春さんのひとりごと

年末に贈る三つの物語

今年一年を振り返った時、私の中で強い印象が残っているのは、やはり【JUNKO小学校】のことです。今から22年前に、【JUNKO小学校】がベトナムの田舎町に建てられていたのを、自分の眼で直接見ることが出来たこと。それは新鮮な驚きでした。さらに、今現在もベトナムの多くの生徒たちがそこで学んでいます。そのことに深い感銘を受けました。その余韻は約一ヶ月経った今でも続いています。

もう一つ嬉しいことがありました。私が知る二人の方の活躍が掲載された記事が、こちらの雑誌に登場しました。一人の方は日本人で、ベトナムでピザ屋さんを営まれています。日本人であるその方が開かれたピザ屋さんが、今こちらの雑誌に載るような有名な存在にまでなりました。

もう一人の方はベトナム人で、私が親しくさせて頂いている日本食屋「SUSHI KO」のオーナーです。最初に始めた「SUSHI KO」が、その後すぐに「SUSHI KO 2号店」が出来て、さらに「SUSHI KO 3号店」までが「サイゴンの日本人通り」と呼ばれている一区の中心街に開店ました。

サイゴンで屋台形式の路上寿司をスタートさせ、一躍「屋台の寿司」ブームを巻き起こした「SUSHI KO」が、サイゴン市内で日本料理屋が犇めき合う、競争の激しい一区の場所に打って出たのです。

その店長であるLinh(リン)さんにインタビューした記事が、こちらの日本語の雑誌に載りました。顔見知りの彼の写真が掲載されたその雑誌には、僅かな期間で「SUSHI KO」をサイゴンで有名にした、彼の「日本料理に対する熱い思い」が詳しく述べられていました。

● 【JUNKO小学校】の物語

【JUNKO小学校】は調べてみると、<JUNKO Association>という団体を作り、いろいろな活動をされてきているというのが良く分かってきました。以下のURLがそれです。

https://www.junko-association.org/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%81%A7%E3%81%AE%E6%B4%BB%E5%8B%95/%E6%B4%BB%E5%8B%95%E6%A6%82%E8%A6%81/

さらには、実際にこの【JUNKO小学校】で一期生として小学校生活を送り、ここを卒業して大学生となった生徒が、2008年に日本に留学していたということも分かりました。以下に、それがあります。

http://www.meijigakuin.ac.jp/news/archive/2008/2008-10-11.html

そして、この【JUNKO小学校】のことを知った後、最近も私は初めて授業に入る日本語のクラスの授業で、この【JUNKO小学校】を見た時の経緯を話し、次にベトナム語で書かれた【JUNKO小学校】の紹介記事をクラスの代表者に読んでもらいます。みんな静かに聴いてくれて、それを読み終えた時、生徒たちから拍手が自然と起きます。

みんなに感想を聞いてみると、「感動しました!」と言う生徒がほとんどです。「今まで全然知りませんでした」という生徒たちも多いです。【JUNKOさん】は20歳で亡くなられましたが、同じ年齢の生徒が数多くいますので、ある一人の生徒に聞いてみますと、涙ぐみながら、じーっと下を向いている生徒もいました。【JUNKOさん】と同じ年齢のベトナム人の若者たちのこころに、強い感動を与える【JUNKO小学校】の物語なのです。

実は、その【JUNKO小学校】のことを、あの<さすらいのイベント屋のNMさん>に話しましたら、さすがはダ ナンを根拠地にしているNMさんです。【JUNKO小学校】のことを良くご存知でした。私もNMさんの口から【JUNKO小学校】のことを今まで直接聞いたことは無かったので、「やはりご存知でしたか!」と言う喜びが湧いてきました。

それは今から約18年前に遡ると言います。NMさんはその当時日本の高校生や中学生が海外で研修をする活動の引率者としての活動をされていました。その時のプログラムに【JUNKO小学校】を訪問するプログラムが組み入れられていたそうです。

しかし、残念ながらその時は日程の都合で【JUNKO小学校】訪問の夢は叶いませんでした。それが実現していれば、私自身も【JUNKO小学校】のことをもっと早く知っていたことでしょう。であれば、もっと早い時期から【JUNKO小学校】について調べて、多くの生徒たちに伝えることが出来たことでしょう。

その後、12月の中旬、いつものように<青年文化会館>内で行われている『日本語会話クラブ』に行きました。この日はちょうどNat Testという日本語の試験が行われていた日でもあり、ベトナム人の参加者は少なかったです。それでも、日本人とベトナム人を合わせて30名ぐらいは来ていました。

いつものようにクラブが終る15分ぐらい前に新人紹介をします。全員で5人ほどが自己紹介をしてくれましたが、その中に私の関心を惹く女性が二人いました。一人は、22歳の女性で、「日本の小説が好きです!」と言うDiem(ズィエム)さん。彼女は今自分が読んでいるという小説を持ち込んで来ていました。その本は角田光代著「紙の月」

もう一人の女性はThao(タオ)さん。彼女は今年35歳です。実は、彼女の故郷がQuang Nam(クアン ナム)省だと言うのです。【JUNKO小学校】のある村が、まさしくその場所です。(もしかしたら彼女は【JUNKO小学校】のことを良く知っているのでは・・・)という期待を持ちました。それで、クラブが終ったら、この二人をみんなと一緒に<青年文化会館>内の喫茶店に誘いたいと思いました。

この日私は、【JUNKO小学校】に関した記事を『日本語会話クラブ』に参加しているみんなにも読んでもらいたく、日本語とベトナム語の記事をコピーして持ち込みました。ベトナム人の参加者にはベトナム語の記事を配り、それを各自で読んでもらっている間、日本語の記事のほうを私が読んでゆきました。その時のみんなの反応を見ていますと、やはり私がクラスで読んでいた時と同じように、みんな感動したような表情でした。でもやはり、 日本人もベトナム人もみんな初めてそのことを聞いたという感じです。

最後に、私から「この【JUNKO小学校】のことはみなさんも初めて聞いた人が多いと思います。Quang Nam(クアン ナム)省の人たちは知っているかもしれませんが、それ以外の人たちは聞いたことがない人たちがほとんどだと思います。みなさんの友達も知らないことでしょう。それで、まだコピーの残りが有りますから、欲しい人は持ち帰って友達にも読んでもらってください」と言いますと、用意してきたコピーはほとんど無くなりました。

クラブが終わり、いつものように十人ほどが会館内の喫茶店に行きます。そこでお昼ご飯を食べながら、また続けて日本語で話をします。そこに、DiemさんとThaoさんを誘いますと、二人とも喜んで来てくれました。食事をしながら、二人とゆっくりと話をすることが出来ました。

私はDiemさんが持っていたその小説をあらためて見せてもらいました。文庫本で、まだ新しい本でした。聞けば「日本人の友達からもらいました」と言うことですが、ベトナム語に翻訳された本ではなく、日本語の原文で書いてあるこういう本を、ベトナムの若い人が読んでいること自体が感動的です。私自身もまだ読んでいない本です。

さらに続けて彼女は、「私は小さい時から小説が大好きで、将来は小説家になりたいです」と話してくれました。「小説が大好き」「小説家になりたい」・・・そう言うベトナムの女性に初めて出会いました。それを聞いた私は「これだ!」と思いました。私の頭の中にピンと来たものがありました。でも、まだそのことを口には出しませんでした。

次に、Thaoさんに話を聞きました。彼女の故郷がQuang Nam省だということは自己紹介の時に知りましたので、「Thaoさんは【JUNKO小学校】を知っていますか」と聞きますと、「ええ、私の家は【JUNKO小学校】から30kmぐらい離れたところにありますが、知っていますよ。【JUNKO小学校】が開校した時、私自身は13歳ぐらいでしたのでその学校で学んだわけではありませんが、その名前はみんなが興味を持って話していました。私もその学校の前を通ったことがあります」と答えてくれました。

それを聞いた私は、故郷がQuang Nam省の人で、その【JUNKO小学校】を知る人に初めて出会い、大いに嬉しくなりました。それから、Diemさんのほうに向き直り、彼女と話していた時に思いついたことを話しました。私が「これだ!」とピンと来たと言ったのは、
“Diemさんに【JUNKO小学校】の物語を書いてもらうこと”です。

Diemさんに「今から10年計画ぐらいで、是非【JUNKO小学校】の物語を小説にして書いてください。その時には、このThaoさんがQuang Nam省の出身ですから、いろいろと協力してくれることでしょう。私もその小説が出来るのを楽しみにしていますよ。Thaoさんも協力してくださいね」と話しますと、二人とも笑いながら頷いていました。

この場には「日本語会話クラブ」の責任者のTan(タン)さんも同席していて、「おめでとう!!では今から二人で握手してください」と言いますと、二人は苦笑いしながらお互いの両手を握りしめていました。

日本でもベトナムでも【JUNKO小学校】の物語を知る人は少ないはずですから、もし将来【JUNKO小学校】の物語がDiemさんの手によって小説になれば、多くのベトナムの人たちに読まれることは確実でしょう。それが日本語に翻訳されて、日本でもベストセラーになるかもしれません。そういう期待を私は抱いています。

● ピザフォーピース(Pizza 4P’s)の物語 ●

先日たまたまサイゴンにあるコンビニ・FamilyMartに行きましたら、入り口に置いてある〔お持ち帰り自由〕のスチール製の書架に、「SKETCH PRO」というフリー・ペーパーの月刊誌が置いてありました。〔12月号〕でした。レジでの精算を終えながら、私はそれを何気なく見ていました。

表紙の表には「飲食がやりたい!時代を作る男たち」と題して、四人の方の写真がありました。四人の方は、三人が日本人で、一人がベトナム人です。その四人の写真の中に、私が知っている二人の人物が写っていました。思わず嬉しくなり、4部ほど頂いて持ち帰りました。

こういう雑誌は「ビジネス関係」の情報が多く、ふだん私はあまり関心を持って見ない、読まないのですが、この日は私が知る二人が掲載されていましたので、早速読ませてもらいました。最初のページの見開きに、私が知る一人の方の笑顔の写真が載っていました。

その人はピザフォーピース(Pizza 4P’s)の益子さん。今から6年ほど前に、益子さんには、彼がピザ屋さんを開業する前に、ベンタン市場前の路上の屋台でお会いしました。当時はベンタン市場前の屋台がみんな集まって歓談する場所でした。その場には常連のメンバーが6人ぐらい集まっていました。

その場で益子さんが自己紹介されて、「もうすぐこのサイゴンでピザ屋さんを開きたいです」と言われて、その場にいたみんなが「日本人がピザ屋さんを開く!!??」と大いに驚いていました。みんなの心中は(大丈夫だろうか?)という気持ちだったと思います。私もそうでした。

しかし、その後の益子さんの快進撃はものすごいものでした。2011年5月に開店して、今現在すでに8店舗まで店が増えています。短期間ながら、すごい成長ぶりです。それも、ピザを作る元になる食材への益子さんの徹底したこだわりがあります。ピザで使うチーズなどは市場にあるものでは満足出来ずに、何と半年掛けて「モッツアレラチーズ」を自分で作ったと言います。ピザを焼く窯も各店に備えてあります。

店舗展開へのこだわりもスゴイものがあります。新しく出来たベンタン市場前の店は築100年を超すフランス様式の建物ですが、それを探し出すまでに「200~300店舗を探して見つけました」とこの雑誌で語られています。ちなみに、このベンタン市場前の店舗は、【2012年10月号】<日本人が設計した学校>として紹介した「日本人建築家のNSさん」が設計されています。

この「SKETCH PRO」の雑誌は、益子さんのことを「ベトナムのピザを変えた風雲児」 Pizza 4P’sは「予約が取れないピザ屋」として紹介しています。今から6年前にベンタン市場前の屋台で益子さんに会った人たちは、みんなで顔を合わせるたびに「いや~、益子さんはすごいですねー」と感心しています。

益子さんの目標と夢はさらに遠大で、「2021年に100店舗」を目指していると言いますからスゴイです。でも(益子さんならその夢を実現されるのでは・・・)と、益子さんを知る人なら、今なら誰しもがそう思っていることでしょう。

屋台寿司「SUSHI KO」の物語

そして、今月号の「SKETCH PRO」に、ベトナム人としてただ一人載ったLinh(リン)さんが開いた<屋台寿司「SUSHI KO」の物語>です。彼の紹介記事も見開き二ページありました。そこには「ローカル路上寿司ブームの立役者」というタイトルが付けられています。まさにその通りだと私も思います。

今から四年半前の2013年5月にSUSHI KO 1号店」がオープンしました。その時の私の嬉しさと感動は、2013年6月号のBAOで<到る所に増えてきた「日本食レストラン」>の◆ 解説◆でも触れました。「SUSHI KO」が最初に開店した時は冷やかし半分で行きましたが、実際にそこで食べてみると大変美味しかったし、値段も驚くほど安かったので、その後は足繁く通うようになりました。

「SUSHI KO」が出来て以来、私が他の屋台に行くことがなくなったのは、日本人にとっても十分に満足出来る料理を提供してくれているからです。それとあと一つは、店長でもあるLinhさんの人柄です。Linhさんは、自分に日本料理を教えてくれた日本人の師匠がベトナムで亡くなられた時、そのお墓を彼の田舎に自分で建てたということを聞き、ジーンとしました。

しかし、新鮮な食材を扱うことが多い日本食の料理屋さんが、屋台形式の「SUSHI KO」として登場したのは日本人にとっても、ベトナム人にとっても当時は新鮮な驚きでした。「生で食べるサシミや寿司を路上の屋台で食べる」ことへの抵抗感がまだありました。その時の開店当初の苦労話は、Linhさんがこの雑誌の中でいみじくも述べられています。

「店は<小>でも品質にはこだわり、新鮮な魚介類をニャチャン等から仕入れた。飲食業界が長いのでホーチミン市のサプライヤーと様々なつながりができ、上質な魚や肉の仕入れは熟知していたし、開業当時は値引きしてもらったこともある。それでも仕入れ値は安くなかったが、メニューの価格には反映させなかった。開店当時に苦労したのは、値段が安いことで、品質も悪いだろうと思われたこと。それと売り上げが中々伸びなかったことです」

最初に開店した「1号店」は20人も座れば満席になるような状態でした。満席状態の中、後から来たお客さんたちは席が空くまで立ったままで待っていた光景が良く見られました。
そういう光景が車やバイクでその道路を通過する人たちから見えますので、「行列の出来る路上屋台の寿司屋」として、徐々にインターネットや口伝えで広まっていったようです。

そして、「SUSHI KO 1号店」が開店してから一年半後、1号店の近くに「SUSHI KO 2号店」が出来ました。ここには150人近くのお客さんが座ることが可能です。テーブルを長く繋げることが出来る広さがあるので、団体客の予約でいつも埋まっています。

さらに、「SUSHI KO 2号店」が開いた三年後の2017年7月に、日本料理屋が数多くある
「レー タン トン通り」に「SUSHI KO 3号店」をオープンしました。そこは四区にある屋台形式の「SUSHI KO」とは違い、室内で食べる形式ですが、お昼のランチもあり、連日多くのお客さんで一杯だそうです。

私が良く行くのは1号店ですが、そこには日本人はもちろん、ベトナム人、白人、韓国人、中国人など様々な国籍の人たちがやって来ます。それらの人たちが集まり、彼らが寿司を食べ、サシミを味わい、熱燗の日本酒まで喜んで飲んでいる光景を見ていますと、日本人としては感無量の気持ちがしてきます。

「日本食」がアジアのこういう地域まで広がっていることに、日本人としていつも感動します。熱燗の日本酒など、この暑い国では日本人である私自身が飲んでいないのに、ベトナムの若者たちが興味津々で、乾杯しながら飲んでいるのです。彼らが「美味しい!」と思って飲んでいるかどうかは分かりませんが、それも日本食全般に対する好奇心からこそでしょう。

私にとっても「SUSHI KO」の居心地がいいのは、いろんな無理を聞いてくれるからです。先日、私の友人でもあるINさんが日本から自分が釣りあげた「鮎」を持ち込んで来てくれました。鮎料理の定番と言えば「鮎の塩焼き」でしょう。さらに、「鮎の塩焼き」を炭火で焼いて食べることが出来れば最高です。

しかし、今サイゴンにある普通の家庭で〔炭〕を扱うとなると、手間ヒマが掛かるし、危ないし、〔炭〕を使用しているところなどありません。ほとんどがガスに切り替わりました。家の中では「鮎の塩焼き」を炭火で焼くことは出来ません。

それで、INさんから頂いた鮎を「SUSHI KO」に持ち込んで「この魚を炭で焼いてくれる?」と頼みました。店員はその鮎をしげしげと眺めながら「これは何と言う魚なの?」と聞きました。ベトナムの川には鮎はいませんので、当然な質問です。

「これはアユという魚だ」と答えると、私がお願いした通りに、それをサッと洗い、塩をパラパラと振り、炭火が熾っている所に持ってゆき、すぐに焼いて私のテーブルの上に乗せてくれました。お客が外から持ち込んだ食材を、断ることもなく、全然嫌がることもなく、「いいよ!」と言ってすぐに炭火で焼いてくれたのでした。しばらくして、すぐに焼き上りました。

ベトナムでは初めて味わう「鮎」です。絶品でした。「鮎」の頭からシッポまで残さずに、内臓も骨も、背びれ・尾びれも全て食べ尽くしました。(INさんがわざわざ鮎を日本から持ち込んで来てくれた。この鮎さんは日本から海を越えて来てくれた)と思うと、(全部を食べないとモッタイナイな)と思いました。やはりガスで焼いては「鮎の塩焼き」の美味しさは味わえません。炭火で焼いてくれたからこそ、鮎の美味しさを十分に味わうことが出来ました。

Linhさんは最近日本にも行き、東京や千葉県や福岡まで足を伸ばして、いろんな日本料理を味わい、研究してきたそうです。彼の口からも直接そのことを聞きました。その時の彼の感想がこの雑誌にも述べられています。

「特に福岡の焼き鳥、串焼き、ラーメンなどに興味がある。新しい和食のメニューをベトナムの食材で調理して、SUSHI KOを新しいステージに引き上げたいと考えている」

Linhさんは私よりもちょうど20歳若い、今44歳の方ですが、ベトナム人で日本食の店長にして、日本人はもとより白人、ベトナム人、中国人、韓国人などを「SUSHI KO」の舞台に集める才覚と日本料理の確かな技を身に付けています。このベトナムと言う舞台で、彼が今後どのような日本料理の展開を見せてくれるか、大変楽しみです。

 

 

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。 「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

日本食品専門店「アクルヒ」はこうして出来た

90年代にホーチミンにある和食レストランのアルバイトを始め、現在は立派なビジネスマンになったPhan Thành Tân氏が東久邇宮記念会の賞を受けた。

Tân氏は、日本食普及と日越両国の友好と親善に尽くしたことで東久邇宮国際文化褒賞を受賞した。受賞後、Tân氏は和食学校の東京寿司&和食カレッジの審査員になり、日本のフジテレビ番組でも紹介された。

Củ Chi区に生まれたTân氏は、1995年に高校を卒業し、ホーチミン市中心部の大学で勉強しながら、和食レストランでアルバイトをしていた。
 
2年間のアルバイトを通して、日本製品を購入することの難しさを感じ、Tân氏は輸入された日本製品を自分で購入し、ホーチミン市にある和食レストランでそれらを販売し始めた。その和食レストランには日本製品を買いに来る顧客が多く、Tân氏の営業は順調であった。

1998年、ベトナムに来る日本人が増加してきたため、Tân氏は自分の資金でレタントン通りに「アクルヒ」という日本の食料品輸入専門店をオープンし、ホーチミンの和食レストランに商品を販売した。2009年、アクルヒは拡大し、カンボジアにも設立された。 
 
現在、アクルヒは、ホーチミン市だけではなく、ハノイ、ダナン、Hải Phòngにも日本の食料品を提供している。Tân氏は、その他にもUMIレストランSushi Worldレストランも開いており、後者は7店舗を展開している。

そのうち1店舗はCủ Chi区であるTân氏の田舎にある。Tân氏は自分の地元の住民にも手頃な値段で和食を食べてもらいたいからだ。それもTân氏の昔からの夢であった。

                           <Poste

解説◆

このTanさんの記事を読んで大変懐かしく、嬉しく思いました。Tanさんとは私がベトナムに来てすぐの時期から知り合いになりました。私が当時借りていた事務所は、1998年に Tanさんがオープンしたお店「アクルヒ」のすぐ近くだったからです。

当時は「日本の食料品類」を扱う店が少なくて、Tanさんのお店で「醤油」や「マヨネーズ」などを購入していました。そのお店に行くと、いつも彼がいて、雑談を交わしていました。その時の彼が日本でこのような賞を受賞したというのは彼を知る一人として、大変嬉しい気持ちがしています。

彼は大変な経営の才能があり、「アクルヒ」のお店を経営しながら、日本食のレストランにも手を広げてゆきました。さらには、この記事にもあるように、カンボジアにも進出したということを知人からも聞きました。

しかし彼も忙しい人で、今から5年前の2012年の夏以来会っていません。その年の夏にわが社の 『ベトナムマングローブ子ども親善大使』がベトナムを訪問しました。ちょうどその時、サイゴンの 3区にある SUSHI BAR「カンパチ フェア」が開かれました。

この「カンパチ・フェア」には、サイゴンにいる日本料理関係者。水産物を扱う業者。日本食屋さんに材料を卸す「日本食材屋」さんたちが招待されていましたが、その中にTanさんもいました。彼も私を見ると「ニコッ」とした笑顔を返しました。この記事には最近の彼の写真も載っていますが、五年前とあまり変わっていません。

2016年10月末にダ ナンで“十一面観音菩薩像奉納の儀式”に参加した時、夕食を「蕃二郎」で食べましたが、サシミを頼んだ時、その横に添えられたワサビが自然のワサビのような風味がして大変美味しく感じました。

それで、店を出る時、日本人の店長に「あの美味しいワサビはどこで仕入れているのですか」と聞きますと、「アクルヒからです」と答えられましたので、サイゴンに戻り、「SUSHI KO」でLinhさんに会った時そのことを伝えますと、早速購入されました。その時はまだ「SUSHI KO」は「粉ワサビ」を出していました。

Linhさんの「SUSHI KO」と言い、Tanさんの「アクルヒ」と言い、今ベトナムで当たり前のように手軽に日本食を味わうことが出来、簡単に日本食品類を購入出来るのは、こういう人たちの活躍があればこそだと思います。

↑このページのTOPへ