして、現地で全ての準備・段取り・手配・確認などは、すべて浅野さんが一人で奮闘努力されました。その苦労は尋常なものではありませんでした。私自身が一緒に同じアパートで暮らしていましたので、その姿を毎日横で見ていましたので、良く知っています。

コンサートの実現に至るまで、浅野さんは日本側との連絡、人民委員会との交渉やホテル・レンタカーの手配など、全部の統括責任者として毎日目まぐるしい動きをされていました。今のようにメール一本で連絡が取れるような時代ではありませんでしたから、その苦労は想像するに余りあります。

最終的には、日本からは一般参加者とアクトマンのスタッフの合計で、何と150名を超える大人数になりました。ホテルの手配、バスの手配、レストランの予約、当日会場で使う備品の購入、水や薬などの準備・・・などなど、経費に掛かる部分は全て浅野さんが一人で判断、確認、事前手配や購入をしないといけません。

そして、その時の「カンザーでのコンサート」は日本から三人の歌手の方がカンザーに行って、歌を歌ってそれで終わりではありませんでした。まず、サイゴン市内では歌手の方々も一般参加者の方々も同じ行動予定になっていました。サイゴン市内では、市内観光にも行きます。お土産の購入もあります。

さらにはコンサート終了後の翌日には、全員で<マングローブの植林>も行う予定でした。 その植林のための苗の手配も事前に準備しておく必要があります。あの時、喜納さんたちが植林された時の全体写真が残っていますが、今それを見ると懐かしさが込み上げてきます。

そして、毎日の食事は三人の歌手の方々も一般の人たちも、同じレストランで団体での食事になります。さらに、市内でのある日のスケジュールでは、REX HOTELで「マングローブ」をテーマにしたシンポジュームも予定されていました。

市内での行事で一斉に動く場合は、150人の人数をまとめて会議室やレストランに移動させ、まとめて部屋の中で管理すればいいので、日本から全員で駆けつけたアクトマンの関係者(全員で15人が来ました)でなんとか対応出来るかな・・・と、浅野さんも考えていました。

しかし、問題は「カンザーでのコンサート」へのバスでの移動とサイゴンへの帰着です。相当なバスの台数になるのは予想されました。しかも、浅野さんは現地でのコンサートの準備のために先発で着いておかないといけません。

それで、浅野さんから私に「実は、お願いがあります。ベトナム語教室で勉強している日本人と、東日クラブに参加しているベトナム人の若者たちに、“ボランティア・スタッフ募集!”の呼びかけをして頂けませんか。今回日本から来られる大人数の参加者たちの面倒を見て頂きたいと思います。ベトナム語が全然分からない人たちがほとんどだと思いますので、そういうボランティア・スタッフがお世話して頂ければ大いに助かるし、日本の方々も安心出来ると思います」と言う依頼がありました。

それですぐにその件を、ベトナム語を勉強している日本人と「東日クラブ」の若者たちにお願いしに行きました。「日本からこういう有名な歌手の方が来られて、カンザーでコンサートを開くけど、多くの日本人がやって来て大変なので、是非手伝って欲しい。歌手の方の個人的な世話もして頂くことになりますが・・・」と、そういう内容を話しました。

それを聞くとみんな「ええーっ、本当ですか!」と、日本人、ベトナム人双方が喜んでいました。それもそうですね。日本人でも喜納さん、加藤さん、新井さんのコンサートを生で見た、聴いた人は少ないでしょう。

私自身は喜納さんの歌を一度だけ生で聴いたことがあります。日本にいた時に、我が社の「全体研修」に喜納さんが招かれて歌を歌われたことがありました。あの時は喜納さんの三線の演奏にみんなが大いに酔いしれて、踊りだしました。

そして、最終的には日本人6人、ベトナム人6人のボランティア・スタッフが希望を申し出ました。その日本人スタッフの中にMZくんとOTくん。ベトナム人スタッフの中にTrangさんとLamさんがいたのでした。ですから、あの「カンザーでのコンサート」はこの日集まったみんなの共通の思い出になっていました。

浅野さんからボランティア・スタッフの動員を依頼された後は、次にこのイベント期間中の「運営案」の作成を頼まれました。大人数の日本から来た一般参加者をボランティア・スタッフに掌握・世話してもらうためには、期間中の全体の流れと、その日・その場で自分が何をすべきかの動きを各自が分かっておく必要があります。

それで、「分かりました。それは私のほうでやりますのでご安心ください」と承知して、「運営案」は私のほうで作成することにしました。一日・一日の日にちごとに、時間の流れに沿って、各自の役割分担を決めてゆきました。

実は、こういう「運営案」は、日本でいろんな合宿を行う時には必ず作成して、講師の先生や女子スタッフの人たちに渡して、毎日打ち合わせしていましたから慣れていました。その「運営案」は数日して完成し、浅野さんとそれを元に詰めを行いました。

(あの時作成した運営案はまだあるだろうか・・・)と思い、私の部屋の本棚や引き出しをしばらく探しました。何せ、1998年と言えば、今から19年も前のことですから、パソコンを使っていた頃でもないし、ワープロはベトナムに持ち込んでいなかったし、「運営案」を作成した記憶はあったのですが、どういう形で残っているかは記憶も不確かでした。

しばらくあちこちを探していましたら、果たして出てきました。それは鉛筆を使って、手書きで書いていました。鉛筆書きの資料は今も鮮明に読めます。しかし、コピーしたページは字が消えかかっていました。少し心配しましたが、とにかくありました。

これを見ますと、日本から三人の歌手の方々を呼んで、カンザーでのコンサートを開くにあたり、その時銘打ったテーマは「―コンサート・植林・シンポジウム・そしてベトナムの旅―カンザー・マングローブ・プロジェクト98」でした。期間は1998年4月9日~14日。アクトマンの先発隊は4月8日に入ってきます。

「ボランティア・スタッフ」として書いてある名前を見ていますと、MZくんもOTくんもTrangさんもLamさんも入っています。さらには、この日に集まった4人以外にも、懐かしい日本人やベトナム人がいました。私がベトナムに来てすぐの頃に日本語を教えていた、三人のベトナム人の名前もありました。その中の一人については、2005年7月号の<教え子・Fさんの結婚式>で触れています。

この手書きの運営案を見てみますと、カンザーに移動した時のバスの台数は十台になっています。カンザーの歴史始まって以来の、バスによるものすごい大軍団での移動だったと言えるでしょう。そして、それぞれのバスの中に、日本語の出来るベトナム人スタッフやベトナム語の出来る日本人スタッフを入れていました。ボランティアながらも、みんな献身的に尽くして頂いたなぁーという思い出が甦ります。

コンサート自体もまた、忘れがたい、鮮烈な印象を私たちは共有していました。「そうだった、そうだったねー」とみんなが大いに笑いました。頷きました。それは、「カンザー・コンサート中」に起きた、“停電事故”です。最近は少なくなりましたが、その当時はサイゴン市内でもよく停電が起きていました。

その“停電”がカンザーでのコンサートの真っ最中に起きたのでした。コンサートの開始前から停電が始まりました。それで開始時間が一時間ほど遅れました。いよいよコンサートが始まり、最初に歌ったのは新井さんでしたが、持ち歌を九割がたほど歌った所で停電。

そして、次は加藤さんが登場。しかしまだ電気は回復しないままでした。その時に加藤さんが臨機応変に、咄嗟に使われた武器が何と「拡声器」!その「拡声器」を手に持ち、最後まで堂々と見事に歌い終わられました。あの時の勇姿は、思い出し笑いとともに、我々の間で今も語り草になっています。その当時は、私自身はデジカメを持っていなかったので、写真に残していなかったのが大変残念です。

続いて「喜納昌吉&チャンプルーズ」の番になっても停電は続いていました。しかし、隣の家を見ると電気は付いています。どうやら、このコンサート会場だけが電気を使いすぎて停電になったようでした。

それで、急遽隣の家から電気を借りてきて歌うことになりました。でも、大きい機器に電気を使うと、また停電する恐れがあるので音響関係ぐらいにして、喜納昌吉&チャンプルーズの歌がスタート。その時のことを、「喜納昌吉&チャンプルーズのOFFICIAL WEBSITE」では次のように書かれています。

「コンサートは、停電のアクシデントのため開演時間が一時間も遅れてスタートしたが、野外の会場は一万人を越える人々で溢れ、隣の広場にまで広がっていた。何人かのベトナムの歌手がステージで歌い、その後日本から参加した新井英一のステージ中に 電気が落ち、再び停電のアクシデントに見舞われた。

喜納昌吉&チャンプルーズの出番になっても結局電力は回復せず、隣の民家から引いてきた電気をもとに、三線と太鼓だけでエイサー、「島小」、「花」を歌った。それでも最後にはベトナムの若者や、子供達と共にカチャーシーを踊り、満月の月明かりの下でそのコンサートの幕を閉じた」

あの時、あの場所に共にいた私たちはこの“貴重な思い出”を共有しています。そして、最初の出会いは友人として始まったお付き合いが、お互いにそのまま結婚まで至り、今もあの当時の「友情」のままが続いています。異国において、こういう形で今も「友情」が繋がっているというのは珍しいというべきでしょう。

この日は夜の十時近くまでいろいろ話しました。MZくんは銀行という仕事の常として、同じ場所にずっと長く赴任することは出来ないようですが、しばらくはサイゴンにいます。OTくんはこれからもずっとサイゴン住まいになります。「お互いにまた必ず会いましょうね!次は浅野さんも交えて」と約束して、MZくん夫妻、OTくん夫妻とその日はお別れしました。

※春さんは1997年春よりホーチミンに駐在しています。今ではすっかり現地の人となって、見分けもつかなくなっています。春さんに質問や相談があればメールをお送りください。

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。 「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

テトのホーチミン、路上に広がる「葉っぱ市場」

テト(旧正月)の時期になると、ホーチミン市タンビン区カック・マン・タン・タム通りのオン・タ三叉路の路上一帯には、半世紀以上の歴史を有する「葉っぱ市場」が出現する。正式な「市場」ではないものの、テトに欠かせない「バイン チュン(Banh chung、ちまき)」作りに使うための葉っぱを求めて、朝から晩まで多くの人々で賑わう。

この市場で商売をしている人によると、市場は旧暦12月20日頃から30日頃まで開かれ、ファムバンハイ通りからカックマンタンタム通りまでの路上一帯およそ500mにわたり、多くの店が立ち並ぶ。また、葉っぱを売る人々は、同時にバインチュン作りに使う四角い型なども売っている。

市場が最も賑わうのは夜か、テト1週間前の旧暦12月23日にあたり「オン タオの日(Ngay Ong Tao)」「オン コン・オン タオの日(Ngay Ong Cong Ong Tao)」などと呼ばれる「かまど(台所)の神様の日(吐君節)」の後だという。

1区在住のゴ・ティ・ホアさん(女性・52歳)は、毎年この市場で23年間にわたり商売をしている。「かつては私の両親がここで葉っぱを売っていました。この市場は北部からホーチミンに移住してきた人が形成したもので、少なくとも半世紀の歴史を有しています。もっと昔は、ここに北部出身者向けの商品を扱う市場があったんですよ」とホアさんは説明してくれた。

20時頃になると、商品となるたくさんの葉っぱを積んだ車がやってくる。商品のほとんどは東南部地方・ドンナイ省のザーキエム地域から仕入れている。「数年前はホーチミン市ホックモン郡バーディエム地域の葉っぱを仕入れていましたが、サイズも小さく、バインチュン作りにも適していないので、今はもう少なくなってしまいました」と、1区在住のレ・クアン・ミンさん(男性・53歳)が教えてくれた。 

商品の積み下ろしが終わると、路上一帯が葉っぱで山積みになる。更に商人らはここで葉っぱを仕入れて、夜のうちに市内の各市場に卸すのだ。積み下ろしや輸送の仕事は、半月でおよそ400万~500万VND(約2万~2万5000円)にもなるという。しかし、50kgほどもある葉っぱを輸送しなければならず、重労働だ。 

葉っぱを求めてやってきた女性は、「新鮮できれいな葉っぱを手にいれるため、夜になってから来ました。家でのバインチュン作り用と、勤務先の学校で開くバインチュン作り大会用に、1000枚買うつもりです」と教えてくれた。 

葉っぱはサイズによって分けられ、1束50枚あたり2万~8万VND(約100~400円)で販売される。ここで5年間にわたり商売をしている男性は、「この仕事は大忙しで、大人数でやってもなかなか追いつきません。売る側が一番恐れるのは、葉っぱがしおれてしまう日差しの強い日なんです」と語る。 

この時期にだけ現れる「葉っぱ市場」は、テトを迎えるために欠かせない、ホーチミン市の特徴的な文化の1つとなっている。

<VIET JO>

◆ 解説 ◆

葉っぱ市場この記事の最初にある「タンビン区 カック・マン・タン・タム通り」というのは、実は毎日私が学校に行く時に通り過ぎる道路です。毎日この道路をバイクで学校に通っていますので、道路の左右にある店の位置とその店の外装は全部覚えています。

実はテト前にこの道路を通り過ぎていた時、この記事にあるように、「葉っぱ」がいつも歩道上に広げられているのには気が付いてはいました。しかし、五年ほど前まではそれに対して大した関心もなく、それが歩道上に広げられているのは知っていましたが、ただバイクで通り過ぎて行くだけでした。

しかし、テトが近づいて来たある日、その通りにある交差点で信号待ちしていた時に、交差点の前の歩道上に広げられていたそれらの「葉っぱ」に、多くの人たちが集まって「葉っぱ」を手にしたり、大量に購入したりしている人たちの姿を見ました。その時には率直に言って、(あんな葉っぱを一体何に使うのだろう?)というのが、素朴な疑問でした。

その疑問を同僚の先生にぶつけた時に返ってきた言葉が、『テトを迎えた家々でその「葉っぱ」を使って「バイン チュン(Banh Chung、ちまき)」を作ります。』と言う答えでした。そのことを、2016年2月号「サイゴンで迎えた今年のテト」でも触れました。日本では正月には「お節料理」があるように、ベトナムでもテトを迎える時には、みんながこのバイン チュンを食べて、新年を迎えるのが儀式です。

実際に私もベトナム人の友人から頂いて食べたことがありますが、結構美味しいものでした。「もう一つお代わりを!」と言いたくなるほどでした。このバイン チュンは長く保存も効くのでBanh Chungを幾つか準備しておけば、お客さんが突然現れても、多く来ても、これをお出しすれば、主婦がその度に台所に立つ必要はありません。そう言う意味では、日本の「お節料理」と同じです。

以前はテト前の何日からこの「葉っぱ市場」が営業しているのか分かりませんでしたが、昨年と今年の二回、テト前にバイクで通り過ぎてようやく分かりました。約二週間前から「葉っぱ市場」を始めています。「これもまたベトナムの文化の一つだな」と思います。

「テト」が近づくと街中に「テトがやって来た!」の音楽が流れ始め、「カック・マン・タン・タム通り」にこの「葉っぱ」が広げて並べられてゆくと(そろそろテトが近づいてきたなぁー)と、最近私も感じるようになりました。

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